いけいけぼくらの北郷帝 第二部 北伐の巻 第二回  漢中の城市、南鄭(なんてい)はまさに祭りの最中にあった。 「なんだか……すごいな」  郊外にある丘に馬を進めて見下ろすと、その盛況さが窺えた。各所で楽の音が響き、人々はいくつもの人だかりを作り、あるいは練り歩き、街全体が沸き立つようににぎやかだ。 「ええ、城壁の外にまで旅芸人たちの小屋が並んで……はて、白馬義従はじめ兵たちの天幕をはる場所があるでしょうかな?」  俺の横に馬を並べ、同じように眺めている子龍さんが心配をする。彼女の言う通り、城壁の外にも種々雑多な小屋がかけられ、そこで芸をする者、それを見る者が入り交じり、活況を呈している。  兵たちを含めた一行のほとんどを丘の陰で待機させておいてよかった。いきなりあの中に武裝した兵たちが踏み入ったら恐慌を来していたかもしれないからな。 「使いが帰って来たら、守備の将がそのあたりは案内してくれると思うんだけど……」  洛陽や成都のような大都市なら、兵の千や二千、城の中に収容できるのだが、この南鄭で余分な兵の宿舎がそれだけあるかどうかは怪しい。その場合は用意してきている天幕をはって過ごすわけだが、あまり都市と離れたところに設置すると、兵たちの不満が出る。彼らとて、休みがてら街で遊びたい、という気持ちくらいあるのだ。街と離れていると、それだけ遊びに行く機会が減ってしまうので、不満が募る。 「まあ、しばらくは待つしかありませんな」 「ところで……紫苑と仲直りした?」 「ん? ああ、仲違いしたと思われておりましたかな?」  成都を発つ前からずっと気になっていたことを訊いてみる。だが、なんでもないことのように微笑み返された。 「いや、模擬戦の後の改めての打ち合わせにも顔出さなかったからさ」 「少々腹が立っておりましたからな。抗議のために欠席しましたが、それ以上は特に気にしておりませんよ。紫苑ともうまくやっております」 「そう、ならよかった」  成都を発ってからの子龍さんは、翠と二人で白馬義従の面倒を見るので忙しそうだったから、果たして紫苑とどうなっているのか心配だったのだ。 「しかしながら……いかに自分がいない間、軍師殿たちが暴走しないようにとはいえ、あのようなことは感心しません。諫めるならば、他にもやりようがあるというもの」  当の紫苑の口から、軍師二人を諫められる要員として、子龍さんの名前が挙がっていたのは黙っておくとしよう。止められるのに、止めてくれないから……と注釈がついていたからな。  しかし、子龍さんと、桔梗と紫苑の二人の年長組を除けば軍師のことを諫められる人間がいない、というのは問題でもある。もちろん、最終的な意思決定権は玄徳さんはじめ桃園三姉妹にあるだろうし、その意味では暴走の懸念は狭い範囲に限られるのだが……。  だが、もっと恐るべきは、あの二人の意志が強固に統一されていることだろう。ある局面に対する方策で、よほど選択肢が少なくない限りは、魏の三軍師や呉の三人の意見が綺麗に揃うことはあまり想像しにくいが、孔明、士元の二人に関しては、ぴたりと揃ってしまう気がする。そこが、強さでもあり、紫苑が大芝居を打ってまで牽制する部分でもあるのだろう。 「まあ、朱里に雛里も頭が良すぎるが故に、時折……お? なにかきますぞ」  見れば、城門からなにか大きなものが南鄭の兵達に囲まれて出てくるのが見える。 「本当だ。あれは、神輿……いや、山車か」  正確に言えば、俺が知っている日本の山車とはまた違うものなのだろう。だが、大きな飾り彫りがほどこされた車輪がついて、その上に塔のようなものが立てられ、派手派手しく飾りたてられたその車はまさに山車だった。  近づいてくると、上に乗った塔にも精緻な彫刻がほどこされ、様々な物語や伝説の場面が描かれているのがわかる。 「やっほー、一刀ー」 「ひさしぶりじゃのー、一刀ー」 「あー、どうもー」  その塔の前面、玉座のようにしつらえられた三つの椅子に座っていた女性たちが、俺の姿を認め、それぞれに声を上げる。一人なんか、椅子に乗ってはねまわりはじめちゃったぞ。 「地和に、美羽、それに七乃さん!?」 「おやおや、熱烈な歓迎ぶりですな」  地和がいるのはわかる。しかし、美羽に七乃さんはなにをしているのだろう。  そんなことを考えていると、山車は丘の麓に止まる。さすがに緩いとはいえ傾斜を登ってくるのは無理があるのだろう。 「ほら、呼んでおりますぞ。紫苑や呉の面々には私から伝えますから、行ってやってはいかがか?」 「ああ、そうだな。頼む」  ぺこっと小さく子龍さんに頭を下げて、俺は、そんなに急ぐ必要などありはしないのに、馬の腹に一打ちくれ、麓へ駆けだすのだった。  一応洛陽からの迎えの将だったらしい美羽と七乃さんに呉、蜀の兵たちの世話を任せて、俺は地和に引きずられるように祭り真っ只中の街へ足を踏み入れていた。華雄が護衛についてきたがったが、南鄭の兵達が地和の護衛につくということなので、沙和と共に城に行ってもらうことにした。先に着いているはずの月たちとの連絡も必要だからな。  しかし、地和と俺の護衛に完全武裝の兵が十数人着いてくるのはちょっと大げさじゃないか。 「ちぃたちねー、このあたりだと天女様とかいって崇められて大変なんだよー」  彼女の言う通り、街の人々は、祭りの混雑の中でも、地和の姿を認めては、なんだかありがたいもののように近づいてくる。護衛の兵達は実際の護衛そのものより、それらの人々を捌くために必要なようだ。 「まさかまた昔みたいな……」  遠巻きに手をあわせて拜むようにする人までいるのを見て、少し驚く。そんな天女様に腕を組まれて親しげに話しかけられている俺はどんな風に見られているのだろうか。また天の御遣いとか言われるのか? 「あっは。さすがにないよー」  ぎゅうっ、と彼女は腕にしがみつき、その胸や肌が触れてくるのが俺の心臓をはね上げる。 「でも、そういう風に使いたがってる人はいるみたい」  声をひそめ、まるで違うほうを向いて呟く地和。その真剣な声音が、内容の深刻さを裏付けていた。 「まあ、そのあたりは、あとで、ね」  一転明るく言うと、俺を引っ張り始める地和。 「ほら、あそこの大男見てよ、火とか吹いてすごいよねー。どうやってるんだろ。人和ならわかるかな?」 「ちょ、ちょっと、走ったら危ないってば!」  ぐいぐい引っ張る地和の勢いに負け、俺は祭りの喧騒の中に引きずり込まれていく。 「それにしても、すごいな。大陸中から芸人が集まってるんじゃないか」  見回せば、目の前で口から火を吹く大男のように目立つものでなくとも、独楽回しや講談師、見たこともないような楽器の奏者、鉄の棒を曲げて見せる剛力の持ち主、美しい剣舞を舞う肌もあらわな女性など、様々な芸人たちが大通りのあちこちに散らばって、それぞれに人を集めている。 「うん、そうだよ」  あっさりと肯定する地和。 「さすがに全部じゃないと思うけど、主立ったところには声かけてるよ」 「え、ほんとに?」 「うん。公演で回ってる間に会った旅の芸人さんとか、元々の知り合いとか、顔役とか通じて集めたからね。西は蜀の端から、東は海のあたりまで、揃ってるはずだよ」  それはすごい。たしかに彼女たちは大陸中を回っているから自然と顔も広くなるだろう。特に芸人仲間なら彼女たちの顔を知らないはずはない。 「へえ……よく集めたな」  そう言って感心する俺の横を、龍をかたどった人形のようなものを抱えた数人が通りすぎ、それを子供たちが追いかけていく。 「うん、実際に色々やったのは人和だけど、ちぃもいろんな人に会いにいったりしたよー」  地和の関心は、すでに火吹き男から逸れ、俺たちはにぎやかな大通りを再び歩きだしている。 「じゃあ、よっぽど力が入ったお祭りなんだな」 「うん。なにしろ十日間ぶっ続けだからね。もちろん、ちぃたちの公演が目玉だけど。ただ、芸人たちを集めたのは、この祭りのためだけじゃないよ」  楽しそうに笑って言う地和のほうを見ると、俺の怪訝な顔がおかしかったのか、けらけらとさらに面白そうに笑う。 「これはね、手始め。ちぃたちが大陸を制覇するのは当然! でもさ、それだけじゃつまんないでしょ。さっきの火吹きみたいな面白さも、ほら、そこでやってる武術みたいなのもあったほうがいいかな、って、そう思ったんだよね」  そうして、彼女は自信満々にこう言い放つのだった。 