いけいけぼくらの北郷帝  番外編その一『泥中之蓮』  年も明け、数日たったその日、遼東遠征からようやく洛陽へと帰り着いた公孫賛こと白蓮は、衝撃の事実を突きつけられた 「わ、私が蜀から追放されただと?」  謁見の間にて漢の丞相たる曹孟徳──華琳に戦果とその後の後始末の経過を報告した後、通例はそのまま酒宴となるのだが、さすがに長期の遠征ということもあって疲れもあるだろうと宴は後々にまわされ、一部の武将たちだけが残されて、話が進んでいた中でのことであった。 「うむ……その、わしも納得は出来んが……」  蜀の王、劉元徳からの布告を読み上げた武将厳顔は、いつも着けている肩当てもなく、常に持っている酒瓶も持っていない。 「なぜだ!!」  掴みかからんばかりに厳顔──桔梗へ詰め寄ろうとする白蓮に対し、膨大な量の金髪を振り立てた袁紹の鋭い声が飛ぶ。 「猪々子さん!」  主の声に反応して、一人の短髪の武人が走り寄り、白蓮を後ろから抱き留めると、力任せにずりずりとひっぱった。さすがの白馬長史も、単純な膂力では文醜──猪々子には勝てない。されるがままにするしかなかった。 「おーっと、無茶は駄目だよ、白蓮さま。気持ちはわかるけど、桔梗さんはお腹に子供がいるんだから」  その言葉の通り、桔梗の腹は、元からはちきれんばかりにたわわな胸と競うように、ぽっこりと丸い。武裝していないのも酒を抱えていないのもそのためであった。 「あ……う、すまん……そんな、つもりでは……」  力が抜け、猪々子が手を離したのもあいまって、ずるずると床に崩れ落ちる白蓮。後ろでくくった髪がぱさりと力なく頭頂部にかかる。 「わかっておる、わかっておる。ほら、立ちなされ。詳しい話はこの書簡を読んで下され。わしではどうしようもないことでな」  劉備と諸葛亮からの書簡を渡されるものの、呆然とそこに座り込んだままの白蓮。それをなんとか励まそうとする顔良──斗詩と、猪々子、桔梗という面々。彼女たちを見下ろしながら、魏の覇王は淡く微笑んだ。 「麗羽」 「なんですの、華琳さん」  袁紹こと麗羽が、華琳の声に反応すると、横で控えていた、人形らしきものをのせた少女程c──風が、重そうになにかの包みを引きずって、とてとてと前に進む。それほどの大きさではないのだが、元来風が大きくないために、どうしても大きく見えてしまう。 「それ、あなたたちへの一刀の書状。白蓮のことに関しても書いてあるはずだから目を通しておきなさい」 「我が君からの! さあ、早くお渡しなさい!」  風から奪い取るようにして袋を受け取り、中からわたわたと書簡を取り出す麗羽。それにつられて、斗詩と猪々子も自分宛ての書簡を取り出していく。 「さて、白蓮。あなたは蜀を追放されたとはいえ、漢の将軍であることは間違いない。また、此度の功績も鑑み、あなたを鎮北将軍に任ずるわ」  へたりこんだままの白蓮はその言葉を聞いて、ようやく立ち上がり、数段上に座す華琳に向けて、ぎこちないながらも型通りの礼を返す。  鎮北将軍は四鎮将軍の一つ。上位将軍号がほとんど名誉職と変わりない現状ではあるが、それなりの栄誉と権限があることには違いない。 「それに関してはありがたく頂戴するが……」  痩せても枯れても公孫賛、一時は一勢力を築いたほどだ、職責を任されることに不安はない。ただ、鎮北将軍にふさわしいだけの陣立てを用意するのには苦労しそうだ、と彼女は溜め息をつく。かつては朝廷からそれにふさわしい兵や官が派遣されたものだが、そんなことを期待できる情勢ではない。蜀という後ろ楯もないいま、麾下の白馬義従だけでなんとかやりくりしなければならないだろう。 「そういうわけで、鎮北府を開き、一人でやっていくことも出来るわね」  開府の準備くらいは協力するわよ、と彼女は言う。それも当然だろう。どこで開府するにしろ、鎮北府となれば、魏の領内になる。北方に面しているのは魏なのだから。 「あるいは、もしよければだけど、うちに来る?」 「魏にか、それはちょっと……まずくはないか?」  蜀を追放された経緯は、蜀からの書簡を読まずとも、落ち着いて考えれば彼女とてわかる。ただ、まさかそこまでの大事に発展しているとは思っていなかっただけだ。これに関しては、見通しが甘かったといわざるを得ない。 「私が丞相となったいま、漢と魏はほぼ一体。もう問題なんてあるはずないのだけれどね。桃香たちのことが気になる? まあ、もちろん、あの娘たちが悪いってわけではないのだけれど」 「そりゃあ、な」  ようやく落ち着いてきたのか、公孫賛は軽く肩をすくめる。 「といって麗羽たちが悪いってわけでもない」 「当たり前ですわ」 「……ん、まあ、元々無茶な勅だったしなあ」  途中に挟まれた言葉にかまわず、二人は会話を続ける。 『遼東征伐の軍をそのまま南進させ、北郷一刀を討て』  彼女が受け取った密勅には、そうあった。  だが、そんなことを実行できるわけもない。たしかに戦力はあったが、その時点で追ったとしても、北郷は建業にたどり着かないまでも呉の領内に入る。なお追い詰めれば、呉軍と衝突する可能性も高く、また、魏の盟友たる北郷を討てば、蜀と魏の戦争となることは火を見るより明らかだ。さらに言えば、華雄、呂布が守る個人を討ち取ることなど不可能に近いだろう。焼き討ちにかけるのでもなければ、逃げられる公算が大だ。  麗羽たちが使者を斬り、勅をなかったことにしたことは、彼女自身と蜀をも救ってくれたとも言える。本人たちは、そこまで考えていなかったとしても、だ。 「そう。では、麗羽が書簡を読み終えればわかるでしょうけど、一刀のところへ行く手もあるわよ」 「北郷か……」  ちらり、と彼女はその北郷からの書簡にわき立っている麗羽たち三人を見る。 「その場合は、その、麗羽たちの下に……?」 「さあ。そのあたりは一刀に訊かないと」 「おにーさんのことですから、冷遇されるってことはないと思いますよー」  曹操と程cの言を聞き、白蓮は考える。しかし、彼女の同行は麾下の者たち全員に影響を与える。軽々に決めることは出来なかった。 「少し、考えさせてくれないか?」  その提案は華琳の側も予想していたのだろう。当然というように頷いた。 「ええ、もちろん。まずは戦の疲れを癒やしてちょうだい。ほら、そこの手紙に夢中な三莫迦さんたちも、部屋に戻ってゆっくりお読みなさいな」  そうして、一行は解散するのだった。  風呂にゆっくりとつかって戦の汚れを落とし、一晩考えた末、白蓮は意を決して呉の大使の執務室へ向かっていた。 「呉の大使の方はおられるかな」  取り次ぎに出た文官にそう訊ねると、奥の部屋に通される。そこには長い黒髪の活発そうな少女が一人書類と向き合っていた。 「あ、白蓮殿。いらっしゃいです」 「あれ、冥琳はいないのか。そういえば、謁見の間にもいなかったが」 「はい、冥琳様はすでに建業へ向かわれました!」  その少女──副使である周泰こと明命に話を聞いてみると、周瑜と周泰という二人は呉に帰され、入れ代わりに孫権、甘寧という二人が赴任予定なのだという。筆頭軍師である周瑜──冥琳は先に国に帰り、明命は一人引き継ぎにとどまっているらしい。 「へぇ、そうなんだ。じゃあ、明命に訊こうかな」 「はい? なんでしょう?」  椅子を用意され、そこにつく白蓮。同時に人払いがされて、二人だけの空間ができあがる。その上で白蓮は、少し言いにくそうに口籠もった後、ようやくのように話しだした。 「その……私が蜀から追放されたのは知っていると思う」 「あ、はい。そのことは、私が呉に伝えました」 「らしいな」  己の知らぬところで、ずいぶん前に己の命運が決められているというのは業腹ではあったがいたしかたない。それこそが、政というものなのだから。 「そこで、だ。私にはいくつか道がある。蜀に帰参を願って、漢の一武将として過ごすのもいいだろうし、魏にも誘われている。あるいは北郷一刀の下へ来ないかという誘いもある」  白蓮は、一度話を切り、明命が理解していることを確認して話を続ける。 「魏に関しては、私もそれなりに知っている。しかし、北郷という人間はいま一つわからない。まともに話すようになったのは、こちらへ赴任した後だからな」 「それで、一刀様の話を訊こうと?」 「うん、なにしろ本人はいま呉だろう。最終的には本人と話をするにしても、それまでにある程度方向性を定めておかないと失礼だからな。北郷の配下にも訊くつもりだが、呉や蜀の意見も参考にしたくて」  ふむふむ、と頷いた明命は彼女の言葉に考え込んでいたが、しばらくすると浅く腰掛け直す。 「わかりました。では、呉から見た一刀様と、個人的な印象をお話しすればよろしいでしょうか?」 「うん、頼めるかな。私を助けると思って」 「はい」  そう言うと息を大きく吸い込んで、黒髪の少女は目から感情を消して言葉を紡ぎだす。 「北郷は、呉にとって強力な同盟者です」 「ほう?」 