いけいけぼくらの北郷帝  第二部『望郷』編 第三回  風は様々な匂いを運んでくる。土の匂い、むっとするような草いきれ、人々の生活から出る煙や料理の匂い、そして、足元に流れる水そのもの匂い。 「それにしても広いよなあ」  遥か遠く、けぶる水平線まで広がる真っ暗な川面を眺めて感嘆の言葉を吐き出す。川面には天に輝く星がきらめき、引きずり込まれたら、二度と戻って来られそうにない。  長江。この大陸でも屈指の長さを誇る川だ。日本の河川に馴れた身としては、川、という範疇に入るとはとても思えない。なにしろ、場所によっては対岸が見えないのだから。  その江水に浮かぶ大型船の上、俺はぼんやりと夜風にあたっていた。 「どうしたの、こんな夜中に。一人きりで不用心じゃない?」  不意にかかった声にぼやけた意識を引き戻してみれば、メイド姿の詠が、桶を持って立っている。 「どうも眠れなくてね。安全に関しては呉のほうがそれこそ神経質になっているくらいだよ。詠こそどうしたんだい?」  実際、いまも夜直の水兵たちがそれとなくこちらの様子を伺っている。もし、呉の水軍の船の中で大使に何かあろうものなら大変なことになるのだから、彼らも必死だ。ましてや、甘寧と孫権さんの罵倒の件もある。 「水をもらいに来たの。月が起きちゃって。あの子、昼間は暑さがつらいみたいだしね」 「連れてきて、悪いことしちゃったかなあ」  月は一昨日から寝込んでいる。視察の旅に出て一週間、慣れない環境に疲れがたまったのか熱が出てしまったのだ。詠には他のことはいいから、とにかく月についていてくれるよう頼んであった。彼女ならば、頼まなくともそうしてくれるだろうけど。 「軽い疲れみたいだから、まだいいわ。月も乗り気だし」  実は、月が倒れたと聞いて、この船旅が無理そうなら二人で建業に帰っているように詠に提案したのだが、月が反対し、詠もしぶしぶ様子をみることに同意した経緯がある。甘寧や亞莎に聞いても呉の風土病の類とは違うようだし、まずは船内で休んでもらうことにしたのだ。 「馬の上ならいくらでもいけるんだけどね。船の上は勝手が違うわ」  さすがは涼州の民。騎馬の上なら旅もへっちゃらか。やっぱり馴れというのは大きいな。俺も船酔いとまではいかないが、このずっと続くふらふらした感覚にはまだ馴れない。 「桶、持つよ」  詠の持っていた水桶を手に取る。一瞬ためらったようだが、素直に俺が取るのに任せる詠。 「ま、ちょうどいいわ、あんたも見舞ってやって」  そう言って、彼女は俺を率いるようにして、船内への階段を降り始めた。そのかわいらしい背中を眺めていると、不意に俺はあの夜のことを思い出すのだった。あの夜──彼女と結ばれた夜のことを。  結局、詠の熱意と自身の欲望に負けて、緊縛プレイをすることを了承してしまった。詠自身はその行為の意味はただ拘束することにだけあると思っているようだが、こちらとしては多少倒錯的な気分を味わってしまうのはしかたない。 「お互いの顔が見えるほうがいいよな?」 「うん、それは……うん」  そうなると後ろ手に縛るわけにはいかない。それが目的ならともかく、はじめてで痕をつけるのも厭だし、縄で縛るのではなく、手枷をするのが一番だろうな。俺は脇机の引き出しをあさり、革の手枷を一組取り出す。面積が大きく、手首から肘までの半分ほどを覆えるものだ。 「わ、なんでそんなのが……って、あたりまえか……」  なんだか妙な想像をして暗い顔になってしまっている詠に訂正する。 「いや、実は真桜が商品化しているんだよ、これ」 「はぁ?」 「真桜は、華琳から色々この手の、その……艶めいた品の製作を依頼されることが多くてね。いっそのこと小遣い稼ぎしちゃおうってことで、俺の意見とかを取り入れて、いくつか商品化をね……結構売れているらしいよ」  そういうわけで、これはサンプル品であって、詠が想像したような、誰かに使ったものとかではない。さすがにそんな失礼なことできやしない。 「世も末ね」  やれやれと頭をふる詠だが、そんな彼女がそれを使用するというのだからなんとも言えない。 「新品だから、ちょっと革がほぐれてないかもしれないけど、紐や縄よりは痕はつかないから、我慢してくれるか?」 「うん。元々ボクのせいだし。ほら、早く」  手首を揃えて前に突き出す詠。その手首に枷をはめ、最後に両の手首同士が固定されるようにがっちりと鎖をかける。 「な、なんか、その……つけると……」  ほんの少し怯えの混じる声。それはそうだ。腕が自由にならなくなって、不安を覚えないわけがない。 「乱暴なことはしないから、な?」 「あ、あたりまえよ。……それくらい……信じてるわよ……」  ごにょごにょと言い、そっぽを向いて寝台に横になる詠。背中から抱きしめるようにしてその横に滑り込む。 「苦しくはない?」 「そりゃ、ちょっと圧迫はされるけど……ん、大丈夫みたい」  少し腕を動かして納得したように言う詠。腕同士がくっつけられているせいで、体の前に垂らしておくか、バンザイするかの直線運動しかできないから、これなら、先程のような悲劇──いや、喜劇か──は起きないだろう。もちろん、パニックに陥らせないようにするのが一番だけど。  ぴったりとくっついていると、詠の体温が伝わってくる。それだけでなんだか幸せな気分になってくる。