いけいけぼくらの北郷帝  第二部『望郷』編 第七回  事件の処理は、手早く静かに行われた。  現場を確保した後、死体を大使館の中庭に運び入れ、穏がそれを検分して回る。その間に亞莎は護衛と共に王宮に帰されていた。この件は概要が知れるまでは公にすべきではない、と呉の側も俺たち魏の側も了解していた。 「どうかしら、穏」 「はい。所有物──縄ですけどぉ、これの特徴からみまして、江賊の一味かと。そうでなくとも水の民であることは間違いありません」  かがり火が焚かれた夜の中庭。俺たちは穏の言葉を、息をひそめて聞いている。といっても、ここにいるのは俺と真桜と華雄、それに雪蓮と穏だ。月と詠は亞莎について今晩は王宮で過ごしてもらうことにして、恋には派遣されてきた呉の兵とうちの兵をあわせて率いてもらい、大使館周辺の見回りを頼んでいた。 「そう。じゃあ、思春を呼ぶべきね。いいかしら、真桜」 「ああ、もちろんや」  王宮に使いが走り、密かに甘寧が呼ばれる。呼び出された彼女は、穏から事件のあらましを説明されながら中庭に現れた。 「亞莎が傷つけられたとは、驚きだな」 「そうなんですよー。亞莎ちゃん、夜のほうが動きいいですからねー」 「あれは眼が悪いから、昼間よりも……ふむ、賊はここか」  彼女は上にかけられた布を持ち上げ、賊の死体の顔を覗き込んで、なにか驚いたような表情を浮かべた。 「江賊らしいのよ。どこの出身かわかれば、多少は……」  雪蓮の言葉に甘寧は立ち上がる。あれ、もういいのかな。彼女は振り返ると、静かに感情を抑えた声を放った。 「いえ、詳しい検視をするまでもありません。こやつらは、私の元部下です」  誰かが息を飲む声が聞こえる。それは、もしかしたら、俺自身が立てた音だったかも知れない。 「……江賊時代の?」 「はい。江賊が大挙して呉に降った折、幾種類かの人間は降ることを肯んじませんでした。故郷の農村や漁村に戻る者、山越の集団に入る者、そして、あくまでも江賊を続ける者。こやつらはその最後の集団でした」 「あなたが降ってもなお、ということは」  甘寧は一瞬悔しそうに顔を歪める。それは、後悔だったのか。その頃の情勢も詳しく知らない俺にはわからない。 「ええ、手練です。亞莎を傷つけたというのもわかります」 「そう」  静かに頷く雪蓮。彼女は腰から南海覇王──の贋物だが、そのことは俺と彼女だけの秘密だ──を抜くと、鞘ごと甘寧に手渡した。 「……わかっているわね、思春」  押し戴くように両の手で受け取る甘寧。 「南海覇王が手向けとは、なんとありがたい」  すらり、と抜き放ち、鞘を雪蓮の手に戻す。だめだ、このままでは……。眼前に展開されるであろう血塗られた未来図を思い浮かべ、心が警鐘を鳴り響かせる。 「蓮華様には思春が謝っていたとお伝えいただければ」 「ええ、もちろんよ」  刃が持ち上がり首に向かったところで、ようやく体が動いてくれた。 「雪蓮」 「止めても無駄よ、一刀」  鋭く俺を咎めるような言葉にも、どこか疲れが見える。 「これは、呉の定めなの」  雪蓮の言うこともわかる。呉は豪族連合だ。その中で諍いが起きれば、迅速な解決が求められる。  もちろん、雪蓮とて、甘寧が手引きをして亞莎を襲わせたなどということはありえないことは承知している。しかし、そう勘繰る者が出てくれば、疑心暗鬼が吹き荒れて、呉は割れかねない。  内乱を起こすような危険は、ほんの少しであろうと、排除せねばならない。たとえ、それが無実であろうとも。あるいはそうであるからこそ、彼女は死なねばならない。  だが──。 「残念だけど雪蓮。ここは、呉の領土じゃない」  俺の意を受けて、華雄が甘寧の後ろに立つ。音も立てず背後を取った彼女に気づいて、甘寧は諦めたように息をついた。見れば、肘をがっちりと握られて、あれでは首をかききることは出来ないだろう。 「……そういえば、そうだったかしら」  その言葉に、少しほっとしたような色はなかったろうか。 「それに、一人逃げた。そいつを捕まえるのが先だろう」  顔をしかめて何事か考えている雪蓮に、さらに言い募る。 「呉にとって悪いようにはしない」 「……わかったわ。でも、一刀」  諦めたように息をつき、甘寧に近づく。華雄が少し手をゆるめると、しびれたのか甘寧の腕から剣が抜け落ちた。それを器用に受け止め、鞘に収める雪蓮。 「わかってる。そちらはそちらでやるべきことはやるというんだろう」 「ええ」  こちらの思惑を探るように覗き込んでくる雪蓮の視線を真っ直ぐ受け止める。実際のところ、どれだけのことが出来るかはわからない。ただ、ここで甘寧という優秀な才を失うわけにはいかないことは承知していた。 「それは止められない。だが、俺は俺で動く」 「ええ。お願いするわ」  剣を腰に戻しながら、彼女は目の前でがっくりと倒れ伏すようにしている甘寧を見下ろす。 「思春」 「はっ」  名を呼ばれて、膝を立て、臣下の礼を取る甘寧。雪蓮はしばらく彼女の姿を見つめていたが、悲しそうに呟いた。 「あなたの名、しばらくは汚れるわよ」 「命も名も呉にとうに捧げた身ならば、いかようにも」 「そ。ありがと」  その後は、一切甘寧も、賊たちの死体も見ようともせず振り返ってつかつかと歩きだす。 「さ、帰りましょ、穏」 「あ、はい、えと……」  戸惑いながら、雪蓮、俺、甘寧、真桜と順に見て、なにか得心がいったのか、にぱっと笑う穏。 「思春ちゃんを頼みますねえ〜」  そんな呑気な声に苦笑を浮かべる雪蓮だったが、スレ違いざま、松明の炎の照り返しの中で俺はたしかに見た。声を出さずに『ありがとう』と彼女の唇が動くのを。  数日すると、建業の町は、『甘寧が呉を出奔した』という噂でもちきりだった。  本人にとっては屈辱の極みだろうが、いまは耐えてもらうしかない。それに、これは、雪蓮から俺たちへのメッセージでもある。生き残りの襲撃犯を捕まえ、元部下の不始末を己で収拾した、とすれば甘寧を再び呉へ迎え入れることが出来る。  もちろん、捕まえられなければ甘寧の汚名は晴れず、彼女は本当に呉から出て行かなければならなくなるだろう。  それでも、甘寧を早々に死に追いやる必要はなくなった。  呉の王として、ぎりぎりの判断をしてくれたものだと思う。  俺たちは、それを受けて、今後どうするかの話し合いを持っていた。 「それにしても時機が悪い」  顔をつきあわせて語り合う。 「蓮華が髪を切ったのが……ええと、襲撃の三日前だったっけ? 次期国王が、なにか覚悟を見せるようなことをした途端、軍師が次期国王の腹心である思春の元部下に襲われる。偶然だけど、偶然とみてもらえるかどうか……ね」  メイド姿の詠が、腕を組んで考え込む。月は、皆に茶を注いで回っていた。  早速口にすると、口の中全体に、豊かな芳香が広がり、鼻に抜けていく。月の淹れるお茶は、本当においしい。 「全部、蓮華はんが自分の基盤を強めるためやらせたちゅうことになってまうってわけか」 「蓮華様はそのようなことはなさらない! そもそも亞莎が死ねば呉は弱体化するではないか」  甘寧がすさまじい気迫で叫ぶ。真桜がひゃっ、と首をすくめるほどだ。  それでも、こうして感情を見せくれるようになったのは大きな進歩だ。事件後二日間は、鬼気せまる表情で、賊の手がかりとなりそうな場所や人物を俺たちに示す以外、一言も喋ろうとしなかったからな。 「わかってるってば。中枢にいる人間は誰もそんなこと思わないわ。ただ、世の中、そういう理屈だけじゃ動かないってのもわかるでしょ?」 「それは……しかし……」 「実際、なにかの動きをしようと画策するやつらが出てくる可能性はある。それを憂いてだろうけど、孫権さんは、昨日から自主的に蟄居しているそうだ」  これは、昨晩、亞莎が教えてくれたことだ。あんなことがあったというのに、亞莎は毎晩のように訪ねてきてくれている。襲撃を受けたくらいで予定を変えれば、それこそ相手に屈したことになる。それが亞莎本人の意志でもあり、呉の総意でもある、とまで言われては反対するわけにもいかない。しかし、行き帰りに護衛をつけることは許してもらった。大使館に来る時は王宮の兵が、帰りは華雄か恋が送っていく、というのが常態化しつつある。 「蓮華様が……私のせいで……」  見事に落ち込む甘寧。ぎりぎりと握りしめた拳から血が退いて白くなっている。 「思春さんのせいではないですよ。そんなに気にしては……」  月がなんとか慰めようとする。たしかに彼女のせいではないが、かといって気にするなといっても無理だろうことも間違いない。なかなか難しいところだった。そんな二人の前に、ぼすんとなにかの包みを置く詠。 「そんな落ち込んでる暇は無いわよ。これ、着替えね」  不思議そうに包みを受け取って、中身を確かめた甘寧が素っ頓狂な声をあげる。 「な、なんだこれは」  彼女が取り出したのは、黒いワンピースに、白のエプロン。非常に古典的でかっちりとした、作業着としてのメイド服の構成要素だ。もちろん、しっとりと抑えてあるが、細かいところにはフリルやリボンがさりげなくあしらわれている。  うん、特急で仕上げてもらったにしては良く出来ているな。 「なんの冗談だ!?」  思春の魂切るような叫びに、真桜は同情を込めて溜め息をつく。 「冗談やったらよかったんやけどなあ」 「メイド服っていうんだって。ボクたちが着てるのとちょっと違うけど、背も違うし、こっちのほうが似合いそうよね。こいつの感性とか才能って女相手だけは鋭いのよね」  なんか無茶苦茶言われていますが、女性に似合った服を着てもらいたいというのは、皆の願いだと思う。 「ちょっと待て。なぜ私がそのような」 「この眼鏡も……。これは、度が入っていませんから……」  細いフレームの黒の眼鏡を取り出す月。 「いや、だからだな」  まるで話についていけていない甘寧に、詠が諭すように話し始める。 「あのね、あんたは、ここにはいないの。しばらくは呉のどこにもいちゃいけない」 「それは……わかるが……」 「違う服を着るのはその象徴です。一目でわかるとは思うんですけど……」 「もちろん、茶番よ。でも、そういう茶番や建前で押し通さないといけないのよ。それくらいはわかるでしょ?」  月と詠の立場を思い出したのだろう。甘寧の顔に理解の色が表れる。だが、その後ですぐに、彼女は眉根をぎゅっと寄せた。 「それは……理屈だが……なぜ、こんな格好を……」 「たいちょの趣味」  真桜の言葉に、ぎん、と睨みつけられる。いや、甘寧さん、あなたが殺気を発すると本気で怖いのですが。 「ちゅうても、趣味が三分、おせっかいが七分ってとこやろな」  にやにやと笑って言う真桜。たしかに、気が紛れればいいな、とは思ったけどな。  殺気を発し続ける甘寧を気にした風もなく、メイドの先輩であり、俺の下で身を隠す先達でもある詠は話を続ける。 「これを好機と思えばいいじゃない」 「好機だと? 一体、なんのだ」 「こいつを観察する好機よ」  びしっと指を差される。人をなにか珍獣のように言うのはやめてほしい。 「あんたと蓮華は、こいつを敵視しているんでしょう?」 