いけいけぼくらの北郷帝  第二部『望郷』編 第九回  孫権さんとの会談は、建業内のそれなりの格式ある料亭で行われることになった。直に申し込んで、どうしてもだめなら雪蓮に頼むつもりだったのだが、案外すんなりと招待に乗ってくれた。ただ、彼女自身が各地をめぐっていたので、しばらく後回しにされてしまったが……。  用意された個室で待っていると、店の人間に案内され、孫権さんがやってくる。供も連れず一人でやってきたようだ。 「このようなところへ呼んで、何用だ?」  俺の真正面の椅子に座り、給仕の人間が部屋を出たところで、孫権さんはきつい調子で質問してくる。  本当に髪を切っちゃったんだなあ。短い髪も似合うが、突然だったので、やはり印象が変わってしまう。 「会談」 「だから、その内容を訊いている!」  鋭い声をあげる彼女に、肩をすくめる。 「結局、俺たち、ほとんど喋れてないだろ。だから、一度ゆっくり冷静に話をしようと思ってさ。きっと俺に言いたいこともあるだろ?」 「む……」  俺の言い分に噛みつくところがないと見たのか、不機嫌そうに黙り、茶を呷る孫権さん。 「そうそう。立ち会いに、『うちのメイド』を連れてきたよ」  壁際の衝立の裏に目線をやると、そこに控えていた思春が、静かに姿を現す。 「思春!!」  髪を下ろし、黒基調のメイド服を着込んだ思春の姿を見て、孫権さんは、まずぽかんと口を開け、次に喜色満面に彼女の名を呼んだと思うと、音を立てて立ち上がり、さらにはまなじりを決して、俺を睨み付けた。意外と表情がころころ変わるんだな、孫権さん。 「き、き、貴様、こともあろうに思春を、このように! なんたる愚弄っ」 「違います。落ち着いてください、蓮華様」 「思春!?」  剣の柄に手をかけ、俺に斬りかからんばかりの孫権さんに対し、思春は落ち着いている。主の行動をたしなめるように、ことさら冷静な声で孫権さんに話しかける。 「こやつはたしかに我らの害となる可能性はありますが、卑怯な男ではありません」 「し、しかし、そのような姿……」 「この姿は変装にすぎません。まあ、こやつの趣味も入っているようではありますが……」  そこだけは呆れたように俺を見下ろす思春。 「敵を侮るな、と以前よりお教えしてきたつもりです。こやつを敵とするなら、私をこの場に連れてくる度量──ただの阿呆かもしれませんが──それすらきちんと受け入れて対策を考えるべきです。些事にとらわれて、感情のままに動いても事はなりません」  こんこんと諭す思春の言葉に感じるところがあったのか、孫権さんは剣から手を離し、席に戻った。  それを見て、しばらくは二人だけで話をさせたほうがいいだろうと判断する。 「あー、しばらく、部屋の外に出ていようか、思春」 「そうだな、頼む」  席を立ち、部屋を出ようとしたところで、孫権さんが思春に怯えたような小声で話しかけるのが背に聞こえた。 「思春、あ、あやつに真名を許したの!?」 「命を救われましたれば。お許しを」 「それはそうだけど……」  あれ、なんか、この風景、既視感があるぞ。ああ、そうだ、美羽を迎えた時、雪蓮と冥琳の間で話していたことの再現だ。  そんなことを思いながら、廊下に出て、向かい側の壁にもたれかかる。俺たちの部屋は料亭の最上階に一つだけある特別豪華な個室なので、廊下にも他の客や、別の個室に給仕をする店の人間の姿はない。  しばらくすると、階段を上ってくる給仕の姿が見えたので、彼らと一緒に部屋に戻った。  思春は孫権さんの横に座っていたので、そのまま元の席に戻り、色とりどりの皿が並べられるのを待つ。 「さ、まずは食べながら」 「いただこう」  少しは落ち着いたのだろう、硬い表情ながらも逆らうことなく箸を手に取る孫権さん。思春が俺たち二人のために小皿に取りわけをしてくれる。  俺は運ばれてきた酒を軽く飲みつつ、料理を口に運ぶ。うん、なかなか美味い。 「悪くない」  言葉はそれほどでもないが、気に入ってくれたのだろう。孫権さんはぱくぱくと料理を食べてくれている。 「話、だけど」 「ああ」  お互いに箸を運びながら、会話を進める。 「まず、大使の件と、俺への敵意を切り離して欲しいな。俺は副使にすぎないし、赴任期間もそろそろ終わる。大使制度と俺は不可分じゃない」  他の人間はともかく、孫権さんに限って言えば、俺への敵意と大使制度への嫌悪が混じってしまっている感がある。まずはそれを分けなければなるまい。 「しかし、お前の提案であったと聞く」 「たしかに、大元はそう。だから、大使の益も害も説明できるし、ある程度の責任はあるが、全てじゃない。二つの問題は切り離して考えて欲しい」  彼女は少し考え、思春と目線を交わした後、こっくりと頷いた。 「……よかろう。まず、お前そのものの問題だ」 「うん」 「では、じっくり聞かせてもらおう。なぜ、呉の女たちを狙う」  その言葉に、俺はぽかんと口を開けてしまった。 「え?」 「とぼけるな。お前が雪蓮姉様をはじめ、冥琳や明命にまで手を出していることは承知なのだぞ」 「あー、うん、それは事実だけど」  手を出しているという表現はともかく、彼女たちと恋人として情を通じているのは事実だ。だから、それは否定できない。 「だから、なぜ、呉の女を狙って……」 「恐れながら蓮華様、その認識は多少ずれておられるかと」 「なに?」 「こやつは、おそらく、そのようなこと考えておりません。佳い女がいれば、そこにかぶりつくのが習性のようなもので……」  無茶苦茶言われているような気もするが、間違ってもいないような……。俺は考え考え答えてみる。 「彼女たちが尊敬できる女性であり、可愛い女の子だから、かなあ」  今度はぽかんと口を開けたのは孫権さんのほうだった。俺と思春の顔を見比べて、何事か頷く思春に、呆れたように再び口を開けたまま俺をじっと見つめる。 「俺が好きなのは、呉の王様や将軍や軍師じゃない。ただ俺が知っている、とても素晴らしい女の子たちだよ。別に呉の人間だから狙っているわけでも、将軍だからお近づきになりたいわけでも、王だから追っかけているわけでもない」  それを言うなら、魏の面々だって、王だから、将だから、軍師だからと好きになったわけじゃない。王である雪蓮の生きざまには感心するし、覇王たる華琳のためになにか出来ればと思うが、それと、一人の女性として彼女たちを愛することとは、まったく別のことだ。 「つまり……貴様は、ただ、佳い女だからと呉の重臣たちを愛人としたというのか」 「端的に言えばね。もちろん、北郷一刀なんて男は真っ平御免だって言われてしまう可能性もあったけど、幸い、俺を受け入れてくれたから……」  そう考えると、本当に運がいいよな。もぐもぐと辛めに味付けられた鶏肉を噛み締めながら、なんとなく、凪ならまだまだ辛さが足りないと言うかな、と彼女の唐辛子びたびたの食事を思い出してみたりもする。 「無理矢理と言うのは……いや、すまん。これでは姉様や冥琳のほうを莫迦にする言いぐさだな」  しばらく黙っていた孫権さんが、反論しようとして、途中で手を振って否定する。この様子だと、王宮で話した時よりは、多少冷静になってくれているようだ。 「あまり信じたくないことだが、つまり、貴様は政治的魂胆や、なにか浅ましい欲望を元に呉の臣を狙ったのではない、というのか」 「うん、まあ、もし万が一人を好きになるのがいけないことだと孫権さんが言うのならともかく、俺は特になにかを狙ったわけじゃないからなあ……」  その言葉を受けて、孫権さんは絞り出すように問いを重ねる。 「た、たとえば、金銭とか」 「金は、俺の預かりになってる皆に配っても結構余ってるよ。過分にもらってるくらいだな」  だいたい、俺の預かりと言っても金に執着があるのがいないんだよな。美羽や麗羽なんてお嬢様だけど、それだけに金銭そのものへの執着なんてまるでないし、祭や華雄に至っては酒や食事以外で金を使うのを見たことがない。