いけいけぼくらの北郷帝  第二部『望郷』編 第六回  雪蓮とのわだかまりがまだ解けず、孫権と甘寧とは相変わらずで、亞莎が三角州地帯の測量からまだ帰っていない頃──。  俺は、自然とシャオや穏との接触が増えていた。今日も、この二人といっしょに街をぶらついている。一応、名目上は警邏と、その付き添いとなっているのだけれど。 「あれ、これって、華琳の作らせた新造銭じゃないか?」  肉まんを買って、もらった釣り銭の中に、久しぶりに見る、けれどなじみのある貨幣があるのに気づく。漢の銅銭ではない、華琳が鋳造させた銅銭だ。 「え? ああ、こっちでも通用ひてふよー」  俺の手元を覗き込んでいたシャオがもふもふと肉まんにかじりつきながら言う。 「へぇ」 「漢銭よりは、少し価値が高いものとみなされてる場合がほとんどですねー。我々としましてはぁ、少々厄介と思っても黙認していますぅ」  あつあつの肉まんをあちあちと両手で持ち替えながら穏が言う。うん、なんか、こう見下ろすと肉まんが三つあるような気も……ああ、脳内の凪さん、冷たい目で見るのはやめてください。決して邪な気持ちではないのです。……たぶん。 「公的にはないことにしているの?」 「いえ、公的にはこれまでの銅銭と同率の換算です。ただ、やっぱり新しくて、しっかりしてますからー」  市場で勝手に値段が上げってしまうということか。 「これが来ているのは建業だけ?」 「いえ、そうとも限りませんねー。魏から荷が運ばれる都市はそれなりにありますからー」  穏の言に色々と思うところがあった。地続きでもあるし、手から手を渡って流れてくるのはわからないでもない。しかし、魏と呉の間にはかなりの距離があるのもまた事実なのだ。こういう交流を見ていると、なにか、新しいことができるのでは……。  物音で思考が途切れる。 「なんばーん」「せんたーい」「ねこれんじゃー」「じゃー……」  聞き慣れた声が耳朶を震わす。相変わらず一人、眠そうだな。 「……なんだありゃ」  見上げれば、商家の屋根に、仮面をつけた美以たち南蛮組が勢ぞろいだ。思い思いになにかポーズを取っているのは、どこから取り入れたのだろうな。  周りでは、街の人々がざわざわと騒いで注目している。ああ、こういう時は掏摸の稼ぎ時だから注意しなければ、などと警備隊長をしていた頃のことが頭をよぎる。 「一刀さーん、なんとかしてくださいー」 「え、俺?」 「そうよ、一刀、こういうの担当でしょ」  当然のように言われる。しかもなぜか自信満々だ。 「いつの間に!?」 「シャオが決めたの!」 「うわあ、見事に無茶を通しますね、シャオさん」 「えっへん」  なぜか胸をはる小蓮。いや、褒めてるわけじゃないんだけどな。  とはいっても、こういうことに慣れているのも事実だ。穏は落ち着いているものの、すっかり俺に任せてしまっている感じだし。  屋根の上でなんだか口上を述べている仮面の美以たちが噂になりつつあるのか、人々の群れはさらに集まりつつある。これは、なんとかしないと不測の事態が起こりかねない。 「とりあえず、恋と華雄を呼んでおいてくれないか。なにがあっても民に被害を出すようなことはなくしとかないとね」  兵を多数呼んで不穏な空気をかもしだすより、最強の戦力で早めに取り押さえる方がいいだろう。 「了解ー」  そうして、宮城へ戻るシャオを見送りながら、俺は事態収拾へと乗り出すのだった。  俺の部屋には、月、詠、恋、それに美以という面子が集まり、卓を囲んでいた。ミケ、トラ、シャム、さらにセキトは庭でぽかぽかお昼寝中だ。 「なに? この面々」 「蜀に滞在したことがある人間を集めてみました」  詠の疑問に応える。明命が持ってきてくれた書簡に書かれていたことで、蜀に詳しい人間に話を聞いてみようと思ったのだ。 「……美以まで?」 「隣接する南蛮を治める王様だからね」  たまたま遊びに来ていたので、ちょうどいいな、と思ったのもあるわけだけど。 「兄には、この間、はつじょーきの時にとってもお世話になったから、なんでも聞いてくれだじょ」  なぜか恋の膝に座った美以が、胸を張ってそんなことを言い出す。いや、たしかに言う通り、発情期──なぜあるのだ?──を治めるのには協力したが、なにもこんな時に言わなくとも。美以に悪気がないのはわかっているのだけど。 「あ、あんた、美以にまで……」 「は、発情期……」  顔を真っ赤にした月と詠が呆然と呟くように言う。その反応に不思議そうな美以。一人、恋だけが平然と月が焼いてきてくれたお菓子をぱくついている。俺が教えた洋菓子をこちらで採れる果物や乳製品を使って再現したものだが、なかなか美味しい。このタルトなんて……。  そんな風に俺が現実逃避している間に、話は進んでいってしまう。 「月や詠だって、たまに兄に発情してるにゃ?」  さらに弾けるように赤くなる二人。詠なんて、赤いの通り越して青ざめちゃってるぞ。 「な、なに言ってるのよ。ば、ば、莫迦言わないでよ!」 「へぅ〜」  あんまり焦ると、心当たりがなくてもあるように思われるので、やめたほうがいいですよ、詠さん。 「隠してもだめにゃ。みぃには匂いでバレバレにゃ」  なにか言おうとして、言葉が出ないのか、ぱくぱくと口を開け閉めするばかりの詠に、ふるふると頭を振るばかりの月。 「ご主人様は、人間、発情させられる……すごい……」  恋は一人でわけのわからないことに感心して俺を尊敬の眼差しで見ている。頼むからやめてほしい、そんなつぶらな瞳で発情させるのを讃えるのは。 「ええい、あんたが救いようのない女たらしなのはまた後で追求するとして、話を進めなさい。ほら、はやく!」  後が思いっきり怖いが、進めないでこの話を掘り下げる方がもっと怖い。そういうわけで、俺も慌てて書簡を取り出して、話を進めることにした。 「えっと、明命が色々書簡を持ってきてくれたのは知っているね。それで、疑問が出てきたことがいくつかあるんで、みんなに聞きたいんだ」 「そ、そう」  まだ落ち着かなさげな詠に対し、なんとか立て直したらしい月がかわいらしく小首をかしげる。 「えっと、ご主人様は蜀には行かれたことないんでしたっけ」 「攻め入ったことはあるけどね」  苦笑いを浮かべて見せる。月はなんだか申し訳ないような表情を、詠はしまった、という表情をそれぞれ浮かべていたが、あまり触れたくないことなので、軽く流してしまう。 「そんなわけで、詳しいことはわからないんだ。色々教えてほしい、いいかな」 「もちろんだじょー」 「……わかる、ことなら」 「ボクたちも、わかることなら、ね。あそこではあくまで侍女だったから、限界はあるわ」  月は口に出さずこくこくと。もちろん、蜀への義理もあるだろうし、それこそ国家の機密に関わることなどはおのずと限界もあるだろう。今回はそんなことは要求しないから、問題ないけれど。 「うん、それで充分だよ。じゃあ、まずは……そうだな、これは俺の世界の知識なんだけど、火を噴く井戸というのが蜀にあるというのを見てね。それを秋蘭に調べてもらおうとしたんだけど、なんだかその地方には足を踏み入れるのをやんわりと拒否されたということなんだよ。もちろん、危険なのかもしれないけど……」 「火を噴く井戸、ですか……」 「……恋は見たことない」 「みぃも知らないにゃ」  まったく見たことも聞いたこともなさそうな三人に対して、詠はなにかひっかかるところがあるのか、顔をうつむかせて、懸命に思い出そうとしてくれている。 「井戸、井戸……燃える井戸。あー、ちょっと待って」  思い出しそうで思い出せないのか、苛々した調子で自分のメイド服のあちこちをひっぱったりなおしたりする詠。不意に記憶が蘇ったのか、ぱっとあがった顔は晴れ晴れとしていた。 「思い出したわ。それ、火井ね。視察を断られたのは、元々、塩井の副産物だからじゃないかしら」 「塩井?」 「蜀の東南のほうで井戸を深く掘ると、塩水が出るようになるんだって。田畑に引いたり、生活用水にしたりするには不向きだけど、それを汲み上げて乾かせば、塩を生産できる。塩井ってのはそれ。そしてね、さらに深く掘ると、燃える風が噴き出してくるっていう話よ」 「それが火井か。へぇ……」 「そのままだとひどく燃え上がったりするけど、しばらく外からの風も入れて馴染ませると、程よく燃えるようになる、と聞いたわ。塩井での塩生産は、大きな鍋で煮詰めて行うんだけど、火井からの燃える風をそうやって馴染ませて、ちょうどよく燃えるようにして、鍋を煮る火力として用いてるそうよ」  詠の情報も伝聞だが、それを聞く限り、おそらくは天然ガスだろう。石油かなと思っていたのだが、それとは違ったようだ。油田由来のガスもあるが、これはどちらかというと、岩盤の中のガス層に当たっていると考えた方がいいだろう。  塩精製のための燃料として利用しているというのは驚きだが、その場で使うならともかく、貯蔵したり運搬したりするのは面倒そうだ。元居た世界のように液化なんてできっこないしな。これは燃料として着目するのは難しいかな。 「でも、詠ちゃん、なんで秋蘭さんが見せてもらえないの?」 「ああ、それは、塩井が蜀にとって重要機密だからよ」  月が困ったような顔になるのを見て、慌てて説明を加える詠。 「んっと、まず、塩が国を左右する重要な物資だということは知ってるでしょう?」 「そうにゃん?」  美以が詠が説明しているのを横目に小さな声で俺に訊ねてくる。 「ああ、塩は生活に必要不可欠だからね。料理にはもちろんだけど、食べ物を保存したりとか色々使われているんだ。人が生きてる限り必要となるから、国にとっても重要事なんだよ」 「ほへー」 「こいつの言う通り、塩は生活に必要不可欠だから、普通は国が専売制を敷くわ。漢でもそれは同じ。……ま、いまは名目上は漢の代行をするという形で、実質三国がそれぞれに専売制を敷いてるわけだけど。ともかく、蜀が辺境の内陸部でも財政をまわせるのは、塩井があるおかげもあるのよ」  恋と美以の二人は少々置いて行かれている感はあるが、本人たちはわかっていないまでもふんふんと詠の話を大人しく聞いているから、まあ、いいか。 「蜀にとって大事な収入源ってことね。ありがとう、詠ちゃん」 「うん、でも、実はそれだけじゃないのよね」  詠は苦笑いをしながら言葉を続ける。 「塩井ってのは、その地方だと、外れもあるにせよ、ある程度井戸を掘れば作れちゃうの。でも、国としては──これは漢でも蜀でもいっしょだけど──専売制をとってるんだから、勝手に住民に作られたら具合が悪い。だから、認可制になるわけだけど、やっぱり、目を盗んで勝手に掘るやつも出るわけよ。ただの井戸に見せかけたりしてね」  ある意味、当然といえば当然だ。塩は専売制をとっているせいもあって、高い。しかし、何度も言うように生活上、必要不可欠な存在だ。となれば、自分たちで取ってしまおう、あるいは少しそれを売って儲けようと思ってもしかたあるまい。 「そういうのは、行き過ぎない限りは地域の住民の小遣い稼ぎとして蜀では黙認してるようなのよ。実際、普通の井戸を掘ろうとして意図せず塩井になってしまった例もあるらしいし、全て見張るのは難しいわ。でも、秋蘭を入れるとなると、しっかり取り締まらなきゃならなくなる。しかも、名目上はいまだに漢が専売制を敷いてるんだからね。中央の意を代表すると思われる魏の大使が視察となれば、警戒したくなるのもわかるってもんでしょ」  つまり、秋蘭は蜀の経済状況と、政策の徹底具合を探ろうとしたと受け取られているわけだ。単純な興味が主な理由だったために、そんな重大事になっていると思うと申し訳ない。 「俺の頼みのおかげで、秋蘭が悪い印象をもたれちゃったろうか?」 「どうでしょう、そこまでとは思いませんが……」 「大丈夫でしょ。警戒しているとしても、朱里……諸葛亮と鳳統だけよ。他はてんで金の流れに疎いんだから。それに、実際に秋蘭に蜀の懐を探る意図があるかどうかぐらい、あの二人なら動きから見て取れるでしょうしね」 「そっか……わかった、ありがとう」  いずれにせよ、秋蘭には事情を説明して、謝っておかないといけない。魏と蜀で利害が対立することというのはもちろんあるだろうが、それをわざわざ深刻にする必要はない。 「じゃ、この話はひとまず終わりとして、次に行こう。霞からの手紙を読んでいて疑問に思ったことなんだけれど、なぜ、いまだに馬家は蜀にいるんだ?」  火井話の項目に話を聞いたチェックをして、次の項目を読み上げる。