「うむ、そうだな、助けられておいて言うのもなんだが、蓮華様はこやつが呉にとって害になると考えておられる」 「まあ、国家中枢の人員を蚕食されたら、その危機感を抱くのはわからないでもないけど」 「ただ……初期はたしかに危機感であったと思うのだが……いまは……」  言いにくそうに口籠もるのを、真桜が引き取って続ける。 「意地になっとる部分もあるやろな。まさか雪蓮はんまで毒牙にかかるとは思いもせんかったやろし」 「毒牙って、真桜」  さすがに口を挟む。雪蓮に関しては、こっちも死にかけたんだけどな。 「毒みたいなもんやん。北郷一刀中毒症?」  お互いに中毒だと言われればそんなものかな、と思わなくもない。無くてはならない存在同士になったという意味では正しいわけだし。 「ともかく、蓮華はこいつを敵視している。あんたはしばらくはここからは出られない。といって大使館の仕事をさせるわけにもいかないし、部屋に閉じこもっているか、こいつの側にいるかしかない。だったら、ちょうどいいから、こいつを観察して弱みでもなんでも握ればいいでしょ、ってこと」  詠の好機という言葉をようやく理解した甘寧が呆れたように俺と詠を見比べる。 「……お前、こいつの部下ではないのか」 「さあ、どうだったかしら?」  その悪戯っぽい態度に、ふふ、と小さく笑う声があった。そちらを向いてみれば、月が本当に愉しそうに笑っていた。 「詠ちゃんたら、ご主人様のこと、とても信頼してるんだね」 「ゆ、月、いきなりなに言い出すの!?」 「だって、そうでしょう? 思春さんが側で見ていたってご主人様に特に不利になることはないとわかってるから、そうして……」 「あー、もう、とにかく、ほら、着替えるわよ。月も手伝って」  ぐいぐいと甘寧の背を押し始める詠。それに抗議の声をあげつつ、まさか詠に力で対抗するわけもいかず、ずるずると押し出されるままに次の間に連れて行かれる甘寧。そんな二人の後を、月が相変わらず微笑みを浮かべたままついていくのだった。  甘寧が次の間でどたばた──女性というのは着替えになぜ、あんなに騒ぐのだろう──している間に華雄が戻ってきた。彼女には、恋と共にうちの兵を率いて建業の町を回ってもらっていたのだ。  同じ卓につき、疲れたように息をつく彼女に茶を淹れてやる。月ほどにはうまくなくとも、それなりに美味しく淹れられたはずだ。 「だめだな」 「収穫はあらへんか」 「うむ。恋には早馬を護衛がてら、街の外まで見て回ってもらっているが……。難しかろうな」  恋が護衛している早馬には、洛陽の華琳たちにあてた俺の書簡を任せてある。大使権限の特急便を使っているから、洛陽へも一週間程度で着くだろう。すでに事件の概要については華琳と祭、冥琳に文を送ってあるが、今回の書簡には真桜と詠の意見なども含めて、現時点での総合的な判断を書いてある。洛陽で調べてもらえることで、もしかしたら解決の糸口を得られるかも知れないからな。  そうこうしているうちに、扉が開き、次の間から、甘寧たちが出てくる。  その着こなしの優雅さに、一瞬声を失う。  髪をほどき、伊達眼鏡をかけた甘寧の着る黒基調の古典的メイド服は、しとやかさの中に鋭さが加わり、まさに機能美という言葉を体現しているかのようだった。 「綺麗だ」  思わず立ち上がり、素の感想を漏らしてしまう。その俺の言葉に甘寧の顔が真っ赤に染まった。 「くっ」  なぜか、首の横に冷たい金属があるように感じる。これは気のせいでしょうか、甘寧さん。いや、華雄さん、あなたの主の危機のはずなんですが、くつくつと笑っているのはなぜですか。 「思春さん、その格好で剣なんか出してはいけませんよ」  ゆったりとした月の指摘になぜかおとなしく剣を下ろす甘寧。ふん、と一つ鼻を鳴らして、先程までの席につく。詠と月も苦笑しながら、二人、席に戻った。 「た、帯剣は許してもらうぞ」 「ああ、もちろんや。せやけど、出来れば目立たない形で持っていてもろたら助かるわ」 「……しかたなかろう」  不承不承という風に頷く甘寧を見届けて、俺も座り直す。 「さて、早速で悪いけど、本題に入ろう。ここ数日、華雄と恋に建業と周辺を見回ってもらったわけだけど、不審者を見つけることは今日も出来なかったようだ。もちろん、雪蓮たちのほうでも探索は続けてるだろうし、それは今後も続くと思う」 「地の利も数も足りないボクたちじゃあ、これ以上は無理があるわね」 「うん、だから、そういう手法とは違う取り組み方が必要となる。今日は今後の行動指針を話し合おうと思ってね」  真桜が手を挙げ、俺が話を進めようとするのを遮る。 「ちょい待ち。具体的な行動の話の前に、まず、ここ数日はちょっとおざなりにしてもうた大使館の仕事のほうやけど、これはしばらくはうちがやりくりすることでええやろか。それ次第で割ける人手も変わってくるやろ」  もっともな指摘に少し恐縮しながら答える。 「うん、真桜がよければ頼めるかな。俺の勝手な行動で迷惑を……」 「いやいや、たいちょ、それはちゃうで。亞莎はんは大使館を出てすぐ襲われた。ちゅうことはうちらの責任が無いとは言い切れへん。それに、呉の問題解決に協力するんは、魏の大使としても真っ当な職務のうちや」  それにそろそろ一人で切り盛りする練習もしとかんとならんやろ、と真桜は締めくくった。たしかに、俺は真桜より任期が短いし、彼女一人で大使館を指揮運営していかなければならない時期は近づいている。 「真桜も言うようになったわね。うかうかしてられないわね、ご・主・人・さ・ま?」  にやりと笑み崩れて詠が真桜を褒めつつ、俺に呼びかける。ああ、なんて敬意の籠もっていない呼びかけだろう。しかし、詠の言う通り、真桜がこれだけしっかりと仕事上の判断をしてくれるというのは素晴らしい成長で、嬉しくも、誇らしくも思う。  その裏で、ちらりと、いつか詠に本気でご主人様と呼んでもらえる日が来るだろうか、とも考えていた。そうなれるよう、一歩一歩進んでいかねばなるまい。 「ただ、思春の存在に関しては、真桜はじめ大使館の大半の人間は知らなかった、ということにしておくべきね」 「せやなー。そこらへんは、たいちょに負ってもらわんといかんようになってまうか……」 「もちろん、それは俺が引き受けるよ。元々俺が甘寧さんを……」 「思春だ」  ずばり、と切り込まれるように言葉が発せられる。俺以外の人間は一斉に黙りこくり、俺と彼女を注視しているのがわかる。 「え?」 「思春だ。私の真名だ。甘寧はいま呉にはいないのだろう。ならば、ここで甘寧と呼ぶのはおかしな話だ」 「でも……いいの?」  ついさっきも敵対してるとか危機感を持っているとか言っていたような気がするけれど。だが、俺の訝しげな視線に、彼女は厭味の無い笑みを浮かべる。 「命を救われた相手に、真名を惜しむほど高慢ではない。素直に受け取っておけ」 「そうか……ん、わかった。預ける真名が無くてすまない」  断れば、この誇り高い女性を侮辱することになる。いかに俺とて、そこまで愚かなことは出来ない。喜んで思春の申し出を受け入れることにした。思春は俺の謝罪には手を振って答え、そのまま視線を彼女の右側に座る華雄に向ける。 「救われたといえば、お前にも救われたのだったか、華雄」 「元々、そちらが構えなければよかっただけの話だがな。だが、くれるというなら遠慮無くもらうぞ。私の真名については、後でな」 「ああ」  事情を穏あたりから聞いているのか、これも祭が連絡してくれていたのか。そのあたりはわからないが、思春も華雄のことをわかってくれているようだった。 「話を戻しましょう。前提として、いざとなった場合を除いて、大使館の大半の人間は、今回の件には関われない。つまり、ここにいるボクたちと恋が主な戦力ってわけね。元々人手も無いし、ここは理詰めである程度見当をつけて、それをみんなで動いて実現するしかないでしょう」  詠の言葉に一同が頷く。数でしらみ潰しに調べたり、街ごとに検問をしいたりというのは雪蓮たちに任せるしかない。 「じゃあ、最初から考え直してみましょう。まず、亞莎が八人の賊に襲われた。賊は、一体誰を襲ったのか」  月がかわいらしく小首をかしげる。 「亞莎さんを、じゃないの?」 「月だって、いろんな立場があったでしょ、太守とか、反董卓連合の仇敵とか」 「あ、そういうことかぁ」  月の、詠だけに見せる気安い反応はとてもかわいいな。たぶん、これは、長い長い時間を共に過ごした幼なじみだからこそなんだろう。 「亞莎を狙ったのか、呉の軍師を狙ったのか、大使館から出てきた人間を狙ったのか。大まかに言ってこの三つだと思うわ」  指折り数えて見せる詠が、俺たちの顔を見渡す。意見がある者がいないようなので、彼女は話を続ける。 「亞莎本人に対してだとすると、私怨となってボクたちには見当がつかない。これについては本人に訊いてみたら手っとり早いだろうから、とりあえず保留。次に呉の軍師を、というのは江賊対策や、政策絡みね。このあたり、なにかある?」 「む……。そうだな、亞莎は若い。公瑾殿の次、あるいはさらに次の世代を担うのは、やはり亞莎だろう。呉を弱体化させたいなら、いまのうちに始末しておくべき、と考える敵対勢力があってもおかしくはない。ないが、いまそのようなことを考え、手練を雇って実行できるとなると……。」  自分に訊ねられているとわかったのか、思春が伊達眼鏡をいじりながら答える。きっと、まだかけ慣れていないので、位置や力の入り具合が気になってしかたないのだろう。 「正直、魏は無いだろう。華琳殿は、暗殺などするよりは、強い敵が出てくるのを歓迎する性質だろうからな。といって蜀というのも考えにくい。荊州で利害対立はあるが、建業で江賊を雇って、というのは……な」 「せやなあ、大将がそんなことするとは思えん上に、その手の重大事、うちらが知らされてないってことはありえても、たいちょが知らんっていうのはありえへん。もし知っとったら、洛陽に取って返して大将の頬張ってでも止めるよな人やし」 「おいおい」  いくら俺でも、そんなことは……するかもなあ。華琳が現状で、暗殺などという手段を許可するとは思えないが、もしなにかの間違いでそんなことが起きたなら、諫めるのが俺の役目であることは自覚している。  いずれにせよ、魏、蜀という二つの勢力が呉の軍師を狙うなら、もっと徹底的にやるはずだ。たとえば冥琳、穏、亞莎を同時に狙うとか。完全に潰す気でやらない限り、呉の敵愾心を煽るだけの結果になって逆効果だ。そんな愚策を、どちらの国も取るとは思えない。  そもそも、呉を敵とする勢力というのがどれほどいるだろう。別の世界の歴史を知っている俺からすれば、江東、江南の生産力は脅威だが、この時代の人間にその感覚はありえない。せいぜい、長江下流域の洪水さえ御せれば発展可能性があるかも知れない、というくらいだろう。北も西も抑えられている蜀などからすれば、その潜在的な発展性は羨むべきものかも知れないが、それ以上のものでもないだろう。 「山越や江賊そのものが恨みに思って、という可能性は?」  