いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第七回  俺にとって二人目の娘である千年(ちとせ)──これは幼名で、名前は玄徳さんの返事待ちなので、まだ定まっていない──が生まれてから十日ほど。彼女は腹違いの姉の阿喜と一緒に元気に泣き声を上げていた。  片方が寝ていても、片方が泣きだすと決まってもう一方が泣き始めるので、稟と桔梗はおおわらわだ。部屋を離して、鳴き声が聞こえないようにしてもなぜか勘づいて泣きだすらしい。 「まあ、赤ん坊は泣くのが仕事ですからね」 「そうよのう」  既に一月あまり阿喜につきあってきた稟は達観したものだ。それに答える桔梗は口では納得しているように言っているが、やはり疲れている雰囲気もある。かなり楽なお産だったらしいのと、元から頑健なこともあり、肉体的な回復は稟に比べてだいぶ早く見えた。それなのに、毎日毎晩、せわしなく乳を与える生活は、精神的な疲労を桔梗にもたらしているようだった。とはいえ、それも幸福感の裏返しではあるのだろうけれど。 「男は、種を蒔くばかりで、乳すら出ん。不公平とは思わぬか、のう、千年」  授乳を終えた千年の背中をぽんぽんと優しく叩いてやりながら、語りかける桔梗。その姿はまさに母子の美しさを体現しているというのに、言葉は辛辣だ。  ぐずる阿喜をゆったりとあやしている稟もそれに頷く。 「一刀殿が子供の数だけ乳を出さなくてはいけないとなったら、大変そうですね」  なんだか雲行きが怪しいので、話を少し逸らそう。 「そういえば、もし男が子供を産むようなことがあったら、男は、お産の痛みに耐えきれずに死ぬとか聞いたことがあるな」  昔、男が子供を産むことになる映画があったよな、と思い出す。 「ほほう」 「女性は、きちんと耐えられるってのは、まあ、それだけちゃんと考えて作られてるってことだろうね」  ようやく泣き止んで寝息を立て始めた阿喜を、稟は慎重に寝台に横たえる。千年の方は既に夢の中だが、桔梗はまだ手放すつもりはないようだ。 「とはいえ、出産やその後の死亡率は高いですからね」 「うむ、命懸けよの」  それについては本当に恐ろしい。産褥から回復せずに死んでしまう例は、この時代では珍しいことではない。幸い、設備が整っていることや、栄養状態もいいおかげで、稟や桔梗、それに桂花や冥琳たちがそうなる確率は、庶人たちよりはだいぶ低いとはいえ……。 「感謝している」  溢れんばかりの気持ちを、こう伝えるしかないことのもどかしさ。手伝いたくても、せいぜいおむつの面倒をみるか、抱き上げてあやすことしかできない身では、どれだけ伝わっていることやら。 「男の俺にはできないことばかりだ」  暗い顔になってしまっていたろうか。二人は顔を見合わせると、揃って笑みを見せた。 「お気にめさるな。愛しい男の子を産むはおなごの幸せ」 「そうです。駆けつけてくれるだけで嬉しいものですから……。私の時は薪割りはなさらなかったようですが」  眼鏡を指で押し上げ、にやりと笑った稟が付け加えた言葉に、体中がかーっと熱くなる。 「そ、その話は勘弁してくれ」  ああ、ここが自分の子供の部屋でなければ、転げ回っているところだ。 「薪割り場には、専用の場所が作られたと聞きますぞ」 「それどころか、一刀殿が割った薪はまだそのまま置かれていて、日々、女官たちが子宝に恵まれるとかなんとか言って、一本ずつ拝借していくとか」 「なんとなんと」  二人の女性の会話は止まらない。  消えてなくなりたいってのはこういうことを言うのだろうか。 「じょ、冗談だよな。な?」  二人はぴたりと口を閉じ、俺の問いに無言で返してくる。その圧力に、俺は変な声が喉から漏れるのを我慢できない。  そうして、二人ははじかれたように笑い声を上げる。  楽しそうに。本当に楽しそうに。  なぜか、俺の子供の母親たちは、子供ができてから急速に連帯感を獲得し、たまにこうして俺をからかっては遊んでいるのだ。  子育ての鬱憤や疲れがこれで取れるなら、こうして笑いを提供するくらいは喜んで受け入れよう。  しかし、と俺は思うのだった。  世のお父さんたちは、みんなこんなに大変なのだろうか?  阿喜と千年の寝顔を脳裏に浮かべながら、俺は詠との待ち合わせ場所に向かった。 「なににやにやしてんの」  つくなり不機嫌そうに言われたので、口を開こうとしたが、その前に、俺に顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らしだした詠が納得したように頷いた。 「ああ、子供たちね。まあ、それならしかたないか」 「え、よくわかるな」 「乳臭いもの」  よくかぎつけるものだ。あるいは女性だからかもしれない。  彼女の体が元の位置に戻ったところで、俺は見慣れない詠の姿を上から下まで見つめなおす。普段とは違い、赤や緑の原色が用いられた派手な着物だ。金糸、銀糸もほうぼうに彩られて、美しいものだが……。 「おめかししてるね。似合ってるけど、ちょっと派手すぎないか?」  正直、詠はもっと可愛らしい格好か、きりっとした雰囲気の方がより似合うと思う。元がいいからなにを着てもある程度は着こなすけれど。 「変装よ」  特になんの思い入れもないのだろう。さらっと流された。そこに、歩み寄る影一つ。 「馬車の用意ができたぞ、『奥方』」  一瞬、何事かと思った。  あの華雄が襟元をしっかり閉じた丈の長い薄青の着物を着ている。  普段、余計なものをつけると動きが鈍る、とか言ってかなり薄着しかしない、あの華雄が。 「ありがとう」  普段は絶対にしないもったいぶった態度で、華雄に礼を言う詠。華雄のほうもそれを受けて丁寧にお辞儀をしている。  ぽかーんと口を開けて見ている俺に気づいたのだろう、二人は揃って笑いだした。 「これから行くところでは、あまり肌を露出してると、身分が低く見られるらしいからな。得物を隠すにもちょうどいい。どうだ?」  くるり、とその場で回転して見せる華雄。薄青の着物の表面には渦を描く紋様が描かれ、彼女の体の線を錯覚するように作用しているらしい。服の下に武器を隠してあるのだろう。 「うん、似合ってるけど、やっぱり普段のほうが好きだなあ」 「ふふん」  満更でもないらしい。 「今回は華雄はボクの御者ってことになってるから、それなりにね」  二人の反応を見て、身分を隠し変装を要するなら、俺はどうなのだろう、と不安になる。 「ええと、じゃあ、俺の格好はいいのかな?」 「ええ、あんたはボクの書生役だから、普通の服なら問題ないの。『ぽりえすてる』じゃなければね」  そう言いながら詠は俺の体を見回し、満足そうに頷く。たしかに今日は現代製品やそれに似せたものは身につけていない。 「じゃあ、行くわよ」 「ああ」 「ああ、じゃない! 『はい、奥方様』」  ののしりと共にぴしゃりと腕を打たれる。叱責を受けるのは珍しくないが、これほど手ひどいのは初めてだ。普段の罵声がいかに優しいものなのか、その時思い知った。 「は、はい、奥方様」  慌ててへりくだって後を追いかけながら、詠って案外演技派なのだな、と感心するのだった。  華雄が操る馬車の中で、詠が今回の目的を説明してくれる。閉鎖された空間に入った途端、普段の空気に戻れるのはさすがというかなんというか。 「これから、あんたに出された問いへの解答となるものを見せるわ」 「問いというと、補給の問題か?」 「そう。でも、補給だけの問題ではないわね」  深く頷いた後で、詠は不機嫌そうに腕を組む。 「といっても、まだ手探りだからね。今回の行動が直に効果を現すかはわからない。北伐左軍の軍師って言ったって、魏でそうおおっぴらに動けるだけの基盤なんてボクにはないもの」  そういえば、『賈駆』としての彼女にはまだ魏の官もないのだっけ。さらに言えば、洛陽に戻ってからの時間も短い。いくら稀代の軍師とはいえ、そうそうなんでもできるわけがない。  とはいえ、詠のことだ。俺が心配するまでもなく、着々と準備を進めているに違いない。 「いまのところは、だろ」 「まあね。それで、お金は持ってきてくれた?」 「ああ、銅銭以外に、銀の小粒を持ってきたけど」  資金が必要だと言われて、普段以上に金を持ってきている。よほど大口の取引か賄賂でもない限り、問題にならないだろう。 「そ。それならいいわ」  会話が途切れたところで、窓から見える景色に意識が移った。  この区画は……。  北の市にほど近く、富裕層の住宅地帯に隣接したこの地区は、けして、治安は悪くない。  ただ、出自が異民族だったり、遠くの国から来ていたりと差別されやすい層が多く居住しており、独自の雰囲気を持つ場所だ。