いけいけぼくらの北郷帝  第二部『望郷』編 第四回 「いやー、久しぶりの我が家やなあ」  旅の荷物を部屋に運び込みながら、真桜が感慨深げに呟く。 「我が家、って、大使館だけどな」  書簡を抱えた俺が、その後に続く。いま持っているのは俺と真桜が船内で書いた文書がほとんどだが、どれも外交文書扱いになるので他の人間に任せるわけにもいかない。視察の報告書も二人でまとめる必要がある。 「まあ、でも、落ち着くやん?」 「たしかに」  どさり、と竹簡を置く。相変わらず真桜の部屋は絡操がたくさんあるが、絡操用の空間とでもいうべき作業部分が決まってきたおかげで、踏んでしまうようなことは減った。 「ともかく、間に合ってよかったな。明日、城内へ、やっけ」 「ああ、明日、魏からのなにか報が来るらしい」  申に滞在していた俺たちは、建業からの使者によって緊急に呼び戻された。時間的に、測量をすでにはじめている亞莎の撤収を待つこともできず、甘寧と共にスマートな小型の快速船──いわゆるジャンクというやつだが、こちらではただ単に帆船という──に乗り換えて、ひたすらに急いで帰って来たのだ。月がそんな急ぎの旅でまた体を壊さないかと心配だったが、幸い杞憂に終わった。とはいえ、詠も月も疲れ切って、建業に帰り着いた今日は早々と自室に籠もってしまっている。 「んじゃ、泊まってくやろ?」  くいくい、と杯を干す手つきをする真桜。こいつ、段々霞に似てきてないか。 「ああ、そうだな」  真桜が出してきてくれた酒を、二人で楽しむ。さすがに俺も疲れを感じていて、酔いが回るのも早いのを自覚していた。 「で、詠とはうまくいったん?」 「な、なに言ってるんだよ」  酒が変なところに入って、軽くむせる。真桜はにやぁ、と笑って言葉を重ねてくる。 「バレバレやって。喧嘩するんはいいけど、月みたいなお姫さんを心配させるようなんはあかんで」 「あー、うん。いまは、うまく行っているよ」  月とも詠ともな。 「そか、せやったらよかったわ。たいちょ、えろう暗かったし」 「暗かったか」  心配させてしまったのは、月だけではなかったらしい。実を言えば詠のことだけではないけれど、そのことを真桜に明かすつもりはない。 「ん」  頷く真桜の杯に酒を注ぐ。しばらく、黙って酒を酌み交わす。 「実際どないすんの。董卓と賈駆の二人は」  不意に訊ねられたことよりも、政治的な話を真桜からしかけてきたことに少々驚く。昔、警邏の仕事すら面倒くさがった少女は、いまや魏の重臣としてしっかりと成長しているようだ。 「名前を出すのはまだまだ先だな。もうしばらくはメイド兼任で、洛陽に戻っても洛陽城内にとどまってもらう形になると思う。蜀はともかく、朝廷とのからみがね」 「朝廷かー。ありゃ厄介やな。素直にうちらに名前貸して安楽にしとけばええのに」  真桜の感覚は、魏の将としてはとても正しい。現実的に、漢王朝は魏とその組織がなければ全土の支配を維持できない。兵も将も文官に至るまでが、漢朝の位を持ってはいても実質的には三国いずれかに所属している状態で、朝廷のみの力で何事かを成すのは無理というものだ。朝廷は魏を必要とし、魏は朝廷を立てているのだから、策動などせずに素直にタダ飯喰らいを続けていればいいのに、と思うのも当然というものであろう。  ただ、朝廷の側はそれを道理とはしないだけの話だ。 「まあ、あちらにはあちらの言い分があるからな。余計な波風は立たせないほうがいいさ。特に月や詠はそのあたり自分たちのせいと思い込んでしまう可能性があるからな」 「せやなー、しばらくは……えっと、めいど、ちゅったっけ、それやってもらうしかないわな」 「そうだね。仮にも位を登り詰めた月に侍女をやらせるのは心苦しいところもあるんだけど」  月自身はそのあたり気にしてはいないだろうし、詠も口に出すほど気にしているようには思えない。ただ、彼女たちの本領を発揮させずに埋もれさせるのがあまりにもったいないと思ってしまうのだ。このあたり人材を発掘する姿勢に関しては、華琳の影響もあるかもしれない。 「まあ、女官連中も、あん二人は格が違う存在やと認識しとるらしいで。たいちょとうちに関わること以外は言いつけられたりせえへんみたいやし」 「あ、そうなんだ」  あまり雑務に忙しくて、居てほしい時に側に居られないでは困るしな。 「ま、うちは助かっとるけどな。間諜の心配せんで掃除してもらえるし、毒味もしてもろてるし」  掃除に関しては、たしかにそうだろう。あの二人なら何を見られても問題ない。……艶本はおいといて。それにしても、もうひとつの方はひっかかる。 「毒味?」 「うん。たいちょとうちの料理は月が作っとるか、詠が毒味しとるかしてるんよ。知らんかった?」 「……大丈夫なのかな?」 「詠か? だいじょぶやろ。毒味言うても口にする前に気づくもんらしいし、そもそも、最近はずっと月が作ってくれとるみたいやし」  少し考えて、頷く。 「まあ、毒なんて入れられないように気をつけるしかないな」 「せやけどなあ……恨みなんて自分で思っても見ないところで買うもんやからな」  杯を傾けながらの呟きには苦笑いで返すしかない。実際、そういうものなのだろうと思う。俺も自分が戦場以外で命を狙われることになるとは思いもしなかった。 「でも、ま、ほんま細々したことやってもろて助かってるわ。あー、半年経ったら、たいちょといっしょに帰ってまうんかー。な、置いてってくれへん?」  手足をばたばた揺らして駄々っ子のように言う真桜。そのかわいらしい仕種に、にっこり笑って返事をする。 「だーめ」 「うー、しゃないなあ。あ、洗濯物まとめてくれて詠に言われとったな……」  一転、ぐでー、と机にもたれかかった真桜だったが、不意に思い出したように跳ね起きた。 「せやせや、洗濯といえばこないだ作った洗濯機」 「おお、あれ、どうなった?」  船旅に出る前に、女官たちに試しておいてもらうよう頼んでいたんだよな。その結果を、帰ってから聞いたのだろう。  洗濯機といってももちろん全自動なんて夢のまた夢。金属で作った円柱に洗濯物を入れて、その円柱を手動でぐるぐると回し攪拌するという代物だ。とはいえ、手で一枚一枚ごしごしやるよりはまだ楽というもの。真桜お得意のばねと歯車を組みあわせることで、回転させるのもだいぶ手軽になっている。 「やっぱ、石鹸が問題みたいやな。なかなかうまく汚れを落としてくれへんし、かすもついてまう。ただ、同じ仕組みの水切りは好評みたいや」 「そうかー。水の質とかもあるんだろうな。俺のいた時代だと、液体洗剤ってのがあって……」  そうして、俺たちは酒を呑みながら、ああでもないこうでもないと技術談義を交わし続けるのだった。  翌日、月と詠、華雄に恋、それに真桜と俺という主要な面子全員が連れ立って呉の城内に入った。そうするよう指示されたわけではないが、急な用となれば、誰の力が必要となるかもわからない。動けるなら全員が動くほうが何かあった時、二度手間にならずに済む。  とりあえずは城内の庭に行くように門衛に指示されたので、それに応じて庭に来たのだが、なんだか見覚えのある姿が、遠くから猛烈な勢いで近づいてくる。 「あれ……?」 「セキト?」  月と恋がその姿を認めて、信じられないものを見たように呟く。たしかに、短めの手足に愛らしい顔、元気な鳴き声。それは洛陽に残してきたはずのセキトに違いなかった。 「でも……なんで?」  詠が疑問に思うのももっともだ。魏からの報を持ってきたのがセキトだった、なんてオチは……ないよな。  俺たちが首をひねっている間にも、セキトはどんどん近づいてきて、恋はもう駆け寄りたくてしかたなさそうだ。行ってもいいかどうか訊ねるように視線を俺に向けてくる様があまりにかわいらしい。 「いいよ、恋、行っておいで」  言い終えるか終えないかのうちに、恋の姿は消えていた。飛ぶように走り、こちらも懸命にジャンプするセキトを抱き留める。わふわふきゃんきゃんと嬉しそうな鳴き声がここまで聞こえてきて、皆その光景に心なごんでいるようだった。 「セキトー? いきなり走っては危ないですー……って、はぅわっ、一刀様!!」  がさがさと茂みを突っ切って、人影が現れる。セキトの走った後を追いかけてきたらしき彼女は、これもまた洛陽にいるはずの人物。  