四人は目を見合わせて、代表者のように詠が聞き返してくる。 「どういうこと?」 「いや、霞によると、実際に鎮西府に来ている馬岱もそうなんだけど、その馬岱から話を聞く限り、馬超やその配下の人達はすでに魏への復讐心のようなものは払拭されているらしいんだ。しかも、西涼に帰るか、せめて仕事で関わりたいという人ばかりらしい。でも、大半は蜀にとどまったままだ。そのあたり、まだわだかまりがあるのか、推測でもいいから教えてほしいな、と」  もちろん、義理や人情というものがある。棟梁たる馬超は、俺の世界だと蜀の五虎将軍なんて呼ばれているくらいだし、蜀へ仕えることを選択したという可能性もある。しかし、本人だけならともかく、馬超は西涼の民を統べる立場でもある。その場合、情や理をはねのけてでも利で動かねばならないこともあるだろう。そのあたり、彼女はどう考えているのか、俺にはよくわかっていなかった。以前、三国会談で出会った折りには、少しでも早く西涼に帰ることを望んでいたようにも見えたが……。 「私たちが帰らなかったのは……死んだことになっているからですけど、翠さんたちは、やっぱり、蜀の一員という意識が強かったんじゃないでしょうか」 「それはどうかしらね。桃香たちがボクたちだけを逃したってことは、蜀の首脳部からしてみたら、西涼勢は蜀の同盟相手であるという意識があったとは思うけど、それが西涼の側と同じ認識かどうかはわからないわ。翠や蒲公英はともかく、西涼の兵が蜀に帰属意識を持っているとは考えにくいでしょう」 「それは……そうかも」 「もちろん、翠自身には蜀が居心地いいのかもしれないけれど、いずれは西涼に帰ることを夢見ているでしょうね。問題は、周りから蜀の者だと見られていることだと思うけどね」  その問題は、三国会談の時に、諸葛亮自身が指摘していたな。  ただ、現実問題として、すでに魏の涼州支配は地盤固めが終わりつつある。これが完全に終わる前に涼州と蜀から挟み打ちにされると非常に困るが、民も恭順している現状で涼州を睨む長安に鎮西将軍として霞を置いている以上、たとえ挟撃がうまく行ってもなまなかなことでは打ち破れまい。 「蜀のために動いてくれてもいいんだけどね。西涼の民のことを優先させてくれれば、それで……」  実際、涼州と蜀との経済交流などが促進されるならそれはそれでいい結果を生むだろう。 「そんなおめでたいこと考えてるのはあんただけ……いや、こいつがそう言うってことは案外、華琳もそうなのかしら……?」  なんだかぶつぶつと呟きつつ考え事に入ってしまう詠。 「そうなると……馬超将軍は蜀が動くと思われると困るので、うかつな動きができない。配下は馬超将軍がいる以上は蜀にとどまっている、って解釈でいいのかな。基本的には、西涼に帰ることを望んでいるが、それが叶わない、と」  涼州兵──この場合、西涼の騎兵以外ということだが──は、月たちがいなくなった途端に蜀を離脱して、大半が涼州に帰還しているものな。一部が漢中あたりに流れたという話もあるけれど。 「基本的にはそれでいいと思うわ」 「なんだか大変にゃー」  美以がしみじみと言うのがおかしかった。自分は長い間本国を空けたりしているのにな。 「恋は……どこにいるかはあんまり気にならない」  恋がぽつりと言う。彼女の場合、場所よりも、セキトをはじめとした家族たちといっしょにいられるほうが大事だろう。そういう意味で、半年も引き離しているのは少々辛い。  しかし、誰と共にいるか、か。そうなると出てくるのが以前から気になっていた蜀のトップ、劉備だ。 「じゃあ、馬一族全体の話はそれでいいとして、さっき、馬超さん自身は、蜀が居心地いいって言っていたけど、それって、やっぱり劉備の大徳ってやつかな?」  俺が訊ねてみると、四人ともなんだか考え込むような表情になる。 「大徳……ねえ」 「大徳……」 「……」 「だい、とく?」  予想通り美以は意味がわかっていなさそうだが、他の三人まで黙り込んでしまったのは意外だ。もちろん、劉備像には後々付加されたものも多いし、この世界にいる同時代の人間でも、他人がその人の実像を掴むのは難しいことだが……。  結局、沈黙の末、おずおずと月が切り出した。 「ご主人様は、たぶん敵対していた時しか知らないので、よくわからないかもしれないんですけど、その……蜀ってそういう堅苦しさってあんまり……ないんです」  そう言って、なぜか申し訳なさそうに顔をうつむかせる。 「そうねえ、魏なんかに比べると緩いかも」 「魏も内実はずいぶん緩いもんだぞ?」  将軍がさぼってお茶してるとか、軍師が見はり台で猫連れて昼寝してるとか、そんなことがざらにあるというのに、さらに緩いってどんな世界だ? 「比べ物にならないわよ、桃香や愛紗はともかく、他は一癖も二癖もある連中ばかりだしね。だいたい、董卓と賈駆をこんな格好させて侍女にする国よ?」 「メイドか? そりゃ、俺だって……」 「元はあんたの国の衣装でしょう。今でこそ慣れたけど、本来はボクたちから見たら、珍妙すぎるのよ!」 「かわいらしいとは思いますけど……」  月がフォローしてくれるが、メイド服そのものに関してはともかく、詠の言うこともわからないでもない。いくら華琳たちが実験で流行らせたからといって、董卓という重要人物にこの格好をさせて置いておくというのは豪胆でなければ、それだけ緩やかということの証だろう。考えてみれば、俺はその行為を引き継いでいるにすぎない。 「恋たちはどうかな?」  とりあえず別の意見も聞いてみようと恋と美以に水を向ける。 「桃香は……優しい、いい人」 「とーかは、おもしろいじょ」  恋と美以の劉備への評価は、一国の王に対するものというよりは、友達相手のものに近いような印象を受ける。美以は誰でもそうだろうとは思うけれど。しかし、そんな美以が戦時下でものびのびやっていけたのが蜀という国の雰囲気なのだろう、と思うと少し理解できた気がした。 「劉備さんってのは魅力的な人物なんだろうね」  俺には想像できないながらも、彼女たちの言う緩さの中で国を統治できるとなれば、なかなかの人物には違いあるまい。 「そうね……正直言うと、ボクは桃香の理想に関してはいまいち理解できなかった。月と同じく、大陸を平和にするのを目指しているのはわかったんだけど、そこから先がどうもね」  詠は肩をすくめ、珍しく月は苦笑いのような表情を浮かべている。一国の王が掲げる理想はそれぞれに異なり、当然、それに仕える者の思惑も異なってくるだろう。 「そういう部分を除いて考えても、桃香は魅力ある人物なのは間違いない。もちろん、ボクには月がいるから主と仰ぐつもりは毛頭なかったけど、少なくとも入蜀までつき従ってきた民は、彼女を間違いなく理想の領主と信じていた。施策そのものもだけど、やさしい娘だから、民にとってわかりやすいという面があるんでしょうね。あとは、美人だけど、美人すぎないところは重要ね。華琳も雪蓮もそういう意味でちょっと近寄りがたいでしょ」 「雪蓮は市井の人間に高圧的な態度はとらないと思うけど。さすがの華琳も理由が無ければしないし」  とはいえ、美人すぎるという点には同意だ。特に雪蓮のような、触れれば切れるのではないかと思えるような美しさは、見ているだけの者には冷たさにも映ってしまう。彼女の場合はそれもしっかり意識して使い分けているだろうが……。 「たしかにそうなんですけれど、それは洛陽や建業にいないとわかりませんから……。噂というか、実際に会っていなくても、遠目で見るだけで、そういう印象を得られるかというと……」 「それはそうだね。華琳なんて、特にな」  無辜の民に対してはともかく、愚かしい行動をとる人間に対しての華琳の態度はそれはもう冷淡を通り越して恐怖を抱くほどのものだ。彼女は場所や相手の地位なんかに構ったりしないので、町中でも平気で面罵したりする。そのあたり、イメージ戦略としてはあまりよろしくない。すでに覇王としての恐怖像が浸透しているから、いまさらではあるが。 「なんにしろ、民にとっては生活が大事。華琳は様々な政策を実行し、黙って民に安全と食糧を与えることで信頼を得ているし、雪蓮は孫呉の地を文字通り守護することで尊敬を集めた。桃香は、そうじゃない。たとえ民に一時的に負担を強いることになっても、目指す先に優しい世界、皆が笑える国があるということを自分の存在と魅力で納得させた。理想の実像というよりは、なんとなくでもその雰囲気を民にわからせるということ。三国をまとめるとそんなとこだと、ボクは思ってるわ」  詠の評を聞き、その中身を吟味する。華琳と雪蓮についての評はよくわかる。  華琳はその支配下に降った人間に対しては寛容な人間だ。使えない者は切り捨てる、と口で言いつつ、生きていくのに必要なものを与えないほど冷淡でも無い。重要な地位を与えられた場合は、ふさわしい働きをしていないと容赦なく降格させられたりするので、そういう意味での緊張感はあるが、民は比較的自由にしていられる。  雪蓮をはじめとした呉はもっとわかりやすい。その庇護下にいる者は、呉軍によって護られる。豪族の寄り集まりという性格もあって、政策の傾向は保守的だが、それだけに安心感もあるし、呉が護られている限りは、民は不満を覚えないだろう。  一方、劉備さんへの評は複雑だ。俺自身はなにしろ挨拶くらいしかしたことがないから、劉備さん自身の魅力は未知数としても、民は実状よりも、『希望』を重視しているように思える。いま苦しくても、明日には、来年には、もっといい日々が待っている、そういう日々がこの人の下なら実現できる、そう思っているかのようだ。しかし、それは空手形ともなりかねない危うさをも秘めている。希望はいつまでも叶えられないままでは、絶望へと転じてしまう。そのあたりをうまく回避し続けているからこその、『緩さ』なのではないか。俺はそんなふうに思った。 「ふーむ」 「ご主人様も、桃香とお話しすれば、たぶん、わかる」  考え込む俺に、恋が助言してくれる。彼女が言うのなら、その通りなのだろう。 「三国会談の時は忙しくて、あんまり話もできなかったからなあ。残念だったな」  なにしろ、あの時は祭の件もあったし、正直、蜀の面々はなんとか顔と名前が一致するかどうかというくらいだ。 「なんとなくはわかったよ。うん、参考になった」  そう言って、改めて礼を言う。いまのところ蜀に関わる仕事には従事していないが、いずれ三国の関係などを考えるときに、これらの情報はきっと役に立つだろう。なんとなくそう思った。 「しかし、改めて聞くと、魏と蜀は似ているんだな」 「……へ?」  詠の口がぽかんと開く。月も俺の言葉がよく理解できないのか、困ったような顔をしている。 「いや、頂点に立つ者の魅力や理想で国が成り立っているってところがね。呉は豪族連合だからそういう成り立ちじゃないだろ」 「……それは、そうかもしれませんが……」  月はまだ納得できないようだ。一方で、詠は何事かに気づいたかのような表情で、俺のことをじっと見つめてくる。恋と美以はあんまり反応がない。元々国の成り立ちとか考えないのだろうな。南蛮は、もっと単純だし。 「それに、ほら、中心にいるのが、三人ってのも同じだよな。華琳と春蘭、秋蘭に対して、劉備、関羽、張飛……」 「いまわかったわ」 「ん?」  俺の声を遮って、詠が鋭い声を上げる。なんとなく緊迫感のある調子だったので、話を続けるのをやめて、聞き返す。 「魏の人間が、蜀に無理難題とも言えるものを求めている理由がようやくわかったのよ」 「どういうことだい?」 「あんた、いえ、あんただけじゃない。魏の面々は程度の差こそあれ、劉備、関羽、張飛の三人を、曹操、夏侯惇、夏侯淵に擬しているのよ。無意識かもしれないけど」  詠はかなり激しい口調で言い募る。たしかに先程言った通り、最古参の面子がなんらかの強いつながりを持った三人組ということで、比較することはあるかもしれない。 「んー? そりゃ、微妙に違うけど、似たような構成だろう?」  主に武将二人。片方は突撃型で、片方は多少抑えがきく。こう並べて見れば、似ているのは間違いない。 「大違いよ。わかりやすく言うわね。魏なら、この三人がそれぞれ一軍を率いてことにあたることができる。でもね、蜀の三義姉妹は、無理なのよ」  春蘭一人だけに軍を任せるのは多少不安はあるが、無理というほどではない。あの突破力と野生の勘が役に立つ場面も多いしな。