公には認められていないが、自警団のようなものが存在していて、自分たちの揉め事は極力自分たちだけで解決しようとする。おかげで、警備隊が入り込みにくく、以前は苦労したものだ。  いわば租界や外国人居留地のようなものだ。 「交渉相手は異民族?」 「うん。血筋よりも、考え方の面で、ね。相手は生粋の商人よ」  詠の答えに、俺は唸るしかなかった。  そこで、馬車が止まり、こんこん、と御者席から叩く音がした。 「着いたようね。いい? くれぐれも、あんたの正体は伏せるのよ」 「了解」  先に馬車を出て、『奥方様』が降りるのに手を貸す。彼女が先頭、そのすぐあとに俺と華雄が並ぶ格好で、俺たちはある店を目指して歩き始めた。  扉代わりだろう、垂れ下がった豪華な絨毯を押し退けて、店の中に入る。  そこは、酒屋のように見えた。  明かりとりの窓が少ないのだろう。昼間だというのに薄暗い店内は、酒の匂いとなにかの香の煙がたゆたい、視界をさらに頼りないものにしている。華雄は香の強さに顔をしかめていた。  店の奥では、羅一枚の女性が、体の各所につけた装飾品や、なにかの布をひらめかせて、くるくると回転している。褐色の肌にきらきらと光る瞳。その顔が、腕が、脚が見ている間に何度も何度も回転し、その度に新たな動きを見せてくれる。  よく見れば、彼女は、小さな敷物の上からはみ出ないよう巧みに高速回転しているのだった。 「あれも胡の踊り子ね」  俺と華雄は、はぁと感嘆の声を出し、踊る美姫を見つめる。 「あんまりじろじろ見るな、このちんこ卿!」 「いや、そんなつもりじゃなくてだな……」  小声で注意されて慌てて答える。とはいえ、網の目の大きな絹織物一枚だ。羅を通して色々見えてしまっている。薄暗いせいで余計にそれが妖艶に思えるのもまた事実。 「莫迦。あんたはいまボクの従者なんだから、大声でえらそうな口きくな」  さらに早口でたしなめられ、失策を悟る。なんとか内心の動揺を隠し、出来るだけゆっくりと発音する。 「申し訳ありませんでした」  その後感心したように話しかけてみる。 「しかし、あの回り様はすごいですね、奥様」 「うむ、すばらしい身体能力」 「お前たちは見たことがなかったっけね、胡旋舞というのよ」  そんなことを話しながら、奥に座っていた男の前に立つ詠。その傲然とした様は演技だとわかっていても、恐ろしいほどだった。 「お前、米とかいうんだってね」  男が顔を上げる。焦げ茶の髪に白い肌、もじゃもじゃの髭と青みがかった瞳。見るからに漢人ではない、どこか遠い国の顔だちだった。 「はい。なにか御用でしょうか?」 「魯から聞いてね。いい石を扱っているとか」 「おお、それはそれは。魯大人からの紹介となれば、これはとっておきを出さねばなりません」  男は顔をほころばせると、小さな皮袋を取り出して見せた。柔らかな分厚い皮を敷いた上に、そこからじゃらじゃらと宝石を落としていく。  詠はそれを一瞥して、軽蔑したように鼻を鳴らした。 「期待外れだったようね。邪魔したわ。お前、酒代でも渡してあげて」 「おお、これは奥様。間違えました、間違えました。こちらの袋でした」  立ち去ろうとした詠を、慌てて止める男。今度は手袋をはめて、慎重に袋から一個ずつ宝石や、装身具を出して並べていく。 「ふーん。なかなかね」  詠は身を乗り出して、その一つ一つを確認するように覗き込む。眼鏡の奥の瞳が、鈍く光り、いくつかの宝石を指さした。 「これとこれ、それにこれとこれ、あとは下げていいわ」  それを聞いて、男の顔が歪む。 「これは……お目が高い」  どうやら見事良いものばかり選び取ったらしい。  四つ残したうちから、詠はさらに二つを選び、それを順繰りに自分の体に合わせる。 「あなたはどう思うかしら、北?」  北というのは俺の偽名のつもりか。わかりやすくていい。 「そうですね、こちらのほうがお似合いかと」  俺が指さしたのは、濃い蜂蜜のような色合いの中に、ミルクのような白い縞の入った猫目石をあしらった耳飾りだ。石を厳選したのだろう。一対の猫の目は、まさに生きているかのように、薄暗い店内の少ない光に煌めいていた。  もう一つは、こちらも耳飾りで、翡翠の玉でできていた。大ぶりな翡翠を鳥の翼の形に彫り込んである。彫刻の見事さといい、翡翠の碧の深さといい、最高級品だということが一目でわかった。しかし、詠の髪の色に似すぎていて同化してしまう。つけるならば、華雄のような髪の色の薄い女性のほうがいいだろう。 「そう、じゃあ、これをもらうわ。払ってやって、北」  男が提示した値段を見て、驚きに目を見開きそうになるのをなんとか耐える。銀の粒をふんだんに渡して、俺は支払いを終えた。  その間、誰も俺たちに注目しようとしないのが奇妙だった。普通の店でこんなやりとりをすれば、物見高い酔客が寄ってくることだろう、しかし、ここではそんなことはないらしい。  外国人商人の街、か……。  その後、詠は俺にはわからない言葉──ペルシア語とかかな?──でその商人とひとしきり談笑すると、その店を後にするのだった。 「あれが客胡人。商胡とも呼ばれてるわね。洛陽まで来るのは珍しいけど。長安にはそれなりにいるわ」  再び馬車の中に戻り、俺たちは話をはじめる。詠はすっかり先程までの奥方様から普段の彼女に戻っている。どうも本人にもあれは疲れるものらしい。肩をぐるぐる回したりしている。 「……白人、いや、コーカソイドていうんだっけかな」  俺は、彼の顔を思い出し、呟く。白皙に紅毛碧眼。古いイメージの『ガイジン』だ。おそらくはペルシア地域、あるいはより近い中央アジアから来た人々の一人だろう。 「なにそれ?」 「いや、気にしないでくれ。そうか、あれが西域の商人か……」  彼らがやってくるなら、西方からしかない。イランの地から、あるいはさらに遠くローマから渡ってくる文物を何度もの売り買いを経て運んでくる商人。そのうちで、最も東方の経路を担当するのが彼らだろう。 「そう。扱う商品は多岐に亘るけど、長距離交易をしているのは、今日買い求めたような石や馬、それに奴婢ね」 「奴婢……ね」  現代世界の感覚からすれば、奴隷制というのは忌避の感情しか引き起こさないものだ。しかし、実際にあるものを見ぬふりをしてもしかたない。たしかに、数はそれほど多くなくとも、奴隷階級の人間というのは存在しているのだ。  幸い、この国での奴隷の扱いはそれほど悪いものではなく、生殺与奪の権利はもちろん、虐待なども主人には許されない。そして、金銭や主人の申し出で奴隷からの解放を申請することも可能だ。  それでもやはり、俺も華琳たちも人を売り買いするということに抵抗はあり、だんだんと廃止できるよう順次法律を作り替えてはいる。 「さっき見た踊り子の胡姫もその一種。高度な教育や芸をしこんで、重宝される存在を作り出すのね。おかげで、奴婢といっても、主人のほうがご機嫌をとらなきゃいけないこともあるらしいわ」 「そりゃ、大変だ」 「給金も当然高いから、自分で自分を解放するのも早くできるしね。まあ、奴婢という名目で、小規模な移住を進めているようなものかもね」  そういえば、軍人奴隷に国をのっとられたなんて事例もあったな、と俺はおぼろげな記憶を掘り出してみる。  さすがにそこまでの危険性はないだろうが……。 「で。彼らは涼州、特に西部には結構な数往来しているの。今回は、それを狙うわ」  詠の言葉を考えてみる。補給に関することを頼んだのだから、当然内容はそのことだろう。そして、商人ならば、それらの物資を手に入れるのはたやすくはなくとも不可能ではない。 「彼らを、味方に引き込む?」 「そ。あれらは物資も人員も、人脈も持っているわ」 「客胡を引き入れて、現地での補給と諜報網を確保しようというのか」  詠の狙いが見えてきて、思わず唸る。俺が要求してきた以上のものを持ってくるとは、さすがとしか言い様がない。商人のネットワークを使えば、物資どころではない、なにより貴重なものが手に入る。  情報が。 「ええ」  賞賛の表情を受けてか、詠の顔は少し自慢げに見えた。 「部族ごとに調略している暇はないもの。だから、彼らの情報網と輸送網を使う。中には軍閥を率いているのもいるから、そういうのは楽に吸収できるように持っていけるかもしれないし」  そのあたりは望み薄だけどね、と彼女は付け加える。それでも、戦闘を必要以上に激化させないで済むかもしれない。 「ふうむ……。東からは自軍の補給、西からは商人によってもたらされる補給、か。そして、なにより、攻め入る先の情報。