「だからね、今度はみんなで大陸制覇するの!」 「それだけじゃないけどね」  地和に色々引き回され、だいぶ時間が経ってから城につくと、早速人和が解説をしてくれた。この場には、一緒に卓についている人和と天和しかいない。他の面々はそれぞれの部屋で疲れを癒やしていることだろう。  いや、シャオと蓮華は一悶着起こしていて、それを先に着いている月たちがなだめたりしているはずだが……これは、俺も後で顔を出さないといけないだろう。  ちなみに、地和は俺を解放すると、また街の視察──という名の遊び──に出て行ってしまった。 「ちぃ姉さんが一刀さんに説明したことは、間違ってない。けど、それだけじゃない」 「他にも狙いがあるんだね」  俺が訊ねると、眼鏡を押し上げて人和が答えようとしたところに、大げさな身振りをしながら、天和が割り入る。 「うん。華琳様に命じられたんだよねー。旅芸人たちの情報網を作れって」 「……間諜組織ってこと?」 「いいえ、そこまでは言われていない。どちらかというと、能動的なものは望んでいないようだった」  今度は人和。彼女は改めて眼鏡をくいと押し上げると口を開く。 「まず、私たちは、芸人仲間の互助組織を作った。これは、本当に皆で助け合っていくもの。どこそこでは盗賊が出て危ないとか、あの地方ではこんな芸が受ける傾向があるようだとか、あちらは豊かになってるから客が多いぞとか、そんなことを教え合う。いずれは、お互いに仕事を斡旋したり依頼したりすることも出来るようにしたい」  ふむ、まさに互助組織だ。芸人というのは根無し草のことも多く、比較的迫害されることも多いから、お互いに助け合うことは芸人たちの安全と社会的地位の押し上げに役立つことだろう。あまり閉鎖的にさえならなければ。 「あっちでは川が氾濫してるぞーとか、こっちの道は歩きやすいよーとかも必要だよねー」  天和が付け加えるのを聞いて、ようやく華琳の思惑に思い当たる。 「つまり、華琳は、そういう生の情報をほしがってるのか」 「たぶんそうだと思うよー」  どうも俺が危惧していた、旅芸人たちを各国の監視に使うといった強権的なものではなく、一番伝わりやすい情報源として各地の様々な情報を集める手だてとしたいようだ。間諜では探りきれない庶人の感情や細かい事情まで知ることも出来るし、なにより街道の安全を確保するために、頻繁に利用する旅芸人たちの情報を得られるのは大きな収穫だろう。 「ただ、まだ、情報を集中させる仕組みは作っていない。いまは、ただ、皆の口伝てで回ってるだけ。人から人を経る間に間違って伝わってしまう場合もあるから、注意が必要」 「そうそう、張遼将軍が一度に何カ所にも現れたことになってたりするものねー」  霞なら数日でいくつもの街を巡ったりしていてもおかしくない。それが誇張されたり日時がずれたりして伝わっているのだろう。 「そのあたりは、放っておいても人和たちに集まるような仕組みが出来ればいいんだろうけどね」 「うん、出来れば、あからさまに一カ所に集められているということがわからないほうがいい。あくまで整理のためのついでに情報を引き出せるのが望ましい」 「おー、人和ちゃんすごい。お姉ちゃん、そこまで頭まわらなかったよ」  天和の称賛に、人和は素直に微笑んだが、その後、少しためらうような素振りをして、何度か口を開いては閉じ、最後に決意したように言葉をつむぎだす。 「もう一つ考えないといけないことがあるの。それは、集めた情報を華琳様に流すことで、芸人仲間たちに不利益が生じないようにすること。難しいけれど、しっかりやっておかないといけない。これは、けして華琳様に逆らうとかではなく……」 「大丈夫、わかってるよ、人和」  話している途中で言葉を挟み、それ以上彼女が言わないで済むようにする。 「華琳なら上げた情報をうまく生かしてくれるだろうけれど、盲目的に信頼をし続けて、大変なことになるようなことは避けたいもんな」  こく、と小さく頷く人和。間諜組織ではないと言っている以上、華琳の性格からしても、互助組織の情報を基になんらかの軍事侵攻だとか陰謀だとかが練られるとは思えないが、万が一そうなってしまったら人和たちにしてみれば後味が悪すぎるだろう。最初からそれを覚悟しているならともかく。 「あとはー、いくらみんなで助け合うっていったって、悪いことは手助けできないよね。そういうのは気をつけないと」 「うん、自浄作用が働くようにしないといけない。まだまだ課題はたくさんある」  それはそうだろうな、と思う。もし、情報を利用して窃盗を起こしたなどという事例があれば、芸人たち全体の印象が悪くなってしまう。そういう意味では、かなり厳格に対処しなければならないだろう。 「大変だな……。もし力になれることがあったら言ってくれ。まあ、俺なんかより三軍師や詠のほうがいいのかもしれないけど」 「んー、でもでも、さすがに稟ちゃんたちは、私たちの立場だとちょっと頼みにくいかな」  天和がちょっと困ったような顔をして呟く。 「そういうものか?」 「普段の話をするのはいいけど、政治向きの話となると……」  人和も同意する。そういうものなのかもしれない。俺は慣れきってしまっているが、一応地位とかもあることだしな。 「じゃあ、俺を通じてなら大丈夫だろ? もしなにかあったら書簡でもいいから送ってきてくれよ。こっちでも頭を絞るからさ」 「うん、その時はよろしく」 「一刀ってば頼りになるー」  天和の言葉に、苦笑を漏らす。彼女たちに頼まれると、なにがあろうと断れない。とはいえ、実際には頼りになるのは俺ではなくて、俺の周りの人間なのだが……。 「ところで、南鄭はどうだったー? ちぃちゃんとだけじゃなく、私とも一緒に行ってほしいなあ」  天和が椅子ごと引きずるようにしてにじりよってくる。愛らしいくりくりとした目で見上げられると非常に弱い。 「うん、あとでね。もちろん、人和も」  そう言うと反対側でこちらに無言の圧力をかけていた眼鏡の女の子も微笑んでくれる。 「でも、ちょっと意外だったな」 「え?」 「漢中って五斗米道の本拠地だろ? だから、なんというか、もっと、こう暑苦しい人達かと……」  いや、華侘が暑苦しいと言っているわけではないが……たまにそう思うこともないではない。  天和はよくわからないという顔をしている。一方で人和は苦笑いを浮かべていた。 「それはありがちな間違いかな」  彼女は噛んでふくめるようにゆっくりと一音一音を発音して、次の言葉を述べてくれた。 「たぶん、一刀さんは、五斗米道(ごとべいどう)と五斗米道(ゴッドヴェイドー)を取り違えている」 「……違うんだ」  五斗米道(ゴッドヴェイドー)は華侘の使う医術の一派だよな。じゃあ、もう一つはなんだろう? 「正確には両者は同じ根から産まれた兄弟。人々を病から救いたいという根本の動機は同じ。五斗米道(ごとべいどう)は精神の救済、五斗米道(ゴッドヴェイドー)は肉体の救済へ向かった」 「えーと、つまり、一つの集団が、精神的な救済を目指す教団と、体を治す医術集団に分かれたってこと?」 「そう。でも、分かれたのは、そう古くない。正確にはわからないけれど、たぶん、前の前の世代くらい……かな? だから、表記も同じだし、両者もお互いにつながりがあるので、外部の人間が区別できなくても気にしていない」  なんとまあ誤解を招きやすい構造だ。それなら、俺の誤解も当たり前というものだ。 「たぶんだけど、信者の人もよくわかってない人は多い。そもそも五斗米道(ゴッドヴェイドー)のほうはかなりの修行を要するので、継承者がそれほど多くないはずだから。ただ、その基本の部分は五斗米道(ごとべいどう)でも保持しているから、簡単な治療行為はいろんな街の義舎でも行っている。この街だとより本格的」  たしかに、あの華侘も師匠について結構修行したという話だったからな。病魔を打ち倒す医術なんて、継承できる人間はそうそういないだろう。それでも、五斗米道のほうの義舎でもそれなりの治療行為が出来るのはありがたいことだ。なにしろ、赤壁の後に祭が命を救われたくらいだしな。 「このお祭りは五斗米道のお祭りだよねー?」 「そう。おかげで、漢中全土から多くの五斗米道の信者が集まっているわね」 「漢中中から、人が来ているのか。