いけいけぼくらの北郷帝  第二部『望郷』編 第八回  月に連絡を受け、俺は皆が集まっているはずの部屋へ急いでいた。どうも、誰かが情報を得てきたようだ。過大に期待してもまた空振りに終わる可能性もあるが、逸る気持ちを抑えるのは難しい。  部屋に入ると、皆が振り返る。華雄に恋、月に詠、それに思春。五対の視線が俺を出迎える。 「悪い、遅くなった」  空いている席につき、息を整える。月と思春が同時に立ち上がり、結局思春がお茶を取りに行く。改めて見ると、メイド姿の方が多いというのはおかしな風景だな。実際はみんな一軍の将や王侯級の人間だというのに。 「真桜さんは抜けられないみたいです」  連絡係を務めてくれた月がそう報告する。大使館の仕事を任せている分、やはりなかなか時間が取れないのだろう。後で概要を伝えるしかあるまい。 「そうか、じゃあ、始めよう。えっと、今日は?」 「華雄と恋が、こっちの情報網から面白い話を持ってきてくれたの」  詠がそう言って、説明を始める。彼女曰く、水軍の兵と江賊とのつながりを追ううち浮かび上がった話があるという。呉の大商人──俺も名前は聞いたことがある──が間接的に所有している邸のうちの一つで賭場を開帳しているらしい。  そこは呉水軍の下級兵士御用達なのだが、一方で、江賊たちも盛んに出入りしているのだという。今回の襲撃犯のうち三人がそこで頻繁に見かけられていたとのことだった。元江賊の水軍兵士らとの接触などは確認は出来ていないまでもおそらくあったろうことは推測できた。 「賭博か」 「その程度の悪さは黙認しているからな。ひどいものでない限りは構っていなかったが……」  茶を俺の前に用意してくれた後、自席に戻った思春がこめかみに皺を寄せる。 「問題はここから、その三人と一緒につるんでいた一人が、襲撃事件後は姿を見せていないらしいの。もちろん、三人がそんなことを起こしてしまったから逃げたともとれるけど、そうじゃないかもしれないわ」 「顔や名前はわかるか?」  思春の問いには直に話を聞いてきた華雄が答える。その名を聞いて、彼女は納得したように頷いた。 「ふむ、そいつなら、たしかに、私の部下であった時代から、あやつらの仲間だった。逃げた一人の可能性はあるな」 「よし、じゃあ、そいつの名前は雪蓮たちに知らせるとして……出来れば似顔絵をつくりたいな。思春、頼めるかな。絵心のある人間は用意するから」 「わかった。だが、私の記憶はしばらく前のものだが……」 「その人の特徴を掴めればいいんじゃないですか?」  自信のなさそうな思春を、月が励ます。 「あ、そうだ、雪蓮に伝える時、その賭場への手出しは急がないよう注意しておいてね。手がかりを潰すことにもなりかねないし、いまは監視に留める方がいいわ」  詠の言葉に少し考え、頷いておく。 「そうだな……。そう言っておくよ。ただ、呉の国内のことだから、提言程度にしか効果はないぞ」 「そこはしかたないわ」  話が一段落したところで、華雄がなにかを思い出したのか、くつくつと笑いながら、声を挟む。 「面白いことにな、各地で『甘寧将軍』が目撃されているらしいぞ」  彼女の言葉に、皆ぽかーんと口を開ける。 「は?」 「贋物が出てるんじゃない……。ただ、噂だけ」  同じく話を聞いてきた恋が情報を付け加える。それでも、いまいちよくわからないが……。 「死後も英雄が各地で見られる。そんな伝説の類だな。今回は、悪者が出たところに、大刀をひっさげた甘寧が現れて始末していくという話になっているらしい」  街の噂が、『甘寧が呉を出奔した』というもの一辺倒から『甘将軍は軍師様を襲った賊を追っているらしい』というものが混じり始めているという報告は受けていたが、それがさらに発展していたのか。穏か亞莎あたりが意図的に思春が戻ってきやすいような噂を流していると思っていたが、実はそうではないのかもしれない。 「つまり、民が『悪漢を地の果てまで追いかけて始末する甘寧』像を求めているってことね。歴戦の勇将が、死んだわけでもないのに、ただ姿を消した、だけでは納得できなかったのかも」  詠がぼんやりと考えていたことを、ずばりと言葉にしてくれる。そのおかげで、もやもやしていたものが、形を取ってくれた。 「案外、これ、使えるかもな」 「ん?」 「詠、呉の各地のこの噂をさらに補強して、流布していない地域には、さらに流すことって出来るか?」  俺の言葉を聞いた彼女は華雄と顔を見合わせてしばらく考え込んでいたが、こちらを向いて、こく、と頷いた。 「商人たちに流せばはやいと思うけど。でも……なんで?」  一つ言う裏で他にも手を色々考えてくれているであろう詠に、目的を説明する。 「俺たちが追っている相手を追い詰めるためさ。どこに行っても『昨日はあっちの村で甘寧将軍が山賊を斬り殺していた』『おとといはあそこの江賊の船が沈められた』とか噂を耳にしてみろ。間違いなく心中穏やかじゃなくなる。ただでさえ追われているという感覚があるはずだ。変な動きをしてくれれば、その足跡も捉えやすくなる道理さ」  実際に信じ込むとまでいかなくてもいい。ただ、安心してそこに逗留できないと思わせるだけで充分なのだ。 「ふむ、しかし、国外に出ている場合は効果が薄いな。この手の噂は武名と共にある。他国では通用しづらかろう」 「その手のやつは、自分の身を守るために、なんらかの方策をとるよ。悪党の中での情報の伝わり具合ってのも大したものだしね。たとえ、呉を離れていたとしても噂は仕入れているはずだ。動揺はさせられる」  警備隊時代の経験を思い出す。悪いことをする人間というものは、常に保身を考える。たとえ、それが捨て鉢なチンピラだったとしても、彼らなりの計算というものはあり、常になんらかの情報源を求めているのだ。ただ、たいていの場合、彼らは自分に都合のいい琴だけを信じ込んで自分に不利な情報を吟味することなく、他人からしたら無謀と思える行動に出てしまうのだが。 「思春に命狙われる……きっと怖い」  恋がぽつり、と言う。思春は一瞬だけ俺の方を見てばつが悪そうに視線を反らした。 たしかに怖かった。 しかし、いまさら気にする事でもないのに。本気で狙われたとしたら、いまここに俺はいないだろうけどな。 「そうね、軍内にもそれとなく流すよう亞莎あたりにあたってみましょうか。まだつながってるやつらがいないとも限らないでしょ」 「ああ、頼む」  口を湿らせようとお茶を飲む。思春が淹れてくれたお茶は、とても濃く、がつんとくるような重みがあった。なんとなく彼女らしいな、とちょっと嬉しいような愉しいような気分になる。それから全員を見回し、言葉を発した。 「じゃあ、噂を流すことに関しては詠に一任するのでいいか? 華雄たちも詠に協力してやってくれ。思春はついてきてくれるか。絵師を手配する」  その言葉にそれぞれから了承の合図が返ってきて、俺たちは成すべきことを成すために解散した。 「らんらら〜、らんらるんら〜ん」  周々の上でご機嫌に歌っておられるのは、孫呉の若き姫君、小蓮。演義では、弓腰姫と呼ばれていたはずだけど、こちらでは弓を主に使うのは見たことがない。姫君という性格上、指揮はなかなかのものなのだけどな。  この間の合同警邏でも、呉の兵を操る手腕に感心した記憶がある。  いまも乗っている周々に、あっちだこっちだと森の中の道を示し、大熊猫の善々──これも飼い馴らされているのだろうか。なんだかその圧倒的な重量からして恐ろしいけど──を率つれて警邏中、ということになってはいる。  その場に俺がいるということは、これは呉の武将と魏の大使館による合同警邏という名目になっているということでもある。  しかし、森の中を愉しそうに進むシャオは明らかにピクニック気分だ。とはいえ、これでたまに賊の痕跡やらなにやらを発見して、大捕り物に発展したりもするのだから侮れない。