恋と恋の家族の食費はかかるけど、その程度、恋の働きを考えれば少ないくらいだ。  恋や、恋の犬や猫がご飯を食べるところを見ているのはとても心癒やされるので、面倒を見るのも苦ではない。 「で、では、宝物などは」 「亞莎にも言われたけど、宝物なら洛陽の漢朝の宝物庫を見せてもらう方がはやいんだよね。別にでっかい黄金の龍とか自分で独占したいとも思わないし」  粋な趣味の一つとして、奇石蒐集とかしたほうがいいのだろうか。趣味としてはありだと思うが、正直コレクションをしている暇もないのだよな。 「それでは……その、わが国の領地を……」  自分でも無理があると思っているのだろう、孫権さんの声はだんだんと小さくなっていく。そこに思春が助け船を出すように、口をはさんだ。 「蓮華様、こやつを観察した限り、こやつの中で大きな欲望は、情欲くらいしか見当たりません。つまり、女を狙っているというならば、それを達することこそが一番の目的だったと言えるかと」  色々ひっかかるところはあるが、俺の言うことよりは思春の言うことの方を素直に聞くだろうと判断して、ぱくぱくと料理を食べる。本当に美味しいな。言えばいくつか包んでもらえるだろうか。恋たちにも食べさせてやりたいものだが。 「しかし……そうすると、ただ単に、こやつの女を増やしただけだというのか」 「おそらくは……」  思春は少し躊躇った後で、俺をちらりと見て主に向き直る。 「こやつの生活ぶりを見ておりますと、たとえば、情を通じた者たちを動かして陰謀などを企むようなことは考えられません。そのような暇がありそうにないのです。もし、そのような企みがあったとして、こやつは曹操の愛人でもあります。覇王の側にあるというのに、呉の将になにを望むでしょう」  はあ、と大きく息を吐く孫権さん。せっかくだから、思春も孫権さんももっと食べればいいのにな、と思うのだが、孫権さんは疲れたように箸をさまよわせるばかり。思春は……っと気づかないうちに結構食べているな。 「それは……あなたの言う通りかもしれないわね」  しかたない、という風に言葉をつむぐ。 「しかし、わからん。なにが雪蓮姉様や冥琳を惹きつける? 思春、しばらく共にいたのだろう。わかる?」  再び俺のことを見つめてくる思春。その目線が困ったように揺れているのはなぜだろう。 「申し訳ありませんが、蓮華様。それにつきましては、わからぬとしか言い様がありません。こやつのことを見ていれば見ているほど、その部分についてはわからぬとしか言えなくなるのです。おそらく、雪蓮様や公瑾殿はなにか掴まれたものと思いますが、私には……。申し訳ありません。この感覚は言葉には出来ません」  苦しげに顔を歪ませる思春にそれ以上を要求するのは酷と見たか、孫権さんが慌てたように声をかける。 「そうか、わかった。それについては、もはや追求しても仕方あるまい。よかろう、北郷一刀よ。お前が呉の女たちを求めるのは、そのこと自体が目的で、裏に賤しい意図などないということは、納得してやってもいい」  まだ納得しきっているとは思えないが、言葉にした以上、彼女は約を違えないだろう。 「うん、ありがとう」  思わず笑みを浮かべると、なんだか怒ったように顔を赤くする孫権さん。思春がそれを見て、妙に渋い顔をしている。  孫権さんは目をつぶり、眉間を指で揉むようにして態勢を立て直す。俺はそろそろ腹もくちくなりかけて、本格的に酒に手を出し始めていた。 「だが! やはり、そのように漁色に耽るのを見逃していいということにはならん。そもそも、お前は、そのように女を増やして、それだけ相手が出来るのか」 「うん」  即答すると、孫権さんはびっくりしたような顔で固まっていた。 「俺は、全員を幸せにする」  これだけは譲れない。もし、それに否を唱える者がいたとしたら、俺の大事な人達のうちの誰かでなくてはいけない。もちろん、そんなことがないように俺が努めるわけだけど。 「ど、どうやってそれをなし遂げるというのか。常に何カ所もいられるわけではあるまい」 「そんな必要がどこにある? そりゃあ、好きな人と一緒にいたいという気持ちはあるけど、常に一緒にいたら息が詰まるよ。それに、それぞれの道があり、夢がある。一つ所にいることが幸せとは限らないさ。子供相手なら、また別だけどね」  かーっと真っ赤になる孫権さん。がたんと椅子を蹴立てて立ち上がり、俺を睨み付ける。その手が剣の柄にかかっている。 「わ、私が子供だとでもいうのか!」  なんだか妙な誤解に、慌てて手を振る。 「え? ああ、違う違う。俺の子供の話だよ。これから生まれるからね。やっぱり子供たちの側には出来るだけ居てやりたいと思っているよ。大人とは違うからさ」  大人なら一人の時間というのも必要だろうが、子供にそんな理屈は通用しない。子供というものは、常に愛情を注がれて育つべきなのだと思う。といって過保護にすればいいというわけでもないが……。 「蓮華様、どうぞお席にお戻りを……」 「あ、ああ……」  離れたところへ行ってしまった椅子を思春が戻し、孫権さんがそこに座る。 「蓮華様、この男のことに関しましてはもうそろそろいいのではないでしょうか。たしかに呉に仇成す可能性はありますが、それが明らかになってから成敗しても遅くはないでしょう」 「そうね……。いまは大使館では思春が見張ってくれているし、それでよしとするしかないわね」  不承不承、という感じではあるが、孫権さんは思春の忠言を受け入れる。俺もほっとして、体の力を少し抜いた。個人のことで責められるとなるとなかなか厳しいからな。  ここからは政治的な折衝となるから、心理的な態勢を切り換えていかないといけないだろう。 「じゃあ、大使の話に移ろうか」 「まあ、いいだろう。これについては、言いたいことがある。明らかに、これは人質を言い換えているだけだろう?」 「でも、俺たちも来ているよ?」  疑問に対して疑問で返すのもあまりよろしくないが、人質というならば、真桜と俺はそれなりに価値のある人質のはずだ。なにより、そのことは、謁見の日に、孫権さん自身が指摘していたではないか。 「捕虜となっている冥琳たちを開放するために、俺たちを取り押さえろ、と言ったのは孫権さんじゃなかった? つまり、それは匹敵する価値があるってことだと思うけど」  ぐ、と詰まる孫権さん。 「それは……」 「つまるところ、大使制度の反対派の要旨は、重臣を二人も常に国外に置いておくことに対する反発なのかな?」  言い負かすのが目的ではないし、出来るだけ相手の言いたいことも理解しないといけない。 「当たり前だろう。戦が終わり、国を立て直さねばならないこの時期に、周瑜と周泰という重要人物を奪われれば、不満も出る」 「そっか……。それにふさわしいだけの益がない、と見ているわけだね」  酒を乾しつつ、少し考える。 「……そうだな、大使制度の益と害をそれぞれ挙げていこうか。その上で、最終的に有益かどうかを判断するというのはどうかな?」  迂遠なやり方だと思ったのか、孫権さんが苛ついた顔を見せるが、結局は首肯してくれる。 「いいだろう。では、害をまず挙げてやる。二人の重臣を洛陽に取られていること、これが最大の害だ。次に、他国の将を王宮の膝元で自由にしているなど、間諜を引き入れているのと変わらん。お前自身にそういう意図がなかったとしても、情報を掠め取られることは起こり得る。さらに、大使館を用意する費用、警備の要員、これらの負担をどう考える」  彼女の言葉を聞き、反射的に反論が出てきそうになるが、ここはぐっと我慢のしどころだ。思春が気づかわしげな視線を孫権さんに送っているのが気にかかるが、やはり、わざと喋らせていると取られているかな? とはいえ、そうして意見をぶつけ合わなければ会談の場をつくった意味がない。 「んー、反論もあるけど、後にしよう。孫権さんはまるで益はないと考えている?」 「そう主張する者もいる。私は……二国間の連絡が密になった点は評価している。