詠の方はなんだか落ち着かないようで、もぞもぞと動いている。 「やっぱり、落ち着かないか?」 「ん……なんて言えばいいのか……」  変に大人しいのは、やはり不安だからだろうか? ともかく、ゆっくりとやるしかないかな。お腹の上で抱きしめる形になっていた手をゆったりと動かし始める。 「やっ、ボクはもう充分……」 「いや、中断したから火照りが醒めちゃってるだろ? それじゃお互いつまらないからさ」 「……そういうもの、なの?」  実際、濡れていないと、挿入が辛いだろうからな。詠を傷つけるようなことになったら大変だ。それに、冷静すぎると痛みをまともに受け止めてしまいそうだし。 「うん、お互いが昂ってそれで楽しめるのが一番だよ。ただ、はじめての時は女性の方は痛みでなかなか大変のようだけどね。でも、興奮してなかったら、余計辛いよ」 「い、痛いってのは本で読んだわ……んっ、あっ……」  俺が手を動かして、彼女の体を愛撫するのには納得したようだが、少し起き上がって詠の横顔を見れば、懸命に何か考えようとするかのように眉根が寄っていた。 「どうしたの?」 「なんか、変なの」  少しずつ興奮を掘り起こされてはいるが、何かが気になってしかたないという声で彼女は言う。 「えっとね、こうやって拘束されているのに……妙に……安心するっていうか……ごめん、変よね?」  詠の言うことはわからないでもない。拘束しての行為は俺もする方、される方どちらも経験があるが、それぞれに人間の感情を掘り起こすものだ。拘束するのは支配欲とそこから生じる満足感を、拘束されるのは諦観とそれに伴う安心感を。  あくまで合意の上でのお遊びに限った話だが、拘束されるというのは不安はあるが、そこを越えれば生じるのは『何をされても抵抗できない』という諦めと、その裏腹の『相手に全てを委ねられる』という安心感だ。  実際、何をしても相手の好きなようにされるのならば、それを受け入れてしまうのが一番たやすい。まして、相手は愛する人間であり、望まぬ苦痛ではなく快楽をもたらしてくれるのならば。  自分のすることすら自分で決定しないでいい、という安心。つまりは、思考と意思決定を放棄する『奴隷の快楽』。  普段、けして意思決定を他人に委ねるようなことをしない詠のような人間にとって、あくまで閨の上でだけそのようなことをするのは、とろける蜜のように蠱惑的なものだろう。  とはいえ、いまそれを懇切丁寧に説明しても逆に受け入れがたいに違いない。 「拘束ってのは、俺がずっと抱きしめていると思えばいいんだよ。そうしたら、安心するのも当然だろ?」  自分でも少し気障かな、と思うことを耳元で囁く。 「う、うぬぼれるなっ。ま、まあ、そういう解釈もあるわけね」  真っ赤になるかわいらしい頬に口づける。そのまま顔中に唇をあてていくと、なんだか物欲しげに動く詠の唇。 「んん?」 「な、なによ……ふぅっ……」 「口づけがほしい?」  じっと正面から眼を覗き込み、訊ねる。 「ば、なに言ってるのよ。莫迦じゃないの。自惚れも大概に……」 「そっか、ごめん。詠も俺と同じ気持ちでいてくれたらうれしいと思っただけなんだ。ごめんな」  詠の言葉に重ねるように言って封じ、そのまま、口づけの場所を下にずらしていく。あ、と小さく声を漏らすのをたしかに聞いたが、聞こえなかったかのように、彼女の肩口の肌を堪能する。 「ほしい……」  かすかな声が頭の上で響く。しかし、俺は舌の動きを止めず、彼女の鎖骨のあたりに唾液を塗り込めるのをやめない。 「ほしいわよっ。莫迦っ」  このあたりだろうな。これ以上いじめるのはかわいそうだ。  体を上に戻し、むしゃぶりつくようにして、唇を重ねる。驚いたことに、あちらから舌を差し入れられる。まださっきの事故に責任を感じているのだろうか。それとも焦らしたおかげかな?  拙いけれど、一生懸命に俺の舌に絡みつく詠の舌。熱く、熱く、燃え盛るように熱い。二人の間を吐息と唾液が行き交い、混じり合う。 「……ふっ……ん……はふ……」  半眼に閉じられた詠の眼を見つめると、俺の顔が見える。きっと、詠も俺の瞳に映りこむ詠自身の顔を見ていることだろう。そして、それは愉悦に蕩けている。  先程までの興奮が蘇ってきたのか、詠の肌も燃えるように熱い。腕を抑えつけられて行き場がないのか、腿が俺の脚をこするようにしているのを、詠自身気づいているだろうか?  長い長い口づけの中で、二人の視線は一度もお互いから外れない。それどころか、特に何をしているわけでもなく、二人でお互いの口腔を愛撫しているだけというのに、無上の快楽を感じる。いや、意識するまでもなく、俺の手は彼女を求めて動いている。  気が強くいつでもむすっとしているようなこの少女に、いつの間にこんなにも恋い焦がれていたのかと自分でも驚く。もしかしたら、彼女も同じような気持ちだったのかもしれない。唇を合わせるのに馴れていないせいで、息が苦しそうにしているのを見て体を離そうとしても、けして離れないように追いかけてくる。しかたなく、口の端を開けて、そこから息をするように促さねばならなかった。あるいは彼女も、唇を離してしまえば、いまのこの感覚が失われるのではないか、と、そんな根拠のない不安を持ってしまったのかもしれない。  