華雄がもっともなことを指摘する。 「そうまでして呉に敵対するほどの勢力……残っとるん?」  江賊や山越といった、呉内部の賊たちは、賊、といっても数万からなる一大勢力を保っているところもあるから油断は出来ない。とはいえ、おおっぴらに敵対するとなると、また話は変わってくる。 「無いだろう……。それに、山越や江賊の対策では、亞莎は比較的寛容な立場だ。目をつけられるとは……」  華雄の指摘を受けて発せられた真桜の疑問に、思春が首を横に振る。 「でも、調べてはみませんと……」 「そうね、それについては、ボクが探ってみるわ。水面下で蠢動してるやつらがいないとも限らないし、情勢調査はこの事件に限らず必要だからね」  他に、なにか心当たりは無い? と話を振ってみる詠だが、皆、首を振る。俺も考えてはいるのだが、思いつかない。 「じゃあ、三つ目の可能性にいきましょうか」 「大使館絡みの襲撃やって可能性やな。それやと色々面倒やなあ」 「面倒だけど、理由無くその可能性を潰すわけにはいかないわね。それで訊きたいんだけど」  くい、と眼鏡をあげる。反射で瞳が見えなくなると、途端に表情がわからなくなる。これは、詠自身効果をわかってやっている行動なのが、無意識なのか。どちらにせよ、謀士賈駆の名を思い出す瞬間だ。 「蓮華は、闇討ちを演出してでも、大使を排斥するなんてことは考えてた?」 「莫迦な。そんなことあるわけがなかろう」  苛ついたように答える思春。それでも激昂しないあたり、詠がわかっていてあえて訊いているのだと承知しているのだろう。 「そう、じゃあ、これで大使館絡みで狙われる理由の一つが消えたわね。もちろん、大使排斥派を蓮華が掌握しているって前提で、だけど」 「他にもあるのか?」 「そりゃあ、あるわよ。蜀、朝廷。この二つは確実に考えなきゃいけないわね。なにしろ、目下、大使館には、こいつがいるんだから」  詠の視線が俺を向く。 「厄介なものだな」  素直な感想を口にする。この世の中で誰一人敵に回さないなんてことは無理だし、なにより、大事な人達を守るためならば、誰であろうと敵する覚悟はあるが、あまりにしつこい相手には辟易するというものだ。 「名をあげるというのはそういうことだ。味方が増えれば、敵も増える」 「わかってはいるけどね」  思春がつまらなさそうに呟く。現時点では俺が彼女を匿っている立場だが、彼女も政治的には俺と対立しているんだよな。ただ、朝廷のように命を狙ってくる相手とは違い、話し合うことは出来るので、いずれは分かり合えるだろうという希望もある。 「ボクたちを保護下に入れたことで、蜀を敵に回したも同然だからね。朝廷はもはや言わずもがな」 「ただなあ、たいちょが邪魔やからって蜀がそんな真似しとる暇あるんかいな? もし、それで成功しても、ますます詠や月が離れてもうて、涼州へ食い込むのが面倒なるやろ」 「秋蘭あたりもなにも言ってきていないしね。……無いわよね?」  探るような視線を向けられて、秋蘭や華琳、それに稟からの書簡を順に思い出す。 「蜀もなにか動いてはいるようだけど、周辺の異民族対策のほうが忙しいみたいだよ。南蛮と同じく取り込めれば力になるし、交易路も開けるから、頑張ってるみたい」 「へぅ、そうなんですか。美以ちゃんみたいな人達が他にもいるんでしょうか」 「どうかなあ……」  まさか、猫耳部族がそんなにいるとも思えないが。犬耳とか、狐耳とか出てこないだろうな。 「可能性は低いだろうが、蜀から入り込んでいる間者は幾人か知っている。そちらの網にもかかっているだろう。そこから探ってみればいい」  蜀が呉を敵に回そうとする可能性は、先も考察した通り、低いと見ていい。しかし、魏に対しては、また別だ。さらには、董卓と賈駆という涼州に顔の利く二人を抱えている俺の存在もある。呉に敵対するという話より、蜀が呉を巻き込みつつ魏を貶めるという可能性のほうがほんの少しだけ高い。 「まあ、探るだけは探ってみんとな」 「そのあたりの分担は、朝廷との絡みもあるから、後にしましょうか。朝廷は正直、なにをやってきていてもおかしくはないと思うわ」 「ご主人様、お命を狙われたりしたのですよね」  ずいぶん前のことのようにも思うが、あの暗殺未遂から、数ヶ月しか経っていない。朝廷が、俺やその周囲への暗殺を諦めてはいない可能性もある。 「ああ、明命に助けてもらった」 「そのあたりの絡みで呉へ逆恨み……という線もあるか?」 「呉がこやつの協力者と受け取られているということか?」  華雄の言葉に、心外だとでも言うように顔をしかめる思春。正直、俺の騒動に巻き込まれるのは勘弁してほしいだろう。俺自身だってそう思う。 「そういう可能性もあるだろう。もちろん、明命は相手が誰でも、身近で暗殺者に襲われるような者がいれば当然のように守るだろうが、朝廷にそれはわかるまい」  思春はそれを聞いてしばらくうつむいて考えていたようだったが、顔をあげると、その拍子にずれた眼鏡を直しながら口を開いた。 「改めて訊くが……」  少し躊躇って、彼女は続ける。 「私は呉の臣だが、同時に朝臣のはしくれだ。朝廷をそこまでひどいものだと思いたくはない。しかし、実態はお前たちのほうが詳しいだろう。実際、いまの朝廷というのは、そんなにひどいものなのか?」  ぐるりと顔を見回される。 「あー、うちはちょっと」 「俺も偏見が強そうだから、詠、頼む」  自分に回ってくるのは予想済みだったのか、詠は特に文句も言わず、一つ肩をすくめる。 「ひどい、というよりは……そうね、怯えてる、というほうが近いでしょうね」 「怯えているだと?」  思春が驚きの声をあげる。怯えているという表現には、俺も少々驚きだ。どちらかというと、被害妄想気味だと思うのだけどな。 「朝廷……要するに帝を中心とした権力中枢は、建国当初、それこそ光武帝の時代なんかは、名と実を伴うものだった。けれど、外戚や宦官にその実を徐々に奪われ、ついに豪族がその大半を奪い去った。ここまではいいわよね?」 「ああ、まあ……そう言われればそうだろうな」 「でも、その中でも、帝とその側近という本当に狭い範囲の人々──これも、宦官を含んだり、時によって様々だけど──は、官位への任命権と、詔勅を切り札に周囲の豪族や外戚、宦官たちを操り続けてきた。……少なくとも当人たちはそのつもりだった」  詠は話が皆の頭に入るのを待つためか、喋り疲れたのか、ゆっくりと茶を飲んだあとで、続ける。 「けれど、ついに彼らは操れない存在を前にしてしまったのよ。それが、曹操と北郷一刀。どちらも官位には目もくれないばかりか、片方は天の御遣いなんて名乗ってる。さらには、唯一残っていた手駒の宦官まで全員追放される始末」  華琳もたしかに官位には興味を持っていない。もらえるものはもらっておけ、と官についてはいるものの、朝廷が意図するように、それをありがたがったりはしない。たとえどんな官位であろうと、曹孟徳という名前そのものに勝てはしないのだから。 「しかも、曹操をはじめとした魏の面々こそが、現状では朝廷の実権を握っている。排除したくても、それに抵抗できるような勢力は無い。任官権も、詔勅も通用しないのよ。どうしていいかわからず、怯えるのも道理でしょ」 「む、むぅ……」  詠の言葉に、思春は唸り、真桜たちは深く頷いていた。 「たいちょや華琳様を敵としろ、なんて勅を出しても無視されるのがオチやろからなあ……」 「そうですよね。どちらを攻撃するにしろ、この大陸を手中に収めた曹魏を相手にしなきゃいけない……。私たちのときのように連合を作る余地もいまは無いでしょうし……」  反董卓連合の時は、参加する群雄に義は無くとも利があり、月たちも帝を擁するとはいえ、力も不十分だった。果たして、いま、同じように反曹操連合が出来たとして、それが成功すると踏んで参加しようと思えるものがどれだけいることか。そもそも、戦乱の世がやっと終わったというのに二年も経たずに平地に乱を起こすのでは、民が離反しかねない。 「ボクたちを引き入れた宦官どもにしてもそうだったけど、ああいったやんごとない人々というのは、自分たちではできる限りなにもしようとせず、外の勢力や人間を操って使おうとするわ。逆に言えば、自分ではなにも出来ないってことでもある。彼らは任官の印璽一つで操れたはずの手駒を失い、他にその候補もなさそうだと気づいた時、途方にくれてしまったのよ」  ふん、と詠は鼻を鳴らしつつ、少し笑った。いい気味、とまでは言わずとも、朝廷のやり方を快くは思ってはいなかったのだろう。実際、月たちは使い捨てにされてしまったも同然だからな。 「はっきり言えばね、華琳はある程度までの勝手は許していたはずなの。いまだに漢室──劉姓の威光はあるし、大陸を統治するのに便利なことは間違いないから。でも、朝廷の人々は、閉塞感に耐えかねて、謀略という手段を取ってしまった」 「それで、暗殺、か」  疲れたように思春が眼鏡を外す。慣れていないからか、気になるのだろう。眼鏡のツルと耳あてを何度もいじっている。 「だから、そうね。問いに答えるとすれば、自分たちの力量を評価できず、謀略という手段しか取れなくなっているほどにはひどいわ」 「朝廷は北郷一刀という人間を暗殺することに一度は失敗したが、いまだに排除する企みを進行させている、ということなのか?」  迷惑な話だ。思春がまとめた言葉を改めて聞いて、嘆息する。 「失敗は一度ではない。明命が切り捨てた後、三人を我らが始末している」 「おそらくは、実際の命を狙うことも、政治的生命を狙うことも考えているはずよ。その工作の一つが今回の襲撃に関わってる可能性は、軽々には捨てられないわ」  真桜が、うーん、と一声唸る。 「亞莎はんを傷つけて、その責任をたいちょに押しつけるっちゅうことか」 「亞莎を勉強のために呼んでいたのは俺だしな、ありえない話ではないだろうね」 「ただ、そのあたりをかぎつけるには洛陽は遠いし……確実ではないけどね。蜀と朝廷の線は、こっちの情報網にあたるのが一番だと思うけど」 「そうだな、じゃあ、それは俺が……」 「だめ」 「あかん」  即座に否定される。しかも、真桜と詠と両方からだ。二人は顔を見合わせて、結局詠が口を開いた。 「あんたは直に関わったらだめ。あんまり高い地位の人間が関わると、情報網を構成する人間の安全が脅かされかねないわ」 「そ、そういうものか」  情報網、とぼかして言っているが、要するに間諜の組織だ。魏も、呉も、蜀も、それぞれにお互いに間諜を入れている。そういう意味ではお互いさまだし、戦時でもない現在は、熾烈な情報戦など考えられないことだが、やはりおおっぴらにすることでもない。現に、思春はどこかあらぬ方を見やって聞こえないふりをしてくれている。  高い地位──俺がそれにあたるかどうかは別として──の者があまり関わるな、というのもその秘匿性からだろう。言われてみれば、大使と頻繁に会合していたら、怪しまれるかもな。 「そうね、これは、華雄。