指揮の冴えを見せた時も、元々のきっかけは、シャオが見つけてきた情報を元にした作戦だったしな。  それに、雪蓮達首脳部にしてみれば、一人でどこへ行かれるよりは、俺をつけておけば安心だし、二国の協力関係も示せるという魂胆なのだろう。歳の離れた妹ということで雪蓮までシャオには多少甘いようだし、その他の人々には、主筋に厳しくあたれというほうが無理というもの。離れた立場の人間をつけておくほうがいい、と考えるのもわからないでもない。 「がう」  考え事をしているうちに立ち止まってしまったようだ。顔をあげると、俺がついてきていないのに気づいた周々が大きな声で吼えていた。 「わるいわるい」 「もー、一刀、おっそーい」 「はは、ごめんな」  俺は、早足で、彼女たちに近づいていく。かさり、と足の下で落ち葉が鳴る。 「しかし、紅葉が綺麗たな」  緑のままの葉から、黄色に変わり、オレンジが混じり、くすんだ赤から、ついに鮮やかな紅に変わる。そんな葉たちが視界の中で風に吹かれて揺れている。鮮やかな色彩に飾られた森は、まるで夢の中の景色のようだ。  葉が揺れ、枝が揺れ、色がうねり、かさかさと冷たい風が通り抜ける。なんだか寂しくもあり、圧倒されもする。そんな森の空気を目一杯肺に吸い込んだ。 「そうだねー、冬だもんねー」  そうか、このあたりだと、この紅葉の風景は、『秋』じゃなくて『冬』なんだな。そういえば、九州でも、十一月ごろに紅葉していたものな。より南に位置する呉では、さらに遅くなるのも道理だ。南蛮などは、紅葉自体があまりないのかもしれない。 「なんだか、夏から一気に冬になった気がするな」 「そぉう?」 「うん、だらだら残暑が厳しかったろう?」  同じところを歩いているはずなのだが、俺の足元では落ち葉が音を立て、周々の肉球は音も立てない。シャオの体重を考えずとも、俺より重い白虎のその歩法に驚嘆を覚える。 「ふーん? いつも通りだったけどなー」  周々の上で揺られながら、小首を傾げるシャオ。その様はとてもかわいらしかった。 「ああ、たぶん、俺が魏での季節の移り変わりしか知らないからだろうね」 「あー、あっちは寒いもんねー。ってことは、すぐ暑くなくなっちゃうのかー」 「そうだね、だから、秋をこっちよりも長く感じる。まあ、すぐ寒くなっちゃうけどね」  洛陽あたりでは、雪も頻繁に降る。こちらとはまるで環境が違うのだから、季節の移り変わりもまた違うのだろう。 「そういえば、思春はどう? 蓮華お姉ちゃんが、思春いないと落ち着かないみたいなんだよねー」 「ああ、焦れてはいるようだが、我慢してくれているようだよ。でも、もうしばらくはうちにいてもらうことになると思うよ」 「そっかー」  よっ、と声をあげて、シャオが周々の背から下り、軽い足どりで走り出す。それをしなやかな動作で、白虎が追っていく。 「おいおい」  慌てて彼女たちの後を追う。のっそりと善々が背後からついてくるのがその存在感で知れる。 「ほら、一刀」  細い手が追いついた俺の腕を取る。意外にも力強くひっぱるその手に導かれるようにして、俺はそこに出た。  森が途切れ、真ん丸な空間が広がっている。  こんもりと土が盛り上がったところに生えているのは、おそらくはクスノキの仲間だろう。ごつごつとした幹が天に高く伸び、青々とした葉を支えている。  その巨木に場所を譲るように開けた空間は、冬の日差しを存分に浴びて、緑の色の奔流にきらめくようだった。巨木とその枝が遮る影以外には、俺たちしか存在しない空間。 「ほぉ……」  思わず息をつく。シャオはその反応に満足そうに頷くと、巨木の根元に俺をひっぱっていく。すでに、そこには周々がいつの間にかその大きな体躯を伸ばして寝そべっている。  俺たちもそれに倣い、草の生えた場所に腰を下ろした。 「いいところでしょ」  周々にもたれて座り込んだシャオが自慢気に言う。おそらくは秘密の場所なのだろう。今日はわざわざ俺を連れてきてくれたわけだ。 「うん、いいところだ」  思わず笑みが漏れる。吹きすぎる風も森の中を通りすぎるうちにかき混ぜられ緩和されるのか、冬の寒さを感じさせすぎることもなく気持ちいい。麗らかな日差しとそれを遮る巨木の枝葉たちが落とす陰もあいまって、なんだかずっと座っていたくなるような場所だった。  しばらく無言で俺を観察していたらしいシャオが不意に声をあげる。 「それで、さっきの話だけど」 「ああ、思春の話だね」  すっかりくつろいで、二人で言葉を交わす。ふんわりと、シャオの甘い香りと、周々の獣の匂いが漂ってくる。善々はどこだ? ああ、幹の裏側にもたれかかっているのか。いつの間にかどこで取ってきたらしい笹をかじっている。 「お姉ちゃんも姉様も色々手を尽くしてるみたい。一刀たちからの情報も結構役立ってるって言ってたよ」 「そうか、それはよかった。少しでも解決に近づくといいんだけどな」  本当に、少しでも解決に近づいてくれるといいが。自分たちなりに考えて動いてはいるが、やはり、情報提供をしても呉の人達が実際に動いてくれないとしょうがない部分もあったりするし。 「お姉ちゃんは軍の演習って名目で各地に兵を派遣してるし……」  孫権さんも限定的に国事に復帰したらしいが、主にこの件に関わっているんじゃないかと思う。彼女としても腹心の思春の問題は早々に解決したいだろう。なにより、心情的に思春のことを強く思っているに違いない。彼女の様子を見ていると、かなりつながりの強い主従のようだからな。 「雪蓮姉様は、なんだか最近は、このあたりが怪しいんじゃないかと思ってるみたい」 「舞い戻っているって?」 「うん、勘みたいだけどね。でも姉様の勘ってあたるしなー」  現実問題、雪蓮は建業を離れるわけにもいくまい。首都周辺で見つかってくれれば、それにこしたことはない。人口を考えても、多数の中に紛れるなら、建業に戻っている可能性はあるか……。 「とにかく、俺の赴任期間の間に解決してくれたらいいんだけどな」 「まだまだでしょ?」 「いや、雪蓮とも相談してね。少し早まるんだよ。年明けから少ししたら、呉を出る予定なんだ」  華琳にもそのことを打診して了承を取った。実際、真桜の成長ぶりは目を見張るものがあるし、重鎮たちにも認められていると思えるので、俺の役目はほぼ終わっている。  ただし、これには雪蓮の国譲りの件も関わる事情がある。だが、シャオといえどそのことを言うわけにはいかない。 「えーっ! それじゃあ、えっと……あと、五十日ちょっとしかないよ!」  周々にもたれていた体を起こして、シャオが叫ぶ。指折り数えて懸命に計算するその姿がなんともかわいい。 「あー、そうか、たしかにそれくらい、かな。もちろん、年明けすぐじゃないから、まあ、あと六、七十日だね」  自分でも計算してみる。実際は、調整が必要になってくるだろう。連れもいることだしな。 「もー、そういうことは、はやく言ってくれなきゃだめでしょー」 「ごめんごめん」  ぶー、と口を尖らせるシャオに謝る。 「でも、ここ最近決まったことなんだよ」 「あーあ、祭がいたら、一刀を籠絡する手管をいーっぱい教えてもらうのになあ」  口を尖らせたまま、腕を振って周々の背中に倒れ込む小蓮。 「はは。そんなの必要ないだろ。シャオは充分かわいいし、本気で狙われたら落ちない男なんていないよ」  実際に、シャオはかわいい。  まだまだ子供だが、孫家の血は美人の血統なのか、姉の二人に負けず劣らず、小蓮は華やかな雰囲気を持った美少女だ。雪蓮のように切れるような鋭さも無く、丸まるとした大きな目やよく動く手足など、健康的な可愛らしさを振りまいている。  その一方で、極稀なことながら、どきりとするほど大人びた妖艶な笑みを見せることもあるし、頭の回転も速くて、生意気とも思えるくらい真っ直ぐ物事に対して発言する。  