改行による2パターンとなっています。最初は整形なしの素です。 ブラウザでご覧の方は、『ctrlキー+F』を押して出た検索窓に整形と入力して飛んでください。  「無じる真√N21」  袁紹軍本陣より、数十里離れた荒野に二つの集団がいる。そのうちの一つは、十文字と張の字が記された旗を掲げている少数の騎馬隊。もう一つは、深紅の呂旗を掲げているそれなりに数を揃えた騎馬隊だった。その二つの騎馬隊が向かい合うように鎮座している。  その中心で先程から二つの影が踊っている。それは、随分と長いこと続いていた。 「…………ふっ!」 「せいっ!」  方天画戟と飛龍偃月刀がぶつかり合い、金属音をあたりに響かせている。  もうかれこれ何百合程打ちあったのかわからない。ただ言えるのは、両者の戦いは誰にも侵すことは出来ないということである。 「…………はぁっ!」 「おっと! ぜぇ……はぁ、し、しんどくなってきたわ……っちゅうか、ウチからはぜんぜん攻められへんやないか……くそ」  息を荒げながら不満を垂れる霞。そして、その彼女の言葉はまさに現状を表していた。  先程から無表情を崩さないまま襲い来る呂布の猛撃を霞が受けるといったやり取りばかりを行っていて、彼女が攻勢に出るといったことがなくなってきていた。  霞が呂布の攻撃を裁きながらそのことにあせりを感じていると、一瞬呂布の方天戟が通常よりわずかに後ろへ下がった。  それを攻めどきか? と考えようとした瞬間、一層力のこもった一撃が襲いかかってきた。霞はそれを今まで通り飛龍刀で受ける。  が、その瞬間、通常よりも高い金属音を鳴らせながら呂布の一撃に込められた力、それによって発生した凄まじい勢いによって霞の体が後方へと飛ばされる。それは、呂布からそこそこの距離が離れてしまう程だった。  そんな体の勢いを何とか堪え、呂布との距離が空いた霞は呂布から目を離さすこともないまま、そっと先程呂布の一撃が掠めた脇腹に手を触れてみた。手に濡れた感触がした。 それを手に取り、僅かに視界に入れると手は真っ赤に染まっていた。  どうやら傷口が開き血が溢れてきているようだった。  そして、先程から続く何百合にも渡る打ち合いによって傷口からの出血は一層、促進され、それに合わせるように彼女の体力もまた、その消耗速度を幾分も早めていた。  そのことに内心、しまった、と思いながらも霞は飛龍刀の構えを解くことだけは絶対にしようとはしない。何故なら、構え続けることで闘う姿勢を相手に見せ続けることが出来る。そう信じているからだ。 「くそっ、こないなとこで……何もせんままやられて……たまるかっ!」  気合い一閃、ようやく呂布へ強力な一振りを浴びせることが出来た。  が、それもすぐに方天戟で軽く防がれてしまう。 「くそぉ、ウチじゃ、恋には勝てへんのかぁっ!」  さらに何度も何度も呂布に向かって飛龍刀による一撃を放つ。  上段からの振り下ろし。  飛龍刀を地と水平に保ちながらの払い。  意表を突くように放つ突き。  そのどれもを出来うる限りの速度で打ち出している。 「……………………」  だが、そのどれもが一言も発しない呂布によって弾かれていく。  霞自身、その理由には薄々気がついてはいるのだ。  正直、先程から霞は自分の体に力が入らなくなってきていると感じていたからだ。 「くくっ、ちょっと血ぃ流しすぎたんかな……恋が二人に見えてきたわ」  非常に不味い状態のはずだが不思議と気分は高揚している。思わず不適な笑みがこぼれてしまうほどに……。 「…………霞、このままだと……死ぬ。いいの?」 「あほ……ウチがそう簡単に……死んでたまるかい」  霞は、相変わらず無表情のまま呂布が掛けてきた声にツッコミをいれた。だが、それすらもキレがない。  実際のところ、霞の頭の中はまるでもやがかかったようにぼうっとした状態に陥りやすくなっていた。そのことに、霞は苦笑を漏らす。 (参ったで……こりゃ、血失いすぎたんやな……)  霞は先程から、あふれ出る汗を拭うこともせずただ呂布がいる方へと飛龍刀の切っ先を向けている。正直なところ、もう彼女にはそれしか出来ない。  霞にはもう余裕が無くなってきているのだ。 「…………」  そんな、霞を呂布はやはり無表情で見つめ返している。そして同じように切っ先を霞の方へと向けたまま動かない。  それから、どれだけ見つめ合っていただろか……ほんの僅かとも永久とも取れる時間だった。そんな時間が過ぎた頃、誰かの喉がゴクリとなった。  まるでそれを合図としたかのように両者ともに大地を踏み込み、そして地を蹴り、何かに弾かれたかのように前へと飛び出した。  両者の獲物の切っ先がキラリとした鈍い光りを放つ。その光の軌道を引き連れながら互いに相手へと向かって素早く舞った。  気がつけばもう日が昇りはじめ、その光が僅かに大地へ降り注ぎ始めている。  そんな中、詠は僅かに明るくなった大地を見下ろしていた。その視線の先には袁紹、呂布の連合軍の陣があった。日の光が差し始めているとは言え、まだほの暗い。だが、そんな中でも人の動く気配、そして、日の光に照らされている物見がその存在を強調している。それを見て詠は、一人静かに頷いた。 「狙いは合ってるわね……それじゃあ」  そう言って、詠は視線を向ける。発石車の基にいる兵士たちへと。 「狙いは合ってるわ。力加減もさっき行った通りよ。準備はいいわね?」  詠はそう言うと、すべての発石車をへと視線を巡らせる。その全てから肯定の返事が発せられたのを確認すると背を逸らし、手を高く上げる。そして、 「発石車、用意!」  詠の号令、それを受けた兵たちに緊張が走る。 「発射!」  詠は、そう叫ぶのと同時に手を振り下ろした。  そして、それに威勢よく返事をしながら兵たちは発石車の頂上から垂れ下がる紐状のものを力強く引き下ろした。  瞬間、兵たちと反対側にあった岩が風を切るように飛んでいった。  そして、それに続けと言わんばかりに次々と放たれていく。 「おぉ、これは凄いな!」 「ふむ、これは中々壮観な眺めだな」  そんな光景を見ながら、詠の横で兵たちを見守っていた華雄と星が感嘆の声を漏らす。  そんな二人に歩み寄りながら、詠は声を掛ける。 「当たり前じゃない。このボクが何度も調整を重ねて完成させたんだから」  ふふん、と自慢げに笑いながら詠は胸を反らした。 「しかし、詠の頭の良さというのは洛陽にいた頃から知っていたが、これ程のものだったとはな……正直、驚きだな」 「全くもって同感だな。よもやこのような物を作り上げるとは……」  二人の賞賛の言葉に、そうでしょそうでしょ、とますます自慢気になる詠。 「ところで、これは詠が思いついたものなのか?」  今気がついたという風に星が尋ねる。詠は自慢げに反らしていた胸を元に戻し、ぽつりと呟いた。 「これについて、言い出したのはアイツよ」 「ほぅ、一刀が思いついたのか」 「…………主が、か」  詠の返答を聞いた星が何か思案しはじめる。 「どうしたの?」 「む? いや、何か違和感がな……」 「違和感?」 「あぁ、今まで主は内政の面などで天の世界のものと思われる知識を幾度か披露してきたのだ……だが、どれもよくよく考えれば、詠のように知に優れた者ならば至ることの出来る物だった……だが、今回に関しては違う。我らではすぐに思いつけるようなものではない程、斬新な兵器を詠に教えた……それは、今までのものと比べ、知識の規模が異なるものと言えるだろう」  そこで、星が一呼吸入れる。