しかし、俺は確信していた。詠への自らの気持ちを。  手をすべらせ、彼女の秘所を探ってみれば、既にそこは潤いを見せ、熱い彼女の液が指に絡みつくほどだった。詠が感じてくれていることが、とてつもなく嬉しい。そして、そのことが、余計に欲望を刺激する。 「え、い……」  まだ口を離そうとしない詠に、無理矢理のように話しかける。 「ん……ぴちゃ……な、に……?」 「詠が……ほしい」  すっと離れた詠の顔がほんの少し緊張に彩られ、こくりと頷く。俺のものをあてるとさらに緊張が強まった気がしたが、ここは一気にいかなければ辛いだけだ。  ゆっくりと腰を進め、俺は、詠の中へと割り入っていくのだった。 「あーーー、いたかったっ!」  終わった後、二人の満足気な沈黙を破ったのは、まだ繋がれたままの腕を振り上げての詠のそんな声。 「ごめんな」  彼女に腕枕をしながら、謝罪する。謝ることではないのかもしれないが、痛みを感じさせたのは事実だ。この体勢で彼女の髪に指を通すと、とても心地よい。あんまりやると髪が乱れると怒られるかな? 「まったく、なんでこんなことをしたがるのかしら。よくわからないわね」  ぷりぷりと怒っているように見せているが、それほど機嫌が悪いようには見えない。まだ痛むのを強がっているようにも見える。 「いや、女性も馴れてくれば、気持ちいいものらしいから……それに、詠だって、最後の方はいい声を……」 「わー。莫迦っ」  どすん、と両手が俺の胸の上に落ちてくる。革の手枷をしているせいで、攻撃力が増している。肺から空気が押し出されて、一瞬息ができなくなった。 「げほっ」 「あ……ま、まあ、あれよ。痛かったけど、満足感はなくはなかったような気がしないでもないわよ」 「どっちさ」  迂遠な言い方だが、喜んではくれているようだ。上気した肌がとてもかわいらしい。 「でも……さ」 「ん?」 「あんた、満足してないでしょ」  眼をつり上げ気味に言われる。さっきとは違い、今度はご機嫌機ななめになりかけ、というところか。しかし、その言葉は俺にはあまりに予想外だった。 「え? 何言っているんだよ。俺は詠といっしょになれてすごい嬉しかったよ?」  これは本気だ。真剣な顔で勢い込んで言ったからか、さすがに詠の表情も和らぐ。けれど、惑うように彼女の眼が動いた。 「じゃあ、それ、なに?」  敢えて上を向き、自由にならない指で下の方を指す。彼女の言うそれを認め、呆気にとられ、次いで、非常に焦る。  そこには、隆々と立ち上がる俺のもの。 「いや、これは男の性というか……」 「……満足してないんじゃないの?」  確信が持てなくなった、という感じの口調。 「精神的には間違いなく満足しているよ」  隠し事をしても詠を傷つけるかもしれない、となるべく正確に話そうとする。さすがに詠はその裏にある意味をかぎつけたようだ。 「肉体的にはしてないってことよね、それ」 「だ、だって、好きな子が裸で横に寝ているんだぞ。興奮しない方がおかしいだろ?」  しかも拘束されている状態ときている。 「なによそれ……。何度でもできるわけ?」 「いや、そりゃ、何度でもってわけにはいかないけど……」 「……少なくとも、一度じゃ無理、ってわけか……」  詠はなんだか新しいことを学ぶ姿勢になっている。 「いや、本当に満足は……」 「馴れた人相手だと、何回くらいするの?」  政治のことを話す時のような口調で言われ、思わず素直に応える。 「一回の時もある。これは本当だよ。一晩の最高は十回くらいだけど、これは特別な時かな」 「じゅ、じゅっかい……む、無理、壊れる!」  ひきつった顔は明らかな恐怖を宿している。 「いや、だから、それはよっぽどで」  じっとこちら見上げていた顔が、ぼすんと俺の胸に埋まる。 「……したい?」 「え?」 「もう一回、ボクとしたいかって訊いてるの!」  ああ、そうか。  ようやくわかった。これは、詠なりの誘い方なのだ。俺と繋がることで肉体的な快楽をそれほど感じていられたとは思えない。それでもこうして誘ってくれるということは……。  胸が熱くなり、しっかりと頷く。 「うん、したい。詠となら何度でもできる」 「な、何度もは無理よ! でも、うん、もう一度なら……してやっても……いい、かな?」  ごにょごにょと段々と小さくなる声に、彼女の頭を勇気づけるようになでてやる。 「ただし!」  ばっと顔を上げ、挑むように睨んでくる詠。びしっと俺の前に突き出されたのは、革で覆われた両手首。 「もう暴れないから、これは取る!」  彼女の手枷を外してやりながら聞こえた呟きは、そっと胸の奥にしまっておくことにした。 「だって、抱きつけ、ない……じゃない……」  結局、その後、俺たちは一度も離れることなく、俺自身は三度詠の中で果てた。  狭苦しく、急な階段を先に降りていた詠が唐突に振り返る。 「あんた……なんか不埒なこと考えてるんじゃないでしょうね!」  突然の言葉に驚きを隠せない。なにしろ、彼女の言う通り、まさに不埒なことを考えていたわけだから。もしや、詠はエスパーかなにかか? 「え、いや、そんなことは」  まさかなにか呟いてでもいたのだろうか? 「女の勘をなめてるわね?」 「あ、えーと、その……ごめんなさい」  ここは素直に謝っておく。