あんた、恋といっしょに接触してくれる? もちろん、情報自体はボクや、こいつが吟味するから」  それまで腕を組み、話を聞いていた華雄が名を呼ばれて、深く腰掛けていた椅子から体を起こす。 「よし、わかった。私では判断できんから、なんでも持っていくことにする」 「そのほうが助かるわ。下手に端折られると、かえってわかりにくくなるもの」 「さて……と。検討はこんなものかな? 誰か他になにかある人はいる?」  会話が途切れたところで、皆の顔を順繰りに見ていく。皆、真剣にこちらを見返してきてくれるが、特に意見を出そうとする者はいない。 「じゃあ、あとは分担を改めて……詠」 「ん。さっきも言った通り、呉の内部事情はボクが調べる。蜀と朝廷の動きは、華雄と恋。亞莎の心当たりは、あんたが聞いて」 「了解」  すっと小さな手が挙がる。 「詠ちゃん、私は?」 「そうね、月は……連絡役をしてもらおうかしら。重要な情報が入ったらすぐに皆を集めたりとか、細かい話を伝えたりとか……いい?」 「うん、わかった」  詠としては、月にはなるべく汚い部分には触れさせたくないのだろうな、と見当をつける。とはいえ、月を通じて伝言が出来れば、秘密を保持することも出来る。悪くない配役だろう。 「じゃあ、俺は亞莎に訊く以外だと……洛陽と緊密に連絡を取るかな。時間差は出てしまうだろうが、朝廷の動きを掴むなら、やっぱりお膝元の洛陽だし、やらないよりはましだろう」 「うん、お願い。あとは、最終的な情報のまとめと……そうそう、一つ頼みがあるわ」  いかにもいま思い出したかのように、軽く付け加える詠。しかし、その声音は真剣だった。 「ん?」 「蓮華……孫権と妥協点を探って」 「孫権さんと?」 「うん、いい加減、大使の問題をはっきりさせてほしいの。今回のことにも関わるし、情勢を安定化するためには、蓮華の協力も必要よ」  考えるまでも無く頷く。たしかにそろそろ孫権さんとも話し合う時期だろう。このまま対立したまま洛陽に帰っては、なんのために真桜の後見役として派遣されてきたのかわからなくなる。感情的な食い違いはともかく、大使という役職に関わることだけは、しっかり意見をぶつけ合っておきたいところだ。 「ん……わかった。思春に協力してもら……うわけにはいかないな」 「私はいつでも蓮華様の味方だ」  当然の答えだ。彼女はあくまで一時的にここにいるにすぎない。冗談でも言うのではなかった。目すらあわせてくれないのは少々辛い。 「しかし、だからこそ、蓮華様側の意見は言える。それを事前に検討しておくことは無駄ではなかろう。論破などされんがな」  さっきまで視線すら向いていなかったのに、急にこちらを見てにやりと笑って見せる思春。  むむ、からかわれたか。  そのまま彼女は詠に向き直る。 「それで、私は?」 「あんたは、そいつの補佐と、思いついたらなんでも教えてもらうことになると思うわ。もちろん、呉を害するようなこと以外でね」 「んで、うちがひたすら仕事こなすわけやな」  天を仰いで、お手上げ、というように言う真桜。こういう彼女を見るのは久しぶりだ。  そう、まだ俺が彼女の隊長だった頃、仕事をしろと言う度に、うへぇ、といやな顔を浮かべていたものだ。 「う、すまん、真桜」  もちろん俺自身も仕事をさぼるわけにはいかないだろう。大使館の仕事の大半は真桜に任せられても、華琳たちへの報告やらなにやらは依然として必要だ。 「ええねん。警備隊時代、さんざっぱらたいちょに書類仕事押しつけてきたつけや思うとくわ……」  そうやって大げさに嘆く真桜に、皆笑わされて、その会合はお開きとなった。  時間は、気を抜くとあっと言う間に過ぎ去るくせに、なにか動きを期待しているときというのはじりじりとしか進まない。亞莎襲撃犯の手がかりはまだ何ひとつ得ることが出来ず、それでも俺たちは毎日の仕事──大半の雑務を真桜が受け持ってくれてもなお日々発生するもの──をこなしながら、自分に割り当てられた役目を果たそうと懸命だった。  だからといって、四六時中集中が続くわけでもないし、息抜きをしたくなる時間というのもある。その晩、集中の途切れた俺は、月の淹れてくれたお茶でも飲もうと、彼女たちが普段いるはずの部屋に向かっていた。  夜といってもまだ眠るような時間ではない。この時間なら自室ではなく、控えの部屋にいるはずだ。そこは、ある意味で彼女たちの執務室とも言える。他の侍女とは違うことを明確にするためにも、詠が書類を広げられる場所を確保するためにも、一部屋用意することにしたのだった。  ここ数日は思春もそこに加わっている。たまに連れ立って部屋に来たりもするが、なかなかうまくやっているようだった。  戸口まで行って、声をかけようとした途端、聞き慣れた名前が耳に飛び込んでくる。 「どう、北郷一刀は」  これは詠の声だ。月に改めて訊ねるなんてことはないだろうから、思春に訊いているのだろう。 「言われた通り、よい機会だからとあやつの一日を観察してみたのだがな」  ふむ。俺の印象というか、しばらく過ごした感想を訊いているのだな。 「呆れたでしょ」 「ある意味では尊敬に値するな」  なんだ? よくわからない評価だ。表情がわからず、扉越しに聞く声の調子だけだと、実際にどんなことを思っているのか、見当がつかない。  しかし、なんだか、悪いことをしている気がしてきたな……。 「でも……改めてご主人様の一日って聞いてみたい気もするな」  月が興味深そうに言う。たしかに他人に観察された姿というのは興味深いな。俺はそこで罪悪感を押し込めきれず、戸を開けた。 「あー、俺も聞いてみたいなあ」 「へぅっ」 「うわっ」 「貴様、いつからっ」  それぞれに声をあげる三人。思春なんて、懐剣を抜いて逆手に構えている。いや、そこまで警戒しなくても……。 「いまさっきお茶でも淹れてもらおうと思って来てみたら、俺の話をしていたもので……。立ち聞きもなんだから、入ってきたんだけど」  しばらく待ってみても、みんな固まってしまって、反応が無い。 「その……お邪魔ならお茶だけもらって出て行くよ。すまん、立ち聞きしちゃった手前無視するってのが出来なくて……」  ようやく硬直を解いた三人は目配せを交わし合い、ついに結論が出たのか、詠がぶっきらぼうに一つの椅子を示した。 「……座りなさいよ」  言われるままに、彼女たちと同じ卓につく。月が立ち上がり、いそいそと茶を用意しにいっているところを見ると、居てもいいってことなのだろう。 「別にやましい話をしていたわけじゃないしね。あんただって、自分の一日を聞いて反省できるし、いいんじゃない」 「うん。そうだな。もちろん、観察してくれた思春がよければ、だけど」 「面白いやつだな。他国の臣に行動を検分されて、嬉しそうに聞こうというのだから」  思春が、本気で感心したように呟く。俺は一つ肩をすくめた。 「本気で探るなら、明命がしてるだろ? 別に、俺の行動なんて分析してもしょうもない結果しか出ないだろうけどさ」 「そうとは限らないわよ。行動の特徴や癖を見抜くのは、暗殺や調略をかける前準備としては重要だもの」 「それこそ、いまさらさ」 「まあね」  月がお茶を置いてくれたのに礼を言う。にっこり笑って俺の対面に月が座り直し、皆の視線が思春へと集まる。 「ふむ、では」  懐から書き付けを取り出し、眼鏡をくい、と持ち上げる思春。度は入っていないはずだが、フレームだけでも気になるのかな? それにしても、メイド服を着ることにはもう抵抗が無いらしい。良く似合っているから、気に入ってくれたとしたら嬉しい。真面目な思春のことだから、迷彩として割り切っている可能性もあるけれど。 「昨日一日の行動を書き出してみた。あくまで私の見た範囲と推論だからな、誤りもあるだろうが、黙って聞け」  うん、と頷いて見せると、滔々と語り始める。 「朝、月と詠の二人に起こされる。その後、私を含めて朝食。しかし、時間から言って、起こすだけにしては長すぎた。  推察、色事一。  午前、華雄と恋を連れ、小蓮様との合同警邏。森で盗賊団十数名を捕縛。  大使館に帰って来た後、おそらく私の様子を窺いに来て下さった雪蓮様と昼食。私が給仕をする。その後二人で北郷の自室にて懇談。  推察、色事二。  雪蓮様が王宮へ帰られた後、書類仕事にとりかかる。  その後、真桜、華雄と鍛練。汗を流しに三人で風呂へ。  推察、色事三。  夕食まで、私に洛陽への文書を口述筆記させつつ、なにか作業。紐を編んでいたようだが、これについては不明。集中力を高めるための行為か?  夕食は、孫子の勉強を教えにきている亞莎と。食べ終えた後、呉孫子兵法を読み進める。さらに、二人で議論。  その後、夕刻に書いていた文書に補足を加える作業。また、個人的な文書も作っていた模様。  夜半、月と詠に勉強の成果を話してくる、と二人の部屋を訪ねた後、朝まで帰らず。  推察、色事四」  途中、詠や月の慌てたような叫びや、反駁や、俺のちょっと待って、という声を一切合切無視して、思春は澱みなく俺の一日の行動を話しきった。 「お前たち、うるさいぞ」 「へぅ〜」  赤くなっている月。詠はもう諦めたのか、はぁ、と小さく溜め息をつくばかり。俺としては、彼女の観察が大筋で間違っていないだけに、なんとも言えない。推察が外れているのは、雪蓮とのことくらいだ。たしかに部屋に籠もってはいたが、真面目な話をしていたので肌を重ねる暇は……いや、濃厚なキスはしたから、抗弁は出来ないか。 「女たらしだとは聞いていたが、まさか一日でこれだけ相手をするとは思っても見なかった。正直、感心している」 「絶倫魔王だもの」  いつの間にか、新しい称号が追加されているようです。 「それよりすごいのは、そんなことをしながらも仕事も鍛練もしていることだな」  心底驚嘆したように言われる。  そりゃあ、仕事はする。いまは思春の行く末もかかっているのだ。さぼって大事な情報やタイミングを逃すわけにはいかない。時間のやりくりについては偉大な師が身近にいたからな。 「華琳を見習っているのさ。さすがにあの仕事量は真似できないけどな」 「曹孟徳か……。噂には聞くが、我らは会談の折などしか知らぬからな」  月と詠も同じく頷く。そういえば、この面子は真桜と俺を除き、華琳の近くにいたことは無かったか。桂花を愛で、春蘭をからかいつつ人の数倍の仕事をこなす華琳を見ていれば、俺などまだまだ修行が足りないことがよくわかるはずだ。 「まあ、しかし、改めて聞くと……ボクたちも側にいるからわかってはいたけど。で、どう? この男を危険視する一派として、感想は」  そう訊ねる詠は、からかうような口調で、同じように笑みも浮かべていたが、瞳に宿る光は真剣そのものだった。月が息をひそめて思春を注視するほどに。  言われる本人はなんとなく姿勢をただしてみたりしている。 「わからん」  しばし黙ったあとで、腕を組んだ思春の答えは簡潔だった。 「とぼけているわけでも、逃げているわけでもない。本気でわからんのだ」  自分でもはっきりと結論を出せないことに苛ついているのか、ぎん、と睨みつけられる。目の力が強いせいか、思春に睨まれると、刀をつきつけられたのと同じくらい背筋が冷える。 