― 一刀・おとうさん記 ―  とある休日の朝。  身支度を整えていた俺の耳に、控えめに戸を叩く音が聞こえてきた。 「朝早くから申し訳ありません。 ご主人様、起きていらっしゃいますか?」 「起きてるよ。ちょっと待ってくれ」  最後のボタンを締め、戸を開けるとそこには暖かな微笑みで出迎えてくれる紫苑の姿があった。  朝からの清々しい笑顔についつい頬が緩んでしまう。 「お早う御座います、ご主人様」 「お早う紫苑。 こんな朝からどうしたんだ?」 「それが、少しご相談がありまして…」  先程までの笑顔とは打って変わり、少し困った様な表情を浮かべる。 「今日はこれから賊の討伐を仰せつかっているのですが…」 「ああ。昨日の軍議で決まったやつだよな」 「はい。それで普段であれば侍女にお願いして璃々を預かってもらっているのですが、 ご主人様が休日だと言う事を知ると、どうしてもご主人様と遊びたいと我儘を申しておりまして…」  遠慮がちに事の次第を話す紫苑。  つまり、璃々ちゃんを俺に預かって欲しいって事だな。 「なるほどね。 なぁ紫苑。 璃々ちゃんの事で遠慮するなんて水臭いじゃないか」 「で、ですが折角の休日ですのに…」 「それこそ心配無いよ。特に予定を立てていた訳でもないからね」 「それでは璃々を預かって頂けるのですか…?」 「俺で良ければ喜んで!」 「あ、有難う御座います!」  深々と頭を下げる紫苑に璃々ちゃんを想う気持ちが感じ取れる。  良い母子だよなぁ。  それから紫苑は出陣の準備へ、俺は璃々ちゃんのいる部屋へと向かった。  別れ際、『お礼と言っては何ですが、是非私の下着を一枚お持ち帰り下さい』と言われたが、丁重にお断りさせて頂いた。  どうせならその下着を付けた紫苑を……じゃなくて、璃々ちゃんの前でそんな事出来る訳がないっての!  いや、まぁ、欲しくないと言えば嘘になるんだけど………等と考えている内に部屋の前へ到着。  中から璃々ちゃんと侍女さんの声が聞こえてくる。  雑念を振り払う為に何度か深呼吸をした後、部屋の戸を叩く。 「璃々ちゃん、一刀だけど」  するとパタパタと小さな足音が近づいてくる。  戸が開き、らんらんと目を輝かせた璃々ちゃんが顔を出した。 「おと…ごしゅじんさま! きてくれたんだ!」  俺はゆっくりと膝を折り、目線を璃々ちゃんに合わせる。 「紫苑から話を聞いて、飛んで来ちゃったよ」 「おと…ごしゅじんさまも璃々にあいたかった?」 「もちろんだよ。今日はいっぱい遊ぼうね」 「ほんと? やったー!」  そう言うと璃々ちゃんは両手を挙げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。 「よし。それじゃあ遊びに行く前に、お姉ちゃんへ一緒にお礼を言おうね」  俺と璃々ちゃんのやり取りを微笑みながら見ていた侍女さんに声を掛ける。  侍女さんは一瞬誰に話しかけているのか分からなかったみたいだったけど、自分に話掛けられているのだと分かると慌てて頭を下げた。 「わ、わわ、私の様な者にお声を掛けて頂いただけでも畏れ多きこと…! その上、お、お礼等… 滅相も御座いません!」 「いやいや、そんなの関係無いよ。 感謝の気持ちはきちんと相手に伝えるのが普通だろ? ねぇ、璃々ちゃん」 「うん! お姉ちゃん、ありがとうございました!」  ペコリと頭を下げる璃々ちゃん。  うんうん。素直で良い子だ。 「そう言う訳で、璃々ちゃんを見ていてくれてありがとう。ちょっと遊びに行ってくるよ」 「は、はい……どうかお気を付けて…………」  顔を上げた侍女さんの顔は真っ赤で、ちょっと呆けているみたいだった。  熱でもあったのかな…?  手を繋いで街へと向かう道すがら、璃々ちゃんとの会話からちょっとした疑問浮かび上がった。 「ねえ、璃々ちゃん?」 「なに? おと…ごしゅじんさま」  そう、これだ。  終戦間近のあの日…紫苑、璃々ちゃん、桔梗と一緒に出かけて以来、  俺の事を『お父さん』と呼んでいた筈なのに、今は『ごしゅじんさま』と昔に戻っている。 