蹴りが飛んでこないだけ普段よりましだ。詠も夜の船内ということで、あまり大きな音を立てたくないのだろう。 「ボク相手ならともかく、月相手にそんなこと考えたら、殺すからね」 「詠ならいいんだ?」 「ぐっ、この莫迦っ」  途端に真っ赤になった詠の拳が脛を打ち、俺は悶絶するはめとなった。水桶落とさずにすんでよかった……。 「詠ちゃん、お帰り……って、ご主人様?」  俺の姿を認め、上半身を起こそうとする月に寝ているようにと手で示す。 「見舞いに来させてもらったよ」  船内ということで部屋はどれも狭い。この部屋も二段ベッドのようになった寝台以外は脇机くらいしかない狭さだ。これでも、下層の漕ぎ手の船員たちよりはましだ。彼らは、漕ぐ時に座るベンチのような椅子で眠り、食事もそこで食べる。その場を離れるのは用足しの時だけ、という過酷さだ。それでも、奴隷船のように鞭打たれるわけではないし、高給は与えられるという話だ。 「狭くないか? もしよかったら、俺の部屋と取り替えて……」  月の体の大きさもあって、下段の寝台自体が狭いとは思えないが、といって、建業や洛陽にいる時のような快適さはないだろう。 「たしかに、あんたの寝台の方が楽だろうけど、そうすると、ボクがいっしょにいられないしね」  ああ、そうか。  俺に割り当てられた部屋はここよりは広いが寝台は一つしかない。船内の寝台や机、明かりの類は完全に壁や床に固定されて動かすことは不可能なので、詠が同室で寝ることができなくなり、かえって面倒になってしまう。いまも、椅子がないせいで、俺と詠の二人は寝台脇に立っている状態だしな。 「うむぅ……」 「私はここで大丈夫ですから……詠ちゃんもいますし」  弱々しいながら笑みを見せてくれる月。倒れた当日よりはよほどましになってきたようだ。詠が水桶に布をひたして冷たくしたものを手渡してくる。位置的に、月に届かないので、俺経由にしたのだろう。 「そうだね。調子はどうかな?」  月のおでこに布を乗せる前に、手で触れてみる。そこまで熱は感じないが、微熱がとれないのが一番厄介だからな……。 「まだ、朝方がつらいことがあって……」  なんだか月の顔が赤くなっている。調子が悪くなってきたのだろうか?   じっくりと触ってみたが、やっぱり少し熱いと判断し、指を離す。月ににっこりと笑いかけられて、そのあまりの儚さと可憐さにどきりと心臓がはねた気がした。 「なにか必要なものがあったら、詠経由でも言ってくれよな?」 「はい……ありがとうございます」  濡れた布を置き、振り返ってみると、詠がこちらをじっと見つめていた。月を心配して見るならわかるけど、なぜ俺を見ているのだろうか?  しかも、なにか重大なことに気づいたかのような驚愕の表情で。 「どうした、詠?」 「……え? あ、なんでもない……って、月に軽々しく触るな、この変態っ」 「軽々しくって、熱の具合をみたんじゃないか」  さすがに月第一の詠とはいえ、ちょっと過剰反応な気もする。そもそも、額に置く布を渡してきたのは詠自身だというのに。 「それでもだめっ」 「詠……ちゃ……うぅ……」 「あ、月、大丈夫? 起き上がったりしちゃだめよ」  俺たちの言い争いを見て、月が再び起き上がろうとする。今度は詠の制止も聞かず、体を起こしてしまった。おでこの布が落ちないようそっと抑えているのがなんだかかわいらしい。 「ご主人様と仲良くしなきゃ……ふぅ……だめ、だよ?」  苦しそうな息を吐きながら、俺と詠の二人に向けて笑顔を向けてくる月のなんといじらしいことよ。 「う、わかった、わかったから、寝てて、ね?」 「うん、これでも俺と詠は仲良しなんだぞ。月は心配せず寝ているんだよ」 「はい……」  ようやく寝台に戻った月は、少し億劫そうに眼を閉じる。やはり、まだまだ体を動かすだけで辛いか。 「莫迦、変なこと言うなっ」  小声で言われ、軽く蹴られる。いや、そういうやましい意味ではないんだけどな。 「ちょっと、月と話があるんで、外してくれない?」  さらに小さな声で呟かれる。詠にしては元気のない声が気がかりだが、月がこの調子では仕方のないところだろう。 「ん、わかった。……月、また見舞いに来るな。ゆっくりと養生してくれよ」 「はい、またです、ご主人様」  そうして、俺は部屋を出た。すれ違う時に見た詠の顔が、集中しすぎているのか青ざめているようにも見えたのが、少し気がかりだった。 「やっぱり水運は結構盛んなんだな」  川面に群れる大小の船を見て、そんなことを思う。櫂船もあれば、帆を張っただけの船もある。大きなものは櫂船が多いが、それらの船が停泊し、櫂を高く揚げている様は、まるで木立のようにも見える。商船は特に上背もあるので、動く島のようだ。 「たくさん、船がありますねー」  快復した月も、久しぶりに甲板に上がって川面を眺めるからか、改めて感心しているようだ。その隣の詠は何か考えごとに夢中。ここしばらく、彼女は何か無心に考えているようで、張りつめた顔をしていることが多い。悩み事ならば、相談に乗りたいとも思うが、果たしてどんなことなのかが窺い知れない。  さらに少し離れたところには、俺たちを見守るようにして、恋と華雄が体を休めている。もちろん、休めているように見えるだけで、俺たちに何かあればすぐに駆けつけられる位置を保っているのだが。 