いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第四回  おぎゃー、おぎゃー。  赤ん坊の元気な声が部屋中にこだまする中、俺はすっかり放心していた。  寝台にはまだ少し汗ばんだ稟が寝ており、その横で大声を上げて泣いているのが、俺と彼女の子供。  そして、周囲は俺と稟へ祝福の言葉をかける人々で溢れている。  そのことを知覚してはいるはずなのだが、どうにも頭に入ってこない。見えるのはやつれた稟と、その脇にいる真っ赤な肌のしわしわの赤子の姿だけだ。赤ん坊って本当に赤いんだなあ、などと俺はよくわからない感想を持ってみたりする。  霞の駆る絶影のすさまじさに半ば気を失いつつも深更の洛陽に到着したと思ったら、すでに稟は産室に入っていると聞かされ、夜明けと共に産声を聞くことになった。  それからどれほど経っているのだろう。俺は寝台脇の椅子に座り込み、人々にばんばん肩を叩かれたり、抱きつかれたりしながら、ただただ笑みを押さえることができない。  初めて自分の子を抱いた時の感触がずっと手に残っているような気さえした。 「さ、そろそろ稟が疲れてしまうから皆は遠慮なさい。後は私と一刀が残るから」  華琳の言葉に従って、部屋から人が減っていく。相変わらずぼーっと幸福感に包まれている俺に、稟が顔を向けて話しかけてくる。 「名を、つけてやってください」 「あ、ああ。そうだな。わかった。でも、こっちの風習をそれほど知らないし、誰かに知恵を貸してもらって……」  俺の感覚では普通でも、こちらでは変な名前をつけるわけにはいかないからな。 「ああ、それなら大丈夫。私が候補を挙げて書いておいたから、ここから選んで。それで私も名付け親の一人になれるしね」  そう言って手渡される紙の束。一枚に一文字ずつ名前候補が書いてあるらしい。あの華琳が選んだものだから、悪い名前というのはないだろう。 「ああ、意味も書いてくれているのか」  良く見ると、大きく一文字書かれた下に、その字の持つ意味まで書かれていた。さすが華琳、抜かりがないな。一枚一枚その意味を熟読しながら、字の形なども考えつつ読み進めていく。通して見た後で、もう一度上からめくっていく。  その中で、一つ気になる文字があった。 「これは……どうかな」  俺は、その紙を二人に見せる。  そこに書かれているのは『奕』。  意味は、うつくしい、かがやく、つづく。 「郭奕(かくえき)」  いつの間にか泣き疲れたか、寝息を立てているわが子をなでながら、稟は微笑む。その笑みのあまりの透明さにどきりとする。なぜか、汗で額にはりついた髪が、母の美しさと力強さを象徴しているように思えた。 「よい名前ですね」  稟も気に入ってくれたようだ。  子供を抱いている稟を、静かに俺たちは見つめている。すると、扉をあけて、小さな影が滑り込んできた。 「はいはいー、しばらくは稟ちゃんも寝かせてあげないとだめですよー」 「あら、風。どこにいってたの?」  なんだかいろんな書物を抱えている風に華琳が訊ねる。そう言うからには、さっき部屋にいた面々の中にはいなかったのだろうか。どうも印象が乱れているな。 「風はお産婆さんについて、色々訊いていたですよー。とりあえずは風が本を読みつつ、様子を見てようと思いましてー」 「そう。じゃあ、ここは風に任せましょうか」 「じゃあ、稟。またくるよ」 「はい」  さすがに疲れているのだろう。稟の返答も力がない。瞼をしばたいて、だいぶ眠そうでもある。  部屋を出る時にもう一度振り返ると、彼女は子供と同じく寝息を立てていた。 「そうそう。これは後でもいいけど、幼名も考えてあげなさい。しばらくは幼名で呼ばれるのだし」  部屋を出ると横を歩く華琳にそう言われる。 「幼名も一文字なんだっけ?」 「いいえ、このあたりはそうでもないわ。南の風習だと、一文字に阿をつけて呼ぶようだけどね」  幼名か……。どんなのがいいのだろう。女の子だし、やっぱり可愛らしい呼び方がいいのだろうけれど。 「そういえば、真名は?」 「真名はまだまだ先。下手に誰でも彼でも教えてしまったら大変だもの」 「ああ、そういうものか」  そんな気はしていたが、真名はかなり慎重につけるもののようだな。このあたりは、もっと落ち着いてから考えればいいだろう。 「ところで、稟の体の方は大丈夫なのかな?」 「ええ、出産が予定よりだいぶ早まったのは驚いたけど、子供もしっかりしているし、大丈夫よ。逆に健康すぎてすくすく大きくなりすぎたのかもね」 「そうか」  ほっと一息つくと、華琳が苦笑いを浮かべていた。 「あなたこそ大丈夫? 私、同じことを何度も説明している気がするけど? 私だけじゃなくて、風や凪あたりにもだいぶ食い下がってたわよね?」 「そ、そうだったか? すまん」  そんな記憶は……うっすらあるような気もするな。しかし、いくら大丈夫と念押しされても、心配なものは心配だったしな。後で風たちにも謝っておこう。 「まあ、しかたないわ。これからどうせ蓮華たちを迎えて酒宴も続くし、二、三日は惚けていてもいいけど、その後は、子供の面倒で手が放せない稟の分も働いてもらうわよ」 「うん、そうだな。気合い入れなおさないとな」 「そうね、まずは五日後に、漢中についての報告と対策をまとめてもらうわ。五斗米道への対処。いいわね」  慌てて矢立を取り出し、懐紙に書き留める。 「ああ……えっと、よし、書いた。これで忘れないだろう」  その様子を眺めていた華琳はくすくす笑った後で、俺の背中を一つ大きく叩いた。 「まあ、がんばりなさいな、お父さん」  それから数日は、一日に何度も郭奕と稟の様子を見に行って当の稟に呆れられたり、蜀、呉の大使たちを迎えて再び祝福の嵐を浴びたり、妊娠して動きまわりにくい桂花に手足代わりにこき使われたり、呉からの荷ほどきに一苦労したり、色々あった。  その中でも印象深かったのは、祭たちに再会した時のことだ。 「ほぉう……」  ひとまず落ち着いて祭たちに改めてただいまを言いに行くと、麗羽や斗詩は口々に帰還を祝ってくれたのだが、祭は俺の顔を遮光眼鏡越しに見つめて黙ってしまった。 「どうした、祭?」 「いえ……我が江東の地は、しっかりと旦那様を鍛え上げてくれたようじゃ、と思いましてな」  そう言ってにやりと笑う様がなんとも凄味があって、どうやら本気で言っているのだと理解する。 「そう? なんだか嬉しいな」  呉の地でも色々な出会いがあり、学んだことも多い。いまだ大使制度反対派を納得させられていない等、成果というほどの成果は上げられなかったものの、呉に赴任したこと自体は俺にとっていい経験だったと思う。それをどう生かしていくかは今後の課題の一つであろう。 「遼東は疲れただけだったなー」  猪々子がべちゃー、と卓に上半身を預けながらぶーたれる。なんかもう力が抜けて、くらげみたいだな。 「ああ、遼東征伐は三人ともお疲れさま。結局戦闘になっちゃったようだけど、うまくいったんだろう?」  華琳からは、それほど兵も損なわれずうまく行った、としか聞いていない。彼女がそう言うなら、それは充分な成功ということだ。そもそもは朝廷のさしがねだったとはいえ、遼東まで魏の影響力が行き渡るようになった意味は大きい。遼東がすっかり安定するまでは、遠征途中で合流した元麗羽の部下たちのうち幾人かが魏の代官として派遣されるのだとか。 「うん、でもさー、てんで歯ごたえなくて。そもそもどれだけやる気だったのかわかんないけどねー」  猪々子の文句に斗詩は苦笑を浮かべている。麗羽は相変わらず泰然と笑みを浮かべているだけだし、この二人はそれほど文句がなかった、というところだろうか。それなりに長い期間の遠征で、大変だったはずだと思うけれど。  しかし、麗羽は元部下がかなり集まってきたはずだけど、気にもしていないんだな、さすがというかなんというか。 「でも、文ちゃん、そのおかげで兵ももらえたわけだし」 「まあねー。つってもまだ先だけど」  斗詩の慰め──なのか?──に少しだけ浮上した感じの猪々子。それにしても、気になる単語が入ってたぞ。 「兵?」 「猪々子さん、斗詩さん、祭さんにえーと、いくらかの兵を与えるらしいですわ」 「八千ずつですね。それと、烏桓突騎は華雄さんと恋さんの下になるんだとか」 「ああ、そうそう。そうでしたわ」  三人に八千ずつ、総勢二万四千に烏桓突騎か。結構な数だぞ、こりゃ。 「もちろん、アニキの承認の後だけどねー。って、まさか、アニキ、あたいらにその資格はないとか言い出さないよな!?」  いきなり立ち上がって俺に迫って来る猪々子。その気迫がちょっと怖い。  