よく晴れた快晴の日だった。空を遮るもののまるで無い極上の蒼が大地を抱いて広がっている。 その空の下、一人の男が項垂れていた。植木に囲まれた芝生の中で、両膝両手を地面に付けて。 死んでいるわけではない。そして気絶しているわけでもない。だがその実態は、気絶に近い自失の状態である。彼の名は、北郷一刀と言った。 この大陸この年代に相応しからぬ服装に身を包んでいる彼は、下を向いたまま全く動いてはいない。 彼の頭は空っぽだった。何も考えていないという意味でだ。別に、彼の知性が著しく欠落しているという事ではない。 いずれにせよ、彼の意識は身に宿らずいずこかへ飛んでしまっている。そういうことであった。 さて彼の虚ろな瞳が世界を映さなくなってどれだけの時が過ぎてか、ひとつの人影が一刀の傍に近寄っていた。 芝生を踏むガサという音に呼応して、近くの草の上から鳥が飛び立つ。依然彼が意識を取り戻す予兆は無い。 手を伸ばせば届く距離まで近付いたその影は、鈴を転がすように凛とした声をかけた。 「ねえねえ、こんな所で何してるの?」 しかし一刀からの返事は無い。影……、その女性は返事を得られなかった事にむぅと唸った。続いてしゃがみ込んで彼の肩をつかみ、前後に軽く揺すった。それでも彼の反応は未だ鈍い。 顔を二、三発張ってやろうかとの考えを寸でのところで頭から追い出し、女性は先より強く肩を揺する。がくんがくんと痙攣する彼の頭骨内で程よく脳細胞が死滅しだした頃、漸く彼の瞳は眼前の女性で焦点を結ぶこととなった。 まず一刀の目に映ったのは、桃色の髪だった。まるで極上の錦糸のように広がる輝きが、風に揺られてふわりと広がっていた。髪を束ねる蓮の花びらをあしらった装飾と調和して、その美しさを一層引き立てている。 次に、肩囲り胸囲り腰囲りと露出度過多な紅色の装いだ。布に包まれていない箇所――――主に胸元、から覗く褐色の肌が与える印象は健康的そのものだ。 随所に装飾が極めて多い出で立ちから見ても彼女が一般の兵卒ではないことは明確である。そんな彼女の姿を見て、一刀は思わず眼を細めた。 つい先刻の出来事が尾を引く一刀の眼に彼女の姿はあまりに生気に満ち、覇気に満ち――――つまりは眩しく感じられたからだった。 まるで極上の絵画を目の当たりにした時のように、彼は彼女に見とれていた。もしも理由を付け加えるとするならば、彼女も華琳とはまた趣を異にする王の形の一人だったからなのかもしれない。 その一方で相対する彼女は、一刀がやっと自身に意識を向けたことに満足げな笑みをと共に口を開く。浮かんだのは、向日葵の咲くような明るい笑顔だった。 「やっほ、少年。何暗い顔してるの?」 「――――――」 極めて友好的にかけられた言葉に対して、一刀は半ば無視するような形で何も言葉を返さなかった。正しくは返せなかった。 眼前に佇むこの女性の姿は、どうもどこかで見たような気がする。その事に考えを巡らせていたからだった。 何処かしらで見覚えのある面構えに肌の色だ、と思った。こんな胸を見て忘れることは恐らくない、とも思った。美人を覚える能力は、男という生物が生まれつき持つ技能なのだ。そして事実彼は彼女を見たことがあり、その姿を記憶の内から掘り起こした。 それは、大軍勢の先陣で華琳と舌戦を繰り広げる彼女であり。戦場においてまごう事なき王の迫力をその身で体現し、兵達を最前線で率いる彼女であり。血飛沫を浴びて殺意の内に色気すら覚えさせる艶姿で舞っていた孫呉の主のその姿だった。 「――――そっ、そそそ孫策! あいや、孫策さん!」 「そう、私の名前は孫策さんね。知っててくれてありがと♪」 ウィンクする仕草一つ見てもやけに堂に入ったものだったが、一刀にとってはそれどころではない。 孫策伯符と言えば、小覇王と称される活躍目覚しい武人だ。しかも元とは言え敵対国の主でもある。突然目の前に現れたら驚くのも最もだろう。 「ななっ、なんでこんな所に……?」 「植木の陰に誰かが蹲ってたら普通見に来るわよ。将兵? にしちゃちょっと垢抜けてるわよね。蜀か魏の文官かしら」 「あ、いや俺は――――」 咄嗟に何かを答えようとして。途中で勢いを失った言葉はそのまま口から出てこない。魏の警備隊長、その地位ですら最早彼の肩書きでも居場所でもないのだから。 遣る瀬無い気持ちで一杯だった。華琳に求められてすらいないヘタレ野郎の俺に、彼女に会いに行く資格等無いとわからされたようだった、と。一刀は一人でどんどん落ち込んでゆく。 下を向いて黙ってしまった彼を一瞥して。女性改め孫策は、はぁ、と困ったような息を吐いた。内心ほんの少しだけ、声をかけた事を後悔していた。 「ここがどこだかわかってる?」 「…………いえ」 「ここは三国で結ばれた協定の式典会場。そんな辛気臭い顔してたらだーめ」 「協定の……式典?」 「どんな世捨て人でも知らないとは言わせないわよ。今年で一周年記念だからこんな盛大にやってるのに」 そんなこと、とも思ったが彼女の言は重要な情報を一つ一刀に与えていた。 