「改めて説明することではないかもしれませんが、呉は楊州、交州、そして、荊州の三分の二を領有しています。荊州で蜀と、楊州、荊州で魏と接しております。蜀とは、知っての通り荊州の領有問題を抱えています。しかし、魏と接する地域は長江という自然の境界線があるため、その領有に関する問題はありません。今後を見据えても起きにくいでしょう。さらに、長江は侵攻を阻む壁ともなり、また、逆に交易を促進する水の道ともなります。現状の協調路線を考えますと、今後もこの二国関係は非常に重要になっていくものと思われます」 「ふむ。それはわかる」  明命の語る呉の情勢に納得したのか、白蓮が軽く頷く。 「さて、魏の覇王の盟友であり、個人的にも強いつながりのある北郷という人物は、魏との関係を築く上では最重要と言っていいかと思います。他にも比肩する人物はおりますが、いずれも呉とは深く関わっておりません。しかし、北郷は現在呉へ大使として派遣されていると共に、彼の下には、呉を良く知る黄蓋……いえ、黄権さまがおられます。いまは立場を違えておりますので黄権さまが呉に有利なことばかりを進言するとは思えませんが、北郷勢が呉を理解する上で力になるであろうことは確実です」  腕を組み、情報を呑み込むようにして、考え込む白蓮。明命はじっと彼女の考える姿を見つめ、言葉を待っている。 「しかし、あいつの下には袁術もいなかったか?」 「はい。それも有利に運ぶ要因です。はっきり言いまして、袁術自身には、いまだに呉に対する不信はあるでしょう。とはいえ、それで讒言をしたとして、気づかぬ北郷とその周辺ではありますまい。恨みから行動を起こせば、却って呉に有利になることは確実です」  そこまで言って、彼女は表情を崩す。普段通りの笑みを浮かべて、付け加える。 「いまの袁術殿がそのようなことをなさるとは、私個人としては思いませんけど」 「つまり……魏との関係を強固にするためには、重要な人物、ということか。たしかに身近にその国を良く知る人間がいるほうが、協力していくのに苦労はいらないだろうな。敵対すれば、これほど恐ろしいことはないだろうが……」  その言葉に、明命は笑みを深くする。まるで、そんなことを恐れる必要があるわけがない、というように。その顔を見て、白蓮は少し複雑な表情を浮かべる。 「うん、ありがとう、よくわかった。明命個人としての評はどうだ?」  そう訊いた途端、明命は、ばんと手を卓につき、音を立てて立ち上がった。 「一刀様は素晴らしい御方です!」  叫ぶ明命は、ぐっ、と力強く手を握る。 「お優しくて、頭もよろしくて、しかもしかも、お猫様に好かれているのです! ああ、一刀様に紹介していただいたお猫様たちのもふもふ具合と言いましたら、これは、もう夢のような……」  まくしたてる明命に呆気にとられていた公孫賛だが、止まらない言葉の羅列に、こりゃのろけだな、と小さく独りごちるのだった。  まだまだ猫と北郷の魅力を語りきれない様子の明命をなんとか押しとどめ、礼を言って辞した後、白蓮は今度は蜀の副使、桔梗の私室の前に立っていた。  出てきた女官に案内されて、部屋に通される。  その女官の出て行く後ろ姿を見ながら、彼女は首をひねっていた。 「あれは、蜀の女官ではないな?」 「子を産んだことのある女官のほうが、なにかと気を遣うてくれるからな。祭どのに頼んで変えてもろうた」  ゆったりと背もたれの大きな椅子に座っているのは膨れたお腹を抱くようにした桔梗。白蓮もその前に座る。白蓮が洛陽を発つ頃にはまだ目立たなかった腹も、だいぶ目立つようになっている。 「ところで、白蓮殿。成都に残った白馬義従の件」 「ああ」 「星が連れてくることになっている。後任の大使はやはり、紫苑らしいの」  ほっと息をつく白蓮。蜀に残してきた部下たちは懸案事項の最たるものだった。蜀が接収するなどということはないと信じてはいたものの、命令系統からすればありえないことでもない。それがはっきりと、自分の下に帰ってくるものだとわかれば安堵の息も出ようものだ。 「そうか、ありがとう」  その言葉に桔梗も安心したのか、ゆっくりと立ち上がり、酒瓶と杯を持ってくる。 「いいのか、おい」 「わしは舐める程度。昼間とはいえ、酒でもなければやってられん」  たしかに、言う通りかもしれないな、と白蓮は首肯する。追放する人間と追放される人間が、その事実を知らされた翌日に話し合おうというのだ。少しは口をなめらかにするものがあったほうがいいだろう。 「まあ、でも、私でよかったかもしれないな」  勧められるままに杯を重ねた後で、彼女は呟くように言った。 「ん?」 「桃香は、昔なじみの私だからこそ切れたのだろう、ということさ。そうでなかったら、一悶着あって、蜀が辛い立場にあったかもしれないだろ」  ふぅ、と大きく息をつき、なにごとかを呑み込むように、桔梗も杯を呷る。こちらは、これがまだ一杯目であった。 「……そう、やもしれんなあ」  しばらくは沈黙の中。  だが、二人ともあえてそれを破ろうとはしなかった。  酔いがまわったのか、頬が少し赤くなりかけたところで、白蓮が、ここに来た理由を話す。 「おお、あちらに行くか」 「いや、まだ決めたわけじゃないから……。でも、もし行くかどうか決めるにしても、主の人となりを知ろうと思ってさ。いま、あいつは呉だろう? だから、知ってる人たちに話を聞いてまわってる」 「そうかそうか。わしでわかることならいくらでも。といって、わしがあの方のことで知っているのは、この子の父親としての顔が主なような気もするが」  そう言って、桔梗は幸せそうに腹をなでる。その幸福な光景を壊すのは忍びなかったが、自分だけのことではない、と思いなおして白蓮は話を進める。 「その、二つ訊きたいんだ。個人としての北郷と、蜀から見た時のあいつを」  桔梗はその言葉を聞いて、少し考え込んでいたが、杯を置くと思い出すように顔をうわむけながら話し始める。 「ふうむ。では、はっきり言おう。あれは女たらしの天才よの」 「……は?」 「考えてもみい、魏の将軍ども全てをとろかし、その上、わしや祭どのはじめ多くの女をたらしこみ、しかもその多くが喧嘩もせずにひとつところにおる。天与の才と言わずになんと言う」 「それは……そうだろうけど……」  同意をしながらも、白蓮は渋い顔だ。彼女にしてみれば、女たらしであることを聞かされても、正直、参考にはならない、そういう感覚だろう。 「呆れておるか? が、それこそがあの方の神髄。人を惹きつけることこそが」  それでも、白蓮の顔は晴れない。桔梗は苦笑を浮かべた。 「そうさな。純粋な能力で言えば、蜀の軍師殿たちにはいま一歩及ばぬ、というところか」 「それほど……か?」 「実際に指揮下にて共に戦ったこともあるではないか」  今度は白蓮がばつが悪そうにうつむく。 「しかし、あの時は、私は血迷っていたからな……」 「単純な知識で言えば、こちらの世界のそれはないが、天の知識があるため有利。なにしろ、こちらの知識などこれからでも入れられるからのう。決断力は、この間の戦を見てもわかる通り、果断。人を使う術は……ふふ、あれだけの将が側にいることで証明されよう」  白蓮はふむふむ、と頷いて続きを促す。 「及ばぬところがあるとすれば、甘さか」  そう言う桔梗の口元には笑みが刻まれていた。 「あの方は考え方からしてわしらとは異なる。烏桓一部族を買い上げて己の兵にするまではよいとしても、それを他国の武将に任せてしまうなど、わしらには考えられん。その違いが甘さと映る場合が多い。これが問題」  再び酒杯をとると、彼女はからからと笑った。 「それがあの方の魅力でもあるわけで、難しいところよ」 「ずいぶん評価しているんだな」 「わしが子を産もうという男。もしわしの眼鏡違いとしても、それくらいの器量を今後身につけてもらわねば困るというもの」  平然と、彼女は言い切る。そのなんとも言えぬ自信のようなものに、これまでの桔梗とはまた違うものを見たような気がして、白蓮は圧倒されてしまう。  これが母の強さというものか……? と彼女は眉根を寄せる他なかった。 「では、蜀から見た北郷一刀の姿を言えば」  ちろり、と舌を出して、酒を舐めとりながら、彼女は真剣な顔で続ける。 「これは、もう間違いのう一級の危険人物」 「危険人物? あいつがか?」  白蓮の指摘に、桔梗はまあまあ、と手を上げて、言葉を続ける。 「我ら蜀は益州の大半と、荊州の半分を領有しておる。益州の入り口、漢中は魏と領有を主張しあい、荊州では呉とその領地の支配権を争うておる。また、西は羌に押さえられ、南は南蛮を仲間に加えた。白蓮殿がこの程度知っておるのは承知のことだが、聞いてくれ」 「うん」 「さて、こうして眺めた時、我ら蜀には進むべき場所が、もはやない。領土なぞいらんが、交易まで出来んとなると、これはちと困る」 「まあな。