そういや、南鄭でも『部隊、部隊、あたいの部隊♪』とかわけのわからん歌を歌っていると思ったが、あれは祭りに浮かれていたわけじゃなくて、兵を預かることに浮かれていたのか。 「そんなことは言わないさ。でも、華琳に意図をしっかり聞いてからだな。変な任務を押しつけられるとかはないと思うけど、一応ね」 「まあ、そりゃあ……しかたないかなあ」 「いずれにせよ、訓練中だから、実際の配備は数ヶ月かかるようですよ」 「華琳さんの軍はいま一つ鎧の意匠が地味な気もしますけれどねえ……」  不承不承座る猪々子と補足する斗詩をよそに、麗羽はよくわからないことを言い出す。  いや、麗羽のところのきんきらきんはさすがに採用できないぞ。綺麗にしておくのに無駄に手間がかかりそうだし。  押し出しがよくないといけない軍務もないではないけどな。 「とにかく、華琳か軍師の誰かと話してみるよ」  なにをさせるつもりかもわからないしな。単純に、郷士軍をつくったせいで減った純粋な攻撃力を高い水準に保つためかもしれないが。 「そうそう、遼東といえば、伯珪殿が、旦那様の下に来るか、華琳殿の下に身を寄せるか迷うておるようでしたな」 「あー、そうなのか……。一度話をしたほうがいいな」  伯珪さんが蜀を追い出された形になったことへの責任の一端は間違いなく俺にある。朝廷との一応の手打ちが済んだいま、そのあおりをくらった伯珪さんをなんとかする責任があるのも事実だ。  華琳のところへ行く方が指揮系統は複雑にならなくていいと思うが、蜀から魏へ移るより、ワンクッション置いた俺のところのほうがまだいいという見方もあるので、そのあたりは彼女自身の感覚次第だろう。  そんなことを考えていると、猪々子が面白くもなさそうに呟く。 「白蓮さまなら、さっきから、扉の前でうろうろしてるけどね」 「そうじゃな」 「あうー、黙っててあげようよう」  どうやら三人とも気づいていたらしい。足音か気配でわかるのかな? さすがに俺には扉の前にはりついて耳を澄ませてでもいないとそんな芸当はできない。 「あれ、そうなの?」  用があるけれど、入りにくいのだろうか。そう考えていると麗羽が立ち上がり、ずんずんと部屋の中を横切って扉に向かう。 「まったく、相変わらず優柔不断な人ですわね」  言うや否や、扉をあけてしまう麗羽。 「や、やあ」  たしかにそこには白馬長史と謳われる公孫伯珪その人がいた。  妙に腰がひけた格好で。  麗羽たちが同席していると話がややこしくなりそうだったので、彼女たちの部屋を辞して、伯珪さんを連れ、自室に戻る。一人、祭だけが俺たちについてきた。  部屋に入ると、伯珪さんと俺が卓につき、祭は一人部屋の隅で壁にもたれかかる。基本的に、話には参加しないつもりのようだ。 「まずは、すまなかった」  そう言って頭を下げる。 「え?」 「俺のせいで蜀を追放されることになったことは、本当に悪かったと思っている。できることがあったら、なんでも言ってくれ」  そこまで言うと、頭の上から声がかかった。 「おいおい、待ってくれ。私は別にそのことで、北郷殿を責めるつもりはないぞ」  顔を上げると、困ったような伯珪さんがいた。前髪が、ゆっくりと揺れているのが妙に心に残った。 「そっか。ありがとうな」 「いや、それはいいんだけど……」  伯珪さんは話題の接ぎ穂に困ったようで、少し目を泳がせていたが、不意に思い出したように言った。 「そういや、紫苑……っと、黄忠たちに桔梗のこと話したのか?」 「あ、紫苑の真名はもらってるよ。翠も。でも、桔梗って?」 「ほら……」  伯珪さんは、自分のお腹のあたりに手をやって、なんだか大きいものを示す身振りをする。それで、妊娠の話だとわかった。 「ああ。そういや、桔梗は歓迎の祝宴にも出てこなかったし、蜀の人達はまだ知らないのか……」  蜀、呉の面々は昨日到着し、そのまま祝宴になったのだが、桔梗は出席していなかった。彼女もそろそろ臨月だし、余計なことをしたくないのもわかる。 「桔梗は産み月には姿を隠そうとまでしておりましたからな。それもさすがに伯珪殿の追放で無理となりましたが、蜀の面々と余計なところで揉めとうないのでしょうな」 「うーん、じゃあ、桔梗と紫苑たちが会う時には俺も同席するべきだろうな」  祭の指摘にしばし考えて答えると頷いてくれる。たぶん、今日の夕刻ごろには蜀の面々も落ち着くだろうから、大使の執務室を俺が案内がてら桔梗と会うように設定するのがいいだろう。その旨を伝えると、祭は手配をしましょう、と出て行った。 「さて、本題に入ろうか?」 「そうだな……」  伯珪さんは決意を込めるように一つ大きく息を吸い、俺に向き直った。 「白馬義従は受け取った。今回の遠征で増えたのと合わせて、約二千。多くはないが、私が言うのもなんだが、三国の騎兵の中でも、かなりの精鋭だ。少なくとも、張遼の隊や馬超の隊と並ぶくらいにはな。それと、私。まあ、こちらは、麗羽たちに負けるくらいだ」  当時の麗羽の勢いを考えれば、勝てるのはそれこそ華琳くらいだろう。それでさえ、こちらの全力で、麗羽のなにも考えていない行軍にようやく抗し得ただけだからな。 「北郷殿は、これをどう評価する?」 「その様子だと、華琳にはすでに訊いているようだね」  俺は即答を避ける。正直言えば、伯珪さんを評価できるほど、俺という人間の器が大きいのかどうか、そこに疑念がある。 「まあな。でも、華琳は自分のために働いてくれれば文句はないだろう。任されることは大変そうだけどさ」 「鎮北将軍を任されたんだろ。大層なものだよ」  そう、華琳の伯珪さんへの期待は、かなりのものだと思われる。そうでなければ、霞と同じ地位につけるはずがないのだ。  俺はじっと考え、結局、彼女を評価するのではなく、自分をさらけ出すしかないのだと気づいた。 「正直に言うと、俺のところは、特に評価というか、序列のようなものはないんだ」 「ない?」 「うん、俺の預かりや監督下ってのは要するに避難場所だから。魏に直にいるには──いろんな意味で──危ないとか、三国の秩序の中から弾き出されたり、名前を隠した方がいいと思う人物達の逃げ場所になってるんだ。その中でもありがたいことに俺を主と仰いでくれる人もいるけれど」  伯珪さんは無心に聞いてくれている。 「もちろん、俺には俺の考えがあるし、理想もある。けれど、それは華琳の行いを手助けすることで実現するものなんだ。彼女は魏の覇王であると同時に、漢の丞相として、この大陸全体のことを考え、様々なことを実行している。俺はそれを手助けし、新しい時代をつくりたい。だから、そのために、俺の下にいることになっている人達の力を存分に借りるつもりだ。俺のところに来るってのはそういうこと。俺を通じて、魏や、漢、なによりもこの大陸の民たちのために働くっていうこと」  そこまで言って肩をすくめる。 「俺を主と仰いで盛り立てるなんて考えなくていい。極論だけど、自分のために動こうと俺を利用するのでもいいんだ。ただ一つ、この天下のことを考えてくれるならば」 「華琳と真逆だな」  真逆、と表現したのはその忠誠の対象を華琳自身に定めるか、自分自身とするかの違いだろうか。 「まあ、でも、最終的にやることはそう変わらないけどね」 「そのあたりはな。国事も日常は雑事の積み重ねだ」  一勢力を率いたこともある人だ、そのあたりは承知していることだろう。  たとえどこに忠誠があろうと、それらの雑事から解き放たれることはないのだ。  とはいえ、大きな決断は小さな決定の集大成として必然的に導かれる。そういう意味では、日々の雑務こそがもっとも重要な流れを決定しているとも言えるのだが。 「詠が、伯珪さんは蜀陣営の中でもなんでもできる貴重な人材だと評価していたよ。蜀を離れて孔明さんたちが痛手だろうと」  詠の率直な評価だと思うが、それを言った途端、彼女の顔が曇った。 「なんでも……ね」  呟いて、小さく嘆息する。 「なんでもそこそこはできる、でも、秀でたやつには勝てない。その程度さ」 「そうかな? 俺なんてもっと中途半端だよ。武術では伯珪さんに負けるし、戦争がうまいわけでもない。この世界の知識だけで言ったら、麗羽たちにだって負けるだろう」  特に麗羽や美羽なんて、出自が出自だけに、宮中のしきたりや決まり事は本能レベルで刷り込まれているからな。それが常に役立つかどうかはともかく、知識量で勝負はできないだろう。 「足りないところは補い合えばいい。なんでもそれなりにできるってことは、秀でてるけど、足りないところも多い人を伯珪さんに組ませれば、さらにすごいことができる。そういうことだろ?」  