長い黒髪と、大きなくりくりとした眼が特徴的な少女──周泰。 「明命!?」 「一刀様っ」  瞬間、視界の中の明命が消えた。 「一刀さまあっ」  気づいた時には目の前に彼女の体がある。眼にも止まらぬ速度から急制動をかけた反動か、態勢を崩して、体ごと俺の胸に飛び込んでくる明命。 「まったく、犬とかわらんな」  幸いにも、華雄が呟いた言葉は、俺にぎゅうっと抱きついている明命の耳には入らなかったようだった。 「会いたかったよ、明命」  俺は、誰にも聞こえないよう小さな声で彼女にそう囁いた。 「お、落ち着きましゅた!」  急に離れて真っ赤になったかと思うと、何度も深呼吸したあとで、彼女はそう宣言した。  うん、まだ噛んでるけどな。 「お久しぶりだったので、取り乱してしまいました!」  詠の氷点下にまで落ちた冷たい視線や、真桜のにやにや笑いは痛いけれど、見られたのがこの面々でまだましだった。甘寧、孫権あたりに見られるとまた一悶着ありそうだからな。 「そっか、魏からの報ってのを持ってきたのは明命だったのか」 「はい。冥琳様に言われまして。一刀様たちへの書簡も多数持ってまいりました!」 「せやけど、セキトはどうしたん?」  少し離れたところで月と恋にじゃれついているセキトを眺めながら真桜が訊く。 「はい、そのあたりは、これに」  短い竹簡を懐から取り出してくる。 「音々音殿から、一刀様と詠殿へです」  受け取って、俺と詠とで中身を確認する。えー、なになに? 恋の家族の中でも、セキトがあまりにも弱って見えるので呉に送ります、か。 「ふーん。恋に直に送らなかったってことは、ねねは恋を心配させたくないんでしょうね」 「セキトは一番長いつきあいらしいし、恋がいなくて体調を崩してしまったのかもしれないな」 「まあ、しょうがないんじゃない? 恋もセキトも嬉しそうだし、あれは月にもなついているし」  詠の言う通りだろうな。少しでも許すと際限がないと全部置いてこさせたのは少々酷だったかもしれない。 「恋?」  声をかけると、とことこと寄ってくる。いっしょにセキトも寄ってきて、俺の方を見上げている。 「呉にいる間はセキトの面倒ちゃんとみられる?」 「ん」  こくこくと勢いよくふられる頭。それに応えるように、わふわふと鳴いて、俺の足にぶつかってくるセキト。 「こらこら。じゃあ、いいかな、真桜」 「うん、ええやろ。ただ、大使館は人の出入りもあるから、厠のしつけだけ頼むわ」  再び何度も頷く恋。セキトは俺を攻撃するのに飽きたのか、月の方に走って行ってしまう。 「ところで、書簡はこれだけじゃないんでしょ?」 「はいっ、あちらにあります!」  詠の言葉で、セキトを加えた俺たち一行は明命に導かれ、移動をはじめるのだった。  明命の案内してくれた先は、小さな池のほとりの四阿だった。入り口に立っていた警備の兵士数人を帰し、皆で入る。 「うわ、いっぱいあるわね」  四阿の卓にどんと載っている巨大な麻袋に、詠が思わず、といったようにもらす。たしかに大きい。腰の高さの卓から、俺の目線あたりまで盛り上がっているからな。 「皆様への書簡ですから。封印、といてよろしいですか?」  習慣的に真桜と俺が袋の封印を確認し、頷く。焼き固められた封印をがちりと壊し、袋を開ける明命。 「ええと、これが月殿と詠殿宛ですね、こちらは……」  中から小さな袋を取り出し、くくりつけられている名札をもとに配って歩く。月と詠は俺の下にいるというのはまだ明らかにしていないから、少ないものだ。おそらく、陳宮と華琳あたりからの書簡だけだろう。恋はもう少し多く、華雄と同じくらい。真桜のものは個人と大使あてのものあわせて、かなりの量になる。 「あれ、俺のは?」  明命が配り終えた様子で作り付けの椅子に座るのを見て訊ねる。仕事の関係からして、ないってことはないと思うのだが。いや、うん、個人的な手紙もまるでなかったらかなり悲しいけれど……。 「一刀様は、残り全部です」 「は?」  当然のように言う明命に呆気にとられる。  ……残りって、袋の膨らみからして、七割くらい残っているのですが。俺、持ち上げられるかな、これ。 「さすがやなあ」 「人気だな」 「みなさん、ご主人様が大好きなんですね」 「ご主人様、すごい」 「女たらし」  口々に感想を言われる。なんか、一部けなされているのがあるのですが、気のせいでしょうか。 「ご主人様もたくさんお手紙書かれてるから、お返事だけでも……あら? 美以ちゃん?」  月の言葉に、彼女の視線を追ってみれば、たしかに大きな猫耳が揺れている。ミケ、トラ、シャムを引き連れて、にぎやかに行進しているようだ。その隣には、しなやかな体の巨大な獣が一匹。白と黒の縞が、悠然と近づいてくる。 「なんか、ほんものの虎がいるぞ。白虎が」  しかも、その背に誰か乗っている。あれは、たしか、孫家の三女、尚香ちゃんだ。 「周々ですね! 小蓮様の虎です!」  明命が興奮気味に言う。彼女にとっては、あれもお猫さま扱いなのだろうか? 「やっほー、明命、お帰りー」 「ただいまです!」  白虎の周々に乗っているせいか、尚香ちゃんがまず俺たちを見つけたようだ。次いで、きょろきょろとあたりを見回していた美以たちが俺に気づく。 「あ。兄にゃ。月たちもいるにゃ」 「にぃにぃにゃ」「にぃ様……」「あにしゃまー」  元々蜀にいた恋、月、詠とは顔見知りなのだろう美以たちは、呉の地で知り合いを見かけて興奮したのか、にゃにゃにゃにゃ声をあげながら、転げるようにして走り寄ってきた。それに同調して、周々も走り出す。さすがに巨大な虎が疾駆する姿は、美しくも恐ろしい。なんか、雪蓮みたいだな、とふと思った。  周々の背中から飛び下り、四阿に降り立つ尚香ちゃん。そのまま、周々は四阿の入り口の一つに寝そべる。それとほぼ同時にわらわらと美以たちも四阿に入ってくる。 「よっと。一刀たちもお帰り。なにしてるのー?」 「魏からの書簡を見ているんだよ」  実際、詠などはもう中身を開いて目を通し始めている。 「ふーん。こっちは美以たちと探検してるんだよねー」 「探検してるのにゃ」  腕を振り上げて愉しそうに言う美以。呉での生活も満喫しているようだ。俺たちが長江の視察旅行に出ている間に、呉に着いたのかな。 「いつこっちに来たんや?」 「昨日、建業についたんだよー」 「うむにゃ。呉も人がいっぱいにゃ」  相変わらず、大使として赴任しているという意識はまったくなさそうだが、嬉しそうなのでいいのだろう。南蛮でなにか困ったことが起きていたら、ここにも来られないだろうしな。 「恋にゃ」 「月にゃ……」 「詠にゃー」  部下の三人はそれぞれ顔見知りにとてとてと近づいて行って、なでられたり、セキトと遊んだりしている。こちらはこちらで愉しそうだな。詠も面倒そうにしながらも、ちゃんと相手してやっているし。  その光景を、ほわわー、とした顔で見ている明命。ふと気になって、彼女に訊いてみる。 「あれだけ大きいともふもふはしたくならない?」  白虎を指さすと、少し複雑な表情を浮かべる明命。白虎は、口をぱっくりあけておおあくびだ。さすがに鋭い牙しているな。 「周々はいやな時でも我慢してもふもふさせてくれるので申し訳ないのです」 「そうなの?」 「周々はとってもいい子だもん」  えっへんと胸をはる尚香ちゃん。彼女が名前を呼ぶと、呼ばれたことがわかるのだろう、周々が顔をあげ、こちらを向いてぐるぐると喉を鳴らす。猫が喉を鳴らすのと同じなのだろうが、地を這うように重苦しい音なので、迫力がまるで違う。 「虎と猫ではじゃれつくだけでも桁が違うからな。この手の動物は徹底的に人を傷つけないようしつけられるのが常だ。といっても、知らぬ者が触れば……」 「シャオが許したら、だいじょうぶだよ。一刀もなでてみる?」 「ん、そうだな。挨拶しておこう」  孫家の姫君と美以にひっぱられるようにして白虎に近づいていく。華雄がついてこないのを少し不安に思って振り返る。 「下手に刺激するといけないだろうから、私はここにいておこう」  たしかに、恋や華雄がいると逆に怯えそうな気もするな。 「周々? 一刀はシャオと美以のお友達だから、触られてもびっくりしちゃだめよ」  尚香ちゃんの声にかしこまって聞き入っている周々。