しかし、こうもきっぱりと言い切るということは、その三人は、三人であってこそ、という部分が大きいのだろうか。 「そう考えてるから、麾下の武将たちだけで、人材が豊富だと思えるんだわ」  以前、俺が人材が豊富だと言ったのを覚えていたのだろう。うんうんと一人納得して頷く詠。言わんとすることはわからないでもないが、少々飛躍もあるように思える。 「でも、実際武将は豊富じゃないか。厳顔、黄忠といった経験豊富な武将から、馬超、馬岱、趙雲、魏延と勢ぞろいだろう。なにより、伏竜鳳雛がいる」  ただ、俺の印象は三国志演義やなにやらで水増しされている可能性は高い。 「じゃあ、訊くけど、その内の何人が書類仕事をこなせると思う?」 「伯珪さんは仕事ぶり見る限り、かなりこなしていたし、桔梗もさぼって酒飲んでるのになぜかできてたからなぁ。馬岱、魏延あたりは怪しいんじゃないかな?」 「外れ。軍師以外で、言われたこと以外の仕事まで気配りできるのは、あんたも言った公孫賛、厳顔、それに黄忠、この三人くらいよ。それがさらに今回の追放劇で減ったわけね。ちなみに、趙雲はできるのにやりたがらない厄介な癖があるから除外」  詠の言葉に他の面々の顔を覗き込んでみると、恋と美以はどうとも言えないような顔をしていたが、月はしかたないというような笑みを浮かべつつ頷いてきた。詠の意見に消極的賛成というところだろう。 「たしかに、諸葛亮と鳳統はすごいわよ? でも、二人は二人。どうがんばっても、二カ所より多い場所には現れることはないし、指示を下すにしても一時にいくつも並行できたりしない。呉も魏も軍師と言われる人間だけで三人いる上に、呉には王以外に王族が二人──まあ、小蓮に一軍に等しい仕事が任されるかどうかは怪しいけど、蓮華は確実に雪蓮や軍師の名代をこなせる立場よね。魏には華琳とあんたがいて、三軍師以外にも、ボクにねねに七乃。軍師格だけでどれだけ違う?」  畳みかけるように言われる。俺と華琳が並列に並べられているのはちょっと気にかかるが……。詠としては、直接に月を匿う立場である以上、もっと俺に頑張ってほしいところなのだろう。 「でも……魏は大きい」  ぼそりと呟く声は、恋のもの。一瞬、虚を衝かれたようにのけぞる詠だったが、眼鏡をなおしつつ姿勢も戻す。 「……あんた、話聞いてなさそうなのに、たまにずばりと鋭いこと言うわよね」  珍しく厭味もなく感心したように言う詠だったが、当の恋は、新しいお菓子を手にとって、美以と二つに割ったそれをぱくついていたりする。相変わらずのマイペースさだ。詠もそのあたりすでに慣れているのか、溜め息一つつくだけで、それ以上は構おうとしない。 「もちろん恋の言う通り、蜀と魏ではその領土の広さ、人口、文物、流通、様々なものの規模がまるで違う。当然、人手が割かれる。実際、魏ほど人手を必要としている組織もないでしょう。でも、それだけに効率が違うのよ」 「効率って?」 「魏の組織は、華琳を頂点にして、華琳の理想のままに機能的に作り上げられているのよ。さらにはこいつのようなどこでも顔を出せる人員を配置して、その硬直化を防いでいる。一見すると漢の組織の縮小版に見えるのに、全く違うわ。名前こそ似ているけど、その役割からなにから、全て華琳とその周囲の頭脳が何もないところから作り上げた組織形態なのよ。それこそ、庶人をひきあげて将軍にしてしまうような、ね」  月の問いに答えて、詠は溜め息をつく。それは、まるで憧れの存在を間近に見た人間の羨望の吐息のようにも聞こえた。 「これは、という人物を引き上げるのは、呉でも蜀でもやってないか? 明命とか、亞莎とか……蜀は、ええと……」 「そうね、明命は似た例ね。亞莎は武官として名前が通っていたから、あてはまるとは言い難いわ。でも、それくらいでしょ。華琳のところは、立ち上げの三人とうちから降った霞以外ほとんどが大抜擢だったじゃない」  思い返してみると、その通りだ。北郷隊の三人はもとより、親衛隊の二人も庶人出身だし、軍師勢だって下級文官からいきなり登用されている。結果だけみると、どれも大成功なのだが、賭とも言える危うさがあるのも事実だ。  なにより、俺という出所のわからない人間を重用してしまうのだから。これも成功だった、と胸を張って言える成果を上げたいものだな。 「それは……そうか。季衣と流琉なんて、いきなり親衛隊だったな」 「それだけ柔軟性があるってこと。以前、ボクが蜀の組織はつぎはぎで寄せ集めだって話をしたことなかった?」  なんとか思い出してみる。以前、詠が月たちとともに俺に降ると言ってきた時のことだったっけ。 「ああ、そういえば」 「あれは、要は人材もそうやって拾ってこざるを得なかったってことなのよ。吟味する間もなく、ね」  魏は大きい。それだけに人を試してみる余裕がある。役職につけてみて、その能力を量ることもできる。蜀はそれをやるだけの余裕もないということだろう。丸抱えするか、しないか、そのどちらかしかなかったのかもしれない。 「もちろん、こういうこと一つ一つは大きいことじゃないけど、組み合わされば、大きな差異となる。蜀に対するときに、そこらへん覚えておいた方がいいわよ」 「ありがとう、詠。……とはいえ、諸葛亮と鳳統の名前がなあ」 「それもまた、朱里ちゃんたちの策なのかもしれませんね」  頭をかいて二人の不世出の軍師の名を挙げると、月が微笑みながら言ってくる。たしかに、名前だけで相手を萎縮させるのも策の一つか。  そのあたりも含めて、蜀への態度など色々考えてみる必要があるかもしれないな。洛陽に帰ったら華琳とも話してみよう。  忘れないように要点を書きつける。なんだか今日の話だけでこの竹簡は埋まりそうだ。  さて、このままだと雑談に突入しそうなので、済ませておかないといけない用件を早めにしておこう。 「ええと、美以。沙和──于禁が南蛮へ大使として派遣されることになったそうだよ。美以たちが聞いてなかったら、よろしく伝えておいてくれ、って」 「にゃ? 魏からも人がくるにゃ?」  お菓子に夢中だった美以が急に振り向く。ああ、ぽろぽろと食べかけが落ちていく。美以自身は無頓着だったが、恋が丁寧にそれらの屑を払ってやっている光景はなんだか安心できた。 「うん。大使と言っても大使館を開くわけじゃなく、成都の秋蘭と協力して視察を行うという感じみたいだけどね」  沙和と秋蘭、それに華琳からきた書簡を代わる代わる眺めながら、説明していく。実際、彼女たちから来た文書だと、沙和はほとんど成都に拠点を置き、断続的に視察に赴くという風に読み取れる。 「しさつ?」 「見て回るってこと。南蛮には珍しいものがたくさんあるからね」 「うむにゃ。みぃたちの国はすごいじょ」  褒められたと感じたのか、美以が胸をはる。小さい子がこうして胸をはるとなんでこうもかわいらしいんだろうなあ。 「うん。だから、色々見て回りたいんだって、まあ、美以の仲間たちの邪魔にはならないようすると思うよ」 「ふむにゃ。歓迎するよう言っておくにゃ」  これまで気にしていなかったけれど、美以たちは文字を持っているのだろうか? 手紙でなかったら、どうやって伝えるのだろう? 「実質は蜀への大使である秋蘭の手助けとしても……華琳もよくやるわね」  詠が言うのは、この南蛮への沙和の派遣が、蜀への締めつけにつながるという話だろう。南蛮の資源をあてにしていた蜀としては、大使派遣などによって国際的な南蛮の地位が上げるのはあまり好ましいことではない。 「どうなんだろうな。俺は、伯珪さんが大使を解任される前に一足飛びに追放されたことへの釘を刺すためだと思うんだけど」 「そういえば、大使を辞めさせるのやらすっとばしていきなり追放だったわね……。いくら朝廷からの圧力とはいえ、やり方がちょっとまずいか」  華琳としても、蜀の立場に同情はするし、伯珪さんを追放すること自体にどうこう言う気はないだろうが、大使制度をおざなりにするとなればまた別の話だ。 「白蓮の追放は蜀にとっては痛手でしょうけどね。あれは、本当になんでもそつなくこなせる人材だもの。個性の強い周りに埋もれがちだけど」 「魏に来てくれると助かるけどな。伯珪さんみたいな人は貴重だよ」 「それはないんじゃない? 朝廷の手前、いきなり魏には……ああ、あんたの保護下っていう回避策があるっけ」  華琳の盟友、魏の官位はない、というのは便利な位置なのかもしれないな、とこういう時には思う。実質を言えば魏に仕えている俺だが、名目上は独立していることになっている。 「伯珪さんのことは置いとくとしても、南蛮には貴重な資源がたくさんあるから、視察は有益だと思うよ」  華琳によると、銅を産出するのが大きいらしい。銅は鉄と同じく生活の中で必要とされる金属であると同時に、銅銭を作る材料ともなる。平和になったいま、ある意味で最も重要な資源とも言える存在だ。 「それを生かせるとは……そもそも、美以たちは貨幣経済すら理解してないと思うわよ」 「それは……まあ……」  店で買い物をするのですら、最近ようやく覚えたようだからな。 「いい機会だから、そのあたり訊いてみましょうか。ねえ、美以?」 「なんにゃ?」 「あんた、お金って知ってる?」 「うむにゃ。持っていくと、おいしいものと替えてくれるんだじょ」  ほらね、という感じで振り向く詠。俺としては苦笑するしかない。 「まあ……田舎のほうでは、美以と同じようなものだろ」 「そうね。都や大きな都市でもない限り、物々交換がまだまだ主流だし。でも、この子はまがりなりにも王様よ?」 「うん、でもな、詠。それは、南蛮がそういうものを必要としないくらい豊かな証拠でもあるんだよ。複雑な仕組みを持っているからといって、それを広めればいいってものでもないよ。相手が必要としているのなら別だけど」 「あんたの世界の知識のように?」  訊ねる声はからかっているようにも、真剣なようにも聞こえる。何も言わず、こっくりと頷き返す。 「でも、ボクたちはそういう知識を持っていて、下手をしたら無道な搾取さえ行える。それから身を護るための知識は必要じゃない?」  詠の言うことにも一理ある。生産力や経済力は中原地域が桁違いに高い。それに比べれば周辺地域はまだまだ弱い立場で、そこを利用して富の一方的な吸収が行われる可能性は否定できない。 「……そうだな。うん、ちょうどいい。月と詠でその問題に取り組んでくれないかな? 各国合同の監視機構を作るとか、高等教育機関を設置するとかやりようはあると思うんだ」 「詠ちゃんだけじゃなくて、私も、ですか?」  びっくりしたように言う月。詠はそんな月の様子をじっと観察している。表情が硬いのは歓迎していないからなのか、月に注意が行き過ぎているからなのか。 「うん。すぐに名前は出せないかもしれないけど、月もできれば……。メイドの仕事が足かせになるなら、そこは他の侍女に任せてくれていいし」 「いえ、それは問題ないんですけど」  月はしばらく小首をかしげて考えていたようだったが、詠と目線をあわせ、何事か無言で会話したあとで、頷いた。 「はい、わかりました。美以ちゃんたちが困らないような仕組みを作り上げればいいんですよね。がんばろう、詠ちゃん」 「うん、がんばろう、月」  詠がそう言ったあとで俺に向けてきた視線は、暖かく感謝にあふれていた。そのことが、俺を勇気づけてくれたのだった。 「田租自体は問題ではないんですよ。どちらかというと、賦役こそが実際は国家を支えているんです」 「そこなんだけどね。賦役はたしかに有用だけど、それは人の数を確保できない場合に限るべきだと思うんだよね。それよりは、熟練工にきちんと報酬を払うほうが効率もいいだろう?」 「たしかにそうです、しかし、兵役はどうします? 魏のようにそもそも兵の数が確保できているところでも、主力の軍団以外は屯田をしていますよね?」 「うん。その通りだ。しかしね、実際には食べ物がないってわけじゃない。どちらかといえば配分の問題で、必要となるところにいかに届けるかということで」 「では、その運送をする道をつくるのはどうします? これも賦役でやらねばどうしようも……」  長々と続いていた穏と俺の議論は、唐突な背後からの声で途切れた。 「はい、そこまで」 「詠?」  振り返ってみれば、盆を持った詠が立っている。彼女は俺と穏の前に茶杯を置いていく。 「あんたたち、討論するのはいいけど、お互いの意識がずれすぎね」  おそらく、茶を運んできて、しばらく俺たちの議論を聞いていたのだろう詠がそう評する。