彼女は俺の真意を測るように、じっと見つめてくる。なんとかその眼力に視線を外さずに耐えきる。 「ふーん」  感心したような呆れたような、なにか奇妙な声を出すと、彼女は不意に言った。 「北郷殿、刀を構えてみてくれないか?」 「ああ、いいよ。真剣でいいのかな?」  立ち上がり、真桜に打ってもらった刀を手元に引き寄せる。 「うん。真剣で」  すらりと抜き放ち、壁に向かって青眼に構える。その様子を、伯珪さんも椅子から離れて横から後ろから観察してきた。 「真剣を構えてこの武威か。たしかに強くはないのかもしれん」 「そうだろ?」  再び椅子に戻った伯珪さんに、もう必要ないだろうと刀を納める。 「いや、すまん。わざわざ構えてもらったのに無礼なことを言ったな」  俺が座りなおすのを見て、彼女はそう謝ってきた。しかし、どこか心ここにあらず、という印象を受ける。  その後しばらくは、彼女は唸ったり、こめかみを揉んでみたり、なにやら悩んでいるようだったが、再び顔が上がった時には晴れ晴れとしていた。 「一つだけ、訊きたい」 「うん」 「私に烏桓を任せた意図は?」 「烏桓を知ってほしかったからだよ。攻めるにせよ守るにせよ、そして、烏桓の人々を守るためにも、まずは彼らを知らないとね」  口に出すことでもないとは思ったが、しかし、答えてほしいという真摯な問いに答えないわけにもいかない。伯珪さんはこれにも少し驚いたように表情を変えた。 「よし、決めた」  彼女は再び席から立ち上がり、俺の前で膝をつく。その姿に込められた気迫に思わず立ち上がってしまう。 「この公孫賛、いまこの時より、北郷殿の臣下となりましょう。主に捧げる我が真名は白蓮。泥中に咲く蓮のごとく、いかなるところでも働くことをお約束いたします」  教本に書かれるような見事な礼に圧倒されながら、彼女からもらった大事な真名を口の中で何度か呟き、改めて、はっきりと口にする。 「白蓮」 「はっ」 「ありがとう。歓迎するよ」  俺も姿勢を落とし、彼女の手を取る。その手を導き、二人で立ち上がりながら、彼女に笑いかける。 「でも、臣下とかって構えないで、仲間として加わってくれたら嬉しい。それと、俺のことは、一刀って呼んでくれ」 「わかった、一刀殿」  そうして、白蓮のその笑顔を見ながら、殿もいらないんだけどな、等と思っていたのだった。  白蓮に給金を引き出す棚の合い鍵と仕掛け──どちらも真桜謹製で、この世界で破れるのは当人の真桜くらいだろう──を教え、鎮北府開府の資金として、銀の延べ板を渡したら目を白黒させていた。俺自身大きな金額を扱うことは少ないし、身構える気持ちもわかる。  ちなみに、その棚にそれまでなかった冊子が入っているな、と思ったら、俺がいない間に管理していた祭と陳宮が、出入金の帳簿をつけてくれていたのだった。どうも、陳宮はこういうことの管理がずぼらだと黙っていられない性質らしい。身なりは小さいけれど、軍師としては才能があるのだろうな。  いま、俺は月たちを連れて、彼女たちがこれから暮らすことになる部屋を見に行っているところだ。彼女たちは城下に邸もあるのだが、今後は城内にいてもらうほうがなにかと便利だろう。  月たちとの洛陽での出会いを思い出して談笑しながら歩いていると、どこからか、風を切る音が聞こえてくる。 「ちんきゅーーーーーーーーーーきーーーくっ!」  急激に近づいてくる敵意の篭もった気配。避けようとするが、後ろを歩いている月と詠のことを思い出し、逡巡する。その一瞬にもはや避けようがない位置にその影は迫っていた。俺の顔に近づく沓の裏が良く見える。 「おっと危ない」  横から金剛爆斧が差し出され、その何者かがくるくると柄の先端にひっかかって回転する。華雄がくりん、と腕をひねると、どべっと音を立てて黒いものが庭先に落ちた。 「なにをするですか、華雄!」  それは立ち上がると、黒い服を着た陳宮の姿に変わる。腕を振り上げて、抗議をしている様は、なにか小さな生き物が自分を懸命に大きく見せているかのようだ。それに対して、華雄は金剛爆斧を戻しながら肩をすくめた。 「なに、と言ってもな。主たちの危険を未然に防いだだけだが」 「むきーっ。ねねは、恋殿とねねを引き裂いたへっぽこ主に天誅を加えようとしていたですよ! それを邪魔するとは不届き千万!」 「ねね……?」  おや、恋が少しうろたえている。 「あのさ、ねね。いまの角度だと、こいつだけじゃなくて、こいつが転ぶことで、ボクや月も被害を受けるんだけど」  俺や華雄と同じく足を止めた詠が冷静に指摘する。 「軍師たるもの、周辺被害もちゃんと計算しないとだめよ。狙うならちゃんとこいつ一人を狙いなさいよ」  狙うのは肯定するのか、詠。 「む、むむむ……」 「ねね、無茶しちゃだめ」  うなだれる陳宮に、とてとてと恋が近づいていき、こつん、と頭に拳を落とす。痛くはないだろうが、しかられていることは明白で、陳宮は泣きだしそうに顔をくしゃくしゃにしている。 「恋殿ー、ねねはですねー」 「ご主人様は悪くない」 「しかしー!」  ここは話題を変えた方がいいだろう、と先程から目についていた建物を指さす。 「あれ、あの建物って見たことないな」  恋にくっついたままの陳宮が振り返ってつまらなさそうに答える。 「ああ、お前がいない間に新造したですよ」 「へぇ、何の宮?」  詠と月が背のびして、庭木に隠れがちなその建物を見ようとする。 「こいつの子供たちのための棟ですよ」  陳宮がさらっととんでもないことを言い出す。 「正確には魏の重臣たちが子を産んだ時のための養育棟ですが、桔梗もいずれ入ることになっているそうですから、そんな名目に意味はないです」 「俺の子供の建物ぉ?」  見る限り、城内の他の建物と同じく、かなり重厚で大きなものなのだが、養育棟というのはそんなに必要なものなのだろうか。こちらの世界では普通なのかもしれないので、なんとも言えないが……。 「どうせ異母兄弟姉妹なのですから、乳幼児の間は、母親同士助け合って育てるほうが効率がいいだろうと、華琳殿手ずから設計して作ったですよ。少し大きすぎる気がしないでもないですが」  陳宮の感覚でも大きいのか。それでも華琳の設計となったら、気合いも入ることだろう。 「話によると、乳母や女官もあまり入れない予定らしいです」 「ふーん。慣習とは大きく外れるけど、華琳らしいといえばらしいのかしら。実際、重臣の子供となれば、乳母の選別も手間だし、間諜が入ることも考慮しなければいけないしね。今回のようにまとめて生まれるなら、お互いに面倒を見合えるから、たしかに合理的かもしれないわ」 「乳母の人や女官の人がいっぱいいるよりは、お母さんと一緒のほうがいいよね……」  詠の実際的な感想に対して、月はなにかを重ねて見るような風情でその建物をじっと見ていた。 「まあ、姉妹もたくさんいるなら、きっと寂しくないでしょ」 「そうだね、詠ちゃん」  あれ、たくさん作ること前提?  まあ、自然と……うん。  そうして、陳宮を加えて再び歩きだし、彼女たちの部屋についたところで、ふと思い出した。 「ああ、そうだ。詠、ちょっと訊きたいんだけど」 「なに?」 「あのさ、俺の知り合いで、翠以外で一番涼州に詳しいのって誰かな」  翠が華琳と涼州の話をする前に、色々情報を仕入れておこうと思ったのだ。力になると約束した以上、なにかは考えないといけない。  その問いに、部屋の中を見分していた詠の動きがぴたりと止まる。なぜか月も珍しく険しい顔をしている。 「……ばかにしてるの?」 「え?」  わけがわからず困った顔をするしかない。すると、詠と月は顔を見合わせて、二人共に大きく溜め息をついた。 「私たちです」 「え?」 「だから、涼州事情でしょ? ボクと月だってば。蜀にいた翠より詳しいくらいよ!」  詠に強い口調で言われて、ようやく彼女たちの出身地を思い出す。董卓と賈駆の影響力については散々聞かされていたのに、どうも月と詠という二人と、そのことが結びついていなかったらしい。 「あ、そうか……。でも、離れてだいぶ……」 「ちゃんと情報は集めてるに決まってるでしょ。故郷なんだから知り合いもいっぱいいるんだし」 「ご、ごめん」  結びついていなかったというより、結びつけたくなかったのかもしれないな。そう考えながら謝ると、詠はしかたないというように頷く。 「いいわよ、もう。よく考えたら、あんたと涼州の話ってろくにしたことなかったし。で、なにが訊きたいわけ」 「あー、うん。全般的な現状とか」 「ふーん。……そうね、いつ? 地図とか必要でしょ」  夕方は蜀の人達と会わないといけないし、夜だと聞いた後ゆっくり考えるというのが難しそうだ。 