どうやら自分が現代の世界に帰っていた間に経過した月日と、こちらでのそれはどうやら同じものであるらしい、ということだ。 浦島太郎のように年月を隔てずに済んだ事は僥倖かもしれない。だけど、どうせ会えないなら下手に希望が残っている分残酷じゃないか。一刀は果てしなくネガティブになっていた。 「何か悩みでもあるならお姉さんに話してみなさい。今は機嫌が良いから聞いてあげない事もないわよ?」 提案する自称お姉さんの輝く笑顔。100万Vのそれを前に少し赤くなりながらも、一刀はどうしたものかと一人ごちた。 未来からやってきて、未来に帰って、未来から帰ってきました。久し振りに会った想い人が、空に浮かぶ自分の顔(?)に対して笑顔で別れを告げている瞬間を目撃しました。僕は今とても悲しいです、と。こう説明しろとでもいうのだろうか。 そんな世迷言を、と一言で切り捨てられてもおかしくないちょっとしたスペクタクルだ。信じて下さいと言うのもアホらしかった。 しかし折角話を聞いてくれるという機会をみすみす見逃す手は無い。それに、彼自身短期間の間に持ち上げられ叩き落されと忙しかったのだ。加えてこの現状を誰かに聞いて欲しいという心境も手伝った。 暫し熟考した末に、彼は孫策とこれまで直接の面識がなかった事を利用しようと。なんとかそれっぽく話を誤魔化しながら相談する事にした。 話して曰く、自分は過去曹孟徳に仕えていた。しかしある時、やむを得ぬ事情により彼女の下から離れなければならなくなる。互いの前途を激励しつつ別れてから月日が過ぎて、彼女の下へと帰ってきた時に最早自分の居場所は無かったのだ。 そのような内容の話を、苦しいと判りつつ一刀は孫策に説明した。ふんふんと相槌を打っていた彼女は、あっけらかんとこう答える。 「なんだ、なら会いに行けば良いじゃない」 そんなの悩みでも何でもないじゃないの、との彼女の意図が透けて見える程真っ直ぐな言葉だ。 「あの子、背はちっちゃいけどそんなに器ちっちゃくないのはわかるでしょ?」 「背が大きくないのはわかりますけど……」 「じゃあ会いに行く事ね。行きたくないのに悩む人はいないわ。違う?」 当然そんなに簡単な話じゃないと考えながらも。しかし、彼女の言っている事もある意味正しいのだと言う事を一刀は認めざるを得なかった。 「確かにそれはそうなんですけど……、この一年のか……曹操様の様子はどうでした?」 「毎日顔あわせてたわけじゃないからわからないけど、少なくとも私達と会う時は普通だったわよ? 噂に聞く感じだと魏でも色々頑張ってたみたいね」 「…………余計会いに行きにくくなりました」 「なんで? ――――ああ、君は別れた後ずっとうじうじしちゃってたわけだ」 何の遠慮も無く直接的に真実を穿ったその一言は、一刀の心も一緒くたに貫いた。最早一刀のグラスハートは粉々で、彼は涙を堪えるのに大変な努力を要していた。 「でも会いに行かなきゃ何も始まらないんじゃないの? 案ずるよりも生むが易しって言うじゃない」 「そうはいいますけどもうあわせる顔がないですし……」 「じゃあ会いたくないの?」 「そんなことっ!」 一刀が叫んだ。しかし、その直後に我に返る。もう一度何事かを言おうとして口をつぐんで。彼は苦虫を噛み潰すような顔をして俯く。 確かに彼女からすればどうせ他人事、お前は何もわかっちゃいないと糾弾するのは簡単だ。多少は気も治まるだろう。 だがそんな事は八つ当たりだ。その事も一刀は理解している。それでも。そんな事は最低だと思いつつ、そうしてしまいそうになる程に。彼は所謂いっぱいいっぱいだった。 結局やり場の無い感情は、弱音に形を変えて彼の口から零れ落ちる。 「そんなこと……会いたいに決まってるじゃないですか」 「なら会いに行くか少なくとも会いに行く努力はするべきだと思うわよ、私は。やっぱり後悔なんてしたくないじゃない」 やらなければきっと後悔するわ、毅然とした態度でそう断言した彼女は紛れもなく強者だった。少なくとも一刀の眼にはそう見えた。 その姿が、どこか華琳のそれに重なったのかもしれない。彼はどこか孫策に気を許し始めていた。 「でも、何をどうすれば良いのか……」 常の彼、では怪しいものだが一年前の彼ならば何とか気持ちを切り替えただろう。くよくようじうじと悩む事の非建設的さを理解し、とりあえず何かしらを行動に移していたに違いない。 だが今の彼は弱りきっていた。突付けば倒れて起き上がってこれなくなるかもしれないほどに落ち込んでいた。 不甲斐無い話だが、ある意味無理も無い話でもある。 「…………これはこれで面白そうかも」 顎に手を当てながら彼の様子を見ていた孫策の呟きは、果たして失意の底に位置していた一刀の耳には届かなかった。この言葉を聞いていれば、別の未来があったかもしれなかったが。 「ねえ君、帰る場所はあったりするの?」 「無いというか帰れないというかそんな所です」 更に切ない現実を再確認し、本当に自分の状況が洒落になら無い物だと一刀は必死に事故を保とうと努力していた。そう、もう自分は帰る事さえもできないのだ。