二人して気づかないというのも大した熱中ぶりだったな、と茶を呷った。意識していなかったが、喉の渇きも激しかったようだ。 「どういうことですぅ?」 「まず、穏は現在の呉を中心に考えてる。これは当たり前だし、とても正しい。そっちの莫迦はそれに対して、未来の塞内全域を考えてる。違う?」  相変わらず、俺に対してはやたらと厳しいメイドさんですね。彼女がいきなり俺ばかりを立てるようになったら、それはそれでかなりの危険信号だろうけど。 「……どうかな。塞内ですらおさまらないかもしれないよ」 「先走りすぎ。それは華琳あるいはせめて冥琳と討議すべきことで、穏とすることじゃないわ」  それもそうか、と納得する。  人にはそれぞれの役割というのがある。王は国全体どころか、国外のことも考えなければならないが、太守は己の郡のことを第一に考えるべきだ。同じように、軍師にもそれぞれの役割があり、現状では穏は呉全体を見渡す役割を負っているのであって、大陸を見据えた話をするならば、冥琳とすべきだったのだ。どうも、俺自身が定まった位置にいない分、変に段階を飛び越えてしまう癖がある。これは注意すべきだろうな。 「そういうことですかぁ。でもぉ、刺激にはなりますねぇ」 「まあ、こいつもそれなりの発想はするからね」  褒められてるのかけなされているのかわかりません。  ともかく、議論はしばらくお預けとして、俺はごそごそと本を取り出す。 「ああ、そうだ、まだ草稿段階だけど、穏に読んでほしいものがあるんだ」 「本!? 本ですか!」  なんだかえらく食いつきがいいな。さすが、本好きとみんなに言われるだけはある。 「華琳から送られてきたんだけどさ。華琳自身が最近の歴史をまとめようとしているらしいんだ。それで、呉の人達の意見も聞いておいてくれって」  分厚い本は、いくつかつくられたらしい写本の一つだ。まだ最終稿ではないから、分量がかえって多くなってしまっている。 「そ、曹操さんの書かれた歴史書ということですか!」  なぜか鼻息荒く問いかけられる。無駄に身を乗り出してきているので、胸がこぼれ落ちそうにも思える。 「あ、うん。まだ、原稿段階だから名前はないけど、いずれは魏誌とかなんとか題名もつけるんじゃ……」  言い終える前に奪い取られるようにして持っていく穏。そんなに慌てなくても渡すのに……と不思議に思っていたら、彼女は本を天に向けて捧げるように持ち、奇声を上げ始めた。 「ふぉおおおおお!」 「え、あの、どうしたの?」 「あー……」  慌てる俺に対して呆れたような詠。穏の様子はなにかの発作のようにも見えるが、この反応を見ると大丈夫なのかな。 「か、一刀さん、この御本の感想はかならず、かならず、提出いたしますぅ」  ひっしと本を抱きしめるようにしている穏が、鬼気せまる表情で迫ってくる。なんだか、荒い息が顔にかかって、こっちまで変な緊張に包まれてしまう。 「あ、うん、よろしく」 「で、では、早速、この、曹操さんの御本を、ああ、なんてすばらしい、あの曹操さんがこの時代をいかに捉えているかを知ることができるなんて……」  何事か呟きつつ、ふらふらと彼女は部屋から出て行ってしまう。あれ、もう俺との議論はいいのかな。まだ打ち合わせる案件もあるのだが……。次の機会にまわせる程度の緊急度だからいいか。 「あんた、呉の面子から穏のこと聞いてないの?」 「祭も冥琳も、穏は本好きだから、仲良くなりたければ、いい本があれば見せたらいいって……」 「あー、そう。本が好きなのは間違いないけど……。まあ、いいか。それより、あの様子だとどこに行くかわからないから、ボクが城まで送っていくことにするわ」 「あ、頼めるか、ありがとう」  大使館から城までの間でなにかあるとも思えないが、あの様子に多少は慣れているらしい詠に頼む方が確実だろう。 「うん、そのかわり、茶器は片づけておいてね」 「了解」  そうして、たたっと駆けだしていく詠を見送りつつ、穏の態度を思い返しては、いくらなんでも興奮しすぎだよなあ、と首をひねるのだった。  雪蓮と剣を交えた翌日の朝、俺はお礼を兼ねて、華雄の体を揉みほぐせしていた。命を救ってもらった礼としては足りないにもほどがあるが、華雄に褒美だなどと言い出すと間違いなく不機嫌になるのでしかたない。  ただ、酷使した脚に関しては肉離れを起こしているかもしれないので、手で触れずに、冷たい水を含ませた布を巻いてやり、安静にしているように言いつけた。  下着姿で椅子に座って按摩を受けながら、その忠告を聞いた華雄は、お前が無茶をしなければ安静にしていられるのだとひとしきり笑った。それでも、脚は言われた通り動かそうとせず、冷たい布の感触に気持ちよさを覚えていてくれているようだ。 「恋にもしてやったのか?」  手首から肩へかけて揉みほぐせしていくと、気持ちよさそうに吐息をつきながら、問い掛けられる。 「うーん、してやろうとも思うんだけど、そういう仲じゃない女性の肌に触れるのはさすがに遠慮があってね」  按摩をすることに性的な意味はないが、それでも女性の肌に直に触れるとなると色々気をつかわざるを得ない。特に名の知れた武人ともなれば、自分の体のことは自分で済ませたがりそうだし。そういう意味で、こうして華雄が肌に触れさせてくれていることは俺にとって価値あることだ。 「なんだ、まだだったのか」  そんな、俺が手を出すのが規定事項のような。もちろん、恋が魅力的なことは否めないが……。 「まあ、なるようになるだろうさ。まずは美味いものでも差し入れてやればいい」  たしかに、そのほうが喜ぶかもしれない。恋の食いしん坊ぶりは筋金入りだが、やはりあの体から無双の剛力を引き出すには、それだけの燃料が必要なのかもしれない。華雄も喰う時はかなり喰うしな。  だいたい揉みほぐせたと判断したので、仕上げにと香油を取り出し、彼女の肌に広げはじめる。茉莉花の精油を葡萄の種でつくった油で薄めたもので、かなり薄めているのに強い香りが漂ってくる。茉莉花の油は採れる量も少ないが、香りがとても強く、さらに刺激も強いので、肌につけるには注意が必要だ。幸い、華雄には合っていたらしく、そのさわやかで優雅な香りで彼女の肌を飾ってくれている。 「孫策との……んっ、決着は?」 「決着って、また物騒な」  上の下着だけをとってもらい、腕から胸、腹へと油を広げつつ苦笑を浮かべる。いくら真面目に肌にもみ込んでいるとはいっても、彼女の形のいい胸を見ていると、血がたぎり始める。表に出てないといいのだけれど。 「つけるのだろう?」 「まあね。今日の午後、大使館に出向いてくれるよう使者を送ったよ」 「そうか。ふむ、すると……」  ぶつぶつと何事か口の中で呟く華雄。その間に、俺は彼女の肌に香油を塗り込み終え、垂れてきた油を拭い去っていく。 「一つ、頼みがある」 「ん?」 「孫策と話が済んだなら、華雄が孫堅の墓参りを望んでいると伝えてくれないか」 「ん……わかった」  孫堅といえば、雪蓮たちの母で、華雄とも因縁深い武将だ。墓参をしたいという気持ちもわかるし、逆にこれで孫家に含むところがないことを示すこともできるだろう。 「それにしても、ほんとうに……ありがとうな」  何度目になるだろうか、改めて礼を言う。途端に、ぐい、と引き寄せられた。頭を抱えこまれ、彼女の整った顔とごく間近で見つめ合う形になる。 「主を護るのは当然のこと」  にっと笑みの形に刻まれる唇。ますます近づいてきた華雄が、溜め息のような言葉をつむぐ。 「それに、愛しい男を護るのも、当然のことだろう?」  優しく重ねられた唇は、とても柔らかく、燃えるように熱かった。  雪蓮と契ったあと夜も更けたころに、俺は月たちの部屋を訪ねていた。 「月、いるかなー?」  戸口で声を小さく声をかける。すでに眠っていて答えがなければ、明日改めて話をしようと思っていた。しかし、すぐに何事か話し合う声が聞こえることからして、詠も月も起きていたようだ。 「はい、ご主人様」  ぱたぱたと部屋の中で音がしたあとで、がちゃりと戸の鍵が外され、月が顔を覗かせる。メイド服ではなく、軽めの格好だ。麗羽や斗詩たちと似たような上着にロングスカートという姿はなんだかとても新鮮だった。  導かれるままに部屋に入ると、俺には薄暗いと思える灯火の中で、詠が部屋の隅の机に向かっていた。こちらも以前長安で見た時に着ていた軍師の服をよりくつろがせた格好をしていた。軍師服の肩のひらひらとか、外せたんだな。 「なに? 夜這い? またボクたちにやらしいことさせるわけ?」 「ば、莫迦、違うよ」 「へぅ……」  こちらに目も向けず、なにかの書類に向かったまま言い放つ詠と、真っ赤になる月。月は満更でもなさそうだし、そもそも詠自身心底いやならそんな話題を出さないような気もする。 「もちろん、そりゃ、魅力的な二人だから……って、そうじゃない。今日は真面目な話でね……えっと、詠はなにしているんだ、仕事か?」  邪魔をしたいわけじゃない。詠が忙しいようなら、概要だけ話して退散する手もある。 「んーん、趣味。孫子に注釈をつけてるの」 「へぇ……華琳がやっていたやつか」  意外な答えに驚く。もしかして、この時代の頭のいい人間はそういうことをするのが当然なんだろうか。 「華琳とボクじゃ解釈も違うから。孫ピンのほうもまとめたいしね」  孫子は二人いる。孫武とその子孫という孫ピンだ。同じように兵法書を記し、どちらも孫子と呼ばれている。そのおかげで、一時期は『孫子』は孫武の書いたものなのか、孫ピンが、先祖の孫武の書いたものと称して記したのか、という問題が出ていたこともある。俺の世界でも竹簡が見つかったことで、孫ピンはまた別の兵法書を書いたことは明らかになっているが、この世界ではどちらも散逸していないので、当然に二つの兵法書が存在することになる。 「ボクのことは気にせずどうぞ。月に用事でしょ」 「あ、うん」  手は動いていても耳は聞こえるから大丈夫、という判断なのだろう。ずいぶん信頼してくれたものだ。以前なら、月になにかするんじゃないかと──形だけでも──警戒されていたものだが。  部屋の真ん中にある卓に、月がお茶を置いてくれる。ありがたく茶杯の前に座り、彼女に用件を切り出す。 「俺、この世界のことを勉強しなおしたいんだ。どうしたらいいかわかるかな?」 「お勉強、ですか」  月はかわいらしく小首をかしげる。いつでもこの子が動くだけで、華やかな雰囲気になるな。はかなげな印象も常に寄り添うようにあるのが不安というか、護ってやらねばと思わせるのだが。 「私で避ければ、お力にはなれると思います。でも、ご主人様、なんで私に訊くんですか? お勉強のことなら、詠ちゃんのほうが……」 「それは……その……」  俺が言いよどんでいると、ふん、と大きく鼻を鳴らす音がする。もちろん、その音の主は賈文和その人に他ならない。 「月、そいつはね、昨日殺されかけたのがきっかけになったのか、ようやく人の上に立つ人間としての生き方を模索してるの。まったく覚悟と気概だけはとっくにあるくせに、ちぐはぐなんだから」  見事に言い当てられ、思わず赤くなる。詠のことだから、軍師である詠ではなく、一勢力の長であった月に話を持ってきた時点で読み取られているとは思っていたが、どうも朝から承知していたのではないかとも思えるな。 「まあ、その、そういうこと」  頭をかきつつそう言うと、月はしばらく考え込んだあと口を開いた。 「そうですね、四書五経は読まれたとは思いますが、しっかり読み直すことをお勧めします。華琳さんは儒家の思想を好まないとは思いますが、もし敵するとしてもその思想を理解しておくことは大事だと思いますから……。あとは、韓非子、老子、荘子あたりも必要でしょうか。史記、漢書もやはり……。ただ、せっかく呉にいるのですから、まずは呉孫子を読むのがいいように思います」  すらすらと出てくる書名に圧倒される。月や詠などのこの時代の教養人にとって、そのあたりは当然のたしなみなのだろうが、俺にとっては生きるため、仕事をするために無理矢理詰め込んだ典籍ばかりだ。しっかり読み直し、表面だけなぞるのではなく、中身までしっかりと理解しろと言われればその通りだ。 「孫子か……俺は孟徳新書の雛形で読んだな」 「はい、華琳さんはおそらく最古の、孫武が編んだであろうと言われている十三編を注釈されていますが、呉孫子兵法は八二編あります。