「じゃあ、そうだなあ……」  時間を指定しようとすると、ちょいちょい、と服の袖をひっぱられた。見ると、恋が俺の服をつまんでいる。 「ん、なんだ、恋」 「ねねも」  簡潔に言って、陳宮を指さす。陳宮は恋に指名されたからか、それほど嫌でもなさそうだ。 「えーと、涼州の話をする時に陳宮も同席させろってこと?」 「うん。ねね、頭いい」  彼女も軍師だしな。涼州事情に詳しいかどうかわからないが、発想の手助けにはなるかもしれない。  月と詠を見ると、彼女たちも頷いている。 「ねねちゃんの知恵も借りたらいいんじゃないでしょうか」 「そうだな、じゃあ、よろしく頼むよ」 「ふん、恋殿が言うから、しかたなくお前に協力してやるですよ」  陳宮は本当に恋一筋なんだな。まだ彼女とはそれほど接することができていないので細かい性格などはよくわからないが、恋が大好きなのはよくわかった。  翌々日に翠と馬岱さんが華琳と話をする予定になっているはずだから、明日の昼にでも頼むと時間を決め、俺たちは、部屋にどう荷物を運び込むかの相談をし始めたのだった。  祭に話をつけてもらったおかげで、俺は蜀の面々を大使の執務室に案内する役目を仰せつかることになった。桔梗はすでに執務室に移動しているはずだ。  一番大きな部屋とそれに付属する──大半はすでに蜀から桔梗や白蓮と一緒に派遣されてきた文官たちが入っている──いくつかの部屋をまわった後、副使専用の執務室に至る。 「ふむ、ここが副使の部屋か。正使の部屋と間取りは変わらぬな」 「なかなか使いやすそう。これなら、外に邸を借りるより、城内のほうがよさそうね」  子龍さんと紫苑がそう感想を述べあう。璃々ちゃんはじめ他の面々は、ゆったりと座った桔梗の元へ走り寄っている。 「外だと警備も面倒だしね」 「まあ、しかし……まずは、あちらをどうにかしましょうか」  桔梗を囲んで騒いでいる皆を、子龍さんは笑いながら指さす。彼女は面白くてたまらないようだ。一方、紫苑のほうは、少し気づかわしげでもある。 「桔梗?」  紫苑が歩いていくと、馬岱さんが場所を空け、璃々ちゃんの後ろに紫苑が立つ。 「なんだ、紫苑?」 「そのお腹はなにかしら」 「見てわからぬか。お主も経験のあること」  言いながら、愛おしそうにお腹をなでる桔梗を見ていると、なんだか俺が誇らしくなってくる。 「……一刀さん?」 「うむ」 「そう」  そこで俺を振り返り、しばらく吟味するように眺められたが、納得したように頷かれた。先程までの困惑するような表情は消えている。 「まあ、そういうものね」 「……と、動じておられない経産婦の方はともかく、天下の馬将軍などは二人そろって興奮しております」 「だ、だって、星、お前、え、だって、桔梗が、えええっ」 「すごいね、いつ産まれるの? もうすぐっぽいよね!」 「おかあさんになるのー?」 「落ち着け、翠、璃々のほうがよほど肝が据わっておるぞ」  言葉にできないような奇声を上げて驚いているのは翠一人で、年若い二人は興味津々という態だった。璃々ちゃんなんかは、郭奕を見て、自分より小さい人間がいることに不思議を感じていたようだったし、元から知り合いの桔梗の子となれば、より興味深いことだろう。 「まあ、そういうわけで、その、俺との子が生まれるんだよ。来月だっけ?」 「そうですな、稟のように早まられなければ、その時期に」  彼女の横に立ち、改めて皆に説明する。やっぱり女たらしだ、と翠がぶつぶつ言っているのは甘受するしかないだろう。 「しかし、国元に知らせなかったのはなぜかしら?」 「ふん。わかっておることをわざわざと。痛くもない腹を探られて、国に帰って来いなどと言われるのは真っ平御免というもの。生まれる子に、まずは父と対面させてやりたいと思うのは当たり前のことだろう」  紫苑は桔梗の言葉に、俺の方を見て、少し苦笑いをする。 「まあ、一刀さんと、ということでは、本国は……少々あれなのはわかるけれど。それにしたって」 「だいたい、知らせようにも白蓮殿のことで知らせる時機を逸したわ。お主とてあの可愛い軍師殿たちを倒れさせたくはなかろう?」 「そう言われると……」  今度は子龍さんが苦笑いを浮かべている。 「まあまあ、紫苑もそれくらいにしとくがよろしかろう。皆、まずはおめでとうではないか? 桔梗。丈夫な子が生まれることを私も祈らせてもらうぞ」 「ふふん、このところ暴れて、内より蹴ってばかり。どうやら早く出たくてしかたないらしい」 「え、そうなの。元気だなあ」  だらしなく頬が緩むのは許してほしい。 「あ、そうだな、うん、おめでとう、桔梗」 「おめでとー」 「おめでとう。たのしみだね。あ、でもどうする? たんぽぽは、お姉様の用が終わったら長安に戻るつもりだったけど、子供が生まれるまでは洛陽にいた方がいいよね。どうせまたお祝いに戻ってくることになるし」  それを聞いて、紫苑が少し考える。桔梗と目配せをしてから一つ頷いた。 「そうねえ、星ちゃんも残ってくれるかしら? 白馬義従の受け渡しは終わったと思うけど、漢中が動くかもしれないし。洛陽の意向を桃香様たちに伝えるためにも」 「うむ、そうするとしよう」 「魏の意向としてはそのあたりどうかな?」 「問題ないと思うよ。もちろん緊急事態となれば別だけど。華琳たちには俺から話を通しておくよ」  桔梗の問い掛けに安心させるように答えると、にやにやと笑みをはりつけた子龍さんがすっと横に寄ってくる。 「まあ、しかし、色々とやらかしてくれるものですな」 「おいおい、漢中は俺のせいじゃないぞ」 「おや、そうでしたかな? とはいえ、朱里と雛里の困り顔がいまから見えるようで」 「実際、まだなにも決まってるわけじゃないよ」  そう、まだ、なにも。  それから俺は、桔梗たちと談笑している翠を見て、まだまだ問題は山積だな、と気をひきしめるのだった。 「さて、はじめましょうか」  俺の執務室には月と詠、それに陳宮の三人が集まっていた。すでに卓の上には大きな地図が広げられている。主に大陸北部が描かれた地図だ。その前に軍師服姿の詠が一人立ち、こちらはメイド服姿の月、それに俺と陳宮は座って彼女が話すのを聞いている。 「まず、涼州の位置はわかっているわよね?」 「長安の西方から北西に向かって伸びているんだよな。端っこは敦煌……だっけ?」  敦煌は西の果てのオアシス都市。その先は、北はゴビの沙漠を経てモンゴル高原が、南は祁連山脈を経てチベット高原が存在する。つまりは草原の世界への入り口だ。  ちなみに、砂漠と言い切るのは間違いらしい。ゴビとは沙漠──水が少なくまばらに草が生えている程度の土地を指すからだ。この世界では、俺の時代のように完全に砂漠化が進行していたりはしないはずなのだ。 「よく知っていらっしゃいますね」 「敦煌は映画……劇みたいなもので知っていただけだよ」  月の問いに、頭をかいて答える。実際、映画の敦煌を見たことがあるわけではなくて、話を聞いたことがあるだけだしな。さすがに西涼に攻め込んだ時も、そのあたりまでは足を伸ばしていないし。 「まあ、正確に言うと、置かれた州が違ったりするんだけど、いまはそこは気にしないでおくわね。実際、長安までを司隷に含めて、そのすぐ横は涼州って状況認識のやつの方が多いだろうし」 「細かくは違うんだね」 「雍州やら置かれていた時代があるですよ。でも、それも入れ代わったりして、公式文書はともかく、文官でさえ浸透していないと思うです」  陳宮が小声で補足してくれる。彼女も北方の情勢には興味があるのか、詠の指が走っていく地図に釘付けだ。 「あんたたちが攻めたのは、せいぜい隴西、金城までね」  詠の指さすのは、長安の真西から、少し北西にいったあたりまでだ。涼州全体からすれば入り口のような場所だが、洛陽を押さえる魏にとっては、その場所こそが重要でもある。極論だが、そこに敵対勢力がいなければ、さらに西方や北方に敵がいても勢力基盤を脅かされることはない。もちろん、民の安全や、街道の安全を考えれば、それだけではすまないにしても、だ。 「ボクと月の出身地も、隴西のこのあたり。翠はもう少し北西だと思うけど、そう変わらないわ」 「へぇ、そうなんだ。翠は出身自体はもっと西かと」 「漢の臣下として動くなら、そのあたりが限界なんです」 「漢の統治が及ばないってこと?」  月の言葉に反応すると、陳宮が小さく鼻を鳴らしてきた。 「もっと生臭い話ですよ。三国が分立するいまの世はともかく、漢の朝廷は洛陽と長安を中心とする中原だけでまわっていたです。要するに、中原に近い郡の実力者でなければ、洛陽に居を構える朝廷に対して力を及ぼせない。