畑を作る場所も少ない。ものを売るしかないからな」  白蓮も蜀の国づくりに関わってきた武将だ。その立場と今後の展望については重々承知している。 「呉とは、領土で揉めておるというても、長江を利用して交易が可能。それほどの問題はない。が、一方で、魏との玄関である漢中は、危うい」 「魏も支配しているとは言い切れないけどな。あそこは五斗米道だろう」  白蓮の言う通り、漢中盆地には五斗米道と呼ばれる宗教集団が居すわっていた。魏にも蜀にも税を納めたり、貢納をしたりして、どちらからも庇護を得ている。また、漢の内地に移った羌や蛮を支配下に入れ、侮れない勢力となっていた。  その一方、魏、蜀という二国がこの状況を容認しているのは、五斗米道と漢中がよい緩衝地帯となってくれているからでもあった。これがあるおかげで直接の衝突を避けることが出来る上に、お互いの関係が微妙な時でも変わらず交易を続けてこられた経緯がある。 「それがの、その五斗米道が転ぶという噂がまことしやかに語られておる。こういう時、謀略でなければ、真実であるというのが通り相場なのは知っての通り」 「あいつらが? そう簡単にいくか? あれらは並の胆力じゃないぞ」  白蓮の疑問に、桔梗はやれやれ、というように手を振った。 「涼州がな、安定してしもうた。そろそろ自分たちも旗色を明らかにせんといかんと悟ったのであろうな」 「涼州が……あと五年はかかるものと思っていたが」 「白蓮殿は知らぬかもしれんな。あの方は、いまや董卓と賈駆をもその配下としておられる」  その言葉に、白蓮は納得したように頷いた。 「恋とねねだけがあちらに走るのは不思議と思っていたが、そうか、月と詠も……」  そうすると、と白蓮は口の中だけで呟く。 「いかに西涼を束ねる翠がいるとはいえ、蒲公英が鎮西府に入り、月が北郷に従うとなれば……たしかに涼州は動かんな」 「うむ。蒲公英の鎮西府入りも、あの方が、きっかけであったとも聞く。伏竜鳳雛は、あの方にはめられたと思っておるようだな。これは勘違いであろうが」 「ふうむ……」 「また、漢中の帰順に関しても、あの方の部下が推し進めている、という噂もある。これはわしも探りきれておらんが……。五斗米道の信者どもの間にもそのような空気が漂いだしておるのはたしかなこと」  それを聞き、白蓮は渋面をつくる。 「民にか……それはいよいよまずいな。涼州が押さえられ、漢中が握られれば、北方交易は安定はするだろうが、益は大幅に切り下げられる。こちらの言い値では買ってくれなくなるからな」  桔梗も重々しく頷く。安定は歓迎するが、蜀の商人の入り込む場所がなくなってしまったでは意味がない、といったところか。 「あとは、大使制度か。これは面白いものではあるが、せっかく取り込んだ南蛮を蜀からひきはがすためにも使われておる。白蓮殿、なんと、魏は南蛮にも大使を派遣しましたぞ」 「へ……。成都にいる秋蘭に飽き足らず……か。それは、厳しいな」 「さらに、あの方は、銅銭を利用しない取引の手法を考えつかれたという話もある。これについてはようわからんが、銅の需要が減れば蜀には大打撃。さてさて、これで北郷一刀を危険視する理由がおわかりか?」  言いながら、桔梗の顔はなぜか笑みに彩られている。それを見て、白蓮はしかたないな、というように溜め息をつく。 「しかし……偶然とは言わないが、流れというものじゃないか? なにも北郷が意図しているわけではないだろう」 「わしらはそう思うな。しかし、蜀で動きを見ておる朱里たちに、その感覚を期待するのは無理というもの」 「そっか……。じゃあ、私が北郷についたら、桃香を敵にまわすと思われるのかな」 「桃香様たちはそのようなことは思うまい。ただ、朱里と雛里は気を揉むな。なにしろ、冀州の袁紹、幽州の公孫賛、涼州の董卓、楊州の袁術に黄蓋、そうそうたる面々を部下に抱えることになる。そして、その後ろに控えるのは、魏の覇王にして漢の丞相ときておる。恐れおののくなというほうが無理であろうよ」 「そうそうたるって言ったって、みんな一世代前の諸侯じゃないか」  自重気味に、白蓮は呟く。幽州を支配した公孫賛は、彼女にとってはもう昔の話だ。だが、桔梗はじっとその姿を見つめると、ひそめた声で、一音節ずつ区切りながら問うた。 「ほんに、そう思われるか?」 「……わからない」  しばらくの沈黙の後、吐き出された答えを、桔梗は満足げに受け取った。 「まあ、白蓮殿があの方の下にいかれるとなったら、わしらが期待するのは、蜀との仲をとりもってもらうことかの。わしももちろん、そのように努めるが、な」  さ、もう一杯、と彼女は酒を注ぎ、二人は奇妙に温かな沈黙の中、杯を重ねるのだった。 「うー、飲まされすぎた」  桔梗の部屋を辞した後で遅い昼食を摂った白蓮は、酔いが抜けきれぬ足どりで廊下を歩いていた。その進む先に、人形のようなものを頭に乗せた少女が待っていた。 「白蓮さーん」 「あれ、風。どうした」  とてとてと走り寄ってくる少女を認めて、白蓮は足を止める。 「遼東征伐の後始末の件で、白蓮さんと、麗羽さんたちにお話がー」 「ああ、そうか。ええと、風の執務室に行けばいいか?」 「いいえー、いまから麗羽さんたちのところに行くので、ついてきてくださるとありがたいですねー」 「了解」  そうして、二人は話しながら廊下を進む。 「なにかまずいことあったか?」 「いいえ、どちらかというと、褒美の分配というか、そういう類ですねー」 「ああ」  そういえば、自分は鎮北将軍を貰ったが、麗羽たちへの話がまるでなかったな、と白蓮は思い出す。あの時は、三人とも北郷からの書簡に夢中だったから仕方のないところか。  麗羽は大将軍だからこれ以上位階を上げようがないが、配下二人になにかの将軍号でも渡すのかもしれない。 「そういえば、白馬義従はどうなるんですー?」 「ん? ああ、成都においてたのは、星が連れてきてくれるとさ」 「ああ、星ちゃんが。そうですかー」  そんなことを話していると、目当ての部屋に前につく。 「お邪魔しますー」 「あら、伯珪さんに仲徳さん」  部屋に入ると、そう言って麗羽はじめ、皆が口々に来訪を歓迎する。部屋には、麗羽、斗詩、猪々子の他に、これも北郷一刀の部下である黄権こと祭がいた。 「ふむ、来客か。これは飲まねばならぬの」 「いつでものくせにー」 「ふふ、普段飲んでおるのは水じゃ。水。酒というには足りなさ過ぎるわ」  猪々子と祭がそうしてじゃれあう間に、斗詩が卓を用意し、皆でそこに座る。 「ええと、まず、これが猪々子ちゃん、こっちが斗詩ちゃんへの華琳様……曹丞相からの任官状ですー」  風はごそごそと袖口から二つの竹簡を取り出して、ゆったりとした口調で話し始める。 「あら、斗詩さんと猪々子さんになにか位でも?」 「はいー。威虜将軍と破虜将軍ですねー」 「おー。久しぶりの将軍だー」 「あれ……これって、俸祿とか貰えるんですかね?」  任官の書簡を読みながら、おずおずと斗詩が訊ねる。 「貰えちゃいますよー。まあ、おにーさんからの給金と、麗羽さんの大将軍の俸祿で充分あると思うんですけど」 「あー、そこらへんは、その、麗羽様が……うん」 「なんですの、猪々子さん!」  きっと睨み付けられ、へへ、と猪々子が舌を出す。 「そのあたりは置いておいてですねー。将軍号と一緒に兵も配属されることになりましたー」  それを聞いて、猪々子が喜色満面で腕を振り上げる。 「お、ほんとかよ!? うっしゃあ!」 「はい。今回捕虜にした三万ほどの兵のうち、八千ずつをお二人、そして、祭さんに預けることに」 「儂もか?」  酒杯を傾けていた祭が、片目をつぶって、風の言葉に反応する。 「はい。色々ありまして。そのあたりは、いずれおにーさんから聞いてくださいねー。それと、白蓮さん」  色々、という言葉に祭は胡乱げに風を眺めていたが、風は気にした様子もなく、白蓮に向き直る。 「ん?」 「おにーさんから預かっている烏桓ですが、八千ほどになったんでしたっけ」 「ああ。慰撫している間に結構参加するやつが増えたからな。増やすのは問題ないと言われていたが?」 「ええ、問題ないですねー。ただ、おにーさんが帰って来たら、その烏桓は四千ずつ華雄さんと恋ちゃんに分け与えることになるかもしれないですー」 「ああ、私は預かっているだけだからな。返すことに異論はない」 「そうですかー。万が一白馬義従が元の数に戻らない場合は、烏桓を白蓮さんにそのまま譲り渡せ、とおにーさんが言ってきていたんですけど、戻ってくるみたいですし、問題なさそうですねー」 「あいつ、そんなこと言ってたのか……」  白蓮は、その言葉に驚愕を覚える。北郷が呉に向かった時点でも、烏桓突騎は五千以上いた。馬に慣れ騎射も可能な騎兵というのは、とてつもなく貴重な上、すさまじい戦力となる。実際、彼女たちは遼東征伐において、烏桓八千と白馬義従千騎あまりだけで、三万数千の歩兵を打ち破ったのだから。