それに合わすように詠も息をのんだ。 「そんな知識を詠に教えたと聞き、私には少し思うことがあってな。少し前、主は白蓮殿に一つの頼みを直訴した。かねてより主の指揮下に入っていた烏丸出身の兵たち、まぁ、詠も知っているとは思うが、そもそも主にしか扱えなかった故に指揮下に入れていた者たちのことだ。そんな彼ら烏丸族の兵を霞の隊に組み込むことが主の願いだった。正直なところ、主が組み込み以降の調練に立ち会い続けていたとは言え、非常に急なことだ。そのことと今回の事を合わせて考えると、私には主が何か急いているように思えて仕方がないのだ」  そこまで聞いて詠の中で星の言いたいことが明らかになった。  詠は思う、星の言うことはもっともであると、一刀の行動はどこか焦りを含んでいたようにも見えたと。  ただ、彼が顔や普段の様子にその焦りを全く出さなかったため、詠も気のせいだと思い気にしなくなり、そして忘れていった。  そのときのことが詠の中でふつふつと蘇ってきている。 「確かに、言われてみると慌ててたような気もするわね」  次第に、二人の顔が険しくなっていく。そんな二人を見ていた華雄が苦笑を浮かべた。 「ふ、それは確かに星の言う通りなのだろう」 「……あんたには分かるの?」 「まぁな、何だ? 二人ともわからんのか?」 「……」 「わからないようだな。ふふ」  黙り込む二人を見て、華雄がニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべる。  そして、わざとらしく咳払いをして語り始めた。 「一刀は、天の世界にある力なのか知らぬが先のことを知っていたのだろう?」 「あ、あぁ……その通りだ」  妙に自信ありげな華雄に戸惑いながら応える星。  詠も、その成り行きを黙って見守っている。 「ならば、簡単なことだ。恐らくこの戦いがあると知っていた。だからこそ、その準備として行っていたのだろう」 「成る程、華雄にしては説得力あるわね。ふふ」 「うむ、確かに華雄の言うことは理にかなっている」  華雄の言葉を聞き終わると、二人は気を緩めてほっと息をついた。  詠は、意外にもまともな推論を述べた華雄に内心感心していた。  同時に、彼女に対する内的評価を少し変えようかとも考えていた。 「……ん? 待て、私にしてはってどういう意味だ詠!」 「……別に深い意味はないわ。そう、所謂言葉の綾ってやつよ」 「おぉ、そうなのか。そうか、私の気にしすぎか」  すっかり納得している華雄を見ながら、詠は内的評価の変更は少し見送ろうと密かに決意していた。と、その時、星の呟きが詠の耳に入ってきた。 「ふふ、そうか……そうだな。きっと、私の考えすぎだろう」  その言葉に含まれる感情は詠にも分かる。何故なら、彼女もまた星と同じ思いを胸に覚えているから。 「……そうよ。そんなわけない、ないんだから」  詠がそう呟いたのが聞こえたのか、星と詠は目を合わせた。だが、特に言葉を交わすこともなく、黙って頷きあうだけだった。 (そう、まるで……あの馬鹿が自分の心残りをなくそうとしているみたいだなんて、ボクの思い過ごしに決まってるわよね)  未だ胸の内に残るもやもやを振り払うかのように頭を振ると、詠は発石車による攻撃に対する袁紹軍の反応を見るため、敵陣へと視線を移した。  現在袁紹軍は、公孫賛軍の夜襲、呂布軍の本陣通過に続き、三度、混乱の渦に巻き込まれていた。  多くの兵があちらこちらを行き交い叫び声をあげている。 「物見が次々と破壊されて――っ!」  周囲の者たちへと注意勧告をしている兵がその途中で落ちてきた破片に潰される。 「うわぁ、崩れた櫓が落ちてくるぞぉ!」 「に、逃げ――ぐぁぁ」  ある兵は、飛んできた岩によって破壊された物見櫓、その近くから逃げようとしたが落ちてきた櫓の下敷きとなった。  今、袁紹軍本陣は、まさに阿鼻叫喚、物見にいた兵はもちろん、付近にいた者たちまで巻き添えを受け、その多くが困惑していた。そんな中、顔良は必死に声を張っていた。 「みんな、落ち着いて! 落ち着いてー!」  顔良自身、その内心では驚きと恐怖が入り交じっている。だが、自分の立場上慌てるわけにもいかないとし、自軍の兵たちの動揺を沈めようと奔走していた。  そんな中、ぼぅっと突っ立ている二つの人影を見つけ、そちらへ駆け寄った。 「な、何ですの! そ、空から、空から岩が振ってきましたわ!」 「きっと、これは夢なんすよ麗羽さま。あはは、あはは、すげぇー!」  近寄ってみれば、そこにいたのは袁紹軍の頭首、袁紹、将軍の一人文醜だった。  軍の中枢を担う彼女たちもまた混乱しているようだ。  顔良は二人の様子に驚き、口を閉じそうになった、だが、首を左右に振って気を取り直し声をかける。 「二人とも落ち着いて! 文ちゃん、お願いだからみんなを落ち着かせるのを手伝ってよぉ! 麗羽さま、軍を率いる立場にある麗羽さまがそんな調子でどうするんですか!」 「斗詩は慌てんぼうだなぁ。これは夢なんだぞぉ。あはは」 「ちょっと文ちゃん!? これは夢じゃないんだってばぁ!」 「空から岩が振ってくるなんてあり得ませんわ……ですから、これは現実じゃないのですわよ。顔良さん」 「あーもう! 麗羽さまもしっかりしてくださいよぉー!」  どこか虚ろな目をする二人の肩を顔良は必死に揺らした。 「あぁ……これは本当に夢ではないのですわね」 「もしかして、天の御使いとかいうのが妖術でも使ったんすかねぇ……」  文醜の呟きに、袁紹がひっと息をのんだ。  二人がそんな会話している間にもいくつもの岩は飛んできている。  また一つの物見が破壊された。  それを見た顔良は慌てて、二人に説明をする。 「違うよ二人とも、飛んできた方角には公孫賛さんたちが立てこもってる易京城ある……だから恐らくこれは向こうの新兵器による攻撃であって、別に妖術ってわけ――え、えぇっ! きゃあっ!」  二人に説明してる最中も飛んでいた岩のうちの一つが物見を外れて、立ち止まって会話をしている三人の方へと勢いよく飛んできた。幸いにも近くへと落下しただけだった。  それでも、その光景を見ただけで顔良の顔に冷や汗が大量に溢れ出していた。  顔良は、滴る冷や汗を拭いながら袁紹に声を掛ける。 「と、取りあえず物見から離れましょう。麗羽さま」 「そ、そうですわね……急ぎますわよ、文醜さん」 「ひぃえええ! い、岩、この野郎、こっち来んなよ、絶対来んなよぉー!」  三人は、雨のように降る岩々を避けるようにひたすら駆ける。  それに気づいた兵たちが集まりはじめ、袁紹たちに続くように三人の後ろを駆けはじめている。そうして一塊となった集団が走っている間も岩が風を切って飛んでいる音があちこちから聞こえていた。  それに加え、岩が何かにぶつかったと思われる打撃音や未だ混乱している兵たちの悲鳴などがあちこちからあがっている。  それらを耳にしながら彼女たちは全力で陣内をかけ続けた。  突然の予想外な攻撃、それからどれ程経っただろうか。  現在、物見櫓の付近や延長線上から離れた位置にある、少数の天幕、そのうちの一つの中で、残存兵たちと別れて入った袁紹たち三人が固まってやり過ごしていた。  しばらくじっとしていると、ずっと続いていた岩が空をさきながらあちらこちらを破壊している音が止んだ。そのことに気づいた顔良は、様子を見ようと天幕から外へと恐る恐る踏み出した。 