これは孫子のお弟子さんたちが加えたものや、わかりやすいように古戦場などの例を挙げたもの、あるいは孫子が引いた古書のより広い部分の引用などが含まれているからなんです。孟徳新書の十三編は精髄ですが、それだけではそれこそ、華琳さんや詠ちゃんのような人でないと理解しがたいですし、高級武官では八二編も当然の教養となりますから、お読みになるとよいかと……。おそらくですが、呉には異聞も多く伝わっているでしょうし……でも……」  月は言いにくそうに口籠もり、しばらく経ったあとで、決心したように問うてきた。 「その、失礼だとは思うのですが、ご主人様、字は読めますか?」 「な……そりゃ、いくら、俺だって……」 「莫迦。月が言ってるのは、南方の文字の話。呉や楚の文字が読めるか、って訊いてるの」  詠が口をはさんでくる。思っても見なかったことを言われて、頭の中が真っ白になる。 「……え?」 「字形違うわよ」 「特に古書ほど違うんです。ごく最近書かれたものとか、官用文書とかは、呉の人達の手でも、私たちにもわかるように書かれてるんですけど、古くから伝わる文書はそんなこと考えられていませんから」 「そういえば……なんか妙な書き方をしているなあ、と思ったことが……あれは間違いじゃなくて、形が元々違うのか……」  呉の人達からもらった文書を思い返してみる。そういえば、横に回転したような字や、本数が少ないものがあると思った。それらは、省略とか書き間違いではなかったわけだ。 「あんたが読むのは、一般へ書かれてるようなものじゃなくて、歴史書や諸子の学説や兵法書でしょ? そういうのは当然こちらの字形で書かれてるわよ」  詠はついにこちらを向き、指をふりふり解説してくれる。 「洛陽から送ってもらうか、戻るまで待つか。そうね、あとは、こっちの人間に一緒に読んでもらうか、かしら」  その言葉にひっかかりを覚えて、質問してみる。 「詠じゃだめなのか?」 「ボクは読めるけど……。ボクとあんた二人で読むために貴重な本を書庫から出してくれ、というよりは、こっちの人間と一緒に研究するとしたほうが話が持っていきやすいんじゃない?」 「ああ、そういうことか。さすが詠だな」 「褒めてもなにも出ないわよ。それに、あんまりにも古い字形はボクも知らないしね。ああ、そうそう。あんたが読んだら、それをボクや月に説明してみせたらどう? その方が理解もはやいでしょ」 「それはいいね。私たちにもお勉強になるし、さすが、詠ちゃん」  月に褒められて、ふふん、と満足そうに胸を張る詠。おいおい、俺の時とずいぶん反応が違うな。  しかし、言っていることはもっともだ。人に説明できるようになれば、学んだことはすでにこの身に染みついているという証明になる。 「そうか、月も詠もありがとう。まずは孫子を誰かといっしょに読めるよう、雪蓮に頼んでみるよ」 「そうね、『仲よく』なった雪蓮にねぇ」  にやりと笑みを浮かべ、からかうように言う詠。だが、その口調にどこかいらだちが混じっているような気がするのは、俺の気のまわしすぎだろうか。月はといえば、顔を両手で覆ってへぅ〜とかわいらしい声を上げている。小さな手から覗いている首や顔の肌は朱に染まっていた。 「あ、えー、うん……って、え、なんで?」 「莫迦ね。あんたの部屋はボクたちが掃除しているのよ? 今日は夕食が真桜と呉の大商人たちとだったわよね。その間に汚れた敷布を取り替えたのは誰だと思ってるわけ?」  あー、言われてみれば。  しまった、いまのいままでそのことに気づいていなかったぞ。考えてみれば、これはかなり気まずい。 「別にいまさらあんたの行動をどうこう言うつもりはないけど。でも、多少は気をつかってもいいと思わない?」 「詠ちゃん、そんなこと……私たちの仕事だし……」 「いや、月。詠の言う通りだよ。親しき仲にも礼儀ありって言うしな。でも……ええと、どうしたらいいかな」  これまで気づいていなかったことがいきなり情報として入ってきたせいか、頭がまるで回らない。しかたなく、詠に助け船をもとめることになった。彼女もそのことをわかっているのか、大げさに溜め息をついて見せる。 「あからさまに汚れてる時は、寝台から布を外して洗濯物のところにつっこんでおくだけでも違うでしょうね。直に見なくてすむわけだから」 「わかった、そうするよ。それ以上させると、余計に気をつかわせるだろうし。すま……いや、ありがとうな、詠」  詠に礼を言いつつ、俺は、道具については保管場所を一考しよう、と思っていた。 「どう? これくらいで許してやる? 月」 「え、私は……あ……でも……」  なぜかますます赤くなる月。 「もしよかったら、その……今晩は泊まっていかれません……か?」  突然の申し出に、慌てて立ち上がる詠。彼女が言った冗談を、本当のことにしてしまおうというのだから、慌てるのも当たり前だ。 「ちょっと、月」 「だめ、詠ちゃん?」 「そ、そんな目で見られるとぉ……」  相も変わらず、月のおねだりには抗し難い詠。もちろん、それは俺にも言えることであった。 「はあああうっ」  俺の体の上で、月が跳ねる。  破瓜後すぐは、さすがに線の細さもあって、俺のものを受け入れるだけでも大変そうだった月も、ようやく体が慣れてきたのか、素直に快楽を感じ始めてくれているように思う。  ただ、体が小さいと俺が上から覆い被さる正常位などの体位はあまりに圧迫感を覚えて集中しがたいようなので、彼女を相手にするときは、騎乗位や坐位などが中心となっていた。  いまも、騎乗位で俺が何も言わないのに、がんばって腰を振ってくれている。そのあたりは、『詠ちゃんといっしょにお勉強』したのだそうだ。  その詠も、いま、俺の上にいる。  そう、彼女たちは二人とも寝そべった俺の上にいる。月は俺のものを呑み込んで腰の上に、詠は秘肉全体を俺に銜えられるようにして、顔の上に。 「はっ、くふう、ああっ」 「詠ちゃぁ……んっ」  二人は、腕を伸ばし、抱き合うようにして、お互いを愛撫し合う。元々は、月が苦しそうなのを詠がサポートする、というのが主だったのだが、いまでは、二人の腕は、お互いに快感を引き出そうと自然と動いているように見える。  蜜をたっぷりとたらした秘部から口を離し、息をふきかけるようにして話しかける。 「ほら、詠。こういうことは月より先輩なんだから、ちゃんと協力してあげないと」 「ど、どうして、あんたは、そう無茶をっ、うくうううっ」  つんつん、と舌をクリトリスにあてると、それだけで、詠の背が反り返る。ここからは見えないが、口を半開きにして、だらしなく舌を出した詠の顔が容易にイメージできた。 「あ、あ、あ……」  月の声も切羽詰まってくる。  よし、これは、一度達してしまう方がいいだろう。猛然とむしゃぶりつき、同時に腰をぐりぐりとこじるように回転させながら突き上げる。 「うわ、や、だめ、だめだってばっ」 「ああ、ご主人様、ごしゅじんさま、ごゆじさっ……」  二重奏で聞こえる嬌声に、俺の体と脳が限界を告げ、ついに爆発するような快感と共に、精を放つ。 「ふっ、わあああああああああああああああっ」  二人の声が見事に揃い、同時に力が抜けるのがわかる。 「わぷっ」  腰砕けになったのか、顔にもろに体重がかかる。詠の薄い下生えが、口に重なって、息が苦しくなる。お尻がのっかっているせいで、視界は完全にふさがれてしまっている。 「ふわっ、ご、ごめんっ。やっ……力、はいらな……」  懸命に膝に力を入れて腰を上げようとして、どうしてもできず、俺の顔に何度かへたりこんでしまう詠。 「大丈夫。大丈夫だから、おちついて」  詠の腰をつかんで持ち上げてやると、ようやく力が入ってきたのか、膝に力が込められるのがわかる。音をたてないように深呼吸すると、なんとも言い様のない女の肉の香りがいっぱいに広がり、ますます興奮が募り、一度は硬度を失いかけた俺のものが、ぎちぎちに張りつめ、さっきよりさらに太くなったように感じた。 「あうっ」  気のせいではなかったらしく、俺のものを呑み込んでいる月が声をあげる。その声に、さらに快感を覚えて、ゆっくりと、彼女の中をなでるように腰をまわす。 「ちょ、ちっょと、このまま、またするの!? じゃあ、一度、退いたほうが」 「だーめ」 「だ、だって……」 「詠は、俺に恥ずかしいところを間近で見せ続けるの」 「く、くぅ、この変態主人……」  悔しそうに言ながら、腕を振り払ったりはしない。俺を変態と罵る時ほど詠が興奮しやすいのは経験上よくわかっていた。 「詠ちゃん……恥ずかしいのぉ?」  俺に突き上げられ、体ごと揺さぶられつつ、月が陶然と訊ねる。 「は、恥ずかしいわよ、当たり前じゃない!」 「うん。でも……ご主人様に愛されて、とっても気持ちよさそうな顔していたよ」 「そ、そりゃ……ゆ、月だって、そんな、幸せそうな顔しちゃってさ」 「うん、私……んっ……詠ちゃんといっしょに、ごしゅ、ご主人様に……あ、ふ……愛されて、とっても、幸せ」  二人の腕が絡み合い、俺の体の上で、抱きしめ合うようにしているのがわかる。俺はその姿を見上げながら、詠の秘所の変化も見逃さなかった。 「あれ、なんにもしてないのに、垂れてきてるような気がするなあ」 「ば、莫迦、この……う、ああああああっ」  慌てたようにこちらを振り向こうとする詠の秘肉にぶつかるようにむしゃぶりつく。再び官能を刺激された体は俺の口の中にたっぷりと蜜を吐き出す。それに伴う興奮が、月を突き上げる俺のものを硬くする。突き上げられ、息も絶え絶えになった月は、それでも、愛しい親友の体の愛撫を止めず……そう、俺たちはまるで永久機関のように、ぐるぐると快楽を伝達し合い、増幅させながら、からみ、つながり、喰らい合う。  そう、それはまるで、悦楽のウロボロス。  月は俺に貫かれたまま、体の上で意識を失っていた。彼女の中に入ってはいるものの硬度は失っているので、胸の上に倒れ込むように寝入っていられても痛いということはない。月自身の体がやわらかいのもあるような気もする。ただ、ついつい彼女の中の気持ちよさに興奮して硬くなってしまいそうなので気が抜けない。  詠は、俺の左腕を枕に、そんな月を慈愛の籠もった瞳で見つめていた。 「月、よく寝ているな」 「あんたが責めすぎるからよ」  非難する声も、半分ほどはからかいの色が見える。右手で月のやわらかな髪を梳き、左手は、詠の頭に置いて、ゆっくりとなでる。なんて幸せな一時だろうか。 「気持ちよくなってもらいたいじゃないか」 「それにしたって……ま、無理させてるわけじゃないからいいけどね」  会話は途切れても、なにも慌てることはない。ゆったりと流れていく時間は、言葉を必要とはしていなかった。  ただ、俺はどうしても詠に訊いてみたいことがあった。 「なあ、俺はどこまでいけると思う?」  驚いたような表情でこちらを見上げる彼女の瞳をまっすぐに見つめ返す。彼女は、すっと表情をおさめた。冷静な、計るような視線。 「ねえ、あんた、それを不安に思ったの? それとも疑問に思ったの?」 「いや、ただ、わからなかったんだ」  これは本心だ。疑問というよりは、もっと根源的な問い。  ただ、俺にはわからなかっただけのこと。 「そう」  満足そうな笑み。  まさかそんなものが返ってくるとは思っても見なかったので、少々慌ててしまう。  しかし、彼女は謎めいたその笑みを崩さずに、こう囁くだけだった。 「教えて、あげない」  そうして、彼女は体を持ち上げると、俺の頬に軽く唇をあてた。まるで恭しく挨拶をするかのように。  そのことが、なぜか胸の鼓動を妙に激しくさせるのだった。  雪蓮と刃を交わしてから数日後、俺は真桜に呼び出されていた。  部屋についてみれば、いきなり、ん、と一振りの刀を示される。 「なおしてくれたんだ」 「鞘は結局作り直しやったわ。刀身は、一応研ぎなおししといた」  差し出す刀を受け取り、鯉口を切る。真桜が退いたのを確認してすらりと抜き放つと、やはり美しい姿が現れる。 「うん、ありがとう。真桜」  満足そうに頷く真桜に嬉しくなりながら、刀を納める。ふと、鞘に結ばれた赤い紐に気づいた。 「あ、この紐……」  すっかり忘れていたが、これは甘寧から借りていた紐だ。もちろん、真桜はそんなことは知る由も無く、以前のものをそのまま使ってくれたのだろう。 「ん? 下げ紐は前のから移しといたで。あたらしのんがよかった?」 「いや、こっちのままにしてくれてよかったよ。ありがとう」  いまさら紐だけ返すのもおかしいだろう。