お互いに余計な紛争を未然に防ぐことも出来るのではないかという期待もある。だが、それくらいだ。とても見合うものとは思えない」 「そう。少なくとも有益な部分があると思ってはくれているんだね。じゃあ、害になると主張する部分に関しての、俺の意見を言おう。まず、大使制度ははじまったばかりだということを理解して欲しい。これから、不満点、改善点があればそれを取り入れていくつもりはあるし、お互い、様々な試みをしていいと思う。その上で、話を聞いて欲しい」  否定の言葉は出ないようなので、話を続けさせてもらう。 「第一に重臣を外に出すこと、これはたしかに多少の不便を強いている部分があると思う。もう少し事務方の比率を強めて、代表者一人だけに任せることは出来ないか等、華琳に提言するよ。これは約束する。ただ、ある国の重鎮が、他国の将や王と親しくつきあうこと、他国の文化や雰囲気を理解すること、これは重要な意味を持つと思う。第二点ともつながるが、相手を敵国として情報を仕入れるというのではなく、友好を深める上でもお互いを知ることは必要だからね」  提言するという部分には顔を綻ばせる孫権さんだったが、その後に続いた言葉には、眉間に皺を寄せ、懐疑的にこちらをねめつけてくる。 「言っておくけど、これはなにも友好が常に促進されるだろうって楽天的な思考で言っているわけじゃないよ。場合によっては、どうしても受け入れられない文化を知ってしまうこともあるだろうからね。そういう部分はお互い不干渉として距離を取ってしかるべきだ。無理矢理押しつけるわけじゃなく、どちらもちょうどいい距離を探るのにこそ交流は大事だと思うんだ」 「……わからないでもない。ただ、そのために冥琳ほどの者を出す必要があるかは、議論の余地があるな」 「うん、そうだね。人選に関しては、呉は大盤振る舞いしてくれたと思うよ。でも、それは魏と呉の関係がそれだけ重要ってことじゃないかな」 「もちろん、それは否定せん」 「そのあたりは今後の改善すべき点として、お互いの事前調整も必要ってことだろうね。ただ最初の派遣に筆頭軍師を持ってきたことで、魏の側に、より強い印象を刻めたのも間違いないだろうと思うよ?」 「ふむ……」  考え込んだ孫権さんをしばらくそっとしておいて、その間に、他の論点について考えをまとめる。 「第二点、これはお互い信用し合うしかないな。たしかに色々嗅ぎ回ろうと思えば出来るだろう。しかし、大使として堂々と派遣されているのにそんなことをすれば、二国間の信頼と協調にひびを入れるのは間違いないよね。そこまでのことをするだろうか? それよりも、街を歩いて自然と受ける印象や、こうして会談や折衝を直に出来る利点のほうが勝ると思うな」  孫権さんは、酒を口に含みゆっくりと味わいながら、俺の顔をじっと睨むような見つめるような視線を送ってくる。 「それから、最後の点は、たぶん、孫権さんの勘違いじゃないかな。大使館を借り上げる費用や、護衛の兵士への謝礼なんかは、きちんと支払っているはずだよ。兵に関しては、洛陽のと相殺だったかもしれないけど」  ぴく、と右の眉をあげ、確認するよう横を向く孫権さん。ああ、横顔は、びっくりするくらい雪蓮に似てるな。笑うとシャオに似ると思うんだけど。 「思春?」 「は。確認してみませんとわかりませんが、大使館に関しては、こちらから場所は指定したもの、無償で貸し出しているのではなかったような記憶も……」 「そう……。では、その点については撤回する。許してくれ」  すっと頭を下げる孫権さん。その対応に俺は慌ててしまう。 「いやいや、そんな大層な」 「だが」  顔をあげ、あまりに真剣な表情を浮かべる彼女の顔に、なんだかどきりとさせられる。 「他の意見に関してはまだまだ納得できん部分がある。……とはいえ、貴様の言う通り、こうして言葉を交わせるというのは利点であろうな。今日のところはこれでいいとして、後日、お互いに考えをまとめ、再び会談の場を持つことを提案したいがどうか」 「ああ、大歓迎だよ」  思わぬ提案に、勢い込んで頷く。意見の相違はそんなにすぐには埋まらない。幾度か顔を合わせられればと俺の方が望んでいたくらいだ。  その答えに、彼女は今日はじめて見る柔らかな笑みを見せてくれる。 「よし、では、細かい日程は後ほど。じゃあ、せっかくだし、食べましょうか。……って、北郷と思春はいつの間に食べたの!?」  孫権さんの、そんな年相応な女の子の驚き方を見て、俺はなんだか微笑ましく、そして、嬉しく思うのだった。  夢の中で、俺は、幾人もの女性にかしずかれている。  それは時に華琳であり、時に霞であり、時に凪や明命や桂花や稟であったりする。  自分で夢だと認識しているからだろう。俺に触れる指の数が急に増えたり、舌を這わせてくる女性の姿が別の人間に変わったりしても驚きはしない。ただ、ぼんやりと不思議だなぁ、と思いながら、溢れんばかりの愛おしさを感じるだけだ。  ただ、夢だと認識してしまうと、この目の前にいる女性たちにいまは会えないのだ、ということもなんとなくわかってしまい、少し寂しく思う。  そう思うと、人影たちはだんだんと寄り集まり、数を減らしていく。消えるのではなく、二つ、三つの体が合わさって、新しい女性の輪郭へと転じていくのだ。  そして、ついには、黝い髪の一人の女性へと収斂していく。  それが、夢ではなく実際に目にしている光景だと、気づくまでほんのわずか。  舐めしゃぶられているものから、ぞくぞくするような快楽が這い上がってくるのを現実に感じた瞬間、俺は、手を伸ばし、彼女の長い髪を梳る。 「おはよう、思春」 「ああ……じゅるっ、起きたか」  口の端から溢れる唾をすすりあげ、俺のものから口を離す間にも、指を絡ませて、興奮と快楽を送り込むのを止めようとしない。眠気の代わりに快楽で頭がぼんやりとするくらいだ。  空いている腕を使って上半身を起こされた。その後、再び股間に顔を埋めていく彼女の頭を、夢のような愉悦の中で、ゆっくりとなでる。  数日前から、これが毎朝の習慣になっていた。孫権さんとの三度目の会談──だんだんと、大使の問題から、普通の政務、軍務に関する話をすることに眼目が移ってきている──から帰って来た翌日あたりだったか、思春自身が、大まじめな顔で、命を助けられ匿われている礼がしたいと言ってきた。  そんなものは必要ない、思春は大陸の未来に必要な人で、それを助けられるなら俺はいくらでも骨を折るよと言ったのだがなかなか納得してくれない。ようよう説得したと思ったら、次の朝、敏感な部分に歯が当たる痛みで飛び起きるはめになった。なんと、彼女は寝台に潜り込み、口で奉仕をしようとしていたのだ。  いかに武将として鳴らす彼女であっても、閨の中でのこのようなことははじめてのこともあって勝手がわからず、歯を立てて、痛みで起こしてしまったというわけだ。  それから、なし崩しに毎朝こうして思春が寝ている俺のものを愛撫して起きる、という習慣ができあがってしまった。命を救った礼だからといってこんなことをしてもらうのは申し訳なく思うのだが、思春の気持ちを考えると、ここまでされて断るのも気が引ける。  なにより、こんな気の強い美人に、丁寧に奉仕してもらえる快楽が、彼女をはねのけるのを躊躇わせていた。  いや、そんな精神的な部分を除いても、思春の奉仕はすさまじいものだった。  最初の一回二回こそ、俺にどうしたらいいか、いちいち確かめてきていたものだが、三度目からは自分なりの工夫を取り入れ、さらにそれを俺が喜ぶかどうかを観察して、新しい試みにつなげるという勉強熱心ぶりを見せ、すでにいまではそれなりに経験のある俺ですら舌を巻くほどの技量の持ち主になっていた。  いまも、口内でしっかりと舌が巻きつき、俺のものを絞り上げていくようだ。頬をすぼめての吸引と、舌の締めつけで、まるで何本もの柔らかな指に握られているかのように感じる。 