本当に涙がこぼれそうだった。 しかし彼の様子を一顧だにせず返事のみ聞くと、孫策は好都合とばかりに微笑んだ。 「なら話は早いわね。呉に仕官する気は無いかしら」 「――――――呉に仕官、ですか?」 「そ。ああ、別に永劫の忠誠を誓えとかそんなんじゃないわよ。今のままじゃ華琳に会いにいきにくいんでしょ?」 それは一刀にとってあまりに唐突すぎる提案だった。具体的には犬が藪から出た棒にぶち当たった感じだった。 もし仮に、運良く孫策が自身の手助けをしてくれる事になったとしても、華琳の下へ連れて行ってくれるか又は便宜をはかってくれるかだろう。 そんな彼の推測の斜め上を行ったその提案に、一刀の頭脳は今度こそ飽和した。 「じゃあ皆に内緒でうちの国に出修行に来て、それであの子が驚く位の人物になって堂々と会いに行けばいいじゃない。居場所が無ければ作ればいいじゃない、ってやつね」 うんこれは名言かも、なんて満面の笑みを浮かべる孫策の言葉をなんとか噛み砕けるまでに復調した一刀。彼はその提案が出し抜けに示された物にしてはかなり魅力的なものであると気付く。 このまま華琳に会いに行くよりは、よっぽど良い気がする。華琳に会うための理由もできて、その上後ろめたさも薄められる。彼女は逃げないんだから諦めるのは色々とやってからでも遅くない。 そうだ、むしろこの話を蹴ったところで次の話が転がってるわけでもない。、ここは乾坤一擲乗ってみることが最善じゃないのか、と。 しかし―――― 「でもいいんですか? そんなこと勝手に決めちゃって」 一刀の口から漏れ出たのはなんともふてくされ気味な語調の台詞だった。 一刀は住所不定で無職で更に言えば出所不明だ。そんな自分をこんなにあっさりと自国に招きいれて良いものなのかと考えたのだ。 彼の主である華琳は、徹底した能力主義と器の広さを示威する為にあらゆる人材を拒みはしなかった。 だがそれは同時に大きなリスクを伴うということを彼は、彼女の直ぐ傍らで仕えた一年の内に嫌というほど理解している。 仮に自分が孫策の腹心だったとしても、獅子身中の虫になり得る存在をほいほいと内部に入れる筈が無い。 ――――それが全てだといえば嘘だ。望んでいた事が起こった筈なのに何一つ上手くいかない、それどころかマイナスになっている。 突然転がってきた美味い話に、憎まれ口の一つケチの一つでもつけたくなってしまった彼を誰も責めることはできない。 が、彼は彼自身を責める。結果彼は歯を食いしばり手を震わせた。握り締められた拳が白く染まる。 「わかってないわね。勝手にも何も、私は王様よ?」 しかし彼女は一刀の内心の葛藤を知ってかしらずか、いっちばん偉いんだから、なんて大仰におどけてみせた。 その態度と笑顔が全てではないにしろ一刀を励まそうとしているもので。そして彼もその事を感じ取る。 孫策が急に慌て出したのはその時だった。理由は簡単だ、突然一刀が涙をこぼしはじめたからである。 「ち、ちょっと!? なに? どうしたの? おなかでも痛いの?」 彼女自身、そんなことはないだろうとも思ってはいたが、とりあえず口に出してしまう程度に混乱していた。 一刀は返事もできなかった。口を開けば、言葉が震えることはわかりきっていたし嗚咽を漏らさぬ自信も無い。自失による逃避から立ち返って把握した自分の不甲斐なさ。華琳へと会いに行く為の大義名分と同時に逃げ道すら失った八方塞の状況。 そして、自分の事を想って話してくれた人間がいた事への嬉しさ。その全てがが入り混じった涙だった。 「ああもうほら、泣かないの。男の子でしょ?」 彼女は母ではなかったが、姉ではあった。それも教え導く事が不得手な姉である。 自身が強い存在であるからこそ、彼女は弱さを理解していたし人一倍情には厚い。それを表現する術がいまいち貧しいだけだ。 混乱から立ち返った孫策はどうして良いのか判らず困り果てた挙句に、一刀を抱き寄せて頭に手を置いた。それは不器用な優しさで。 せめて泣き声をあげない事に精一杯な彼を、彼女は苦笑しながら撫で続けていた。 「…………ありがとうございました。それと、すいません」 男として、考えうる限り最大級の恥をさらした一刀に最早怖いものは無かった。彼はある種の開き直った態度で、潔く礼と謝罪の言葉を述べる。 言われた側の孫策も気分を切り替えたようで、勢い良く口を開き 「いいわよ、そんな畏まらなくても。さぁて、じゃあまず――――――」 そのまま失速した。じゃあまず――――、もう一度呟く孫策。やがて、何か助けを求めるような眼で一刀を見た。しかし、何も起こらない。 うん、とかそうね、とか呟きつつ頷きながら、何か考えを巡らせている様子だった。 少しだけ静寂と言う程でもない沈黙を経て、彼女は徐にすっくと立ち上がって辺りをきょろきょろと見回し始めた。 行動の意図がわからず、一刀は座り込んだままだ。見上げて暫く、なんだか可愛い人だな、と少し思った。 やがて突如孫策はぱぁっと顔を明るくして走り去って行く。何事かと一刀が見送ればあっと言う間に戻ってきた。 