うまくいけば本当に有利になる手だけど、物資の対価は別としても、協力の見返りは必要だろう? 彼らになにを提供する?」 「長安までの自由通交権。関税免除のね」  詠の言葉に驚きを隠せない。俺は息を呑んで、落ち着いてから言葉を押し出した。 「……それって、西涼はじめ占領地区では全面的に取り入れる予定じゃないか。実質、金城から長安までしか意味がないぞ」  もちろん西涼建国までは魏の領内だから、意味をなすと言えばなすのだが。 「彼らはそれを知らない」  肩をすくめて言う詠の顔は意地悪な笑みに彩られている。俺はそれに苦笑で返すしかなかった。 「知ってるのは、華琳、三軍師、あんたと凪、それにあんたから聞いたボクだけだもの。そういえば翠は知ってるの?」 「いや、翠は内政に関しては戦のあとに聞くと」 「ふうん」  返答は少々不満そうだった。翠が内政に関して興味を示さない態度がお気に召さないらしい。  翠の、やるべきことをやったあとで、その後を考えようという態度も、詠のように未来を見据えて、そのために動いておくべきだというどちらの考えもわかるだけに、なんとも言えない。ただ、翠にはいい内政官が必要だろう。 「まあ、それはいいわ。実際、西涼から長安までの短距離交易を牛耳れるだけでも大きいでしょ。文句を少しは言われるかもしれないけど、儲けが出始めれば収まるわ」  彼女は顔を引き締め、身を乗り出して続ける。 「それに、勝てば問題ない。彼らだって、勝利に貢献することの意味くらいわかるでしょう。まあ……たぶん、保険として、羌や鮮卑に通じる商人たちも出るだろうけどね」 「ん……それは大丈夫なのか?」 「ええ、そういう場合、通例として彼らは一族をわけるの。たとえば、伯父と弟はこちらについて、兄は羌、叔父は鮮卑につく、といったようにね。一度着いたなら、着いている間は裏切らないわ。裏切ったって儲からないもの」  どちらが勝とうとも、一族全体としては生き延びられるわけだ。そういえば、関が原で、兄は東軍に、父と弟は西軍に分かれたりという逸話もあったっけ。まして、商人の世界なら、政治の舞台と違って、殺されることでもなければ勝った方を頼って、再び集まることもできる。 「で、実際にはどうやるんだ? 洛陽に来ているのが少数なら、長安で接触を持つか?」  先程入った店でも、客胡は彼一人しか見なかった。この地域全体なら、もう少し多いだろうが、その中に、西方への大きな影響力を持っている人間がいるとは限らない。  その問いには首を振られた。 「いえ、無理ね。こちらまで来ているのはまだまだ少ないし……。さっきの客胡の対応をみてわかったけど、大物を釣るにはやっぱりこのあたりじゃ不十分だわ」  あの俺にはわからない言語での談笑の間に相手のことを探っていたということだろうか。この世界だと、二か国語、三か国語を操る人間も珍しくはないが、あの言葉はその中でも特殊な部類に入るだろう。客胡という名称からして、一般に五胡と呼ばれる範疇よりさらに外れた存在であることを示している。 「じゃあ、どうする?」  軍師殿はそこで声をひそめる。馬車の中で誰が聞くわけもないが、そのあたりは、習慣というものだろう。 「七乃と美羽、それに天和たちの説得、頼める?」 「天和?」  その名前と涼州という組み合わせで、かつてのことを思い出さないわけがない。そういえば、羊で入場料を払おうとするので困ると言っていたが、今度は馬で支払われるかもしれないな。しかし、詠の情報収集能力はさすがだな。魏が行っていたことはお見通しらしい。 「俺たちが涼州を攻めた時と同じ手か」 「基本はね」  美羽と七乃さんを同行させろと言うからには、もう一手あるというわけだ。 「表では張三姉妹、裏では七乃たちに動いてもらうわ。美羽のあの調子は、客胡には付け入りやすそうに見えるものよ。そこを七乃が逆に突くってわけ。二枚舌の相手には慣れてるからね、あの二人は」 「翻弄するのは得意だろうな」  本人たちが自覚しているかどうかはともかくとして。それに、彼女たちなら、少なくとも損をしない取引をしてのけるだろう。 「天和たちについては、華琳とも話す必要がある。それと、美羽たちは……そんなに遠出させて大丈夫かな?」 「大丈夫でしょ。いまさら逃げないわよ」 「いや、そういうことじゃなくて……」  わかってるわよ、と鼻で笑われた。 「安全かといえば、そうでもないわ。洛陽にいるのと同じくらいには、ね。もちろん、戦がはじまれば天和たちと一緒に下がってもらうわよ」  天和たちは、公演ができるとなれば、嫌がることはないだろう。もちろん、魏の領内とは名ばかりの地域に行くのだから、安全確保に兵をつけることなどの支援は当然としてもだ。  美羽たちは、漢中での様子からして張三姉妹との相性は悪くはなさそうだ。芸事でライバル視しているところがあるから、逆にそこに集中して他の部分では衝突する要素がないのだろう。  交渉の中心が美羽と七乃さんであることに多少不安はあるが、詠の言う通り、少々汚い相手でも渡り合えるだろうことは確実だ。問題は、あまりにも無茶苦茶な条件をつけて、相手の恨みを買うことくらいだろう。そこは美羽に……いや、七乃さんにしっかり暴走しないよう言いつけないとな。 「わかった、話してみよう」 「そ。じゃあ、これ、美羽にあげて」 「え?」  両耳から猫の目の飾りを取り外し、差し出してくるのに驚いてしまう。取り外したあとが落ち着かないのか、首を何度か振る詠。彼女の髪が揺れる姿に、何故だかどきりとしてしまう。 「洛陽にいる商人との顔つなぎと思って購ったけど……。そっちは期待外れだったから。ちょうどいいでしょ、蜂蜜色が綺麗だし、美羽も喜ぶんじゃない?」  それは間違いなく喜ぶだろう。この猫目石はその色の深さもさることながら、その加工もすばらしい。球体の完璧さを崩さないよう注意深く磨き上げられ、そのデザインと調和するように、金と銀で留め具を作り上げられた、まさに芸術品だ。  俺は差し出された耳飾りをじっと見つめ、受け取ることができなかった。不思議そうに首をかしげる詠の瞳を見つめ、結論を出す。 「いや……。それは詠が持っていてくれ」 「え、そう? じゃあ、代金はあとで……」 「いや。それはいらない。俺からの贈り物と思ってつけてくれると嬉しい」  俺の金から出しているのだから問題ないはずだ。 「で、でも高かったわよ」 「平気で俺に出させてたじゃないか」 「そりゃ、だって、軍務に必要ならあの程度の金を渋る必要はないもの。ボクはそう思ったから……。でも、個人の贈り物って考えたら……その……」  ごにょごにょと語尾が怪しくなる。彼女を安心させたくて、笑みを浮かべる。 「俺は、詠に似合うと思って選んだんだ。だから、詠に持っていてほしい」 「でも、こういうのは、もっとかわいい娘に……」 「詠のためのものだ」 「うー……」  彼女のよくわからない反論に被せるように言い切ったら、真っ赤になって、うつむかれてしまった。しかし、差し出された手は戻り、自らの耳にぱちり、ぱちり、と深く輝く猫の瞳をつけてくれる。うん、よく似合うな。  ……たしかに高い買い物ではあったが。 「……ありがと」  囁くように言われた言葉になにか言及すると、かえって蹴りでも飛んできそうなので、俺は黙っていた。  それでも結局、にやにやすんな、このちんこ! と蹴られてしまうことになるのだが。 「西域商人を取り込む、か」  裸のまま、俺の腹にのっかった華琳が詠の案を聞いて少し考え込む。情事の後の睦言としては少々色気がないが、二人共に国事に携わっているとしかたがない。 「悪くない手ね」  詠が文書にして来た案を、俺の肩の上に広げて読む華琳。体を下敷きにするのはいいけれど、足をばたばたさせるのは内臓に響くのでやめてほしいところだ。  可愛いんで注意なんてできないけどな。 「ただ、餌がちょっと辛いわね。自由通交権は、洛陽まであげましょ。長安洛陽間の関税免除は影響が大きすぎるから、現状ではさすがになし」 「了解。詠に伝えておく」 「天和たちには確認した?」 「ああ、美羽たちも天和たちも異存はないって。兵は出してほしいと言っていたけど」  三姉妹にねだられた新ステージ衣装と、美羽のご褒美の蜂蜜。これらは俺が用意するからいいだろう。 「ん。護衛は親衛隊から五百出すわ。彼女たちを失うわけにはいかないからね」 「うん、お願いするよ」  華琳が筆でさっさと修正事項を書き加えたものを受け取って、脇机に置く。そこで思い出したのか、華琳が俺の手のある場所を見て言う。 「そうそう、北伐参加の最終案が決まったからね。そこの横に置いてあるの取って。それ、違うってば、そっち。