「え、うそ……うそっ!」  そこには、物見櫓の殆どが破壊され流れ弾となった岩によって、ところどころを破壊され、滅茶苦茶にされた本陣――という光景が広がっていた。 「もう、大丈夫なのか斗詩……って、こりゃひどいな……」 「なんですの二人とも――ちょ、ちょっと、なんですのこれは!」  後から続いて出てきた二人も驚きの声を上げる。顔良は、本陣の凄惨な光景に呆然としていたが、二人の声を聞いてようやく正気に戻った。 「はっ! ど、どうしよう……そうだ、とりあえず被害の確認をしなきゃ。それに作戦の変更もしないと」  そう判断すると、顔良はちょうど他の天幕から出てきた兵を呼び止め、被害の確認を兵たち内で分担して行うよう命じて、再び幕舎へと向かい、この被害を受けたことも考慮に入れたうえで、作戦の練り直しを計ることにした。  闇に薄明かりが差し込む中、素早く動き回る二つの影。  その影の間を金属が擦れあうような音が何度も飛びかっている。  一つの影が力強く方天戟を振り抜く。  それを受けるもう一つの影が揺らぐ。  だが、揺らいだ影は両脚で大地を踏みしめ堪える。  そのまま体勢を持ち直すやいなや、飛龍刀による素早い一閃を放つ。  それをよけるように影は後方へ下がる。  そして、距離を取った後、向き合った二つの影がにらみ合う。  どちらも動くこの無いまま、しばしの刻が経つ。  その場を風が抜き抜けた。  瞬間、二つの影は大地を蹴り、飛ぶように前進した。  影たちは交錯し合い、風を切る音をさせた後、再び別れた。  別れ、背を向け合うように立つ影。  その片方が、姿勢をがくりと崩し、大地に膝を突いた。 「ぐっ……やるやないか、恋」 「…………霞、もう動けない」 「そら……どうやろうな?」  霞は、そう言う呂布に笑みを浮かべてみせた。だが、それが引きつったものであるのは明らかだった。その上、霞の全身を滝のようにだらだらと滴る汗が彼女の異常を知らせていた。  そんな霞をただただじっと見つめながら呂布がゆっくりと歩み寄る。一歩、また一歩と踏み込む呂布。着実に二人の距離は縮まっていく。  そして、呂布の方天戟の射程範囲に霞が入ったところで一刀は我慢の限界を迎えた。 「もう、もういい……」  一刀が兵たちの中から歩み出る。 「よく頑張ったな……霞」 「あっ、一刀――痛っ、あんたは、来たらあかん」  霞は周りを囲む人の群れから彼女に向かって歩み寄る一刀に対して来るなという意思を込めて手を突き出した。だが、彼はそれを無視して黙々と歩みを続ける。立ち止まる素振りは全くない。  そして一刀は、とうとう霞と呂布の間に立った。それは皮肉にも、先程の光景とよく似ていた。霞と一刀の位置を覗けばほとんどそのままである。  そう、先程は一刀を護ろうと霞が間に立った。だが、今度は一刀が間に立っている。霞を護るために。 「駄……目や一刀、恋は容赦なくあんたを……切り捨てるで」 「……霞、良く聞いてくれ」  背にしがみついてきた霞の方を向いて一刀は、彼女のみに聞こえるように呟いた。 「きっと、もう誰にも呂布を説得できないと思う……だから……さ、悪いんだけど、俺の代わりに詠に謝っといてくれないか?」  一刀はそう言いながら苦笑を浮かべ頬を指でかいた。  それを受けてなのか背中に感じる霞の体がぴくりと動いた。どうやら、彼女は一刀の言いたいことを察したようだ。 「ま、待ちいな……一刀、それはあかん、それだけは……」 「ごめん、俺は何があっても彼女に霞を――討たせたくないんだ」  それだけ言うと一刀は近くにいた兵に霞を預けた。そして、呂布の方へと振り返る。 「悪い、待たせたな」 「……………………一体、何?」  一連の流れを黙って見ていた呂布が訝しげに一刀を見つめてくる。  その様子に、空笑いをしながら一刀は呂布へ質問を投げかけた。 「なぁ……もし、俺が"月は生きてる"って言ったら信じるか?」 「…………証がある?」 「いや、証明するものは――ないよ」  そう言いながらも念のため、体中まさぐってみたがやはり無かった。 「なら…………駄目」 「そっか、そうだよな……はぁ、仕方ない覚悟を決めるか」  重々しくそう告げると、一刀はその場に両膝をつき、両手で勢いよく学生服の前を開けた。勢いよく開いた服を持つ指から始まり手から肩までと、腕全体にかけて先程から震え続けている。  そんな怯えを隠すように一刀は呂布を――呂布だけを見つめる。 「証明できない以上、この場は収まらない。なら……俺の首を差し出すよ」 「あかん、それだけは、それだけは駄目やぁー!」  遠くで霞の声がする。兵にはよく抑えておくように言ってあるから邪魔は出来ないだろう。それ以前に今の彼女がまともに動けるとも思えないが――そんなことを冷静に考えながら一刀は呂布を見つめ、彼女の反応を待ち続ける。 「…………」  呂布、その顔は一切感情を感じさせない無表情を浮かべている。一刀を見つめるその瞳も冷たいものだ。 「ん?」  視線が完全に交わった瞬間、呂布の瞳が僅かに揺れたように一刀は感じた。  だが、それも文字通り一瞬のことで、すぐ元の冷たいものへと変わった。そのため、一刀は見間違いだろうとして気にしないことにした。  一刀は、震えそうになる声を腹に力を込め力強い声を出すようにして抑えながら呂布に声を掛けた。 「あ、あのさ、一ついいかな?」 「…………」  ただ黙ってコクリと頷く呂布を見て、肯定と判断した一刀は首を出したまま一つの願い出を始めた。 「俺の首をとったらさ……君が袁紹たちに協力する理由はなくなるんだよな?」 「…………」  再び呂布が頷く。 「そうか、やっぱりそうなんだな。ならさ、一つ頼めないかな?」 「…………?」  呂布が不思議そうに首を傾げる。その姿がどこか場に似合っていないように思え自然とこぼれそうになる笑みを一刀は必死に堪えた。  そして、気を引き締め直すと真剣な瞳で呂布を射貫くように見つめる。 「この際だ、俺はもうどうにでもしていい。でも、俺の処分が終わったら……霞に協力して上げて欲しい。そして、公孫賛軍を救ってくれ」 「…………」  呂布は特に返事もなく黙ったまま一刀を見つめている。その瞳にとらわれた一刀は僅かに顔を強張らせ、ごくりと唾を飲み込んだ。 「………………わかった」  長い沈黙の後、呂布はそう答えた。  了承の言葉を引き出すことが出来た一刀は安堵のため息をついた。  一刀は、死を前にしながらも不思議と自然で柔らかな笑みを浮かべることが出来た。 「そうか……ありがとう」  どこか自然体になりつつある自分に驚きながらも落ち着いた声でそれだけ言うと、一刀は瞳をそっと閉じた。  陽も大分高くなってきた頃、易京ではついに守城戦の火ぶたが切って落とされた。 「さぁ、呂布軍の皆さん! ちゃきちゃき攻めるのですわ!」  袁紹の言葉に従い呂布軍の前衛が城壁にとりつきはじめた。  公孫賛軍もそれを黙って見ているわけではない。 「いい、城壁の高さ的には上ってこれるはずはないと思うけど、一応檑を各種準備しておきなさい!」  詠と同じように、敵の様子を伺っている兵にそう伝えると、詠は敵の様子を探るのに集中しだした。そんな彼女に華雄が声をかけてきた。 「詠。そんなに慌てることもないだろう……この城壁は見た限り最高級の防衛力を持っていると私には思えるのだ」 「そんなのボクだって知ってるわよ。ただ、この城壁がいくら強固だっていっても油断はするべきじゃないわ。