「くぅ……いいよ、思春」  本当に気持ちいい。そして、熱い。思春の熱が俺のものを伝って脳天まで突きぬけるような感覚すらある。  ところで、同じ寝台に乗って、股間に顔を埋め奉仕するとなると、寝そべるか膝をついた格好にならざるをえない。下から舐めあげるのではなく、上から覆い被さるようにして口を動かす思春の場合、膝立ちから体をかがませた格好になる。  そうすると、当然の帰結としてお尻は持ち上がらざるを得ないわけだ。  つまり、思春に指と唇と舌と口内全体でめくるめく喜びを引き出されている俺の目の前には、黒のスカートに包まれた、引き締まった尻が踊ることになる。スカートの生地を突き上げるようにして持ち上げる尻が。  それはとてつもなく魅力的で、男の情欲をさらにさらに掻き立てるものだ。  俺は、思わず、その尻に手を伸ばしかけ……すんでのところで手を止めた。  違う、彼女は俺を好きだとかそういうことでこれをしてくれているんじゃない。ただ、不器用な彼女が謝意を表そうと懸命なだけなのだ。それなのに、揺れる尻に欲情したからと手を触れていいはずがあろうか。  なにより、それは、彼女をただの肉と見るに等しい。  そこまで考えたところで、驚愕の事実に気づく。  俺は、北郷一刀は、こうして、肉の快楽を提供されるだけに飽き足らず、思春という人間自身を欲している、その事実に。  そして、その思いが一方通行のものであるということに。  自分は、もしや、いまこの瞬間、こんなに激しい性的奉仕を受けながら、その相手に決定的に失恋したのではないか。  そんなことがぐるぐると頭の中を駆けめぐる。  そんな時、チッ、という舌打ちが聞こえた気がした。  思わず思考をとぎれさせ見下ろすと、すさまじい目で見上げられていた。その気迫に震え上がる。さすがに武将、俺の動きなどお見通しだったらしい。気づかれていたことで、罪悪感と寂寥感がさらなる痛みとなって襲ってくる。 「心が乱れているぞ。やめてもいいのか?」 「まさか!」  ここで止められるなど生殺しもいいところだ。心情とは別に、体の欲望の抑えが効かなくなってしまう。 「ならば、集中しろ。せっかくの時間だろう」 「うん、ごめん」  素直に謝ると、思春は口を大きく開け、ゆっくりと俺のものを呑み込んでいく。赤い唇が、だんだんと男性器を呑み込んでいく様は、なんだかまるで蛇のようで、それが余計に淫靡だった。  かなり奥、喉につきそうなくらいまで二度三度呑み込み、軽く咳き込んだ後、用意が出来た、というように俺の手を彼女の頭に持っていく思春。 「ほら、お前の好きなようにしていいぞ」  それはラストスパートに向けた合図。添えた手は実際にはほとんど使われない。ただ、彼女自身の動きを補助するためのものだ。  ゆっくりと腰を前に出すと、彼女の腕が、腰の後ろにまわされる。体ごとひきずるような動きで、思春の口が俺のものを呑み込み、さらに奥の奥、喉の部分にまでひきずり込まれる。 「く……うっ」  喉の粘膜をこする独特の感覚にかつてない快感を覚えるが、素早く抜かなければ、彼女を苦しめる。まだまだ我慢して、舌さえ動かそうとする彼女の頭を後ろへずらす。  それでも反射として大量の唾を出し、目尻に涙さえ浮かべ、思春は再び俺の肉塊を呑み込もうとする。  なぜ、これほどまでしてくれるのか、あるいは、これほどまで耐え忍ぼうとしてくれるのか。それはわかりはしなかったが、喉にまで侵入し、それを引きずり出し、再び吸い尽くされるような感覚で吸引され、という往復の中で、彼女の、喉、口内、舌、唇、そして、わずかながら押し当てられる歯がもたらす愉悦と征服感はすさまじいものだった。  じゅぼじゅぼと水を口に含んでいたのではないかと思えるほどの涎を垂らす思春の顔を見下ろし、彼女を手中にしている陶酔感に酔いしれる。  さっきは辛くも思ったけれど、尻に触れるのを躊躇ってよかった、とも感じた。このような思春の姿を見てしまったら、もし体に触れることまでしたら、どこまで行くか想像もつかない。おそらく、これまで他の女性にはしなかったようなとんでもないことまでしてしまうのではないか、そんな際限のない欲望が闇い闇い心の底から湧き上がるのを、俺は感じていた。  腰がずんと重くなり、もはや持ちこたえることは不可能と判断する。 「思春、もうっ」  心得た、というように、目線がこちらに飛び、吸い込む力はなくなる。代わりに口の中で、舌で先端をこじあけるようにいじられる。ちゅう、と水飴でも啜るように吸い上げられた途端、目の前で火花が飛んだ。 「思春っ」  放出する喜悦が、長々と続く。彼女はそれを全て受け止め、その上、残っているものを吸い出すように、いつまでもいつまでも吸い上げていく。 「も、もう出ないよ」  降参、と手を上げると、ようやくのように口を離す。頬を少しふくらませた思春。その口の中に俺の精液をたっぷりと蓄えているのだと思うと、なんともぞくぞくする。  顔をこちらに近づけ、唾液と精液を口の中でくちゅくちゅと混ぜる音をわざと聞かせてくるのは、俺が最初の頃にそうするのがいいと言ったからだ。  それでも味に慣れることは出来ないのか、ぎゅっと眉根を寄せているのはご愛嬌だ。睨まれないということは、本気で嫌がっているわけではないのだろうから。 「いいよ、飲んで」  そう命じると、素直に頷く。  少し上を向いた思春の喉が、こく、こく、と動く。艶めかしくはりついた黒髪と、一筋、喉の上を唾液と共にゆっくりと粘って落ちる精液が、その妖艶な美しさを強調する。  俺は、そんな彼女から目を離すことが出来なかった。  ん、んっ、としばらくひっかかるものをおそらくは唾を飲み込んで流し落とした後、思春は顔を戻し、にっこりと微笑む。  俺もそれにつられて感謝を込めて微笑んだ。  その途端、銀の閃光が走った。 「あの、思春さん、これは、いったい……」  顔を動かすことなど出来ないから、首筋に突きつけられたものを見ることは出来ない。しかし、その感触の冷たさと存在感からして、思春が常に携帯している懐剣であろうことは想像がついた。 「ふざけるな。貴様が私の体に触ろうとして諦めていると、そうそう気づかぬ私だと思ったか」  叩きつけられた言葉には、紛れもない怒りが込められていて、俺は、固まりながらも謝意でいっぱいになった。この刃さえ外してくれれば、いくらでも頭を下げるつもりだった。 「すまん、不快に思っていたなら、俺は……」 「そこまでしておいて、なぜ、手を出さん!」  弁解のような謝罪のようなものを遮って発せられた言葉に目を丸くして絶句する。 「……え?」  ようやく絞り出たのは、疑問とも言えぬ驚愕のうめき。 「この十日の朝の奉仕の間、乳に触ろうとした事十二回、臀部を揉もうとした事十六回、その他、脇腹や腿に触れようとした事合わせて二十一回!」  言い募っている内に、感情が昂ってきたのか、だんだん目がつり上がり、顔が間近に迫ってくる。 「なぜ、そうまでして手を引く? 貴様、私を莫迦にしているのか?」 「だ、だって、思春はお礼でしてくれるんだろ。そこで俺の欲望をぶつけたら……せっかく少しは仲良くなれたのに、嫌われるのは嫌だし、なにより、傷つけてしまうんじゃないかって、いや、もちろん、俺は思春に魅力を感じているけど、その、それは肉体的なものだけではないから……信じてもらえるかどうかはわからないけど、思春と一緒に過ごして、俺は……」  なんだか初々しい告白みたいになってしまっている。下半身丸出しで、朝から口に精を放っている男が言うことではないな、と急に照れてしまう。  思春は少し落ち着いたのか、顔を離し、しかし、懐剣は引かずに俺を凝視する。 「つまり……貴様は私があくまで命を救われた恩を返すために、このような淫猥な行為をしているというのだな?」  ぐい、と体ごと乗り出して、俺の膝に手を突き、体重を支える思春。 「だから、純粋に礼をしている私に欲情しても抑えていたと、そう言うのだな?」 