まあ、麗羽の指揮する投石部隊もいたが。 「ちょっとお待ちなさい」  麗羽の声に、斗詩と猪々子があちゃー、という顔をしてうつむく。だが、彼女は、二人が予想しているのとはまるきり違う質問を発した。 「ということは、歩騎三万が我が君の下に?」 「いずれは、ですけどねー。歩兵の方は訓練がありますから……んー、半年後くらいかとー」 「華琳さんがそれを許した、と」 「はい。おにーさんの確認が終わってませんから、まだ内示ですけど」  高笑いが部屋に響く。その笑い声の圧力のようなものに、自分以外の全員が平然としているのが、白蓮には恐ろしく思えた。 「さすがですわ、華琳さん。我が君とわたくしたちの価値をよくおわかりですわ!」 「……麗羽様に兵が渡らないのは、やっぱり曹操さんがちゃんと考えてるからだよね」 「……そらそうだろ。姫の昔なじみだぜ」  ひそひそと言い合う声も、おそらくは麗羽には聞こえていない。彼女は華琳と北郷一刀と自分──中でも主に自分──を讃える即興の詩をつくり、詠み始めてしまったからだ。 「その兵じゃが、強いのか?」 「うーん、そうでもなかったかなあ」 「中原の争いから切り離されてましたからね」 「魏の訓練を受ければ、ぴりっとしますよ。ああ、言っておきますが、あくまでこれらは魏の兵ですよー。魏では私兵は許されませんからー」  朗々と詩を詠む麗羽を背景に、会話を続ける面々。もし、自分が北郷につくとしたら、これに慣れないといけないのだな、と白蓮は悟った。 「つまり、旦那様に貸与されるわけじゃな」 「はい、兵の給金もおにーさんの予算から払ってもらいます……けど、その分、華琳様からおにーさんへの資金提供が増えるだけかもしれませんねー」 「体面と実態が違うのはいつものことじゃな。それで、儂らと旦那様になにをさせるのじゃ」 「そのあたりは、まだまだ秘密ですよー」  にゅふふ、と猫の鳴き声と笑いが混じったような声で、風はごまかす。ふんっ、と祭は大きく鼻を鳴らした。 「まあ、よい、旦那様が帰ればわかるのじゃろう。ああ、そうそう、白蓮殿は、旦那様に仕えるかもしれんのじゃったな?」  あ、まだ……と言いかけた白蓮に、満面の笑みで、麗羽が語りかける。 「あら、伯珪さん。あなたもついに我が君の素晴らしさに気づきましたのね!」 「あ、いや、まだ決めたわけじゃあ……」  そう聞いた途端、親の仇でも見つけたかのような憎々しい顔をされて、たじたじとなる白蓮。 「ふん、ぐじぐじと決断力のありませんこと。そんなのだから、わたくしに負けたのですわ。ええ、よろしいでしょう、わたくしが、こ・の・わ・た・く・し・が、直々に我が君のことを教えてさしあげますわ。よろしいかしら、そもそもこの乱世というものは……」  卓についた人間が、見事に揃って音を立てずに退散していくのを見ながら、白蓮はこの後になにが待っているのかなんとなく予感してしまい、体の力が抜けるのを感じるのだった。 「……で、最後に私のところに来た、と」  ああ、と頷く白蓮を見て、華琳は執務机の向こうから同情するように微笑みかけた。 「げっそりしてるわよ」 「日が暮れるまで自慢話とのろけ話を聞かされればな……」 「まあ、茶でも飲みなさいな。この曹操手ずからの茶よ。軽食もあるから、勝手に取って食べてくれていいわ」 「ありがたくいただくよ……ってうまっ!」  机に置かれた、見慣れない食べ物を意識せずに口に運んだ白蓮は声を上げて驚く。 「そりゃあ、流琉お手製の"さんどいっち"ですもの」 「珍妙な名前だな。しかし、こりゃ美味い」  言いながら、白蓮は手にとったそれを食べ尽くしてしまう。 「天の国の料理よ。一刀が流琉に教えて、それに彼女が工夫を加えたの。一刀曰く、すでに新しい流琉独自の料理になっている、というのだけどね」 「へぇ……も、もう一個いいか?」 「いいわよ、いくらでも」  "さんどいっち"の入った籠を白蓮のほうへ押しやる華琳。彼女も一つ手にとり、口にする。 「じゃあ、一刀の話は後にして、まず、あなたがうちに来た場合の待遇を話しておきましょうか」 「あ、うん」 「魏は、全て私のもの。これを理解してもらわないといけないわ。あらゆるものが私の命で動き、私の許可で物事が決まる。だから、魏軍の将に求められるのは、能力と私への忠誠。これだけよ」  さらり、と言い放つ彼女を見て、白蓮はぞくり、と背筋が寒くなるのを感じた。軽く言い放つその言葉が、凡人にとってどれほど重いものか。この覇王は全て理解していながら言葉を発している。 「ただ、普通の将ならそれでいいけど、一部の将は違う。たとえば春蘭と秋蘭。この二人は私の分身として動いてもらう必要がある。それから、霞、これは鎮西府を開いていることでもわかる通り、遠隔地で独自の動きをしてもらう必要がある。私の判断を待たず自分自身の判断をしなければいけないこれらの将は忠誠だけではなく、独立心も必要ね。もちろん、それなりに、だけど」  にやり、と微笑む笑みを、白蓮は恐ろしくも思い、美しくも思う。 「あなたには、鎮北将軍を授けたように、うちに来るとしたら霞と同じ立場になってもらうつもり。つまり、絶対の忠誠よりは、あなた自身の動きを期待している。これで、だいたいの待遇は理解できるでしょ」 「しかし……いいのか。私は元蜀の将だぞ」 「だから?」  きょとんとした顔で訊ねられて、一瞬、白蓮が固まる。 「だ、だから、たとえば、魏に入った後、内情を蜀に流したり……」 「いいわよ。流せば?」  さすがにその言葉には絶句する。 「別に損はしないもの。流れているとわかっているならそれで対処できるし、そもそも蜀は同盟国だしね」  そこまで言って、すっと華琳の眼が細まった。相変わらず口元には笑みがはりついていたが、そこに優しさはもはや微塵もない。 「ただし、民を裏切ることは許さない」  ひゅっ、と思わず白蓮の喉から息が漏れる。体が重く、肌には脂汗がにじみ出る。 「まあ、それは一刀についても同じでしょうけどね。あいつの場合、私のように敵意を向けもせず、ただ悲しい顔をされるわよ。あなたにそれが耐えられる?」 「た、民を裏切ったりなんか……しない」  声は少しだけ震えている。けれど、はっきりと、彼女は言い切った。 「あら、さすがね」  それまでの空気を払拭するように、華琳は純粋な笑みを見せる。そのことにほっとして、白蓮はいつの間にかきつく握り締めていた拳を開いた。 「じゃあ、うちの話はこれくらいにして……一刀ねえ」  華琳は考え込む。曹操のそんな姿を見たことがなかった白蓮は、このことにひどく驚いた。  魏にとって北郷一刀が重要人物であることは間違いない。  おそらくは目の前の華琳自身の夫となるであろうと目され、また政治面でも大使制度の推進や、袁紹、董卓らを引き込むことによる北方、西方の安定化など、果たした役割はそれなりにある。  曹操自身や、夏侯姉妹、三軍師には並ばないまでも、優秀な人間と言えるだろう。しかし、それくらいだ。いかに部下に多彩な人材を抱えていても、形式的にはともかく、実質的には曹操の一部下にすぎないはずなのだ。  それが、なにを悩むというのか。 「白蓮、あなた、一刀と寝た?」  唐突な問いに、白蓮は一瞬意味を理解できなかった。そして、理解した途端、彼女は一気に赤くなる。 「な、な、な、な、なにを言ってるんだ!」 「ああ、そう。まだなの。そう……」 「まだとかじゃなくて!」  必死の抗弁も、ほとんど華琳は聞いていないように見えた。 「いえ、わかったわ。うん、そうね。北郷の下に行っても、待遇は私のところとそう変わらないわ。実質的には陪臣となるだけ。あとは、蜀からの敵視はうちとそう変わらないでしょう。ただ、桃香たちの体面を守るなら、私より一刀のところへ行くほうがましかしら」  朱里たちがどう思うかは別として、と華琳は意味ありげに目配せをした。 「そうそう、朝廷からの敵視はいまはあまり気にしなくていいわ。数年後はまた別かもしれないけどね」  そこで言葉を切り、反応を伺うように腕を組む華琳。 「うー」  一方の白蓮は頭を抱えてしまう。これまで仕入れた情報が頭の中でぐるぐると巡って、彼女の決断をさらに複雑なものへと変えていく。 「決められない?」 「部下のみんなと会うまではどっちにしろ決められないけど……」 「そうね、白馬義従は星が連れてくるんですって? たぶん、そこに一刀も同行するんじゃないかしら。会って決めたらいいんじゃない?」  華琳の言葉に渋々と頷く白蓮。その顔は少し寂しそうでもあった。 「一つ、言っておくわ、白蓮」  魏の覇王は、深く腰掛け直して声をかけた。 「これは、友としての忠告と思ってくれていいわ」 「お、おう」 「一刀を理解なさい。あなたには、私は理解できないかもしれないけど、一刀を理解することは出来るはずよ」  しばらく黙った後で、白蓮は複雑な表情で、小声で答える。 