敵は兵糧の残りが少ない以上、必死になって攻め立ててくるでしょうから……思いも寄らない策を投じてくる可能性だってあるわ」  だからこそ、万全の準備を怠らず敵の動向に目を光らせる必要がある。詠はそう考えている。正直なところ彼女もこの易京の城壁の防衛力は相当なものであると思っていた。  だが、こういった堅固な守りは時として人の心の守りを弱めることがある。  堅固な守りに頼りきりになって警戒を緩め、すっかり油断しきったころを思わぬ攻略法によって守りを破った敵に討たれてしまう。  それこそ、堅固な守りで身の安全を手に入れたときに一番恐れなければならないことであると詠は考えている。  だからこそ、彼女は相手の動きを見続ける。  何かを見落とさないために……すると、 「何かしら、奥の袁紹軍から誰か出てくるわね……何かしら?」  小隊を引き連れた人影が何とか城壁を登らんとして四苦八苦する呂布軍がたむろする後ろまで出てきていた。  よく目をこらす。そこにいたのは文醜だった。  情報によれば先程華雄が交戦した相手でもあるという。そんな彼女が一体何を、と詠が思うのとほぼ同時に文醜が声をあげた。 「おい華雄! さっきの決着をつけようぜ! あたいとあんた、本当に強いのはどっちか気になんだろう?」  詠はすぐに、こちらから城門を開かせるつもりなのだと理解した。  そして、傍にいる華雄へ視線を向けた。彼女は笑っていた。 「くく、愉快なものだな。喚く人間を見下ろすと言うのは……はっはっは」 「ど、どうやら今回は大丈夫そうね」  華雄には前科があった。そのため、詠は華雄のことが非常に不安――もとい心配でならなかったのだが、どうやら杞憂であったらしくほっと胸をなで下ろした。  それからも文醜が長いこと声を掛けてくるが華雄は愉快そうにそれを無視していた。その姿を見て、こらえ性がついたのだろうかと詠は感心していた。  しばらく反応がなかったからか文醜の声が止んだ。と思ったがそれは一瞬の事だった。  文醜が再び呼びかけを始めた。 「どうした華雄! 臆病風に吹かれたのか? 弱虫華雄、くやしかったら出てきやがれってんだー!」  それは先程までとは、質が異なるものだった。あきらかに華雄を挑発している。  それに対しても華雄はぴくりとも動かない。  その後も文醜は、何度も何度も罵声をあげている。  だが、華雄にはもう通じない。そう思いながら詠は華雄の方を向いた。 「むむむむむ……許せん! おのれ文醜めぇ!」 「ちょ、ちょっと……華雄!」 「離せ! もう我慢ならん! ちょっと出て奴を叩き斬ってくる!」 「止めなさいって、あぁもう! 星、あんたも笑ってないで手伝いなさいよ!」  さすがに抑えきれないと判断した詠は、先程から成り行きを黙って見守り今も微笑を浮かべこちらを見つめている星に声を掛けた。 「ふむ、ならば縛るか?」 「この際何でも良いわよ。大人しくさせて」 「うむ、まかされよ!」  それだけ言うと星はどこからか出した縄で華雄の体を縛り上げた。 「なんか、形がおかしくない?」 「そうだろうか……いや、これは趙子龍特性の縛り方だからな。一般のそれとは異なるものではあるだろう。ふふふ」  詠はその言葉を聞いて、何故星は普通と異なる縛り方を覚えているのか気になったが聞くのは怖いので聞き流すことにした。 「ぬぉー離せぇ! んぁっ、こ、これ縄が……うわっそ、そこは、んくっ!」 「うむ、やはり我が縛りは中々に……ふふ」  縛られ悶える華雄と不適に笑う星、そんな二人から目をそらし、詠は袁紹軍へ目を向けた。そして、袁紹軍は次にどんな手を打ってくるのだろうか……などと考えて二人の事を意識から遠のかせようと模索するのだった。。  地平線より顔を覗かせる程度だった太陽も、今はその高度をさらに上げて戦場を照らし出していた。  そんな中、日の光を受ける二つの人影が向かい合っている。  現在、二人から少し離れ兵たちの中に紛れている霞の瞳が捉えることが出来るのはそこまでだった。  通常時ならば、余裕で見えていただろう。  だが、出血多量により目が霞んでしまっている今の彼女の瞳では二人の姿すらはっきりとは見えなくなっている。 「…………それじゃあ」  呂布が、抑揚なくそう呟いた。そして呂布らしき人影は、おそらく方天戟であろうものを構えた。  その瞬間、二人の成り行きを見守るためなのか、はたまた恐怖のためか、先程からほとんど動かないままでいる兵たちの息をのむ音が霞の耳に入った。  そのまま誰一人として一言も発しなくなった。それこそ、この場にいる誰一人呼吸すらもしていないかのように。  そんな沈黙に一層、不安を掻き立てられた霞は、たった一人、呂布に向かって声を張り上げた。 「だめや、恋! そいつを、一刀を助けたってぇな。えぇか、あかんのや……もし、それしたら、あんたは絶対後悔することになるっ! せやから、やめてぇな。ホンマに頼む……恋っ!」  誰もが、それこそ当人である呂布と一刀までもが黙りこんでいる中、霞は必死に声を発し続けた。 「恋、お願いや! それだけは、それだけは……」 「…………首をもらう」  霞の言葉が聞こえていないのではと思えるほどに呂布は無反応だった。 「恋っ! 聞こえへんのか! 恋ーっ!」 「やっぱり、俺にはこれしか思いつかなかった……ごめん、みんな」  何度も、恋に呼びかける中、一刀が誰にともなく口にしたその言葉を霞の耳はしっかりと聞いた。 「!?……一刀」  瞬間、死を目前にしてなお、他者のことだけを考えているのかあの阿呆は、と霞は呆れと怒りを同時に感じるという奇妙な気分になった。また、それと同時に彼女の瞳から透明の滴がすっと流れ出た。  そして、霞の頬を伝ったその滴が大地に落ち、染みこんだとき、彼女は何かが動こうとする気配を感じた。  そして、実際に呂布らしき人影が大地を踏みしめた。だが、その音は霞の耳には届かなかった。何故なら、今、霞の耳に入ってくる音の大部分は、彼女自身の心音と一層声量を大きくした嘆願の叫び、そして、いつの間にか霞と同じように涙している兵たちの嗚咽によって占められているからだった。  そして、音を聞き取れなくなった代わりとばかりに、霞は瞳を精一杯見開いた。  太陽の光による逆行と涙、そして霞目によって機能低下している彼女の視界は一刀と呂布の姿を朧気ながらもとらえた。 「恋! 頼む、やめてぇな! なぁ、聞いとるんかぁー恋っ!」  声が出なくなっても構わないとばかりに霞は叫び続ける。  兵たちも堪えきれなくなったのだろう、嘆願の声を上げ始めた。  そんな中、白い服を着た霞にとって大切な存在――その人影に一つの影が吸い込まれていくのが彼の背中越しに見えた。  そして……その白い人影は後ろへと倒れた。  瞬間、霞は瞼を閉じ、その光景を視界から消した。それでも涙だけは溢れ続ける。  また、それと同時に兵たちの嘆願の声が止んだ。そして場に沈黙が訪れる。  だが、それも一瞬のことだった。  その一瞬で、霞の瞳が捉えた光景を彼女の脳が理解し、それまで発していた嘆願の声から悲鳴にも似た慟哭へと、その叫びを変え、再び場を包み込んだのだ。 「い、いやや……嘘や……嘘やこんなん……嘘やぁー!」  そんな霞の叫びは、ただ辺りへと空しく響き渡るだけだった。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 整形版はここからです。