「漁色に耽っているようではあるが、それに溺れているようにも見えない。言葉づかいなどはともかく、一人の士として評価できる程度には知識も知恵もあるようだ。だが、祭殿が呉を抜け、新たに主に選ぶほどかと問われれば、答えられん。雪蓮様が気にかけるほどの男かと思えばよくわからん」  思春は、さらに何事か言おうとして、言葉が見つからなかったのか、結局諦めたように手をぱたぱたと振った。 「まあ、そんなところだ」  沈黙する思春を、月はなんだか嬉しそうな、愉しそうな笑顔で見つめていた。詠はやれやれとでも言いたそうな顔で、口を尖らせる。 「だってさ」  わからない、という評価は本当だろう。しかし、ある意味で、それは歓迎してもいいものではないだろうか、と俺には思えた。未知は恐怖だが、知れば恐れる必要はなくなる。  理解できないなら、わかるまで知ってもらえばいいだけのことだ。 「まだ数日だしな。ここにいる間は、俺を存分に検分してくれたらいいよ。呉に脅威となる人物かどうか、さ」  そう言うと複雑そうな表情を浮かべる思春。  そうしてしばらく談笑したあと部屋を出た俺は、何故だかここに来る前より遥かにやる気に満ちあふれた自分を見つけて、なんとなく微笑むのだった。 「はい、では、今日はここまでにしましょうか」 「ふぇー」  亞莎の言葉に、机につっぷした拍子に、つい情けない声のようなうめきのようなものが喉から飛び出る。 「疲れましたか、一刀様」 「さすがにねー。十三編しか読んだこと無かったってのもあるけど」  体を起こし、一つ息をつく。時間的に、もうしばらくすれば、誰かが茶と菓子でも持ってきてくれるだろう。  以前、月が解説してくれたように、呉孫子兵法は八二巻、図九巻が基本となる。呉にはさらに異本が伝わり、その巻数も変わってくるが、まだそこまでは手を出せていない。本編をようやく無理なく読み進められるようになった、という感じだ。 「華琳さんの注釈つきですよね。あれを読まれていらっしゃるので、根本理論の理解については問題ないようですが、応用や例については、古今の戦争の知識も必要となりますから……」 「ごめんね、いちいち原典に戻ってもらって」  亞莎の言う通り、華琳が注釈をした十三編には、例示というものが無い。戦争や政治の戦いにおける勝ち負けはどのようにして導かれるのか、という原理を説明しているのだ。  それに解説を加え、古今の戦の実例を付け加えたものが、八二巻本ということになる。そのため、根本理論の応用例や実際の指揮などを学ぼうと思うと、昔の戦争の記録などをあたる必要が出てくる。俺たちはせっかくなので、孫子学派の人達が引用してきている様々な原本にまで戻って学ぶことにしていた。ただ、その原本というのが、わかりやすく書かれているものばかりではないので、これも解読していく必要があった。  戦争を描いた詩から、実際の古代の戦況を再構築しようなんてことを、自分がやるはめになるなど思いもしなかった。 「いえ、私の勉強になりますから」  やわらかく微笑んでくれる亞莎。本当にそう思ってくれているのだろう。彼女も、冥琳や穏といった先達に追いつこうと必死で学ぼうとしている。俺は、こうして、短い時間を共にしているだけだが、その時間に込められた彼女の真剣さと熱意はすさまじいものだった。 「邪魔するぞ」  声がかかり、扉が開く。  お、今日は思春か。  長い黒髪を垂らした彼女が、つかつかとまるで体の正中線をずらさずに近づいてくるのを見て、少し苦笑いを浮かべる。それは、明らかにメイドの動きではなかった。 「し、思春さん……」  亞莎がさすがに声をあげる。思春は動揺することも無く、けれど視線をあわせることは無く、俺たち二人の前に茶とお茶請けのごま団子を置いていく。 「亞莎よ。いま、ここにいる私は甘寧に非ず。わかっているだろう」 「あ……はい。すいません」  それ以後は二人とも口をきくことも無く、なんとなく重たい空気の中、気にした風も無く思春が出て行く。 「思春さん、一刀様の侍女をなさっておられたのですね」 「うん。知らなかった?」  雪蓮には知らせてあるのだけどな。さすがに細かいところまで皆に話す必要は無いと思ったか。 「はい。もちろん、この館にいるのは知っていましたが……」 「あ。といっても雑用ばかりさせているわけじゃないよ。メイドはあくまで隠れ蓑で」  思春の立場を説明しようと亞莎に話しかけるが、当の彼女は俺の言葉がまるで耳に入っていない様子なのに気づく。 「亞莎?」 「いえ……申し訳ありません。思春さんに悪いことをしてしまいました。あそこで話しかけるべきではありませんでした。一刀様、謝っておいてはもらえませんか?」  どうも、声をあげてしまったことを悔いていたようだ。 「うん、構わないよ」 「では、お戻りの折に改めて謝らせていただく、とも」  これにも頷く。亞莎としても、自分が襲撃されたことで思春が呉を追われるのは望まないだろう。彼女も思春もこの件に関しては被害者なのだから。 「なんにせよ、せっかく持ってきてくれたお茶とお菓子をいただこうか」 「あ、そうですね」  そうして、俺たちは甘いごま団子をぱくつき、熱いお茶で喉を潤した。 「甘いですねぇ」  目を細めて、幸せそうに笑顔を浮かべる少女。その顔を見ていると、こちらも自然と幸せな気分になってくる。 「うん、おいしいよね。考え事とかには、糖分は必要なんだよ。摂りすぎるとまずいけど……。っと、亞莎、一つ訊いていいかな」 「はい?」  詠に言われていたことを思い出したのだ。ここで訊いておくほうがいいだろう。 「俺たちも雪蓮たちとは別に襲撃犯を追っているんだ。亞莎自身にはなにか気にかかるようなこととかは、無いかな?」  ぎゅっと眉根を寄せる亞莎に気づき、慌てて言葉を続ける。よく考えてみれば、これは彼女自身に襲撃の理由を押しつけているような質問ともとれるわけで、失礼にあたりかねない。 「もちろん、無ければそれでいいんだ。あくまで確認だから。ごめんね。不快になったろう」  頭を下げると、慌てたように、声をかけられる。 「いいえ、一刀様。私も事件ははやく解決してほしいですから。私のことなど気になさらず。ああ、どうか、お顔をおあげ下さい」 「ん」  姿勢を戻すと、ほっとしたような表情になる。しかし、彼女はその後すぐに真剣な顔になり、両手の長い袖で口元を覆うようにして話し始めた。 「ただ、一刀様たちと思春さん、それに私という組み合わせで、一つ思い出していました」  一拍置いて、じっと俺を見つめてくる。 「あの視察旅行のことを」 「ああ……」  言われてみて思い出す。彼女と思春、そして、真桜まで一触即発になったあの時のことか。結局、恋が仲裁してくれたんだよな。 「あれを見て、思春さんと私が対立しているように誤解した者がいたかも知れないな、などと……」 「ふむ」  当事者の俺たちとしてみれば、笑い話にしかならないような、軽い諍いだ。しかし、将の立場を離れ、一般兵の身からあの光景を見てみれば、深刻な対立があったと考える可能性は否定できない。なにしろ、他国の武将までもが武器を持ち出し、あの伝説の飛将軍呂奉先が間に入って収まったのだから。 「いえ、もちろん、思春さんの部下を疑っているのではないのですが……」  急にわたわたと手を振る亞莎。もちろん、彼女が悪意でもってこの話をしたのではないのはわかっている。だが、真剣に考え込んでいた軍師の顔と、年相応のいまの慌てぶり、その両方を見ていると、なんだか妙に安心するのだった。 「うん、ありがとう。こちらであたってみるよ。でも、このことは雪蓮たちにも報告しておいてくれるかな」 「はい、わかりました」  さて……。  俺は心の中で静かに呟く。  出来れば、これがなんらかの手がかりとなってくれればいいのだが、と。  部屋に入ってきた思春は、しばらくメイドらしく部屋の隅に控えて、じっと俺の行動を見ていたが、ついに我慢がならなかったのか、質問してきた。 「なにをしているのだ?」 「地図を見てる」  部屋の中央に卓を三つ厚め、その上に巨大な地図が広げられている。大きく描かれてはいるが、せいぜい漢人が認識している異民族たちの領域──いわゆる西域や南蛮──までのもので、俺からすれば大陸全土を把握するのにも足りないが、いまはここに記された部分こそが重要だ。 「それはわかっている」  明らかに苛つきが声に宿った。俺は、地図の周りを回っては色々な角度からその大地を見つめていた。彼女は、その行動の意味を量りかねたのだろう。これは説明しなければなるまい。 「こう、頭の中でひっかかってるものがあってね。それが、こうしてるとなんとなく出てきそうなんだけど……」  動いた拍子にかつん、と腰に差していた刀が、後方の椅子の脚にぶつかった。  こりゃ、まずい。  俺は刀を抜いて、脇に抱えるようにした。 「ん、その紐……」  不審そうに俺の刀を見つめる思春。自分が渡した下げ紐に気づいたらしい。 「ああ、思春にもらったやつだよ」 「あの時、雪蓮様に割られたはずだが?」 「うん、新しくしてくれたんだけどね、紐はそのまま使わせてもらっているよ」 「物好きなものだ」  ふん、と鼻を鳴らして断ぜられる。だが、これのおかげで命拾いしたのも事実だ。戦う前の忠告といい、思春には感謝することがたくさんある。 「ところで、言われた件、列挙して、詠に渡してきたぞ」  亞莎の話を聞いて、あの視察旅行に参加していた思春の部下で、元江賊だった者の名前をリストアップしてもらったのだ。彼女の現在の部下がなにかをしているとは思えないが、手がかりがすくない現状では、こんなことも調べてみるしかない。  一方で、思春やその部下に申し訳ないのもたしかだ。 「ああ、ありがとう。どうなるかはわからないけど、調べさせてもらう。……すまん」 「ふん。構わん。やつらとて疑われるのは慣れているからな。しかし……もう、十日だぞ」 「ああ、そうだな」  亞莎が襲われた夜から、すでに十日が経つ。思春がなにを言いたいか、よくわかってはいるが、俺がそれを認めるわけにはいかない。 「一日もはやく、思春が王宮に戻れるよう努力するよ」  その言葉に、彼女は答えない。俺の本気を疑っているわけでも、その言葉自体を疑っているわけでもない。ただ、彼女は、それに現実味を感じていないだけだろう。稟とした、なにかを覚悟しているような表情を見ていて、そう思った。 「思春、ちょっと意見を聞いてもいいかな」  後味の悪い沈黙のあと、俺は視線を地図に戻す。 「なんだ?」 「思春にとって、『世界』って、どこまで?」  しばしの沈黙。今度は、さっきまでとは違い戸惑うような空気がある。 「……なに?」 「この地図全域? それとも、これより広い? 狭い?」  西はせいぜいイラン、北はシベリアの入り口あたりまで、南は南蛮、インドネシアあたりまでの地図は、彼女にとって「世界」のどれだけを含有しているのか。俺はそれを問うた。  ようやくその意図を理解したのか、彼女はかがみこんで地図を子細に確認し始める。