「それは、もちろん、江水のほとりだからな。使わない方がおかしいだろう」  俺たちといっしょに鋭い目つきで川面を行く船を眺めていた甘寧が珍しく口を挟んでくる。  彼女は元がそこまでおしゃべりな性質ではないからだろう、あまりこれまで会話に積極的に参加することはなかった。  ただ、寡黙ながらも命じられた案内役の任は充分に果たしてくれている。船員たちの管理から、真桜が行きたいと思っている川辺の街への案内等、色々気配りをしてくれているところをみると、言わずともしっかり見通しているタイプなのだろう。 「こないだ赤壁の前に見た時はやっぱり船の数が少なかったからさ」  連環の計のための仕込みの船はいたけどな。俺の言葉に甘寧はふん、と鼻を鳴らす。 「それは、戦時だったからにすぎん。お前たちが攻めてきておいてよく言えるものだ」 「まあ……うん、それはね」  たしかにそう言われてしまうとしかたない。けれど、彼女の言葉により強く反応したのは当の俺ではなく、先程まで自分の思考に浸っていた詠だった。 「はん。袁紹の尻馬にのってボクたちを攻めた人達に言われたくないわね」 「詠ちゃん……」 「あれはっ、しかし……」  甘寧の言葉は途切れて続かない。詠は、眼鏡をくいとなおすと、疲れたように息をついた。 「袁術の麾下にいたからしかたなく? まあ、そうよね。言っておくけど、別にボクは恨んでなんかいないわよ。たぶん、月も恨んでない。それぞれの理由があり、それぞれの思いがある。それを皆がわかってくれるはずはないもの。華琳やこいつが呉を攻め滅ぼした理由は、そりゃあ、あんたには納得できないでしょうけど、それをいまさら責めるのはお門違いじゃない?」 「そうですね、私はもう恨んでいません。乱世、でしたから……」  滔々と語る詠に対して、月は寂しそうな、けれど、どこか吹っ切れたような笑顔を見せる。その透明さが悲しくもあり、頼もしくもある。 「む……」  甘寧は唸り、俺は何も言おうとしなかった。詠や月は麗羽が主導した反董卓連合で攻め滅ぼされ、頼った蜀を俺たちに滅ぼされ、と乱世の悲哀を一番よく知っている人間だ。口を出すことはないだろう。 「それに、袁紹を抑えた華琳たちが三国の中で勢いを得たからこういう結果になったけど、呉が力を得ていたら、あんたたちだって大陸を呑み込もうとしたでしょうよ」 「それは、我が呉は……」  そのあたりは、どうなのだろうなとも思う。呉は三国の中でも最も専守防衛気味な国だ。呉の領土さえ侵さなければ、あとはどうでもいいと思っているふしがある。しかし、噛みつかれる危険性を考えれば、他の国を排除してしまおうという方向へ行ってもおかしくはない。 「たしかにその通りです」  答えは俺たちの背後からやってきた。 「亞莎」  振り返れば、モノクルをかけた少女が真剣な顔で俺たちを見据えていた。きっと、会話が漏れ聞こえていたのだろう。その後ろには真桜がいて、軽く手を振っている。 「我々にも理想があり、民をさらに富ませたいという欲望がありました。時機を得れば大陸統一に邁進したことは想像に難くありません」  はっきりと言い切る。きりっとした目でそう言う様を見ていると、ああ、この娘も軍師なのだな、と感じる。きっと、辛さや憤懣は全て呑み込んでしまうのだろう。 「しかし、いま、天下はこのように治まっています。過去は過去として、いまはお互いに力を合わせるべきだと思うのです。思春殿にも思いはありましょうが、無闇と争うことは孫権様の意にも反すると思います」  その言葉を聞いていた甘寧は、束の間過去を思い出すように視線をさまよわせていたが、すぐに意識を戻すとしぶしぶといった感じで頷いた。 「……それも、そうだな」  俺たちの方へ向いて、軽く頭を下げる。 「すまなかったな。赤壁は我等にとってどうしても色々と……な」  赤壁、か。色々と渦巻くものを、たしかに捉える前に押し流す。いま、祭のあの『最期』を思い出すのは避けたい。 「まあ、そのあたりはしゃないわな。で、たいちょたちはなにしとったん?」  見れば、真桜の手には何事かの書付がある。おそらく、亞莎と色々と相談をしていたのだろう。  真桜も段々と交渉事を含めた仕事のコツをつかんできたようで、最近は俺があまり口を出さないほうがいいかな、と考えつつある。それはそれで幾分寂しい気もするわけだが……。 「ん、いや、水運での交易の話とかをだな」 「まあ、河でも船多くなっとるもんな」  黄河の話が出て、ふと思い出したことを甘寧に訊ねる。 「あ、そうだ、江賊の取り締まりとかはどうやっているんだ? 黄河でも河賊が増えてきてさ。本場の方式を教えてもらえたら……」  なんだかいきなり空気が重くなり、言葉が出てこない。くいくい、と袖をひっぱられるので振り返ってみれば、真桜が耳打ちしてくる。 「たいちょ、たいちょ」 「ん?」 「思春はんは江賊の出やで」  ……あ、そうだった。すっかり忘れていたが、甘寧といえば有名な江賊の頭だったんだっけ。 「江賊は……そうだな、管理するのが一番だろう」  意外にもその空気を一番気にしていないのは甘寧本人のようだった。 「管理?」 「そうだ、私のように取り込んでしまえばいい」  あっさりと言う。周りを指して、あいつもあいつも私といっしょに呉に降ったんだ、と説明されると何も言えない。 