さすがに、これだけの巨体が目の前にあると、かなりの重圧を感じる。普通の息なのだろうが、ズボンの裾が揺れるくらいだ。  ほら、なでさせてやってもいいぞ、という風に頭を持ち上げる周々。ありがたく手をおいて、その毛並みをなでる。 「ん、気持ちいいね」  基本的には猫やらと変わらない。びろうどのような手触りが心地よく、また、その奥にある熱が感じられる。頭を何度かなでているうちに、気持ちよくなってきたのか、ぐるぐるという喉を鳴らす音を再び発し始める周々。 「ん……」 思い切って、腰を落とし、喉に手をやる。猫をあやす要領でくすぐって、もう一方の手で背中をなでてやる。 「がふ」  溜息のような声を漏らして、俺の立てた膝に前足を、逆側の肩に顎をのせてくる周々。これは背中をもっとなでてくれ、ということだろうと判断して、周々を抱きしめるような格好で、ゆっくりと背中をなでさすってやる。 「へー。周々、ご機嫌ね」 「兄は猫に好かれやすいのにゃ」 「さすが一刀様です!」  ごろごろと子猫のような高い音で喉を鳴らす周々。しかし、さすがにこれだけ大きいともたれかかられてくる体重だけで結構疲れるな。少し心残りだが、体力を考えて、ゆっくりと立ち上がると、周々のほうは満足したのか俺の足に鼻先をこすりつける。そのあとで、尚香ちゃんのほうを向いて、がうがう何事か話しかけるような風に唸り声をあげた。 「周々が、一刀はいい人だって」 「はは。ありがと」  尚香ちゃんは周々の肩口をゆっくりとなでながら、俺のことを探るように見上げてきた。 「ふーん。雪蓮姉様も真名を許しているしなぁ……決めた。シャオのこと真名で呼んでいいよ。小蓮が真名だけど、シャオって呼んでくれるほうが嬉しいな」  唐突に真名を預けられて、少々驚く。周々と仲良くなったのが効いたのだろうか。珍しい展開だ。実際、彼女のことはまだあまりよく知らないので、今後仲良くできるといいな。 「ああ、ありがとう。俺は真名がないんだ、悪いな」 「うん、これまで通り、一刀って呼ぶね。よろしく、一刀」  がうがう、と彼女の言葉に続いて愉しそうに周々が唸る。 「あ、明命、雪蓮姉様といえば、報告に行かなくていいの?」 「はい、一度簡単にしましたが、一刀様たちと一緒に後ほど来るようにと言われております。……そろそろよいでしょうか」 「そうだね、そろそろ行こうか」  見てみれば、詠も書簡を読み終えたようだしな。 「で、誰が行く? うちとたいちょは当然として……」 「雪蓮様からは、国事を話せるものを、とのことでした」 「ならば、私と恋は遠慮しておこう。明命がいるのなら護衛も必要あるまい」 「私も……」  華雄と月が明命の言葉を聞いて辞退する。恋もセキトやミケたちと遊ぶのに忙しそうだ。 「詠はついてきてくれるか?」 「ん、いいわ」  華雄に月のことを念押しして、書簡の入った袋を預けていく詠。 「あー、俺の分、運んでおいて……」 「ああ、わかっている。お前の部屋に運び込んでおこう」  皆まで言わずに頷く華雄。さすがにあれを一人で運ぶのは無理だ。それ以上に、あれを読み通すことを考えると……。  いまはそんなことを考えている場合じゃない、と頭を振って、皆に挨拶をする。 「じゃあ、シャオ、美以、ミケ、トラ、シャム、またな」 「うむにゃ。また遊ぶにゃ」 「またねー」  そうして、にぎやかな彼女たちの元から、俺たちは国政の場へと移動するのだった。 「そう言えば、なにかあったか?」 「ん?」  城内の廊下を明命を先頭に進みながら、横を歩いていた詠に話しかける。 「いや、書簡を熱心に読んでいたから」 「ああ、ボクと月の任官状だからね、しっかり目を通すわよ」 「へえ」  任官というからには、華琳の命だろう。しかし、二人はしばらく隠しておくということではなかったか? 疑問が顔に出ていたのか、詠がふんと鼻を鳴らして応える。 「董卓と賈駆の名前はないわよ。偽名で来てるわ。ボクだって、いつまでも隠せるとは思ってない。華琳も同じでしょう。そこで先手を打って、北郷一刀の側にいるのは董卓と賈駆ではなく董白と賈胤である、としてしまったのよ。これに蜀が否と言うなら、魏と喧嘩になるからね」  彼女の説明でようやく腑に落ちる。二人は自分の保護下にあるから手を出すな、という華琳の宣言でもあるのだろう。 「で、なんの官位やて?」 「董白を大使行人令、賈胤を大使訳官令に任じるって。これは魏の官ね。大使の副官ってところかしら。本来行人令や訳官令は外政を担当する大鴻臚の属官だから、それをあてはめたんでしょう。もう一つ、二人とも侍御史に任じられてるわ。こっちは漢の官」  まるで自分たちのことではないように言う詠。彼女にとっては、偽名で作り上げた仮の人物がその官位についたという感覚なのかもしれない。 「侍御史ちゅうたら、監察の官やっけ?」 「うん。でも、所詮名目よ」  官位か……。俺には縁のない話だ。今の状況では朝廷が官位をくれるとは思えない。幸い、俸祿は華琳からたくさんもらえているし、困ることもないけれど。 「どうした、詠」  じっと意味ありげな視線で見上げられていることに気づき、訊いてみる。 「いま、あんた、自分には関係ないとか思ったでしょ」 「そりゃ……俺は無官だし、今度も縁がないだろう」  言った途端、三つの溜息が揃う。 「たいちょやしなあ」 「一刀様ですから……」 「な、なんだよ」  三つの複雑そうな視線に包まれながら、俺はなぜだかだらだらと脂汗を垂れ流すのだった。 「いらっしゃい。お酒呑む?」  俺たちを迎えた雪蓮の第一声がそれだった。魏にいる冥琳に代わって筆頭軍師の座にある穏がいるものとばかり思ったが、通された部屋には雪蓮が一人酒瓶を片手にいるばかり。部屋自体もそう広くなく、あと二、三人入ったらいっぱいになってしまいそうだ。 「ボクはお茶がいいわね」 「うちも遠慮しとくわ」 「そ。じゃあ、明命、悪いけど、お茶淹れてくれる? お湯はそこにかかってるから」 「はい!」  元気よく応えてお茶を淹れ始める明命。俺たちはならんで卓につく。三人で雪蓮に相対する形だ。 「しかし、魏からの報ちゅうから、うちらに関係すると思っとったけど、明命はんが来るちゅうんは、どっちかちゅうと呉のことなんか?」 「それもあるわ。いくつもあるらしいから困るわよね。平和になったらのんびりできると思ったんだけどなー」  酒を片づけて、明命の淹れてくれたお茶を一気に呷る雪蓮。熱くないのかな? 「無理よ。平和になったからこそ、それまで戦時だからと抑えつけられていたものが吹き出してくることだってあるんだから。あと十年は安定のために動いてもらわないと」 「じゅうねん〜? 勘弁してよー」  ふるふると手を振る雪蓮に対して、詠は、くい、と眼鏡をなおしつつしっかりと相手の目を見て言う。 「この十年でその後二十年を築き上げ、その後の二十年で百年を築くのよ」 「うー、めんどいー」 「雪蓮だってわかってるはずでしょ。皆がわかっていることをあえて言うのが軍師というものよ」  詠と雪蓮が討論なのかじゃれ合いなのかよくわからない会話をしている間に明命の手になるお茶も配り終わり、俺たちは一息ついて、居住まいを正した。 「では、報告させていただきます。細かいことは様々ありますが、大きなことは四つです。主に一刀様に関わります」 「え、俺?」  予想もしていなかった言葉に驚く。  まさか、稟や桔梗が……。  いや、何かあれば明命を送るまでもなく急使が飛んでくるだろう。早さよりも秘匿性と、答えを持って帰るために彼女が派遣されたはずだ。 「直接に被害のあることはありません。ご安心を」  顔に出ていたのか、明命が生真面目な顔で念押ししてくれる。実際、彼女の言葉はありがたかった。今のやりとりだけで、手がべっとりと汗で濡れてしまっているくらいだ。  では、まずおめでたいことを、と前置きして、明命は俺を真っ直ぐに見て言った。 「荀ケ殿、ご懐妊」  ……は? 「ありゃー、桂花かー。こりゃ驚きや」 「軍師二人目? ちょっとあてすぎじゃない?」  詠と真桜、二人のからかうような声も、耳に入っても脳が処理してくれない。  いやいや、ちょっと待て。桂花が? あの桂花が?  しばらくぼーとしていたのだろう、明命が心配そうに言葉を足す。 「実を言うと、桂花殿ご本人はすでに気づいておられたようなのですが、ずっと隠しておられたようで。