顔をあげ、ずれた伊達眼鏡を直す。 「これよりは狭いな。普通、西域までは考えに入れまい。存在は知っていてもな」 「ふむ……」  この時代の人達の「世界」がどの程度の認識なのか。  思春の言葉は一つの指針となるだろう。  前漢の武帝の時代、彼らはすでに大宛、つまり、パミール高原の北、フェルガナまで遠征を行っている。その向こうもあることはわかっているに違いない。霞のようにローマの存在だけは知っていたりする人もいるわけだ。  ということは大陸全体を認識するまでもう一歩のところにある。  ただ、問題はそこが「ばけものの国」という感覚であることだ。人が生きる「世界」はやはりもっと狭いのだろう。  なにしろ俺の世界では、巴蜀の地すらばけものの棲む国扱いだったくらいだ。そう言ったのは、俺の世界の曹操。当時最高の知識人である彼ですらそういう認識だったのだ。  この世界の華琳は世界地図を受け取っているし、認識は広がっているだろうが……。それ以外の人々まで変わるわけではない。 「一体なにを考えていたのだ?」 「ん……未来をね」  言うと、珍妙な顔をされた。気障な言葉づかいだと思われたろうか。  しかし、言葉を飾るのではなく本当に、俺たちは未来を作り上げていかねばならないのだ。いまに生きる人々、そして、これから生まれてくる者たちのために。 「この……地図よりさらに広い世界をどう統合するか、それを考えていた」 「……は?」  ぽかんと口を開ける思春。次いで、目が細まり、表情が消える。その反応を見て、これは誤解されているな、と気づいた。慌てて彼女が考えているであろうことを否定する。 「ああ、違う。武力で統一するって話じゃない」 「……では、なにを?」 「これ全部を巻き込んだ経済圏を作るかどうか、ってことをね」  警戒が解けたのか、先程の凍りつくような無感情はなくなり、俺の言葉を吟味するような表情が浮かぶ。 「それでもよくわからんが」 「んー……。そうだな、最初から話そう。思春は、呉の各地に、華琳の鋳造させた銅銭が入ってきているのは知っているかな?」  こくり、と頷くのを確かめて、話を続ける。 「これは、それだけ人から人へやりとりが生じているってことだ。つまりは経済的に魏と呉が結びついているってことだね。まあ、元々漢という大きな国のくくりがあるんだから、当然とも言えるけど」  考え考え、考察のきっかけとなったことから説明していくと、頭の中で構想が練り上げられていくような気がした。やはり、人に話して聞かせるというのは、自分の理解を進める効果もあるな。 「魏、呉、蜀、という三国はそうやって一つの巨大な経済圏を作っている。それは戦い合っていた頃から変わらない。途中で蜀が南蛮を降して、より大きく広がった」  南蛮のあたりを刀で示す。そういえば、呉は南蛮地域には興味が無かったのだろうか。山越に加えて南蛮まで抱えるとなると厄介だと判断したのかも知れないけれど。 「一方、五胡と呼ばれる異民族たちとの間では、銅銭のやりとりというのは生じていない。両者の支配圏が重なる地域で細々と交易が行われているとは聞くけど……基本的にはわずかながら、物々交換が行われているくらいだ」  ただ、と俺は続けた。 「現状だけで言えば、これで充分だ。まだ戦乱の爪痕が残っているから、人口も減っているし、江東、江南の開発が進めば生産力も上がって回していけるだろう。……でも、いずれは頭打ちになる。なにより、閉塞感が打破できない」 「閉塞感?」 「うん、特に蜀のね。呉はそのあたりわかりにくいと思うけど」  小首をかしげる思春に説明を加えていく。  なんだか、無心に聞いていてくれるのか、動作がやけにあどけなくてかわいらしい。 「呉は江東、江南の肥沃な大地を抱えている。まだ開発が進んでいないけど、今後うまく人を入れて耕していけば、充分な生産力を発揮できる。江水もあるし、海洋に向かって開けてもいるから交易も期待できる」  鞘の先で、呉のあたりを指し示すと、これには納得なのだろう、軽く頷いてくれる。 「でも、蜀は北は魏、西は異民族に抑えられている上に、山がちな地形だ。自前の生産力の発展には限界がある。魏だって、いまでこそ最大の経済力を誇っているけど、昔から開発されてきただけに、今後の発展性にはそれほど期待できない」  そもそも中原はともかく、河北は寒さが厳しい。農法次第ではあるが、大量生産には向いていない。その分、文化程度が上なので、様々な技術や文物を輸出することで国を支えていくことは可能だろう。なにより、流通を抑えられれば、経済的な発展は望める。  蜀については……正直、まだよくわからない。 「それは……十年後のことを言っているのか? それとも、百年後か?」  呉の土地をじっと見つめながら、彼女は問う。 「そうだね、百年後に近いかも知れない。短く見積もっても二、三十年は先の話だね」 「お前は……阿呆だな」  呆れたように息を吐き、辛辣な言葉が飛んでくる。合わせられた視線は、いたって真剣なものだった。責めるというよりは、なんだか心配してくれているような顔だった。 「それほど先なら情勢も変わる、人も入れ代わる。十年先を見据えていまを考えるならともかく、それほどまで先を考えてどうするというのだ?」 「だが、伏竜鳳雛は、このくらいは考えているだろう。そこからさらに巻き戻して、いまの戦略を練っているに違いないよ、彼女たちは」  ぐ、と詰まる思春。彼女をやりこめるのが目的ではないので、さらりと流す。 「未来と言った通り、あくまでいま考えているのは指針や理想にすぎない。けれどそれがいつかなにかの役に立つかも知れない。だから、俺は考えるのやめない」  きっぱりと言い切ったあとで、肩をすくめて見せる。 「まあ、まだ、俺の考える未来に起こりうる問題の打開策を考えついていないんだから、なんとも言えないけどね」 「お前は、阿呆だな」  繰り返された言葉は、先程とは違い、あたたかな調子で、一瞬尊敬のようなものを感じさせてくれた。  その夜、俺は体中におぞましいものが走り抜ける感覚と共に目を覚ました。  自分が己の部屋の寝台にいると把握しても、体は凍りついたように動かない。暗闇の中、浴びせかけられている殺気と、喉元に触れている金属の冷たさが、どうしようもなく恐怖を呼び起こし、抵抗の意志をじりじりと削っていくようだった。 「北郷一刀……お前を、殺す」  低く、地を這う声が、死の宣告を下す。  その声を聞いた途端、俺の体から力が抜けていった。それを見て取ったのだろう、かすかな光に反射する紫瑪瑙のような瞳が、すっと細まった。 「ほう、潔いではないか。それに免じて、苦しまぬよう一撃で……」 「死にに来たんだろう」  大刀を振りかぶろうとする思春にかぶせるように声をかける。 「思春の実力なら、俺なんかに悟らせぬまま、殺せたはずだ。いまだって、無駄な動作をしている。つまり、華雄か恋を呼ばせるために、俺を起こした。違う?」  大きく振りかぶった刀が、小さく揺れて、かたかたと音を立てる。 「わかっているだろう。もう十日がすぎた。はじめの十日がすぎれば、賊が捕まる可能性は極端に落ちる。つまり、あやつが捕まる可能性はほぼなくなった」  十日もあれば、相当なところまで逃げられるし、潜り込める。たとえ雪蓮たちが最大限に捜査網を張りめぐらせたとしても、逃亡した襲撃犯を捕まえるのは難しくなるだろう。ここからは、丹念に手がかりを追わねばならなくなる。そうなると、下手をすると年単位の捜査が必要だ。それは、あまりにも長い時間。 「となれば、死なねば、ならないのだ。死なねば……。しかし、いまさら自害は出来ぬ。お前たちに匿ってもらって自害など、そのような恩知らずな真似が出来ようか。雪蓮様にも申し訳が立たぬ。しかし、このままでは蓮華様が……。私が死ねば、あの方は表舞台に戻ることが出来る。だから、殺してくれ……殺してくれ……」  彼女は、その刀を振り下ろそうとはしない。振り下ろせば、俺は華雄を呼ぶ間もなく殺されてしまう。だが、それで彼女は死ねても、さらに厄介な問題を呉に呼び込んでしまう。俺の部屋に刀を持って忍び込んだことだけでも、ぎりぎりの綱渡りだ。 「いやだね」  涙を流さんばかりの……いや、その瞳に涙が盛り上がっているのを見てもなお、俺は言下に否定した。 「絶対に殺さないし、殺させない。俺の保護下にいる間は、生き死にも俺のものだ」  寝台を下り、彼女の横に立っても、思春は刀を動かさない。殺す気なら、その間に三度は死んでいただろう。ぱたり、と力なく腕が落ち、刀ががらんと床にころがる。 「貴様は……なんと残酷な男だ」  がっくりと床に崩れ落ちようとする彼女の体を抱き留める。ぎゅっと抱きしめた体は、たしかに熱く、生の鼓動を伝えてきた。 「……生きてくれないか」 「や、やめろ、離せ」 「生きてくれ」  ゆっくりと背をなでながら、優しく囁く。俺の腕の中から、もはや涙が流れるのを隠そうともしない思春が見上げている。 「……わたし、は……」 「思春は生きて、孫権さんのために、呉のために、この大陸のために働かなきゃいけない。こんなところで散っていい命じゃないんだ」 「……しかし、私の存在が」  いくつもの感情と思いが去来しているのか、ころころと表情が変わる思春を真っ直ぐに見つめて、決然と言い放つ。 「俺と雪蓮を信じてくれ」  脇の机に置いてあったものを思い出し、それを取り上げて、彼女の手首に巻いてやった。抵抗は無く、なんだ、と闇の中目を凝らす。おそらく、彼女にはしっかりと見えているだろう。黒と赤の絹糸で構成された、それが。 「……ん、なんだ、これは」 「前、刀を下げるのに、紐をもらったろ。そのお礼」 「……お前、紐を編んでいたのは、私のために?」  赤を基調に、黒で紋を散らした紐。本当はもっと色を組み合わせられるはずなのだが、腕が追いつかないので、二色になってしまった。けれど、思春にあった色だと密かに思っている。 「うん、あの時、鞘が無ければ死んでいたし。お礼には心を込めたいだろ。気に入ってくれたら嬉しいけどね」  闇の中、己の手首を見つめる思春の瞳の色は複雑で、なにを考えているのか見当がつかない。俺はじっと息を殺し、彼女を抱きしめ続けていた。 「……てやる」 「え」  すぐ近くにいるのに聞き取れないほど小さい声の呟きに思わず聞き返す。 「……これに免じてしばらくは生きてやる」 「ありがとう。……ありがとう、思春」  喜びが心の中から沸き上がる。よかった。本当によかった。  けれど、本当に喜んでいいのは、まだ先だ。思春の元部下の襲撃犯を捕まえ、彼女の名誉回復をなし遂げなければ。  それは、彼女の命を預かった俺が果たすべき責任だった。  いいか、しばらくだぞ。はやく賊を捕まえろ、と彼女は俺を突き飛ばすようにして腕の中から出て行くと共に吐き捨てるようにそう言った。  だが、その声はなんだか妙に優しく、また、助けてくれとすがりつくようでもあった。 「一刀様に教えていただいた三角州地帯の入植計画が動き始めそうです」  孫子を読むのもだいぶすらすらといくようになり、俺と亞莎は議論をしたり、国際情勢を語り合ったりする時間を多めに取るようになっていた。