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  「無じる真√N21」  袁紹軍本陣より、数十里離れた荒野に二つの集団がいる。そのうちの一つは、十文字と 張の字が記された旗を掲げている少数の騎馬隊。もう一つは、深紅の呂旗を掲げているそ れなりに数を揃えた騎馬隊だった。その二つの騎馬隊が向かい合うように鎮座している。  その中心で先程から二つの影が踊っている。それは、随分と長いこと続いていた。 「…………ふっ!」 「せいっ!」  方天画戟と飛龍偃月刀がぶつかり合い、金属音をあたりに響かせている。  もうかれこれ何百合程打ちあったのかわからない。ただ言えるのは、両者の戦いは誰に も侵すことは出来ないということである。 「…………はぁっ!」 「おっと! ぜぇ……はぁ、し、しんどくなってきたわ……っちゅうか、ウチからはぜん ぜん攻められへんやないか……くそ」  息を荒げながら不満を垂れる霞。そして、その彼女の言葉はまさに現状を表していた。  先程から無表情を崩さないまま襲い来る呂布の猛撃を霞が受けるといったやり取りばか りを行っていて、彼女が攻勢に出るといったことがなくなってきていた。  霞が呂布の攻撃を裁きながらそのことにあせりを感じていると、一瞬呂布の方天戟が通 常よりわずかに後ろへ下がった。  それを攻めどきか? と考えようとした瞬間、一層力のこもった一撃が襲いかかってき た。霞はそれを今まで通り飛龍刀で受ける。  が、その瞬間、通常よりも高い金属音を鳴らせながら呂布の一撃に込められた力、それ によって発生した凄まじい勢いによって霞の体が後方へと飛ばされる。それは、呂布から そこそこの距離が離れてしまう程だった。  そんな体の勢いを何とか堪え、呂布との距離が空いた霞は呂布から目を離さすこともな いまま、そっと先程呂布の一撃が掠めた脇腹に手を触れてみた。手に濡れた感触がした。  それを手に取り、僅かに視界に入れると手は真っ赤に染まっていた。  どうやら傷口が開き血が溢れてきているようだった。  そして、先程から続く何百合にも渡る打ち合いによって傷口からの出血は一層、促進さ れ、それに合わせるように彼女の体力もまた、その消耗速度を幾分も早めていた。  そのことに内心、しまった、と思いながらも霞は飛龍刀の構えを解くことだけは絶対に しようとはしない。何故なら、構え続けることで闘う姿勢を相手に見せ続けることが出来 る。そう信じているからだ。 「くそっ、こないなとこで……何もせんままやられて……たまるかっ!」  気合い一閃、ようやく呂布へ強力な一振りを浴びせることが出来た。  が、それもすぐに方天戟で軽く防がれてしまう。 「くそぉ、ウチじゃ、恋には勝てへんのかぁっ!」  さらに何度も何度も呂布に向かって飛龍刀による一撃を放つ。  上段からの振り下ろし。  飛龍刀を地と水平に保ちながらの払い。  意表を突くように放つ突き。  そのどれもを出来うる限りの速度で打ち出している。 「……………………」  だが、そのどれもが一言も発しない呂布によって弾かれていく。  霞自身、その理由には薄々気がついてはいるのだ。  正直、先程から霞は自分の体に力が入らなくなってきていると感じていたからだ。 「くくっ、ちょっと血ぃ流しすぎたんかな……恋が二人に見えてきたわ」  非常に不味い状態のはずだが不思議と気分は高揚している。思わず不適な笑みがこぼれ てしまうほどに……。 「…………霞、このままだと……死ぬ。いいの?」 「あほ……ウチがそう簡単に……死んでたまるかい」  霞は、相変わらず無表情のまま呂布が掛けてきた声にツッコミをいれた。だが、それす らもキレがない。  実際のところ、霞の頭の中はまるでもやがかかったようにぼうっとした状態に陥りやす くなっていた。そのことに、霞は苦笑を漏らす。 (参ったで……こりゃ、血失いすぎたんやな……)  霞は先程から、あふれ出る汗を拭うこともせずただ呂布がいる方へと飛龍刀の切っ先を 向けている。正直なところ、もう彼女にはそれしか出来ない。  霞にはもう余裕が無くなってきているのだ。 「…………」  そんな、霞を呂布はやはり無表情で見つめ返している。そして同じように切っ先を霞の 方へと向けたまま動かない。  それから、どれだけ見つめ合っていただろか……ほんの僅かとも永久とも取れる時間だ った。そんな時間が過ぎた頃、誰かの喉がゴクリとなった。  まるでそれを合図としたかのように両者ともに大地を踏み込み、そして地を蹴り、何か に弾かれたかのように前へと飛び出した。  両者の獲物の切っ先がキラリとした鈍い光りを放つ。その光の軌道を引き連れながら互 いに相手へと向かって素早く舞った。  気がつけばもう日が昇りはじめ、その光が僅かに大地へ降り注ぎ始めている。  そんな中、詠は僅かに明るくなった大地を見下ろしていた。その視線の先には袁紹、呂 布の連合軍の陣があった。日の光が差し始めているとは言え、まだほの暗い。だが、そん な中でも人の動く気配、そして、日の光に照らされている物見がその存在を強調している。 それを見て詠は、一人静かに頷いた。 「狙いは合ってるわね……それじゃあ」  そう言って、詠は視線を向ける。発石車の基にいる兵士たちへと。 「狙いは合ってるわ。力加減もさっき行った通りよ。準備はいいわね?」  詠はそう言うと、すべての発石車をへと視線を巡らせる。その全てから肯定の返事が発 せられたのを確認すると背を逸らし、手を高く上げる。そして、 「発石車、用意!」  詠の号令、それを受けた兵たちに緊張が走る。 「発射!」  詠は、そう叫ぶのと同時に手を振り下ろした。  そして、それに威勢よく返事をしながら兵たちは発石車の頂上から垂れ下がる紐状のも のを力強く引き下ろした。  瞬間、兵たちと反対側にあった岩が風を切るように飛んでいった。  そして、それに続けと言わんばかりに次々と放たれていく。 「おぉ、これは凄いな!」 「ふむ、これは中々壮観な眺めだな」  そんな光景を見ながら、詠の横で兵たちを見守っていた華雄と星が感嘆の声を漏らす。  そんな二人に歩み寄りながら、詠は声を掛ける。 「当たり前じゃない。このボクが何度も調整を重ねて完成させたんだから」  ふふん、と自慢げに笑いながら詠は胸を反らした。 「しかし、詠の頭の良さというのは洛陽にいた頃から知っていたが、これ程のものだった とはな……正直、驚きだな」 「全くもって同感だな。よもやこのような物を作り上げるとは……」  二人の賞賛の言葉に、そうでしょそうでしょ、とますます自慢気になる詠。 「ところで、これは詠が思いついたものなのか?」  今気がついたという風に星が尋ねる。詠は自慢げに反らしていた胸を元に戻し、ぽつり と呟いた。 「これについて、言い出したのはアイツよ」 「ほぅ、一刀が思いついたのか」 「…………主が、か」  詠の返答を聞いた星が何か思案しはじめる。 「どうしたの?」 「む? いや、何か違和感がな……」 「違和感?」 「あぁ、今まで主は内政の面などで天の世界のものと思われる知識を幾度か披露してきた のだ……だが、どれもよくよく考えれば、詠のように知に優れた者ならば至ることの出来 る物だった……だが、今回に関しては違う。我らではすぐに思いつけるようなものではな い程、斬新な兵器を詠に教えた……それは、今までのものと比べ、知識の規模が異なるも のと言えるだろう」  そこで、星が一呼吸入れる。