そりゃあ、人通りが多いはずだ」  五斗米道という信仰のためと、天和たちをはじめとした芸人たちを見るために、余計に人が集まっているのだろう。そして、人が集まれば、それを目当てに商人も集まり、さらに人の波は膨れ上がる。  人和はこちらをじっと見つめて、眼鏡をくいと押し上げた。反射で彼女の表情が判別できなくなる。 「最後の十日目に、天師、つまり教主である張魯さんが、託宣を受けるらしいから。みんなそれを期待しているの」  人和と天和に後で遊びに行くことを約束してから、俺は蓮華たちがいるはずの部屋に向かった。  部屋に入る前から、向こうで何事か大声で言い交わされているのがわかる。 「あー、お邪魔するよー」  扉を開けると、途端にぎゃーぎゃーわめく声に包まれる。そっと扉を閉じ、入り口脇の壁にあきれ顔でもたれかかっている詠に訊ねる。 「どう?」 「どうもこうも。見りゃわかるでしょ」  彼女がひらひらと手で示す方向を見ると、まさに部屋を支配している喧騒を生み出している二人がいた。蓮華と小蓮だ。思春はその怒鳴り合う二人の脇に立ち、たまに行き過ぎた言葉を指摘しているし、月と恋、セキトはおろおろしてうろついている。 「こりゃ、困ったな」  言いながら、詠の横に立ち、声を低めて言う。 「詠、久しぶり」 「ん」  興味あるのかないのかよくわからない仕種で頷く彼女を見て、詠らしいな、と思う。再会の挨拶で詠に抱きつかれたりしたら、それはそれで戸惑ってしまうだろう。  いや、たぶん、すごい嬉しいけどな。 「だいたい、お前は部屋の片づけがなっていないのだ。この間船で割り当てられた部屋を覗いてみたら、まだ初日だというのに服が脱ぎ散らかされて……」 「あー、ひどい、いつの間に入ったの! シャオに勝手に入るなんて横暴……」 「そういうことを言っているのではない、私が言っているのはだな……」  蓮華と小蓮の言い争いは終わりそうにない。  俺の存在に気づいたのか、思春が彼女たちからすっと離れてこちらにやってくる。 「お疲れさま」 「別に大したことではない。蓮華様もたまにはあのように大声を出して発散されるのも悪くない」 「ああ、ため込みそうよね」 「でも、ありゃ、もう関係ないこと言い合ってるように見えるぞ」 「姉妹喧嘩だからな。雪蓮様はわざと煙に巻くのがお得意だが……小蓮様のあれは、その模倣かもしれぬ」  孫呉の血だな、などと珍しく冗談を言う思春。彼女の場合、聞くほうがよほど注意していないとその諧謔に気づかないのが困ったものだ。 「まあ、そろそろ止めないと喉を痛めてしまわれるかもしれん」 「そっか。じゃあ、止めますか」 「うむ」  言い合い、二人で喧嘩中の二人にそれぞれ背後から近づいていく。普段ならこんなことは絶対に出来ないだろうが、意識が相手に向かっているので、簡単に近づけてしまう。月と恋が心配そうに俺たちを見ているのがわかる。 「はい、小蓮、そこまでー」 「蓮華様、そろそろ落ち着きましょう」  シャオの肩をひきよせて、俺の体にもたれかけるようにする。向こうでは、蓮華が思春に抱き留められるようにして止められている。 「か、一刀に思春!?」 「一刀〜!」  目をまん丸く見開く蓮華と、嬉しそうに俺に抱きついてくるシャオ。 「さて、経緯を説明してくれるかな、詠」  七乃さんにすでに簡単に聞いてはいるのだが、一応確認にと詠に話をふる。孫呉の衆はちょっと興奮気味だからな。 「ええ、いいわよ。おとといくらいだったかな? 雪蓮から手紙が来てね。シャオはそのままでいいってことになったの」 「ほう?」 「正確に言えば、洛陽に一年間留学に出す、ってことだけど。ただね、ただし書きがついていて、監督役の蓮華が留学の意味がないと判断すればいつでも本国に送還できるという条件もついていたわけ」  それを聞いた途端、蓮華が勝ち誇ったように叫ぶ。 「だから、私は姉様に保証された権限を以て、小蓮に帰還しろと言っている!」 「洛陽に着きもしないうちからそんなこと言われる筋合いないよ!」  もちろん、シャオも負けてはいない。彼女の言う通り、洛陽で留学というのだから、洛陽にたどり着いてもいないのに帰されるではたまったものではないだろう。 「で、こんな風に喧嘩がはじまってしまった、と」 「そ」  蓮華も相手が妹でなければもっと冷静になるのだろうが、さすがに身内だと普段の抑制が外れるのだろうな。 「まあ、まずは冷静になろう。雪蓮は小蓮に留学して、色々学んでほしいと思っているんだろうから、ここで追い返すのは雪蓮の意志を本当には反映してないことになる。そうだろ?」 「それは……しかし……」  言葉に詰まる蓮華に、へへーと舌を出して挑発しようとするシャオをこら、と軽く叱っておく。 「仕事を手伝うなら、洛陽で大使館の仕事を手伝っても呉のためになるだろ? 追い返すだけが呉のためじゃないと思うよ」 「しかしだな、これではわがままをそのまま許すことに……」  蓮華の言いたいこともわかる。そもそも黙ってついてきてしまって、しかたなく雪蓮も留学という形で取り繕っているように見える。実際は、国譲りの件などもあるので、シャオを外に出しておきたいという思惑がある可能性もあるが……。 「期限を設けたらどうですか?」  俺たちが黙って考えていると、おずおずと月が口を開く。 「期限だと?」 「はい。期限です。雪蓮さんが提示した一年とはまた別に、蓮華さんが小蓮ちゃんの勉強の成果を確認して、これでは洛陽にいる意味がないと判断したら帰せばいいんじゃないでしょうか」 「そうなると、ある程度彼女自身納得できる判断基準がいるけど、そのあたりは誰か中立な人間に決めてもらえばいいわね」  蓮華の問い掛けに丁寧に答える月の言葉に、詠が付け加える。それを聞いて、蓮華はしばらく考えていたが、思春と何事か小声で相談した後で、大きく息を吸った。 「よし、いいだろう。まずは一月、洛陽で学んでみろ。それで試験をして、納得できたら三月いてもよい。三月目にまた試験をして、さらに時期の延長を考えようではないか。どうだ?」  シャオの顔が途端に明るくなる。現金なことに俺からすぐに離れて、蓮華に抱きついてしまった。 「おねーちゃん、大好きっ」 「こ、こらっ、シャオ」 「ちなみに、試験の監督は公覆殿にやってもらおう。小蓮様のことをよく知っている上に、いまは我らから離れている。ちょうどいいだろう。いいな、北郷」  祭か。たしかに適任かもしれないな。 「うん。祭に確認してね。お酒でも奢れば喜んでやってくれるんじゃないかな」 「祭だもんねー」 「そうだな、差し入れでも持っていくとしよう」  そう言って、姉妹揃って笑みを浮かべる。それを見て、本当にこの二人はよく似ている、と俺はそう思うのだった。 「じゃあ、食事をとってきましょうか」 「ごはん……」  詠の言葉に、嬉しそうに恋がこくこくと頷く。その様子を月がにこにこと見つめている。木づくりの卓がいくつも並べられた店頭で繰り広げられるその愛くるしい光景に、俺はなんとも和んでしまう。  今日はこの三人と祭りを見に来ている。昨日は昼に呉の面々、夜には美羽と七乃さんと三人で来ているし、おとといは昼に天和、夜に人和と来た。  一番こういうお祭騒ぎが好きそうな沙和は、提出するはずの報告書が書き上がっていないとかで、ずっと城にこもりっぱなしだ。まったく、ぎりぎりまでやらない癖はまだなおっていないんだな。せっかくの楽しをそれで逃していたら世話はない。  ちなみに、一応は、この見物行も警邏ということになっている。俺たちが到着した時すでに三日目だった祭りは、後半戦の六日目に入って、さらなる活況を見せている。だが、その一方でこれだけ人が集まり、熱狂していれば、当たり前のことではあるが喧嘩や揉め事も起こっている。俺たちは祭り見物をしながら、それらの揉め事が起きていないかも見て回っているのだった。 「じゃあ、俺はここで待っているよ。酒もあるからな」 「ん、了解。まあ、このくらいの店ならなにかあっても恋なら一飛びで戻ってこられるし。じゃ、いこっか、月、恋」  声をかけて歩きだそうとする詠に、小声で囁く。 「詠、恋の料理は、抑え目にな。もしくは店主に話を」 「わかってるわよ」  三人はそうして、店の奥、食事が並べられているところへ向かっていく。