「それって、その……ずいぶんな評価じゃないか? 北郷は華琳の、その……男なんだろう?」  聞いた途端、からからと華琳は笑い始めた。部屋全体を震わせるような、大きな笑い声。そんな笑いを、白蓮ははじめて聞いた。 「あなた、やっぱりわかってない。わかってないわ」  まだ笑いが収まらない中、華琳は歌うように言う。 「あれはね、天の御遣いなのよ」  その言葉が、なぜか白蓮の心の奥深くに突き刺さるのだった。                                      (終) いけいけぼくらの北郷帝  番外編その二『幸福な一日』  ボクの名前は賈駆。字は文和。真名は詠。  幼なじみである月を頭に旗揚げするものの、破れて逃げ延びた劉備陣営からも追い出され、自分たちだけでやっていこうとするも果たせず、北郷一刀という男に保護を求めざるを得ない状況に陥ってしまった。  これは全て筆頭軍師たるボクの責任。愛する月に進むべき道を示すことも出来ず、それでも智謀の士でございと虚勢を張ることしかできないちっぽけな人間。  そして、月に一度、周囲にそんなボクの不運を振りまくというよくわからない体質を兼ね備えてもいる。  不幸な女。    その日が『それ』かどうかは、すぐにわかる。  水を汲みに行こうと部屋を出て廊下を歩いている間に、すれちがった女官がなにもないところですっころんだ上に服がはだけて、しかも偶然落ちてきた木切れにひっかかって下着まで脱げてしまったり、庭木の手入れにかかろうとしていた庭師の梯子が折れて助手がそれに頭を強打されてよろめいた末に、この間恋が『おさかなさん、つれてきた』とか言いながら魚を離していた池にはまり込んで、凶暴な魚に噛みつかれたり、大騒動が巻き起こるからだ。  悟った途端、ボクは月と一緒にあいつの部屋に駆け込む。 「おはよう、月に詠。起こしに来てくれた……わけでもなさそうだな」  この反応は当然。なにしろボクも月も普段着のままだからだ。 「あの、ご主人様、詠ちゃんが、あの日みたいで……」  息を切らした月が説明してくれる。本来はボク自身が言うべきなのだけれど、さすがにこの日ばかりは歯切れが悪くなる。 「ん、わかった」  事も無げに言い放ったのが、いまのボクたちの保護者、北郷一刀。  なんとかぎりぎり美男子の範疇に入るか入らないかという優男。ううん、細いけど、これでも結構強いんだけどね。もちろん、名のある武将にはてんで敵わないけど。  以前聞いたところによると、こいつの世界の風習では、美男子を二枚目、お調子者でその場の空気を明るくしたりする人間を三枚目と言うんだそうだ。一枚目はないのか、と聞いたところ、元々は劇場の看板の枚数のことで、一枚目は当然、劇の題名と主役が描かれるので、一枚看板というのだそうだ。  こいつは、俺は、二枚目にはもちろんなれないけど、なんとか三枚目になるようがんばりたいと思っているんだ、とその話をしてくれた時に言っていた。しかし、それは間違っているとボクは思う。  こいつが収まるべきは、一枚看板だ。 「どうした、詠?」  隣室にいる華雄に扉越しに声をかけて現状を説明し、大使館の最高責任者である真桜に言伝してくれるよう頼んだ後、ボクの顔を覗き込む。 「……自分の不幸を噛み締めてるのよ」 「はは。でも、ここにいれば大丈夫だろう?」  外から軽い足音が聞こえる。きっと、華雄が真桜のもとへ走っていく音だろう。彼女はそんな音を立てることもなく活動できる武人だけど、それでは周りが驚くので、あえてああいう風にしているのだ。以前、月の下にいた頃にはとても考えられなかった心遣いだ。ボクたちが破れ、月が死んだと聞いた後、ひたすらに武を磨き、月の志を継ごうとしてくれていた華雄には頭が下がる。  それが同じくボクたちの下にいた霞に捕まり、結局、こいつに臣従の礼をとったのは、いたしかたないことだと思う。しかも、こいつの下に来た華雄は、よりその武を花開かせて、いまや飛将軍とも謡われた呂奉先──恋を上回るほどの武人となっているのだから。恋、華雄という猛将を抱えながら、使いこなすこともできなかったボクたちとは大違いだ。 「さて、今日の詠の仕事はなんだったっけ?」 「最後の荷造りと、その確認よ」  ボクたちは、もう三日後にはこの大使館を去る。真桜をはじめ、残留する者たちのほうが多いとはいえ、こいつ個人の書類や魏本国に持ち帰る資料や土産などでかなりの荷物となってしまっている。そのほとんどは荷造りが終わっているが、最終確認はまだだ。今日はそれを済ませてしまう予定だった。 「ああ、そうか、それじゃ月一人に代わってもらうわけにはいかないか。華雄は、思春との打ち合わせがあるし……恋は空いてたっけ?」 「はい、恋ちゃんは、見回りくらいで、特に予定はなかったんじゃないかと」 「よし、じゃあ、見回りは兵に任せよう。力のいる部分は恋にやってもらって、二人で詠の代わりをやってもらえるかな、月」 「はい、わかりました」  てきぱきと、ボクの仕事を他に割り振る。こいつはそれなりに頭もまわるし、臨機応変で柔軟だ。しかし、それはこいつの大きな問題でもある、とボクは思う。  この局面でボクが月に仕事をとられていやな気分になったり、ということはありえない。  けれど、たとえば同じように急に体調が悪くなった将軍や軍師がいたとして、それが、重要な城の攻略を命じられていたところを、他の者にまわされてしまったとしたらどうだろう。せっかくそれまで準備して、栄誉を得られるところだったというのに他の者にかっさらわれたら、そいつはどう思うだろう。それを命じた北郷一刀という人間を恨んだりしないだろうか。  もちろん、こいつは見せ掛けの栄誉に騙されて、準備をしっかりとすることや、兵を鍛えあげることを評価しない男ではない。問題はそれほど見る目がない愚かな周りのことだ。  実際にそんな局面に至った時、それが一日だけのことならば、仕事を他に割り振らず回復を待つ、という判断がこいつに出来るだろうか。  ボクにはそれが心配でならない。  周囲の人間が優秀──なにしろほとんどがあの華琳の部下たち──だし、そこまで心配することではないのかもしれないが、自分すら過小評価しがちなこいつは、小物の意識というのをいま一つ理解しきれていないところがある。  っと、考えに沈んでいたら、月もこいつもボクの反応を待ってるわね。 「あんた自身の予定はいいの?」 「来客はないよ。最後の挨拶周りをしようかと思っていたけど、明日でも問題ない」 「……そ」  荷造りの確認は丸一日かかるのを覚悟していたことだ。ということは、今日は本当にこいつと二人きりで一日を過ごすことになる。  そのことに、ボクはほんの少し動揺していた。 「じゃあ、それでいいんじゃない」  それでも、結局そう言って流してしまう。というよりも、それ以外方法がないのだ。 「ごめんね、月。残りは明日ボクがやるから、無理しちゃだめよ」 「大丈夫だよ、詠ちゃん。恋ちゃんもいるし、しっかりやっておくね」  ボクの言葉ににっこり笑ってくれる月。ああ、この笑顔は暗い気分を払拭してくれるわね。 「では、ご主人様、今日はお掃除やお茶を持ってきたりはできないと思いますが、詠ちゃんをよろしくお願いします」 「うん、任された。月も詠の言う通り、無理はしないで。あ、華雄にはこちらには戻らなくていいと伝えて」 「はい。わかりました」  月が丁寧にお辞儀をして出て行く。月がご主人様、という度に、一応は、こいつが主ってことになるのよね、と少し苦々しく思う。もちろん、ボクはこいつにご主人様なんて言ったりしない。本当なら、月にこいつがかしずいているはずなのだから。  それを実現できなかったのはボクだけど……ね。 「さて、今日はどうするかな」 「仕事しなさいよ、仕事」 「そりゃあ、するよ。ただ、詠が一緒にいるんだから、と思ってさ」  あいつは、本当に嬉しそうに笑う。その笑みの意味がわかってはいても、ボクは反発せずにはいられない。 「ま、またいやらしいこと考えてるのね、この莫迦ちんこ!」  曲解した暴言を、わざと吐いてやる。  でも、ボクはなんでそんなことをするんだろう? 「え? いや、以前話した俺の案をもう少し進めようか、と思ったんだけど」 「そ、そうよね。あんただって四六時中そんなこと考えてないものね。ほ、ほら、見せなさいよ。どれくらい進んだわけ?」  奥の部屋にひっこんだあいつが、いくつもの書簡と共に、見慣れた大きな木箱を持ってくるのが見えて、ボクの心臓は跳ね上がる。 「って、なんで、それ持ってくるの!?」 「んー、期待してるようだから、さ」 「ま、真面目にやるべきでしょ」  どさっと置かれた木箱から取り出されるのは、黒革の"ぐろーぶ"。指先から肘の先までを覆う、長い手袋だ。  だが、ただの手袋ではない。  その各所に鉤や環や革の締具がとりつけられている。 「やるよ。