それに合わすように詠も息をのんだ。 「そんな知識を詠に教えたと聞き、私には少し思うことがあってな。少し前、主は白蓮殿 に一つの頼みを直訴した。かねてより主の指揮下に入っていた烏丸出身の兵たち、まぁ、 詠も知っているとは思うが、そもそも主にしか扱えなかった故に指揮下に入れていた者た ちのことだ。そんな彼ら烏丸族の兵を霞の隊に組み込むことが主の願いだった。正直なと ころ、主が組み込み以降の調練に立ち会い続けていたとは言え、非常に急なことだ。その ことと今回の事を合わせて考えると、私には主が何か急いているように思えて仕方がない のだ」  そこまで聞いて詠の中で星の言いたいことが明らかになった。  詠は思う、星の言うことはもっともであると、一刀の行動はどこか焦りを含んでいたよ うにも見えたと。  ただ、彼が顔や普段の様子にその焦りを全く出さなかったため、詠も気のせいだと思い 気にしなくなり、そして忘れていった。  そのときのことが詠の中でふつふつと蘇ってきている。 「確かに、言われてみると慌ててたような気もするわね」  次第に、二人の顔が険しくなっていく。そんな二人を見ていた華雄が苦笑を浮かべた。 「ふ、それは確かに星の言う通りなのだろう」 「……あんたには分かるの?」 「まぁな、何だ? 二人ともわからんのか?」 「……」 「わからないようだな。ふふ」  黙り込む二人を見て、華雄がニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべる。  そして、わざとらしく咳払いをして語り始めた。 「一刀は、天の世界にある力なのか知らぬが先のことを知っていたのだろう?」 「あ、あぁ……その通りだ」  妙に自信ありげな華雄に戸惑いながら応える星。  詠も、その成り行きを黙って見守っている。 「ならば、簡単なことだ。恐らくこの戦いがあると知っていた。だからこそ、その準備と して行っていたのだろう」 「成る程、華雄にしては説得力あるわね。ふふ」 「うむ、確かに華雄の言うことは理にかなっている」  華雄の言葉を聞き終わると、二人は気を緩めてほっと息をついた。  詠は、意外にもまともな推論を述べた華雄に内心感心していた。  同時に、彼女に対する内的評価を少し変えようかとも考えていた。 「……ん? 待て、私にしてはってどういう意味だ詠!」 「……別に深い意味はないわ。そう、所謂言葉の綾ってやつよ」 「おぉ、そうなのか。そうか、私の気にしすぎか」  すっかり納得している華雄を見ながら、詠は内的評価の変更は少し見送ろうと密かに決 意していた。と、その時、星の呟きが詠の耳に入ってきた。 「ふふ、そうか……そうだな。きっと、私の考えすぎだろう」  その言葉に含まれる感情は詠にも分かる。何故なら、彼女もまた星と同じ思いを胸に覚 えているから。 「……そうよ。そんなわけない、ないんだから」  詠がそう呟いたのが聞こえたのか、星と詠は目を合わせた。だが、特に言葉を交わすこ ともなく、黙って頷きあうだけだった。 (そう、まるで……あの馬鹿が自分の心残りをなくそうとしているみたいだなんて、ボク の思い過ごしに決まってるわよね)  未だ胸の内に残るもやもやを振り払うかのように頭を振ると、詠は発石車による攻撃に 対する袁紹軍の反応を見るため、敵陣へと視線を移した。  現在袁紹軍は、公孫賛軍の夜襲、呂布軍の本陣通過に続き、三度、混乱の渦に巻き込ま れていた。  多くの兵があちらこちらを行き交い叫び声をあげている。 「物見が次々と破壊されて――っ!」  周囲の者たちへと注意勧告をしている兵がその途中で落ちてきた破片に潰される。 「うわぁ、崩れた櫓が落ちてくるぞぉ!」 「に、逃げ――ぐぁぁ」  ある兵は、飛んできた岩によって破壊された物見櫓、その近くから逃げようとしたが落 ちてきた櫓の下敷きとなった。  今、袁紹軍本陣は、まさに阿鼻叫喚、物見にいた兵はもちろん、付近にいた者たちまで 巻き添えを受け、その多くが困惑していた。そんな中、顔良は必死に声を張っていた。 「みんな、落ち着いて! 落ち着いてー!」  顔良自身、その内心では驚きと恐怖が入り交じっている。だが、自分の立場上慌てるわ けにもいかないとし、自軍の兵たちの動揺を沈めようと奔走していた。  そんな中、ぼぅっと突っ立ている二つの人影を見つけ、そちらへ駆け寄った。 「な、何ですの! そ、空から、空から岩が振ってきましたわ!」 「きっと、これは夢なんすよ麗羽さま。あはは、あはは、すげぇー!」  近寄ってみれば、そこにいたのは袁紹軍の頭首、袁紹、将軍の一人文醜だった。  軍の中枢を担う彼女たちもまた混乱しているようだ。  顔良は二人の様子に驚き、口を閉じそうになった、だが、首を左右に振って気を取り直 し声をかける。 「二人とも落ち着いて! 文ちゃん、お願いだからみんなを落ち着かせるのを手伝ってよ ぉ! 麗羽さま、軍を率いる立場にある麗羽さまがそんな調子でどうするんですか!」 「斗詩は慌てんぼうだなぁ。これは夢なんだぞぉ。あはは」 「ちょっと文ちゃん!? これは夢じゃないんだってばぁ!」 「空から岩が振ってくるなんてあり得ませんわ……ですから、これは現実じゃないのです わよ。顔良さん」 「あーもう! 麗羽さまもしっかりしてくださいよぉー!」  どこか虚ろな目をする二人の肩を顔良は必死に揺らした。 「あぁ……これは本当に夢ではないのですわね」 「もしかして、天の御使いとかいうのが妖術でも使ったんすかねぇ……」  文醜の呟きに、袁紹がひっと息をのんだ。  二人がそんな会話している間にもいくつもの岩は飛んできている。  また一つの物見が破壊された。  それを見た顔良は慌てて、二人に説明をする。 「違うよ二人とも、飛んできた方角には公孫賛さんたちが立てこもってる易京城ある…… だから恐らくこれは向こうの新兵器による攻撃であって、別に妖術ってわけ――え、えぇ っ! きゃあっ!」  二人に説明してる最中も飛んでいた岩のうちの一つが物見を外れて、立ち止まって会話 をしている三人の方へと勢いよく飛んできた。幸いにも近くへと落下しただけだった。  それでも、その光景を見ただけで顔良の顔に冷や汗が大量に溢れ出していた。  顔良は、滴る冷や汗を拭いながら袁紹に声を掛ける。 「と、取りあえず物見から離れましょう。麗羽さま」 「そ、そうですわね……急ぎますわよ、文醜さん」 「ひぃえええ! い、岩、この野郎、こっち来んなよ、絶対来んなよぉー!」  三人は、雨のように降る岩々を避けるようにひたすら駆ける。  それに気づいた兵たちが集まりはじめ、袁紹たちに続くように三人の後ろを駆けはじめ ている。そうして一塊となった集団が走っている間も岩が風を切って飛んでいる音があち こちから聞こえていた。  それに加え、岩が何かにぶつかったと思われる打撃音や未だ混乱している兵たちの悲鳴 などがあちこちからあがっている。  それらを耳にしながら彼女たちは全力で陣内をかけ続けた。  突然の予想外な攻撃、それからどれ程経っただろうか。  現在、物見櫓の付近や延長線上から離れた位置にある、少数の天幕、そのうちの一つの 中で、残存兵たちと別れて入った袁紹たち三人が固まってやり過ごしていた。  しばらくじっとしていると、ずっと続いていた岩が空をさきながらあちらこちらを破壊 している音が止んだ。そのことに気づいた顔良は、様子を見ようと天幕から外へと恐る恐 る踏み出した。 