南鄭の街の食事どころはよほどの高級店でない限り、この街独特の方式を採っている。  酒を飲む客は、まず酒を頼み、瓶で買い取る。いま、俺の目の前にも先程購入した酒瓶が置いてある。  ついで、食事に関しては、並べられた料理を好きなだけ自分で皿に取り分けてくる。俺の世界で言うと、ビュッフェ形式というやつだ。  ただし、料金形態は変わっていて、客が自分でこれだけと判断した分だけ支払うのだ。  これは五斗米道の義舎の方式を流用したものだ。義舎では、信者たちの寄付でまかなわれた食事が常に用意されていて、誰でも腹一杯になるまでただで食べることが出来る。  もちろん、持ち帰ったりすることは許されていないし、たいていは食べる代わりに自発的に義舎で奉仕活動を行っているが、いかに困窮しようと義舎に来れば飢えることがないのはたしかだ。  その精神が、この南鄭では普通の飲食店にまで徹底されている。いくらの支払いでもいいということは、金がない人間は金を払わなくても料理をとって食べられるのだ。もちろん、俺たちのような立場の人間や豊かな商人はそれなりに寄付も含めて金を置いていくことになる。  そんな喜捨的性格を持つ方式なので、恋が食い尽くしてしまうのはまずい。それが故の、さっきの耳打ちだった。  ちなみに、酒は腹を満たすものではなく嗜好品扱いなので、必ず買わねばならないというわけ。  さて、彼女たちが戻ってくるまで俺は酒でも飲んでいるか。  そう思って一人手酌する。 「相席よろしいかな」  少しぼうっとしていたらしい。声につられて見上げると、壮年の白髪の男性が卓につこうとしていた。 「あ、はい。仲間が後で来ますけど、それでいいなら」 「おお、そうか。儂は長居するつもりはないでな。知り合いを見つけるまで邪魔させてもらおう」  言いながら、彼は酒瓶を置き、俺と同じように飲み始める。  武術、体力系の芸人さんかな? とその格好を見て思う。なにより、体の迫力が尋常ではない。がっしりとした筋骨隆々の体はまるで熊と虎のいいところを合わせたかのように大きく、そして鋭い。剃刀と鉈の長所を併せ持つ、という表現がたまにあるが、そんな感じだ。  壮年とはいえ衰えを見せない体に、燕尾服の上着だけを着たような格好。だが、半裸程度では、この祭りの中では目立たない。  白いふんどしはともかく、胸のブラジャーみたいなのはなんなのかよくわからないが……衣装なのだろう。髪形も特徴的で、たしか角髪(みずら)というはず。  あれ、でも、この人、どこかで……。  姿形から芸人の一人だとばかり思っていたその人をよくよく見てみれば、どこか見覚えがある。俺は自らの記憶をなんとか掘り起こそうとした。 「あの、失礼ですが、華侘さんのお知り合いではないですか?」  ようやく頭の中でつながったその人の顔と記憶を頼りにそう言うと、酒杯を傾けていたその人は、がはは、と笑う。 「おお、だぁりんを知っているのか。たしかに儂とは深い深い関係者」  だぁりん? 「そうか、よかった。華侘とは懇意にしているんですよ。たぶん、華侘のところで、何度かすれ違ってるかと」  たしか、洛陽で華侘の逗留する宿を訪ねた時に、二度ほど見かけた覚えがある。その時祭を連れていたせいもあって、声を交わすことはなかったが……。 「む、そうか。それは失礼。儂ももうろくしたか」 「いやいや、まだそんなお歳でもないでしょう」  とてもじゃないが、衰えがあるとは思えない。 「うむ、儂のお胸はまだまだ真っ赤に燃えておるわい」  お胸?  ともかく、遠隔の地で共通の知り合いを持つ二人が出会えたのもなにかの縁と、酒を酌み交わす。 「ところで、青年」  何度か酒杯を乾した後で、その人はよく通る声で訊ねてきた。 「このにぎやかな祭りの中で、そのように暗い顔をしているのはなぜかな?」 「う、俺、暗い顔していました?」  反射的に苦笑いを浮かべる。まったく心当たりがないわけではないから。 「おお、それはもう祭りの喧騒の中で浮き上がるほどにな」 「参ったな……」  酒を注いでもらいながら、頭をかく。 「無理にきこうとは言わんぞ。ただ、吐き出せるならば、近いうちに吐き出すことを勧めるな。心の苦しみは体の病となることもある。あるいは、集中を妨げて、大事なところで失敗を招く。病魔は鍼でやっつけてくれるだろうが、その原因を取り除くことまでは出来ぬこともある。気をつけることだ」  さすがは華侘の知り合いだな。あるいは、彼もどちらかの五斗米道の関係者なのかもしれない。言うことは正論で、すんなりと受け入れることが出来た。  そして、なぜか俺は、この人なら、心の奥底でわだかまっているものを晒してもいいのではないか、そう思えたのだった。 「幸せすぎて、不安なんですよ」  なにも答えはない。ただ、口が動くのに任せて、俺は話してしまう。 「自分でも贅沢な悩みだと思うんです。でも……」 「いや、青年。待つのだ」  続けようとしたところを、鋭い言葉で制される。やはり、くだらない悩みだろうか、と思ったところで、重々しく彼は宣言するように言った。 「それは、とてもとても重要なこと。照れや謙遜でごまかしてはならぬ」 「そ、そうでしょうか」  思っていたのとはまるで違う肯定に迎えられ、俺は思わず持っていた酒杯を置いて姿勢を正してしまう。 「そうだ。だから、青年。きちんと落ち着いて話すのだ。けして自分を卑下したり、どうでもいいことだなどと思ってはいかんぞ。簡単に縮めるのもいかん。物事というのは要約すればするほど本質とはかけ離れていくのだ」 「は、はい」  その人の妙な迫力に、そう素直に答えるしかない。実際、俺は話を聞いてほしがっていたのかもしれない。 「実を言うと、俺、この大陸の人間じゃないんですよ」  天の御遣いという呼び名を出すのはためらわれた。あくまで一人の男として、俺は話をする。 「ふむ」 「だから、係累もいない、後ろ楯もない。そんな状況でこの国に来て……。幸い、曹孟徳──いまだと曹丞相ですか。彼女に拾ってもらって、それから彼女の側近みたいなことをやらせてもらっています」  考えてみれば、華琳が自勢力をたちあげていく途中で拾われたわけで、時期もよかったよな。 「仲間たちは曹丞相の下にいるくらいだから、すごい人ばっかりで、でも、俺とも仲よくしてくれてて。それと、いまでは、部下や庇護している人間が幾人もいて……その人たちが、とてつもなく有能なんで、曹丞相から仕事をもらっても助けてもらいながら、こなしているんです」 「ふむ。よい上司、よい仲間、よい部下か」 「ええ、そうです。それに……その、ありがたいことに俺を好きになってくれる人もいるんです。俺も彼女たちのことが大好きで……なによりも大事です」  それは間違いないことで、これだけは自信をもって言える。 「不安、というのはその女性(にょしょう)たちのことかな? 美人すぎる妻を持つと不安になるともいうが……。む、するとだぁりんは……」  ごにょごにょとなにか言っているが、おそらくそれは俺には聞かせないでいい部分なのだろう。 「いえ、違います」  俺はぐっと拳を握り込む。 「それは……俺の、力の無さ、です」  彼はうつむいた俺を覗き込むようにして観察し、しばらくしてから言った。 「曹孟徳の側近を長くやっておるのに、か?」 「たしかに、か……曹丞相は無能者が側にいることは許しません。でも、俺自身はともかく、俺の周りにはさっきも言ったように優秀な人達が多いんです。俺がもらった案件を、彼女たちは瞬く間に解決してくれます。だから、その……本来、その仕事をなし遂げたと言われるべきは彼女たちで、俺ではないんです。俺が彼女の側にいられるのは、この大陸とは違う場所の多少の知識と、周りの人間の力、それと、なんとかがんばってるのも足していいかもしれません」  中途半端なのかもしれないな、と自分で思う。俺がもっと無能なら、華琳はおそらく簡単な部署につけて、それなりに使いこなしていただろう。あるいは、もっと有能なら……さて、その自分は想像できないな。 「己の力の無さのために、いまある幸せが失われてしまうやもしれぬ。それが恐ろしい、と」 「ええ、その通りです」  見つめられる目の光の強さに、じっとりとした汗が肌を覆っていく。 「それだけの危機感があれば、おそらく、青年は精一杯努力しておるのだろう。