「う、うん……」  あの、思春さん。なんだか、冷たい刃が当たっているはずの所から、灼熱の痛みがやってきているのですが。ぬるっとしたものが肌の上を滑り落ちる感覚がするのですが。  ちょっと、これ以上は本気で……。 「く……くく……」  どうしようもなく命の危険を感じていた俺の耳に、そんな苦鳴のような音が聞こえる。 「あーっはっはっはっは」  ぼすん。  小さな音がして見下ろしてみれば、思春の手から離れた懐剣が、俺の体のすぐ横に落ちていた。 「この甘興覇、これほどまでに侮辱されようとは!」  がつんと殴られたような衝撃が顎に走った。一瞬意識が飛ぶかのように頭がくらくらして、気づけば、今度は思春の左手が、俺の首をしっかりと掴んでいる。 「貴様、私を、この思春を、なんの興味も、毛ほどの好意も持たぬ男にこのような行為をする女と思ったか!」  先程切れた傷跡に、今度は爪が潜り込む。痛みよりも、彼女がぶつけてくる生の感情の熱さこそが、俺の背筋を震わし、正気を保たせてくれていた。 「そ、それって……」  気管を圧迫されて声を出すのは辛かったが、それでもどうしても、俺は言わねばならなかった。 「これほどまで女に手を出しておいて、私にだけはこの仕打ち……。さて、どうすべきか、お前にはわかるか」  酷薄な笑みが刻まれる。きっと、江賊甘寧の名を聞いて震え上がった人々ですら、想像することが出来なかったであろうその恐ろしい笑みが、俺には泣いている子供のように見えた。 「今夜夕食を一緒に摂ろう」  腹から息を絞り出し、決死の思いで言い放つ。 「……なに?」  腕が緩み、肺に息がはいるようになったところで、大きく吸い込み、一気に言葉の群れを吐き出す。 「今晩は、誰とも予定がない。穏も亞莎も今日は予定があって勉強会はないはずだし、真桜は他の会合に出かける。月たちはいるけど、今日は約束してない。夕食を一緒に食べよう、思春」 「ん? ああ、まあ、それは……よいが……」  意味がよくわかっていないのだろう、思春は顔をしかめて、何を言っているのだこいつ、という顔で俺を見ていた。 「その後も予定がないんだ」  さすがにそこまで言えばわかったのか、急に顔を赤くして、手を戻す思春。その間に、下着をあげ、ズボンを穿いてしまう。下半身丸出しで、甘い誘いはやっぱりいやだ。 「そ、そうか」 「一緒に過ごしてくれるかい?」 「……ん、考えておこう」  小首を傾げてしばらく、思春は意地悪そうに呟いた。  その様子がなんとも彼女らしく、俺は思わず笑みを浮かべて、彼女の手を取り、二人で寝台を降りたのだった。  残念ながら、思春との夕食の約束はお流れになったようだ。  来賓の間に入ってきた雪蓮の顔を見て、俺はそんなことを確信した。  俺についていた華雄は、退室するよう命じる前に、次の間に消え、しっかりと扉を閉めていた。  そうすると、部屋の中には俺と雪蓮、そして、思春三人が残される。 「これ」  どさり、と重く、鈍い音が響く。雪蓮が持参した木箱は、たてた音からして、なにか重くて湿った物が入っていることを想像させた。 「確認して、思春」  今日の雪蓮はいつもより言葉少なだ。発する言葉は全て剣の切っ先のようで、鋭く、重い。  手早く箱の紐を解き、蓋を半ば開けて中を確認する思春。幸いというかなんというか、俺にはそれは見えなかったが、そのかわり、懐かしい──などとは思いたくもない──ものが部屋に満ちた。  むせかえるような血臭と死臭。  戦場で幾度も感じていた、それ。 「はい、この首はあやつのものに間違いありません」 「そ。そいつ、生かしておこうと思ったんだけど、亞莎を襲ったって白状した途端、殺しちゃった」  悪びれもせず、当然のように彼女は言う。呉の王にとって、部下の仇を取るのは本能というよりも、反射のようなものだろう。止められる者などいるわけもない。 「お手を煩わし……」  箱を戻し、膝をつく思春の言葉を遮って、鋭い呼びかけが飛ぶ。 「甘興覇!」 「はっ」 「その不埒者の首を持ち、ただちに王宮へ凱旋せよ!」  その言葉の意味は誰の耳にも明らかだ。いま、この瞬間、甘寧は呉への帰参を許された。俺は、そのことを喜ぶべきだ。それなのに、彼女が遠くへ行ってしまうようなそんな気がして寂しがっている自分がいる。そのさもしい己に気づき、俺は音を鳴らして歯を噛み締めずにいられなかった。 「甘寧、主命に従います」  思春……いや、甘寧は首の入った箱を抱え、足早に出て行く。 「一刀」 「……ん」  さっきから、掴みとられた腕にぎりぎりと爪が食い込んでいる。雪蓮のすがりつくようなその行動に応じて、俺は彼女と共に自室に急いだ。  血に酔った雪蓮の房事は激しかった。肩口に噛みつかれ、傷口から血を啜る彼女を無理矢理のように抑えつけ、激しく俺のものを突きたてる。  獣のようなうめきが、甘い喘ぎ声に変わってようやく、俺たちは優しくキスを交わし、お互いを確かめ合った。 「傷つけちゃった……ごめんね」  二戦ほど終えた後、赤子のように俺の腕の中で丸くなりながら、雪蓮は俺の顔を見上げて、そんなことを言う。 「いや、いいさ。これくらい、男の勲章だろ」  男の勲章、という言葉を聞いて、雪蓮はひとしきり笑った。 「ん……あれ、でも、喉は違うわよね?」  包帯の巻かれた首筋を、細い指がなぞる。  さすが武人というべきか、感情が乱れても切れたのは皮一枚で、結構出たはずの血もすぐに止まって、もう痛みもない。 「あー、えっと、その、これは、思春が……」 「あーあ」  呆れたような溜め息。 「蓮華ったらかわいそ。もう四面楚歌ね」  思春にまで手を出したのか、と呆れられているのかと思ったら、予想外のことをくすくす笑いながら言ってくれる雪蓮。さすがに、この女王さまの言動は読みきれないな。 「でも、蓮華のこともよろしくね」 「ああ、大使のことだろう? もちろん、洛陽では俺に出来ることは協力していくよ」  南海覇王も預かっていることだしな。あれだけのものを託されてしまうと、正統な持ち主に返す時が待ち遠しくなるものだ。 「それだけじゃないんだけどなあ……」  雪蓮の意味ありげな笑みと呟きに、え、と聞き返すも、変わらぬ笑みではぐらかされる。 「それはともかく、思春のこと、本当にありがとね」  そう言われると、正直、心が痛む。思春を自害から救ったのはいいが、俺なりに力になると言っておいてこの始末だ。もちろん、事件が解決したのはありがたいし、朝廷の手先の賭場を潰すなど貢献はある程度出来たとは思うけど……。 「でも、俺、なんにも出来なくて……まあ、彼女を匿えただけでもよかったかな」 「謙遜しちゃって。そんなことないわよ。似顔絵つきの手配書は役に立ったし、なにより、あの噂流したのって、一刀たちでしょ」 「ん、甘寧将軍がほうぼうで悪人を追っているってのなら、そうだよ」  ますますおかしそうに、くすくす笑いを激しくして、彼女は俺にしがみつく。 「あの手の噂って、娯楽の少ない田舎ほど派手に素早く伝わるのよねー。おかげで、どこに潜伏しても日に日に残虐に大げさになっていく噂に耐えきれなくて、結局慣れた建業に戻ってきてくれたらしいわよ。これって、一刀たちのお手柄でしょ」  彼女の言う通りなら、たしかにある程度効果はあったらしい。もしなんの効果も出なくとも、思春の武名を汚すことになるわけでもないし、と打った手ではあったが、図に当たったらしいのでなによりだ。 「へえ。そうだったんだ」 「うん、これは、あいつを売りにきたやつからの情報。一緒に逃げてたらしいから、間違いないと思うわよ」  そいつも賞金がどうとかうるさいから殺しちゃったけどね、とさらりと言ってのける雪蓮は厳しすぎるような気もしたが、彼女の気性、呉の民の気性ならば仕方のないところか。  根っからの裏の住人ならともかく、同行者の扱いに困って売りにくるような中途半端な密告者など、今後生きていく場所もあるまい。  