こんな小さな姫君を放っておく男がいるはずがない。俺も、さっきの冗談で思い切り心臓が跳ね上がったくらいだ。 「……ほんと?」  探るような小さな声と共に袖をひっぱられた。  見下ろせば、少し不安げな顔が俺のことをじっと見上げている。  その様が、なんとも普段の少女らしさではなく、『女』を感じさせて、鼓動が高鳴る。 「証拠、見せてよ」  すっと瞼が落ちる。顔を突き出していることからして、これは……。 「……本気か?」 「シャオが迫れば落ちない男はいないんでしょ。一刀だけ例外なんて言わせないよ。シャオ、一刀のお妃さまになってあげる」  そこまで言われて、引き下がるのは男がすたる。  いや、それは言い訳にすぎない。俺は、いま、このお姫様に惹かれていた。  ゆっくりと驚かさないように体を引き寄せ、桜色の唇に、自分のそれを重ねる。温かさとやわらかさ、そして、首の後ろにまわされるシャオの腕の感触。俺は彼女を膝の上にのせるようにして抱きしめながら、それらの全てを楽しんでいた。  がるぅ、周々は見て見ぬふりか、俺ならばいいと思ってくれたのか、顔をあげることもなく、たまに静かな鳴き声をあげるばかり。善々は……うん、食事に夢中だな。  しばらく、口づけを交わしていると、シャオの腕が動き、彼女の肩にまわっていた俺の腕を取る。  逆らわずにいると、彼女の胸の上に俺の掌を置く手。女の子特有の優しい弾力に興奮が募りはしたものの、さすがに理性が働き、そっと彼女の掌を抑えることにした。 「もー、男なら勇気見せなさいよー。シャオは大人の女だよー?」  口を離したシャオが蠱惑的な声音で、そう囁く。 「いや、それは違う」  大人だと思うこともある。けれど、子供だと思う部分も多い。なにより、彼女との関係をそんなに急いだりしたくはなかった。 「シャオは言う通り大人だ。でも、まだはやい」  少し体を離し、真剣に彼女の顔を見据えて話す。 「なんか、それってずるーい」 「じゃあ、シャオは二年や三年したら気持ちが変わるの? お妃様になってくれないのかい?」 「そ、それは違うけどー」  我ながらこの問い掛けは狡いな、と思いつつ言うと、シャオが慌てる。 「でも、季衣たちは抱いたって聞いたよ」  季衣め、なんてことを話しているんだ。まあ、この年代の少女たちが、自分たちの身に起きたことを隠しておけるはずもないか。 「……戦の時代だったからだよ。シャオだって、経験してきたろう? 明日には死んでいる、半ばそう確信していたような日々を」 「それは……」  しばらく言葉が途切れる。それでも、不満そうな彼女の顔を見ていると、なにかしてやらなければならない気になってくる。 「しかたないな」  彼女の体を抱え直し、ぐい、と顔を近づける。俺の真剣な様子が通じたのか、シャオの顔にわずかに緊張が走る。 「大人の口づけをしよう。大事なお姫様」  そう言って、再び口づける。 「ん……」  喉を鳴らす音。ぷりぷりとした唇の感触を楽しんだ後で、舌を差し出す。ゆっくりと唇を舐めると、シャオの体がかすかに身じろぎし、段々と熱くなっていくのがわかる。彼女が吐息を漏らした瞬間を見計らって、唇を割り開く。  少しの間、目を白黒させる彼女を落ち着かせるように腕に力を込め、舌を口内にこすりつける。口内で、彼女の舌を探り当て、つんつん、とつつくと、躊躇いも無く、小さく尖った舌が俺のそれに導かれるようにして絡みついてくる。  ちゅび、くちゅり……。  音を立てて唾液が混じり合う。俺の注ぎ込んだ唾液を口内におさめきれなかったか、シャオの口の端から、泡混じりの唾が、たらりと垂れ落ちる。  歯の裏を舐めあげ、頬の裏側の粘膜を刺激する。その感覚を、すぐにものにしたのか、彼女は、俺のすることにあわせて自分の舌を蠢かし、吸い、つつき、絡ませてきた。  二人の熱い肉の感覚と、つながり合っている感覚が、二人の距離を縮めていく。  二人の感じるものが、近づいていく。肌を電流が流れるような感覚が、指先から彼女の体を伝い、俺の体へ再びやってくる。そんな幻想を抱くほど、俺たちは零距離で見つめ合い、つながり合い、求め合っていた。  ぷはあっ。  息をうまく出来なかったらしいシャオが頭を振って息をつき、完全に力が抜けて、腕の中で丸くなる。その様子があまりに愛おしく、俺は壊れ物を扱うように彼女を抱きしめた。  だから、俺はその後、彼女が呟いた言葉をよく聞き取れなかったのだ。 「シャオは絶対諦めないもんねー!!」 「さて、亞莎襲撃時間から一月が経った」  集まった面子に向かって、そう切り出す。月、詠、恋、華雄、思春、それに真桜。今日は全員が揃っていた。 「今日は、進捗の報告および、これまでの動きの確認をしていこうと思う。じゃあ、ええっと、まずは詠」 「ん」  俺が座り、代わりに詠が立ち上がり、なにかの書き付けを見ながら、話を始める。 「まず、国内で亞莎を狙うような勢力があるか調べてみたけど、これは空振り。予想通りだけど、この時世で、呉に表立って刃向かおうとするのはいないようね。次に、後から頼まれた噂を流すことについては、だいぶばらまけたと思うわ。ただし、これに関しては効果は測定しがたいわね」  詠が腰を下ろすと、次に華雄がすっと立ち上がる。 「現地での情報網をあたってみたが、蜀、朝廷共に、直に刺客を雇って亞莎を襲わせるという行動をとったと思われる痕跡はないようだ。ただし、視察旅行の船上での出来事を煽っていた者はいたようだな」 「煽る?」 「うむ。江賊出身だというのに、船上での諍いで、甘将軍に味方しないで震えていたのか、という罵倒と、江賊ならばその誇りを見せてみろ、という煽動だな。それで実際に襲撃犯が動いたのかどうかはわからないが、かなり声高にそう主張していた者がいたのはたしかなようだ」  それを聞いて、思春がはぁ、と大きく息をつく。 「可能性がないではないだろうな……。誇りというものの本質を理解していれば、意味のない妄言と切って捨てられるが、男振りを示そうと莫迦なことをしでかすやつがいないとも限らん」 「その、煽っていたやつらはわかっているのか?」 「以前にも話が出たろう、江賊、水軍共に通う者の多い賭場のやつらだ」 「そっか、性質が悪いな。それについてはまた雪蓮と相談しないといけないな」  俺の呟きを受けて、華雄が座る。 「あとは、たいちょか。華琳様たちのほうはどないなに?」  真桜の言葉を受けて、立ち上がる。いくつかの書簡を取り出して、卓の上に並べる。 「それなんだが、洛陽では、朝廷側が手打ちを図っているらしい。華琳に丞相の位を与えて、しばらくの間はそれでお互いおとなしくしているということになりそうだ、と華琳と風が書いてきていたよ。とはいえ、魏側としては、宦官を放逐した以外は特に締めつけをしているわけじゃないし、変わらないんだけどね」  ふん、と詠が鼻を鳴らす。 「丞相、ね。朝廷としては大盤振る舞いでしょう。華琳のほうがどう思っているのかはわからないけど……朝廷のちょっかいがなくなれば助かる、程度かしらね」 「そのあたりだろう。ああ、ちなみに俺にも官位をくれるそうだ」  風によれば、それこそが実際の手打ちの条件だったらしい。華琳が言い出したのか朝廷が言い出したのか、どちらかは判然としないが、朝廷としては俺に首輪をつけたつもり、華琳からしてみれば天の御遣いを朝廷に認めさせたということで、どちらも認識の上では得をしているわけだ。  その通りに俺が踊るかどうかは別として。 「へぇ」 「たいちょもついに朝臣か」 「おめでたい……?」  恋が少し不思議そうに首を傾げてこちらを見上げる。彼女の反応の通り、正直、めでたいのか不運なのかわかりやしない。 「さあなあ。朝廷が一枚岩かどうかもよくわからないし、水面下では陰謀を続けるかもしれないからな。