お腹が膨らみはじめて、これは隠せぬと……」 「まあ、桂花らしいんじゃない?」 「いずれにせよ、おめでとうございます、一刀様」  明命の笑顔に、ようやく反応する。 「あー……うん」  桂花が、俺の子を……俺の、子を!  喜びが体を駆けめぐり、机の下で小さくガッツポーズをしようとして、真桜の肘にぶつけてしまう。 「いたっ」 「あ、ごめん!」 「……ええけど、たいちょも痛いはずやで?」  肘をさすりながら、不思議そうに覗き込まれる「 「あ、え?」  痛み? ええと……ないな。 「しばらくだめね、こいつ」 「しゃないやろ。子が出来たんやし。せやけど、もう三人目やしなあ」  しかし、一抹の不安がある。桂花は男嫌いだし、ましてや、以前から近寄ると妊娠するなどと言って俺を罵倒していた。それが彼女なりのやり方であることはわかっているが、しかし、もしかしたら、俺の子などおぞましいと思ってしまうのではないか、いや、さすがにそこまでは桂花といっても……。 「とりあえず、子供のことで頭がいっぱいの一刀はほっておいて、次に行きましょ」  ああ、そうだ、華琳がどうにかしてくれるだろう。もし、桂花が反発したとして──それがないのが一番だが──子を害するようなことを彼女の主たる華琳が許すわけがない。ましてや、もはやこうして俺にも連絡がくるほどなのだから、ああ、しかし、無事に生まれたとしても、俺に抱かせてもらえるだろうか? あの桂花のことだから、男が近づくなど許してくれないのではないかという不安が……。 「はい、ですが、いいのでしょうか。呉の秘事ですので……その……」 「うん、真桜は知ってるし、詠にはどうせ隠しておけないわ。詠、あなた一刀につくことにしたんでしょ?」 「どういう意味? ボクたちは呉に来たときから、北郷一刀の預かりになってるわよ」 「わかってるくせに」 「……ま、そうね。月も離れないでしょうし。こいつの下にいることになるわ」 「そういうこと。一刀が知っているのに、詠に隠す意味がないわ。いいわよ、明命」 「は、では」 「ちょい待ち。さすがにたいちょ聞いてなさすぎや」  すぱあんっ、といい音と共に、後頭部に強烈な衝撃が走る。 「うわっ」 「たいちょ? 目さめた?」 「あ、ああ、悪い。えっと、呉の特許商人の関税減免の話だっけ?」  思考の渦の中から引き戻されて、ついなんとなく口に出したけれど、うん、違ったみたいだ。全員があきれ返るようにこちらを見ているのはなんともいたたまれない。  雪蓮が溜息をついて、面倒そうに明命に向けて手を振る。それを受けて、彼女は再び俺に向けてはっきりと言った。 「冥琳様がご懐妊なされました」  さすがに連続で来るとは予想もしていなかった。あまりに予想外すぎて、逆に頭が芯まで冷える。 「明命、ちょ、ちょっといいかな」  真桜たちに、またか、という目でみられているのを意識しつつ、恐る恐る確認してみることにする。 「はい?」 「桂花と冥琳が俺の子を身籠もったと、そういうことでいいんだよな?」 「はい」  はきはきと応える明命。 「ほ、他に俺の子が出来たって話は……」 「ご懐妊はこのお二人です。……はっ、申し訳ありません、私はまだ……」 「そ、そうか、うん、わかった」  よし、そうか、わかった。  桂花と冥琳が俺の子を身籠もった。  桂花──魏の筆頭軍師、華琳の覇業を支え続けた、口の悪い喧嘩仲間。  冥琳──呉の筆頭軍師にして、世に謳われるほどの美貌の持ち主。大陸を導く新しい仲間。  三国の頭脳にして、とんでもない佳い女二人が、俺との子をその身に宿してくれた。その事実が、体の奥底まで染み渡った時沸き上がってきたのは、強烈なまでの歓喜と、それと裏腹の不安。  俺という人間は、北郷一刀は、彼女たち──桂花、冥琳、桔梗、稟──四人の俺の子の母となってくれる女性たちの献身に値するのか?  そんなことを突きつけられたような気がして、体中にぴりぴりと電流が走るような気がした。 「なによ、それが呉の秘事なの? どうせ相手はこいつでしょ? まあ、ちょっとうるさいのもいるだろうけど……それにしても、軍師三人目ね」  たしかに、孫権に知られれば、より強い嫌悪を招きかねない。それよりも、問題は……。 「冥琳には蓮華への王位継承の作業を任せているのよ」  口を噤む明命に対し、あっけらかんと秘事を明かす雪蓮。 「ああ……やっぱり」  詠は、驚きもせずに頷く。知っているはずはないのだが、見抜いていたとしたら、賈駆の炯眼恐るべし。いや、俺の世界の歴史から導き出したのか? 「なに、知ってたの?」 「いいえ、知らないわよ。でも、いつかそうするだろうと思ってたもの。はっきり言うけど、武人として生真面目すぎるわ、雪蓮は」  珍しく皮肉さの全くない苦笑いを浮かべる詠。あれは、間違いなく褒めているんだな。 「は? 蓮華じゃなくて、わたしぃ?」 「そ。王としてじゃなくて、武人として、よ」  その言葉に、雪蓮はなにか納得したようだった。こつこつと指で卓を叩いて一人ごちる。 「引き際……か? まあ、ね」 「まあ、そのあたりはおいといて、冥琳はんも子供産むとなったら、動けんようになる時期が出てきてまう。それをなんとか助けてやらなあかんやろ。しかも秘密裏に」 「そうだな。呉の国譲りはいずれ明らかになるだろうが、いまは明らかにする時期じゃない。華琳はこれを知っていて呉に関わることはしないと約束しているけど、蜀やその他の勢力にまでそれを期待するのは無理というものだからな。なにより、呉の国内をまとめるにしても、まだ時間が足りていないだろう」 「あら、頭まわりはじめたの」  詠がそっけなく言う。この調子だと、俺の言葉に賛成ということだろう。 「惚けてばかりもいられないさ。生まれてくる子のためにも」  肩をすくめて見せると、鼻で笑われたが。 「体を休めるのにはちょうどいいとは思うけどね、あの子ってば無理しすぎるし」 「冥琳様は予定通りにこなしてみせるとは言っておられましたが、ご自分でも子供のことを考えると無理はできないと考えておいでのようです」 「冥琳らしいわね」  たしかに冥琳らしい。洛陽には人が多いことや貴重な薬種が揃うこともあって、頻繁に華侘が訪れているから、健康については彼に任せられるとしても、過労となると冥琳自身が抑えてくれないとなかなか難しい。 「手が空いてるのなんていないわよねえ。桂花も妊娠じゃ……」 「……美羽と七乃さんはいるけどな」  呉では評判の悪い二人の名前を出してみる。魏は宦官放逐後も黄河の治水事業に力を入れているが、大枠はできあがったので二人の手は離れているはずだ。郷士軍も実務は凪たちに移っているはずだしな。 「えー、あんな愚図どもいたって……」  雪蓮の言葉が不自然に途切れ、目を見開く。 「たいちょ、抑えて」 「だめよ」  低いささやきと共に、机の下で、両の手がぎゅっと握られた。一つは詠、一つは真桜。どちらもが必死に俺を引き止めようとでも言うように手を包んでいる。  おいおい、どうしたっていうんだ? 真桜なんて震えてるぞ。  雪蓮相手に激発するとでも思われたのか。たしかに、美羽たちを莫迦にされるのは腹立たしいが、しかし、雪蓮はいまの美羽を知らないのだから、そこまで怒り心頭に発するというほどのことはありえない。  ……というのは俺の理性が下した結論なわけだが、どうも、よほどひどい顔をしていたらしいな。あの雪蓮の笑みがひっこんでいる。感情以前に体が反応していたようだ。しかし、雪蓮の場合、笑みが消えると、親しみやすさが消えて美しさが強調されるからか、怖いくらいだ。 「雪蓮様、いまの袁術は冥琳様もお認めになるほどです。たしかに軍師と言えるほどの力はないかもしれませんが、祭さまもついておられますし、けして侮れるものでもないかと」 「……ふーん」  明命の言葉に、ふてくされたように応える雪蓮。 「呉の国譲りを袁術と張勲にさせるってわけ?」 「いる、って言っただけさ」  俺のことを探るような雪蓮の視線。海のように深い青の瞳が、淡く翳る。俺自身、美羽と七乃さんがどれほど実務的かということについては少々不安な部分はあるが、祭や冥琳がついて美羽の突飛な発想を生かしてくれるのではないかという期待がある。 「たいしたタマね、一刀。