丸めていた体を広げ、んー、と伸びをする雪蓮。その指が、まだ硬度を保つ俺のものに絡んでくる。 「おいおい、いいのか? 思春を出迎えたりなんだりは」  そうからかうように言うと、余計に指の動きが激しくなり、興奮が集まって本格的に元気になり始める。 「そこよ。実際に出迎えるのは蓮華がやってくれるでしょうけど、その後、祝いの酒宴だなんだと面倒なことが目白押しに決まってるわ。蓮華や思春たちと飲むならいいけど、甘寧ほどの将軍の帰還だもの、兵まで含めて馳走したり、文官たちの相手したり、面倒なことが待ち構えてるに違いないわ」 「まあ……そうだろうな」 「だ、か、ら」  くい、とひねるように手首を効かせられると、隆々とそびえ立つ俺の男の印。 「戻る前に一刀に、いーーーっぱい元気もらっていくの」  なんだか枯れはてるまで体力を吸い取られそうだ、と思いつつ、雪蓮にならそれもいいかな、という考えも湧いてきて、俺はなんとも愉しい気分とともに、彼女に挑みかかるのだった。  三日後、思春から言伝が届いた。以前招かれた夕食に、今日参上する、というものだった。  月に頼んで腕を振るってもらい、自室に並べて待っていると、思春が久しぶりに見るまとめた髪と赤い服で現れる。そちらのほうが見慣れていたはずなのに、なぜか黒いワンピースで彼女の姿を思い浮かべていた俺は、あの姿の思春はもう見られないのだろうな、と少しだけ寂しく思ってしまった。 「ん、美味かったな」 「ああ、さすがは月だよな。でも、月の真骨頂はお菓子づくりだと思うよ。そっちの甘味も食べてみてよ」 「ああ、いただこう」  二人で詠の焼いたバターケーキを食べる。しかし、俺はこんなものがあるという話をするだけなんだが、よく再現できるものだな。華琳と流琉と月で、料理界に革命をもたらせるんじゃないか? 「あの、さ、思春」 「では、私は失礼する。此度のこと、感謝している。今日の食事も美味かった。礼を言う」  話を切り出そうとしたところで、すっと席を立つ思春。その姿は見とれるほど美しかったが、ここで彼女を帰すわけにはいかない。 「……し、思春」  少し強い声で呼ぶと、出口に向かう足を止め、こちらに近づいてくる。伺える感情の色はなにもない。それは、彼女だからこそなのか、あるいは……。  だが、そんな逡巡は、いまの俺にとっては敵だ。決めたのなら、真っ直ぐ行かねばなるまい。 「なんだ?」 「俺は……思春のことが」  すぅと音もなく近づいた指が、俺の唇を封じる。 「それは、江賊から成り上がった甘寧のことか? それともお前のめいどとやらのことか?」  ここで間違えれば、俺は斬られる。  瞬間、そう思った。  憎しみでもなく、怒りでもなく、ただ、悲しみとともに俺は斬られるだろう。そう感じた。  だからこそ、俺は正しい答えを掴みとることが出来た。 「りょ、両方、いや……全部だ」 「ふん、甘寧のことなど、何ひとつ知りもせんくせに」  毒づきながらもなんとなく嬉しそうに微笑んで、思春は俺から離れると、大刀を置き、ばさり、という感じで着ていた服を脱いだ。 「し、思春」 「莫迦が。すぐに、そういやらしい目でしか見れないのか。少しは待っていろ」  まるで色気もなくさらしとふんどしという姿になった思春に鋭く睨み付けられ、おとなしく座って待っていることにする。なにをする気なのだろう。  持参していた包みを開くと、そこから現れるのは、メイド服一式。てきぱきとそれを身につけていく彼女を呆気に取られて見つめる。  ワンピースをつけ、エプロンをつけ、カフスを留める。一月の間にすっかり手慣れたのか、あっと言う間に一分の隙もない、メイドさんがそこに立っていた。  最後に髪をまとめていた紐を解き、黝い髪が、ばさりと流れる。首を振って髪を整えながら、その紐をチョーカーのように首にまわして止める思春。外れないかどうか、ひっかからないかどうか、大切そうに確かめる。  あれ、あの紐は……。 「これで、私は、お前の牝婢奴だ」  思春さん、いま、あなた、明らかにメイドに別の字をあててますよね。その、棘のあるように見えてあまりない……艶めいた言い方は。 「さ、もう一度訊くぞ? お前はなにが欲しい?」  微笑みすら封じ込め、思春は俺に返答を迫る。 「いまこの時に牝婢奴と答えれば、お前に奉仕する女が手に入るぞ? 甘寧と答えれば、お前とともに歩むことは出来ぬ武将と情を通じることになるぞ? 北郷一刀、お前はなにを選ぶ?」  俺の答えは変わらない。たとえ、辛いことがあろうとも、俺たちは二人で、いや、雪蓮や他の武将たちや、大事な人達とともに乗り越えていけるのだから。 「思春の全てを」  言った途端、彼女の目に走ったのは、絶望か、それとも安堵か、あるいは……涙だったか。 「まったく、欲張りな男だな」  長い長い溜め息をついた後、呆れたように首を振り振り、メイド姿の思春が近づいてくる。眼鏡はさすがに持ってきていなかったのか、彼女が俺に向けた視線は、真っ直ぐその瞳で射抜かれたように感じさせた。 「だが、その根性は、褒めてやろう」  俺の膝の上に座る様にして、彼女は俺に手を伸ばす。俺からも手を伸ばし、彼女の体を抱き留めた。  そうして、俺たちは、はじめての口づけを交わした。 「うー、太陽が黄色く見えるって本当なんだな」  思春を送ろうと大使館の中庭に面した廊下を歩いていると、朝日が目に刺さるような気がした。ほとんど徹夜に近く思春を抱いていたのが響いている。 「愚か者が、調子にのるからだ」 「そうは言うけど……それだけ夢中にさせたのは思春だぜ」  途端に真っ赤になる思春。  しかし、思春はさすがの回復力だな。朝方なんかは、もう息も絶え絶えで、俺の方が余裕があるくらいだったが、朝食を一緒に摂ったら、ほとんど普段通りに戻ってしまった。  ただ、注意して見ると、多少歩みが乱れているような……。 「なっ、この莫迦め。こんな時間にそのようなことをっ」 「あれー、朝から毎日……ぐっ」  からかっている途中で、それまで半ば戯れ言にのってきていた思春の顔色が変わり、強い勢いで足を踏まれる。 「黙れ、後ろを見ろ」 「え? ……あれ、孫権さん」  闇語りに移った思春の言葉に従い、彼女が背を向けている方に顔を向けると、女官に案内されているらしい孫権さんの姿があった。  彼女が大使館に来るのは珍しい。 「し、思春に北郷、奇遇ね」  俺たちの姿を認め、女官が頭を下げて下がっていく。思春がたたっ、と孫権さんの側に走り寄った。 「蓮華様も、私と同じ用事ですか」  孫権さんのほうが言葉を続ける前に畳みかけるように言う思春。相手の判断能力を奪って、とにかく自分のペースに持ち込む気だな。  まあ、彼女の心情もわかる。主と仰ぐ人物に、男と寝た翌朝の顔を見たと悟られるのも辛いだろう。特に、孫権さんは潔癖なところがあるように思うし。 「え、あ、えっと、思春は……?」  今日は硬い口調ではないな。会合を重ねる内に、孫権さんもだいぶ柔らかい口調で話すのはわかっていた。もっともその相手はもっぱら思春だったが。 「はい、私は北郷はじめ、大使館の者たちへ礼を言いに、それと例の件を北郷と打ち合わせようと思いまして」  目配せが飛んでくる。そういうことにしておけ、ということだろう。俺は疲れを見せぬよう、背筋を伸ばして二人を見ていることにした。 「あ、うん、そうね。私もそう」  思春を連れ、つかつかと孫権さんが俺の前にやってくる。すっかり思春は従者としての位置を取り戻している。あの怜悧な顔がつい数時間前は……っと、まずいまずい。いまはそんなことを考えている場合ではない。 「北郷。あなたのおかげで、甘寧を失わずに済んだ。このこと、呉の未来を考えても、まことに嬉しく思う。礼を言わせてくれ」  ことさらに格式張って言うのは、正式な礼を示したいからだろう。きびきびとした動作で頭を下げる孫権さんに、習った通りの返礼をする。  彼女は俺の返礼を受けて顔をあげ、ぱあっ、と花が咲くように笑みを浮かべた。 