二人で語り合うと、やはり刺激になる。 「お、そうか。よかった。江東の生産力増大と交易が盛んになることを期待だね。亞莎が推進するの?」 「いえ、私など。穏さまを中心に、張昭さまなどが補佐を行う予定です」 「え、亞莎が担当するとばかり」  亞莎は赤面して、袖で顔を覆ってしまう。 「私はまだまだひよっこですから……」 「呉の方針に口を出すわけにはいかないけど、亞莎は充分立派な軍師だと思うけどな」  入植は一大事業だから、穏が担当するというのもわかるけれど、必要以上に萎縮することも無いと思う。あるいは、この引っ込み思案なところが、評価されにくい理由なのだろうか。 「わ、私は無学な武官あがりですから、そのように言われるほどの者ではっ」  なぜかぶんぶんと袖を振って必死に否定する亞莎。俺としては充分に、内政にも軍事にも通じているように見えるのだけれど。  だが、自分でそう思い込んでしまっているなら、それを違うと言ってもなかなか受け入れがたいだろう。 「ほ、本来はこのように一刀様に勉強をお教えするなど出来ない立場なのです。私自身がまだまだ学ばねば……」  学ぼうとするのは素晴らしい姿勢だし、自分を過大評価しないというのは美徳なのかも知れないが、あまりにそれが行き過ぎると、せっかくの才を潰してしまうことになりかねない。俺は昔のことを思い出しながら、彼女にかける言葉を探した。 「知らない、というのはね、一面武器になることだよ」 「え?」 「俺はこの世界に来たとき、なにもわからなかった。だから、とにかく、手当たり次第に知識を吸収しようとしたんだ。もちろん、まずは文字を読むっていう難関があったけどね」  その難関にはいまも直面している。まさか地方や時代でそこまで字体が変わるとは思っても見なかった。今後も学び続けないといけないな。 「その中で、史書の記録や、哲学書の発言が矛盾していることに気づいたんだよ。でも、この世界の人達に訊いてみても、彼らは、その矛盾すら意識していなかった。たしかにそこにあるはずなのに、だ」  もちろん、俺がその中身をまともに読み取れていなかった例もある。しかし、そうではないものもあったのだ。 「でも、調べてみたら、それは本当につまらない間違いだったりするんだよ。たとえば、写本を作るときにたった一文字書き間違えて、大事なことが否定されていたりとかね」  違う場所の竹簡が紛れ込んでしまって、変な文章になってしまった例もあった。なにせ竹簡は綴じてある紐がちぎれたら、ばらばらになってしまうのだから。 「本来、そこは疑問に思うべきところなんだ。でも、この世界の知識人と言われる人々は、その間違いを含めて覚えてしまっていて、矛盾を見落としてしまう」 「そのような……」 「つまりね、前提知識があるがためにかえって見落としてしまうものもあるってこと。亞莎はまだ知らないことがたくさんあると思ったなら、そこをしっかり見据えて、本当の意味で吸収していけばいい。あるいは、既存の答えじゃなく、新しい発想を得ることが出来るかも知れない」  もちろん、俺の言っているのは理想論かも知れない。実際には、全てに立ち止まって考えているわけにはいかないかも知れない。けれど、それでも、亞莎ならばこそ思い至れること、彼女だからこそなし遂げられることがあると知ってほしかった。 「そのような考え方は……はじめてです。知らないことが武器……。私は、いまも武器を持っている……」 「そ。冥琳には冥琳の。穏には穏の。亞莎には亞莎の武器がある。それを忘れちゃいけない」  真剣に考え込む亞莎を前に、軽く頭をかく。 「って、偉そうに言える立場じゃないけどね」 「いえ……そんな。ありがとうございます。私、頑張ります。知らないことも武器にして、なんでも学びとって、この大陸に新しい時代を作り上げるべく、頑張ろうと思います!」  亞莎が頭を下げ、再び顔をあげて大きな声で宣言する。そこで俺たちは見つめ合い、なんとなく二人とも赤くなって照れ笑いを浮かべた。 「一刀様は天人相関説という教えを知っておられますか?」  不意に、亞莎が切り出す。 「えーと、帝が善政をしけば吉兆が、暴政を行えば洪水やらの天変地異が起こるってやつかな?」 「はい。もっと広い考えですが、いまは仰ったその部分が眼目です。いまでは天文は自然現象でしかなく、必要以上に政治と結びつけるのは危険とされる考えですが、一面の真実は存在していると私は考えています」  一拍置いて、彼女は続ける。 「つまり、この世を治める帝は天地に責任を負っているということは間違いないことではないかと、そう思うのです」 「うん、それはそうだろうな」 「そして、王は国に、将は兵に、責を負います」  静かに扉が開く。思春が音も立てず部屋に入ってきて、茶と菓子──今日は蒸かし芋──を置いていく。どうやら議論中と見て、邪魔をしないように気を遣ってくれているらしい。 「たとえば、民が罪を犯したとして、それで国の王が罰せられなければならないでしょうか」  ぴくり、と戻ろうとしていた思春の肩が動く。こちらに背を向けたまま、彼女の歩みが止まった。亞莎も思春に聞かせることを意図しているのだろう。声がしっかりと張っていた。 「いや、それは違うだろう。王がすべきなのは、その罪が繰り返されないように対処することだ」 「その通りです。貧困がために盗みを犯す者があったなら、国を富ます施策をし、殺人が行われたならば、二度とそれを成す者が現れぬよう治安強化と見せしめを行うべきなのです」  見せしめについては何とも言えない部分もあるが、相応の罰が下されるべきだというのには賛成だ。あくまで相応の。 「そのようなことで、いちいち王が変わっていては、かえって国は騒がしくなり治まりません。大事なのは、それぞれの責任の取り方がある、ということです。王には王の、将には将の」  茶を含み、喉を湿らせ、亞莎は続ける。思春は、ずっと背を向けていたが、間違いなく声は届いていた。その長い髪が、ゆったりと揺れる。 「では、将の責任とはなんでしょう。それは、王の思う政治を行えるよう動くことです。国を守り、民を慰撫し、王の意志が国中に届くようすることです。けして、兵の幾人かが暴走したからと将を退くのが責ではありません」  思春が動く。ゆっくりとそのまま部屋を出て行く彼女は、扉を抜ける瞬間、たしかに軽く頭を下げた。気づかわしげにその背中を見つめていた亞莎の顔が喜色に彩られる。  俺はなんとも言えず、呉の将二人の結びつきに感動していた。  きっと、亞莎の言いたいことは、思春にはとっくにわかっていたろう。そのことを、亞莎も承知していたろう。けれど、伝えずにはいられなかった。人の心というのはそういうものだ。 「その上で」  あれ、話がまだ続いた。 「以前、一刀様にお訊きしたことがあったのですが、覚えておられますでしょうか」 「ん?」 「私が、その……襲われた夜に」  ああ、と思い出す。あの夜、自分で考えると、答えを拒絶した問いがあった。 「祭たちがなんで俺に……って話だっけ」 「はい。あのことを考えていて、この話に至りました」  いまいち関わりが見えず、首をひねる。 「王である雪蓮さまはもちろん、冥琳さまも、祭さまも、明命も将としての責任を負っています。それは民から託された信頼と言い換えてもいいでしょう。それを裏切るならば、呉に仕えることと、一刀様に身を託すことは矛盾してしまいます」 「ふむ。そうだね」  裏切るようなことにはならないと思っているからこそ思いを通じ合っているわけだが、亞莎としては、一体どうして彼女たちがそういう行動を取ったのか考える上で、そこを検証することを避けるわけにはいくまい。 「ですから、その点を考えてみました。民と国を裏切る可能性は以下の通りです。第一に国事の秘密を明かすこと。第二に国家の財を流用して一刀様に貢ぐこと。第三に呉に不利な施策や条約、提案を受け入れること。第四に魏に対して手加減をすること」 「あ……うん」  なんか、ずらずら列挙されると、まるで俺が弾劾されているみたいだ。あくまで可能性の話なのだが。……あ、いや、これは、孫権さんと話す時の予行演習になるかな。 「第一の問題は、一刀様の御立場も関係します。華琳さん──曹操の盟友という立場は、実質上は属国と言っていい立場である呉や蜀の王より上とも言えます。つまり、よほどのことでなければ、そもそも秘密を守る意味がありません」 「いや、それは持ち上げすぎ……」 「第二は、これも一刀様の御立場の関係で、金銭にお困りとは思えません。宝物も洛陽や長安のほうが遥かに多く、要求する必要がありません」 「それはそうかな」  正直、ものに対する執着はそれほど無い。もちろん欲しい物はあるが、現状の給金で買えないほどのものを求めるのは贅沢すぎるというものだ。 「第三、第四は論外です。そもそも条約などは討議や検証を経るものです。三国の会談などで決められたことでも、後に様々な角度から検討されるのが実状ですから、いかに王や将でも自由になるものではありません」 「なるほど」 「こうして考えてみた結果、己でしっかりと責務を果たし、民と王のことを考えているならば、呉を裏切るようなことは無い、と結論づけました。祭さまのように一刀様に直にお仕えするとなると、また話は別ですが、これについてはまだ今後も考えていこうと思っています」  結論までを一気に言い切って、亞莎は興奮したように顔を赤らめる。 「うん、そうか。なんか、くすぐったいな。俺とのことをそうやって言われると」 「はい、でも、考えねばわからなかったことです」 「そうだね」  人によっては、そんなに考える必要も無い、と言うかも知れない。現在は呉と魏は敵対していない。少なくともしばらくは敵対する必要も無いし、情と政を分けられるならば、恋をすることに、制限など必要ない。  それ以前に、俺たちはこの大陸を良くしていこうと願う仲間なのだから。 「だから……その……」  真っ赤になっている亞莎。赤面するのは、かわいらしいけど、一体なにか照れたりするところがあったろうか。 「えと、どうしたの?」  隣の椅子に座る亞莎に向かって上半身を乗り出すと、余計に赤くなる亞莎。彼女は意を決したように顔をあげた。覗き込もうと近づいていたせいで、予想以上に顔が近かった。 「わた、私が一刀様をお慕いするのも、呉を裏切ることにはなら、ならないわけでありまして!」 「ん、そうだね」  至近距離で見つめ合う俺たち。亞莎の息が顔にかかり、熱いほど。俺は思わず、さらに体を乗り出していた。 「んむっ」  唇を重ねると、驚いたように声をあげる亞莎。目を白黒させて、どうしていいのかわからないのか、わたわたと腕が振られる。  息を止めていたのだろう、口を離すと、慌てたように息を吸い込む亞莎。 「ごめん、ついかわいすぎて。嫌だった?」 「まさか! 嬉しくて、一刀様が、まさか、こんな……」  赤面はそのままだが、本当に嬉しそうに笑みを見せてくれることに、ほっとする。正直、彼女は俺を思ってくれているとは思ってもみなかった。