真面目に。でも、少しくらい遊び心も大事だろ?」  手を入れるところを開いて、ボクを誘うように見せてくるあいつ。  本気で嫌がれば、こいつは止める。  問題は、ボクがまるで嫌がってないということだ。 「くっ」  悔しそうに顔を歪めながら、それでも、ボクは抗えない。あいつが優しく腕をとり、服の裾をよけながら、その革の手袋をボクの腕全体に通してくるのをおとなしく待つ。指先までしっかりと真桜に寸法を測らせてつくらせたそれは、見事なまでにぴったりだ。 「ええと、じゃあ、こないだの案件だけど……」  両手の"ぐろーぶ"をつけた途端、こいつは何事もなかったかのように仕事の話を始める。  小羊の皮を丹念になめした革は、とても柔らかい。しかも、ほんの少しだけボクの指や腕より小さめにつくられていたその革の"ぐろーぶ"は使っているうちになじみきって、まるで元々ボクの体を覆っていたかのように自由に動かせる。その"ぐろーぶ"をしていても、筆で文字を書けるし、なんでもつまめる。そういう意味で不自由はまるでなかった。却って、肌寒いのを避けられるので気持ちがいいくらいだ。  ただ、いつでも、こいつが望んだ時には、その各所につけられた鉤や締具を使って自由を奪われるというだけ。  ボクはこいつと議論をしているうちに、それをつけられていることすら、段々と忘れていってしまう。  そうすると、やつは次の段階に進む。 「そろそろ、ブーツもつけようか」 「……変態」  "ぶーつ"というのは、足先から太股までを覆うように"ぐろーぶ"と同じようにしつらえられた革の装具だ。もちろん、各所に鉤や鉄の環、締具がつくりつけられている。  文句を言いつつも、ボクはそれを受け取ってしまう。今度は自分でつけるのだ。  理由は簡単。こいつがつけるとなると脚を持ち上げねばならず、下着をもろに見せつけることになる。それで興奮したこいつに貫かれるのも、また……あ、いや、違う。そうじゃなくて。  ともかく、そうなってしまうと、この行為に意味がなくなるので、ボクが自分で履くというわけ。  まあ、たぶん、それだけじゃない。  "ぐろーぶ"はこいつにつけられる形になるから、無理矢理されたのだと抗弁できる。しかし、こうして黒革の装具に脚を通し、足先までぴっちりと革に包まるよう調整しているのは、他ならぬボク自身。  ボク自らが、拘束を望んでいることを、露呈する行為だ。そして、同時にこうしてボク自身に思い知らせる効果もある。  履きはじめは少しきつく感じるそれをゆっくりとひっぱり上げて、足を中に進めていく。ちょうど膝の裏側にあたるところは革が途切れていて、膝を曲げても苦しくないようにできているのだが、履く時にそこにひっかけるととても間抜けなことになるのだ。足先まで通すと、向こうから吸いついてくるよう。最後に拘束のためのものと同じ装飾の締具を閉じ、固定する。  もう一方の脚も通して、とんとんとその場で跳ねる。 「……出来たわよ」  太股の上、下着ぎりぎりまでを覆う、"ぶーつ"を履き、声をかける。あえて向こうを向いていた男が振り返り、笑みを見せる。 「ん、やっぱり似合うな」  その笑みの邪気の無さに本気で呆れる。こいつは、ボクのこんな姿を本当に嬉しそうに見つめてくるのだ。 「ふんっ」  鼻で笑ってやると、苦笑しながら、さっきまでの真面目な話を続ける。ボクはしかたなく、少しだけの違和感を覚えながら元通り座り、これからの国づくりの話を、黒革の装具に身を包まれたまま続けることになる。  天の国では、こういう行為を「調教」というそうだ。つまり、馬や犬と同じく、条件づけしてしつけるってこと。  それを聞いた時、ボクはなぜか嫌悪を感じなかった。それどころか、そんなことされて喜ぶ女だと思ってるわけ? と聞き返した時に、だから、そういうのを喜ぶいやらしい女に仕立て上げるのが調教なんだよ、と言われて、ああ、そうなんだと納得してしまったくらいだ。  それに続く会話を、ボクはしっかりと覚えている。 『あんた、ボクがそんな女になると思ってるの? ボクをそんな女にしたいの?』 『両方だ』  あの時のこいつの目を、ボクは一生忘れないだろう。あの、吸い込まれるくらい深い底知れぬ欲望。こいつの抱える巨大すぎる闇と光を。 『閨の中では、ね』  付け加えられた言葉を、ボクはどうしてだか残念に思ったりしたのだった。  たぶん、こいつは、そんなボクを見抜いていたからこそ、いまもこうしている。  昼食を終えると、二人ですこし微睡む。  平和な時間だ。  さすがにこれにはボクもなんの文句もない。  さわやかな香りが漂ってきて、夢の世界からひきあげられる。どんな内容だったか何ひとつ思い出せないのに、ただ、幸せな気分だけが続き、体がふわふわする。少し長く寝すぎたみたい。 「詠、茶を淹れたけど、飲むかい?」 「ん……」  お茶の香りに導かれるように、地に足がつかないような意識のまま、寝室を出て部屋に戻る。しっかりとボクの分も用意されたお茶の席につき、あいつの世界の焼き菓子を月が再現したものをぽりぽりかじる。  うん、さすがは月の焼いたお菓子。ほのかに甘くてとても美味しい。 「ん? 火を入れたの?」  お茶で一服して、ようやく意識が普通に戻って、部屋が妙に暖かいのに気づく。 「ああ、さすがに寒いからな」  涼州の寒さに比べれば、呉の冬なんてのは、春と同じだ。しかし、こいつはかなりこまめに温度調節をしようとする。暑いときには、涼をとるための機械を真桜につくらせていたほどだ。その扇風機とやらは、結局完成が冬に入ってしまい、使われてはいないけど……。  とはいえ、いま温度調節されているのは、おそらく、別の理由。  あいつが立ち上がり、ボクの後ろに回る。そのまま後ろから伸びてくる手。優しく、椅子ごと抱きしめられる。 「ちょ、ちょっと! なにすんのよ!」 「寝顔がかわいくてさ。でも、起こしたくなかったから、起きてるときに抱きつかせてもらう」 「うーー」  唸り声をあげるものの、それ以上は抵抗しない。  無駄だからだけでは、きっとない。 「仕事、終わったの?」 「うん、詠に手伝ってもらったから、書き仕事は明日の分まで終わったよ。これで、明日には荷物まとめられるかな。後は、それこそ、今後のこととか考えないといけないことはあるけど」 「そう。それはあんたにずっとつきまとうわね。もちろん、ボクもだけど」 「そうだな。民からの税で生きている以上、大陸の未来を考え続けるのは俺たちの務めだな」  こんなことを、真面目に、しかも女を抱きしめながら言える為政者はなかなかいない。こいつは、恐ろしいことに、言葉も抱きしめているのもどちらも本気で、同じくらいの熱意を持っているのだ。  その手が動き、まず眼鏡が外され、落ちないようにと丁寧に棚の上に置かれる。その後で、再び抱きしめられ、服の留め具を外し始める指。 「うー、やっぱり、そうするの?」 「いや?」 「……嫌じゃなくて恥ずかしいって毎回言ってるでしょ!」  言っているうちに、あっと言う間に脱がされ、上下の下着と、"ぶーつ"、"ぐろーぶ"だけにされてしまう。この芸当だけは、本当にどうやっているのか理解できない。 「それなら、成功だな。だって、俺は、詠を恥ずかしがらせたいんだから」 「くっ、この変態。意地悪ちんこ!」  そう毒づきながら、体を隠すことはしない。下着はまだ着けているし、どうせ隠せば、こいつに動きを封じられるだけだ。  ……本当はじっと見つめられる視線が熱くて動けないのだけど。  そういえば、今日は新しい紫の下着だ。月の髪の色に近いので気に入って買ったのだ。  こいつの下に来てから、ボクも月も下着にかけるお金が段違いに跳ね上がった。  まず、いつも可愛らしいめいど服とやらを着せられるので、それとの釣り合いを考えなければいけない。次に、いつ誘われるかわからないので、女の障りの日以外は、いつでもとっておきを着けることになる。気を抜いた下着を着けていて後悔するよりは、可愛らしい下着を着けていて、空振りになる方がまだましだ。  もちろん、ボクも月も、こいつに見せるためとかじゃなくて、可愛い下着は好きだし、女なら自分を飾るのにある程度は関心を持つものだが、それにしてもここまで気を遣うようになるとは思いもしなかった。一度こだわり始めると、止まらないのだ。 「その下着、詠の肌を引き立てて可愛いね」 「そ、そう」 「うん、でも詠自身のほうがもっと可愛いけどね」  耳元で囁かれるように言われると、体中がかっと熱くなる。 「なっ、莫迦言ってんじゃないわよ、このちんこ大王!」  こうして、ボクを追い詰める──あいつなりに言えばかわいがる──ために部屋の空気を暖めておく周到さを、ちゃんと他にも使ってほしいものだ。いや、普段も結構周到なのが腹が立つところよね。 「ひどいな、信じてくれないの?」  がたん、と椅子ごと向き直らされる。