「こっちよこっち。ああもう、ほんと丁度良いところに来たわね」 「こんな所に連れ込んで何のつもりだ……。そもそも先程華琳殿と一緒に行ったのではなかったのか?」 孫策に連れられて植木の中に入ってきたその女性。よく見ればこれもまた、確かに見覚えのある顔。 彼女も、この後一刀が最も世話になった人間の一人である。しかし今はまだ、互いにその事を知る由も無かった。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― ほくほく顔で戻ってきた孫策。彼女に手を引かれてやってきたのも又、女性だった。それもとびきりの知的美人だ。 「ちょっとね。面白い子を拾っちゃったのよ」 「やれやれ、また悪い癖が始まったか。何を拾った、猫なら明命が喜ぶやもしれんが……」 困り顔でも尚切れ長の瞳から覗く眼光は、刃のような鋭さを湛えていた。しかし見守るような、包み込むような何かも同時に覚えさせるものだ。 この世界ではそれ程多くない、むしろ珍しいともいえる艶やかな黒髪をさらとかきあげる仕草に一刀は言い知れぬ色気を感じた。 あまり魏にはいなかったタイプの人だろう。強いて言うなら郭嘉が一番近いかもしれない。クールそうな知的美人、よく考えればメガネも共通項な事実に思い至る。恐らく軍師だか文官のどちらかの人だろう、と一刀は当たりを付けた。 「この子よ」 何の前触れも無しに孫策にぐいと手を引かれて……何気ない所作だったのに物凄い力だった、立ち上がった彼を彼女はのぽかんとした表情で見上げる。 目鼻立ちも凛々しく整った顔が呆けている様が妙なミスマッチだ。急に視界に現れたように見えたであろう彼に面食らったのか、彼女は目を丸くしていた。そして彼を紹介した当人である孫策も促すかの様に彼を見つめている。 その場の二人の視線が自分に集中している事に気付いた一刀は、逡巡した末に 「ど、どうも。ちゃんと話すのははじめまして……ですよね?」 「――――あ、ああ。こちらこそ」 彼の口を割って出たのは戸惑いがちの敬語だった。 世話になるやもしれない人間の心象を良くしておこう、などと言う意味も無く脊髄で腰が低くなる対応。一刀が典型的日本人であることは最早疑いようも無い。 対して最初こそ困惑気味だった女性だが、意識を切り替えたのだろうか。即座に表情を引き締め孫策に向き直った。 「なあ雪蓮、どういうことか説明してくれないか。正直な所、余りに唐突過ぎて話を掴みかねている」 「ねえ、この子に見覚えあるかしら」 「質問に答えて欲しかったが……」 疑問文に平然と疑問文で返す孫策に、女性のの眉間が寄った。宜なるかな、しかし孫策が気にする様子はまるで無い。 ぼやくようにこぼした女性は、漫然としていた視線を締めて一刀を見る。細められた眼差しに、彼の背筋が反射的に伸びた。 「残念ながら無いな。もう一度言うが、一体どういった状況なのか説明してほしい」 「簡単に言うとこの子、華琳の部下だったんだけど。色々あって魏の子達を見返してやることになったのよ、ね?」 「まあ、大まかにはそうです」 なんとも簡単過ぎる説明だった。説明なんて面倒臭い、という顔を隠しもしないで言い放つ孫策に一刀は乾いた笑いを洩らすしかない。 女性も一刀と同じような感想を持ったらしく、やれやれと頭を振る。ついでに、胸も揺れた。 首元から臍の下まで大胆に曝け出している服装も相俟って、我知らず眼が追った彼を誰も責める事はできないだろう。彼は思った。けしからん、もっとやれ。 「ね? じゃない。その色々の部分が一番大切だろうに」 「過程よりも結果よ。別に復讐だ敵討ちだーってわけじゃないんだから細かいことはいいじゃない」 「例えそんな情報にしてもお前の口から聞かねばわからないんだがな」 「あら、しゃべる以外にもいくらでも使えるわ。接吻はどこでどこにするものか忘れちゃったの?」 その口は何の為についているんだ、と問うた女性に孫策は意味ありげに臆面なく笑みを深くする。二人の視線が絡み合った。 さて不穏な方向へと話が逸れ出したことで、ただでさえ話の輪の外だった一刀はますます話に入り辛くなっていた。 更に彼は彼とて話題が話題だったので、目の前の二人が接吻を交わす所を思い描いてしまう。彼も元々は華琳の下で、散々百合の咲き誇る風景を眺めてきた人間なのだ。想像に易い。 にやにやと笑う孫策とこめかみに青筋を浮かべている女性を、改めて交互に見比べる。二人ともそれぞれ魅力の方向性は違うがとびきりの美人である事はまさに疑いようが無い。一刀は思った。実にけしからん。もっとやれ。 「そういうことを言っているのではない。そんなこともわからんか」 「ちゃんと貴方の口から聞かないとわからないんだけどな〜?」 「……雪蓮」 「や、やーねー、冗談よ冗談。ちょっとした茶目っ気よ、茶目っ気」 「時と場合を考えてくれ。貴方はいつもいつもそうやって――――」 大地の底から響き渡るような声に、孫策の笑顔が強張る。やば……、という呟きが彼女の心境の全てを表していたことだろう。 