「え、うそ……うそっ!」  そこには、物見櫓の殆どが破壊され流れ弾となった岩によって、ところどころを破壊さ れ、滅茶苦茶にされた本陣――という光景が広がっていた。 「もう、大丈夫なのか斗詩……って、こりゃひどいな……」 「なんですの二人とも――ちょ、ちょっと、なんですのこれは!」  後から続いて出てきた二人も驚きの声を上げる。顔良は、本陣の凄惨な光景に呆然とし ていたが、二人の声を聞いてようやく正気に戻った。 「はっ! ど、どうしよう……そうだ、とりあえず被害の確認をしなきゃ。それに作戦の 変更もしないと」  そう判断すると、顔良はちょうど他の天幕から出てきた兵を呼び止め、被害の確認を兵 たち内で分担して行うよう命じて、再び幕舎へと向かい、この被害を受けたことも考慮に 入れたうえで、作戦の練り直しを計ることにした。  闇に薄明かりが差し込む中、素早く動き回る二つの影。  その影の間を金属が擦れあうような音が何度も飛びかっている。  一つの影が力強く方天戟を振り抜く。  それを受けるもう一つの影が揺らぐ。  だが、揺らいだ影は両脚で大地を踏みしめ堪える。  そのまま体勢を持ち直すやいなや、飛龍刀による素早い一閃を放つ。  それをよけるように影は後方へ下がる。  そして、距離を取った後、向き合った二つの影がにらみ合う。  どちらも動くこの無いまま、しばしの刻が経つ。  その場を風が抜き抜けた。  瞬間、二つの影は大地を蹴り、飛ぶように前進した。  影たちは交錯し合い、風を切る音をさせた後、再び別れた。  別れ、背を向け合うように立つ影。  その片方が、姿勢をがくりと崩し、大地に膝を突いた。 「ぐっ……やるやないか、恋」 「…………霞、もう動けない」 「そら……どうやろうな?」  霞は、そう言う呂布に笑みを浮かべてみせた。だが、それが引きつったものであるのは 明らかだった。その上、霞の全身を滝のようにだらだらと滴る汗が彼女の異常を知らせて いた。  そんな霞をただただじっと見つめながら呂布がゆっくりと歩み寄る。一歩、また一歩と 踏み込む呂布。着実に二人の距離は縮まっていく。  そして、呂布の方天戟の射程範囲に霞が入ったところで一刀は我慢の限界を迎えた。 「もう、もういい……」  一刀が兵たちの中から歩み出る。 「よく頑張ったな……霞」 「あっ、一刀――痛っ、あんたは、来たらあかん」  霞は周りを囲む人の群れから彼女に向かって歩み寄る一刀に対して来るなという意思を 込めて手を突き出した。だが、彼はそれを無視して黙々と歩みを続ける。立ち止まる素振 りは全くない。  そして一刀は、とうとう霞と呂布の間に立った。それは皮肉にも、先程の光景とよく似 ていた。霞と一刀の位置を覗けばほとんどそのままである。  そう、先程は一刀を護ろうと霞が間に立った。だが、今度は一刀が間に立っている。霞 を護るために。 「駄……目や一刀、恋は容赦なくあんたを……切り捨てるで」 「……霞、良く聞いてくれ」  背にしがみついてきた霞の方を向いて一刀は、彼女のみに聞こえるように呟いた。 「きっと、もう誰にも呂布を説得できないと思う……だから……さ、悪いんだけど、俺の 代わりに詠に謝っといてくれないか?」  一刀はそう言いながら苦笑を浮かべ頬を指でかいた。  それを受けてなのか背中に感じる霞の体がぴくりと動いた。どうやら、彼女は一刀の言 いたいことを察したようだ。 「ま、待ちいな……一刀、それはあかん、それだけは……」 「ごめん、俺は何があっても彼女に霞を――討たせたくないんだ」  それだけ言うと一刀は近くにいた兵に霞を預けた。そして、呂布の方へと振り返る。 「悪い、待たせたな」 「……………………一体、何?」  一連の流れを黙って見ていた呂布が訝しげに一刀を見つめてくる。  その様子に、空笑いをしながら一刀は呂布へ質問を投げかけた。 「なぁ……もし、俺が"月は生きてる"って言ったら信じるか?」 「…………証がある?」 「いや、証明するものは――ないよ」  そう言いながらも念のため、体中まさぐってみたがやはり無かった。 「なら…………駄目」 「そっか、そうだよな……はぁ、仕方ない覚悟を決めるか」  重々しくそう告げると、一刀はその場に両膝をつき、両手で勢いよく学生服の前を開け た。勢いよく開いた服を持つ指から始まり手から肩までと、腕全体にかけて先程から震え 続けている。  そんな怯えを隠すように一刀は呂布を――呂布だけを見つめる。 「証明できない以上、この場は収まらない。なら……俺の首を差し出すよ」 「あかん、それだけは、それだけは駄目やぁー!」  遠くで霞の声がする。兵にはよく抑えておくように言ってあるから邪魔は出来ないだろ う。それ以前に今の彼女がまともに動けるとも思えないが――そんなことを冷静に考えな がら一刀は呂布を見つめ、彼女の反応を待ち続ける。 「…………」  呂布、その顔は一切感情を感じさせない無表情を浮かべている。一刀を見つめるその瞳 も冷たいものだ。 「ん?」  視線が完全に交わった瞬間、呂布の瞳が僅かに揺れたように一刀は感じた。  だが、それも文字通り一瞬のことで、すぐ元の冷たいものへと変わった。そのため、一 刀は見間違いだろうとして気にしないことにした。  一刀は、震えそうになる声を腹に力を込め力強い声を出すようにして抑えながら呂布に 声を掛けた。 「あ、あのさ、一ついいかな?」 「…………」  ただ黙ってコクリと頷く呂布を見て、肯定と判断した一刀は首を出したまま一つの願い 出を始めた。 「俺の首をとったらさ……君が袁紹たちに協力する理由はなくなるんだよな?」 「…………」  再び呂布が頷く。 「そうか、やっぱりそうなんだな。ならさ、一つ頼めないかな?」 「…………?」  呂布が不思議そうに首を傾げる。その姿がどこか場に似合っていないように思え自然と こぼれそうになる笑みを一刀は必死に堪えた。  そして、気を引き締め直すと真剣な瞳で呂布を射貫くように見つめる。 「この際だ、俺はもうどうにでもしていい。でも、俺の処分が終わったら……霞に協力し て上げて欲しい。そして、公孫賛軍を救ってくれ」 「…………」  呂布は特に返事もなく黙ったまま一刀を見つめている。その瞳にとらわれた一刀は僅か に顔を強張らせ、ごくりと唾を飲み込んだ。 「………………わかった」  長い沈黙の後、呂布はそう答えた。  了承の言葉を引き出すことが出来た一刀は安堵のため息をついた。  一刀は、死を前にしながらも不思議と自然で柔らかな笑みを浮かべることが出来た。 「そうか……ありがとう」  どこか自然体になりつつある自分に驚きながらも落ち着いた声でそれだけ言うと、一刀 は瞳をそっと閉じた。  陽も大分高くなってきた頃、易京ではついに守城戦の火ぶたが切って落とされた。 「さぁ、呂布軍の皆さん! ちゃきちゃき攻めるのですわ!」  袁紹の言葉に従い呂布軍の前衛が城壁にとりつきはじめた。  公孫賛軍もそれを黙って見ているわけではない。 「いい、城壁の高さ的には上ってこれるはずはないと思うけど、一応檑を各種準備してお きなさい!」  詠と同じように、敵の様子を伺っている兵にそう伝えると、詠は敵の様子を探るのに集 中しだした。そんな彼女に華雄が声をかけてきた。 「詠。そんなに慌てることもないだろう……この城壁は見た限り最高級の防衛力を持って いると私には思えるのだ」 「そんなのボクだって知ってるわよ。