「どうして俺の事を『お父さん』って呼ばなくなったのかな?」  その質問に璃々ちゃんの表情が曇る。 「……お母さんがね『ごしゅじんさまをお父さんといってこまらせてはだめよ』って…」  …なるほど。確かに『お父さん』と呼ばれる事で来客者に色々と揶揄された事がある。  紫苑はそれを見かねて璃々ちゃんに注意したのかも知れないな…  だけど俺自身、嫌だと思ったことは一度も無い。  むしろその揶揄でさえ嬉しかったのにな。 「でも璃々だいじょうぶ! お父さんってよべなくてもヘーキだもん!」  気丈にも明るく振舞う璃々ちゃんの頭をそっと撫でる。  気持ち良さそうに目を細め「えへへ〜」と笑顔を向けてくれる。 「あ、そうだ! ねえねえ! 璃々のこともお母さんとおんなじように『璃々ちゃん』じゃなくて、『璃々』ってよんでよ!」 「う〜ん…どうしようかな?」 「え〜… だめなの?」 「それじゃあ、俺の事を『お父さん』って呼んでくれたら、璃々ちゃんの事も『璃々』って呼んであげるよ?」  その言葉に目を大きく開く璃々ちゃん。 「え…? いいの?」 「もちろん!」 「こまらない…?」 「全然困らないよ。むしろ呼んでくれないと寂しいな」 「えっと…えっと…………お、『お父さん』」 「なんだい、『璃々』」 「わぁ! お父さん!」  ぱぁっと顔を輝かせた璃々が飛びついてくる。  璃々を受け止め、そこから上に持ち上げて肩車をする。  「お父さん」に音階をつけて連呼しているのを聞いているとなんだか俺も楽しくなってくる。  そのまま軽い足取りで街へと向かったのだった。 「ふ〜。たのしかったねお父さん!」 「ああ! とってもね!」  街へ着くといつもの子ども達と遊んだり、ご飯を食べたりしている内に結構な時間が経っていた。  今は俺と璃々の2人だけとなり、公園で休憩を取っていた。  そんな折、ふと璃々の方に目を向けると少し浮かない顔をしていた。  だが、直ぐにフルフルと頭を振り、いつもの笑顔に戻っていった。 「紫苑が…お母さんが心配?」  俺の言葉に驚きの表情を見せる璃々。 「え?え? り、璃々、しんぱいなんかしてないよ!」 「隠したって分かるさ。だって俺は璃々のお父さんだぞ?」  一瞬嬉しそうな表情を見せた璃々であったが、直ぐに顔をしかめて慌て始めた。 「ねえねえ! 璃々がしんぱいしてたこと、してなかったことにして!」 「どうして? 心配する事は悪い事じゃないよ?」  しばらく俯いていた璃々だったが、やがて一つ頷いて顔を上げた。  その表情は少し悲しげで… だけど瞳からは何か強い意志が感じ取れた。 「……璃々ね、お母さんとやくそくしたの」 「約束…?」 「うん。璃々の“ほんとうのお父さん”がしんだときにね」  ズキリ  胸の奥へ鋭い痛みが走る 「お母さんとやくそくしたの。『お父さんのぶんまで、つよくいきようね』って」 「…………」 「璃々ね、ほんとうはね、お母さんがいくさにいくとすごくしんぱいなの… だけどね、しんぱいばっかりしてる璃々をみたら、お母さん、璃々を“よわい”んだっておもうでしょ? そしたらお母さんとのやくそくをまもれない… だから璃々はしんぱいしてないの! しんぱいしてない璃々は“つよい”んだもん!」  そう言って「えっへん」と胸を張る璃々。 「だから、璃々がしんぱいしてたのは、してなかったことにしてね?」  俺の顔を覗き込んでくる璃々をそっと抱きしめる。 「大丈夫だよ… そんな事をしなくても、璃々は十分に、強いよ」  溢れそうになる涙をグッと堪え、なんとか言葉を搾り出す。 「お父さん? どうしたの?」  璃々は何故抱きしめられているのか分からないといった様子で俺を呼び続けている。  言葉に出来ない色々な思いが駆け巡り、俺はただ抱きしめる事しか出来なかった…  街を少し出た所にある小高い丘。  俺と璃々はそこで夕日を眺めていた。  すると夕日の下、黄の旗をなびかせ、蜀の軍勢が戻ってくるのが見える。  