それが足りないなどと他人の儂は言えん」  一瞬落胆した後に、俺は恥ずかしさに顔に血が集まるのを感じる。おそらく、俺はこの時、叱咤してほしかったのだ。まだまだ修行が足りないと。  その裏側で、努力さえすれば力ある人間になれるのだと言われたかったのだ。  なんという傲慢、なんという甘え。  そんな俺を見透かすように、その人はゆっくりと話を続ける。 「だがな、青年。おぬしが期待されているそのこと……出来ぬ、と決めたのは誰だ?」 「それは……」  彼が杯を乾すのを、じっと見つめながら、俺はその問いに固まり続けていた。 「己で狭めれば、世界も狭まる」  吟ずるように言うその言葉のなんと力強いことか。彼は何事か思い出すようにここではないどこかを見つめていた。 「心が後悔や不安で満たされていては、思わず拳を握ってしまい、未来を掴みとるための掌を開くことも出来ん。違うかな、青年」  彼はにっと笑う。その笑みの邪気の無さは、これまで感じたことがないようなものだった。 「這いつくばって、血を吐いて、それでも一歩も進めなくなったなら、己を信頼してくれる人々に頼ればよいではないか。もっとも、おぬしがそうなるより前に、周りの者は頼ってほしいと思うだろうが、な」  それは正しい。俺は周りに頼っていい。いや、そうするしかないのだ。  しかし、それでいいのか。本当に? 「この大陸にはいい言葉があるぞ。天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず、とな」  孟子の言葉だったか。それはたしかに正しい言葉なのだろう。俺もそれを実感しているし、人の和を作り上げることを考えて動いてはいる。けれど、果たして、それを実行するだけの地力が俺にあるのだろうか。これまではうまく行ってくれたけれど、それを今後もやっていけるとは限らないのではないか。 「青年。そもそも人は一人では何事も出来ぬのだ」  当然のことを話す、というように悠然とした態度で彼は続ける。 「土地を切り拓き、土を掘り起こし、種をまいて、作物を得たとしよう。それは、その男一人がなしたことであろうか?」 「そう……だと思います」 「否、その男一人では稗も粟も育ちはしない。滋養を与える大地が、養分を伝える水が、熱を与える陽がなくて、作物が育つか?」  言われて黙ってしまう。たぶん、彼が言いたいのは屁理屈や詭弁ではなく、事実そこにあるものを見ろということなのだろう。 「人に出来ることはな、ほんの少しこの世界の力の方向を変えることだけなのだ。決して自分の行いだけで、世界が動くなどと思ってはいかんぞ。青年」 「それは……そうかもしれません」 「世界を動かせるとしたら、幾百、幾千、幾万の思いだけだろうて。だからな、一人で何もかも抱えずに、おぬしをこれまでも支えてきてくれたたくさんの人々と一緒に行えばよいのだ。そうではないか?」  俺は答えられない。  彼が言うのが正しいのはわかる。俺だって実際に、彼女たちと支え合ってやっていくつもりだ。  だが、なぜそれが俺の名前で行われる必要があるだろう。たとえば、月を押し立てて……いや、月はだめか。じゃあ、恋でも華雄でもいい。無双の強さを持つ彼女たちを中心にして、集団を作り上げることは、なぜいけないのか。  いや、わかっている。これまでの流れを考えれば、俺の名前も必要だということは。  だが、そうやって理性で思考することと、心の底から得心できるかどうかはまた別のことだろう。 「ふん、納得できぬか」  彼が酒を勧めてくる。気を落ち着けるためにもその杯を受け、喉に流し込んだ。 「青年、おぬしは愛しい人のため、なにかをしてやりたいとは思わないか?」 「もちろん、思います」 「では、その愛しい人が、おぬしの手助けを拒絶してまるで受け取ってくれず、疲れて行ったなら悲しくはならんか?」 「それは……」  子供を見るような温かい目で見られる。たしかに彼のような人から見れば、俺などまだまだ子供のようなものなのかもしれない。 「青年。愛しいという気持ちはな、自分だけが持っているのではない。相手もまたおぬしを思っているのだ」  はっ、とした。  俺は彼女たちを大事に思っている。それと同じくらい、彼女たちも俺を大事にしてくれている。そのことを、俺は無意識に見ないようにしてはいなかったか。 「簡単に甘えろとは言わんぞ。おのこなら、つっぱってみせい! だが、相手を受け入れるのも、いいおのこの器量というものぞ?」 「……はい」  肚に力を込めて、答える。  己というものを持たなければ、この人の言葉の迫力に呑み込まれてしまうような気さえした。 「力が足りぬなら、しぼり出せ。それでも足りぬなら、借りてくればよい。おぬしを愛する人達に。おぬしを信じる部下たちから。その者たちがなぜおぬしに力を貸してくれるか、そのことを思い出せ」 「すいません。俺には……」  たくさんの人が俺のために力を貸してくれる。しかし、どうして、と言われると困ってしまう。彼女たちはどうして俺に力を貸してくれるのか。  恋人だから? それは違うだろう。  同僚だから? 部下だから? それはあるかもしれない。  でも、なにか、それだけではない気がした。 「わからぬか」  豪快な笑いが俺の困惑を吹き飛ばすように彼の口から発せられた。 「そうか、わからぬか。こんなにもあからさまで、こんなにも明らかで、こんなにも定まったことが、己では気づかぬか」 「す、すいません」  なぜか頭を下げて謝ってしまう。それほどに強烈な笑いが彼の口から吐き出され続けていた。 「いやいや、よいよい」  そう言った後で、彼は俺の耳元に口を近づけ、この世の秘密を明かすかのようにひっそりと囁いた。 「それはな、おぬしだからさ」  それは答えになっていない、と俺の理性が叫んだ。  それこそが答えだ、と俺の心がざわめいた。  感情と理性の渦にとらわれ、俺は硬直から逃れることが出来なかった。 「おや、あそこを行くのは馬鹿弟子ではないか。すまんな、青年。そろそろ儂は行かねばならん」  彼は人波を見て、そう謝ってきた。その途端、俺の耳に祭りの喧騒が復活した。これまで彼の声以外、一切が遮断されていたのだと気づいたのはしばらく後だ。 「いえ、ありがとうございました」  まだ渦巻いている心を抑えつけて、なんとか礼を言う。 「ふん、礼などいらん。馬鹿弟子の頼みだったが、なかなかたのしい時間を過ごせたわい」 「え?」  聞き返すもののすでに彼は立ち上がり、喧騒の中へと踏み出していた。 「では、またいずこかで会おう、青年」  そう言って、たくましい背中が人波に消えていく。俺はそれをじっとじっと見つめて……。 「ご主人様……なにしてる?」  不意にかけられた声に振り向けば、料理をのせた盆を持った恋たちが立っている。 「あ、ああ、相席した人と話してて……って、料理をとってくるのに、えらく時間かかったな」  屋根のかかっている部分は十歩もいけば奥に行き当たってしまうような狭い店だ。料理を持ち帰ってきたにしても、随分遅い。恋の分がなにか問題だったかな? 「なに言ってるの? ついさっき取りにいったばっかりでしょ」 「恋ちゃんのごはんのお話を店の人としましたけど、大した時間ではないはずですよ……?」  詠に加えて月までが言うのを聞いて、疑問に思う。  ついさっき……? 「ごはん……」 「ああ、もう。ちょっと待ってよ。あんたのは、もう少ししたら追加を持ってきてくれるんだから!」  そうやってじゃれ合うように席につくみんなを見ながら、俺は相変わらず不思議な感覚を引きずっている。  随分と話し込んでいたと思ったが、それほどでもなかったのだろうか。なんだか狐につままれたような気分だった。  そう思って周りを見渡せば、流れ去る人波の中、先程の壮年の特徴的な髪形と、それと並び立つような、忘れられない禿頭が見えた気がした。  慌てて目を凝らしてみれば、その両方ともを見失い、力が抜ける。心配そうに覗き込んでくる恋になんでもないと手をふって、笑みを浮かべて見せた。 「あ、名前を訊くのを忘れた……」  だが、祭りの喧騒を聞き、杯の酒をなめているうちに、そんな細かいことはいいか、という気分になってくる。  ふと、もう思い出しもしなかった、古い記憶が掘り起こされる。 