そう、それ」  指示に従って書き付けを取り、持ち上げて読んでみる。 「ふーん、結局、季衣が出陣、守将は流琉か」 「流琉がじゃんけんで負けたからね。まあ、でも、ちょうどよかったわ。糧食の手配も任せやすいし」  それはそうだろう。守将としての適性としても季衣よりは流琉のほうが向いていそうだ。実際は、なにもないのが一番なのだが。 「真桜と秋蘭は呼び戻すんだな」 「ええ、後任の大使選任、よろしくね」 「ああ、俺の仕事か。了解」  ずらずらと並んだ将と部隊の名をざっと読んだあとで、さらに読み返す。  めぼしい名前を抜き出してみれば、右軍大将に楽進。その下に李典、于禁。それと、呉の将だが、これは欺瞞だから置いておく。  中央軍は総大将が曹操、中央軍大将が夏侯惇。軍師に程c。それを支えるのは夏侯淵、許緒。 左軍は大将が俺──北郷一刀。軍師として、賈駆と陳宮。騎兵を率いる張遼、公孫賛、馬超、馬岱、華雄、呂布。歩兵と工兵を率いる黄権、袁紹、文醜、顔良。それに、蜀の趙雲と魏延。  洛陽の守将となるのは典韋。それに郭嘉と荀ケらが洛陽から全体を見渡し後方支援を行う。  考え抜かれた配置だとは思うが、偏りがないでもない。 「なんか左軍だけやけに名のある将が多くなってしまったんだが……」 「騎兵の関係で霞たちは絶対に入れないといけないんだし、しかたないわ。いいんじゃない? 言った通り、実際にはあなたの率いる左軍が主力なんだもの。それに、あなたのところは名前が知れてるのが多いってだけで、中央や右軍だって、将の数はいるわよ」  それはその通りだ。特に、右軍は全体に薄く広がるため、配置されている将の数だけで言えば一番多い。淳于瓊や張合もここにいる。  それに対して中央軍は将の数は少ないが、なにしろ華琳直卒だ。将よりは階級の低い部隊長だけで用が足りるということだろう。 「だいたい、考えてみなさい。たとえば麗羽や猪々子が、私の下で、上に登ってこられると思う?」  華琳の青い瞳が、間近で俺のことを覗き込む。 「まあ……うん、それはな」  猪々子は忠誠心が強ければ……とも思ったが、春蘭ほどの忠誠を示せる性格ではなかったな、と思い至る。そもそも、麗羽の面倒をみられるのはあの二人以外にいないだろう。 「そういう意味では、あなたという受け皿は非常によく機能してると言えるわ」  人間、相性や義理や立場というものがあるからな。様々な理由で華琳の下にいられない人間を引き受ける役を果たせているなら、それは喜ばしいことだ。 「まあ、一つ不満といえば、あなただけが美女を独り占めしていることかしら?」 「おいおい」  かぷ、と軽く肌を噛まれる。その甘噛み具合がなんともくすぐったい。華琳はしかし、真剣な色を瞳にのせると、口を離した。 「ただ、それ以外では、まだまだだってことはわかっているわよね」 「あ……うん」 「政治的な成果が一年二年で出るはずはないし、そのことで責めるつもりはないけれど、世の中にはそういう道理がわからないやつもいる」  言い募るうちに華琳の表情がどんどん艶やかに、笑みはぐんぐん深くなっていく。まずい、これはかなり怒っている。幸い、怒りの矛先は俺自身ではないようだが……。 「なにか、あったか?」 「孔融がね、あなたのような来歴もわからぬ者が大鴻臚にふさわしいのか、と糾弾する文書を奏上したのよ。ばからしい話。私や一刀がそんな地位を望んで手に入れたとでも思っているのかしら」  華琳の出した名前に聞き覚えがあった。 「へー。孔子の子孫さんか」 「あら、よく知ってるわね」  俺の世界の歴史だと、曹操が妻子共々彼を斬って孔子の子孫を絶やしたと非難囂々だからな。これは、後々まで曹操が悪役として定着する一因でもあったろう。 「まあ、ともかく、聖人の子孫とやらを鼻にかけた、狭量で、形式でしか判断できない愚か者よ。そのくせ、詩才はあるの。あと、たまにまともなことを言うのが厄介ね」  華琳の言葉を聞く限り、心底嫌っているという感じではない。ただ、余計なことに首をつっこまれるのが厭でしかたないのだろう。正論を言われれば華琳とて対応することができるが、今回のあてつけのような非難ではどうしようもないだろう。  そもそも、華琳が望むならば、どんな高い地位だろうと自由に部下に与えられる。しかし、彼女はそんな無茶な人事は行わないし、彼女に従う者たちもそれを喜ばない。今回の人事に限って言えば、俺が大鴻臚にふさわしいかはともかく、九卿の一つをあえて取ってきたのは、朝廷に慮ったからに過ぎない。  その点を理解していない人間には、たしかに華琳が自分のお気に入りを無理に引き上げたとでも見えるのだろうが……。 「……もしかして、左軍大将就任はそういう意味もあるのか?」 「軍功をあげさせて、うるさいのを黙らせようって? さあ、どうかしら?」  俺の問いに、彼女は謎めいた笑みで答える。きらきらと輝く青の瞳に、体ごと吸い込まれていきそうだ。 「一刀は、功績をあげたい? そういうのには興味ないかと思っていたけど」 「功績……というのとは違うかな。やりたいのは、華琳を手助けして、この大陸を良くしていくことだけど……」  どう言えばいいのか。俺は言葉を選ぼうとして、ようやくそれを思いついた。 「ただ、その……華琳にふさわしい男にはなりたい、かな」  大きな目がさらに見開かれ、真ん丸になって俺を見る。 「ぷっ」  噴き出した。  途端に魏の覇王は部屋中に響きわたるような笑い声を上げて、その体をぐんと持ち上げた。俺の上でのけぞるようにしながら、からからと笑い続ける華琳。  その笑いは嘲弄でも、侮蔑でも、ましてや憐れみでもなく、ただただ楽しく、面白そうに響いた。金髪の丸まった髪が、笑いと共に俺の上で揺れる。  笑いの発作が治まったのか、彼女は微笑みをたたえたまま、俺を見下ろした。俺は、またがるような格好の華琳を下から見上げる。その腰から胸に繋がる線の麗しさよ。小振りな胸の描く曲線の完璧さよ。それは、まさに美の化身のようであった。  思わず開こうとした俺の唇に、彼女の指があてられる。それで、俺は黙るしかなかった。 「あなたはね、この私が選んだ男よ。それ以上、なにが必要だというの?」  どくん。  体中を脈動が揺らした気がした。 「まあ、上を目指す姿勢は評価するけど。でもね、人の評判や、わかりやすい功績なんて、どうでもいいの。あなたは、私の横に立ち、進むべき未来を見据えなさい。わかった?」 「わかった、とは言えない。ただ、わかるよう努力するよ」  彼女の言葉の意味を、軽々に理解した気になってはいけない。そんな気がした。 「ふふん。いまはそれで許してあげるわ」  それから急に、彼女の手が動き、俺のものをぎゅっとつかんだ。気づいていなかったが、いつの間にか俺のものは強く屹立していた。 「さすが元気ね。私も休んだことだし、思い知らせてあげる」 「思い知らせる?」  その言葉に、背筋がぞくりとする。 「あなたが私の男で、私があなたの女であることを、よ……」  その濡れたような囁きは、蠱惑的かつ甘美で、とても俺には抗し得ないものであった。  詠に頼まれていた書類を、美羽たちからの長安発の報告──これから西域に向かうというもの──と共に届けようと歩いていたら、廊下の向こうから、当の軍師殿が早足で向かってくるのが見えた。 「おーい、どうしたー?」  きょろきょろと辺りを見回していた詠は俺に気づくと駆け寄ってくる。 「いいとこにいたわ。ちょっと、あんた、ここに来るまでに、祭を見かけなかった!?」 「いや?」  部屋からここまでは、誰とも会っていない。見かけたのは、せいぜい歩哨や、同じように書類を持って歩く文官くらいだ。  ただ、左脇の茂みの奥に、特徴的な長い銀髪が見えるのはどうしたことだろうか。詠は気づいていないらしいが。 「どうしたんだ?」 「教練を頼んでいるのに、姿が見えないのよ。また酒でも飲んでるんでしょうけど……初期の訓練ほど経験がものを言うのに……」 「まあ、とりあえずは、猪々子たちか、華雄にでも変わってもらいなよ。祭は俺が探しておくから。あ、これ、報告書と、頼まれてたものな」 「ん」  彼女は書類を受け取ると、中身がきちんとあるのを確認して、たしかに、と頷いた。そのあとで、はぁ、と大きく息をつき、眼鏡を押し上げる。 「まあ、しょうがないか……。じゃあ、見つけたらちゃんと言っておいてよね!」  詠はぷりぷりと怒った様子で、廊下を足早に戻っていく。俺はその彼女の背が見えなくなるまで見送って、茂みの奥へと歩を進めた。  思った通り、低木で囲まれた空間に小さな卓と胡床を持ち込んで、酒杯を傾けている一人の武人の姿があった。 