俺の言うことを一割程度は理解してるのかしてないのか、犬の態度は然程変わらずと言ったところだった。 そういえば犬は耳の後ろや喉を掻いてもらうと喜ぶなんて話を聞いた事がある。 どれどれ可愛がってやるか、なんて伸ばした手にピクリと反応したものの相変わらずな表情で俺の事を見る。どうやら相当人懐っこい犬らしいな。 怖がらせないようにゆっくり手を当ててかりかりなでなでと触ってやると随分と気持ちのよさそうな声を出し始めたじゃないか。その反応が嬉しくてつい触る手にも熱意が篭るというもんだ。 「どーれどれ、ええのんか? ここがええのんか?」 「――――――」 眼を瞑って首を出す姿が妙に庇護欲をかきたてるなこの犬。 ぴくぴく動く耳にぶんぶんと振られる尻尾がベストマッチングしてると言わざるを得ない。 ……ああ、やっぱ動物は癒されるなぁ。 「……お、そうだ」 動物と言えば餌付けだ。そして俺は餌にお誂え向きのアイテムを持っている。 ポケットからドーナツの袋をひとつ取り出して、ビニールをちぎって開く。ゴミをその場にポイ捨てするか迷ったが、結局そのまま元のポケットにしまった。 「ほら、くえくえ」 差し出した手に乗る茶色いドーナツを、犬はまるで初めて見た物時のようにふんふんと鼻を鳴らして眺めていた。もっとも、この時代にドーナツがあるとも思えないからこれが初見に違いないが。 やがて腹を決めたのか犬はパクリとドーナツを口にした。そのまま地面に落として、はぐはぐと咀嚼する様子を見て、やはりこいつは犬なんだなと再認識する。まあ、お犬様には三秒ルールも適用されないだろうし。 「わんっ!」 「おお、おいしかったか。そりゃあよかった」 俺をまっすぐに見上げて一声鳴いた犬がおいしかったと喜んでいるように思えて、思わず俺も笑顔になった。 「じゃあ、俺そろそろ行かなきゃいけないからさ。達者に暮らせよ?」 「わふっ」 相変わらずわかってんだかわかってないんだか……まあいいか。犬は可愛い、それだけで充分だな。 もう一度だけ首周りを撫でて振り向きざまに立ち上がり――――――何かにぶつかった俺は尻餅をついた。本日二回目だった。 「――――――」 太陽を背に俺の事を見下ろしていたのは、どうやら女の子のようだ。直立不動のまま佇んでいる女の子の鋭い視線に、呆と見上げる事しかできない。 「………………」 肩にかからない程度ざっくばらんに切られた紅い髪が日光に輝いて、まるで炎が揺らめくようにも見えた。 少し細められた瞳からの真っ直ぐな眼差しから俺は目を逸らすことが出来なかった。 ミニスカートからチラチラと顔を覗かせるパンツには意識的に眼を向けないようにした自分を褒めてあげたい。 「セキト、懐いてる」 ぼそり、と女の子が始めて言葉を発した。 セキト? と問い返すと女の子は視線を横にずらす。つられて向いた所には、犬が能天気そうな顔で俺たち二人をかわるがわる見ていた。どうやらこの犬の事を言っているらしい。 「……何をどうしたの?」 「……そんなこと言われてもなぁ」 別に何か特別な事をしたわけではない、と思う。 やったことといえば撫でて、掻いて、餌をやってからまた撫でてやっただけだ。近所のおっちゃんが散歩中の犬に出くわして構ってやった、そんな程度の事しかしていない。 「普通に撫でたりとか……、そんな感じだけど」 「そう……」 言ったきり黙りこむ女の子に、俺はどうしようかと途方に暮れた。 このまま何も言わずに去るのが賢い気はしなくもないが、それでは気まずいを通り越して無礼だろう。 「――――そうだ、これをエサに食べさせたよ」 なんとか場を繋ごうと持ち出したのは、ポケットに後一つ残っていたドーナツだ。 言葉で釣れないなら物で釣る、それでもダメなそんなつれない女の子は諦めるべきだ。そんなじいちゃんの他愛も無い言葉を思い出す。 「恋、見たことない。食べ物?」 「これ食べる?」 「……食べ物なら、食べる」 作戦変更が功をそうしたか彼女の興味を引くことにはなんとか成功したようだった。 しげしげと俺の手元を眺める女の子を見て、もしこのドーナツを右へ左へ動かしたら一体どうなるのかを少し想像すると笑いがこみ上げてくる。 