気は抜けないし、今回の事件に関してもまだそれで除外できるってわけじゃない」  こつこつ、と卓の上の書簡を指で叩く。 「ただ、直接的になにかしたという証拠は出てきていない。なにかあるにしても間接的な行動しかとっていないようだな」  それだけ言って椅子に座る。話を聞いて、何事か考え込んでいたらしい月が発言する。 「そうなりますと……やはり、逃げた人を捕まえる、という問題に戻りますね」 「うん、そうなる。シャオによると、各地で軍が出動しているし、雪蓮自身は建業周辺に舞い戻ってきていると読んでいるらしい」 「数がいるあちらがそう踏んでいるなら……ありえるかもね」 「雪蓮様の読みは鋭い。しばらくはそれに望みをかけるしかないか……」  思春が感情をのせない口調で呟き、優雅な動作で茶杯を傾ける。その様子に心が痛む。 「すまんな、思春。大見得切って預かっておいて、もどかしいだろうが、もうしばらくは辛抱してくれ」 「ああ、しかたないだろう」  しばし、なんとも言えない沈黙が落ちる。詠が、くい、と眼鏡をあげて、俺を見つめてくる。 「あんた、蓮華との件は?」 「それなんだけど、孫権さんが、各地を巡って、軍の演習──実際には亞莎襲撃犯を探しているんだけど──を行っているから、建業にいないんだ。会見は申し込んであるし、無視はされてないけど、もうしばらく先になりそうだよ」 「そ。なるべく急いでね」 「わかった」  急がねばならない理由もいくつかある。雪蓮にも暗に孫権さんと仲よくなることを期待されているようだし、まずは話してみたい。 「ともかく、いくつかの可能性は潰せたし、これからも情報を集めて呉側と連携を取っていく、ということでいいかな」 「いいんじゃない? ボクは町中の噂とか、もう少し探ってみるわ」 「うちらに出来ることからやるしかないやろからなー」  ぐるりと見回して、他に発言もないようなので、まとめの言葉を発した。 「なにか意見があったら、いつでも俺か詠に言ってくれ。じゃあ、今日はこれくらいで」 「なに?」  皆がいなくなった部屋の中で、一人待っていると、終わり間際に目配せをした詠が入ってくる。リボンのような帯が揺れて、とても愛らしい。 「ああ、訊きたいことがあってさ」  そう言って、書簡の一つを差し出す。 「これなんだが」  詠は受け取ると俺の指さした部分に目を通す。  それは、華琳からの書簡だ。 『豚小屋の始末は一刀の判断に全て任せるわ。一刀、あなたの責任で、潰すも生かすも自由になさい』  そう書かれた文が、前後とのつながりがあるわけでもなく、唐突に入っていたので、疑問に思ったのだ。なにかの譬えか、あるいは暗号かとも思ったがそうでもなさそうなのだ。 「この豚小屋ってのがなになのか……詠ならわかるかな、と思って」 「あー、うん、わかるけど……。そう、あんたに任せちゃったんだ」  詠は少し考えると、くるくると書簡を巻いて、俺に返してくる。 「いまここじゃまずいわ。思春に聞かれるわけにはいかないし……」  押し殺した声で彼女がそう言った途端、がちゃり、と再び扉が開いた。 「残念だが」 「思春!?」  剣呑な空気をまとって、メイド姿の思春が静かに入ってくる。後ろ手に扉を閉め、真っ直ぐにこちらを向いてくる。 「聞くつもりではなかったのだがな、どうもお前たちの様子がおかしいと見て、とどまっていたのだが……。魏の秘事ならば、いますぐ消える。しかし、此度のことに関わるのならば、聞かせてはくれないか」  助けを求めるように、詠がこちらを見上げてくる。珍しいな、こういう詠は。 「関係するのか? 詠」 「する、といえばするわ」  詠と思春。二人の顔を見比べる。どちらも真面目に俺を見つめ返してくる。思春は必死で、詠は少し申し訳なさそうに。 「わかった。俺が許す。詠、話してくれないか」  詠はがっくりと肩を落として溜め息をついたが、顔をあげると普段通りの表情で、眼鏡をあげて思春に対する。 「しかたないわね。さっきの華雄の話、覚えてるかしら?」 「賭場の話か?」 「そう。あれはね、あの程度の話じゃないのよ。かなり巧妙に、水軍の腑抜けぶりと江賊の義侠心を煽る工作がなされていたの。もちろん、確証はないけれど、かなりの確率で、亞莎を襲った江賊は、その工作にのせられて、思春、あなたの仇を討とうとしたと思われるわ」  詠の言葉を聞いた思春はしばらく苦しそうな顔をしていたが、はっと気づいたように頭をさげた。 「……そうか、すまん」  おそらく、彼女自身も、彼女に聞かせたくないというのが、工作があったにせよ自分のせいで亞莎が襲われたという可能性が高いという部分だったのだ、と気づいたのだろう。 「ああ、もう、頭を上げてよ。誰もあんたのせいなんて責めないわよ。あんた自身を除けばね」 「それは……」  顔をあげ、再び絶句する思春に、軽く息を吐く詠。 「ともかく、話を続けるわ。実を言うと、あの賭場、そして、それを経営している商人には朝廷の息がかかってるのよ。工作もその流れの中で行われたの」 「つまり、朝廷側の間諜たちの、呉国内部の拠点の一つってことかな?」  こくり、と頷く詠。そうすると……。 「豚小屋ってのはそういう意味だったのか」  それにも頷いて、詠は話を続ける。 「以前、ボクが、早々に賭場を潰さないように雪蓮に言ってくれってあんたに言ったの覚えてない?」 「ああ、覚えている。詠にしては果断じゃないな、と思ってはいたけど」 「あれは、朝廷側の動きを見張るのにちょうどいい場所だったから。呉側が勘づいていることを知られると、深く潜伏されるしね。実際、あそこは、呉に潜った朝廷の組織の中では中枢と言っていいと思うわよ」  処分は俺に任されているわけか……。少し考えて、彼女に確認する。 「その、大商人までたぐれるのか?」 「うん。それくらいは証拠固めしてあるわよ。ただ、そこから先は蜥蜴の尻尾切りでしょうね。洛陽が手打ちを考えてるなら余計素早くことを治めようとしてくるはずだし」 「手出しをしなければ、手打ちの後も、そこは残る?」 「そりゃあね。あんたや華琳と直接の関係はない部署だもの」  何事か考えているらしい思春と、もう諦めたような顔つきの詠をじっと見る。 「よし、潰そう」 「おい」 「ま、そう言うだろうとは思っていたわ」  驚いたように思わず声をあげる思春と、肩をすくめるだけの詠という両極端な反応を受け、少しだけ驚く。 「呉に仇成すようなものを残しておくわけにはいかないだろう。他にあったとしても、ここを潰せば効果はあるんだろう?」 「ええ、もちろん」 「ちょ、ちょっと待て」 「ん?」  なぜか慌てている思春。なんで、そんなに汗を流しているんだろう? 「たしかに、それは呉にとっては有益な行動だ。しかし、魏にとっては益どころか害だろう。先程、詠も言っていた通り、他国の中で朝廷がなにをするかの兆しを見られる貴重な情報源ではないか。この部分は私は聞かなかったことにすべきではないのか」 「うん、でも、朝廷の動きは洛陽で掴めるし、なによりも呉の害は魏の害でもあるからね。余計な動きをされるより、一挙に潰しちゃうほうが面倒もないだろう。もちろん、ある程度制御して情報を得るってのも有効な手段ではあるけど……正直、朝廷相手にそんな手間かけたくないんだよな」  本音を漏らすと、思春の顔が急に鋭いものとなった。 「……なに?」 「昔、覇を競っていた頃の呉や蜀相手ならともかく、朝廷ごときにそこまでするのは面倒だよ」 「あんたって、たまに無茶苦茶言うわよね」  詠の指摘に肩をすくめる。見ると、思春はぽかんと口を開けて動きを止めている。なにか驚くことがあったようだが、ここは話を進めてしまうことにする。 「一気に潰せるんだよな? 詠」 「華雄と恋を出してくれればね。細かいところはボクが調整するわ」 「よし、じゃあ、手早くやっちゃってくれ」 「了解。