「もしくは、賊が現れる要因を除けばよいのだ。貧することなければ、賊にも走らん。衣食足りてなお賊に落ちるなら、それは禽獣と同じ。殺すしかあるまい」  たしかに彼女の言うことは正しい。賊になるしか道がない、という状況を作らないことが第一ではある。しかし、中にはただ楽をするためだけに富を掠め取ろうとするものがいるのが厄介なところだ。 「とはいえ、江賊が一つの勢力としてあるのは事実です。思春さんがおられる限り彼らは手を出さないでしょうが、その重石がなくなった時が……心配です」  亞莎が感慨深げに呟く。彼女の心配も当然のことだろう。 「だから、そうなる前になんとかすればよいのだ。武を求めるなら軍に入れ、利を求めるなら商人となれるよう国を富ませるのが先だ」 「そうは言いますが、富が増えればそれを狙う者も増えます。それを討伐して回れば、民は怯え、世は乱れかねません。もちろん、対策は考えておりますが……」 「やれやれ、心配性だな、亞莎。以前は私と同じように果断に対処すべしとしていたように思うがな?」  甘寧は少々呆れ顔だ。彼女にとっては江賊は古巣でありながら、それを直接に処断すべき立場にもある。それに対して、亞莎は軍師という立場で国全体を考慮して動かねばならない。そんな二人の差が出ているようにも思える。 「それは……その、立場というものが……」  赤くなって応える亞莎。やっぱりまだまだ照れや動揺を隠すのは百戦錬磨の軍師たちに比べれば苦手なのかもしれない。  俺たちの船の横を、櫂船がすべるように通りすぎていく。それを見て、俺はふとあることを思い出した。 「一つ、交易を促進するやり方を提案していいかな?」  呉将の会話に口を挟むのもどうかな、と思ったが、これ以上言い募っても、並行線を辿りそうなので一つ提案してみることにする。 「あ、はい、もちろんです」 「これは、俺の世界のヴェネツィアという港湾都市で行われていた方式なんだけどね。船の漕ぎ手に交易品を乗せる船内の空間を分け与えるんだ。そうすることで、漕ぎ手も余分な金が稼げて、人気の職になるだろうし、交易自体も促進される」  興味深げに説明を聞いていた甘寧はしかし、俺の言葉を鼻で笑いとばしてくれた。 「商船にしろ軍船にしろ、そんな場所はない。無理だな」  そう言われるのは覚悟の上だ。実際、船に乗ると、その狭さを実感せざるを得ない。特に櫂船では漕ぎ手を収容する必要性があるために、何かを積載するための空間はとてつもなく貴重なものとなる。商船ならば船主がそれらを分け与えることは考えられないし、軍船なら余計無駄は切り詰められる。 「ヴェネツィアの例では、ベンチ……ええと、座っている場所の下を与えていたのかな。これなら可能だろ? 扱うのは、少量で高価な品が主になるけどね。そうだな、お茶とかになるのかな。銘酒とかもありか」 「ふうむ……たしかにその程度なら……」 「あ、せや、椅子をぱかんと開くようにすればええんちゃう? 鍵のかかる箱の上にこしかける形で。なんやったら、うちが作ってもええで?」  俺たちの話を聞いていて、ひらめいたらしい真桜が勢い込んで話し出す。こう、はねてな、と身振り手振りで説明する。月はそれを見てなんだか愉しそうだ。詠は水上のことは管轄外という感覚なのか、あまり絡んでこようとしない。 「……軍船といえども寄港はする……平時の士気向上にはいいかもしれません」 「しかし、軍人が金儲けを考えるなど。交易は大事だが、そこは線を引くべきではないか?」 「それも呉のためです。金が回らねば、富むことはありません。また、別の地方では高値をつけるようなものもあるとわかれば生産にも弾みがつきます。もちろん、金ばかりを求めるのは避けるべきですが、一刀様の提案は……」  長い袖を振り立てて熱弁する亞莎の言葉の何かが気に食わなかったのだろう。甘寧の表情が硬く凍りつく。 「ふう、呉の軍師どのは皆、魏の言いなりか。情けない」  その小さな呟きは、独り言を装いながら、明らかに皆に聞こえるような大きさで発せられていた。 「思春さん」 「私とて頭から反対しているのではない。ただ、慎重な検討を要することを、そのように嬉しげに語るのはどうかと言っている」 「う、嬉しげとは、ど、どういうことですか」 「まるで餌をもらった飼い犬のように、尻尾を振って喜んでいるではないか」  なんとなく、甘寧の怒りの矛先がわかってきた。おそらくは、俺を『一刀様』と呼んだのがいけなかったのではないだろうか。明命もそうだが、さすがに他陣営のトップでもない俺を様づけで呼ぶのは少々やりすぎな感はある。  助けを求めるように周囲を見回す。剣呑な空気を感じ取り、音も立てず近寄ってきた恋と華雄は月と詠、そして俺を護る位置へ移動中。月はおろおろとしており、詠といえば、あきれ返ったような顔で亞莎たちを見ている。一人、真桜だけが、表情を消して俺をじっと見つめ返してきた。 「興覇殿。そのように根拠もなく誹謗するようなことを続けなさるのはお止めください。なぜあなたがこの行の案内役を命じられているのか、すでにお忘れですか?」  顔の前で袖を合わせた亞莎は強い口調で甘寧をたしなめる。それに対して、甘寧は刀の柄に手をかけることで応える。 