「まあそれはともかく、この子を呉に連れて帰りたいのよ。魏の面々に内緒で、ね?」 「だから――――はぁ。まあいつものこと、だな」 無理矢理割り込むように話題の転換を図った孫策に、ため息を一つ吐いて。女性は気を取り直したように一刀を一瞥した。 「だが厄介ごとを抱え込むつもりは無いと言ったら?」 「冥琳は本当にそう思ってるときはそんな言い方しないから大丈夫よ」 「信頼してもらってるようで何よりだ」 女性の口から漏れたのは、笑いか嘆息かいまいち判断し難かい吐息だった。きっと苦労性に違いない、と。僅かな間に、一刀の中で女性の孫策に対する立ち位置が着々と構成されつつあった。 腕を組んで姿勢を正した女性は凛として言葉を紡ぐ。 「だが協定を結んでから未だ一年、大切な時期だということはわかっているんだろうな」 「勿論。それにね――――こしょこしょこしょ」 「…………まあ言わんとする事はわからなくもないが……」 「でしょう? そうと決まれば、早速拉致よ拉致」 表情が芳しくない女性とは対照的な笑顔の孫策。なにやら不穏な物言いに冷や汗を流す一刀。 「また物騒な言葉を。で、どうやって連れて帰るつもりだ?」 「それを冥琳に考えてもらおうって訳よ」 丸投げか、と女性は肩を落とす。続いて視線を一刀へ流すと、上から下まで眺めて 「ならば、まずは服を代える事からだろう。現状、兵とも言えず将とも見えず民だなどもっての外、見つかって隠し通すにも限界がある。多少の変装はさせておくべきだろうな」 「着替え、ね。わかったわ、ちょっと待ってて」 「――――あ。こら雪蓮!」 聞くが早いか駆け出して行く孫策の挙動素早き事この上無し。 一瞬反応の遅れた女性が制止するも時既に時間切れ、孫策は長い髪を翻し既に手も声も届かぬ所に行ってしまっていた。 桃色の残光を二人して眺めていた彼らは、徐に顔を向き合わせる。どちらともなく、顔が笑みを形作った。 「……行ってしまったな」 「……行っちゃいましたね」 重なる言葉に重なる思考。互いの感想が一致していた事を受けて更に笑みが深くなる。 「なんと言うか、凄く行動力のある人ですね」との「そうだな、雪蓮に皆がどれだけ振り回されたか筆舌に尽くしがたい」 とはいえ、そんな所にこそ人が付いていっている部分も無くはないのだろうが。そんな風にこぼす女性はどこか誇らしげだ。この女性は孫策の事が本当に好きなんだろう、一刀はそう感じとる。 恐らくその予想は当たっていて、女性はその表情を柔らかく崩していた。 「さて、鬼のいぬ間にでも無いだろうが。今のうちに、聞きそびれていた色々の部分を聞いておくとしよう」 「色々っていうと、俺の状況とかですか?」 「まあそうだな、先の言葉はその心積もりから出たものだよ。……だが今はその前に大切な事があるだろう」 含みのある視線を向けられて一刀は思い当たる節を探すが、別段これといった物は無い。 「なんです?」 素直に疑問を質問に変えた彼に、女性が小さく微笑む。 「私は、お前を何と呼べばいい?」 一刀は思わず悔やんだ。名を名乗る、そんな人間関係を気付く上での初歩の初歩を忘れてしまっていたのかと。 そんな考えが表情に出ていたのか、女性は口元に手をあてて含み笑いを漏らしていた。 「北郷一刀です。魏では一応洛陽の警備隊長をしていました」 「……ほう、思ったよりも重職だな。一刀、と呼べば良いか?」 「好きに読んでくれて構いません。魏でも好き勝手に呼ばれてましたから」 成る程、と噛み締めるように頷くと、女性は腰に手を置いて胸を張った。一刀の視線は、今度こそ辛うじて女性の目から逸れなかった。 「改めて自己紹介しよう。私は周公瑾、呉の軍師をしている。私の事も公瑾と呼んでくれて構わない」 「貴方が――――」 ――――周瑜公瑾、呉軍の大都督にして孫伯符との断金の交わりが有名な知将である。並ならぬ才知を存分に発揮し高名を轟かすも、佳人薄命を体現するように若くして病没した、のはあくまで史実の公瑾だ。 確かに一刀に見覚えがある筈だった。彼が元の世界に帰った時に開かれていた宴にて、彼自身は殆ど参加はしなかったものの通路や広間ですれ違った事位はあっただろうから。 「……そういえば、俺まだ孫策さんにも名乗ってないかも」 「ん? ならば何故一刀は名がわかったんだ?」 「いや、まあ有名な人ですし……」 「はぁ、どうせ雪蓮……、伯符の事だ。君、なんて名前だっけ? とでも何も悪びれずに聞いてくるだろうな」 「あ、今の真似そっくりでしたよ。断金ともなると物真似も似てくるんですかね」 「ふふ、褒め言葉と取っていいのか微妙な所だ」 一頻り談笑した二人。座って良いかと先に聞いたのは公瑾だった。了承した一刀もそれと同時に横並びに座る。 「本題に戻るが、何故こんな状況になったんだ? 雪蓮の説明では正直な所九割方を想像で補うしかないからな」 「ええとですね……」 大体先ほど孫策に話した内容と同じような話を、孫策とのやり取りも大まかに加えて話す一刀。相槌を打ちながら耳を傾けていた公瑾は、語りが途切れこれ以上続かぬ事を確認して成る程と軽く口の端を吊り上げた。 