ほら、あんたも惚けてないで、手伝ってよね」  とことこと近づき、固まっている思春の腕を軽く叩く詠。その衝撃で正気づいたのか、思春がいまだ目を白黒させながら聞き返す。 「あ、ああ、しかし……いいのか、本当に……」 「いいのよ。あいつだもの」  なんだかよくわからない理由をつけて思春をひっぱって出て行く詠の背中を見送りながら、思春はなにをそんなに驚いていたのかな、と首をひねる俺だった。  そして、わずか三日後、件の大商人を始めとした朝廷工作班の一派が捕縛され、雪蓮たちにつきだされたとの報を聞くこととなる。  今夜は、呉の軍師二人を招待して、夕食から一晩かけて、議論を交わす日だった。こちらから出るのは詠と俺。たまに真桜や月が参加するが、今晩はいない。  だいたい月に一度、こういう集まりを持つようにしている。  たいていは、詠のアレのすぐ後、ということになっている。アレ、といっても女性に特有のものとかではなく、詠だけのものだ。  通称、不幸の日。  名前の通り、その日一日、詠の周囲に不幸が招き寄せられる日で、しかたないので、特別に一日中彼女は部屋に篭もることになる。ほとんどの場合は、なぜか影響を受けない俺か月が一緒にいるのだが、それでも、どうしても溜まってしまうストレスを、元々予定されている軍師勢を集めた討論の日をぶつけて知的興奮で発散させようというのが狙いだ。  まあ、最近は、不幸の日と言いつつも一日中詠をかわいがってやれる日として楽しんでいるし、彼女も楽しんでいるようなので、それほど発散の必要はないとも思うのだが、それはおいといて。  今晩は、詠のつくった林檎酒を飲みながら議論を続けていたが、途中話に出た、俺の世界における先物取引の概要を話すはめになっていた。 「要は、先の取引を約束する、ということなんだけど」  俺は乾燥した松の実を手元に並べて説明を始める。 「たとえば、その年、米の一単位の値段が実二十個だったとしよう」  十個ずつおいておいた松の実を、二十個前にずいと出す。皆、前提をちゃんとわかっているということを確認して話を進める。 「今年はあまり天候が良くなくて、不作になりかねないと亞莎が判断したとする」 「は、はい」 「すると、亞莎は来年は値段が上がると予想する。だから、いまのうちから安い値段を予約しておこうとする」  ふんふん、と頷いている隣席の詠の前に松の実を二個置く。なに? と疑問の視線を投げかけてくるのを手を動かして待ってもらう。 「そこで、亞莎は、詠に『一年後、米一単位を実二十個で買う』という約束をして、松の実二個を保証に差し入れる」 「ああ、ボクが仲介役ね。了解」 「うん、さて、一方、穏は、今年は順調に実るはずだ、と状況判断をする。豊作になって、米の値段は下がる、と見るわけだね」 「ほほぅ〜」  向かいに座っている穏が興味深そうに乗り出してくる。おかげで、どでん、と卓の上に胸がのっかっているが……。あ、脳内の明命さん、猫の爪は鋭いんですよ。脳内猫をけしかけるのはやめてください。 「穏は、詠に『一年後、米一単位を実十五個で売る』約束をして、これも実二個を保証として差し入れる」  ここまではいいかな、と皆を見回すと、頷く顔が三つ。 「さて一年後、二通りの場合を考える。まず、一単位が実二十五個に値上がりした場合。この場合、亞莎はその時の値段より、安く米を買うことが出来る。一年前に約束しているからね」 「はぁ……」 「で、この場合は、保証分と差し引いて実十九個を払って、米一単位を手に入れる。放っておいたら二十五個必要だったのが、二十一個で買えたわけで、四個の得だね」  末の実を詠の前に置き、乾燥棗の実を亞莎の前に置く。 「あれ、十八ではないのですか?」 「一個は詠の手数料になるんだ」 「ああ、なるほど」  亞莎が納得したのか、林檎酒を飲み、棗を頬張る。 「一方、穏は大損だ。売る約束をしているのだから、なんとしてでも米一単位を用意しなきゃいけないけど、松の実二十五個もする。十五個で売る約束だったから、詠への手数料を入れて、合計十一個損する」 「ふぇえ〜」  泣きそうな穏を、まだまだこれからだよ、となだめる。 「逆に、値下がりした場合を考えよう」  さすが軍師というべきか、頭を切り換えたのだろう、皆がこっくりと頷く。 「たとえば、米一単位が松の実十個という値段になったとする」  さあ、どうなる? と、穏に訊ねる。 「その場合だとぉ、私は十個で仕入れてぇ、十五個で売れるんですかぁ」 「そうそう。詠への手数料を抜いて、四個お得だ」 「わぁい」  儲け分の末の実を四つ、穏の前においてやると、早速ぱりぽり食べ始める。 「逆に私はやっぱり二十個で買わないといけないから、詠さんへの支払いをあわせて十一個分損ですね……。あれ、でも、支払うのは同じ十九個なんですね」 「うん、先物取引は、そうやって支払いを最初に確定させられるんだ。買いなら損はしても、その時決めた以上の額は払う必要はない。売りだと、差額が膨らむかもしれないけど、物さえ確保できていたら問題じゃなくなる。安くなった時点で仕入れてしまう手もあるんだ」 「でも、これ仲介する人間にうまみがありすぎない?」  目の前に置かれた松の実をぽりぽり食べながら、詠が訊いてくる。 「完全に信用できる相手ならね。でも、実際はそうじゃないだろう。商人だって逃げちゃうやつもいれば、払いきれなくなってしまうのも出てくる。そういうやつがいないか監視したり、だめなやつを追放したり……あるいはどうしようもなく取引が滞ったら、仲介者がなんとかそれを円滑になるようしなきゃいけない。けして危険性がないわけじゃないよ」 「あー、そっか……。取引の安全を図らないと、参加してくれる人間も減って、儲けも減る、か」  俺の言葉を吟味するように考え込む詠。それぞれに何事か考えている軍師たちを見渡して、再び話を進める。 「で、ここまでが原理的な取引」 「まだあるんですか」 「うん、普通は実際に現物を取引することは少ないんだ。それよりも、差金決済が多い」 「差金?」  聞き慣れない言葉に、皆が首をひねる。 「つまり、さっきの例だったら、そうだな、値上がった場合の亞莎は、十九個をさらに払って米一単位を手に入れたけど、これをやらない」  置いておいた松の実を全部どけてしまう。これから先は数を示さない方がわかりやすいだろう。 「その時の値段、二十五個との差額だけをもらうんだ。二十個って約束で、その時の値段が二十五個、差の五個と、最初の保証分二個から手数料一個が差し引かれた一個が返されて、手元には六個の末の実が入ってくる」  段階を追って理解しないとわかりづらいだろうから、と話を区切り、林檎酒を呷る。発酵の副産物なのかわずかに発泡した林檎酒は、甘さもそれほどでもなく、アルコール度も無闇と高いわけでもなく、喉を湿らせるにはちょうどいい。 「最初に二個支払っているから、純粋な儲けは四個だ。けど、二個差し入れただけで、六個返ってくる。これは大きいだろう? 逆に、この時の穏は差し入れたのが二個なのに、差額の支払いだけで十個あるわけで、かなりの損だ」 「外すと痛いわね」 「この差金決済による取引は当初の入金金額が少ないし、物そのものを保管したりする手間もないから、投資の手段として使われる。あとは、危険性を低くするためにも使われるかな」 「危険性は高まっているように思いますけど……」  実際は、リスクを低減させる手法が最初で、その後に投機的な取引が発展したような気もするが、そのあたりは俺の記憶の中でも曖昧だ。簿記の基本的なところを書き写してはきたが、こういう派生商品については一通りの知識しかない。 「逆の取引を併用するんだよ」 「逆ぅ?」 「つまり、実際にしたい取引を、たとえば、米を買う、って取引だと想定する。現物を仕入れて、二ヶ月後に送られてくるという取引だ。