「いまのは、思春の主としての礼。でも、それだけじゃない。私の大事な友人を助けてもらって、本当に嬉しいの。孫権としてではなく、一人の女としてお礼を言わせて。ありがとう」 「蓮華様……」 「うん。よかったよね。俺もほっとしている」  主の心遣いに感動しているらしい思春と、それを受けて嬉しそうな孫権さんに向けて、俺も笑みを見せる。 「では、蓮華という名をもらってくれるわね」 「蓮華様!?」  素っ頓狂な声を上げる思春。そりゃあ、いきなり主が真名を差し出せばそういう反応にもなるだろう。 「いいでしょう? あなたも命を助けてもらったのだし、北郷には今後も助けてもらうことになるのですもの」 「それは……はい。正しいご判断と考えます」  考えた末に、頷く思春。俺をじろりと睨み付け、低い声で念を押してくる。 「北郷、心して受け取れよ。私の真名などとは意味が違うのだからな」 「いや、思春の真名も、俺にとって大事なことに変わりないよ。蓮華──今後はこう呼ばせてもらうけど──、蓮華の真名も喜んで受け取らせてもらう。真名の意味は痛感しているつもりだよ」  それからいつも通り、こちらは渡せる真名がないことを謝罪する。 「風習が違うのではしかたないわよね。それでは、私たちはこれまで通り北郷と……」 「いや、出来れば一刀と呼んでくれると嬉しい」 「そ、そう? では、か、一刀」  なぜか妙に照れながら、俺の名前を囁くように呼んでくれる蓮華。なんか、これまであった距離がなくなったようで、妙に可愛らしいな。 「私は呼ばんぞ」 「あらら」  一方、思春はある程度公的な場では距離を置こうとしているようだ。閨では呼んでくれるくせに。 「ところで、打ち合わせはまだなのよね」 「ええ、そうですね」  まだ照れた顔のまま、なんとか話を変えようと、蓮華が思春に訊ねる。 「ええと、なんだっけ?」  驚いた顔で振り返る蓮華。思春の睨む目が痛い。いや、ちゃんとうまく持っていくって。 「私と思春が大使として洛陽へ赴くという話。思春から聞いているのでしょう?」 「この短時間で忘れるというも、もはや才能と言えようが、忘れているなら、もう一度言ってやる。大使制度に反対するなら、我らが自ら大使を経験して、不満点、改善点を挙げよとの雪蓮様のお達しだ。全面的に賛成できるわけではないが、一理はある」  二人の言葉を聞き、深く頷く。このことなら、なにも問題ない。 「ああ、そのことか。実はね、それはもっと前に雪蓮から聞かされて、華琳と調整や橋渡しをすでにしているんだよ」 「雪蓮姉様ったら、また私には黙って……。でも、考えてみれば当たり前かしら。華琳殿には伝わっていなければおかしいもの」 「うん、だから、俺の赴任期間も短縮された経緯が……っと、まあ、詳しくは華雄や月たちも集めて話そうか。蜀への表敬訪問もあるんだろう?」 「ええ、そう、それも聞いていたの?」 「うん、まあ、こちらは俺にも色々用事があって……」  そんな風に会話しながら、俺たちは連れ立って歩きだす。いつの間にか、疲れもだるさもどこかへ吹き飛んでしまっていた  王宮の中でも一番高い望楼の上。  俺は、一人、そこにいた。  一人なのは、一緒に上ってきた雪蓮が酒が足りないと取りに戻ったからであり、酒盛りになぜこんな所かというと、下界はお祭騒ぎがひどいからだ。  今日は元旦。  言い換えれば、春節の中で最も盛大な祭がもよおされる日でもある。  見下ろすまでもなく、街の中では、パンパンと軽い爆発音のようなものがあちこちから聞こえてくる。  以前、中華街の春節の祭を見た時は、それはもうすごい勢いで爆竹が鳴らされていたものだが、この時代からその風習はあるようだ。  しかし、まさか、この時代、爆薬を使った爆竹なんてものが庶人相手に販売されていたりするわけもないだろう、と雪蓮に訊ねてみると、あれは松や竹を火に投げ込んでいるのだという。燃える時にぱちぱちと音を立てるのだとか。おそらくは含まれる水分や空気が熱せられて膨張し、弾けるのだろう。  『爆竹』とは元来そういうものであったか、と納得した出来事であった。 「んー、まだか」  雪蓮がしばし戻ってきそうにないので──おそらく、誰か知り合いに捕まっているのだ。今日は春節、呉の王に挨拶したい者も多数いることだろう──一人、糖年餅と言われるお菓子を手に取り、口に含む。柔らかな食感とほどよい弾力。中に練り込まれた各種の乾燥果実から、ほのかな甘みが染みだしてくる。餅といっても日本の餅のようにもち米を撞いてつくったものではなく、米粉を練って蒸したものだ。俺の知っているお菓子だと、すあまに近いか。  これは、南の地方で春節に、『一年が甘くなりますように』と食べられるお菓子なのだそうだ。魏のほうでは、たしか、餃子が正月料理のはずだった。あれはなんの謂われだったのだろうか。  他にも、糖蓮子というお菓子もある。これは蓮の実を砂糖漬けにした、要は甘納豆だ。これはころころとした姿で可愛らしい。酒よりも茶のほうが合うかもしれない。 「そういや、去年は、俺の帰還祝いとごっちゃになってたような……?」  一年前のことを思い出してみる。ほとんど春節の期間をぶっ通しで祝われていたような気がする。その後、すぐに三国会談があったから、まともに年明けを祝った記憶がなかった。 「そういう意味では、今年はまだ平和かな」 「平和よー」  ほとんど梯子と変わらない急な階段から、ひょっこりと雪蓮の顔が覗く。 「お、女王さまのお戻りか」 「はい、お酒。もー重いったら」  どん、と座った俺の胸あたりまである瓶を置く雪蓮。こんなもの背負って持ってきたのか。そりゃ重いだろう。 「だから俺が行くって言ったのに」 「だーめ。今日は私が一刀を歓待するんだから。そのかわり、大使館では全部一刀がやるの」 「ああ、もちろん、仰せのままに」  笑い合って、二人で酒を注ぎ合う。隣に座った雪蓮は俺の体にもたれかかってくる。肩を枕に、ゆったりと杯を乾す雪蓮の首筋が、酔いに淡く染まるのがなんとも美しい。 「一刀はもう、この景色も見納めねー」 「また来るさ」  出立は七日後、春節に人々が浮かれている間に、俺たちは呉を発つ。たしかに、こうして、建業の街を見下ろすのはしばらくはなさそうだ。 「その頃には、私はいないかもしれないわよ?」  雪蓮が王位についていられる間に、再び呉に来る可能性はたしかに低い。 「雪蓮に会いに行くのとは別に、呉には来たいね。まだまだ知りたいと思ってる」  探るように見上げていた目が、猫のように細くなり、にんまりと笑み崩れる雪蓮。 「そ。嬉しいわね」  その体に片手をまわす。その手の甲に、彼女の掌がのる。 「呉に来られて、よかったよ」  これはお世辞じゃない。俺は、この地でいくつものことを学んだし、さらに多くのものを得られたと感じていた。 「うん」  しばらくは言葉を交わす必要もなく、二人で寄り添い、酒を酌み交わす。どこからか陽気な楽の音が聞こえてくる。ピーヨ、ヒョーと甲高く鳴き交わしているのは、ヒヨドリか。 「よく考えたら、最初の予定のままならもう一月、一緒にいられたのよねー」 「蓮華たちと一緒に呉を出るって予定に変更したのは、雪蓮でもあるだろ。ついでに蜀に表敬訪問して、蜀の大使館に応援にいったり、沙和を連れて帰るって用事もあるにはあるけどさ」  冥琳と明命と入れ代わりに蓮華と思春が大使として洛陽に派遣される、というのは雪蓮が国を譲ると決めた時から決まっていたことだったが、その予定を早めたのは、冥琳の妊娠だ。当初は国外で準備を進める予定が、予定を繰り上げて国内に戻し、その他の面々と協力して推し進めるということになったわけだ。  これらのことは国譲りを行われる蓮華たちには秘密であるから、彼女たちを早めに国外に出さねばならない。そのため、蜀への表敬訪問を兼ね、成都経由で洛陽へ向かうということになった。その一行に俺も同行するということで、任期が切り上げられたのだ。  