「そういう事情があるわけか。いやはやなんと言えばいいのやら……ご愁傷様、とでも言っておこうか?」 「茶化さないで下さいよ、結構へこんでるんですから……」 「茶化してなどいないさ。寧ろ同情の念を禁じえない」 そうは言うものの、公瑾の表情は笑顔だ。同情気味なそれとは言えどもやはり楽しんでいる側面はあるように思える。 図らずも主君と臣下は似るものなんだろうか。そう考えたものの華琳と春蘭の顔がふと浮かんで一刀は先の推測を頭から追い出した。やっぱり、たまたまだろう。 「それより、迷惑だったりしませんか? 俺みたいなのがいきなり呉に行っちゃっても」 「ふむ、痴情の縺れで逃げ出した、とか華琳殿との不仲で追放されているというのなら断固として拒絶しよう」 言外に違うのだろう? と問われている事に気付き、一刀はぶんぶんと首を縦に振った。その様子を見て公瑾は一つため息をつく。 「伯符があんな言い方をしていては安心も出来るが不安にもなる、か」 「贅沢を言える身分じゃ無い事はわかっちゃいるんですけど……、でもできるだけ迷惑はかけたくないですし」 「まあ皆にも良い刺激になるだろう。私としてはそれで皆が活気付き、成長する事を期待しているがな」 「新しいものは取り入れるべき、ですか?」 「未知の物こそが人を成長させる要因になるからだ」 捉えようによってはお前は得体の知れない奴だ、と言われているような台詞だ。しかし一刀の目に映る公瑾の柔らかい表情からは、そのような意図は感じ取ることが出来なかった。 「それはそうと、一刀。お前が魏から来たという事を、当面は不特定多数に対しては伏せておこうと思う」 「華琳の耳に入っちゃうかもしれないからですか?」 「それも無きにしも非ずといったところだ、男を磨く前にばれてしまってはお前としても元も子もないだろう。だがそれだけではない」 どうやら、世は全て事も無しとはなっていないようだった。少し複雑そうな目をして公瑾は続ける。 「魏、蜀、呉は三国間で協定を結びそれぞれによる争いは無くなった、これは確かにそう言えよう。だが、まだ完全にしがらみが無くなったという事にはならない」 「それは……戦いは終わったのに、やっぱり皆割り切れないんですか」 「人の心がそう簡単に切った張ったで成り立つならば良かったんだがな。昨日殴られた相手を笑って許すことはとても難しい事だよ、一刀。まして殺し殺される間柄は一年程度では清算できはしまい」 「見も蓋も無くないですか、それ。それだとしても、どこかで切り替えなきゃ何も変わらないと思います」 「耳に痛いよ。国の上層部はこの一年でだいぶ打ち解けることができたと自負しているが」 それ以外についてはなんとも言えないらしい。つまるところ、魏から来たという一刀の経歴が人間関係を築く上での妨げになるのではという危惧の提示だった。 彼にも御伽噺や昔話のように、めでたしめでたしで終わることは無いだろうという認識はあった。だがその認識より更に重く圧し掛かる現実。 「まあそういうことだ。これはお前の為に言った事だ、どうするかは自分で決めるといいさ。少なくとも、私は呉に一刀が来ることを拒むつもりは無くなったよ。雪蓮は……言うまでもないだろうな」 「…………自分で言うのもおかしいですけど、俺って怪しくないですか? もしかしたら間諜か刺客もしれないし」 「そんな物言いをされるのも久しいな」 心底おかしそうに公瑾が言う。深くなった笑みは却って挑発しているようにも見受けられる。 先にも見た髪をかきあげる仕草を、一刀は自信の表れのように受け取った。 「安心しろ、末端や臣下はともかく華琳殿はそういった小手先の真似を好む人でないことはこの一年で理解できている。それにこうやって話を何でもない話をすること自体でも、一刀という人間を推し量れるものだ」 全て吟味した上での了承と取ってもらっても構わない、その彼女の言葉は、紛れも無い孫呉の大都督としての発言だった。 王と頭脳の両面からのお墨付きを貰う形になり、一刀はやっと一息つけた気がした。打算的であまり好ましくないが、ひとまず即追い出される事は無くなっただろうから。 「そう言ってもらえるとありがたいです。ある意味、行く所が無いに等しい状態なんで……」 「吐いた言を裏返すようだが、それほど気にするな。人材の登用には慎重になっているにしろ、新しい風を吹き込ませなければいけない時期だからな」 「やっぱり、今後の展望は文官の育成を主に?」 「基本的にはそうだ。お前は……警備隊長と言うからには武官だったのだろう。ならば似たような役職に就けて手の空いた者と手合わせさせつつ…………」 「ちょ、ちょっちょっと待ってください!」 自分の世界に入り込みかけている公瑾に一刀は慌てて声をかける。生じた勘違いを正しておかねば彼の未来がどうなることかわかったものではない。 「警備隊長って言っても俺がしてたのは主に雑務で……、って言うより警備隊長以外の雑務も色々してましたけど。」 「具体的に何をしていたか挙げてくれないか?」 