これは使い続けさせてもらって、甘寧にはなにか別の礼を考えることにしよう。 「ところで、なんとのうわかっとるけど、正使いう立場上、一応訊かせてもらうわ。雪蓮はんとはうまくいったん?」  真面目に訊いてくる真桜に隠すいわれもなく、素直に答える。 「ああ、うまくいった。まあ、予想以上に……な。その……雪蓮用のお菊ちゃんが必要になるかも……なんて……」  照れを笑いに変えると、あちらもにやりと笑み崩れる。 「うっわ、やらし。一国の王を肛姦奴隷に仕立てあげる気や、この人」 「ま、真桜」  肛姦奴隷って、なんだ、まったく。彼女たちは、こういう言葉をいったいどこから仕入れてくるんだろう? 「詠には全身拘束具作れ言うし、もう三国一の種馬は桁が違うわー」  うん、まあ、たしかにそれも言ったけど。  しかし、もちろん、一方的に言っているわけじゃない。また暴れるかもしれない、不測の事態を避けるべきだ、という詠の強い主張があったればこそなわけで。 「お、俺は、だな、その、それぞれに合った……」 「まあ、詠は寸法とるいうたらまんざらでもなさそうやったけどなー」  そりゃあ、まるで暴れもしないのに、わざわざ言うくらいだ。対外的には──特に月相手には──詠が暴れないように俺がつけさせている、ということになるだろうけど。  とはいえ、真桜のにやにや笑いを見ているうちに、なんだか申し訳ないような気持ちになってきてしまう。 「すまんな、真桜」 「んー? うちとしては愉しいで? 次の淫具の開発にもなるし、詠や雪蓮はんみたいな、うちらの仲間のは一点ものやけど、少々簡略化して商品化もありえるしな。そ、れ、に、うちにもつこてくれるんやろ?」 「そりゃ、そうだけど……」 「あー、なんや、やきもちでも心配しとるん?」  からからと笑い飛ばしたあとで、不意に引き締まる表情。 「そりゃあ、なぁ。独占したい思うことはあるけど……うーん、せやな……座ろか、たいちょ」 「あ、ああ」  促されるまま、刀を置き、卓につく。流れるように酒瓶と杯が現れ、酒が注がれる。 「うち、それに凪や沙和は、こんな大国の武将になるなんて思ってもみいひんかった。そこらへん、ボクっ子……て言うともう紛らわしな。季衣や流琉も同じちゃうか」  穏やかに真桜は話し始める。その顔には、いつもの皮肉げな笑みではなく、柔らかな微笑みが浮かんでいる。 「小さい頃は、隣村の、顔も知らんような誰かの嫁にでもなるんやろな、って漠然と思てた」  真桜の小さい頃、か。想像してみると、頬が緩む。きっと才気煥発、絡操をつくってはばらし、いまと同じように爆発させていたことだろう。 「村の娘に必要なんはなにかわかるか? 働き手をはやくたくさん産むことや。うちの絡操も、凪の武も、重宝はされとったけど、所詮それだけや。ほんとに求められとったんは、子を産むこっちゃ」  淡々と彼女は言う。そのことを不満には思わなかったのだろうか、と疑問に思ったのが、顔に出ていたのか、ふっと笑みを深くして続ける。 「良い悪いやのうてな。それが当たり前なんよ」  本当に当然の、この世に刻み込まれた理だというように、真桜は手を力なく振って言う。 「同じ村は同姓の者が多いしな。自然、少し離れた隣の村の、適当なやつんとこに嫁にいく。見も知らんやつらのとこで、子供を産んで、育てて、喰うために働く。それが当然で、それしか知らんかった」  日本でもたとえば、戦前の農村部では似たようなものだったというような昔話を、はるか昔、じいちゃんに聞いたことがあったのを思い出す。交通機関もなく、土地と人のつながりが濃い世界では、普通のことなのかもしれない、と俺はちびちびと酒を舐めるように飲みながら、そう思った。 「でも、実は、このあたり、お姫さんたちのほうが、もっと大きいんちゃうかな」  お姫さん、というのは、大官の家に生まれた者たち全般のことだろう。麗羽や美羽のようなとんでもない名家に限らず、太守や将軍位を得る家でも、庶人の真桜たちからしてみれば別世界になるはずだ。 「ああいういい家に生まれた人らは、親や親類の決めた、同じくらいいい家から婿を迎え、家を継ぐ子を産む。そんなことを期待されとるし、自分でもわかっとったはずや」  つい先日の雪蓮の言葉を思い出す。友人すら選ぶことは許されない。ましてや、家を継ぐことに、はじめから選択肢など用意されているはずもないのだ。たとえ、王ではなく、しがない豪族の地位だったとしても、あるのはただ一つの答えだけだ。 「華琳さまや春蘭さまは、恋をすることすら、考えてなかった思うで」  華琳や麗羽の女好きは本当のことだ。だが、女相手の恋愛だからこそどこからも文句がつかなかった、という面もあったはずだ。これが男相手なら許されることはなかったはずだ。それこそ、覇王に──誰からも文句を言われようのない立場になりでもしなければ。 「他の将かて同じや。大なり小なり、己の未来が、家と、政治の力学っちゅうやつに縛られとるのは承知しとったはずや」 「そうかもしれないな」  俺の育った時代で、そんなことを考えるのはごくわずかだろう。地盤を引き継ぐ政治家や官僚などは、そのあたりあるのだろうが、それでもこの時代ほどの強制力は存在し得ない。家を出てもそれなりには食べていけてしまう時代だったからな。 「村の生活で求められるのは働き手としての子ぉやけど、将にとっては家を残す血筋のいい子ぉが求められるだけのことや。自分で選べもせんのは、そう変わらへん」  どん、と杯を置く真桜。 「わかる? うちらみんなにとって、それは『当然』やった。でも、たいちょにとって、そんなもん常識でもなければ、当然でもない。うちらは、別なもんを知ろうともせんかった。疑おうなんて思いもせんかった」  そういうものかもしれない。黄巾の乱が起こらなければ、そのままに暮らし続けていた人々は多かったに違いない。  もちろん、黄巾の乱自体は天和たちがいたからという理由だけで起きたのではなく、後漢の腐敗や社会情勢の変化などで起きるべくして起きたのだから、いずれ別の形でも生活を変えざるを得なかったかもしれないけれど。 「でもな、そんな狭い世界に生きとったのに、黄巾の賊を追い払って、大将にしたがって戦い続けとるうち、うちらはいつの間にか、広い広い世界に出てもうた」  あの日々。三人と共に、大陸を駆けた日々。見つめ合う瞳に映る景色は、きっと同じものだ。 「その世界を開いてくれたんはな、たいちょと大将や」  本当は、真桜本人こそが、その世界を切り拓いた一人なのだ、と俺は言ってやりたかった。けれど同時に、彼女自身もそのことはしっかりわかっているはずだとも思うのだった。 「うちの知らんかった世界、本当なら、うちなんかが手に入れることは叶わんかった世界」  しばし顔をうつむかせたあと、勢いよくあがった顔は、満面の笑みに彩られていた。 「うちは感謝しとる。一人の人間として大きな世界を見せてくれた華琳さまに。一人の女としての幸せっちゅうやつをくれたたいちょに」  咄嗟に出かかった否定の言葉を呑み込む。たとえ照れ隠しであろうとも、これを否定してはいけない、そう思った。 「知らんかったあの頃にはもう戻れへんし、戻る気もない」  ぐい、と乗り出してくる真桜の胸がどっかと卓に乗る。相変わらずすごいボリュームだ。しかし、その光景に目を奪われている暇はない。 「そうしたんはな、たいちょ、あんたや」  まっすぐに言葉を突きつけられる。 「うちらを、庶人あがりの人間も、四世三公の血筋も、なあんも気にせんで、一人の女として見れる、あんたや」  そう言われると、なにか特別な視点を持っている人間のように思えるから不思議なものだ。たまたま俺がこの世界の人間ではないというだけなのだけど。  いや、もしかしたら、違うのかもしれない。  自惚れるつもりはないが、ある意味で特別なのは否定できないことだ。いま、この時、ここにいるのは俺という人間だけなのだから。 「他の欲がまるでない分、情だけがむやみやたらと大きい、北郷一刀っちゅう人間や」  身を乗り出してきているせいで、卓が傾く。がたん、と音を立ててて倒れるそれを、真桜も俺ももはや気にしていなかった。 「わかるか? たいちょ。あんたは、うちらをただの女の子にしてくれる。そこいらでのたれ死ぬようなガキも、歴戦の勇将も、お大尽の娘もなんもかんも関係ない。女王も、軍師も、将も、全員あんたの腕の中で、ただの娘っ子や。そんなんくれる人がどこにおる? そんな時間をくれる人が、他にいるちゅんか? そんな世界を知ってもうたら……あんた、離れられるわけないやん」  吐息のような言葉は、突き刺さる剣のようでもある。鋭く、大きな力を持った言葉が、俺の体に、いくつもいくつも吸い込まれていく。 「ええか、たいちょ」  念押しするように、彼女は言葉を続ける。すでに、その顔は目の前にあり、息が肌に熱を伝えてきていた。 「いまさら誰か一人に絞ることなんてできひんのやろ?」 「……ああ」  答える声は掠れている。 「せやったらな、性根据えてくれんと困るんは、うちらやで」  真桜の姿勢がぐん、と戻り、腰に手を当て、彼女は新兵に対するように声を張る。 「嫉妬なんて、気にしてもしゃない。それを忘れさせるくらい、共に過ごす時間を、自分を思って過ごす時間を大切なもんにさせたる、これくらいの気概もったらんかい!」  びりびりと部屋中が震えるのではないかと思えるような大音声。さすが、練兵場を端から端まで震わせる怒声は伊達じゃないな。 「ま、心配せんでもええて。うちはたいちょの女で、たいちょの部下であることに誇りを感じとる」  一転、秘密を打ち明けるような小さな声をつむぐ真桜の肌は、ほんの少し朱に染まっている。その豊かな肢体が、ゆっくりとしなだれかかってくる。 「きっと、みんなも同じや」 「そうか。そうだな」  彼女の体を抱きとめながら、覚悟を新たにする。ぎゅっと力を込めたこの腕が、彼女を、彼女たちを二度と逃さぬように。 「うん。みんないっしょに、焦らず進んでいこう」 「うん、たいちょといっしょに、皆でな」  肩口に額をこすりつけるようにしながら、真桜はそう言ってくれた。  ええと、俺はなぜこんなところで朝食を摂っているのでしょうか。  昨晩、仕事を終えたあとで、雪蓮に兵法書を見せてもらうことと、孫堅さんの墓参を頼みに来たまではいい。  その後、どちらの案件も快諾してくれた雪蓮の閨に導かれるように入り、熱い一夜を過ごしたのも、結ばれて間もない恋人同士なら仕方のないところであろう。  しかし、なぜ呉の女王は、人目につかぬ朝のはやいうちに帰ろうとする俺を引き止めて、並んで朝食を摂っているのか。  ──しかも。 「姉様」 「なあに、蓮華」 「なぜ、こやつがこの席にいるのですか」  王族──孫権さんと小蓮までいっしょときている。さらに、いま皆で食事を摂っている部屋には、甘寧はじめ重鎮すらいない。王族──姉妹だけの空間だ。先程までいた幾人かの給仕も、食事を用意し終えたら、雪蓮に追い払われてしまったからな。 「食事中に怒鳴るのは、お行儀が悪いわよ」 「質問に答えてください!」  だん、と卓が叩かれ、乗っていた皿が一斉にはねる。シャオが向こうで迷惑そうに顔をしかめた。 「んー、そりゃ、一刀が私の良人だからよ?」 「えーーーっ!!」  シャオの叫びが部屋に響きわたる。詰問を浴びせかけた当の孫権さんは絶句して固まってしまっている。 「いつの間に結婚したのー? ずっるぅーーーいっ」  しておりません。……まだ。  あ、そういえば、子供が生まれるのに、誰とも婚姻していないのは、まずいのではないだろうか。それとも、子供が生まれて、事実ができてからの方がいいのだろうか? この世界における法的関係と政治的な問題を、今度華琳に相談してみよう。 「まあ、良人というのは冗談だけど、いずれはそうなる、ってところね」  さすがに妹二人の大げさな反応に、苦笑いしながら本当のことを言う雪蓮。 「そ、そのようなこと許されることではありません!」 「なんで?」  きょとんとした顔で逆に訊ねる雪蓮。孫権さんは、あまりのことにあんぐりと口をあけている。  これが、雪蓮の計算なのか、素なのか、俺にもいまだによくわからない。 「こ、こやつは、曹操の愛人なのですよ!」  椅子を蹴って立ち上がる孫権さん。雪蓮とよく似た長い髪が、ふわりと跳ねる。 「そうね。華琳の大事な人で盟友。呉としても結びつきをつくって損する相手じゃないでしょ?」  