討伐隊の帰りが夕刻になる事を知っていた俺は、少しでも早く紫苑へ会わせたくてこの丘で待っていたのだ。 「おーい! しおーーーん!」  大声を上げ、先頭で馬に乗る紫苑へ手を振る。  俺に気付いた紫苑は隣の副官と思わしき兵士さんと二言三言会話し、手綱を預けると一人こちらへと向かって来た。  その様子を見ていた璃々が紫苑へ向けて駆け出す。  やや遅れて俺も駆け足で追いかける。  程なくして合流した璃々が、両手を大きく広げ勢いよく紫苑へ飛びついた。 「わーい! お母さん、おかえりなさーい!」 「うふふ。ただいま璃々。良い子にしていたかしら?」 「うん!」 「お疲れ様、紫苑。大丈夫だった?」 「はい、ご心配には及びませんわ。隊への被害もほとんどありませんし… それよりも、璃々のお守りの方が大変だったのではありませんか?」 「そんな事は無かったよ。楽しかったよな〜、璃々?」 「うん! と〜〜〜っても楽しかったよね〜、お父さん!」 「り、璃々! だから、お父さんは駄目だと…」 「良いんだよ紫苑。俺がそう呼んで欲しいって頼んだんだ」 「ええ!? ほ、本当に宜しいのですか?」 「ああ、構わないよ!」 「まあ! 嬉しい!」 「? なんでお母さんがよろこぶの?」 「うっふっふ〜♪ 璃々、お手柄よ♪」 「え〜? なんでなんで〜?」  大きな夕日を背に、楽しげにクルクルと回る母子のシルエット。  そこにあるのは小さな幸せ… けれどもそれは俺の心を満たしてくれる。  本当に… 本当に良い母子だよなぁ… 「…璃々がそんな事を……」  少し傾いた夕日を背に、城へと歩く俺と紫苑。  はしゃいで疲れたのか、璃々は俺の背中で静かな寝息を立てている。 「璃々を支えていたつもりでしたが、知らず知らずの内に私が支えられていたのですね…」  愛しげに璃々の頭を撫でる紫苑。 「なぁ紫苑。 俺、1つだけ決めたことがあるんだ」 「何でしょうか?」 「今まで“お父さん”って言うのは、『璃々を大切にする』。 それで良いと思っていたんだ」 「…………」 「けれど、紫苑と璃々…2人を見ていて気が付いたんだ。それだけじゃ駄目なんだって」  璃々をおぶり直し、大きく息を吸い… そして吐く。 「『璃々の本当のお父さん』 その言葉を聞いた時、ものすごく胸が痛んだんだ… それは璃々に父親が居ない事への同情からじゃない。“本当のお父さん”への嫉妬…だったんだろうな」 「ご主人様…」 「俺はどうあがいても璃々の“本当のお父さん”にはなれない。 だけど、璃々を愛おしく想う気持ちなら誰にも負けない。 だから俺は俺なりに璃々のお父さんを目指そうと思う。そして、璃々や紫苑を支えられるように頑張るよ」  そう言って紫苑へ微笑み掛ける。  少しの間呆けていた紫苑だったが、やがて柔和な笑みを浮かべ、体をすり寄せて来た。 「璃々も私も…そこまでご主人様に想って頂いて、とても幸せです。 あの人も……ご主人様のそのご様子を見て、穏やかな眠りにつける事と思いますわ…」  歩みを止め、交わされる瞳  どちらからともなく合わさる唇  そして、聞こえる冷やかしの声  …ん? 冷やかしの声?  俺と紫苑は慌てて唇を離し、後ろを向く。  そこには満面の笑みを浮かべた璃々が「ひゅーひゅー♪」と囃子立てていた。 「うわ! 璃々!? お、起きてたのか!?」 「えへへ〜。あ、お父さん! おろしておろしてー」  しゃがむ前に背中をつたってスルスルと降りる璃々。  そして俺と紫苑の間に入り、それぞれの手を繋いだ。 「ふんふ〜ん♪ ふふふ〜ん♪」  俺と紫苑を引っ張る様にして歩き出した璃々に、自然と笑みが浮かんでくる。  3人で鼻歌を合奏しながら帰路へとついたのだった。  ―――夕日が照らしだす3人のシルエット。  ―――誰もが羨む、そんな“親子”のシルエット。  ―――どこまでも楽しげに。 どこまでも幸せそうに。  ―――いつまでも仲良く。 いつまでも一緒に。                                 ― おわり ―