恐る恐るといった様子でドーナツの袋を受け取った女の子は、なんとあろう事か袋のまま口へと突っ込もうとしたではないか。これには流石の俺も呆然。 「ああっ、違うそのまま食べちゃだめだ」 間一髪、女の子からドーナツの救出に成功する。ぽかんとして首を傾げる女の子。その仕草がさっきの犬にとても似ていて、思わず苦笑が漏れるのも仕方がない。 ビニールをちぎって開く二度目の作業。ただし、今回の観客は犬ではなく犬みたいな女の子だ。犬よりもずっとわかりやすい訝しげな表情に向かって、俺はドーナツを差し出した。 「はいどうぞ」 数秒の間、女の子はなんのアクションも起こすことなく座っていた。 そのまま時間が流れて女の子の格好が犬の待てのポーズにそっくりだなと俺が思い始めた頃合いに、突如女の子がパクリとドーナツに口で食いついた。 「な、なななな」 完全に想定の範囲外だ。もぐもぐと咀嚼する仕草が可愛い、というよりさっきの犬そのまんまだった。要するに、可愛い。動物じみた可愛さだ ごくんと飲み込んで俺に視線を向けてからも女の子はだんまりを続けていた。そんな必要は無かったが、一緒に俺も黙り込む。 睨めっこの緊張に、俺はごくんとツバを飲み込んだ。 「……おいしい」 あっという間に緊張が解けた。安心、というよりは肩の力が一気に抜ける。 ほっとしたまま、笑顔を浮かべる女の子の頭に手を伸ばしかけて自分が何をしようとしたのかに気付いた。 どんなに動物っぽくても、動物そのものじゃあるまいに。 「……そう言ってくれて良かった」 「でも、全然足りない」 「あー、ごめん。今ので最後だからもう無いんだ」 ちょっとした催促の感情の混じった視線に俺は申し訳ないと思いつつ謝るしかなかった。俺のポケットの中にはもう砂糖のパウダーが付着したビニールが二枚と、反対側にハンカチが折りたたんで入っているだけだ。 「……最後のひとつ、くれた?」 女の子が眉根を寄せた。こんな可愛い子に暗い顔は似合わない、勿論物憂い気な表情も絵になるが少なくとも笑顔が一番似合っているに違いないと俺は思った。 だからもう一度笑顔に出来ないものかと、何とか言葉を紡ぐ。 「大丈夫だよ、最後って言っても今持ってる分だけだから。またいつか作ったりすることがあればあげるから、ね?」 「…………ありがと。おいしかった」 「どういたしまして」 笑った顔が何よりのお礼になってるな、なんて考えが浮かんだ。俺の頬も緩んでしまうのを自覚する。 と、犬が俺の袖に鼻を擦りつけながらわふわふと口を開いていた。見れば袖を咥えて自分の方に引っ張っている。 まるでのけ者にされて拗ねているようにも思えた。女の子を見ると、相手も丁度犬から俺へと焦点を結びなおした所だ。 「はは、別にお前のこと忘れちゃいないって」 「……セキト、めっ」 俺が犬の頭を撫でるのと女の子が犬の鼻先に指を押し当てるのはほぼ同時で、俺の手で頭部を固定された犬の鼻には女の子の指が容赦なく刺さる。一瞬だけ豚のような鼻になった犬は次の瞬間豚のような悲鳴を上げた。 これは不幸な事故だ。別に女の子と俺が示し合わせてツープラトンを決めようとしたわけじゃない。が、犬にそんな事がわかるはずもなくそいつはその場から爆発するような踏み込みで俺に突進し、不安定な体勢でしゃがみこんでいた俺を転がしそのままマウントポジションに収まった。 そこから繰り出されるのは最初のうちこそ猫パンチならぬ犬パンチだったが、途中からただの舌でなめる攻撃に変わっていて、その一部始終を眺めていたレフェリーもとい女の子は不思議なものを見るような目で口を開いた。 「セキト、やっぱり懐いてる」 最初は俺もそう思っていたが、段々と自信が無くなって来たぞ。もう何回舌で舐められたかわからない。二、三回位麻痺してるんじゃなかろうか。 いつまでもこのままいるわけにもいかないので、両手で犬を持ち上げて上半身だけ起き上がる。膝の上から犬が逃げる様子は無かった。 「さっきのドーナツっていうのあげたからかな。おいしかったでしょ? 犬もきっとおいしかったんだよ」 「――ううん。……多分、それだけじゃない」 犬がもう一度だけ、俺の頬をぺろりとなめた。女の子がふわりと微笑む。なんだかとてもむず痒かった。