俺が口を出すと、余計こじれるんだろうなあ、などと思いつつ、姉妹の会話を眺める。そんな中でも、王宮の朝食はたっぷりとボリュームもあり、とても美味しかった。 「でもさー、雪蓮姉様の子供が一刀の胤ってことになったら、ちょーっと問題にならない?」 「蓮華の子が継げばいいだけのことでしょ?」  どうせずいぶん先の話だしね、と雪蓮ははぐらかす。妹二人は知らないが、雪蓮本人は王を退く決意をとっくに決めているのだから、実は問題にならない。もちろん、後々後継者争いが起こる可能性は存在するが、そのあたりは冥琳が計算して、目下計略を張りめぐらせている最中のはずだ。 「祭や冥琳に飽き足らず、姉様まで……。貴様は、貴様というやつは……」  ようやく矛先が俺に来たか。わなわなと震える拳を俺に向け、怒りを全身から漂わせる孫権さんは、しかし、あまりに張りつめていて、どこか辛そうにも見える。 「ねぇ、お姉ちゃん」  口を開こうとした瞬間に、シャオに割り込まれた。あるいは、俺をかばってくれたのか。  雪蓮はといえば、あ、これおいしー、などと肉料理をつついている。さすがだ。 「祭や、冥琳、ましてや雪蓮姉様が、なにかの圧力や脅しに屈すると思う?」  ぐ、と詰まる孫権さん。 「その身を差し出せば、魏の圧力から俺が守ってやる〜、なんて言って一刀が迫ってきたら、逆に戦争しかけるような人達だよ?」  小蓮さん、いまのおぞましい台詞はもしかして、俺の真似して言ったのでしょうか。  それはともかく、そんな台詞を言ったら、間違いなく一刀両断だろうな。祭なんて刀も使わず舌を引きちぎるに違いない。 「まさか、一刀が姉様たちを力ずくでどうにかできるなんて……お姉ちゃんも思わないでしょう? 武芸だけなら、シャオだって勝てちゃうよ」  うん、まあ、そうかもしれない。多少は鍛えているものの、生まれたときから武芸になれ親しんでいるような人達にはやはり敵わない。小蓮の実力がどれほどのものかはわからないが、策でも弄さなければ勝てる見込みがないことくらいはわかっている。 「し、しかし……」 「お姉ちゃんが一刀を認めないのは勝手だけどさ。他の人にまでそれを押しつけるのはだめだよ。ましてや、大使とかの政治の話に個人の感情を絡めるのはいけないとシャオ思うんだ」 「シャオ〜。だめよー、そんな逃げ道のない言い方したら、蓮華が困るでしょー」  懇々と諭すような末妹の言葉に対して、長姉の言は軽いようで、残酷だ。悔しさの表れか、ぐっと噛み締めていた孫権さんの唇がぷつっと切れ、血が流れだした。 「話にならんっ」  一筋血を流しながら、孫権さんは身を翻し、足音も高く歩み去ってしまう。その背に、誰一人制止の声をかけられないほどの気迫と怒りのこもった後ろ姿だった。 「あーあ、行っちゃった」 「……よかったの?」 「なにが? ただの姉妹のじゃれあいよ。この程度で音を上げるようじゃ、蓮華もまだまだってこと。素質はいいと思うんだけどなぁ」  ふぅ、と嘆息したのは本気だったのか、いつもの韜晦だったのか。  その後、俺たちはわざと気持ちを切り換えるように、かえって明るい調子で朝食を食べ終え、それぞれの成すべきことを成すために動き出した。 「じゃあ、午後にね、一刀。あ、シャオも母様のお墓参りいくー?」 「あ、行く行くー。久しぶりにお供え持っていこうっと」  そんな姉妹の声を背に、俺は王宮を後にしたのだった。  孫堅さんのお墓参りは、雪蓮とシャオの姉妹、言い出しっぺの華雄と俺、そして、月という面々で行われることになった。月がついてきたのは、華雄が要望したためで、理由はよくわからない。詠はわかっているようで、しぶしぶ了承していたが……。ああ、そうそう、シャオのお供の周々もいる。  まずは墓のあるという森を目指して城を出る。ゆっくりと歩きながら、俺たちは色々なことを話す。  いまの話題は孫権さんのことだ。なんと、彼女は、あの朝食の席を蹴って立ち去った後、長い髪をばっさりと切り落とし、肩にかからない程度にしてしまったらしい。この世界でも女性の髪は重大な意味を持っている。おそらくは、なんらかの決意の表れなのだろう。 「蓮華があんな思い切るとはねー。まあ、似合ってたけど」 「ねー、ばっさり切っちゃって、シャオびっくりしちゃったー」 「伸ばすのに時間をかなりかけられたでしょうに……」 「ふん、短い方が楽だというに。そういえば、文台も長い大量の髪を振って戦っていたな。あれを切り落としてやろうと何度も思ったものだ。叶わなかったがな」  遠い昔を思い出したのか、華雄は妙に温かな目で、二人の姉妹を見つめる。 「母様は鬼神のように強かったからねー」 「でもさ、母様と戦ったわりに、華雄って若くない?」 「なんだ、童顔だと莫迦にしているのか?」 「あ、気にしてるんだー」  きゃいきゃいと笑いさんざめきながら、俺たちは森の中を進む。墓参というのにしんみりとした空気はまるでない。けれど、それでいいのだと思う。人を思って嘆き悲しむよりは、人をなつかしんで笑い合う方がいい。  森の中を流れる小川に沿って歩く。清冽な水の流れが、涼しい風を運んでくる。しかし、もう暦の上では冬にあたる。たまに寒く感じてしまうのはしかたのないところだろうか。  小川が蛇行し、淵になっているあたりに、その墓石はあった。 「これが、孫堅の墓か?」  思わず華雄が訊ねてしまうほど、その墓石は英傑の眠るものにしては小さく、古びていた。 「うん。あんまり華美なのは嫌いだったからね」 「そうか」  頷いて荷物を置き、周囲の雑草を抜き始める華雄。彼女にひっぱられるように、俺たちは周囲を掃除し始める。水を汲み、墓石を磨き、雑草を切り払い、小石を退けて、シャオが供え物をする。すると、綺麗になった墓は、立派とは言わないまでもそれなりに威厳を持つもののように見えてきた。 「母様、なかなか来られなくてごめんなさい。でも、あなたの娘は、あなたの宿願を果たすべく頑張ってるわ。もちろん、まだまだだって怒られるだろうけど、見ていて、この国はもっと立派になっていくから」  雪蓮が墓石の前に立ち、決意表明をするように語る言葉は力強く、そして、とてつもなく透明で美しかった。彼女はその場を退き、他の者に場所を譲る。 「シャオだよ。覚えてる? シャオ産まれてすぐだったから、あんまり母様とお話したりとかできなかったけど、でもね、母様のあったかさは覚えてるよ。大好き。姉様とお姉ちゃんとシャオのこと、見守っていてね」  そうして黙祷する横で、周々ががう、と一声鳴く。おそらくは、亡き孫堅さんに、自分がついているから安心しろ、と言っているのだろう。なんとなく、俺はそう思った。 「董卓です。あなたの勇名は、涼州でも鳴り響いておりました。お会いすることはかないませんでしたけれど、私は……。雪蓮さんたちにはよくお世話になっています。賈駆や呂布共々、どうかよろしくお願いいたします」  月の言葉は、個人に対するものというよりは、動乱の時代に決起した群雄たち皆に言う言葉のようだった。おそらく言えなかった言葉こそが、彼女の最も伝えたかったことではなかったろうか  華雄がじっと黙っているので、俺の番だと判断して、前に出る。 「北郷一刀といいます。あなたの娘さんたちとは、敵でした。いまは、共に未来を目指す仲間です。あなたの片腕だった祭は、赤壁で俺たちに討ち取られ、記憶も無くしたというのに、俺の下に来てくれました。祭とはそちらで杯を交わしたいかもしれませんが、すいません。もうしばらく、この大陸のために貸しておいてください」  これだけ言うだけでも、掌が汗びっしょりだ。その後、様々なことを想起してから場所をあけて、元のところに戻ると、すす、っと雪蓮が寄ってきて、肘で小突かれた。 「祭のことばっかりー?」 「雪蓮のことは心の中で言ったよ」  これは本当。しかし、なにを言ったかは、秘密にしておこうと思う。  皆の挨拶が終わると、華雄が進み出る。今日は金剛爆斧も持っていない。脇に布でくるまれた長い荷物をかかえているので、武器は覆ってきたのかもしれない。 「文台よ。久しいな。あの戦いから、幾年が経った? まさかお前のような豪傑が再び挑めぬところへ逝ってしまうとはな。お前には感謝している。うん、間違いではないぞ、感謝だ。お前は、私に、思い上がっていた子供に、自分の位置というのを教えてくれた。私は弱い。とことん弱い。そのことを自覚させてくれたお前は、仇でありながら、私の師と言ってもよかったよ」  古い友に語りかける声は、とても優しい。俺ですら滅多に聞いたことのないような優しい声で、彼女は孫堅さんに語りかける。 「まあ、それでも、少しの修行でそんなことを忘れて増上慢に成り下がる。今度はお前の娘たちに木端微塵に砕かれた。主と決めた人を護れもせずにな」  ちらりと月に走る視線。月はそれをしっかりと受け止め、変わらぬ笑みを浮かべていた。 「それでもな、また強くなろうと思えたのさ。強くならなければならないと思ったのさ。おかげで、いまやあの頃のお前よりは強くなったろう。だが、そちらへ行ったら、また倍する強さを見せてくれるのだろうな。……文台、お前はずるいよ」  沈黙が落ちる。かさかさと葉が揺れる音と、小川のせせらぎだけが、俺たちの耳に届く。 「そんなわけでな、今日はお前に礼をせねばならん」  がちゃり、と音がした。華雄が脇にかかえた荷物を大地に転がした音だった。布が外れ、そこから現れたのは、十文字槍と戟の二つの武器。 「孫伯符っ!!」  発した声の鋭さに、近くの木から鳥たちが驚き、飛び立つ音が続いた。 「いずれかの得物をとれい!」  雪蓮はおもしろそうに、華雄の転がした包みに近づいていく。 「なあに? このあいだの意趣返し?」  彼女は笑っている。なぜならば、彼女は孫呉の主だからだ。挑まれたならば、ましてや、そこが孫家の英雄文台の墓の前ならば、受けぬわけにはいかない。それが、孫家に流れる熱い血だ。 「いいや、これは、孫堅への礼だ」  華雄の表情は変わらない。孫堅さんの墓参を頼んだ時と、孫堅さんの墓へ語りかける時と。  雪蓮はかがみこみ、二つの武器を吟味し始める。戟と十文字槍、いずれも、突く、薙ぐ、切る、ひっかけるなど多種多様な攻撃が可能な武器だ。簡単にいえば、十文字槍は名前の通り十字、戟はトの形をしている。雪蓮は、戟を手にとった。 「華雄さんっ」 「董卓様、かつての主といえどいまは従えませぬ。私に命じられるのは、ただ一人、北郷一刀のみ」 「ご主人様、だめです。この二人が争えば、もしものことが……」  取りすがってくる月。逆の腕には小蓮が手を伸ばしてきていた。その手がぎゅっと俺の腕をつかむ。無言で、なにかを伝えようと強く、強く握りしめられる。  雪蓮は強い。しかし、華雄ほどではない。  だが、華雄が手を抜いて戦えるほどに弱いかというと、そうではない。この二人が本気で争えば、結果は華雄の勝利となるだろうが、華雄が雪蓮を殺さずに済むかというと……そう断じられるほど自信がない。  だが──。 「華雄」 「はっ」 「主として命じる。生きろ。ここで死ぬことまかりならん」 「承った!」 「ご主人様っ!?」  ほっとした表情を浮かべた月が、一転、俺の言葉の意味を悟って青ざめる。すまん、月。止めることは、俺にはできない。雪蓮と華雄、どちらも知っているが故に。 「ふーん、さすが、姉様が目をつけるだけ、あるか」  小蓮の言葉の意味を、探る余裕はいまの俺にはない。 「あら、一刀、私には言ってくれないの?」 「俺は、雪蓮に命令できないからね」  ふくれる雪蓮に、肩をすくめて見せる。だが、その額に軽く汗が浮かんでいるのだけは見間違えなかった。 「だから、雪蓮を思う一人の男として頼む。生きてくれ」  ふっ、と笑みが濃くなる。孫呉の王としての顔ではない。雪蓮という一人の女性の笑みが、そこにあった。 「ですって。果報者ね、華雄」 「お前こそ、愛されているな、孫策よ。では、参ろう」  十文字槍を手にした華雄が、そう言った途端、世界は一変した。  溜めなど一切なかった。  槍の三連撃を受け流した戟が、枝刃で首を薙ぎに行く。刃が届く前に二歩進まれて、刃ではなく、柄を腕で受けられてはじかれた隙を、槍が回転して絡め捕らんとする。 「ははっ、なにこれ、強すぎじゃない?」  愉しそうに、実に愉しそうに、戟を引き戻しながら雪蓮が言う。だが、そんなことを言う必要がどこにあるだろう。そのことすら早くも追い込まれてる証拠ではないのか。 「恋より、強い……」  シャオが、呆然と呟く。