「やあ、祭」  声をかけるまでもなく気配で気づいているだろうが、挨拶をするのは礼儀だろう。遮光眼鏡をかけた迫力ある美女は、酒杯を持ち上げて、歓迎の意を示してくれる。そのまま、手渡された胡床に腰掛けた。 「詠から逃げてるんだって?」 「逃げているわけではありませぬ。現に、旦那様はしっかり見つけられたではありませぬか」 「まあね。でも、怠けてるんだろ?」 「ふふん」  さらに言うと、祭は楽しそうに笑った。 「旦那様の下にも、若い衆が増えてきましたでな、そろそろ老体は楽をさせてもらおうかと」  俺は思わず笑ってしまう。冥琳の言っていたことは、やはり的確なものだったらしい。 「冥琳が言っていたよ。あの方が怠けられるなら、その国は平和だということだ、と」 「はは、言うてくれるわ、あの泣き虫小娘が」  冥琳の言葉だと聞いて、一瞬虚をつかれたようになっていた祭だったが、余計に大きな声で笑いだした。 「さて、俺もご相伴に与ろうか」 「おや、いいのですかな?」 「これまで働きづめにしてしまったからね、少しくらいは」  俺が胸元から酒杯を取り出すと、彼女は、にやりと笑って酒を注いでくれた。二人で酒杯を乾し、お互いに注ぎ合う。 「権殿とはいかがですかな」 「まだ口すらきいてもらえないよ。思春は事務的な話はしてくれるが、これまでのようには……。シャオが以前通りなのだけが救いさ」 「儂が口を出してもこじれるばかりじゃろう。こればかりは旦那様が解決せねばなりませんの」 「そうなんだよなあ」  苦笑いを返しつつ、ぐいと酒を呷る。 「ところで、北伐のこと、どう思う?」  そう切り出してみると、すっと表情が変わった。一瞬だけ、眼鏡の向こうの目が細まった気がした。 「おや、旦那様はこの戦について、お疑いか?」 「ああ、いやいや、俺自身はまったく疑ってない。俺は華琳につきあう責任もその意志もあるからね。ただ……みんなはどうなのかな、ってね」  背に走った悪寒を振り払ってしっかりと否定する。意図を誤解されて、なにかしでかされたらたまったものではないからな。祭は抑えが効く方ではあるが、それでも猛る心を持つ武人には違いない。  華琳たちははっきりとは口にしなかったが、今回のことは、俺が地図を渡したことも大きな要因だろう。彼女たちが、『大陸』という概念をさらに広めたのは間違いない。そして、その視野の下、新たな秩序を望んでいることも。  ただ、それと同じ視野を、誰もが持てるわけではない。 「これまでの戦はいわば内乱だ。相手もこちらも戦の作法も同じなら、食べるものも喋る言葉も同じ。何代か遡ってみても、同じような生活をしていた。そんな相手との戦いだった」  少なくとも、漢という国が基礎にあったわけだからな。実際には言葉が通じないような場合もあったろうが、漢の支配下という大きなくくりの中にはあったわけだ。 「今度はまるで違う。生き方自体が、ね」  祭はじっと俺の話を聞いている。 「異なる気候、異なる風景、異なる生活習慣。そして、異なる言語の下にある民を征服しに行く戦だ。疑問に思ってもおかしくない」  祭は杯を置くと、どこかで聞いたことのある一節を口にした。 「兵者國之大事、死生之地、存亡之道、不可不察也」 「孫子だね」  軍を起こすのは、国家にとって重大事であり、よく考えなければいけない。孫子に最初に書かかれている部分がそれだ。 「一曰道、二曰天、三曰地、四曰将、五曰法」  そして、それを判断する基本事項が、道、天、地、将に法と五つの要素。 「五胡と三国を比べるに、劣っているは地勢のみ。こればかりは攻めるのじゃからしかたありますまい。これくらいは、皆、覚悟の上じゃろうて」  そこまで言ったところで、祭は、にかっと豪快な笑みを浮かべた。 「まあ、そんなことよりも、じゃ」  ふとその瞳が、遠くを見つめる。ここではないどこか、あるいは空のはるか向こうを。 「儂はかつて文台様にお会いした折、この方とならばこの天下の乱れを糾し、天子様をお助けできると信じたものじゃ。文台様が亡くなられた後、雪蓮様の天稟を見、周家のご令嬢の才に触れ、孫呉の天下を確信もした。そして、旦那様に再びこの世に目覚めさせていただいた折には……」 「お、折には……?」  黙って凝視される圧力に耐えきれなくて訊ねるが、彼女ははぐらかすように手をひらひらさせる。 「いや、これは黙っておくとしましょうか」  うう、ずるいぞ、祭。 「儂は、旦那様を信じておると、そういうことじゃ。お気にめさるな」  なんだか落ち込みそうになったところを、ばんばんと肩を叩かれる。 「もちろん、旦那様の下には様々な者がおり、それぞれの理由で身を寄せておる。そこに魏や呉のような忠節を求めるのは酷というものじゃ。それでも、皆、旦那様に信頼を寄せております。そうでなければ、どこぞへ身を隠し、逃げておることじゃろうて。故に、儂が言えるのは一つ」  祭は改めて酒杯を掲げると、明々白々な道理を説くように言葉をつむいだ。 「旦那様が揺らがねば、皆も揺らぐことはないじゃろう。そのことのみよ」  彼女の言葉を呑み込んで一つ唸る。 「そうか。ありがとう。祭」  俺たちはその後、祭の隊の左軍における動向などを話しているうちに夢中になってしまい、探しに来た月に見つかって、詠にこってりとしぼられることになるのだった。  北伐の進軍開始予定日まで百二十日。  この日、参加人数が多く、後方支援が予定されている呉では、参加部隊の動員と、膨大な糧食を積み込む作業がはじまる予定だ。これはまやかしだが、そのことを知っているのは魏、呉両国合わせても十人もいない。  一方、比較的少数の参加の蜀からは歩騎を引き連れて、文長さんと子龍さん──魏延と趙雲の二人が移動を開始する手筈になっている。魏軍との合同訓練期間を長く取るためだ。  そう。結局のところ、蜀から参陣する将は彼女たち二人に落ち着いた。  その報告と共に玄徳さんから連絡があり、千年は徳の字をもらって、厳徳という名に決まった。こちらは、世間の情勢には関係ないものの、俺と桔梗にはそれ以上に重要な出来事だ。  そして、最も多くの兵を出し、最も多くの将が参加する魏では、兵たちや将たちへのはなむけと士気高揚のため、将軍たちによる武術大会が行われていた。  少し高く作られた貴賓席の箱の中で、華琳、風に挟まれながら、練兵場にしつらえられた会場を見下ろす。以前の御前試合では城が壊れかけたからな。城の外のだだっぴろい練兵場じゃないととても開催できない。  貴賓席にいるのは、華琳と風、霞、俺、それに特別製の寝椅子に座った桂花だ。もう臨月なのに、よほど華琳の側にいたいんだな。ちなみに、蓮華も誘ったのだが、小蓮と思春の付き添いをやるからと断られた。しかし、シャオまで出るとはな。 「一応、飛び入りや一般参加も許してるんだ」 「ほんとに一応、ですけどねー」  いま、一般参加の力自慢が、季衣にふっとばされたところだ。あれは季衣の勝利のうちに入るのだろうかね。 「まあ……ちょっと桁が違いすぎるからな」  意識を失った男が、医療班に運ばれていく。季衣も手加減をしているはずだから死にはしないと思うが、しばらくは寝台から起き上がれないかもしれない。 「それでも、一部の武将──具体的には恋と華雄と翠、それに御前試合で優勝したことのある霞。この四人は、今日は参加不可よ」 「もー。つまらんわー」  華琳はさらに桁違いの名前を挙げる。それに答えるのは霞だ。名前が出たうち、恋は陳宮と一緒に会場に出されている屋台を巡っているし、華雄は審判をやっている。そして、翠は……。 「翠は金城に行ってるだろ?」  千年が生まれた翌々日には金城に向かっていたはずだ。金城と長安を何度か往復して兵を集めている最中だと思ったのだが。 「明日の後半戦には間に合うよう帰って来るらしいわよ」  桂花が大きなお腹をさすりながら教えてくれる。 「へぇ」 「桔梗さんも参加したがったんですけどー。さすがに華琳様がお止めにー」 「そりゃそうだ」  稟でさえ見物に来ていないというのに、参加したいとはさすがというかなんというか。 「翠と蒲公英が蜀の扱いじゃないから、蜀からは紫苑一人になってしまうのが気にかかったんでしょう」  政治的配慮か。しかし、桔梗の場合、本気で腕試しをしてみたかったという可能性も考えられる。それについてはもっと安定してからにしてもらわねばなるまい。 「さ、はじまるわよ」  華琳の言葉に仕合の場に注意を戻す。そこにいるのは、先程男を軽々と吹き飛ばした鉄球を持った小柄な少女と、黄金の大槌を持ったおかっぱ頭の女性だ。  一回戦は、斗詩と季衣か。 「力持ち同士ですねー」 「斗詩が? どっちかというと、力自慢は猪々子じゃないか?」  