真っ直ぐに見つめてくる瞳に耐えきれず、顔を背けてしまう。 「詠はこんな可愛いのに」 「だから、ボクは、その……」  文句も段々言えなくなってくる。こいつが本当にボクのことを可愛いと思ってくれていることが伝わってくる以上、それを否定するのにも気力が要る。裸に近い格好に拘束具をつけられている状況で、気力を振り絞れというのは難しい話だ。 「そう、この下着がなくても、本当に綺麗で、可愛い」  ゆっくりと指が下着にかかる。まずは胸をさらけ出される。その場所を見つめられるだけで、乳首に血が集まっていくような感覚がある。 「詠……」  優しく、本当に優しく、あいつの呼びかける声がする。ボクを守る唯一の布切れは、すでに彼の指がかかっている。力を込めれば、すぐに脱がせるはずのそれを、あいつは、まだ待っている。  なにを?  ボクが、屈伏するのを。  ボクが、素直になるのを。  ボクが、自分のいやらしさを認める瞬間を。 「こっちを見て、詠」 「うっ……くっ」  苦鳴のような声を上げて、最後の抵抗をする。 「詠」  だが、それもすぐに崩されてしまう。あいつの呼びかける声。あいつがボクを呼ぶ声、あいつが、ボクを、このボクを求める声に、崩されてしまう。 「は……い」  顔をあいつに向ける。ボクたちは見つめ合い、そうして、あいつは、ついにその小さな布をはぐ。  その時、ボクは知る。  その時、あいつは知る。  その下着が、ボクのはしたない汁で汚れていることを。  その布切れが、ボクの肌から離れる時には、すでに濡れそぼり、音を立てることを。 「ああ……」  吐息が漏れる。  ずっと、そう、ずっと、朝から快感を押し上げられていたボクの体が、ついに反応をしてしまう。  触れられてもいないのに、と疑問に思うかもしれない。  だが、それは違う。  ボクはずっと触れられていた。  あいつの優しい愛撫を受け続けていた。  "ぐろーぶ"と"ぶーつ"は、違和感がないほど肌になじみながら、それでもなおボクの体をずっと刺激し続けていたのだ。  あいつにつけられた拘束具。  それだけで、ボクを、ボクの頭をぐちゃぐちゃにするには充分。たとえ、意識に上っていなくても。  いえ、忘れてしまうほど自然になっていたからこそ。  そうして、ボクは、あいつに言われるまでもなく、椅子から崩れ落ち、膝をつかずにはいられない。  恥ずかしさのために。  この身を走る快楽のために。  そして、あいつに抱き留められるために。  ボクは床に座らされ、後ろ手に拘束される。  拘束するのは簡単だ。"ぐろーぶ"についた鉤を環に通し、締具で締め直せばいい。それだけで、ボクの腕の自由はなくなる。  手首、肘、その上。三カ所で留められたボクの腕は伸び、それ以外の姿勢を取ることができない。 「はぁっ、はぁっ……」  ボクの息は荒い。  拘束されているから? 是。  姿勢がきついから? 否。  ボクは、この男に拘束されることに、それ自体に酔っている。  そうして、拘束され、簡単に身動きのとれない姿を見下ろされている、いまの状況に酔っている。  変態、とボクはあいつを罵った。  だけど、変態なのはどちらだろう。  いま、こうして物欲しげにあいつを見上げている女のほうではないのか。 「綺麗だよ、詠」  そう言われるだけで、体が震える。普段なら、なにお世辞言ってるのよ、莫迦じゃないの、とはねのける言葉を、表向き拒絶することすらできない。 「あ……う……」  ゆっくりと頭をなでられる。 「愛しているよ、詠」 「な、な、なによ、こんなときだけ……」  刺激が強すぎたのか、反射のように言葉が出てくれる。それでも、声が濡れて、甘えるように揺れるのは変えようがなかった。 「そうかい? 毎日とは言わないけど、それなりに意志表示してると思うけどなあ」  それは……知ってる。  ただ、ボクが無視してるだけ。ううん、そういうふりをしてるだけ。 「届いていないなら、忘れないように、ちゃんと言っておかないとな」  あいつも低く屈み込んで、耳元で囁かれる。 「詠がいてくれるおかげでいつも助かってる。仕事のことだけじゃなくて、な。ありがとう、詠」  不意打ちだ。  いくらなんでも、こんなことを真面目に言われるとは思ってもみなかった。おかげで、構えていたのにまるで反応が出来ない。喉から、甘えた子猫が鳴くような声が漏れ出てしまう。  露出した肌に手を触れられて、胸元から脇腹、そして、あの茂みの手前までなで下ろされても、口から漏れるのは意味のない嬌声だけ。体をくねらせてその手の感覚をさらに求めているボクは、きっととてもだらしない顔をしている。  唇を重ねられる。  びりびりと、波が走る。  快感の感じ方は、人それぞれだろう。けれど、ボクの場合、それは波の形をしている。体中を走る波が頭の中で渦巻いて、ゆっくりと引いていく。  問題は、それが繰り返しではなく、何重にも何重にも重なってくることだ。はじめの波が引ききる前に次の波が荒れ狂い、そうして、はじめの波まで再び襲ってくる。 「あふ……ふわ……」  あいつが導いてくれるままに、舌をあわせる。あいつの動きに合わせ、予想外の動きにはなんとかこちらも動きを変えて対応する。口の中を蹂躙していくあいつの舌が、何度も何度も波を生じさせる。  重なりあった波は、ボクをゆっくりと一段高い場所に持ち上げていく。  触れられる指がくれる刺激が、舌が蠢く熱さが、あいつの体から発する熱そのものが、快楽へと変じていく水面へ。 「ひうっ」  ボクの女の場所に、あいつの指が触れる。これまでとはまるで違う、乱暴とも言えるほどの力強さで、ぐちゃり、といじられる。 「あ、あ、ああああっ」 「もう、ぐっしょりだ」  口をいつ離されたのかもよくわからない。あいつの指が、ボクの中をいじくりまわす。  あいつの、指、が。  あいつの優しい声。ボクの肉芽と柔らかな襞を探る指。拘束され、いくら力を入れても動かない腕。  ぐるぐるぐるぐると、ボクの中で快楽が渦を巻く。 「ふわ、あふ、ふくっ、ああ、くっ」  水面から大きな波がやってくる。冬の日に、日溜まりにいるような、快楽。夏の日に氷を口に含んだ瞬間の驚き。そんなものをすべて合わせて、けれど、それ以上のもの。  それがボクを、さらに高いところへ放り出す。 「うわあああああっ」  大きな声をあげ、体を反らす。腰のあたりから発したうねりが脳天へ抜け、ボクをはね上げようとする。だが、波はそれ以上反復することなく、確実に引いていく。 「軽くいっちゃったね」  そう、軽く。この信じられないほどの愉悦ですら、軽いものなのだ。  これからもたらされるものに比べれば。 「あんたが……あふ……かって、に、いかせ、んっ、た、のまちが……」 「うん、そうだね」  ボクの喘ぎまじりの強がりも、ゆったりと抱きしめられるので返されては意味がない。ボクはあいつに抱えられ、荷物のように持ち上げられる。 「立てないよな」  それは、その通りだが、なんとなく悔しい。それに、こうして腕を拘束されていると、しがみつくこともできない。 「寝室へ行こう」  そうして、ボクは、身動きがとれないまま、あいつに運ばれていく。  寝室につくと、腕の拘束を解かれ、代わりに、鼻のあたりから頭頂部までを覆う仮面のような装具をつけられる。これで完全に視界は奪われる。  見えなくなると、音と肌の感覚がことさら鋭敏になる。そして、あいつはボクを不安がらせないように、目隠しをつけた後は必ずボクのどこかに、体のどこかで触れている。  たとえば、いましているように指をからめて手をつないでみたり、あるいは、口づけを肌に降らせてきたり。  腕をとられ、右腕と右脚、左腕と左脚を連結される。  こうすると、ぴたりと両手足を閉じて体をまるめるか、脚を大きく広げてかかげるか、どちらかしかできない。  もちろん、前者の姿勢をとろうとするボクを、あいつは許しはしない。腕で無理強いすることはないけれど……。 「だめだよ、詠。せっかくの綺麗な体を隠しちゃ」 「だって、はずか、恥ずかしいっ」 「うん、でも。見せて」  ボクは、その強い興奮の込められた言葉に、逆らうことが出来ない。  あいつがボクを見て、興奮している。  いやらしく脚を広げ、恥ずかしいところを全部さらけ出したボクを見つめて、欲望を昂らせている。  そう考えるだけで、ボクの頭の中はおかしくなりそうになる。いや、きっと、とっくにおかしいのだ。ボクの頭も、体も。 「あれ?」  あいつのとぼけた声に、心臓が跳ね上がる。  渦巻く波が、怒濤となって、その場所から背筋を上ってくる。 「触ってもいないのに、垂れてきたよ、詠」  閉じようとする脚を、ぐっと割り開かれ、あいつの体がボクの上に乗ってくる。  どうして? と耳元で囁かれる。胸にのしかかるようにしているあいつは、もう裸になってしまったらしい、肌と肌が触れ合う感覚が安心感を誘発する。 