「身の上を知ればこそ、明かせない悲しみもある、通りすがりの人なればこそ、言える罪状もある。罪さえも抱きしめて、カーニヴァルだったね、か」  記憶の怪しいところをほとんど鼻唄でリズムだけとって、唸ってみる。 「ん? なにやらご機嫌ね。なんの歌?」  恋と月の皿に取り分けてやり、次は自分の分の料理に挑みかかろうとしていた詠が顔を上げ、こちらを見つめてくる。 「昔……ずっと昔聞いた大人の子守歌さ」  そう言った途端の、月と詠のきょとんとした顔が妙におかしくて、俺はついからからと笑いだしてしまうのだった。  祭りも八日目、人々の熱狂は否が応にも高まり、南鄭中がなんとなく浮き足立ってきた。俺たちは不測の事態が起こることを警戒して警邏をさらに厳しくし、今日からは三国合同で行うことにしていた。  元々南鄭には張三姉妹の公演が終わるまで滞在予定だったので、いずれにせよ祭りの最終日まではここで三国とも過ごすしかない。小蓮のために洛陽での留学先を考えたりしている呉はともかく、蜀の面々には足止めにしか思えないかもしれないが……。ただ、兵たちは祭りを楽しんでくれていて、俺たち首脳陣に対して大喝采だ。ここから引き離すのが一苦労かもしれない。  今日は七乃さんたちが連れてきていた魏の兵と俺、それに子龍さんという組み合わせで警邏をしている。華雄や恋は別の方面を警邏中。相変わらず喧嘩も多いし、掏摸や詐欺も起きている。これから最終日に向けて、一層目を光らせておかなければなるまい。 「しかし、漢中がここまで沸き立つなど。すさまじい熱気」  俺の横を、槍を背負って歩く子龍さんが、感心したように呟く。 「うん、なんだか、祭りの最後に、教主の人が託宣を受けるとかなんとかで、余計に熱くなってるみたいだね」 「ほほう。それはなかなか楽しな」 「どうだろう。あんまりにも熱狂して、暴走されると困るんだけどね」  人込みの中を縫うようにして歩く。連れている兵がそれほど多くないので、威圧感でどいてくれるほどではないのだ。もちろん、子龍さんが殺気をみなぎらせて歩けば一般人でも道を譲るだろうが、そんなことして萎縮させてもろくなことにならない。 「たしかに、この熱気が暴発すれば、それは恐ろしいことになりましょうな」 「うん。なんとかそれをさせないためにも、こうして皆で見回ってるわけだけど……。紫苑は怒ってない?」 「怒る? なにをですかな?」 「いや、ここで足止めしちゃってるからさ」  ぶつかりそうになった人を、俺が左、子龍さんが右に避ける。人の数はどんどん多くなってきている。それもそのはず、いま目指しているのは、祭りの一番の目玉の特設舞台なのだから。 「ああ、それなら大丈夫でしょう。兵の怪我がゆっくり癒やせるとかえってご機嫌なくらい」  そういえば、華雄にやられた兵の中でも軽傷の者はそのまま連れてきているのだっけ。呉の面々──特に小蓮は祭りを楽しんでいるようだし、紫苑が気にしていないなら、それでいいか。 「一番やきもきしているのは、おそらく、伯珪殿でしょうな」 「伯珪さん? ああ、部下がなかなか来ないって? たしかになあ」  洛陽の伯珪さんは白馬義従の到着を待っているしかないわけで、焦慮は並大抵ではないだろう。鎮北将軍に任じられたと聞くから、鎮北府開府に向けての作業もあるだろうし、人手が足りず苦労しているだろうことは容易に想像できる。 「それにしても……おっと、人が、さすがに多い」  子龍さんの横を子供が背をかがめてすり抜けていく。もう自由に動き回るのは難しいくらい人が増えてしまった。人の動きが目指す方向と同じことだし、これに乗るしかないだろう。 「昨日は、このあたりに華蝶仮面とやらが現れて、ちんぴらを何人かのしたとかで、えらい大騒ぎもあったんだよ」 「ほほう? そのような者が」  すっとぼけながらも、なにか得意気な子龍さん。着物といい武器といい、昨日、商家の屋根の上で大立ち回りを演じていたのは明らかに彼女だったのだが、そこには触れないほうがいいのだろうか。 「きっと、正義を愛する御仁なのでしょうな! 我らも見習わねばなりませんな? 北郷殿」  ああ、そういうことにしておきたいのか。なんとなく理解。猫連者も、自分が美以じゃないとひたすら抗弁していたしな。仮面で隠せているつもりなのだろうか。 「そうだね、おっと、そろそろ見えてきた」  道の向こうは大きく開けており、そこに特設舞台と、その観客席がしつらえられているのがわかる。いまはなにか歌の催し物をやっているらしく、観客席にもそこそこ人が入っているのが見えた。 「ほほう、大きなものですな」 「基本的には数え役萬☆姉妹のための舞台だからね、大きくもなるよ」  俺は他の面子と何度か来ているが、子龍さんははじめて来るらしいな。  話によると、ここは南鄭の城壁を拡張する工事の現場なのだそうだ。城壁自体はすでに完成しているが、まだ建物は建っていないさら地の状態のところに、舞台と観客席を作ったというわけだ。  俺自身が言ったように数え役萬☆姉妹のための舞台ではあるが、彼女たちも毎日ぶっ通しで公演が出来るわけもなく、長時間の舞台は初日と最終日のみ。その他の日は、三曲程度を歌う縮小公演を午前中にやっている。昼と夜は舞台が空くので、そのほかの催し物が開催されているらしい。  いまは……のど自慢かな? それなりにはうまいが、芸人とは張りの違う声が流れてきている。やはり、素人と玄人では、喉の鍛え方が如実に出てしまう。 「お次は飛び入りの方ですー」  ひとしきり歌が終わったところで、司会者らしき女性が次の歌い手を紹介している。そのあたりで、俺たちはようやく観客席の後ろ側にたどり着いた。ここで問題が起こらないよう、これから見回りだ。 「じゃあ、一班はこっちから、二班は右。子龍さんは俺と一緒に」 「では、そのように」  兵達を集めて指示を下している後ろから、軽快な楽の音と共に、可愛らしい声が聞こえてくる。 「ぷにぷに、ぷにぷに、ぷにぷに、ぷにって、ぷーっ♪」  あれ、この声、どこかで聞いたことがあるような。 「今日もお日様、この手で支えたくて♪」  兵が指示通り動き出したのを確認してから舞台に向き直ってみる。すると、そこでは見慣れた礼装をつけた背の低い少女が相変わらず少し眠そうな半眼のくせに元気に踊りながら綺麗な歌声をつむいでいた。 「この激動の世を、進め♪」 「風ー!?」 「おや、風」  慌てて子龍さんと二人、舞台袖にまわる。一応、俺は天和たちの知人としていつでも自由に出入りできることになっていた。 「いやあ、あの歌も、稟ちゃんがいないとなかなか大変ですね」  ぶつぶつ呟きながら汗を拭って舞台からおりてくる風。あなた明らかに俺たちがいるのわかって言ってますよね、それ。 「おや、お兄さんに星ちゃん。お久しぶりですね」 「うむ、久しいな」 「久しぶりなのはいいけど、どうしたんだよ、風」  洛陽にいるはずの風がこんなところにいるのはおかしすぎる。美羽や七乃さんなら洛陽を離れて俺たちを迎えにきてもそれほどの問題にはならないが、稟と桂花が妊娠して身動きが取りにくい現状で、風が華琳の側を離れるとなればかなりの事態だ。  しかし、俺の当惑を知ってか知らずか、風はいつも通り飄々と答える。 「様子を見に来たですよー」 「様子?」 「はい、漢中のこの祭りを視察に。華琳様直々の命で」  華琳直々の命での視察か。その言葉に俺は黙ってしまう。さすがに華琳や三軍師の謀の全てを知っているわけではないし、しばらく洛陽を離れていた身では、魏の国内情勢をそこまで捉えきれていない。子龍さんが横にいるいまは口出しをしないのが得策だろう。 「といってもすぐに帰りますけどねー。洛陽をそんなに空けているわけにもいきませんし。おにーさんたちと一緒に行ければよかったんですが、そんな暇もないのですー」  舞台袖を歩きながら、風が言う。 「大勢で進軍するより身軽なほうがはやいだろうな。しかし、大丈夫か?」 「ああ、それなら大丈夫ですよ、星ちゃん。猪々子ちゃんについてきてもらってますからー」 「ん……? おう、アニキー」  なにかの大道具の上に寝ころがって眠っていたらしい猪々子が名前を呼ばれて起き上がり、きょろきょろとあたりを見回して、俺たちを見つけた途端笑顔になる。 