「ええと、警備隊の指揮と陳情の処理、数え役満姉妹の人材管理、偶に政の手伝いに…………」 「つまり、文官の雑務全般だな。なんともつぶしが利く事だ」 感心すると言うよりは呆れるような口調で公瑾は呟いた。実際一刀の役職は警備隊長であったものの、やっていることといえば諸雑務の山に押しつぶされながら種馬ぶりを発揮していただけである。 「武の方が余りにダメすぎて……、出来ることを色々とやってたらいつのまにかこんな感じになってました。まあ大体は、こっちの世界に無いあっちの制度の立案が多かったですけどね」 「――――成る程。確かに、武官にしては貧相な体躯だな。ならば文官の下に付けた方が良いかもしれんな……」 歯に衣着せぬ言い方に傷付くも、何とか気を取り直す一刀。 「自慢じゃありませんが、よく訓練された武官と相対したら一秒以内に負ける自信があります」 「いや、それは自慢すべき事だ。その弱さでよくぞ生き残ってこれた、と」 「は、ははは、照れるなぁ」 勿論照れてはいないしその事を公瑾も理解している。乾いた笑いが響いた。 「まあその辺りの話は呉に着いてからでも良いだろう。雪蓮が戻るまで今しばらくかかりそうだが、何か聞いておきたいことは無いか?」 何か聞きたいこと、と問われて色々と考える一刀。が、改めて言われると特に何も思いつかないのが人間である。 何の仕事してるの? 恋人はいる? 好きなタイプは? 等の合コンですべき質問郡を頭から追い出して結局浮かんだのは、自分がいなくなっていた間に何がどうなっていたのだろうという素朴な疑問だった。 「今三国間ではどういう交流が行われているんですか? 戦後復興とかはどうなってるとか」 「ああそうだな。現状把握は重要事項の一つだな」 口元に手を当てて眼を細める公瑾が、一刀にはなんだか学校の先生のように見えた。 「さしあたって三国間に大きな問題は無い。至急の目標として掲げられたのは荒廃した国土を癒す事とその各種方策の共有、又各国の民の意識変革だ」 「やっぱり密に兵や大使をやりとりして友好を民に示しているんですか」 「いや、暫くの間は不干渉、とまでは行かないが過度な干渉を避ける方針で同意した。復興支援兵を派遣する予定はあるが、まだ実際には行われていない」 「どうしてそんなまどろっこしい事を? 少しでも早く復興させれば良いのに」 「…………さて、どう思う?」 彼が受けたのは、質問の言葉と試すような視線。自称文官兼雑用係の能力の程を彼女が測ろうとしていることは間違いなかった。 ここで見縊られてしまっては彼の将来の危険が危ない。熟慮した後に一刀は口を開く。 「やっぱり、まだ元敵国の兵士が送られてくる事に抵抗がある……からですか?」 「まあ大まかにはそうだろうな。及第点は与えても良い」 微笑みを濃くした公瑾の様を確認し、一刀は肩から力を抜いた。100点ではなさそうだが、0点でもなさそうだった。 「正確には、戦勝国というものを露骨に強調してしまうことを避けたんだ。親善大使を交換するという形にしたとして、敗戦意識のある国からすれば送られた大使にしても兵にしても占領統治の第一歩に見えるだろうし、送った大使は人質のように感じてしまうだろう」 「実際に勝っていたわけじゃないから、否定しても寒いものになってしまう、ですか」 「ああ。だから最初の内暫くは自立性を重視するといった名目の元、それぞれの国が各々の手で復興に当たっている。とはいえ、先に言った通り上層で方策の立案と共有はしているが」 「敗戦意識を与えないようにする、でもそれだと負けてはいなかったかもしれないって意識が先行して何かの火種になりかねない面もあると思います」 「言いたい事はわかるさ。ただでさえ掴んだ勝利を態々手放した形になっている魏の立ち位置は微妙なものだ。国内外からも風当たりは無いと言い切れないようだからな」 「……正直な所、どうだったんですか。曹操様の選択は」 彼女は、呉の大都督である。本来は魏に平定され滅ぶ運命だった筈の国の人間だ。それが魏の王の気まぐれとも取れる決断で一命を取り留めた所か、国そのものまで存続するという過程を経て今がある。 その立場上恐らくは華琳を否定することは立場上許されるものではない、そう理解しつつも、一刀は問うてみたかった。答えが欲しかった。華琳は間違ってはいないという言葉を求めていた。 ずるい質問だと知りながらそう言った一刀を垣間見た公瑾は眼を閉じてじっと考え、言葉を紡いだ。 「その行いを寛大だとの見方も当然だがある。敵も多い事だろうがそれも乗り越えねばなるまいよ」 返った答えはあくまで客観的なもので、彼は軽い失望と共に安堵も覚えていた。間違っていたわけではない、今はそれで充分な気がした。 歴史とは後世が語るものだ。そして少なくとも今、彼女は華琳の意思を否定しなかった。御伽噺の結尾を求めているわけではないのだから、今はこれでよしとして全てはこれからだ。そう一刀は判断した。 「結局の所私達は手を取り合う事を選んだ、そこに優劣があってはいけないとして。この意味では、桃香殿が一番喜んでいたよ。