袁術たちに、あなたの命は伝えてくれるんでしょうね?」 「雪蓮が冥琳に手紙を出して、俺が添え文を書けばいいだろう」 「そう……明命はこの返事を持って戻るの?」 「はい、雪蓮さまにあらためて何か命じられない限りは、なんらかの意思決定がなされれば戻ってこいと言われています」  そうか、明命はすぐ洛陽に戻るんだな。久しぶりに会ったから、食事くらいはいっしょにとれるかと思ったが、家族や呉の友人たちとの触れ合いもあることだし、難しいかもしれないな。 「そ。じゃあ、明日中にまとめるわ。今日、明日はゆっくりして、明後日出立なさい」 「ありがとうございます」  その後、雪蓮は詠と真桜のほうを見やって意見を求める。 「うー、難しなあ。うちはことが終わるまでこっちにおるから、できる限りのことはするけど、洛陽でのことはちょっと」 「ねねを推薦したいところだけど、あの子、まだ頭でっかちすぎるのよね。人の機微を考えないといけない作業には不向きね」 「そっか。えっと、祭はこれに専従してくれてるんだっけ?」  どうだったかな、と思い出してみる。やることは色々あって、しかも、俺や祭は特に決まった部署がないから、やろうと思えば際限がない。 「いや……。そうだな、祭にはこれに集中してくれるよう頼んでおくべきだろうな」  また面倒な、と口では言うのだろう。その様子が脳裏に描き出されてつい微笑む。同じことを考えていたのか、似たような笑みを浮かべていた雪蓮と眼が合った。 「ま、これに関しては、今後もみんな助力を頼むわね。で、あとはなんだっけ」  先を促す彼女の言葉に応じて放たれた明命の言は、またもや衝撃的なものだった。 「はい、公孫賛殿が、蜀から追放されるとの内示が、厳顔殿から」 「伯珪さんが蜀を追放されるだって!?」 「ありゃ……。いきなり追放とは穏やかやないな」 「これは桃香や朱里の策じゃないわね」  俺たち三人がそれぞれの反応をしているところで、雪蓮は黙って明命に先を促す。 「公孫賛殿が、公孫淵のところに向かっておられるのはご承知の通りです」 「ああ……ええと、烏桓を慰撫しながら、北上しているんだよな」  麗羽たちもおつきで行っているはずだ。かなり北の方だから、まだ本命の遼東にはついていないはずだが。 「はい、そこに、朝廷から密使がたちました。元々遼東公孫氏の問題に関しても、朝廷からの肝入りでしたが、朝廷はここで、公孫賛殿を取り込もうと動かれたようで」 「ふーん」 「おそらく、ですが、内容的に魏、そして、一刀様への敵対要請があったものと思われます」  妥当といえば妥当なところだ。宦官を奪われた朝廷は、いまや帝とその周辺に侍る、いわば心臓と言えるような部分しか存在しない。実質的な体として機能している魏を切り捨てるならば、新しい手足を手に入れる必要がある。そこに伯珪さんのようなまじめな人を選ぶのは少々考えが足りない気もするが……。 「そんで白蓮はんが断ったっちゅうわけか?」 「いえ、その前に、朝廷はどうやら一行に袁紹殿、さらには顔良文醜の二将軍がついているのを知らなかったようなのです」 「ああ、麗羽たちは華琳と伯珪さん自身の希望でつけたからな」 「公孫賛殿と幕僚しかいないものとして勅を読み上げた密使は、文醜将軍に一刀の下に切り捨てられました」 「……猪々子……」  思わず額を抑えようとして、まだ両手が握られていることに気づく。落ち着け、とでも言うように詠の手にぎゅっと力が込められる。 「でも、それやったら、責めどころがちゃうんちゃう?」  たしかにそうだ。普通なら、猪々子はもちろん、麗羽のほうを責めるほうに回るだろう。 「袁紹殿は漢の大将軍・録尚書事です」 「あ、そうなの? まだ、大将軍なんだ。へー。私にもくれないかしら」  相変わらず軽いな大将軍。常設では三公をしのぐ最高の官のはずなのだが。月がついた相国は非常時のみだしな。 「その大将軍の袁紹殿が『そのような勅書は見た覚えがない。偽勅であろう。偽の勅書を持ち来る不埒な使者は成敗した』と」  たぶん、そんなまともなことは言わなかったに違いない。おそらくは、もっと過激なことを言ったのを、斗詩が穏当なところへ落ち着かせたのだろう。 「ああ、それは通るわね。というより、大将軍に根回ししてない勅書なんて、後からでもつぶされるわよ」 「そういうわけで、朝廷としては表立って文句を言えない、けれど面子はつぶされたとなったようで」 「蜀に裏から持ちかけて、伯珪さんを追放させる、か」  さすがに老獪というか、搦手は上手いものだ。ついつい自然と溜息が出てしまう。 「はい。袁紹殿達は下手に処分すると、真っ向から敵対することになりますので、やはり避けたのではないでしょうか」 「いまの麗羽たちなら、たいした影響力はないと思うけど」 「朝廷という古くさい世界にはまだ袁家の顔がきくのと……後ろにあんたがいるからよ」  詠の指摘に驚く。もちろん、朝廷とてそのあたりは勘案しているだろうが、華琳の昔なじみという要因のほうが大きくはないだろうか。 「俺? そりゃあ、麗羽や猪々子、斗詩に手を出すようなことがあれば黙ってはいないけど、俺程度じゃ……」 「……これだから……」 「たいちょやしな……」  なんだかおなじみの反応になっているが、首をひねるしかない。やはり、どうも、こういう格式張った伝統の部分にはまだまだついていけないところがある。 「それに朝廷はもう俺と敵対しているだろ?」 「……それを躊躇いなく言えるのは一刀様くらいだと思います……」  困ったような顔をした明命にまで言われてしまう。雪蓮は笑みをおさめ、目を細めて俺を見ている。 「あんた、もし、もしよ? 袁紹が朝廷の手で殺されたとしたらどうする?」  しばらくの沈黙の後で、不意に詠が訊ねてきた。 「手勢で封鎖した上で、内宮ごと焼く」  長い長い沈黙。  ぽかーんと口をあけたままの真桜。なんだか少し嬉しげな明命。眼鏡をいじって視線をあわせようとしない詠。そして、息を止め、顔を朱に染めている雪蓮。それぞれの顔を見回して、話の続きを促そうとする。雪蓮は驚いているのだろうけれど、息を吸った方がいいと思う。 「あんた……その言葉だけで朝敵よ」 「詠が訊いておいてひどいな」  自分としてはするっと出てきた答えを言ったつもりだったのだが。仮定の話なので、特に怒りも感じない。もしそのような事態になれば憤怒で我を忘れてしまうかもしれないが、報いは必ず受けてもらう。 「……ぜ、絶句しちゃったわ」  荒い息をついて、ごまかすように笑う雪蓮。やっぱり苦しかったのか。 「でも、一刀様はこういう方です」 「誰がそうなってもそうするよ」  ただし、華琳が害された場合は別だ。その場合は魏そのもの──なによりも春蘭たちが動くだろう。すでに華琳と朝廷は対立しつつあるわけだが、その一方で、華琳と魏という後ろ楯がなければ漢王朝そのものが成り立たないという状況でもあり、実際に取り除くとなると難しいのだけれど。 「朝廷があんたを敵視するのも、逆に恐れるのも、そこ。あんたは朝廷の権威──ひいては帝の権威をまるで認めていない。それは官位をもらおうとしないことでもよくわかる。あんたのこと不気味に思ってるのよ。やつらの理解の外にあるからね」  そう言われてみると、なんとなく理解できる。さすが、賈文和だな。 「だから、朝廷はこれ以上あんたを刺激したくない。するならば、白蓮にしたように味方を引き入れてからにしたいのよ。いまの状況でさらに挑発するようなことは避けたいわけ」  詠の説明は理解しやすいが、それでもひっかかるところがあって問わずにはいられない。 「でも……伯珪さんを追放させるんだろ?」  不思議そうに彼女の顔を覗き込んで訊ねると、詠がしょうがないわね、という風に笑みを浮かべていた。 「そうね。でも、あんた、白蓮に義理はないでしょ。少なくとも朝廷が認識する義理はないんじゃない?」  ないだろうか? 本当に? 「でも……俺は彼女を知っている」 「……ま、そやろなー」  真桜がうんうんと頷く。 「でも、どうするの? 直になにかできるわけじゃないわよ。蜀だって苦渋の決断だったでしょうし、朱里や雛里がやりたくてやってるわけじゃないことくらい、あんたにもわかってるでしょ」  詠の言うことも当然だ。