ここで、逆に先物で、現物と同量の売りの取引をしておく」  自分の中でも考え考え、話をしていく。 「二ヶ月後、値段が下がっていた場合、現物を売ると出てきてしまう損を先物取引の利益が補填してくれる。逆に、値段が上がっていた場合は、現物の利益を先物が圧縮してしまうけど、損するわけじゃない。こうして、とにかく、損をしないようにと保険をかけておくわけだね」  杯に林檎酒を注いでくれる亞莎に頭を下げ、再び林檎酒を口に含む。 「ふーむぅ。面白いですねえ。実際には同量にしなかったり、値段を変えたりしてなんとか儲けようとするんでしょうねぇ」  さすがは軍師、俺が説明していないところまで思考を発展させている。穏の顔を見ると、酔ってしまったのか、ぽう、と頬が赤くなって、その様子がなんとも艶っぽい。 「とはいえ、ここまでいくとなると、信用の問題が大きくなって、市場が発展してないと難しいだろうけど」 「たしかに難しそうね。仲介者の負担もかなり高まりそうだし。ただ、最初の取引にしても、物自体がどこにあるのか、とか確認する手段がないと面倒そうよね。まるっきり信用ってだけじゃあね」  うーむ、と皆が唸る中、亞莎が、あっ、と声をあげる。 「塩引のようなものを使うというのはどうでしょう?」  ああ、と俺以外の皆が納得したように声をあげる。 「塩引?」 「ああ、あんた知らない? 塩引ってのは、塩の引換券よ。塩は専売でしょ? 塩商人は国から塩引を買って、それを生産地に持って行って、書かれただけの塩を受け取るの。もちろん、実際には塩を運ぶ業者がまた別にいたりとかするけど、大雑把にはってことね」  詠の説明を聞いて、頭の隅にあった知識が引きずり出されてくるような気がした。 「ああ、いつか聞いたことがあるような気もする……」  その途端、様々な事柄が、頭の中で広がり、組み合わさり、つながり合うような、奇妙な感覚が走った。 「ちょ、ちょっと待ってくれ。塩引ってのは、その、塩の受け渡しを保証するんだよな」 「はい、そうですねー」  穏の呑気な声に、さらに刺激されて、思考が加速する。気持ち悪いくらい様々なことが想起され、さらに周辺の知識と組み合わさって、思っても見なかった形を成していこうとしている。 「悪い、しばらく……しばらく静かにしてもらえないか」 「はい〜」  こくこく頷く亞莎に、またなにか始まったの? とでも言いたげながら黙っていてくれる詠。 「塩引は、国が発行する。専売だから当然だ……。国が……」  かちり、と頭の中で音がした気がした。  それは、全てをつなぎあわせるピースのはまった音。 「つながった!!」 「うわ、びっくりした」  いきなり大声をあげた俺に、詠がのけぞる。 「詠、地図。地図出してくれ、地図!」 「あー、もう、うっさい。わかったわよ」  ぶつぶついいながらも、卓を離れ、机をごそごそ漁って戻り、一枚の大きな紙を卓に広げてくれる。 「これでいい? どうせ、大陸の全図がほしいんでしょ」 「うん、ありがとう。つながる、そうだ、つながるぞ」  大陸──いや、漢土を描いた地図を見つめ、思わず呟く。 「あのー、一刀さんー?」  心配そうな亞莎の視線と、訊ねてくる穏をうっちゃって、話しだす。 「この世界の国家の基本構造は、民に田租と賦役、兵役を課し、それを国が運用することで成り立っている。これはいいかい?」 「うん、そうね」 「は、はい」 「突然ですね〜。でも、その通りだと思います」  三者三様ながら同意を得られたので、論を先に進める。 「要は、国に入るものと、それをいかに生かすかに尽きる。つまり、円滑な税制こそが命となる」  そこで息を整える。林檎酒を乾し、立ち上がる。 「これから、俺の理想を語る。あくまで理想で、荒唐無稽に聞こえるかもしれないけど、最後まで聞いてほしい。そして、駄目なら駄目と言ってくれ、いいかい」 「あ、えと、はい」 「まあ、聞いてやるわよ」 「わっかりました〜」  再び三人に同意を得て、勇気づけられる。頭の中で、熱いマグマが煮えたぎっているようだ。これをなんとか形にして、吐き出してしまわねばならない。 「さっきも言った通り、民の力は田租と賦役として国に供出されている。つまり、土地に根付いた方式だ。これを完全に改める」  地図を指さしながら、きっぱりと言い放つ。 「田租は完全に撤廃する。そのかわり、国が農作物と布帛の……そうだな、三割までを買い上げる権利を持つことにする。市場価格よりは多少安く買い取って、それを売ることで、田租分の収入を得るんだ」  衝撃を受けたような穏と詠に対して、亞莎はその片眼鏡をきらりと輝かせて食いついてきた。 「民から買い上げて、国が商売をする、ということでしょうか?」 「うん。そうだ。これには儲け以外にも、農作物の価格を安定させられるという利点がある。主要生産物の三割を握っているわけだからね、国が市場での買い占め等による値上がりや急激な値崩れなんかを抑制することが可能だ」 「備蓄を増やすことにもつながりますね……」  衝撃から醒め、目をすぅっと細めて穏が呟く。その鋭い眼光が常とは違い、なんだか恐ろしいほどだったが、話を止めるわけにもいかない。 「賦役もなくす。兵役もだ。そのかわり、兵士を出す家、職人を出す家を指定する。これらの家には先程の作物の買い上げを免除する。そのかわり兵や職人を出すことを義務づけるわけだ」 「代々兵士か……。まあ、そういうのに向いたやつってのはいるからね。やたらに取ってくるよりはいいかも」 「もちろん、給金も出すしな。ただ、軍事貴族化した場合の対処が問題だが……そのあたりは後で考えよう。さて、田租や賦役をなくした上で、なにを国家の基盤とするか。それは商売。商業。経済だ」  さすがに、このあたりは予想できたのか、三人ともうんうんと頷いている。 「現状、物品は運ばれる途中、いくつもの関や街で検査され、税を取られる。この関税のために、長距離交易は阻害されている。なにしろ、遠くのものになればなるほど高くならざるをえないんだからな。いくら珍しいものだからといって手が出なくなれば売れなくなり、結局のところ意味はない」  いくつもの有名な関を、地図上で指さす。 「だから、これも撤廃する」 「大胆ね」 「そのかわり、商税は、最終売買地でのみ徴収する。そうだな、売り上げの二十分の一もとればいいか」  5%の間接税というわけだ。実際には消費者はそれを意識することなく、商人のほうに納税させるわけだが。 「たしかに、流通は促進されるでしょう。しかし、商人が正直に税を入れてくるでしょうか?」  もっともな亞莎の意見に頷く。 「そのあたりは、新しい帳簿組織について、俺の持ってきた知識がある。いずれ、稟あたりにそれを確かめてもらう予定だけど、さっきも言ったような先物取引なんて複雑な取引もちゃんと記帳できる仕組みだから、まず大丈夫だよ」  もちろん、税務に関する役所は多少力を入れなければならないだろうが。徴税吏よりも、監査に入る部署を増やさなければならなくなるだろう。その前に、複式簿記を普及させなければいけないけど。 「それにね、俺は、関税をなくすと言っただけだ。関や街での検査自体をなくすわけじゃない。街道の安全を守る意味でも、関自体は拡充するべきだろう」  関での賄賂の横行をまずなくさねば、これらの前提は崩れるのだが、そのあたりは、まだ先の話だ。 「そうか……物流の流れ自体は監視される。その上で税の流れと矛盾すれば摘発することに……」  じっと考え込む亞莎と対照的に、詠は疑わしげな顔つきで、俺のことを見上げている。 「かなり根幹を変えてしまう話だからなんとも言えない部分もあるけど、それほど流通が発達してくれるかしら。あんたの話って、物品の流通が莫大な量増加してくれないと成り立たないわよ」  実際に試算してみないとわからないが、彼女の言う通り、現在とは比べ物にならないくらいの流通量が増大しなければ成立してくれないだろう。 