しかし、常に敬意を払い続けてくれた彼女がいじらしく、一つ一つの動作をかわいく思っていたのはたしかだ。  だからだろうか。俺を慕っていると言われた時、咄嗟にこの娘が欲しい、と強烈に思ってしまった。 「でも、ごめんな。亞莎だけのものにはなってあげられなくて」  おそらく、この少女の感覚だと慣れていないところを謝罪する。 「はい、わかっています。でも、いま、この時だけは……」 「うん、いまは、亞莎のものだよ。そのかわり……」  ぐっと彼女を体ごとかき抱くように引き寄せる。 「亞莎も俺のものだよ」  耳元でそう囁くと、彼女はまた真っ赤になった。  おだんごを解くと、その栗色の髪はかなりのボリュームを持っていた。その髪が、汗で白い背中にはりついて、体の動きと共にうねる。  はじめてだった亞莎を一度優しく抱いたあと、再び存分に火照らせた体を、俺は後ろから覆い被さるようにしてむさぼっていた。 「ああっ、一刀様、かずとさまっ」  亞莎のうなじにかかる髪に顔をうずめるようにしながら、俺は彼女を少しだけ乱暴に突く。彼女はまだ二度目だというのに、亞莎とつながっているという快感に、どうしても我慢できず性急に腰が動いてしまう。  だが、彼女は、それを受け入れ、なおかつゆっくりと腰を動かすことまでしてくれた。ぎこちないながらも俺の動きにあわせて、円を描くように動かすその動きが俺にさらなる快楽をもたらす。 「気持ちいいよ、亞莎」 「ほ、ほんと、ですっ、かっ。うれし、ああ、一刀様が、なかで、暴れて!」  とぎれとぎれにあげる声。尖りきった乳首を指でいじるだけで、背が跳ね上がりそうになるのがわかる。 「亞莎の中が気持ちよすぎて、腰が止まらないよ」  変につぶれないよう気をつけながら体重をかけると、亞莎の膝が崩れ、寝台にへばりつくような形になる。そのまま、彼女の尻を押しつぶすように、突き入れ、こねくりまわし、ぎりぎりまで抜きかけ、入り口をいじったあとで、再び深く突き入れる。 「お、お好きなようになさ……んっ、てくださいっ」  体の内奥からわき出る感覚に驚いているのか、亞莎の腕が、布の上を泳ぐ。しがみつけるものを探し、諦めたように、ぎゅっと握られる両手。 「私はっ、か、一刀様に、気持ちよくなっていただけ……あっ、くっ。それでいっ」  彼女らしい言葉だな、と思いながらも愛しい少女の首筋をなであげて囁く。 「だめだよ。二人で気持ちよくならなきゃ」  体を起こし、つう、と背筋に指を走らせる。ひゃうっ、と声をあげ、軽く震える彼女の体に両手の指を躍らせる。 「それに、まるで気持ちよくないってことは……無いよね?」  俺のものを呑み込んだ秘所はたっぷりと蜜を吐いている。俺は彼女の体と敷布の間に無理矢理のように指をこじ入れ、その場所を目指す。 「そ、それは、あう、一刀様、ああ、そんな、そこっ」  彼女の中をえぐるように突きながら、肉芽を探り当て、優しく振動を与える。 「あふ、く、かず、かずと、さまっ」  首をひねり、切なそうにこちらを見上げる瞳は、たしかに快楽に濡れている。俺は思わず体を下げ、彼女の唇に向かって舌を伸ばす。  顔を横にしているせいで、少し窮屈そうながら、亞莎も懸命に舌を伸ばしてくる。俺たちは、ちろちろと舌先で舐め合い、唾液を絡め合った。  杭を打ちつけるように、大きく抜き、大きく突き入れる。もう、限界が近い。俺は、彼女の中の喜悦を体の奥底から引きずり出すことに専念した。 「お前は俺のものだ」 「はいっ、そうです。私は、亞莎は一刀様の……っ」  懸命にお尻を持ち上げようとするのを押しつぶすようにぐりぐりと押しつける。その一点で、亞莎の動きが変わった。その喉から、甘い声が長く途切れること無く溢れ出る。  そうか、亞莎の弱いのはここか。  その場所を重点的に責めながら、亞莎の拳の上に、こちらの掌を置く。彼女は拳を開くと、指を絡め、きゅっと力を入れてきた。 「俺のっ……亞莎っ」 「ああああっ、一刀様、一刀様、かずとさまっ、かずっ」  名前の連呼の途中で、快楽が爆発し、俺は、彼女の中に、精を放っていた。長く長く続くその射精の最中、亞莎の体が痙攣し、がくりと力が抜けるのを確認し、俺も、あまりの心地よさに意識を手放さずにはいられなかった。                         (第二部第七回・終 第八回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○序章『基本概念』より抜粋 『帝位継承と天命下降説』 『(前略)……これについては大部の著『帝位継承と天命下降説』に詳しい。以下、その引用をし、わかりにくいところには筆者が注を付した。  まずは根本理念についてみていこう。 「これまで伝統的な天子の概念をみてきたが、三国時代の曹操とその周辺の読書人たちは、天子の絶対性に疑問を提示した。  まず、儒家の教義であり、当時受け入れられていた天人相関説(この場合はこの説のうち、王家が天命を受け天子を継承していくが、やがて徳が衰微すると新たな徳を持つ王家にその座を譲り、王朝が交代していくという部分)を土台として、一代の天子の人生の中でも、天からの命を受け取る量は一定ではなく、治世の中で上昇下降し、全盛期を迎えて、いずれは衰えていく、という説を唱えた。  天命を受け続ける天子であるならば、老いも死にもしないはずだ、というのが彼らの主張であり、すなわち、老いや死を迎える皇帝たちは、すでに天命から見放されているのだ、という論である。  (中略)  (この論に基づいて)天命がある程度衰えたならば、次代の、より強く天命を受けられる天子に継承を行うべきである、という天命継承説が、北郷朝における帝位継承の大原則となった。  通例、中華王朝での帝位は、死亡継承が普通であった。軍の掌握等を背景に、子や兄弟に強引に廃位に追い込まれる例もあるが、ごく稀であり、通常は皇帝位につけば死ぬまで帝である、というのがそれまでの慣例であった。これは、一面として、政治の安定を招く。  しかし、当然だが短所も存在する。皇太子を定めていたとしても、皇后や外戚に反故にされ、皇帝死後に継承争いが起き、王朝が疲弊する可能性や……  (中略)  北郷朝においては、この死亡継承を取りやめ基本を生前継承とした。不慮の事故や急な病により継承以前に没した例はあるが、二十四代の中では、周家(刀周家)の弑逆継承を除けばわずか二例にすぎない。  この生前継承を理論的に支えたのが、曹操たち、すなわち、北郷朝のそもそもの企画者たちが提唱した天命下降説(のうち天命継承説)に他ならない」  人は老い、衰える。その基本的な事象を、天子という存在だからと否定していた歴代王朝とは違い、北郷朝は建前としては天子の聖性を保ちながら、手遅れになる前に交代させることを企図した。これこそ、五十もの皇家を抱える北郷朝であったればこそ採用できた方式であったろう。また、これにより継承時の紛争を回避し、当然に王朝の寿命を長くすることに成功したことは、評価に値する。  では、具体的な帝位継承の機構はいかなるものなのか、同著より引用を続ける。 「皇帝候補選びは、最短で十年、最長で十五年程度かけるのが通例である。新帝が即位すると、その時点で五歳から二十五歳程度の全ての皇族(男女問わず)の行動が七選帝皇家の面々による評定にさらされることとなる。(現実的には七選帝皇家は常にこの行動評価をし続けている)ただし、あまりにも根拠地が遠い皇家の人間の場合は、自ら皇帝候補を辞退する旨の書を送ってくるのが習わしである。もちろん、この慣習に従わず遠隔の皇家に連なる者でも皇帝候補であり続けることは可能であるが、その場合は、最終選別の十年後の時点で、帝国本土でなんらかの官職を得ていることが条件となる。また、特定の皇家に連なる人間は当初から皇帝候補選定から外されている。(美袁家、七選帝皇家など)  具体的な行動評価の指針に関しては、選帝皇家各家でその基準が異なり、たとえば、選帝皇家筆頭の劉家(蜀劉家または靖王劉家)では、主に人格面の評価をし……  (中略)  ある帝の即位十年に、次の帝の最終候補者三人が選別される。十八回中十五例という高い割合で、男一名女二名という組み合わせであったが、これは特に定められていたわけではない。皇家の男女比が女性に傾いていたことが、大きな要因だったと思われる。(三名全てが女性だった例もある)なお、この組み合わせの場合、血が濃すぎる例を除いて、三名は婚姻することが多かった。  (中略)  三名に絞られた後、二年から五年後に皇族会議が開催される。  この期間の長さは、その時点における皇帝の年齢や体調、候補者の年齢等によって定められるものであり、その間、皇帝候補たちは、次代の皇帝という重責に堪えて職務を遂行できるか、地位に奢って徒党を組もうとしないか等、より慎重に行動を観察される。  皇族会議は知っての通り皇家の代表者が参加して開かれる会議で、ここでの決定は帝を動かすほどの強制力を持つ。定期的には十年に一度だが、皇家代表であれば、誰でも年に一度は招集が可能だった。この会議には代理であっても皇家の人間しか参加できないため、いかに遠隔の皇家も、帝国本土に皇族を一人は駐留させていた。  皇太子決定の皇族会議は特例として、皇家の代表者に加えて、現役の皇帝と、(生存していた場合)皇帝経験者の参加が強制される。皇帝及び皇帝経験者には、出身皇家の票とは別に投票権が付与された。(ちなみに、これは皇帝を退いた後の唯一の特権である)  皇族会議において三名の候補者は面談を受け、自らの行動評価を聞いて、それに対して意見を述べることが出来る。  その後、投票となり、選ばれた一名は新しい天子となることが約束される。残り二人は、新帝が即位した後にそれぞれ大将軍(もしくは大司馬)と丞相につき、兵権と政権を担うこととなるが、これは、皇族たちがもし天命を受けるべき人物を選び損なっていた場合、残り二人こそがその任を受けるはずで、三名が補い合えば国家は安定するであろうという考えからである。(ここでは、七選帝皇家が候補者選びを誤ることが想定されていない)」  このように、北郷朝における帝位継承者の選抜機構は、皇家全体に目を向け、優秀な人材を取りこぼさないように配慮された仕組みである一方、一見、権力主体が定まらないようにも見える。つまり、五十ある皇家のあちこちの血統に皇帝権力が移り変わり、安定しないのではないか、という点である。  ここで、忘れてはならないのが、皇家同士が、結束を保つためにも血の拡散を防ごうとしていたことで……(中略)……  三名の最終候補者が男一、女二という構成である場合、後に婚姻することが多いということは記されているが、それ以外の場合でも、この候補者三名はなんらかの形で血を交えることが多かった。また、六代桓帝あたりからは皇帝が男性の場合、全ての皇家から妻を娶るのが慣例であった。  これにより、名目上は各々の皇家に属していても、初期候補者は直近三代ほどの皇帝の血を引いていることがほとんどで……(後略)』