そりゃあ、俺や風よりは力持ちだろうけど。そう疑問を呈してみると、桂花がはっ、と大きく嘲りの息を吐く。 「あんた、ほんとに底知れない莫迦ね。あんな大槌ふりまわす武将が、力がないとでも言うの?」 「あー……」  そういえば、季衣と流琉の喧嘩をあっさり仲裁してたのは、猪々子と斗詩の二人だったっけ。いくら武術に長けていたとしても、基本的な膂力がなければ季衣たちを捕まえることはできないだろう。 「とはいえ、猪々子の影に隠れがちで、その実力を計れないのもたしかね。観戦させてもらいましょ」  いま、仕合場では審判の華雄の声がかけられ、二人がその武器を構えたところだ。 「さあ、顔良さん、やーっておしまいなさいっ」 「斗詩ー、がんばれー」  麗羽と猪々子の声が斗詩に飛んだとかと思えば、 「季衣ー、勝ったら御馳走たんまりつくってあげるからねー」 「季衣ちゃーん、がんばってなのー」  季衣には流琉と沙和から声援がかけられる。もちろん、観客席の兵たちは沸き立って、それぞれを応援している。  たぶん、賭けもしてるんだろうな、ありゃ。  二人は、同時に得物を振りかぶり、振り下ろした。  鉄球がものすごい音を立てて大地を削り、鉄槌が空を切った。  共に相手の攻撃を避けながら、一撃、二撃、三撃と、相手に浴びせかける。しかし、そのいずれもが両者の体を捉えることはなく、被害を受けるのは地面くらいのものだ。 「んー、間合いはおんなじくらいか。せやけど、ボクっ子のほうは引き戻すんがちょっとかかっとるなあ」 「鎖だからね。うまく使えば変幻自在の動きができるけど……」  霞と華琳は冷静に解説しているが、俺ははらはらして手に汗握っている。なにしろ、お互い膨大な質量の武器をふりまわしているのだ。一発でも当たれば大変なことになるであろうことは想像に難くない。たとえ、季衣や斗詩がどれだけ頑丈でも、だ。  ひとしきりお互いに武器を振り合ったあと、二人は距離を取る。相手の機を窺う手に出たようだ。  足を踏み出すと共に鉄球が唸り、鉄槌が空間を押しつぶす。二人の体が交錯し、しかし、どちらにも触れ得ずにその位置を取り替える。  そんなことを繰り返した何度目かの時。  季衣の鉄球が少し余計に地面にめり込んだように見えた。  その隙を逃さず、猛然と駆け寄り、大槌を振りかぶる斗詩。  だが、横っ面から振り抜かれた大槌は、季衣の手首の返しによってふわりと浮かび上がった鉄球に弾かれた。  跳ね上がる斗詩の両腕。金光鉄槌に引きずられぬよう踏ん張るところを、棘だらけの鉄球が襲う。彼女は身をひねるようにしてそれを避け、飛び上がった。  離れた場所に降り立ったその肩が大きく動き、はーはー、と長く苦しげな息を漏らしているのがわかる。 「へっへーん、とっしーの攻撃、単調だよー。それにちょっと疲れてるんじゃない?」  その言葉に、斗詩の顔が苦しげに歪む。おそらく、両者の基礎体力にそれほどの差はあるまい。そこに差が生じたとすれば、それは得物の違いだ。  鉄球を地面に転がして、斗詩に向けて放つ瞬間を待っていることのできる季衣と、その大槌を常に構えていなければならない斗詩の。  そして、達人同士の仕合ともなれば、ほんの少しの差が命取りになる。  斗詩は額の汗を拭うと、にっこりといつもの穏やかな笑みを浮かべて見せた。この緊迫した状況でその笑みを浮かべられる胆力は見習いたい。 「じゃあ、そろそろ奥の手を見せようかな」 「へぇ? そんなのあるんだ。よっし、ボクも秘中の秘を見せちゃうよー」  季衣が腕を持ち上げ、鉄球のついた鎖をぐるぐると回し始める。  ぶぅんぶぅううん。  虻が飛ぶような低い音で回転する鉄球。  それに対して、まるで刀を構えるように大槌を青眼に保つ斗詩。 「いっくよーーーっ」  仕掛けたのは季衣。地面をえぐり取るように下方から振り上がる鉄球を、体を傾けるだけで避ける黄金の鎧。  そして、斗詩は、大槌を振らなかった。  彼女は、踏み込むと同時にそれを真っ直ぐに突き出したのだ。 「えっ!?」  下から掬いあげるようにして腹を突かれた季衣の体が浮いた。思わずだろう岩打武反魔を手放す季衣。彼女の両足が地を離れたところへ、小さく引かれた槌がもう一度体を突き上げる。 「せいっ」  斗詩の掛け声と共に、軽い季衣の体はぽーんと跳ね飛ばされ、あっさりと仕合場の境を示す土盛りを超えた。  ダメージは少ないのか、空中で体勢を整え、なんとか着地するが、そこは場外。  華雄の手がすっと上がり、それが斗詩に向けて下ろされる。 「勝負あった!」  それは、季衣の敗北と斗詩の勝利を告げていた。  ちぇーっ、と大きく頭をかく季衣と、先程までの息の乱れはどこへやら、歓喜の声を送ってくる麗羽たちに手を振って応えている斗詩。 「経験の差ね」 「息が切れとったんも演技やろ。調子にのりやすいボクっ子の性格よう見抜いとるわ。さすがは袁家二枚看板っちゅうとこか」 「なんにせよ、二人とも、怪我がなさそうでよかった」 「そですねー」  俺はほっとして力を抜く。いつの間にか、だいぶ腕や肩に力が入っていたらしい。奥歯も噛みしめすぎたのか、顎が痛い。 「ええと、次は祭と流琉か。これもまた……」 「流琉ちゃんが粘れるかですねー」 「うちは、その後の黄忠対公孫賛戦が気になるわ。弓つかいやろ? やっぱ、妙ちゃんと同じく近づいても厄介なんかな?」  その仕合、白蓮は馬がないで大丈夫なのかな。いや、それをやりだすと、翠と霞が有利すぎるか。  ところで、貴賓席でわいわいとやっているのに、一切口を挟んでこない人がいると思うのだが、と目をやると、ちょうど華琳も同じように気にかかったのだろう、彼女の名を呼んでいるところだった。 「桂花?」 「……は、はい?」  反応が遅い。  桂花が華琳に呼ばれて間を置くのは、華琳自身に振られた考え事をしているか、なにか意味がある時くらいのものだ。いまは、そのどちらでもないだろう。単純にぼーっとしているように見える。 「どうかした?」 「いえ、大丈夫です。ありがとうございます、華琳さ、ま……」  最後のところで、しゃっくりでもしたかのように、声がうわずる。彼女はどこか遠いところを見ているようだった。 「桂花?」  華琳が立ち上がろうとしたところで、桂花が断続的に声を上げ始めた。 「あ、あ、あ、あ、あ……」 「あや、破水しちゃってますねー」  風がささっと寝椅子に寄り、猫耳軍師の着物をめくって覗き見る。その言葉を聞いて、華琳は腰を上げた。 「季衣、流琉、来なさい!」  華琳の声が遠く聞こえる。俺に見えるのは、奇妙に体を震わせる桂花の姿と、それに声をかけ続けている風だけだ。  その風が俺の方をちらと見ると、奥に顔を向ける。 「霞ちゃーん、おにーさん頼めますかー?」 「あー、わかった。また薪でも割らせとくわ」 「はいはいー」  貴賓席に季衣と流琉が駆け込んでくる。華琳は観客席に向けて、言葉を続けているようだ。 「本日の武術大会は、緊急事態のため、散会! 明日、明後日、この続きを行うわ。軍のものは一日休暇を延長する!」  大会が中止と聞いてざわついたものの、一日休みが延長されると言った途端現金にも上がる歓声を聞きながら、俺は誰かに引きずられていく。  そうして、季衣と流琉が寝椅子ごと桂花を持ち上げて産室に向かうのを呆然と見つめつつ、俺は薪割り場へと連行されていくのだった。  洛陽の城の中には、様々な宮があり、それをとりまくように、あるいは建物に囲まれて、たくさんの庭も存在している。  その中に、巨大な平石の置かれた庭がある。人が数人座ってもまだ場所があまる程の巨石だ。おそらくは奇石の一種としてどこからか運ばれたこの石は、いまでは月見台と呼ばれていて、たまに華琳が人を招いて夜の宴席を開いたりする。  しかし、今日は二十日、眺め見るには月が出るのが遅すぎる。  だから、俺は誰もいない庭を独り占めしていた。石の上に酒とつまみを用意して、毛氈を敷いて座り込んでいる。  そして、更待月が昇ってくる。  更けるのを待つという名前の通り、この時期の月は、夜も更けたこんな時間にしか昇ってこない。とは言っても、俺のいた時代の二十四時間制で言えば、二十二時かそこらだろう。夜明けと日暮れを基にした生活では随分遅く感じるけれど。  なんにせよ、今日はめでたい日だ。朝まで飲んでいてもかまわない。 「あら、このようなところで」  月を肴に、何杯重ねたろう。不意にかかった声は、艶やかで、優雅な響きを持っていた。 「おや、紫苑」  月明かりに見えるのは、薄紫の髪を長く垂らした麗人。髪よりわずかに濃い着物が、月光を受けてきらきらと輝いていた。  彼女は平石に近づくと、不思議そうに首をかしげる。 