ちなみに妊婦である冥琳に無理をさせてはいけない、と冥琳の帰国の日程はかなりの余裕を持たされている。実はすでに明命を残して洛陽を発っているはずだ。  これらのことは、華琳と俺、それに冥琳と雪蓮の間で何通も書簡をやりとりして決定されたことだ。 「まあ、そうなんだけど。……そういえば、蓮華たちと一緒に一刀が出発するって話したら、シャオったら完全に拗ねちゃったわ」 「シャオが?」  おやおや、末のお姫様はお冠か。 「うん、ずるーいっ、って。今日も部屋から出てこないのよ。一刀が来てるって知ったら飛び出てきそうだけど」 「はは、光栄だな。でも、シャオこそずっとこの地にいてくれるだろうし、また会いに来るさ」  ある意味、あの少女は呉の未来の象徴とも言える。真面目すぎる蓮華の横に、小蓮のように闊達に、なんでもやりたいことはやり遂げる、という人物がいれば、民も充分のびのびとやっていけるだろう。そんな気がするのだ。 「そうねー。シャオにも、ほうぼう見せてあげたいけど、それはまだ先かな」  相変わらず、シャオには甘いというか、優しいな。しかし、彼女が大人たちの期待や希望をその身に寄せられているというのも、また紛れもない事実なのだろう。 「そういえばさ、月たちはどうするの? あの娘たち、成都に連れて行くのはまずいんじゃない?」 「ああ、月と詠と恋の三人は先に漢中に行ってもらうことにしたよ」  蜀とはなにかと因縁のある三人だ。成都に連れて行くのは避けたいところだ。 「ふーん、漢水に乗り換えて行くのね。まあ、恋が着いてれば問題ないわね」 「うん、それに、漢中には、数え役萬☆姉妹がいるしね。その護衛で少なくとも一人は武将級の人間がいるらしいから」  誰がいるかは聞いていないが、それほど重鎮が動けるわけもないから、凪の部下あたりかもしれない。実際には、護衛の兵を率いることが出来ればなんの問題もない。 「三国会談の時、歌ってた芸人の娘たち? なんだか不思議な魅力のある娘たちだったわね」 「ああ、彼女たちはこの時代最高のアイドルだからな」 「あいどる?」  しまった。久しぶりに、こちらの人にはわからない言葉づかいをしてしまった。酔いがまわったか? 「元々は崇拝の対象って意味の、天の国の言葉さ。時代を経て、有名で人気ある人、という意味に変わっちゃったけどね」 「ふーん、崇拝の対象、か……」  そう呟く雪蓮の声に、真剣な色が乗っている。俺は、酒を注ぎ直す手を止めて、彼女に訊ねた。 「どうした?」 「ん、ちょっとね。漢中は、五斗米道の本拠地だから」 「ああ、そうか。五斗米道の……」  黄巾を成立させたのは、太平要術……道教の教えのはずだ。もしかして、天和たちは、五斗米道と親和性が高かったりするかもしれない。  いや、それは、考えすぎか? 「いずれにせよ、蓮華には色々勉強になりそう」  それから、再び俺を見上げて、彼女は真剣な声をあげた。 「どうしても、あの娘にはきつそうなことがあったら、思春と一緒に支えてあげて」  つまり、それ以外の時は余計な手を出さなくていい、ということだろう。実際、俺が手を貸さなくても、思春がいれば蓮華を支えるのに問題はないはずだ。俺に出来ることと言えば、蓮華と思春、二人の主従が無理をしすぎないよう気をつけていることくらいか。 「うん、約束する」 「ん」  沈黙が落ちた望楼を、風が吹き過ぎる。  温かな日差しはそろそろ落ち始め、地平線に淡い橙の光が走り始めている。  陰暦の元日であるから、月は見えない。しかし、なんとなく、俺は月が恋しくなってしまった。  右手に酒、左手に佳い女。  空に月がないなら、呼べばいい。  俺は杯を掲げ、空を見上げて声を上げる。     花間 一壷の酒     独酌 相親しむ無し     杯を挙げて 明月を邀(むか)え     影に対して 三人を成す     月既に 飲を解せず     影徒に 我が身に随う     暫く月と影を伴うて     行楽 須らく春に及ぶべし     我歌えば 月徘徊し     我舞えば 影零乱す     醒むる時 同(とも)に交歓し     酔ひて後 各おの 分散す     永く無情の遊を結び     相期せん 雲漢はるかなり  冥琳に答えて披露した時は、そらで覚えていたあの詩を謡うしかなかったが、今回の李白の詩は、手帳に書き留めていたのをこの間見直してようやく覚えられたものだ。これでも、四首一連の詩のうち、一首目にすぎないのだが。 「なかなか面白い詩ね」  静かに聞いていてくれた雪蓮が、詩の中の言葉をいくつか繰り返しながら褒めてくれる。しかし、その後すぐにぶーと唇をとがらせた。 「でも、二人で飲んでいる時に、一人で飲んで、月と影を相手にする詩ってのもどうかと思うけどー?」 「そうかな。これは独酌って言いながら友を歌っているような気がするけれど」  まあ、一斗の酒を飲む間に百編の詩をつくったといわれる李白のことだから、単純に酒の愉しみを歌っているのかもしれないが、自分なりの解釈くらいしてもいいだろう。  その場にいない友を呼ぶための詩、俺はそう思っていた。 「じゃあ……私が影で、冥琳が月ね」 「いやいや、月が俺で、冥琳と雪蓮は影と本体だろう」  戯れ合うように、誰がどれで、と組み合わせを言い合う。華琳に、明命、蓮華にシャオ、ここにいない大事な人達の名前が次々に出てくる。 「ふふ、どれもいいわね。……でも」  一度体を離した雪蓮が、飛びつくように首の後ろに手をまわし、近づいてくる。 「再会する場所は、天の向こうなんかじゃない。この大地の上よ」 「ああ、そうだな。約束しよう。雪蓮」  そうして俺たちは、再び出会うため、別れの口づけを交わす。                    (第二部第九回・終 北伐の巻第一回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○呂家の項抜粋 『呂家は呂蒙にはじまる皇家である。東方八家中の呂家と区別するため、食呂家と言われることもあるが、普通は中華本土に残ったこちらを呂家、呂布からはじまる家を東方呂家と呼ぶのが通例である。  呂家は、七選帝皇家のうちの一つで、主に別名の通り「食」についての選別を行った。  食は皇家の力あるものが拘りすぎれば美食、飽食の害として国にたたり、あまりに構わなければ健康を害する、生活の中で重要な行為である。注目するのも当然と言えよう。  しかしながら、これだけ重要な行為でありながら、生活の中で当たり前すぎるが故にあまり注目されることなく、社会的にもその研究は遅れていた。呂家はこの研究を初代から続けて推し進め、後に、初代呂蒙は栄養学、料理研究の祖と崇められることとなった。  呂家では、伝統的な医食同源の教えを奨励しつつも、それを盲信しないよう、あくまで食は食として日々の健康に必要なものを取り入れることを……(略)……  呂家といえば、その特殊な家督相続の形態も注目される。呂家では、当代が四五歳を迎えると、後継者を決める料理の祭典をもよおす。この時点で、これに参加できる呂家に連なる者が、次代の後継者候補となる。  いくつかの皇家から食に造詣の深い者(曹家系列が比較的多かった)を招いて審査員とし、料理勝負を行い、決勝戦では、呂家の当代主人自らが審査を行う。  そして、通常の料理勝負では品目は定められていないが、決勝戦のみは、胡麻団子と伝統的に決まっていた。代々皇帝即位の折には胡麻団子を献上する呂家ならではの品目と言えよう。  代々当主に伝えられ、皇帝に献上される胡麻団子は、蓮の実を使った蓮容餡を用いてつくられるものであるが、この家督相続の料理勝負においては、後継者候補たちの、それぞれの工夫をこらした餡が用いられ、勝負の後は領民たちに盛大に振る舞われる。  ちなみに、呂家の支配下にある民は飢えることだけはないとされるが、その代わりに、大陸全土に広まる前の食材の試験台になるとも言われており……(後略)』