「阿蒙ごときがこの甘寧に指図するか」 「それが軍師の務めなれば」  二人の間に、闘気が行き交う。相変わらずおろおろとしている月とそれを抱きしめるようにしている詠をそっと背中に匿う。その上で前にならんだ恋と華雄に低く話しかける。 「華雄、恋、どう見る?」 「……五分」 「だが、亞莎の得物がわからん。暗器とも聞くが……それを甘寧が承知しているかどうかで、大きく変わるぞ」  いつの間にか、甘寧の手には抜かれた刀が握られている。一方の亞莎は手を解き、だらりと袖を垂らした体勢で対峙する。二人の距離は、二歩もない。もし亞莎の武器にリーチがなくとも、踏み込めば必ず届く距離だ。 「興覇殿、考え直されよ」 「くどいぞ、亞莎」  ぎりぎりと引き絞られる弓のように、二人の闘気が殺気に変わっていくのがわかる。 「華雄、二人が、決着をつける直前に引き離すこと……できるな」 「決着をつけさせてはいけないというわけか? まあ、我等二人ならなんとかなるだろう」  だが、その場を引き裂くように、甲高い音が響いた。 「ええ加減にせんかい!」  それは、巨大な刃が回転する音。 「呉の重鎮二人が揃ってアホやるなや! これ以上やるんやったら、あんたら全員道連れに、この船沈めたるで」  螺旋を描く槍が二人の間に突き出され、次いで、甲板を向く。 とんでもない宣言だが、真桜の螺旋槍ならそれは可能だろう。赤壁でその効果は実証済みだ。あのドリルが刺さって穴が空かない船はない。 「ま、真桜殿」 「手を出すな、真桜」 「うっさい、ぼけ。あんたらが手を引くんが先やろが。醜態さらしとるんはあんたらやで!」  睨み合う三人。亞莎と甘寧は真桜の乱入で気勢を殺がれたようだが、引きどころがないといったところだろうか。真桜の方はあれで二人が引けばあっさり引くだろうけどな。  そんな三人の間に、とことこと入り込む人影が一つ。 「れ、恋?」 「恋さん!?」  恋は俺たちの叫びなど構うことなく、三人に近寄ると、懐から饅頭を取り出した。あれ、いつも持っているのか?  三人ともにその行動に呆気にとられたのか、固まってしまっている。恋はそんな彼女たちに構わず、饅頭を二つに割り、それをさらに二つずつに割った。 「……三人とも、これ、食べる」  四つに割った塊を、それぞれに差し出す。 「お腹、減ると、怒りっぽくなる」  四分の一を実際に、もふもふと食べて見せる恋。 「お腹いっぱいになると、しあわせ」  微かに笑みを見せる恋。皆に見せるためとはいってもわざとらしさの全くない、心の底からそう思っているに違いない笑みだった。 「だから……食べる」  手を出して来ない三人の手に、無理矢理のように饅頭の塊を乗せて回る恋。それぞれに受け取った三人は顔を見合わせると、ぷっと吹き出した。 「言う通りやな。腹いっぱいになると幸せやもんなー」 「そうですね」 「ふん……ま、これはなかなか美味いがな」  そう言って饅頭をぱくつく三人を俺たちも笑顔で見守るのだった。  こんこん、と扉を叩く音がする。ノックの習慣はこちらにはないので、俺が以前教えた月たちだろう。亞莎に目礼して会話を一時中断し、外に向けて声をかける。 「どうぞー」  案の定メイド姿の月と詠が入ってきた。月が茶器の乗った盆を持ち、詠が湯の入った瓶を持っている。 「いま、お茶をお淹れしますね」 「ああ、ありがとう」  こぽこぽと手際よくお茶を淹れていく月。詠はこういう細かいことは苦手らしく、見ているだけだ。それでも、愛らしいメイド姿の二人が部屋にいるとそれだけで気分が華やぐ。 「はい、亞莎さん」 「ありがとうございます」  俺と亞莎の前に茶を置き、退室しようとする彼女たちに声をかける。 「詠。いま、山越の話を聞いていたんだ。ちょっとつきあってくれないか?」  詠は躊躇ったようだが、月がそれを見て微笑みを浮かべる。 「詠ちゃん、私は大丈夫だから……」 「そう? じゃあ、湯はここに置いてくわね」 「あ、そうだね。……じゃあ、失礼します」  月が一人出て行くと、亞莎の横に座る詠。 「それで、なんの話?」 「ああ、以前、山越によって労働力を確保していたって話をしてたろう? その詳しいところを亞莎に聞いているんだ」 「ああ……一時期は、軍の半分以上が山越出身だったって話まであったわよ」  それはすごい比率だ。いくらなんでもそれでは、士気が保てない気がするのだが……。  亞莎の方を見やると痛いところをつかれた、という風に苦笑を浮かべている。 「そうですね、各将軍の部曲を除けば、たしかに呉の軍の半数近くは山越からなっていたと言われても間違いではないかもしれません」  部曲というのは、要は私兵だ。各将軍が家族ごと養っている兵たちで、それだけにその将への忠誠は高い。  この制度は魏ではかなり早い時期に廃止された。単純な話で、魏の将軍たちというのは、ほとんどが豪族の出身ではなく、代々部曲を養っているような将軍というのが華琳と、春秋姉妹しかいなかったのだ。  この三人の部曲というのは、要するに夏侯家と曹家の部曲であり、それを魏そのものの兵とするのは難しくない。  後に霞のように張遼隊を引き連れて降ってきた例はあったが、いずれもすんなりと魏の兵として吸収されている。これは、張三姉妹を下して黄巾の残党までも吸収し、さらに彼女たちによる勧誘で兵を増やしたために、他国より厳正な教練システムを構築せざるをえなかったことの効能でもあるだろう。  