「無事にお生まれと聞きましたが」 「ああ、ありがたいことに、母子共に健康にね」  桂花の娘が生まれたのは、もう日も暮れた後だったが、たしかにしっかりと生まれて来てくれた。既に華琳に名付けてもらっていたらしい名前は荀ツ(じゅんうん)。幼名は、木犀だ。  幼名のほうは華琳が口添えしてくれたおかげで、俺がつけることができた。『桂花』という真名にちなんだものだが、桂花自身は特に感慨もなさそうだったのが少しばかり残念だ。 「では、なぜ、このようなところに、お一人で?」  彼女が平石にのってきたので、毛氈の一部を開けて、座るよう促す。 「ご一緒しても?」 「ああ、もちろん。杯は、俺の予備しかないけど許してくれ。洗ってあるし」 「ふふ、なんでしたら、一刀さんの唇が触れているその杯でも」  からかうように言ってくる彼女に杯を渡し、酒を注ぐ。 「いやあ、桂花が、なんだか人を嫌がっていてね。華琳以外入れてくれないんだ」 「あらあら」 「おかげで、まだ抱いてもいないんだよ」  俺を避けたり嫌がったりするのはいつものことだからいいとしても、まさか、華琳以外の風や稟たちまで避けたがるとは思わなかった。誰かいると落ち着かないというのだからしかたないが……。  皆も、神経質になっているのだろうと納得してくれたから、まだよかった。 「まあ、そういうこともありますわ。女というのは体の作用で心が簡単にささくれ立つものですから。しばらくすれば、普段の姿に戻りますでしょう」  普段の桂花でも、俺に対しては辛辣だけどな。ともあれ、しばらくはそっとしておくしかないだろう。産婆の知識を勉強しているらしい風だけでも入れてくれるようになるといいが。今晩は華琳がついてくれるらしいから問題ないのだけど。 「それで、このようなところで酒盛りですか」 「ああ、皆、明日の大会があるからね。紫苑もそうだろ?」  前日の酒など気にもしない面子もいるが、それでもこちらが気にしてしまうからな。紫苑はくいくいと酒を乾していく。いい飲みっぷりだ。 「でも、寝つけませんで。璃々を起こすといけないので出てきてしまいました」 「予定を崩されると眠れないことってあるよな」 「ええ」  杯が空になる度、俺は酒を注ぐ。これだけ飲んでいるのに、まるで変わった様子がないのはすごい。紫苑って酒豪なんだな。 「一つ、面白い話がありますの」  彼女は笑みを浮かべ、そう話し始める。なんだかその静かな笑みに険があるのはなぜだろう。俺に対してのものでもなさそうなのだが……。 「星ちゃんからの書簡にあったことですけれど。彼女を北伐左軍に入れ、雛里ちゃんが抜ける代わりに言いつけられたことらしいですわ」 「なにか条件があったの? こちらに来た報告にはなかったけどな」 「それはもちろん、秘密の命ですもの。誰でもよいから、色仕掛けで北郷一刀を籠絡せよ、ですって」  ぶはっ。俺は思わず口に含んでいた酒を吐き出してしまう。既に喉に落ちかけていた酒が変なところに入って、むせ返る。 「げほっ、ごほっ。酷い……勘違いだなあ」  いつの間にか横に移動してきた紫苑は俺の背中を優しくさすってくれる。その手の温かさが心地いい。 「本当に。艶本の読みすぎですわね」 「実際、それで、なにか有利になるってわけでもないだろうに」  その言葉に、紫苑は思案深げに眉根を寄せ、視線をさまよわせる。 「どうも、本国には、西涼の話が歪んで伝わっているようですわね」 「西涼?」 「西涼の建国は我が蜀にとってもよいことですわ。これまでの仲間が経営する同盟国が北にできれば、西北の五胡の圧力も減りますし、交易も促進されますものね。しかし、蜀よりもその益を受けるのは、なによりも涼州の民、わけても馬一族であることは間違いありません」  彼女の言うことはわかる。蜀の一武将から、諸侯に登るというのはなかなかないことだ。しかし、それを翠が望んでいたかというと、それはまた別の話だろう。 「そりゃあね。でも、その分、翠たちは責任も負うことになるよ。俺は、彼女たちに正直申し訳ない気持ちもある。後悔しているわけじゃないけど」 「承知しておりますわ。それでもやはり、得をしたと見る者が圧倒的でしょう」 「魏にも蜀にも翠たちにも、みんなに得になるよう、詠たちが考えてくれたわけだしね」  しかし、この話はどこに繋がるのだろう。聞く限り、西涼建国自体はきちんと伝わっていると思うのだが。 「本国では、そう思っておりませんわ。一刀さんが……その、翠ちゃんと蒲公英ちゃんのことを召し上がって、それで馬一族を優遇した、と見ているようですわね」 「……はぁ」  うん。慣れてきた。俺、そういうの慣れてきたよ。悲しいことに。  とはいえ、さすがに呆れるというか、体中から力が抜けるというか。なんとも反応のしようがない。 「たしかに西涼建国は魏にとっても蜀にとっても、西涼にとっても良い策。わたくしから見れば、北伐の最初の取り決めである飛び地領よりも良いものだと思います。しかし、それを一刀さんの横槍と見てしまった者がいるのでしょうね」  発案自体は後からだからな。取り決めを変更したことで、反感を買ったであろうことは間違いない。そのことで攻めるというなら、こちらに言い分はあっても攻められること自体に文句はないのだが。 「それだけ一刀さんの影響力を評価しているということでしょうが、かなり間違った前提で物事を考えているようですわね。桔梗の出産が明らかになったというのもあるのでしょうけれど……」  ふと思い当たることがあった。成都滞在一日目の夜のことだ。  そもそも誇り高い錦馬超ともあろうものが、俺に頭を下げるのはともかく、部屋に忍び込み、全裸で待つなどということを思いつけるものだろうか?  あるいは、そこに誰かの入れ知恵があったのではなかろうか。俺は、そんなことを思う。  ただ、それ以外にも疑問に思うことがあった。 「でも、その籠絡とかいうのは、桔梗で充分じゃないか? いや、別に籠絡されてはいないけど、その理論で言えば、俺は蜀にも肩入れするだろう? 子供もいるんだし」  その問いに、紫苑はさも当然のように言う。 「それだけでは足りない、ということでしょうね。実際、それで蜀へ有利なことをしていただいておりませんし。桔梗はそのようなこと望んだりしないのですから当然ですけど」 「うーん」  腕を組んで唸ってみても答えがひねり出せるわけでもない。実際、俺についての誤解が浸透していて、その上、蜀の大軍師二人が、俺を引き入れる必要ありと結論を出してしまったとして、俺がどうにかできるのは、せいぜい、子龍さんや文長さんに、士元さんの勘違いですよ、ということくらいだ。  既に紫苑はそれを理解していて、あえて俺に秘密を打ち明けてくれている。それは、文長さんや子龍さんに酷なことをさせないようにだろう。  考え込んでいると、紫苑の体がもたれかかってきた。肩に乗るその重みと熱。そして、鼻をくすぐる甘い香り。 「そこで、一つ提案なのですけど」  俺の顔を見ないまま、彼女は言う。月明かりの下、俺たちの影が、石の上に長く伸びる。 「わたくしを抱いてみませんこと?」  息を呑む。半ば予想していた言葉を聞くのに、俺の心臓はどうしてこうも早鐘を打っているのだろうか。 「さっきの話をした後で、か」 「先程の話をした後で」  おうむ返しに呟く紫苑の言葉を考える。  彼女の意図としては二つのことが考えられる。  籠絡などということが無理だとわかっていながら、他の人間にやらせるよりは、という自己犠牲の精神。  もう一つは……。 「子龍さんが洛陽についてしまったら、それは『命令』になってしまうわけだ」  顔が上がり、暗い紺の瞳が俺を見つめる。その唇に刻まれた笑みの意味はなんだろう。  その瞳の端に、空に浮かぶ月が映っていた。三分の一ほどが欠けた月は、しかし、黄金の光で夜を照らしだしている。闇の中にさらに暗い影を作りながら。 「わたくし、望月より、欠け始めた月が好きですわ。いずれ新たに生まれてくるために、身を削っている月が」  その言葉を聞いた途端、俺は彼女の体をかき抱き、その柔らかな唇を奪っていたのだった。 「あら、せっかくの熱を冷まさせてしまうおつもり?」 「ここで?」  お互いの口腔を堪能した後で部屋に誘ったら、逆に腕を彼女の着物の中に誘われた。たわわな胸の感触が直に伝わってくる。 「誰も見ていませんわよ」  それはそうだ。こんなところに通りかかる人は珍しい。ましてやこの時間だ。 「そうだな。見ているのは、天の瞳くらいのものだ」  毛氈の上の邪魔なものを払いのけ、彼女を横たえる。その胸元の留め具を外すと、途端にこぼれ出るたわわな乳房。