朝廷のほうはいくら実力者であろうと、あまりに辺境の豪族は相手にしない。そういうことではないですか?」  詠が苦笑しながら頷く。 「まあ、ねねの言う通りね」  再び地図を指さし、そこから長安へまっすぐ線を引く詠。たしかに隴西、金城あたりからならば、長安はすぐに窺える場所だ。先程考えた通り、魏が確保しておかなければならない地域でもある。 「馬騰自身の求心力はもちろんのことだけど、豪族連合が馬騰という盟主を戴いたのは、その根拠地の位置関係も大きく関係してたってわけ。ボクたちが十常侍に呼ばれた理由も、中原にほど近い地域の権力者って意味合いが多分にあるわね」 「涼州豪族っていうだけで、田舎者扱いでしたけれどね」  月が昔を思い出したのか、困ったような、苦笑しているような、そんな顔をしていた。 「まあ、昔の情勢はともかく、話を続けるわね。隴西や金城から先は、武威、張掖、酒泉、敦煌というのが主要な郡。いま言った順番に北西に向けて連なってると考えてくれればいいわ」  それぞれの郡を指さす詠につられて地図を見たが、隴西や金城に比べても、遥かに遠いな、敦煌。大陸の広さを実感せざるを得ない。これですら、大陸全体から見れば東側の端に過ぎないというのに。 「このあたりになると、正直、漢の領土というのは半分名目ね」 「そういうものか」 「そりゃあ、武帝の前、匈奴に完全に押さえられていた時代とは違うから、ある程度の影響力を及ぼせてはいるし、馬騰の豪族連合はこのあたりまで伸びていたけど、その豪族連中だって、馬騰に従いつつ、五胡ともうまくやってるってのが大半ね」  これまでの漢中と同じようなものだろうか。どちらにも税を納めることで、安全を保障していたのだろう。実際、漢の軍隊が羌や鮮卑に対してどれだけ力を発揮してくれていたかというと怪しいところだ。 「朝廷からすれば下手に騒がず税さえ納めてくれれば文句はない。逆に豪族たちも羌や鮮卑と戦ったり協定を結んだりしてなんとか自分の領土を安全に保てればいい、って感じなのよ」 「羌の人達も、こちらに協力してくれる人や、子供を作って町に定住する人も多かったですから。中原とは感覚が違うのかも……」  月たちの言葉は、実はかなり深いところを示しているのかもしれないな、と考える。異民族の領土で普通に暮らす『漢人』もいれば、漢の町の中で過ごす『異民族』もいる。これは重要なことだ。そもそも異民族と簡単に言うが、実際に、民族というほど確たるくくりはないのかもしれない。隣の村の部族はちょっと違うという程度の感覚の場合もあるのではないか。  また、俺たちは洛陽にいて、『羌が攻めてきたから撃退した』という簡潔な報を受け取るが、それには、本気の略奪行を防いだ場合もあれば、脅し気味に交易を求めてきたのでこちらもなにがしかの対価を払って帰ってもらったというものも混じってはいまいか。  そんなことを思いながら、地図を見直す。 「魏は実際、どのあたりまでかな。酒泉からの報告書なんかも見るけど」 「ボクがみるところ、張掖までかしら。酒泉も貢納はしてきているようだけど……」 「酒泉自体は従っているんじゃないでしょうか。あ、この場合、酒泉っていうのは、郡じゃなくて、中心の城市のことで……」 「んん?」  珍しく月と詠の意見が矛盾している。  いや、これは矛盾なのだろうか。本人たちは顔を見合わせているが、意見を違えるうんぬんより、俺たちにどう説明していいか迷っているようにも見える。 「もしかすると、面で考えない方がいいということですか?」  何事か考えていた様子の陳宮が切り出すと、詠がようやくのように答える。 「ああ、そうね。面ではなくて、点で考えると言えばわかりやすいかも。中原のように城市があって、その周辺に小さな村々が広がっているというのはありえないし。酒泉郡ではなく、酒泉という都市だけは魏の勢力圏内と言えるわね。ただし、そこに至る街道まで勢力圏かというと難しいところね」  その途中で勝手に関をつくって税をとってる軍閥もいるしね、と詠は続ける。 「ふうむ……村が広がっていないのはなぜだい?」 「水がないんです」 「川のような帯ではなく、点で水源があるのよ。沙漠だから」  ああ、そういうことか。中原は黄河と長江という莫大な水源に恵まれている。本流を外れても、多くの支流が水と、豊かな土を運んできてくれる。  一方、乾いた土地である涼州北西部では、水流は深く深く沈み、ところどころで地表近くに出て、一部だけを潤している状況なのだろう。他は比較的乾いていて、森などはできず、草地だけになってしまうのだ。 「逆に言うと、畑を作ったりできるほど大規模な水源がある場所にはすでに都市があるわけね。旅や流通の中継点ともなるし」 「水源のある都市を漢人が支配し、その周辺、面である草原で羌たちが遊牧生活を送っている、ってことかな?」 「はい、それで認識は間違っていないかと思います。もちろん、漢人とはいっても、漢に従ってるわけではないことも多いので……」 「様々な勢力が入り乱れることになるわけだな」 「ええ、そうね、たとえば……」  その後、詠が主体となって、涼州に散在する小軍閥の状況、羌と鮮卑の断続的な侵攻状況や、オアシス都市にすむ西方の商人たちの話など様々なことを聞かせてもらう。 「むむむ……」  話が進んだところで、俺と陳宮の唸り声が妙に同調してしまう。 「真似するなですー!」 「いや、真似じゃない……って、いて、蹴るなっ」  なぜか卓の下で蹴られた。軍師殿たちは、なんでみんなすぐに足が出るんだ? 「なに? 量が多すぎて理解できない?」  くすくすと俺と陳宮のことを笑っている月はともかく、詠みたいにまったく反応しないというのもどうかと思うんだ。 「いや、そうじゃないんだが……。要はみんな複数の主を持ってるような状況なんだな、と思ってさ」  ともかく、気を取り直して答える。陳宮の方は実際情報量が多すぎて頭が煮えてそうな雰囲気だが……。軍師だけに、考えることが多すぎて一つの情報だけでいろんな思考がまわってしまうのだろうな。 「それは……そうですね。綺麗にまとまっているところはあまり……。たいてい一族やもう少し大きな塊の内では結束していますが……」 「まあ、複雑よね。一掃しようにも地方色が強すぎて、中原式の統治では難しいし」  そこまで言って、詠は腰に手を当て、睥睨するように俺を見つめてくる。 「で、本題はあれでしょ。あんたとしては、翠が涼州に戻るのを支持したいけど、魏にとって不利になるようなことは避けたいわけよね」 「魏にとって、というか……火種はつくりたくないってだけだよ」  魏の安全を考えるなら、それこそ隴西、金城までは魏の勢力を及ぼしたい。蜀にしてみれば、翠たちが故郷に戻るのならば、その影響力の増加を当然に期待する。その両者の希望は同時には叶えがたいように見える。だが、どこかに突破口があるのではないか、とそう思ってもいた。 「華琳の性格から言って、兵や民は受け入れると思うんだ。問題は指導者層だな」  現状で、馬岱を鎮西府の将として受け入れているように、まるで受け入れないことはないと思うのだが。 「そうね……。ボクたちにだって、帰ってもいいって言うくらいだものね、華琳は。まあ、豪族としては二度と立たない約束をするなら、と言われたけど」 「でも、それはしかたないことかと……。故郷に戻るだけならともかく、私や翠さんがどこかの軍閥の長におさまったりなんかしたら、華琳さんは再び討伐に出ざるを得ないでしょうし」 「馬超や董卓の名前はそこらの豪族どもとはわけが違うってことですね」 「だから、華琳は翠たちに、少なくとも蜀との関係を切る選択を迫るはずだ。魏に降れと言うか、市井の人間として生きろと言うかは別としても」 「そこを解決する案が欲しい、ということですか?」  陳宮が俺の顔を覗き込むようにして訊ねかけてくる。なんだか不思議なものを見るような表情をしているのはどうしてだろう。 「まあ、端的に言えばそうだね。華琳も、蜀の人達も、翠たちも納得するような答えがあればいいわけだろう」 「贅沢な話です」 「そうそううまくはいかないわよ」  軍師二人にそう断言されるとなかなか心に来る。もちろん、難しいのはわかっているのだが。 「それは、うん、わかってる。だから、詠たちの協力が欲しいんだ」  俺の言葉に、月が詠の裾をひっぱる。 「詠ちゃん……ご主人様がこう仰っているんだから……」  ああ、月の潤んだ目で見上げられたらもう負けだな。 「あう。ま、まあ、ボクたちで考えればなんとかなるかもしれないわね、あんたの意向はわかったから……うん、そうね……」  腕を組み、地図を覗き込みながら考え込む詠。