「その通りだな。まず、必要なのは街道の整備、そして、安全を確保すること。そして、なによりも大事なのは、簡単な取引の方法を提示することだろう。ここで、塩引が出てくる」 「塩引ですかあ?」  なぜかは知らないが、穏の訊ねる声が色っぽい。なにかますます頬にさす朱も強くなってきているし、よほど酔ったのだろうか……。それでもちゃんと話を理解できているあたり、さすがと言える。 「塩引をね、お金として使うんだよ」 「お金?」 「うん。塩ってのは重要な資源であると同時に、常に生産され続けるものでもある。その点、掘り尽くしてしまうかもしれない銅や、絶対的な量が少ない銀とは違う。細かい商売なら銅銭で充分だが、たくさんの銅銭を持ち歩くのは不便だ。逆に、銀は少量で価値を持つけど、これも絶対量が不足するせいで使いづらい。そこで、塩とつながっている塩引を使う」 「塩の価値は間違いなく存在して、しかもほぼ無尽蔵……。さらに、国が専売することで、安定的な保証がなされる。そういうこと?」 「うん、そして、塩引は銀で販売することにする。これで、銀─塩引─塩という連環ができあがり、塩引を紙幣として使う準備が出来る」 「紙幣……」  三人の言葉が揃う。貨幣経済そのものが浸透しきっていない現状では俺の世界のような、兌換性のない信用貨幣は通用しない。なんとかしてなんらかの裏付けのある紙幣を作り出さねばならない。それを解決してくれたのが、塩引の知識だった。 「銅銭より高額な決済手段として、塩という保証を持つ塩引を使い、商業決済を簡便化する。さらに海上流通、西域への流通、色々なものを見据えて開発していく。けして、不可能ではないはずだ」  しばらくの間沈黙が落ちる。おそらく、三人の頭の中ではすさまじい勢いで思考がまわり続けているに違いない。 「いま言えるのはこのあたりまでかな。これから細かいところを詰めて、華琳に見せようと思っている」 「はいはい。どうせボクもつきあわされるんでしょ。わかってるわよ」 「うん、ごめんな、詠」  口ではきついが、それほど嫌そうな顔でも無く、詠がぶーたれるのに一応謝っておく。実際、彼女の手を大幅に借りなければ、試案という形にもならないだろう。 「実現するかどうかは、試算してみないとわかりませんがぁ……。一つ間違いのない利点がありますねぇ。異民族支配にも適用可能なことです〜」  熱っぽい穏の言葉を、亞莎が引き継ぐ。 「呉で言えば、山越に税をかけられることですね。彼らは里人と商売をします。その売買だけに注目すればいいんですから。これまでのように踏み込んで田畑の調査などをする必要がなくなります」 「買い上げに関してはまた考えないとだめですけどね〜」  それから、二人で議論を始めてしまった呉の軍師二人をよそに、詠は一人、何事か考えていたようだが、俺に近づくと、そっと耳打ちしてきた。 「一つ確認したいことがあるわ」 「ん?」 「あんた、これ……この試案、どこまで適用させるつもり?」  その当然の疑問に、俺はしっかりと彼女の目を見据えて答えた。 「もちろん漢土だけじゃない、遥か羅馬まで、大陸全土に」  と。  その晩、呼び出されて玄関まで行くと、そこにいたのはいつも勉強を教えに来てくれる亞莎ではなく、彼女の先輩軍師、穏だった。亞莎は最近では俺の部屋まで直に来るし、わざわざ『軍師様がおいでです』と呼び出されたのは変だと思ったら、そういうことか。 「いらっしゃい。なにか用かな」 「はい〜。一刀さんとお勉強しにきました〜」 「ああ、今日は穏なのか。ありがとう、わざわざ来てもらって」  礼を言いつつ、俺の部屋へと案内する。 「いえいえ〜」  ふわふわとした雰囲気ながら、穏はこれでも冥琳が認めるほどの軍師だ。どれほどのことが学びとれるかわからないが、彼女が教えてくれるというならば、気をひきしめなければなるまいな、と考えていると、なぜか部屋に入った後、閉めた扉の前で立ち尽くしたままの穏。 「どうしたの? えと、こっちに椅子あるけど……」 「一刀さんはぁ、雪蓮様のお体のこと知っていらっしゃいますぅ?」  俺の問いを遮って、穏がもじもじと手を動かしながら訊いてくる。 「体……どこか悪いのか!?」  ざっと音を立てて血の気が引いた気がした。指先が冷たくなり、わなわなと震える。 「いえ〜、そういうことではなくて、です、ね……」  珍しく歯切れ悪く、うつむく穏。その真っ赤に染まった頬から、深刻な話ではないのだと理解が進む。 「あ……もしかして、戦の後とかのこと?」  そう言うと、ぱっと顔があがり、笑顔になる。うん、穏はこうして笑っていてくれるほうがいいな。暗い顔より、よほどかわいらしく見える。 「はい〜、それですぅ。知っていらしたんですねぇ」  安心した、という風に息をつくと、再びもじもじと体をくねらせだす。出るところは出ている上に、どれもド迫力なだけに、くねくねしているとなんだか変な気分になってくる。 「実を言いますとぉ、穏にも同じような体質がありまして」 「ありゃ、穏も血を見ると酔っちゃうのか?」  厄介なものだな。とはいえ、ある程度はしかたないとも言える。生死のやりとりに興奮して、それが別の興奮につながるのは、脳の仕組み上、避けられないとも言えるのだから。  そんなことを考えていると、予想外の単語が俺の耳に飛び込んできた。 「いいえぇ、穏の場合は、血ではなくて、文字です」 「……え? 文字?」 「はい、本を読みますとぉ、知的興奮が、その……性的なものに結びついてしまうというかぁ」  まるでわからないとまではいかないが、しかし、それは軍師として致命的なのではないか?  いや、逆に天与の職か? 「あー、信じてませんねぇ」  じとー、っと睨まれる。その迫力にたじたじだ。 「いや、信じてはいるけど、びっくりしてる」  俺の言葉のどこにひっかかったのか、むすっとした顔になった穏は、指を振り振り、講義でもするように俺に語りかける。 「一刀さん、いいですか。確かに文字は、文字でしかありません。意味するものを読み取れねば、なんの価値もありませんし、文字だけ追っていては、真実は見えてこない時もあります。でも、一刀さん。書の記述の、遥か向こうに見えるものを、理想というんです。私は、それにこそ快楽を覚えるんです!」  なにはなくとも、書に対する情熱だけはよくわかる。これだけ情熱的ならば、そりゃあ、欲情してもおかしくないのかもしれない、と俺はなんとなく思わされてしまった。  でも、待てよ、そうなると、彼女にとって、一緒に本を読むってのは大変な意味を持つんじゃあ……。 「私、ずうぅううっと考えていたんですけどぉ」  視線が熱を帯びる。ねっとりと、絡みつくような視線を、俺は受け止める。 「一刀さんならいいかな、って思いましてぇ」  その言葉に甘い香りをかぎつけない男など存在しないだろう。まるで蜜のように甘く、熱い空気が、この部屋に漂っていた。 「特にこの間の、大陸大経済圏のお話。あれで、確信しましたっ」  ぐっと握り締められる拳。その震える拳が、彼女の秘めた情熱を物語っている。 「ああ、この人は穏に知的快楽を与えてくれるとっ!!」  じりじりと近づいてくる彼女は、まるで獲物を見つけた獣のようだったが、なぜか悪い気はまるでしなかった。 「だからぁ……。一刀さんは、ずっと穏の知的興奮を引き出さなきゃだめなんですよぉ……?」  そう言って膝に乗り、首筋に情熱的に唇を這わせる穏先生の指導の下、今夜の俺たちの勉強会ははじまりを告げるのであった。  呉孫子兵法を読みつつ一戦して驚いたのは、穏が文字通り本を読んで発情することではなく、彼女が処女だったことだ。  どうやら、共に本を読む相手はかなり厳選されていたらしい。