その柔らかく、触れればそれだけ指が沈みそうな胸が、俺の情欲を見事に刺激する。 「下着、着けてないんだな」 「普段は着けてますわよ」  次は腰の留め具。はらりとずれ落ちていくその布の向こうに、股間の下生えが見える。どうやら下も着けてこなかったらしい。少々刺激が強すぎるぞ、これは。 「じゃあ、特別だ」 「ええ、特別ですわ」  月光に照らしだされる紫苑の体。重力に少し押しつぶされながら、盛大に存在感を主張する乳房。脇から腰、腰から脚へと繋がるなめらかな曲線。手に吸いついて、二度と離したくなくなるようなもっちりした白い肌。  とても、あんな大きな子供がいるようには……なんて思ったら怒られるのだろうな。しかし、それほどまでに彼女の体は美しく、なによりいやらしかった。  その匂い立つような色香。肌の上を流れる紫の髪のなまめかしさ。  俺は夢中で彼女の肌をいじり、こねくりまわした。 「じゃあ……こうなってるのも?」 「んぅっ……もちろん、特別、です、わ」  秘所に軽く手をやれば、既にむっとするような熱を帯び、じっとりとその蜜が溢れ出ようとしている。そのことが余計に俺を興奮させ、急かされるように、着ているものを脱ぎ捨てた。 「ふふ……」 「ん?」 「いえ、思った通り、よい体をしていらっしゃると思いまして」  毛氈の上から、彼女は俺のことを見つめている。いや、体でいったら、紫苑のほうが遥かにいいと思うぞ。力もきっと彼女の方が上だろう。 「まだまだだろ。弱っちいし」 「女が男に見るのはそんなことではありませんわ。少なくともわたくしは」  そんなものかな、と思いつつ、再び彼女に覆い被さる。すると、彼女の腕が伸びてきて、俺の胸や肩をゆっくりとなでてくれる。 「やはり……色々なものを背負える体ですわ」 「あ、ありがとう」  いま一つ紫苑が感心している理由がわからないが、そのあたりは色々あるのだろう。女性にしかわからないことというのも世の中にはあるようだし。 「こちらは……あら、これは……」  先程まで肩をなでていた腕がするりと俺と彼女の体の間に入り込み、俺のものに触れる優しい紫苑の指。最初は戸惑うようだった指が、ゆっくりと快感を引き出す場所を探り当て始める。さすが、このあたりは心得ているものだ。 「ふくっ……。期待外れだった?」 「まさか!?」  上がった声の大きさに、紫苑自身驚いたのだろう。俺を握っていないほうの手でぱっと口を押さえるのが少しおかしい。一応辺りを見回してみるが、誰かに気づかれたような様子はない。近づいてくるものがいれば、すぐ気づくような広々とした庭だしな。 「背中、痛くない?」 「え、ええ。それは大丈夫ですわ」 「なら、よかった」  右手で彼女の胸を揉み上げながら、口づける。すぐに開いて伸びてくる舌を自分の舌で捕まえて、たっぷりと唾液を塗り込め合う。ぬるぬるとしたとらえどころのない舌の感触と、右手の熟れた水蜜桃のような肉の手触り。そして、ぴんと尖った突起をこする時に彼女の体から伝わってくる大きな震え。  その全てが俺の心を、頭をかき乱す。その混乱は、とてつもなく甘美で、そして、みだらがましい。  口づけ、舌をからませたまま、手を下に動かしていく。紫苑の脚が誘うように蠢き、開く先に触れる。そこはたっぷりと蜜をたたえ、俺の指が入るとくちゃりと指中にその液がまぶされるほどだった。 「ごめん。俺、もう紫苑のこと欲しいよ」  口をわずかに離し、まだ舌が追いかけてくるところで、そう囁く。至近距離の紫苑の瞳に喜色が走ったのは見間違いではないだろう。 「わたっ、くしも、ですわ」  喘ぎに邪魔されそうになりつつ、彼女は答えてくれる。  体を起こし、絡みついていた紫苑の指をそっとどけて、彼女の入り口に俺のものをあてる。 「いくよ」 「き……て……」  ぐっと腰に力を込める。抵抗は少なかった。それよりも、吸引されるような感覚が俺を襲った。彼女の肉が俺のものに絡みつき、内へ内へと導くようだった。 「うくっ」 「うあ、入って……一刀さんが入って……くるううううっ」  あまりの心地よさにうめき声を上げずにはいられない。 「いっぱ、い、です、わ……」  自分の下腹を抑え、俺をうっとりと見上げる紫苑。俺は、血が集まり、硬直した肉棒がさらに興奮を注ぎ込まれ、みりみりと太まっていくのを感じた。 「ん、うあっ、中が……」  彼女の足首を取り、脚を持ち上げる。Vの字に大きく割り開かれたその支点たる場所に、自らの腰を打ちつける。 「ああ、そんな、はずかっ」  長く引き抜き、彼女の中を削り開くように打ち入れ、再び内壁をこすりあげながら、カリ首ぎりぎりまで引く。 「一刀さん、ああ、ああ、そこは、そこはぁ……」  もはや、紫苑の嬌声はまるで抑えられていない。通りがかった者ではなく、近くの房に寝ているものにすら聞こえるかもしれない。だが、俺たちは二人ともそんなことは気にもしていなかった。  俺のものを伝い、押し出された愛液が、彼女と俺の毛を濡らし、打ちつける度にこすれ合い、音を立てる。  紫苑の口から漏れる喘ぎ。彼女の名を呼ぶ俺の声。肉のぶつかる音。それに混じる粘着質の水音。そして、全てを照らしだすさえざえとした月光。  俺たちは全てを楽しみ、全てを味わい、全てを二人のものとした。  その夜、月見台は、淫蕩な獣たちが潜む場所であった。 「ああ、先程のお話ですけれど」  既に月は高く昇り、空も白みかけようという頃。俺の下からちょっかいを出したりしていた紫苑が、不意に思い出したかのように言った。 「焔耶ちゃんも星ちゃんも、あんな命、応じないと思いますわ」 「え?」 「桃香様の命ならばまだしも、雛里ちゃんは軍師にすぎませんもの。将たる我々の判断で、つっぱねられます」  しれっとそんなことをいう紫苑。俺は思わず苦笑を浮かべていた。  かなわないな。まったく。  それをすっかりわかっていて、俺に打ち明けたわけだ。 「だから」  彼女は俺をより強く抱き寄せて、耳元に直に声を届ける。 「星ちゃんたちが迫ってきた時に、莫迦な命令のせいだなんて誤解して、傷つけたりしたら、わたくし承知しませんわよ」  そう囁く紫苑の声は意外にも、徹底して真剣なものであった。         (第二部北伐の巻第七回・終 北伐の巻第八回に続く) ◎登場人物紹介 一刀の子供編 郭奕(かくえき):一刀と稟の娘。幼名は阿喜(あき) 厳徳(げんとく):一刀と桔梗の娘。幼名は千年(ちとせ) 荀ツ(じゅんうん):一刀と桂花の娘。幼名は木犀(もくせい) 北郷朝五十皇家列伝 ○許家の項抜粋 『許家は許緒にはじまる皇家であり、東方殖民を行った東方八家に含まれる。  五十皇家の中で、最も遠方まで進出したと言えば、西方ではブリテンまで到達した黄家、東方ではこの許家が挙げられるだろう。大西洋横断を果たした魏家に関しては進出ではなく、航海皇家として評価されており……(中略)……  東方殖民における手順は明快である。 ・第一段階は華家、許家、楽家の三家が、それぞれ、東、南、東南に進み、居留地を設ける。 ・第二段階で、それら居留地に東方呂家、東方黄家、典家をはじめとする人員が入植し、徐々に勢力を広げていく。 ・第三段階は、第二段階で発展した居留地を拠点に、地理条件が許す限り、七つの居留地を作る。作る居留地が七つなのは、八方のうち、当初にやって来た方向を除いた数だからである。 ・第四段階として、当初の居留地が一定以上発展すると、華家、許家、楽家は人員を引き上げ、新たな居留地を開拓する。  この繰り返しである。  なお、李家は、主に海上輸送、西方との連絡航路の確保などに従事し、勢力自体は当初の到着地から大きく広げずに留まった。  時代が下り、東方大陸のうちでも北大陸がほぼ掌握されると、この殖民は一段落した。  しかし、許家と華家はそれまでの居留地開拓を止めず、許家は陸路で、華家は海路から南方開拓を推し進めた。後に、これには大西洋航路を切り開いた魏家の協力も加わった。  このため、南東方大陸のうち北半分が『帝国』の勢力下に入る。これは、すなわち膨大な産出量を誇る銀山が『帝国』の経済圏に組み込まれることを意味しており、この銀の大量流入に伴う経済変動は西方大陸を巻き込みつつ、『帝国』全体に、経済の枠組みの転換を強いることに……(中略)……  殖民自体は南緯二十三度近辺で限界を迎え、東方大陸における勢力拡大は停止する。  しかしながら、許家の血には既に南進の衝動が本能のように染みついてしまっていたらしい。その後も許家出身の者たちは、探検を繰り返している。  はるか後、南極点到達を果たした許家の傍系出身の探検家は、本家の家訓『美味いものはどこにでもある』を熱心に……(後略)』