蜀はどちらかといえば朝廷から圧力を受けて迷惑を被っているほうだし、ここで朝廷を締めつければ、蜀へのさらなるとばっちりも予想される。 「明命、いくつか書簡を持っていってもらえる?」 「はい、もちろんです」 「どないするん?」  すでに華琳が動いている可能性も高いが、こちらで出来るだけの対応はしておいたほうがいいだろう。 「まずは麗羽たちに伯珪さんを守るよう伝える。華琳には、伯珪さんが望むなら、保護するよう頼む。俺の責任でできることはなんでもする、と」  真桜に答えた後で、少し考えて付け加える。 「あとは……桔梗に伯珪さんはこちらで受け入れるかもしれない、ということを伝えておくくらいだな。もちろん、伯珪さん次第だけど。……雪蓮?」  さっきからうつむいて黙り込んでいる雪蓮に話しかける。 「呉の方はいいのかな?」  白馬義従の戦闘能力は侮れない。伯珪さんも、果断さはなくとも堅実な実務能力の持ち主だから、呉が欲しいと思ってもおかしくない。なにより、桔梗が呉に内々に伝えたということは、蜀としてもなんとかしてほしいという希望があったに違いない。 「え? あ、うん。うちは、別にね」  何か考えに集中しているようだ。あまり構わないほうがいいだろう。 「それにしても、俺を目の敵にしすぎだよ。詠の言う通りなんだろうけど」 「他にもあるけど、たいした理由じゃないわよ。あんたにとっては、ね」 「天の御遣いだからか? たしかに、それは不遜かもしれんが……」  詠は何も言わない。意味ありげな視線からして、俺の言葉は間違っていないが、全てを言い当てているわけでもないようだ。おそらく、いま語る必要はないと思っているのだろう。詠のことだから、きっと、ふさわしい時に話してくれる。 「さて、おっききなこと、これで三つか? 次で最後やな?」  真桜の言葉に元気よく頷いて、明命は続ける。 「公孫賛殿と袁紹殿の遠征に関してですが、もうひとつあります。どちらも旧領を巡る内に旧来の部下が集まってきたらしく、公孫賛殿の下には多数の白馬義従が、袁紹殿の下には、沮授、田豊といった人物が集まってきたとのこと」 「へえ、沮授と田豊が」  この二人は三国志を呼んでいれば、袁紹の頭脳として必ず名前があがる人物たちだろう。この世界では麗羽や桂花の口から名前は聞いたものの消息は知らなかったのだが、どこかへ身を隠してでもいたのだろう。 「はい。公孫賛殿はそのまま吸収されたようですが、袁紹殿は、洛陽へ行くように言いつけたようでして」  白馬義従のほうは古くからの部下なだけに、なじみやすかったのだろう。慰撫が中心の行軍だけに、鍛えなおすにはちょうどいいと判断したのかもしれない。 「その顛末については、詳しくは一刀様への書簡に書かれているはずです」 「え、麗羽からか?」 「いえ、曹操殿からの」 「そっか、後で見ておこう」  後で確認してみたところ、麗羽の下には、沮授、田豊、審配、許攸、張合(※本来は合におおざと)、淳于瓊といった人物が参集したらしい。官渡の後、どこに隠れ潜んでいたのやら。そのそうそうたる面子に向かった麗羽は 『あーら、いまさら来てもわたくしの完全無欠の楽園には招待してさしあげませんわよ。そうね、人材好きの華琳さんならあなた方にふさわしい職を与えられると思いますから、洛陽に行かれたらどうかしら?』  とそれぞれに推薦の文──これ自体は斗詩が書いたのだろう──をつけてよこしてきたのだそうだ。このうち許攸のみはこの扱いを不服としていずこかへ消えたらしいが、他の面々は洛陽に来て、華琳に仕える事になるだろうというようなことが書かれてあった。  この顛末の最後に、一刀、あなたと麗羽のいる場所は『完全無欠の楽園』らしいわよ? と華琳のからかいなのか、本気なのかよくわからない言葉が書いてあった。どうやら、以前の睦み合いで言っていたように、俺がいて、斗詩や猪々子がいて、そして、おそらくは華琳や美羽がいるというのが、麗羽にとっては欠けるものが何ひとつない状況の『楽園』なのだろう。そう思ってくれているのは、純粋に嬉しい。  そして、麗羽が自分を頼ってきた旧臣たちを放り出すことはせず、きちんと対処したこともまた誇らしく思えるのだった。彼女は大将軍の官位は持っているものの、実権というとほとんどないに等しい状態だし、華琳に推挙するというのは非常に正しいやり方だったと思う。ある意味、麗羽らしくないと思ってしまうくらいに。  まあ、彼女にとってみれば、本当に現状で不満がないから、余計な人間は入ってくるな、という感覚だったのかもしれないけれど。 「しかし、いろんな連中が出てくるもんやなあ」 「世間からしたら、それこそボクなんて亡霊よ?」 「ああ、せやった、おばけや、おばけ」 「そう言えば、祭様が生きておられるのを見た時は、本当に心臓が止まるかと……」  報告のためだったはずの場は、いつの間にか雑談へと変わり、俺たちはひとしきり語り合った後、退出した。  おそらくは、冥琳の件が主要な眼目だったにせよ、途中から一切何事もしゃべらず思考に没頭していた呉の女王のことが気がかりだった。王ともなれば心配事はいくらもあるし、考える時間も惜しいとはいえ、一体何が普段は快活でおしゃべりにも乗り気な彼女の心を捕えていたのか、心の済で、いつまでもそのことがひっかかっていた。  その晩、積み上げられた竹簡と紙束を前に、俺はひたすらに字を追っていた。とにかく量が多くて、早めに読まねばならないものを選別するだけでも一苦労だ。明命が帰るまでにいくつかは返事を書いて彼女に運んでもらわねばならないだろう。 「私的なものと公的なものが混じってるのが困りものね。あんた、国の中枢に女つくりすぎよ」  選別を手伝ってくれている詠が文句を言う。手伝うといっても彼女は絶対に私的な文書を読みたがらないので、それぞれの文に印──色分けした紐を結んだり、俺が公的なものだと判断したものの重要度を判別してもらっている。 「そ、そうは言っても……」 「そういや、女官とかに手を出したって話は聞かないわね」 「うーん、そう言うのはなんか権力を利用しているような気がして」  華琳の親衛隊はじめ、洛陽にも魅力的な女性は数多くいたが、それらの人達と私的なつきあいというのはほとんどしたことがない。四六時中誰かしらが側にいたし、たまに文官や武官と食事を共にしたりすることはあったが、二人きりというのは、そういえば、無かったように思う。 「ボクもあんたに庇護されてる弱い立場のはずだけど?」 「いや、それは……」  言われてみれば、その通りだ。言葉を濁す俺をきっと睨みつけてくるメイド姿の少女。 「莫迦。厭とかそういうことじゃないわよ。いちいちいじけんな」  勢いよく怒鳴りつけて、そのあとで、くいくいと眼鏡をなおす。 「まあ、あんたなりの判断があるのはわかるわ。ボクや月はあんたがなにか意に沿わぬことをすれば、霞に助けを求めることも、華琳に訴える手もある。いえ、もっと身近な華雄や恋だって筋違いのことなら──あんたが、もし万が一、それをしたとしてだけど──ボクたちを支持してくれる。でも、普通の女官じゃ自分の職を失う危険を犯してまで抵抗しない可能性もある。そういうことでしょ?」  滔々と自分が発した疑問に対する答えを整理して話してくれる詠。自分でも形になっていなかったものをそうやって言葉にされるとなんだか無闇と説得力があるな。 「ありがとな、詠」  なんとなく嬉しくなって礼を言うと、真っ赤になって口籠もる。 「な、なに言ってるのよ。それより手を動かしなさい」 「ああ」  詠の言う通りなので、目を書簡に戻す。詳細に目を通すには、明日、明後日ではすまないな、これは。 「そういえば、蜀は大使をどうするつもりかしら。桔梗だけに任せる手もあるけど」 「しかし、桔梗も妊婦だしな」 「……あんた、騒動を撒き散らしてない? このちんこの遣いが」  その言葉に呆然と彼女を見つめると、詠が不気味なものでも見るような顔でこっちをちらちら見てくる。 「な、なによ」 「いや、男性器すら知らなかったあの詠が、まさか、そんな卑俗な言葉を……」 「わーわー、うるさい、莫迦、この莫迦」  暴れて書簡を持ち上げるが、さすがに投げるのはまずいと判断したのか、憤然とした態度ながら、そっとそれを卓に置きなおす。ああ、よかった、側にいたら蹴られてたな。 「白蓮の代わりを送るとは思うけどね。