ただ、この城壁がいくら強固だっていっても油断は するべきじゃないわ。敵は兵糧の残りが少ない以上、必死になって攻め立ててくるでしょ うから……思いも寄らない策を投じてくる可能性だってあるわ」  だからこそ、万全の準備を怠らず敵の動向に目を光らせる必要がある。詠はそう考えて いる。正直なところ彼女もこの易京の城壁の防衛力は相当なものであると思っていた。  だが、こういった堅固な守りは時として人の心の守りを弱めることがある。  堅固な守りに頼りきりになって警戒を緩め、すっかり油断しきったころを思わぬ攻略法 によって守りを破った敵に討たれてしまう。  それこそ、堅固な守りで身の安全を手に入れたときに一番恐れなければならないことで あると詠は考えている。  だからこそ、彼女は相手の動きを見続ける。  何かを見落とさないために……すると、 「何かしら、奥の袁紹軍から誰か出てくるわね……何かしら?」  小隊を引き連れた人影が何とか城壁を登らんとして四苦八苦する呂布軍がたむろする後 ろまで出てきていた。  よく目をこらす。そこにいたのは文醜だった。  情報によれば先程華雄が交戦した相手でもあるという。そんな彼女が一体何を、と詠が 思うのとほぼ同時に文醜が声をあげた。 「おい華雄! さっきの決着をつけようぜ! あたいとあんた、本当に強いのはどっちか 気になんだろう?」  詠はすぐに、こちらから城門を開かせるつもりなのだと理解した。  そして、傍にいる華雄へ視線を向けた。彼女は笑っていた。 「くく、愉快なものだな。喚く人間を見下ろすと言うのは……はっはっは」 「ど、どうやら今回は大丈夫そうね」  華雄には前科があった。そのため、詠は華雄のことが非常に不安――もとい心配でなら なかったのだが、どうやら杞憂であったらしくほっと胸をなで下ろした。  それからも文醜が長いこと声を掛けてくるが華雄は愉快そうにそれを無視していた。そ の姿を見て、こらえ性がついたのだろうかと詠は感心していた。  しばらく反応がなかったからか文醜の声が止んだ。と思ったがそれは一瞬の事だった。  文醜が再び呼びかけを始めた。 「どうした華雄! 臆病風に吹かれたのか? 弱虫華雄、くやしかったら出てきやがれっ てんだー!」  それは先程までとは、質が異なるものだった。あきらかに華雄を挑発している。  それに対しても華雄はぴくりとも動かない。  その後も文醜は、何度も何度も罵声をあげている。  だが、華雄にはもう通じない。そう思いながら詠は華雄の方を向いた。 「むむむむむ……許せん! おのれ文醜めぇ!」 「ちょ、ちょっと……華雄!」 「離せ! もう我慢ならん! ちょっと出て奴を叩き斬ってくる!」 「止めなさいって、あぁもう! 星、あんたも笑ってないで手伝いなさいよ!」  さすがに抑えきれないと判断した詠は、先程から成り行きを黙って見守り今も微笑を浮 かべこちらを見つめている星に声を掛けた。 「ふむ、ならば縛るか?」 「この際何でも良いわよ。大人しくさせて」 「うむ、まかされよ!」  それだけ言うと星はどこからか出した縄で華雄の体を縛り上げた。 「なんか、形がおかしくない?」 「そうだろうか……いや、これは趙子龍特性の縛り方だからな。一般のそれとは異なるも のではあるだろう。ふふふ」  詠はその言葉を聞いて、何故星は普通と異なる縛り方を覚えているのか気になったが聞 くのは怖いので聞き流すことにした。 「ぬぉー離せぇ! んぁっ、こ、これ縄が……うわっそ、そこは、んくっ!」 「うむ、やはり我が縛りは中々に……ふふ」  縛られ悶える華雄と不適に笑う星、そんな二人から目をそらし、詠は袁紹軍へ目を向け た。そして、袁紹軍は次にどんな手を打ってくるのだろうか……などと考えて二人の事を 意識から遠のかせようと模索するのだった。。  地平線より顔を覗かせる程度だった太陽も、今はその高度をさらに上げて戦場を照らし 出していた。  そんな中、日の光を受ける二つの人影が向かい合っている。  現在、二人から少し離れ兵たちの中に紛れている霞の瞳が捉えることが出来るのはそこ までだった。  通常時ならば、余裕で見えていただろう。  だが、出血多量により目が霞んでしまっている今の彼女の瞳では二人の姿すらはっきり とは見えなくなっている。 「…………それじゃあ」  呂布が、抑揚なくそう呟いた。そして呂布らしき人影は、おそらく方天戟であろうもの を構えた。  その瞬間、二人の成り行きを見守るためなのか、はたまた恐怖のためか、先程からほと んど動かないままでいる兵たちの息をのむ音が霞の耳に入った。  そのまま誰一人として一言も発しなくなった。それこそ、この場にいる誰一人呼吸すら もしていないかのように。  そんな沈黙に一層、不安を掻き立てられた霞は、たった一人、呂布に向かって声を張り 上げた。 「だめや、恋! そいつを、一刀を助けたってぇな。えぇか、あかんのや……もし、それ したら、あんたは絶対後悔することになるっ! せやから、やめてぇな。ホンマに頼む… …恋っ!」  誰もが、それこそ当人である呂布と一刀までもが黙りこんでいる中、霞は必死に声を発 し続けた。 「恋、お願いや! それだけは、それだけは……」 「…………首をもらう」  霞の言葉が聞こえていないのではと思えるほどに呂布は無反応だった。 「恋っ! 聞こえへんのか! 恋ーっ!」 「やっぱり、俺にはこれしか思いつかなかった……ごめん、みんな」  何度も、恋に呼びかける中、一刀が誰にともなく口にしたその言葉を霞の耳はしっかり と聞いた。 「!?……一刀」  瞬間、死を目前にしてなお、他者のことだけを考えているのかあの阿呆は、と霞は呆れ と怒りを同時に感じるという奇妙な気分になった。また、それと同時に彼女の瞳から透明 の滴がすっと流れ出た。  そして、霞の頬を伝ったその滴が大地に落ち、染みこんだとき、彼女は何かが動こうと する気配を感じた。  そして、実際に呂布らしき人影が大地を踏みしめた。だが、その音は霞の耳には届かな かった。何故なら、今、霞の耳に入ってくる音の大部分は、彼女自身の心音と一層声量を 大きくした嘆願の叫び、そして、いつの間にか霞と同じように涙している兵たちの嗚咽に よって占められているからだった。  そして、音を聞き取れなくなった代わりとばかりに、霞は瞳を精一杯見開いた。  太陽の光による逆行と涙、そして霞目によって機能低下している彼女の視界は一刀と呂 布の姿を朧気ながらもとらえた。 「恋! 頼む、やめてぇな! なぁ、聞いとるんかぁー恋っ!」  声が出なくなっても構わないとばかりに霞は叫び続ける。  兵たちも堪えきれなくなったのだろう、嘆願の声を上げ始めた。  そんな中、白い服を着た霞にとって大切な存在――その人影に一つの影が吸い込まれて いくのが彼の背中越しに見えた。  そして……その白い人影は後ろへと倒れた。  瞬間、霞は瞼を閉じ、その光景を視界から消した。それでも涙だけは溢れ続ける。  また、それと同時に兵たちの嘆願の声が止んだ。そして場に沈黙が訪れる。  だが、それも一瞬のことだった。  その一瞬で、霞の瞳が捉えた光景を彼女の脳が理解し、それまで発していた嘆願の声か ら悲鳴にも似た慟哭へと、その叫びを変え、再び場を包み込んだのだ。 「い、いやや……嘘や……嘘やこんなん……嘘やぁー!」  そんな霞の叫びは、ただ辺りへと空しく響き渡るだけだった。