つられて陳宮も地図を子細に確認しだしている。  その時、執務室の扉が音を立てて開いた。 「隊長、たすけてなのー」  転げるようにして部屋に走り込んできたのは沙和。その目に涙が大きく盛り上がり、今にもこぼれ落ちそうだ。 「ど、どうした、沙和」  入ってきた勢いのまま、俺の膝に取りすがってきた。いくら軽い女の子でも、この衝撃はちょっときつい。 「漢中の五斗米道の人達をどうするかって案を、明日、華琳様に提出しなきゃいけないのー」 「ああ、俺も同じことを言いつけられているよ」 「華琳様は、風ちゃんと隊長と沙和に同じことを命じたの。でも、どう考えても、この三人じゃ沙和はおまけだよぅ」  俺の膝の上で嗚咽混じりでそう言う沙和をなだめようと、肩をなでる。詠たちは突然のことに驚いて黙ってしまっている。 「まあ、そりゃ、軍師の風が主眼だろうけど、沙和だって考えてみろって言われたんだろ? ちゃんと仕上げないと」 「でもでも〜」  涙目でいやいやと首を振る沙和。なんだか、夏休み最終日の小学生を見ている様だ。しかし、俺が手伝うと俺自身の案と似てしまう可能性が高い。それは華琳の望むところではないだろう。  そんなことを考えながら顔を上げると、詠が目線で訊ねてくる。小さく頷くと、彼女はくるくると卓上の地図を丸め始める。その手際よさがなんとも詠らしい。 「ボクたちはこれからあんたの希望に添う方策が考えられるか検討してみるから、あんたは沙和の仕事手伝ってやりなさいよ」 「まあ、そうだな。頼む」  こうなったらしかたないだろう。時間もまるでないわけじゃないし、最終的な立案は沙和にやらせるとして、どうやって考えるかの糸口を提示してあげられれば一番いいだろう。 「後で、お茶を持ってきますね、ご主人様」 「あう、月ちゃんたち追い出すみたいでごめんなのー」  一応、月たちがいることに気づいてはいたらしいな、沙和。ちょっとしゅんとしている。 「うん。じゃあ、頼むな。月、詠。陳宮もありがとう」 「ふん、いつも従ってやるとは思わない方がいいですよ。恋殿の言いつけじゃなければ、お前の部屋に足を踏み入れたりもしないですよ」 「ああ。それでも、ありがとう」  ふんっ、と大きく鼻を鳴らし、肩をそびやかし、小さな体を精一杯張って立ち去っていく陳宮。その歩く様から、気を張っているのがにじみ出ていて、なんとも可愛らしく思えてしまう。 「あ、ご主人様」  部屋を出る前に、ふと月がこちらを振り返った。 「ん?」 「南鄭で昔の知り合いに何人も会いました。あの人達が望むなら涼州に戻れるように……出来ましたらお願いします」  ぺこりと下がる小さな頭。その隣で彼女に忠実な軍師が俺をじっと見据えている。 「ああ、もちろん。五斗米道の人達は魏の中ならどこへでも行ける様、進言するつもりだよ」 「はい、お願いします」  もう一度頭を下げ、彼女たちは出て行く。最後に詠がこちらを見て、しっかりやりなさいよ、と口を動かすのを見てなんとも言えない笑みを浮かべる。  それから沙和を対面に座らせ、俺は話をはじめるのだった。 「いいかい、沙和。まず、問題を整理しよう。今回、問題になるのは漢中という土地と、五斗米道だけど、この二つをまず一体と考えるかどうかというところで……」  結局、夕食時まで沙和は俺について漢中の方策を考え、二人で夕食を摂った後、彼女は一人で頑張ると言って部屋に戻って行った。  俺は、その後、自分の案を読み直してから、蜀の大使執務室を訪ねた。  紫苑か桔梗、どちらかがいればいいかと思っていたのだが、ちょうど二人とも正使の執務室にいた。どうも、璃々ちゃんと一緒にご飯を食べた後らしい。お腹がいっぱいになった璃々ちゃんは部屋の隅で、彼女の体が丸ごと乗ってしまうような大きめの椅子の上で丸まって眠ってしまっていた。毛布代わりか、紫苑のマントがかけられている。 「おやおや、おねむだね」 「ええ、食べてすぐに寝てはいけないと言っているんですけれど、どうしても。まだこちらに慣れていないというのもあるのでしょうけれど」 「なんでも珍しゅうてはしゃいでしまうのだろう。愛いものよ」  紫苑も桔梗も璃々ちゃんを見る目は母親のそれだ。慈しまれている子供というのはつくづくいいものだ。 「不自由はない?」 「ええ、それはありませんわ。桔梗もおりますし」  紫苑に促され、席に着く。桔梗が俺たちに断って、枕の置かれた長椅子にもたれかかるようになって、話を聞く体勢になる。しかし、あのお腹は大変だろうな。腰や背中の負担はかなりのものだろう。桂花も桔梗に比べればまだ小さいながら背中が痛いと俺を蹴っていたものだ。 「ところで、今日は涼州勢の話を聞きに来たんだ」 「わしらに聞くということは、月たちではなく、翠たちのことですな」 「うん。翠は、涼州に帰ることを望んでいるようだけど、蜀としてはどうなのかな、って」  二人とも、そのことは承知しているのだろう。重々しい頷きが返ってくる。 「表向きの話をするならば、故地に戻ることを誰が止められよう、としか言えませんな」  その後、大きく息をつく桔梗。 「しかし、内実を言えば、これは……な」 「翠ちゃん自身はもちろん、その下にいる馬一族、麾下の涼州騎兵はかなりの戦力。あれが抜ければ、我が蜀としては痛手としか言い様がありませんわね。さらに涼州の大軍閥、馬一族が抜けるというそのこと自体がもたらすものは、これは、もう……」  紫苑は真剣な顔を保ったまま、言葉を濁す。彼女すら言葉にしたくない事態なのだろう。  なにより、蜀には、余裕というものがない。 「だが、最前言うた通り、止められはしない」 「正直、わたくしは一番止められないんですの。翠ちゃんたちに、対等な同盟者として益州に来てほしいと誘ったのは、他ならぬこの黄漢升ですから……」 「実際には臣下と見られていても、形式は違う。俺みたいなものか」  俺の場合はそれが便利に働いているのだが、翠の場合はどうなのだろう。そもそも、他国で、俺が客将と見られていることはあっても、翠が客将と見られているなんて話を聞いたこともないしな。 「ええ、翠ちゃんはそんなことをしたりはしないでしょうけれど、形式論を持ち出されれば、誰も止めることは出来ないんです」 「翠たちは置くとしても、民は止めようがない。また、民もおらんのに翠と蒲公英を引き止めたでは、まるで人質をとるようなもの。これも桃香様の意には適うまい」  沈黙。  二人とも、もはや翠や涼州騎兵を蜀に留めることが出来ないことは半ば覚悟しているのだろう。けれど、それをどうにかせねば蜀の進む道はかなり困難なものとなる。  国の未来と、友の未来と。  二人はその二つを見据えながら、なにかがないかともがいているに違いない。 「蜀にとってせめてもの次善は、涼州に蜀に好意的な勢力ができること、かな?」 「それはそうよの。だが、華琳殿ご自身の思惑はともかく、魏という国の視点で見れば、そのようなことできようはずもあるまい」  紫苑も苦笑しながら頷く。そんなことが出来るなら、翠を蜀国内に置いておくよりもさらに有用だ。だが、それが故に華琳はそれを許さないだろう。二人はそう見ているのだ。  俺は彼女たちに、一つ肩をすくめてみせた。 「魏にも好意的であってくれればいいだけだろう」 「それは……」 「極論すれば、西涼の民のことを考えてくれればいい。自然、魏とも蜀ともいいつきあいをするのが一番だと思ってくれるはずだ」  紫苑と桔梗は顔を見合わせている。俺の言うことを信じていいのか、あるいは信じたいと思っていいのか、迷っているようでもあった。  懐疑的な二人に、ともかく蜀の意向を聞かせてもらってありがとうと礼を言い、部屋を辞した後も、俺は考え続けていた。  魏と蜀、どちらも、いや、魏、蜀、そして、西涼の三者が、同様に得をする手はないだろうか。  それを可能とする方策はないだろうか。  俺は床に着くまでずっとそのことを考え続けていたのだった。  天啓のような発想などそう簡単に浮かぶはずもなく、涼州問題は俺の中で解決することなく、まずは漢中の問題を討議する時間となった。  華琳と、柔らかそうな背もたれが大きく広がった椅子に寝そべった桂花の二人が檀上におり、俺と風、沙和という草案を発表する面々は彼女たちに対するように立っていた。 「そこの孕ませちんこ大将軍のおかげでこんな体だから、この格好で許してもらうわよ」  露骨に沙和と風にだけ言って、寝椅子の上でふんぞりかえる桂花。そうすると、お腹が却って目立って、細い体でよくもあれを支えているものだと思わせる。 「一刀はなにか反論とかはないの?」  含み笑いしながら、華琳が訊ねてくるが、こちらとしてはどうしようもない。