……ああ、玄徳殿の事だ」 「……あの人の目指していたのはそういうことなんでしょうね」 劉玄徳。彼女が舌戦及び華琳との独闘で叫んでいた胸の内はまさにそういった物だった。ある意味彼女の理想こそが最も崇高で気高く、そして誰もが夢にみて諦めていくものだ。 もしかしたら、彼女の行動の根源は誰よりも単純で純粋なものだったのかもしれない。一刀は内心でそれを推測しかけて、途中で思考を打ち切った。気軽に想像しても良いようなものではないだろう。もし彼女と話す機会があれば聞いてみればいいと、そんな風に考える。 「そうだ。そして華琳殿もそれに同調した」 「――――華琳が?」 「色々と思うところもあったようだがな。――――おっと、思ったより早かったか」 公瑾の向いた先に釣られて振り向くと、植木の隙間からは孫策が何かを携えて走ってくるのが見えた。いなくなった時同様目にも留まらぬ速さでかけて来た彼女は、あっという間に二人の下に辿りついた。 莞爾として笑う彼女の手には、定めて一般の兵士が着ているであろう服に軽装の鎧一式が抱えられている。軽いものでもないだろうに汗一つかいてはいない様相だった。 「ごっめーん、待たせちゃったわね。あら、二人とも何? 交流を深めてたってわけ?」 並んで座る一刀と公瑾の二人を見やって、孫策はいかにもおやじっぽく口の端をつりあげてにひひと笑った。 「来るのがもう少し遅ければ、もっと交流を深めることが出来たのだろうがな。残念なことだ」 どう返答しようか慌てる一刀を尻目に、薄く笑ってすいとかわす公瑾。ここは何を言っても駄目だろうと一刀は苦笑いを零す。 そんな二人の様子に、孫策は目を丸くした。 「え、なになに、この子ってば手が早いの?」 「いや別にそういうわけじゃ……そ、それよりも何を持ってきてくれたんですか?」 「ふーん。ま、いいわ。それよりこれね、呉の兵の服と……じゃーん!」 訝しげな表情を浮かべていた孫策が鎧を地面に置いて座る。そしてどこからともなく取り出したのは、赤い縁をした眼鏡だった。 彼女の服に何かを収納するようなスペースは明らかに無さそうなのに、と一刀は目を見張る。一体何処から取り出したのだろうと首を捻る一刀とは違う理由で公瑾も驚いているようだ。 「これは――――私の眼鏡じゃないか。こんなもの持ってきてどうするつもりだ?」 「勿論この子にかけさせるのよ。冥琳さっき変装させるとか言ってたじゃない、カツラとかも探したんだけど見つからなかったのよね」 一刀の目から見た公瑾はなんとも形容し難い……有り体に言えば、なんと言葉を書ければ良いのか掴みかねているように見受けられた。 「遊びじゃないんだぞ……と言いたい所だが、まああって損するわけでもないか」 「でしょ? じゃあ――――――」 一刀に顔を向けた孫策は、笑顔で口を開けたまま少しの間固まっていた。少しの既視感。 やがて、あ、あはは、と笑いを漏らすと彼女はおずおずと切り出した。 「――――君、なんて名前だっけ?」 一刀と公瑾は、顔を見合わせた。そしてどちらともなく笑い出す。これも又既視感。しかし、先のそれとは毛色が違うようだった。 一刀は肩を震わせていたし、公瑾は傍目には自然体に見えるも口の端がヒクついている。 「な、なによ! いいじゃない、ちょっと聞くの忘れてただけでしょ!」 二人の無言のやり取りを見て、自分が笑われているとでも思ったのだろう。肩を怒らせた孫策に二人の笑いは一層大きくなったようにも見える。 「勘違いするな雪蓮。そうだな、私の才気が自分で恐ろしくなっただけだ」 「流石は公瑾さんって所なのかな。――――あ、俺は北郷一刀です」 「なーんか釈然としないわね……。ま、いっか。私も伯符で良いわよ。じゃあちゃっちゃっと着替えちゃって?」 言葉と一緒に手渡された眼鏡を受け取る一刀。 「良いんですか? お借りしちゃっても」 「なに、どうせ予備の品だ。それにそれ一つきりではないからな。遠慮なく使うと良い」 変なことに使っちゃ駄目よー、と茶々を入れる伯符に渋い顔をして口を開こうとする公瑾の二人を横目に見て。さて着替えるかと上着とシャツを脱いで兵の制服に手をかけた所で、一刀はふと二人に向き直った。 二人も一刀を注視していたので、当然目が合う事になる。さっき始まりそうだった会話は何処へ行った。 「――――ってちゃっちゃっとじゃないですよ! なんでそんなガン見なんですか!」 「え? 別に良いじゃない、私は何も気にしないわよ」 「らしいぞ一刀。ちなみに私も別に気にはしないがな」 「俺が気にするんですっ! せめてあっち向いててください!」 残念ねー。そうだな、残念だな。二人して植木ゾーンから離れていく際の会話である。一刀は一時掴みかけていた二人の人物像が崩れていく音を確かに聞いた。 鎧の金属に映る自分の顔は、横に大きく伸びてまるで相撲取りか何かのようにも見える。間抜け面だった。 まともな鏡に映る自分の顔は一体どんな顔をしているんだろう。そんな考えを打ち切って服に体を通す。彼の目に映る空は、変わらず蒼く輝いていた。