そのことに気づいて、俺は猛烈な感動と征服感を覚え、思わずさらなる勉強会の延長を申し出てしまった。  そんなわけで、いま、俺たちは華琳の書いた歴史書を題材に勉強会を続けていた。 「すなわち、余は、この、この時、死を、か、覚悟……うわああっ、一刀さぁんっ」  体ごと卓に任せている穏は下着のはぎ取られた白い尻だけが露わとなり、普段通りの服を着けたままの上半身との対比もあいまって、あまりに煽情的であった。  目の前に突き出された白い尻を持ち上げ、勢い良く俺のものを突き立てる。じゅぴゅ、ぬちゅ、ぐちゅりと彼女の汁と俺のものが絡み合って音を立てる。出し入れする度に湧き出る液体は、すっかり俺の足を濡らしていた。 「違う違う、そこはさっきも読んだよ」  間違えたおしおきに、ぱーんっ、と音を立てて尻を叩く。音だけ大きな平手打ちは、ほとんど痛みを与えないように打っているのだが、彼女にとってはその音とショックだけで大層なものらしく、打つ度に体を震わせ、背を反らす。あるいは、尻をぶたれている屈辱こそが、彼女の情欲を刺激するのかもしれない。  激しく突きたてながら、体を沈め、耳元で囁く。 「ほら、はやく、続きを読んでよ、穏」 「は、はふ、はひぃ。そ、そのとき、北郷は、一人、余のほ、本陣にぃいいいいいぃっ」  声が甲高く跳ね、ぎゅっぎゅっ、と彼女の中が締まる。俺は絞り上げられるような感覚さえ覚えて、思わずうめきを漏らす。 「も、もうだめです、だめですぅ。本読めないですぅ」  言葉通り、ぱたり、と華琳の書いた歴史書を閉じ、さすがに気を遣って卓の端に置く穏。 「あれ、いいの? 穏を気持ちよくしてくれるのは、その本じゃないんだ?」  意地悪な声で囁くと、快楽に崩れた顔をこちらに向けようとひねる穏。半開きになった唇から、たらたらと涎が垂れているのが認められた。 「ちが、違いますぅ。いま、いま、穏を気持ちよくしてくれているのは、かじゅ、一刀さんのおちんぽ、おちんぽですぅ」 「へぇ」  ぐじゅる、と音が鳴るほど強く、彼女の中をえぐる。声にならない声をあげる喉に、痕がつくようわざと強く口づける。 「じゃあ、がんばらないといけないね」 「はふ、はひ、おねが、おねがいしまっ、ふうううううっ」  ぎゅっと尻たぶを握る。割り開かれた秘所から、余計に水音が大きく聞こえてくる。 「この、いや、いやらしい穏に、もっと、もっと、もっととおおおおおおっ」  叫びをあげる唇を、俺のそれでふさぐ。舌をこちらから伸ばすまでもなく、あちらから迎えにきたのを絡めとり、じゅぷじゅぷと唾液を塗りつけ合う。快楽に濡れた瞳が、俺の目の前で揺れる。腰と舌の動きを連動させると、少しおとなしくさせた途端におねだりするように、あちらが吸い上げてくる。  リクエストに応じて急激に出し入れすると、さすがに首をひねるのがつらくなったのか、口を離し、絶叫する。 「一刀さんの、おちんぽ、きもち、きもちひいいいでっすぅっ。ああ、削れる。わらしのおまんこけずれちゃうううっ」  逃げ出すかのように卓に手をかけ、ぎゅっと掴んで、淫猥な言葉を吐き散らす穏。その壮絶なまでの快楽の様子は、俺をさらに駆り立てる。 「気持ちひいですか、穏のおまんこきもひいい?」 「ああ、とても気持ちいいよ。溶けちゃいそうだ」 「ああ、溶けちゃう。溶けちゃひまひょう。二人で、穏と、一刀さんと、おひんぽとおまんこで、溶けて、溶けて、溶け合って……はあふ」  笑みが形作られる。力の抜けたような笑みが、さらに一段深い愉楽を感じさせ、すでに魂が遊離したかのような、彼女は自ら腰を振り、語り続ける。 「ずっと、ずっと想像ひてたんれす。こうして、大好きな、男の、おとこのひとのっ、おちんぽ、ふふ……ああ、一刀、一刀さん、一刀さあああんっ」 「こうして犯されるのを?」  ぐっと尻を押さえ、ばつんばつんと音が鳴るほど叩きつけると、彼女は喉も裂けよと叫んだ。 「そうですぅっ。犯されて、犯し抜かれて、穏の全てをうば、奪われるのおおおおおおおっ。奪って、奪って、全部、穏を、穏をぉおおおおおおっ」  もちろん、俺は彼女のその望みを叶えてやったのだった。 「一刀さん、一つ訊いていいですか」 「ん?」  椅子の上で、彼女を膝の上で抱きかかえながら、睦言を交わす。 「この間の経済圏構想ですけどぉ、あれって、実現するには、すごい力が要りますよ」 「うん、わかっている」 「華琳さんだって実現できるかどうかわからないですよぉ?」  今度は、しばらく間を置いて答える。 「うん、そうだな」 「それでも……?」  それでも、だ、と俺は言う。 「うん。軍事的な力も、政治的な力も必要だろう。それでも、俺は、あれが必要になると、そう思っているよ」  ぎゅっと彼女を抱きしめながら、決意を込めて囁く。 「そして、必要なら、成し遂げて見せる」 「一刀さんは、本当に、覇王と共に立つ人なんですねぇ」 「なに、それ」 「いつか、わかる日がきますよ、いつか……ね」  そう言うと、穏は甘えるように俺の首筋にキスを繰り返し、再び俺たちは戯れ合いに戻っていくのだった。                         (第二部第八回・終 第九回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○小孫家の項抜粋 『小孫家は、孫呉の三姉妹の末妹、孫尚香にはじまる皇家である。  三孫家は、代を重ねても結束は強かったものの、呉公を世襲する孫世家、北郷朝の国政に参与するのに積極的な孫高家、南方海域進出に意欲を燃やす小孫家とそれぞれに指向する方向性は違いを見せた。  夷州への入植船団こそ三孫家合同のものであったが、小孫家はこれを足掛かりにさらに南方への探検航海を繰り返す。様々な諸島、群島を発見し、それでも飽き足らず、彼らはついに赤道を越え、巨大な大地を目にした。  奇妙なフクロをもった動物たちが闊歩するその大地を瀛州(えいしゅう)と名付けた小孫家は、多数の土着部族の人々を吸収しつつ、大陸全土を支配下に治め、国号を瀛州として建国した。  瀛州は、後に周囲の諸島もあわせて領有し、帝国十本指に数えられる主要国家、瀛州帝国となる。ちなみに、瀛州とは古代の伝説にいう、東方に浮かぶ三神山の一つである。  その成立過程で言語も異なる部族を次々と吸収していったため、現在でも、瀛州では多数の言語が混在し、言語学者らは素晴らしき豊穣な言語世界、とこれを称賛する。ただし、これは、歴史上教育政策の妨げとなり、経済流通にも支障をきたすため、初期の頃から、人工言語シャオ=リンが公用語として通用し……(略)……  もう一つ小孫家を有名にしてしまったのは、瀛州に持ち込んだ動物による生態系汚染であろう。  瀛州は他の大陸と海で遠く隔たっていたため、独自の生態系が築き上げられていた。つまり、有胎盤類の代わりに有袋類が数多く存在していたのであった。  ここに、入植船団により、いくつかの動植物が持ち込まれ、その中で、この大地に適応して、大繁殖を遂げてしまったものがある。  大熊猫である。  本来の棲息地では、常に豊富に手に入る竹の類を食べていた大熊猫たちは、瀛州に適応する中で肉食中心の雑食性に回帰した。(竹を主食とする場合でも、まれには小型哺乳類、昆虫、魚、果物類を食べる雑食性であった)  主な獲物は、ユーカリを食すコモリグマ(別名フクログマ)であった。動きが鈍く、元来天敵を持たなかった彼らは簡単に捕食され、その個体数を激減させる結果となった。  これに対して小孫家は大熊猫たちの捕獲、保護区への移動などの対策をとったが、その数の増加はなかなか止めることが出来ず、最終的にはその捕食対象であるコモリグマとの間で平衡状態が構築されるのを待つしかなかった。  後には、元々の生息地域で急激に数を減らした大熊猫類の保護のため、瀛州大熊猫が千年近くを経て里帰りするという事態も……(後略)』