俺の子をその体に宿してくれているのは事実なわけだし。 「今回ばかりは桂花の言う通りだからしかたないよ」 「ええい、うるさい。あんたのせいで、一時期本当に気持ち悪くてしばらく仕事できなかったんだからね! 本気で反省なさいよ!」  彼女の言っているのは悪阻のことだろう。それについては、その時期は呉にいて仕事を分担してやることもできなかったわけで、桂花に申し訳なく思う。悪阻自体をどうにかするのはどちらにせよ無理なのだけど。 「まあ、稟と同時はちょっと参ったけれど、子供自体は喜ばしいことなのだし、そのくらいにしておきなさい」 「……華琳様が仰るなら」 「はいはい、いちゃつくのはそれくらいで、そろそろ草案についての検討に移ってよいですかねー」  いちゃついてないわよ、莫迦! という桂花の抗議は無視され、風の言葉に応えて、華琳が手元の竹簡を持ち上げる。 「まず、一刀の案だけど、漢中の土地は蜀に割譲とは思い切った策ね」  最初は俺か。華琳の言葉に応えて、自分の案の要約を口にする。 「漢中は要地だけど、実際に保持するとなると、魏の側から人や物資を送り込まなければならない。あの桟道を通して、だ。それはかなりの負担になる。だったらいっそ蜀に進呈してしまって恩を売る方がいいだろうと思ってね」  面白そうに目を細める華琳。あの様子だと、採択するかどうかはともかく、まるで期待外れではなかったようだな。 「それに土地は譲るけど、人は取り込む。五斗米道の信者は多い。俺が見た限りは危険思想でもないし、国の力になるだろう。屯田もまだ空いていることだしな」  具体的には、漢中の戸籍を作り直し、移住を希望する人をその過程で募集するのだ。田畑の検地も一緒にやるから、税収の洗い直しにも繋がる。それは蜀にとってもよいことだろう。 「蜀は空っぽになった漢中を受け取る、か。ひどい男ね、一刀」  意地悪な笑みを浮かべ頬杖をついた華琳。あの視線に全てを見透かされているような気がするのだよな。 「空っぽってほどじゃないと思うぞ、さすがに……」  現実には、五斗米道の信者ではない者もいるし、信者であっても、土地を捨ててまで移動したいとは思わない者もいる。元々涼州や各地に縁がある人間はともかく、それ以外の人間が動くかどうかは怪しいものだ。ただ、あの南鄭の勢いを見ていると、都市部の人間はだいぶ減ってしまうだろうという予想は立つ。 「次、風の案。一刀と同じく、漢中を魏領に組み込むのは避けるのね。そのかわり、皇帝直轄地──天領とする、か」 「はい。帝のものという名目で、管理を魏と蜀両国で行いますー。これで、蜀の反発も抑えられるかと思いまして。さすがに全てを放棄するのは少々危ないと思いますので、二国の共同統治としました」 「両者の割合は?」 「魏六、蜀四というところですかね」  資料に目を落としている桂花の質問に答える風。 「人民はおにーさんの案ほど積極的に取り込まず、希望者がいれば徐々に受け入れるという形を考えています。あんまり積極的だと、蜀側の反応が読めませんのでー」 「手堅い線か……」  華琳はしばし考えた後で、次の竹簡を手にとる。沙和が昨日考えたものだろう。俺も多少は手伝ったけれど、実際にどんな形になったかはわからない。 「沙和の案。漢中の統治は天和たちに任せ、芸人の天国をつくる……?」 「そうなのー。南鄭で見た祭りはほんとーーっにすごかったの! あれを一度でなくしてしまうのはもったいないの。もちろん、旅芸人だけじゃなくて、書画、詩歌も含めた、いろんなものを集めて、後世に遺していくの。漢中全体をいろんな人達が行き来できるようにして、新しいものを生み出すの!」  驚いた。  沙和が打ち出してきたのは、芸術都市、文化都市を作り上げる文化政策だ。  この時代でも、文人たちを集め討論させたり、詩人たちに競わせたりということはあると聞くが、在野の芸人たちまで視野に入れるというのは聞いたことがない。ましてや、そこに人の行き来をつくり、流動性をもたせようというのは。  俺と話していた時にはまるで言っていなかったから、きっと、あの後考えついて、形にしたのだろう。華琳が形になっていない献策を受け取るわけがないし、必死で仕上げたのだ。  笑顔の沙和をじっと見つめてみると、目尻がうまく普段通りの色に塗られていることに気づく。きっと、あの下にはくっきりと隈があるに違いない。  俺は、誇らしい気持ちを抑えることができなかった。  あの沙和が……。  ただ、この時代で彼女の出した案を実行できるか、というと話は別なのだが……。 「面白いわね」  華琳は竹簡に書かれた文字を指で追いながら、呟くように言った。それから、沙和に向けて少し困ったような顔をしてみせる。 「ただ、漢中の対策としては、筋違いね。採用できないわ」 「うう、残念なのー」  しょんぼりする沙和。しかし、彼女の提案は間違いなく価値のあるものだ。これにめげないでくれるといいが。 「桂花、どう思う?」 「やはり、風の案が良くできていますね。ただ、民を積極的に受け入れる姿勢を示さなかった場合、蜀はともかく、五斗米道の反応が気になります。なにしろ宗教者の熱狂ですから、あまり抑えつけようとするのは逆効果かと」 「ふむ」  桂花の言を受け、腕を組み考え込む魏の覇王。俺たちはもはや言い渡される結果を待つしかない。毎度この時間は胃が痛むな。  華琳は一つ頷くと、顔を上げる。その顔にはすでに決然たる意志が宿っている。 「一刀の案と風の案のいいところをとることにするわ。漢中は天領とし、南鄭の管理は魏が、それ以外の土地は蜀に委託する。検地を実施すると共に民の戸籍を作り直し、移住希望者を募りなさい。一年後には移住を開始できるように。責任者は誰がいい? 桂花」 「田豊あたりにやらせてみてはいかがでしょう。風か稟をその監督に」  その答えに、華琳は片眉だけはねあげて、微笑みを浮かべる。 「あら、麗羽のところの人間を使うなんて、あなたも丸くなったわね」 「手は多いにこしたことはありませんから」  からかい口調に、少しすました感じの桂花。あの様子だと、彼女にとっては田豊を使うのはあまり好ましくはないのだろうな。麗羽麾下の時代になにかあったのかもしれないが。 「では、風。稟が一線に戻るまではあなたが監督。稟が元気になった後でやりたいと言うなら変わってあげてもいいわよ」 「了解しましたー」  そうして、全ては決まる。  今回は俺の策の一部が採用されたが、もちろん、まるでかすりもしないこともある。  だが、そんな時でも、華琳の決定を聞いていると、たしかにこれしかないと思わせるものがある。  それがまさに王というものなのだろう。 「沙和、あなたの案は面白いけれど、漢中でやることではないわね。ただ、やる価値はあるとみたわ。芸事の範囲をさらに広げて、どんな人材を、どの場所に集めれば効果的か考えなさい。最初の段階では、金銭的な問題や土地の問題は置いておいていいわ。わかった?」 「りょ、了解なのー」  沙和の案はかなり華琳のお気に召したようだ。実際に動くのがいつになるかわからないが、華琳がやるとなれば徹底的にやるだろう。  俺は沙和に向けて、小さく手を振った。応援の気持ちが伝わったのか、華琳に新しい課題を出されて緊張した面持ちだった沙和がこちらを見て笑みを浮かべてくれる。その拍子にずれた眼鏡を慌ててなおす様子が、お茶目だ。 「ああ、風。布告は、天領とすることを先に。しばらくしてから、蜀にも委託することを出しましょう。一度に言えば、中途半端に反感を招くかもしれないけれど、一度反発させておいて、あちらにとって悪くない案を提示すれば文句も言えなくなるはずよ」 「そですねー」 「さすがだな」  唸るように俺が言うと、華琳が鼻を鳴らす。 「実際、実利を考えれば文句なんか言わないはずなのよ。でも、領土問題は利益だけじゃなくて、面子や遺恨なんかがあるからね。あちらにとっても都合のいい環境を整えてやらないと」  華琳は座りなおし、竹簡を片づけ始める。それをきっかけに、沙和や俺もそれぞれ資料を片づけていく。 「さて、漢中についてはひとまず終わり。沙和は下がっていいわ。一刀は翠たちを迎えに行って。次は彼女たちだから」 「了解」  俺は華琳の言葉に従い、謁見の間を出るのだった。  翠たちが待つ次の間につくと、なぜか翠と馬岱さんに混じってメイド服姿の詠がそこに待っていた。 「あれ、どうしたんだ」 「これ、読みなさい」  差し出されたのは、分厚い紙の束。これを今すぐ読めというのか。そんな時間がどこにあるというのだ。 「いまは……」  そう言いかけて、詠の目が真っ赤に充血していることに気づく。