そうね、紫苑──黄忠あたりかしら……」  無理矢理のように話を戻そうとするのを、これ以上からかうのもまずいと話にのっておく。 「弓将二人か……。黄忠さんにしろ、桔梗にしろ、抑えの効く人材だろう? それをいま国外に出していいものなのか?」 「しかたないでしょ。そもそも、蜀にそれほど人材がいないんだから」 「小さい割りにはいる方だとは思うけど……っとさすが桂花だな、妊娠したなんて一言も書いてない」  桂花からの手紙をざっと呼んで思わず漏らす。 「まだわかってない時期じゃないの?」 「わざわざ、『明日、この書を持って周泰がそちらに発つ』って書いてあるのにか?」  苦笑い一つ。しかし、桂花らしい。実に桂花らしい。 「察してやりなさいよ」 「そのあたりはよくわからないけど、とにかくこれは私的なことはまるでないよ」 「ふーん」  俺から竹簡を受け取る詠。俺は、次の書簡にとりかかる。これは長いな、華琳か……。 「司馬氏?」  不意にあがった声に、文字の連なりに没頭していた意識が引き戻される。 「んー? ああ、そうそう、桂花に司馬氏の調査を頼んでたんだ。司馬懿は贈賄で処刑されたけど、司馬師、司馬昭は生まれているみたいだし、万が一があると困るな、と思って」 「……あんたの世界では曹魏を簒奪した人物ね」 「奪われるほうが悪いと華琳なら言いそうだけどな」  司馬氏の専横を許して、帝位を譲らざるを得なくなってしまったことの責任はたしかに曹氏にもあった。ただ、この世界でそんなことを起こされると、せっかく定まった天下が短い間にひっくりかえりかねない。それだけは勘弁してほしい。 「この件、ボクが引き継ぐわ。いいわね」 「え?」 「こっちのことも、あんたの世界の歴史も詳しく知ってるのはボクだけでしょ。監視の任ならボクの方が向いてるわ。もちろん、現状は桂花と連絡をとりつつだけど」  書簡に目を落としたまま、鋭い声で言い放つ。おそらく、いま、彼女の頭の中では、様々な計画が練られ始めているのだろう。 「そっか。うん、ありがとう、詠」 「それより、あんた、明命と約束してるんじゃなかった?」 「もうそんな時間か」  さすがに体で時間をはかる感覚は、いつまでもこちらの人達に勝てそうもないな。詠に言われて、とにかく広げていた書簡だけは整理し始める。先は長い。 「明命が来る前に一つ言っておくわ。雪蓮に気をつけなさい」  くるくると桂花からの竹簡を巻きとりつつ、何気ないことのように言う彼女に少々驚く。 「え?」 「あんな考え込んでいる雪蓮はじめてよ。あの時の会話で何かあったとみるべきね」  さすが、詠は気づいていたのだな。俺ですら気づくのだから当然といえば当然だ。 「いったい……なんだろう?」 「わからないわ。とにかく、気をつけて。ボクも注意してみる」 「ん。わかった。気をつけよう」  そうして詠はかわいらしいフリルを振り立ててつつ、部屋を出て行くのだった。 「一刀様、よろしいでしょうか!?」 「いらっしゃい、明命」  なんとか明命が来る前に軽い夜食と酒を用意することが出来た。とはいっても夜食のほうは月が気を利かせて作ってきてくれたものだ。  夜、訪れてもいいか、と聞かれた時は少々びっくりしたものだが、郷里の人間との時間をやりくりして俺のところに来てくれるということだろうと快諾し、この出迎えとなった次第だ。 「まずは、冥琳様から個人的なご伝言です」  部屋に入ってきた明命が、生真面目な顔のまま、俺に向かって言う。 「子供の顔を一番に見せられなくて申し訳ない、と」 「ああ、そうか、冥琳と明命は……入れ代わりか」 「はい」  予定では、俺が副使の任を終えて洛陽に戻ると時を同じくして、呉からは新大使として、孫権と甘寧が派遣され、代わりに冥琳と明命が呉に帰ってくるという手筈になっている。国譲りの主役の孫権を洛陽に置いておくのは余計な争いを生まないためと、身柄の安全を確保するためだ。 「まずは自分の体をいたわって欲しい、と伝えてくれるかな。もちろん、手紙は書くけどね」 「はい。わかりました!」  冥琳からの伝言を伝えて一任務終わったとほっとしたのか、明命の雰囲気がほんの少しだけ緩む。 「じゃあ、とりあえず座って、お腹はいっぱいかな?」 「いえ、先程まで雪蓮様、蓮華様たちと宴席だったのですが、やはり話し込んでしまって……」  話すのに夢中であまり食べられていないってことかな。重臣方との宴席ではよくあることだ。 「月が夜食を作ってくれたから、どうぞ」 「はい。ありがとうございます!」  俺自身も卓につき、酒をのみ始める。明命の方は一口食べた後で、本当にお腹がすいていたことに気づいた、という風情でぱくぱくと食べている。美味しそうに食べる姿は、見ていて気持ちいい。 「あの、一つお聞きしたいのですが」  食べる合間に話しかけてくる明命。 「ん?」 「雪蓮様となにか仲違いをなさったのでしょうか?」  また雪蓮か。やはり、先程の様子は側に仕えている者から見てもおかしなものだったようだ。 「ない……と思うんだけどなあ」 「そうですか……」 「なんか気になることあった?」 「今日の会談の途中からそれはもう見事な殺気が一刀様へ向けられて」  困ったように眉を寄せる明命。その様子がなんだかかわいい。それにしても殺気ときたか。抑えた殺気を向けられるほどのことをした覚えがないのだが。 「……困ったな」 「嫌っている、というのではないと思うのです。雪蓮様は嫌いな相手には逆に話しかけていくほうなので」  たしかに雪蓮は絡んでいく性質だろうな。それで相手の弱みを引き出したり、単純にからかって遊びたがるという印象がある。 「俺には心当たりがないけど、なにか気に障ることをしてしまったのかもしれない」  酒杯を飲み干し、ふと彼女をよく知る人に相談することを思いついた。 「明命。悪いけど、洛陽に戻ったら、祭と冥琳に相談してくれないかな。俺としては雪蓮に悪意も害意もないし、仲良くしたいと思っているから、協力してほしいと」 「はいっ! お二人なら雪蓮様のこともよくわかっていらっしゃると思います。私としてもみな仲良くできるのがいいと思います」 「そうだな。政治とは別のところで、個人的な感情のもつれが出てくるのはある程度はしかたないけど、出来れば仲違いはしたくないものな」 「はい、みんな仲良くです!……雪蓮様にお猫さまをもふもふしていただければ、少しは気が晴れますでしょうか?」  いいことを思いついた、というように笑顔を浮かべる明命。猫の破壊力は認めなくはないが、雪蓮はどうだろう。冥琳はかなりあれで子供っぽいところがあるから、夢中になりかねないと思うけど。 「雪蓮は猫より冥琳をもふもふしたいんじゃないか?」 「ああ、そうかもしれません! 冥琳様がお側におられないので、気が立っておられるのかも!」 「断金の交わり、だもんな。実際のところ、明命も冥琳もいないとなると、雪蓮も大変だとは思うんだけどね」 「私は……武でお仕えするしかありませんが……亞莎たちに頑張ってもらって……あ、亞莎といえば、一刀様たちと一緒にでかけていたのですよね」  悔しそうにうつむく明命の顔があがり、ぱっと明るくなる。 「うん。いま、江水の河口の測量をしているよ。肥沃な土地があるから、人を募集できるかもしれないって言っていたよ。会えないのは残念だったね」 「そうですか! それは喜ばしいです。土地の調査は重要な任ですから、会えないのはしかたないです。でも、亞莎頑張ってますね。私も負けていられません!」  そのためにも食べなければ! ともぐもぐと頬張る彼女がまるでハムスターが頬袋にたくさん種を貯めているようにも見えて、とても微笑ましい。 「明命は明命として、亞莎は亞莎なりに呉のために、民のために力を尽くせばいいと思うよ。俺もできる限りのことをしたいと思ってる」  果たして、出来ているのかどうか怪しいけれど。なにしろ孫権たちには敵視されるわ、雪蓮にはなぜか急におかしな態度をとられるわだからな。何もかもがうまくいくとは限らないのは理解しているが、個人的に責任があるのではないかと思って落ち込んでしまいそうだ。いや、落ち込むより先に反省してそれを生かすべきか。 「はい、一刀様にも真桜殿にも、呉のためにもお力をお貸しいただけると嬉しいです! あ、もちろん、魏のためにならないようなことまでしていただくわけには行きませんが……」 「いやいや。