そうか、シャオは蜀にいたから、成都攻防戦での恋の働きを見知っているんだな。だが、いまの恋はもっと強い。  そして、華雄はさらにその先にいる。  いや、今日の華雄は俺も見たことがないほどに──強い。 「私は戦うのが好きだ。個人の武を競い、軍を率いることこそ、我が晴れ舞台」  一合、二合、撃ち合うたびに、戟の動きが鈍り、逆に槍の突き出される速度は上げっていく。木と金属がぶつかり合う高い音が、楽の音のように連続して森に響く。 「それなのに、なぜ、私が戦を好まぬ者を二人続けて主と仰いだと思う」  董卓、そして、俺という主。  彼女は、雪蓮に語りかけながら、俺たち二人に語っている。そうか、だから、月を……。 「それは、あのお二人が、誰より苛烈な魂を持つからだ」  押し込まれるようになった雪蓮が、戟を振るう。猛烈な回転を伴ったその攻撃は、あまりの素早さに、俺には彼女の体の動きから推測することしかできなかった。 「お前も知ったはず。誰よりも弱く、誰よりも強い魂を」  だが、その攻撃すら、華雄には届かない。回転を相殺するように絡め捕られた戟は、雪蓮の手をすっぽぬけ、空を切って、遠く小川に落ちた。 「孫策よ。お前の打ち込みは重い。それは、幾百幾千の人々を背負っているからだ。だが、それにかまけて、個人の武を競うのは今日を限りにするがいい。王である限りは、な」  首筋に突きつけられた槍を、雪蓮はじっと見ている。すっと離れていくそれを、追い続けるほどに。 「王は生き残ることこそが大事」  華雄の視線が、俺たちの元へと至る。燃えるような瞳が、俺を飲み込み、焼き尽くすかのようだった。 「生きよ。這いずってでも生きよ。無様に逃げ回ってでも生きよ。誇りを傷つけられようとも生きよ。生き続け、民を率い、楽土へ至れ。王であるならば、それが、民への、臣への責務ぞ」  ざくり、と墓石の横に槍を突き刺し、華雄は言い放つ。 「文台よ。我が好敵手よ。これが私の礼だ。受け取るがいい」  その言葉に、俺たちは揃って頭を垂れ、自らの道を、自らの務めを思い返すのだった。 「一刀様、お邪魔いたします」 「うん、いらっしゃい」  三角州地帯の測量からしばらく前に帰って来ていた亞莎が、まずは俺の講師役ということで、貴重な呉孫子兵法の写本と共に大使館にやってきていた。 「本来は、その、今日は穏さまがいらっしゃるはずだったのですが、一刀様から受け取られた史書に夢中なのだそうで……」 「あれ、そうなの?」 「はい。穏さまが前半、私が後半をいっしょに読むことになっていたのですが、急遽逆に、と……」 「そうなんだ。でも、穏さんは本が大好きみたいだから、間違えて読んだりしたら怒られそうだし、最初は亞莎でよかったかな」  微笑み駆けると真っ赤になられる。相変わらず照れ屋というか、恥ずかしがり屋なんだな。それでも、だいぶましになったようにも思うけど。 「あれ、それはなんですか?」  机に置いてあった色とりどりの糸玉が垂らされた丸台を指さされる。ああ、そういえば、作業したままで置きっぱなしだった、と慌てて取り上げる。 「これ、組み紐の台だよ」 「組み紐、ですか」 「うん、絹糸を編んで紐をつくっていくんだ。こう、こうやって。昔、じいちゃんに習ったんだけど、こっちでもやってみようと思って」  糸玉を動かしてみると、興味深そうにみてくる。こちらでも機織りはやっているだろうけど、色をつけた糸をさらに組みあわせるのはあまりないのかな。 「へぇ……」  そんなことから、少し俺の世界の話で花が咲き、ようやく勉強となった。 「はい、おつかれさまです。今日はここまでにしましょう」 「ふぅー」  亞莎といっしょに孫子を読むのはなかなか愉しかったが、やはり根をつめると疲れる。そうして、二人で、茶と甘いものをとっていると、不意に彼女が訊ねてきた。 「あの、疑問に思ってることをお訊きしてもよろしいでしょうか」 「うん、俺でわかることなら」  その言葉に、亞莎は決心したように一つ頷く。 「冥琳様は、一刀様のお子さまを身籠もられ、祭様は一刀様の下へまいられました。明命も、一刀様と、その……深い仲になったといいます」 「うん」 「果たして、それらのことは呉に仕えることと、矛盾しないのでしょうか?」  矛盾はしない。  俺はそう信じているし、祭も、きっと冥琳も、明命も、いや、雪蓮という孫呉の主そのものがきちんと理解しているはずだ。だが、亞莎に、この純真な軍師にどう説明してあげればいいものだろうか。俺は、頭の中の言葉を吟味しようとした。 「ごめんなさい! なにも仰らないで下さい!」 「へ?」  答えようとしたものの、口を開く前に、顔を青ざめさせた亞莎に、謝られてしまう。 「も、申し訳ありません。でも……一刀様のお答えを聞いてしまったら、私はそれに抗えないような気がしてならないのです。甘えてしまう気がしてならないのです。私などより、よほど頭もよく、呉を愛されている皆様方が達した場所です。きっと、それは正しいことなのです」  慌てている風ながらも、あくまでも真剣に、真摯に、彼女は言葉をつむぐ。 「けれど、私はそれを自分で見つけねばならないように、たったいま思ったのです」  深々と下がる頭。 「すいません、自分で訊ねておきながら……」 「いや、きっと、亞莎は正しいよ。俺が言っても納得するだろうけれど、しかし、それだけじゃだめなのかもしれない。すごいね、亞莎。懸命に自分で考えようとするってなかなかできることじゃないと思うよ」 「そ、そんな、すごくなんかありません。でも、はい。考えます。もっと、いっぱいいっぱい考えます。その時出た答えを……きっと私は受け入れられるんじゃないか、ってそう思うんです」 「うん」 「その時は……聞いて下さいますか、一刀様」  恐る恐る問い掛ける少女があまりにもかわいくて、俺は気づけば力強く頷いていた。  片眼鏡の少女が帰った後、俺はなんとなく彼女との会話を思い出しては思考を遊ばせていた。  亞莎は、求める答えにたどり着くだろうか。いや、そもそも人は自分の求める答えを得られるものなのだろうか。あるいは、自分が求めていたのに、受け入れられない答えだった場合はどうだ?  それを受け止めるだけの度量を、俺は持っているだろうか。  そんなとりとめのない思考は扉を乱暴に叩く音によって妨げられた。 「北郷様! 大変です、北郷様!」  この声は、たしか、門衛の一人だ。急いで脱いであった上着をつかみ問い返す。 「なにがあった?」 「りょ、呂蒙様が、ち、血を流されて……」 「なに!」  勢い込んで扉を開け、怯えるような表情の門衛から、亞莎の居場所を聞き出し、恋と華雄を呼ぶよう言いつける。おそらく、真桜にはすでに誰かが報せに走っているだろう。  運び込まれたという客間につくと、床に広げられた布の上に横たえられた亞莎の姿があった。軍師服姿の詠がかがみこみ、彼女の体を診ている。横には清潔な布をかかえた月もいる。 「亞莎!」 「あ、一刀様」  駆けよってみれば、亞莎の服の何カ所かが血で汚れていて、明らかに争った跡とわかった。俺の声に顔をあげ、いきなり上体を起こそうとするのを詠が止め、ゆっくりと起き上がらせる。俺は彼女の治療の邪魔にならぬような位置に体を移した。 「だ、大丈夫なのか」 「ええ、深いのは矢傷が一つ。それも、矢自体は本人が抜いてたし、いま血止めをしたから、大事はないわ。ちなみに、毒の形跡はなし」  見れば、袖がまくられ、薬がぬりつけられたとおぼしき場所の上に、月が丁寧に布を巻き始めていた。横には鉄の棘がたくさん生えた凶悪な手甲が置かれている。あれが亞莎の愛用武器だろうか。真新しい血痕が物騒だ。 「あ、月、もう少し強く」 「うん、わかった。詠ちゃん」 「もうしわけ……ありません。一刀様。王宮より、こちらのほうが近くて……」 「ああ、謝ったりしなくていいよ。大使館を頼ってくれるのは嬉しいからね」  痛みに顔をゆがめるでもなく、ただ、疲れたように言う亞莎。実際、この様子だと傷は大したものではなさそうだ。顔が青白いのは、おそらくは戦闘後の虚脱状態なのと、血が足りていないせいだろう。  真桜、華雄、恋の三人が相次いで部屋にかけこんでくる。彼女たちは亞莎の状態を見ると、一様に安堵の息をついた。この三人が一目見て命の危険がないと判断するなら、まずはよかったというところか。  詠が、なにかの入った瓶を差し出してくる。開いた口からかすかに漂う甘い香りからして、なにかの果汁だろう。体のためにも、頭をまわすためにも、糖分補給が必要と判断したに違いない。  亞莎は勧められるまま、その瓶に口をつけて、ゆっくりと、だが確実に飲み始める。 「美味しい。林檎の絞り汁ですか?」 「うん。発酵させて酒でもつくろうかと思っていっぱい用意してあったのよ。ちょうどいいでしょ」  返された瓶にきゅっと栓をして、そのまま亞莎の横に置く詠。聞く事があるでしょ、とばかりに、俺に場所を譲る。 「どこで襲われたの?」  誰が見てもわかる戦闘のあとなので、なにがあったのかなどと改めて訊ねない。彼女が出て行ってから、俺の感覚では二十分程度しか経っていない。戦闘があったとしても、すぐ近くでのことだったろう。 「はい、ここを出まして少し通りを行ったところで、急に。初撃で血を流してしまいまして……」  亞莎は恥じ入るように怪我をした腕をもう一方の手で押さえる。 「全部で八人……だったと思います。七人は討ち取りましたが、一人は逃して……追おうとしたのですが、血が失われすぎたと判断しまして、こちらに」  しくじりました、と落ち込んでいる様子の亞莎。  とはいえ、闇討ちで矢を受けた上で、八人もの人間を相手に戦い、勝利しているというのがすでに常識はずれだ。やはり、この世界の武将というのは超人的だ。 「華雄、恋」  言い終える前に二人は駆けだしている。はっきりした場所がわからなくても、この二人なら血の臭いを辿れるだろう。  果たして、しばらくすると、華雄が早足で戻ってきた。 「たしかに死体が四つ、離れてさらに三つあった。恋を見張りに残してきたが……運び込むか?」 「いや、いい。見張りは兵に任せて、恋といっしょに王宮に走ってくれるか。雪蓮と穏を連れてきてほしい」  真桜と目線を交わす。こくり、と頷くのを確認して、言葉を続ける。 「この二人以外には悟られないように。他の人間には、あくまで俺が呼び出したと、そう伝えればいい。いいかい?」 「わかった。おい、お前たち、ついてこい」  数人の兵を連れて華雄が出て行くのを見送って、俺は改めて林檎果汁を飲んでいる亞莎に話しかけた。 「俺の独断でしたけど、よかったかな、亞莎」 「あ、はい。もちろんです。ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません」  縮こまる亞莎。襲われたのは亞莎の責任ではないのだから、そんなに恐縮する必要はないのだが、このあたりはしかたのないところか。一応、大使館内は魏領扱いってこともあるしな。 「それにしても……」 「うん……」  俺たちは顔を見合わせて、一つの疑問を共有していた。  果たして、いったい誰が亞莎を襲ったりしたのか。                         (第二部第六回・終 第七回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○序文抜粋 『(前略)……  北郷朝二十四代  ()内は出身皇家を示す。[]内の数字は在位年数。一年に満たないものは、×を記した。  少帝を二代と数えない学派も存在する。 一:太祖太帝[25] 二:少帝(劉家)[×] 三:顕帝(曹宗家)[20] 四:文帝(賈家)[25] 五:安帝(曹宗家)[20] 六:桓帝(夏侯家)[24] 七:昭帝(董家)[14] 八:恭帝(関家)[20] 九:推帝(董家)[21] 十:思帝(曹宗家)[24] 十一:真帝(曹下家)[14] 十二:順帝(賈家)[18] 十三:費帝(曹上家)[19] 十四:義烈帝(刀周家)[×] 十五:明帝(周家)[30] 十六:戴帝(孫高家)[22] 十七:恵帝(趙家)[18] 十八:殤帝(曹上家)[9] 十九:康帝(董家)[14] 二十:定帝(公孫家)[26] 二十一:翼帝(曹宗家)[21] 二十二:景帝(長孫家)[23] 二十三:懐帝(関家)[8] 二十四:威烈帝(刀周家)[×] 続 後北郷朝初代:聖武帝(孫高家)……(後略)』