「猪々子もいたのか……」  相変わらず巨大すぎるように思える剣をかかげて合流する猪々子。 「じゃ、いきましょうか、おにーさん」 「え、どこへ?」 「もちろん人和ちゃんたちのところですよー。あちらの話も聞いておかないとですからー。案内よろしくです」  それもそうだ。城に行けばすぐに部屋まで通されるってわけでもないしな。案内役がいたほうがなにかと便利だろう。 「あー、すまん、子龍さん、警邏を任せていいかな」 「星ちゃん、頼みましたよー」  俺と風の頼みに子龍さんは苦笑しながらも頷いてくれる。 「しかたありませんな。旧友の頼みとあっては」 「おう、姉ちゃん、さすが頼りになるな。次は洛陽でな」 「お前も達者でな、宝ャ」  そうして、俺たちは子龍さんと別れ、城へと道を急ぐのであった。  空の遥か彼方で、澄んだ青が茜色に浸食されつつある。その手前にある雲は、色の変わり目にあるのか七色に彩られ、きらきらと輝いている。俺は馬に揺られながらそのなんとも美しい光景を眺めていた。  右には猪々子の操る馬が、左後方、少し離れたところには華雄の乗る馬がいる。そして、俺の前にはこっくりこっくり船をこぐ魏の軍師様が乗っている。 「なあ、アニキ。さっきの会談だけどさ」 「ああ、張魯さんたちとのか」  俺たちは天和たちとの会談、さらにそれに五斗米道の天師である張魯さんを加えた会談を矢継ぎ早に行い、いまはこうして洛陽に帰る彼女たちを見送りに来ていた。俺の胸にもたれかかるようにしている風は、いずれ猪々子の前に乗って、都へとひた走る予定。 「あれ、どういうことなんだ? あたい、さっぱりわかいよ」 「俺だってわからないよ。風くらいだろ、わかるのは」  人和も大半はわかっていそうだけどな。とはいえ、細かいところを本当の意味で理解しているのは風だけだろう。 「で、どうなんだ?」 「おぉっ」  うなじをすっとなでてやるといつも通りの声を上げる風。だが、気に食わなかったのか、少し涙目でこちらを見上げてくる。 「そ、そういう起こし方は反則なのです!」 「う、ごめん」  涙目で睨み付けられるともう謝るしかない。それで機嫌をなおしてくれたのか、前に向き直って解説をはじめる風。 「簡単に言いますとですねー、張魯さんは魏に降りたいのですよー」 「そうなの!? なんか、龍がどうしたとか、天女様がどうしたとか言ってたのに?」  地脈がどうとか、祭りにおいて民の真意がどうとかも言っていたが、俺にも正直張魯さんの話の筋は掴めなかった。 「はいー。ええとですね、五斗米道というのは、民間に根付いた信仰なわけですけど、これを信じるものは、元々儒の枠組みから外れたものが多いのですよ。いわゆる蛮、夷、胡といった異民族、あるいはその混血、貧農、叛逆の徒とその子孫等々ですねー。報告書では、賊あるいは蛮とだけ記されるような民になります」  漢の土地においては、少数派になる人々、というわけだ。 「さらにですねー、その蛮の中心でもある板楯蛮には、元々馬騰さんに従っていたものが多くいるのですよ。また、月ちゃんたちが蜀を離れた折に、涼州兵の一部も吸収された模様ですので、故郷に戻りたいものも多いんですねー、これが」 「完全に魏に降れば、それらの民も故郷に戻してやれるってことか。なんだ、あのおっさんも色々考えてるんだな。もっとわかりやすく話してくれればいいのに」  猪々子の感想に、風はにゅふふ、と意地悪そうに笑う。 「ええ、しかも、それらの民は、五斗米道の教えを持っていってくれるわけですよ」 「ははぁ」  なんとなく俺にも張魯さんの狙いが読めてきた。彼は、おそらく、五斗米道のさらなる発展を狙っているのだ。  漢中という土地を中心に布教をし信者を増やしてきたが、それはもう一段落した、ということだろう。今後は一カ所を直接支配するのではなく、魏全土、漢全土に信者が散らばることにより、教えを各地で花開かせていきたいのではないだろうか。 「といっても民の中には、あの土地に長く住んでいる人もいるので、全てが魏の中に浸透して行ってくれるとは限りません。そこをですね、あの張魯さんは天和ちゃんたちの公演をきっかけとして利用して、民を導きたいと思っているんですね。地和ちゃんはそれをかなり警戒していますけど、風は気にしなくていいと思いますよ。数え役萬☆姉妹が好きな人たちが増えるのは間違いないですし」  地和の言葉はそれか。ようやくつながった。 「黄巾の乱はもう起きない、か」 「ええ、風たちが起こしません」  そう宣言する風の言葉はとても力強かった。そうだな、あんな乱だけは二度と起こしちゃいけない。 「まあ、なんにせよ、漢中が降れば蜀との領有権争いは決着がつくんだろ? いいことじゃないの?」 「それ自体は歓迎すべきことだけど、一つの集団を引き受けるってことは、それなりに大変でもあるよ、猪々子」 「そりゃそうだけどさー」  実際、五斗米道を呑み込むことと、漢中を確実に領有することは、また別の意味を持ってくる。両者は現状ではつながっているが、今後もそうであるとは限らないし、なにより、宗教の熱狂は国家が制御できるものではない。それが暴走する可能性を考えると対応は慎重にならざるを得まい。  これは華琳がわざわざ風を送ってくるはずだ。 「いずれにせよ、道教集団を呑み込むのは重要事項ですね。対応を誤ると、蜀との関係どころか、熱狂的な信者との戦いに巻き込まれかねませんからー。さっきも言った通り、風たちは黄巾の乱をもう一度起こすつもりはないので」 「うーん。まあ、あたい達はなにかあった時に備えるしかないかなー。難しいことはアニキたちに任した!」  その言葉に風も俺も笑ってしまい、つられて笑いだした猪々子と一緒にひとしきり笑い続けた。  それが収まったところで、俺は以前からの疑問を風に訊いてみることにした。 「ところで、風、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」 「はい、なんですかー?」  俺は、子供が生まれる前に婚姻などの形をとらなくていいのだろうか、といつか思った疑問を風にぶつけてみる。  だが、返ってきた反応はいまいち俺が思っていたのとは違っていた。 「うーん、どですかねー。そりゃあ、おにーさんが結婚したいというなら、風は嫁ぐことに異存はありませんけど、正直、現時点では華琳様はもちろん、稟ちゃんや桔梗さんに比べても北郷一刀の名は通りがよいとは言えないですよね」 「アニキの名前じゃなくて、『天の御遣い』なら有名だけどなー」 「婚姻となると、家と家のことになりますから、どうしても現時点では、華琳様が主、おにーさんが従となります……。って、まさか華琳様すっとばして、稟ちゃんや風と結婚するつもりではないですよね!?」  慌てたように言う風を手で押さえる。暴れて馬から落ちたら大変だ。 「そりゃ、する時はみんなとしたいけど……」 「それならよいのですけどー。ともかく、そうなると、華琳様の夫が何人も妻を持つということになってですね、いまひとつ……」 「もっと、名が売れてくれないと外聞がよろしくねえってことだよ、にーちゃん」  宝ャの言葉がぐさりと突き刺さる。 「うー、そうかぁ」 「落ち込むなって、アニキ。別にみんなそんなこと気にしてないんだから」 「まあ、稟ちゃんや桂花ちゃんたちが現時点で婚姻を望んでいるかどうかはわかりませんからねー」  慰めの口調を少し真面目なものに戻して、風は続ける。 「それに帰って来てからまだ一年ですー。『天の御遣い』は消えたままだと思ってる人もまだまだ多いので、もう少し時間をかけたほうが」  その言葉に俺は考えてしまう。たしかにまだ一年。この世界に戻ってきてから、一年にすぎないのだ。もう少し時間をかけてもいいと言われればその通りだろう。 「そっか……ちょっと焦りすぎたかな」 「子供が生まれるとなったらわからないでもないけどね」  それでも少しうなだれたままの俺に、小さな声が囁く。でも、と。 「風は嬉しかったですよ」  そう言って、彼女は俺の腕に手を回し、ぎゅっ、と肉を掴んでひねりあげる。 「いたたっ」 「はやく風のお腹も大きくしないとだめですから」  風につねられた跡が、妙に痛んだ。  猪々子に風を渡し、彼女たちを乗せて走り去っていく馬の姿が米粒ほどになって見えなくなるまで見送って、俺たちは南鄭への帰途についた。  