そして、彼女が無意味なことをするわけがないということも。 「概要は最初にまとめてあるわ。後は裏付けの資料。概要だけなら、それほど時間はかからない」  俺は頷くと、部屋の前にいた親衛隊の女性に、少し遅れるとの言伝を華琳にしてくれるよう頼み、それを読み始める。 「おいおい、曹操の謁見だぞ、勝手に伸ばして大丈夫かぁ?」  呆れたような翠を、仁王立ちの詠はじろりと横目で睨みつけ、言い放つ。 「伸ばす価値はあるわ。あんたにとっても、涼州にとっても」 「そ、それならいいけどさあ……」 「お姉様よわーい」 「う、うるさい。涼州のこと考えるってんだから、しかたないだろ。詠だって涼州の人間なんだし……」  俺はそんなじゃれあいのような言葉の応酬を聞きながら、猛烈な勢いで彼女が持ってきてくれた草案を読み進む。 「これは……」  さっきから一歩も動かない──おそらくは動くとふらついてしまうのだろう──詠がまとめた案を見て、俺は驚かざるを得なかった。 「もちろん、これをそのまま使わなくてもいいわ。ただ、ボクたちが考える現状の最善はこれ。華琳がなにか考えるきっかけくらいにはなるでしょ」 「……徹夜したのか?」 「大したことじゃないわよ」  ぱたぱたと手を振るその姿はたしかに可愛らしいメイドさんのはずなのに、なぜか軍師たる賈駆の堂々たる姿にしか見えなかった。 「ありがとう、詠」 「ねねにも言うことね。あの娘もだいぶがんばったんだから。ともかく、ボクはできる限りのことをしたから。後は任せたわよ」 「ああ、任された」  ぼすん、と長椅子に倒れるように座り込む詠をしっかり見据えて、俺はそう答える。  そうして、俺は二人の馬将軍を振り返った。 「すまない、翠、馬岱さん。これより、曹丞相の下にお連れする」  翠の謁見は、両脇に桂花と風という二人の軍師を侍らせた華琳と対する形で行われた。今度は俺も魏の側ということで、檀の脇に控えている。 「いいわよ」  涼州の民の帰還を許してほしいという申し出に、華琳はあっさりと首肯した。 「ただし、民は土地が失われていた場合、我が方で用意した屯田に入ること、兵は武裝を解除して民として土着するか、土地の軍──つまりは我が軍に入ること。これが条件」  こんなにも簡単に肯定されると思っていなかったのか、翠は少し呆然とした様子だったが、気を取り直したように問い直す。 「そ、それは、兵一人一人が選べるのか?」 「ええ、そうしてくれて構わないわ。実戦経験のある兵に武器を持たせたまま野放しにはしたくないだけだもの」  華琳は優雅に足を組み直し、翠を見下ろして言う。 「ただし、あなたたち馬一族はまた別よ」  当然の反応だろう。その後に発せられる言葉は当然のように予想できた。 「蜀を離れなさい。これが条件。魏に仕えろなんて言わないわ。昔通り、漢の臣下として働いてくれればいいわ」 「それは……あたしだけならいいけど……」 「どうするの、お姉様……」  相談し始める二人を見ていて、いまかな、とあたりをつける。 「あー、ちょっといいかな」 「あら、一刀、なにかしら。わざわざ会見を遅らせた言い訳でもしてくれるの?」  そんなに怒らなくてもいいだろう、と言いたくなるくらい怒ってるな。しかも俺だけに。まあ、遅れて来た時点で、この場を追い出されなかっただけでありがたいわけだけど。 「いくつか提案がある」 「おにーさんがですかー?」  風が口元を隠しながら、こちらに視線をくれる。桂花はまた余計なことをとでも言いそうな渋面を作っており、華琳は相変わらず不愉快そうにこちらをねめつけている。 「興味を惹けると思うぞ」 「ふうん? 言ってみなさい。ただし」  華琳はその先を続けない。つまらないことを言ったら、叱責されるどころか、失望されるだろう。それはとてつもなく恐ろしいことだが、俺の手元には詠たちが作ってくれた草案がある。 「わかっているさ。かいつまんで言うと、翠を王として、西涼王国を樹立する」  自分の言葉のもたらすであろう衝撃を予想して身構えた。  翠は喉から変な声を出して固まってしまい、風はにやにやと俺を見つめていた。馬岱さんは理解しているのかいないのかあまり気にした様子でもなく、華琳は静かに黙っている。一人、桂花だけが噛みついてきた。 「あんた、なに言ってるのかわかってる?」 「最後まで聞いてくれよ。俺が提案するのは、涼州の西北部──具体的には武威郡から先、敦煌までを西涼として独立させる計画だ。知っての通り、涼州の中でも実効支配ができているのは張掖郡あたりまで。そこで、さらに西方を魏、蜀の二国で切り取り、西涼王国を成立させる」  華琳が止めようとしないので、話を続ける。翠は相変わらず固まったままで、後ろで結んだ長い髪の毛がかすかに揺れているのが見えた。 「西涼は魏の属国とする。蜀や呉みたいな同盟国じゃない。属国だ。だから、王も、魏の側から翠と指定する。しかし、蜀も領土の安定に協力することで、一定の影響力を保つことができる。まあ、こちらは魏にとっては損かもしれないが、兵を損なわずに済むということと、協力関係を強めるということで考えてほしい。実際、西涼が西涼として自らの利を求めるならば、魏、蜀、そして、いずれは呉とも良好な関係を保つことが賢明だと考えるはずで……」  そこまで言ったところで、俺を制止するように華琳の手が上がる。 「待ちなさい、一刀。その手に持ってるのは、まとめたもの?」 「ああ」 「ちょっと見せて」  求めに応じ、檀を上がって彼女に手渡した。  しばらくの間、謁見の間に、彼女が頁を繰る音だけが響く。  ようやく立て直したらしい翠が、睨みつけるような目線で訊ねてくるが、いまは動くわけにもいかない。 「これ、一刀が考えたの?」 「いや、詠と陳宮だ。俺じゃ思いつかない。もちろん、責任は俺にあるけどな」  紙の束をぱたんと閉じ、顔を上げる華琳。俺を見るその視線が妙に優しいのはなぜだろう。 「知りもしないで、よくこんなものをつくるわ。賈駆と陳宮の二人をあなたの下に置いているのは失敗かもしれないわね」 「えっと……」  言葉だけをみれば辛辣だが、俺から見る限り、彼女の態度は明らかに二人を称賛している。一体、なにがそんなにも華琳の琴線に触れたのだろう。  そして、彼女は静かに宣言するのだった。 「魏、呉、蜀の三国は、半年後、総勢五十万の兵力をもって漢土の安寧を乱す五胡を伐つ。すなわち、北伐を決行するのよ」         (第二部北伐の巻第四回・終 北伐の巻第五回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○序章『基本概念』より抜粋 『皇家集団とその名称』 『(前略)……五十皇家にはいくつかの集団が存在する。この中には正式に国家の機構として定められたものと、後代の歴史家や市井の人間が便宜のために呼んでいるものが混在しているが、皇家同士の繋がりに関する理解のためにはこれらの呼称も有用である。そこで、本書で使われている名称とその簡単な性質について、ここで述べてみよう。複数の集団に所属する皇家があることに注意されたい。 ・七選帝皇家  劉備を祖とする靖王劉家を筆頭とする七つの皇家。次代の皇帝を選抜する重要な国家機構。各皇家にはそれぞれ皇帝の資質を審査するための膨大な技術、知識の蓄積があると言われるが、そのほとんどは門外不出であり、明らかになっていない。  靖王劉家、周家、郭家、呂家、陸家、陳家、小馬家の七家で構成する。後に明帝の登極により周家が抜け、鳳家にその地位を譲る。 ・東方八家  東方殖民の中心となった八つの皇家を言う。国家機構ではないものの、公式文書でもこの名で記されることが多い。なお殖民には他の皇家からも多数の人員が参加したが、直系自体は西方に残った場合、東方大陸の皇家とは言われない。  李家、楽家、于家、許家、典家、華家、東方呂家、東方黄家の八家によって構成される。 ・三皇  魏公、呉公、蜀公の公位を世襲する三つの皇家を言う。  曹宗家、孫世家、靖王劉家の三家で構成される。 ・央三王  本土に存在する、幽王、西涼王、仲王の王家三つを言う。  公孫家、王馬家、南袁家にて構成される。孟家を加え、四王と呼ぶ場合も。 ・十指  後に帝国十本指と呼ばれる十の巨大国家を支配する皇家。なお、一つの国に支配皇家が複数いる場合があるため、十指と言っても十家ではないことに注意。  北袁家、張家、道三家、厳家、魏家、黄家、小孫家、楽家、東方黄家の十一家を数える。 ・その他の小集団  北袁家集団、南袁家集団、曹家集団、孫家集団、董家集団など、北郷朝成立前の主従関係、血縁関係などを保持した集団が複数存在し……(後略)』