「あ、あんたに見られてるからよ!」  もうどうしようもない。違う答えを用意する余裕もなく、ボクはそう言わざるを得なかった。 「よく言えました」  突然侵入してくる、太く、硬く、熱いもの。 「うわ、くる、くる、くるうううううううううっ」  あいつが入ってきた途端、ボクは、第二の水面に放り投げられる。第二の水面、つまり、さっき達した絶頂が、何度も何度も襲ってくる場所。 「ふわ、あ、く、も、たすけ……たすけ、てっ」  波が、くる。  最初の頃の波とはまるで違う、巨大な波濤。引いていっているはずなのに、次々と新しい波がくるせいで、連続で快楽の絶頂に打ち上げられ続ける他ない。 「なんだか今日は、反応がいいね」  一瞬、本気で、こいつが憎らしくなる。  なにを当たり前のことを。  一日中拘束具をつけられ、散々焦らされた体が、反応しないわけがない。  だが、そんな感情は、全てを飲み込む熱い渦に捉えられ、引きちぎられる。  ボクの中で、あいつの動きが変わる。ボクの反応を見て、本格的に動かすことにしたのだろうか。回転し、ボクの中のいくつかの場所に押しつけるように力を加え、浅く入り口をいじった後、深いところにぐっと押し込まれる。  その全てがあまりに切なく、あまりに心地よい。  泣きたいほどの喜悦というものを、この世の女性のどれだけが感じられるのだろう。  腕も、脚も、指も動かせず、視界さえ奪われ、ただ、快楽だけを注ぎ込まれる。愛する人に全てを委ねる感覚。生き死にさえも、いまは一人の男に握られている。  この、なんと、苦しく、なんと、幸せなことか。 「あ、あ、あ、あ」  もはや、喘ぎもわけがわからない音の連続でしかない。 「詠、詠……」  あいつが、呼んでいる。  ボクの名を。  ボクの真名を。  荒い息の中、ボクの名前だけを呟いている。  それを意識した途端、視界が白に消えた。  元から閉じられていたはずの視界が、まぶしすぎる光を見たときのように白一色に塗りつぶされる。  そして、襲ってくる、多幸感。世界の全てがボクたちを祝福する。ありとあらゆるものに、ボクは感謝する。  その瞬間、ボクの世界が『開いた』。  全てが、全てが、全てがボクの中に入ってくる。  あいつの息づかい。  あいつの快楽。  あいつの太く長いものが、ボクをえぐる時の水音。  あいつの鼓動、ボクの吐息、あいつ、ボク、あいつ、あいつ、あいつ、あいつ……ボクの世界。  音が見える。  快感が爆発する。 「ぼ、く……」  とてつもない幸福感と愉悦の中で、心の底から湧き上がってくる言葉を、ほんの少しだけ残った理性が押しとどめる。  まだだめ。  まだこれを言ってはいけない。  だから、ボクはねだるしかない。 「おねが……い。くち、口枷、も……」  回らない口を無理矢理動かし、喘ぎの中で、なんとか意味のある言葉を発する。でも、たぶん、ほとんと言葉にはなっていないだろうと思う。それでも、こいつは聞き分けてくれるのだ。  そう、聞き分けてしまう。 「ん、でも、口までしちゃうと、意思表示が……」 「おねがい……しま……す。おねが……」  はやく。はやくはやくはやくはやく。  抑えきれなくなる前に、はやくボクの口を閉じて!  嗚咽のような嬌声を漏らし続ける口に、あいつの指が入ってくる。舌を挟まれ、そこに革巻きの棒をあてられる。歯で軽くそれを噛んで固定すると、指が抜けてく。革巻き棒の両端がひっぱられ、ぐいと頬が圧迫される。きっと、ボクの顔はだらしなく歪み、だらだらと涎を垂れ流しているだろう。それでも……それでも、この言葉をいまこいつに捧げるわけにはいかない。  こいつが本当の意味でそれを受け取れるようになるまで、ボクは我慢しなくてはいけない。  頬を回った帯が、目隠しと連結されるのがわかる。これで、もうボクの口から出る音は、意味をなし得ない。  そうして、ようやく、ボクは叫びを解放する。 「むーーーーっ、んんっっーーーーーーーーーっ」  けして聞こえないことをわかっていながら、ボクは叫ぶ。口枷を噛み締め、唸り声にしか聞こえないその叫び。  届かない、届かせたい、矛盾したその言葉を。  ご主人様!  ボクのご主人様!!  ボクの名前は賈駆。字は文和。真名は詠。  幼なじみである月を頭に旗揚げするものの、破れて逃げ延びた劉備陣営からも追い出され、自分たちだけでやっていこうとするも果たせず、北郷一刀という男に拾われることを選んだ。  これは月の決断でもあり、ボクの推薦でもあった。惚れてしまった男のもとにいくことに色々理由をつけて、それでも智謀の士でございと虚勢を張ることしかできないちっぽけな人間。  そして、月に一度、周囲にそんなボクの不運を振りまくというよくわからない体質を兼ね備えているおかげで、北郷一刀の女の中で唯一、一ヶ月に一日だけ彼を朝から晩まで独占できる。  とても幸福な女。                                      (終) おまけ 『登場人物紹介』  主に、この物語において変化した部分、重要と思われる部分について記しています。 ○魏 華琳:覇王。漢の丞相位にある。 春蘭:魏軍の最高位にある人物。 秋蘭:魏軍の柱石。現在、蜀への大使として成都に滞在中。 桂花:魏の筆頭軍師。妊娠中。 稟 :鼻血軍師。主に対異民族政策にあたる。妊娠中。 風 :三軍師中、唯一妊娠していないので、負担がかかりまくっているであろう軍師。 季衣:親衛隊長その一。美羽やねねと遊んでいることが多い。 流琉:親衛隊長その二。天界料理をさらに工夫中。 霞 :漢の鎮西将軍。主に羌の対策にあたる。現在、長安と洛陽を行ったり来たり。 凪 :郷士軍の長。新しい軍編制にやっき。 沙和:教練長官。現在、南蛮への大使として、成都を拠点に活動中。 真桜:工兵隊隊長件兵器開発の長。現在、呉への大使として建業に滞在中。 名前だけ登場した人物 文官:荀攸、田豊、沮授、審配 武将:張合(※本来は合におおざと)、淳于瓊 ○呉 雪蓮:呉の女王。蓮華に国譲りをするため、活動中。 蓮華:呉の次期国王。現在、一刀一行と一緒に、成都へ移動中。 小蓮:呉の姫君。一刀と恋仲の中では唯一、決定的な関係を焦らされている。 冥琳:呉の筆頭軍師。現在、大使として赴任していた魏から呉へ帰還の途上。妊娠中。 穏 :軍師。主に国内のことに注力している。 亞莎:軍師。まだまだ成長中。 思春:蓮華の従者。現在、蓮華に同行して、一刀たちと共に蜀へ向かっている。 明命:現在、魏への大使として洛陽に滞在中。 名前だけ登場した人物 文官:張昭 ○蜀 桃香:蜀の王。本作には未だ登場していない。 愛紗:桃園三姉妹の一人。未登場。 鈴々:桃園三姉妹の一人。未登場。 朱里:蜀の筆頭軍師。一刀を警戒している? 雛里:軍師。同じく、一刀を警戒している? 翠 :西涼勢の棟梁。西涼に関わる仕事がしたいと鎮西府入りを希望している。 蒲公英:現在、鎮西府の将の一人として長安滞在中。未登場。 星 :白馬義従を連れて、洛陽へ向かう予定あり。未登場。 紫苑:弓将。次の大使候補として名が挙げられている。娘の璃々も含め未登場。 桔梗:弓将。現在、魏への大使として洛陽に滞在中。妊娠中。 焔耶:未登場。 ○南蛮 美以:現在、呉への大使として、建業に滞在中。 ミケ・トラ・シャム:現在、建業に滞在中。 ○北郷 北郷一刀:天の御遣い。三国の戦乱終結後に姿を消し、元の世界に戻るが、体感で五年後、この世界では一年後に帰還する。本作は主に彼の視点で物語が語られている。 麗羽:漢の大将軍。愛すべきおバカさんだが、本作では一刀に狂信的なまでに従っている。 斗詩:麗羽麾下の苦労人。漢の威虜将軍。 猪々子:麗羽麾下。自分の隊が欲しいと願っていたが、今回配属された。漢の破虜将軍。 美羽:絶賛成長中のお嬢様。袁家の血の呪縛をはねのけることはできるか。 七乃:美羽の従者。美羽と二人セットで軍師扱いされることもある。 月 :メイドさん。一刀の帰還三年後もメイドをしている。現在、漢中へ移動中。 詠 :メイド軍師。呉では一刀の腹心として活躍。同じく漢中へ移動中。 音々音:恋の軍師。現在、洛陽にて、犬や猫や鳥や馬の世話をしている。 祭 :記憶喪失後一刀に従った。叱ってくれる冥琳がいないせいか、さぼり癖が少なめ。 華雄:古今無双にまで武を極めた人物。忠義一徹。漢の右将軍。成都へ移動中。 恋 :癒やし系武人。漢の左将軍。本作ではあまり食事シーンがない。漢中へ移動中。 天和:数え役萬☆姉妹の長女。現在、漢中に滞在。 地和:次女。名目上、彼女たちの所属は魏ではなく、北郷。現在、漢中に滞在。 人和:三女。少し不遇。現在、漢中に滞在。 ○その他 白蓮:蜀を追放され、絶賛浪人中。漢の鎮北将軍。 聖通、文叔、麗華、孝明、孝和、敬質、敬冲:秋蘭の猫 名前だけ登場した人物 華侘:名医。一刀にマッサージを教え、アナルローションを開発する。