その途上、華雄が意を決したように訊ねてくる。 「前々から疑問なのだが」 「うん」 「あの宝ャというのはなんだ?」  言葉に詰まる。  なんと言っていいものか。あるいは、なにも言わないほうがいいのか。  いろんな考えが俺の中でぐるぐると回り、結局、無難な答えをひねり出す。 「残念だが、華雄。俺にもわからん」 「うむ、そうか。それならばしかたない」  人間、触れてはならない領域というものがあるものだ。うん、そういうものなのだ。  その夜、俺は美羽から呉の国譲りに関しての話を聞いていた。  美羽は久しぶりの膝の上を堪能している。  しかし、洛陽を発ってから半年ほどしか経っていないというのに、美羽はだいぶ成長しているように思う。背はそれほど大きくなっていないものの、服の上からでも、体の輪郭が子供っぽい丸っこさを脱して少女特有の儚さを持ち始めているのがわかるし、仕種もかなり大人っぽくなった。たぶん、精神的な成長がそれらのことを余計に際立たせているのだろう。  こうして膝の上で無邪気にはしゃいでいるところを見ると変わらないな、とも思うのだけど。 「ふーん、雪蓮は一度死ぬことにするのか」  彼女のとろけるような黄金の髪を梳りながら、感想を漏らす。  美羽の話によると、雪蓮は死を偽装し、それをもって蓮華への国譲りを行うということだった。少々乱暴な手法ではあるが、国内に、前国王派なんてものが出来ないようにするにはそのほうがいいのかもしれない。 「うむ。あそこは孫堅から孫策へと代替わりをしようとした折、配下の豪族共がついてこんで、我が袁家に泣きついてきた過去があるからの。それを繰り返すのは避けたいのじゃろ。もし、万が一うまく土地の者を御せぬような無様なことになったなら、孫策が再び世に出ると言うておったのじゃ」  泣きついてきた、というのは袁家側の解釈で、孫家側からすれば混乱の隙をついて支配圏を握られたということなのだろうが、そのあたりは立場の違いであり、主張の違いも生じようというものだ。 「周瑜はそんなことにはならんと言い切っておったがの」 「世情も違うからな。いま呉から独立する小領主がいるかというと疑問だな」 「たしかにのう。昔は、木っ端のような賊でさえ天下を狙うておったからのう」 「美羽だって狙っていたろう?」  くすくすと笑いながら訊ねると、憤然として、腕を上に突き出す美羽。美羽さん、それは下手をすると綺麗なアッパーとなって俺の意識を刈り取る恐れがあるのでやめてください。 「当たり前じゃ。天下は元々袁家のものじゃ。貸しておるものを取り戻してなにが悪い!」  さすがとしか言い様のない理論を披露した後で、美羽は声を小さくする。 「と息巻いてみたところで、いまや天下は華琳のもの。じゃが……うん」  きっといま、彼女の顔を覗き込んだなら、かつての彼女なら浮かべることすら想像できなかった透明な笑みが見られるであろうことを俺は確信していた。 「それでよい」  しばらくは沈黙が続く。 「まあ、国譲りの議はもはや外で出来ることはあるまい。あとは、呉の内で周瑜や孫策がなんとかしおるじゃろ」 「そうだな。蓮華がこっちにいる間にね」 「そういえば、末妹も洛陽に来るそうじゃの?」  突然の話題の変わりように驚く。美羽たちはこちらに滞在が長いわけだし、シャオと顔を合わせることも当然のようにあったろうし、話も聞いているだろう。  問題は、どこまで聞いているか、だ。 「あー、うん」  ついつい歯切れも悪くなる。正直、シャオが追いかけてきてくれたことは嬉しい。だが、もちろん、困ったことでもある。雪蓮や蓮華に迷惑をかけているのではないかと思うと申し訳なくてしかたない。シャオ自身には洛陽での暮らしは刺激になると思うが……。 「なんじゃ、手でも出したか?」 「恋仲なのは否定しないよ」  そう言うと、俺を見上げた顔が、むむ、と首を傾げる。 「ああ、なんじゃ、手を出さんかったから追いかけてこられたか?」  なんで女の子というのはみんなこんなに勘が鋭いのだ?  なにか秘密協定でも結んでいるのか? 「まあ……そんなところかな」 「なぜじゃ? 相手が望むならしてやればよいではないか。妾は詳しくは知らぬが、子を生す覚悟があるなら、することじゃろ?」 「そりゃそうだけど……シャオは小さすぎるだろ」  はて、シャオと美羽、実際のところ、どちらが年上なのだろう? 甘やかされ具合ではいい勝負な気もするが。 「大人ならよい、か。やるせないことよの」  気だるげに呟くその言葉が、あまりに美羽の普段の口調とは違って、驚いてしまう。膝の上に抱いている美羽という女の子が、急に遠くに行ってしまうような気がして、きりりと胸が痛んだ。 「のう一刀」  頭をこてん、と俺の胸につけ、彼女はじっと俺を見上げる。 「妾はの、すでに初花を迎えたぞ」  意識の全てが、濡れ光る碧の瞳に吸いよせられ、とてもそこから逃れることは出来そうになかった。         (第二部北伐の巻第二回・終 北伐の巻第三回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○道三家の項抜粋 その一 『道天、道地、道人の各家はその名の通り、道家の天地人の三姉妹からはじまる皇家である。これらの家については特に関係性が深く、また道教の伝播に大きく関わることもあり、三つの皇家をまとめて一項で見ていくこととする。  さて、道天、道地、道人の三姉妹がいかなる出自であるかは当時から、そして現在も不明のままである。彼女たちに関しては太祖太帝が登極するまで、一切の記録がないのである。このことからして、北郷朝が開かれる時点で一斉に改名したのであろうことは想像に難くない。  しかしながら、これは非常に稀な事例で、太祖太帝の妃となった者の中では彼女たち三人しか例がない。事実、死んだとされた者たち、たとえばその死を偽装して国を譲った孫策でさえこの時点で本来の名に復しているからである。  つまり、道三姉妹は、なにがあろうとも秘匿しなければならなかった名であったということとなる。  これが三姉妹といいながらその血縁の存在を疑われる所以であり、また彼女らの前身は、劉姓の漢の皇族だとか、黄巾の乱を引き起こした張角たちであるだとか、様々な珍説を生み出す原因ともなっている。  しかしながら、彼女たちが信仰の系統として、太平道を吸収した五斗米道をその基盤としていた事実は間違いのないことであり、このような説が唱えられる傍証に……(略)……  道教という存在は、基本的には古来からの民間信仰を基礎としており、民衆にとって受け入れやすい信仰形態であった。しかし、老荘思想や、墨家の思想を取り込んでいたり、神仙思想など厳しい修行を要する要素も包含しており、様々な層にそれぞれの魅力を提供する多面的な信仰として発展することで、さらにその信者を増やしていった。  しかし、北郷朝において道教がその繁栄を決定的としたのは、その最高神である玉皇大帝(太上金闕至尊玉皇昊天上帝)と太祖太帝が同一視されたことからであろう。  玉皇大帝は道教における事実上の最高神である。形式上の最高神であり概念の神格化でもある三清(元始天尊、霊宝天尊、道徳天尊)が天空神として結実した姿でもあり、あらゆる神々を統括するものとされた。天帝という別名の通り、これは元々は素朴な天空信仰が形をなしたものと思われ、また、道教の根本概念の奥深い本質を感じ取ることは出来ても、それを一個の人格を持つものとして想像し難い民衆たちには、よりなじみ深い"神様"を現す存在だった。  この同一視が広まったのは、第四代文帝の頃のことであろうと言われるが、太祖太帝没後すぐにこの同一視がはじまっているかのような記録も残されており、実際には少数の人々の間では、かなり古くから信じられていたと思われる。  そして、この同一視が起こり得た背景には、北郷朝自身によって周到に仕組まれた様々な噂や伝説の流布、学者たちによる理論武裝などがあったことは、ほぼ間違いないであろうとされている。それを裏付ける史料としては……(略)……  このように、北郷朝は膨れ上がりつつあった道教信仰をその支配の道具として取り入れることで、逆に道教側は国家による庇護を受け入れることにより、両者共になくてはならない存在として……(後略)』