呉のためのことは魏のためにもなるし、この大陸のためにもなるよ。利害が対立することがないとは言わないけど。それでも、俺はできる限り、いろんな人が幸せになれる明日が欲しい。あるいは、せめてわが子は幸せになれると希望がもてる未来がね」  ぽかんと口をあけ、食べるのも忘れたように見つめられて、ぼっと顔が熱くなる。 「あ、ごめん。俺なんかが言っても説得力ないよな」 「いえ、感動しておりました。私も、一刀様の目指す明日に行きたいです!」  箸をにぎったまま、がたんと立ち上がり、俺に覆い被さるようにして目をきらきらと輝かせる明命。その勢いにますます頬が熱くなるのを感じながらも、にっこりと笑みを浮かべずにはいられなかった。 「ああ。もちろんだよ。明命。一緒に行こう。一緒に」 「今日は、その泊まっていけるのです」  食事も済み、二人でゆっくりと酒を酌み交わしている時に、ふと明命がそんなことを言った。 「そっか。いいのかい、家族や友達は」 「明日はまた色々と顔を出して回らねばなりませんが、今夜は大丈夫です。出来れば、明日もご一緒出来ればよいのですが……」 「そうだね、久しぶりに会えたしね。でも、無理しちゃだめだよ」 「はい。あ……」  なにか重要なことでも思い出したかのように立ち上がる明命。顔を青ざめさせる様に心配になって彼女の側による。 「忘れていました!」  とてとてとあちらから寄ってきて、俺を見上げてくる。いったい何を忘れていたのだろう。大変なことになるのかと不安になる。 「一刀様には仰っていただいたのに、私がまだ言ってませんでした」  そのまま胸兄もたれかかってくる小さい体を抱き留める。明命の腕が俺の背に周り、二人はぎゅっと抱きしめ合う。 「一刀様、お会いしとうございました……」  その言葉は、小さいけれど、たしかに俺の耳を震わせた。  あぐらをかいた上に明命を乗せるような格好で、俺たちはつながっていた。久しぶりの情事の興奮か、信じられないほどあっけなく彼女の中で達してしまい、彼女もまた同じように絶頂を迎えたおかげで、まだ服を脱いで寝台に飛び込んでからそれほど時間が経っていないというのに一度目を終えてしまった俺たちはなんとなく離れがたくこうして抱きしめあっていた。なにより、彼女の中はまだ熱く燃えるようだったし、俺のものもまるで硬さを失ってはいない。  それでも、一度終えたせいでなんとなく安心したような空気が二人の間を流れていた。 「こういう……ふぅっ、格好は久しぶりですねっ」 「ん?」 「はじめて一刀様と閨を共にした後は、その……」  ああ、そうか。俺が襲われたおかげで、あの後、明命を抱く時は彼女からの要請で、あまり密着しない体位や彼女が上になる体位がほとんどだったものな。なにかあった時、彼女の体を抑えるものがないようにということだったが、まだ性行為に慣れてもいない明命に、そんな気をつかわせてしまったのは申し訳ない。 「ずっと気を張ってたよな。ごめんな、明命」 「いいえ! 一刀様をお護りするのは重要任務です!」  とびきりの笑顔を浮かべてくれる。その至近距離で見る明命の輝くような笑顔の力はこれはもうすさまじいものだった。 「ありがとう」  言葉と一緒に感謝の思いをキスに込めて、顔中に唇を降らせる。くすぐったそうに、それでも嬉しそうな顔をした明命は、俺の唇の感触を楽しむように目を閉じる。 「それよりも、私は一刀様に……んぅ……普通に抱いていただけたのが、嬉しかったんです」 「どういう……こと?」  彼女の中が俺のものを絞るように蠢く。手に握られたかのような圧力を感じ、思わず言葉が途切れる。 「あんな……刺客が乱入するような失態を……」  おやおや、まさか。明命は、刺客に襲われる直前まで気づかなかった事実を気に病んでいるのか? あまりに真っ直ぐで真面目なこの少女をいとおしく思う感情が爆発し、思わず腰を動かしはじめる。 「あっ、かずとっ、さまっ」 「俺一人なら確実に死んでいたよ。それはみんな言っている。なにより俺は明命に感謝している」  嬌声をあげる彼女の背中をゆっくりとなでる。汗で濡れた肌が熱を伝えてくる。 「それでも……ふくっ、気になさるかもしれません。私を抱くのは縁起が悪い、と」  その声音に真剣な不安を感じ取り、俺は腰の動きを早める。彼女の不安も、彼女の辛さも、全て抱きしめてしまいたかった。 「明命」 「はい……っ」 「俺は死なない。少なくとも、明命に子を生ませて、その子が巣立つまでは死ねない」  大きな目をさらに開いて、俺を凝視する明命の瞳に見る間に涙が盛り上がり、つう、と目の端からあふれだした。だが、その顔は晴れ晴れとした笑顔のままだった。いや、さっきの無邪気な笑顔より、もっと大人びた、一人の女の笑顔がそこにあった。 「あはっ」  吹っ切れたように漏れる声と共に、彼女も動き始める。俺とリズムをあわせ、お互いの体から快楽を引き出そうと懸命に腰を振る。 「はい、一刀様。そうです。一刀様は死にません。この明命も死にません」  ふっと、笑みをゆるめるその口が半開きになり、快楽の喘ぎが漏れる。すいよせられるように唇を重ね、お互いの体液を交換し合う。 「そうです、死にません。大陸中のお猫さまにもふもふさせていただくまでは!」  果たして、それは明命の照れ隠しだったのだろうか。あるいはもしかしたら、この娘は本気でその約束を果たしてしまうのではないか、とちょっと恐ろしくなったりもする。 「はは、その意気だ」 「一刀様、一刀様、一刀様ぁ……」  俺たちは抱きしめあう。一つになりたくて、この邪魔な肌も肉も取り去って、ただ、一つの命になりたくて。  なによりもつよくつよく、相手に己を刻み込もうと。  どこまでが俺の肌で、どこまでが明命の肌なのか。なにが彼女の快楽で、なにが俺の心地よさなのか。そんな境すらなくなるまで、俺たちはお互いをむさぼり合う。  まるで、お互い以外の全てを忘れた二匹の獣のように。                         (第二部第四回・終 第五回に続く) ○公孫家の項抜粋 『北郷朝における帝国支配は、辺境王制によって確立されたといっても過言ではない。本国内──いわゆる塞内──に存在する王号は央三王のみであり、王を名乗るには、いかなる生まれであろうと、辺境にて己で国を建てるしかなかった。これは、中央における官僚の固定化を避け、辺境と中央国家との交易を促進することで……(略)……  この制の先達となったのはもちろん孟家の南蛮であるが、央三王のひとつである公孫家の幽王もまた、辺境王制のテストケースであった。北郷朝成立以前から一勢力として成立していた南蛮に関しては自然な成り行きであるが、公孫家の幽建国は、北郷朝成立前からの複雑な経緯がある。そもそも、公孫賛は幽州の出身であり、一時は幽州全域を治めたこともあるが、知っての通り、後に同じく后妃となる袁紹に攻められ……(略)……このような経緯から公孫賛は長い間不遇をかこった。しかし、後に蜀からも追放され、漢の一武将となったことで転機が訪れ……(略)……  こうして見ると、公孫賛はその領地を回復したと見るよりは、遼東公孫氏の勢力を吸収、継承したと見るほうが正しいだろう。国号に燕を避け幽としたのはこれを意識し、あえて外したものとする説が有力である。  中原と同じ生活様式を保ったのも幽国の特徴としてあげられる。現実的にこの当時の耕作能力では幽州あたりが収穫の北限であり、さらに北方へ進んだ北袁家等は、遊牧民族の生活様式を取り入れざるを得ず、また、それが故に拡大を可能としたのであり……(略)……  様々な意味で、幽国は帝国の実験場であった。渤海湾を利用した海上交易は後に発展して、沿岸交易、遠洋交易へとつながり、すでに述べたように、中原的農耕生活から遊牧民的移動生活への橋渡しや、辺境王国と中央国家との交易のモデルケースともなった。この渤海湾地中海経済圏は……(略)……  燕京を中心とした首都圏回遊型政府、東の高句麗、西の燕の二つの公国、幽王国は、まさに帝国本土を小型化したかのような構造をとっており、北郷朝において新発案は幽国において実施され、後に本土に適用されるのが常であった。このため、幽王は常に案件に悩まされることに……(後略)』