ちなみに、この部曲というものは血族が相続することもあれば、地位を引き継いだ者が、その武力もろとも引き継ぐ場合もある。つまり、ある役職にとっての親衛隊のような地位を担っている場合もあるのだ。 「もちろん、そのような山越の比率の多い部隊は即席のもので、決戦に用いることは出来ません。結局は、各将軍の部曲が主力とならざるを得ませんでした」 「それが呉の強さであり、弱さでもあったのかもね」 「そうですね、元々呉の兵の根幹は、文台様の時代よりあった部曲です。それを袁術に抑えられていたために孫策様たちは動けなかったというのがあるわけでして……」  手塩にかけて育て上げた最精鋭の部隊を継承することを許されなければ、雪蓮や祭がいかに優れた将でもどうしようもない。美羽による軛がいまでも呉で憎悪されているのは、その時の苦しさがいかに強いものであったかを物語るものだろう。 「逆に言えば、それだけの精鋭を代々抱えていたということでもあるわけよね」 「しかし、部曲制では魏のように均一な兵の練度向上は望めません。欲を言えば、山越すらいっぱしの呉の兵となるような教練が理想ですから……」  おやおや、二人の軍師の会話になりつつあるぞ。月の淹れてくれた美味しいお茶を呑みながら、言葉の応酬を眺める。 「それは山越そのものを呉に同化させるのが先じゃない? いかに領土と主張してもその内懐にこれだけの勢力がいるとなると……」 「はい、その通りです。しかし……」 「問題は支配そのものよね。山越対策というよりは、いかに喰わせ、いかに生かしていくかと……」  二人の議論は、その後延々と続き、小一時間ほど経ったところで、俺が制止をかけた。 「ところで、亞莎、このあたりの地図を見せてくれるって話だったけど」 「あ、はい。しかし、とても正確なものとは言えませんが……」 「うん、おおまかな位置がわかれば、それでいいんだ」  ごそごそと彼女が取り出した地図を詠と二人で覗き込む。たしかに正確とは言い難いが、江水の姿は把握できる。 「すでにもうほぼ河口に来ておりますが……」  海に流れ込む長江の河口。亞莎が指しているのは、そこにほど近いあたりだ。 「やっぱりか」 「え?」 「俺の世界ではね、このあたりは上海って名前で、世界的にも有名な巨大経済都市になっているんだ」  河口の右岸のあたりを大雑把に示す。そこに広がるのは、揚子江デルタ。長江が運んできた土砂が溜まって作り上げられた大平原だ。 「長江の河口で、海に通じている。しかも、土地は堆積地で、整地もそれほど必要ない地形が広がっている。河の水運と海運を一手に引き受けられる場所だ」  俺の言葉に、亞莎の目が細くなる。 「ここが、ですか……」 「うん。もう一つ、俺の世界だと、江東、江南の地は、この河口地帯も含めて、大食糧庫になって、大陸全体を支えることになる。もちろん、この世界でも適用できるとは限らないけどね。でも、実は真桜がこの視察旅行に出ると聞いてから、この地域についてちょっと注目していたんだ」 「肥沃な土地なの?」 「河が運んできた土が溜まっているからね。もちろん、人を連れて来なければ話しにならないけど」  亞莎は懐に手を入れて、別の書物を取り出し、急いでそれをめくる。 「あまり、このあたりの戸数は多くなく、調査はなされていないようです……。たしかに耕作可能な地は広がっているようですが、それ以上の認識は……主要都市から遠いですから……」  この大陸の都市は、どうしても河北から中原が主だ。土地は肥えていても、人の足が入っていなければ無視されるのも当たり前だろう。 「俺は、三国の内陸だけの交易ではいずれ頭打ちになると思っている。今後見据えるべきは、南蛮や、そのさらに向こうとの交易だというのが持論だ。もちろん、内陸交易をおろそかにしろというんじゃないけれど、呉は内陸より、水運、海運が向いた地勢だろ」  現実的には三国の中で、シルクロードには手が出せない場所にあるのが呉という土地だ。海洋のシルクロードを構築しないことには、交易で富を生み出すことは難しくなる。 「別にここを開発しろと勧めるわけじゃないけど、ただ、この地域は、さっきも言った通り、俺が知る限りは開発に力を入れてもまるで根拠はないわけじゃないから、出来れば考えてほしいかな。海運に今後力を入れるっていう前提での話だけど」  押しつけがましくない程度に話を進める。また甘寧を怒らせては元も子もない。 「……調査してみる価値はありますね……」  亞莎が何度も何度も頷いてはぶつぶつと小さく呟いている。おそらく、彼女の頭の中では様々な計算がなされ、利害と今後の展望が描き出されているに違いない。 「あのさ、あんたがたいがいな莫迦で、なんの見返りもなくとも呉の有利になる情報を話してもまるで平気ってこと、真桜やボクはわかってるけど、ある程度は、自分にも利があるってところ見せておいたほうがいいんじゃない? 却って疑われかねないわよ?」  詠がけなしているような褒めているようなよくわからないアドバイスをしてくる。しかし、その口調はともかく、内容はたしかなものだ。裏に企みでもあると思われると厄介なのは間違いない。 「ああ、簡単だよ。南で海運が盛んになれば、それに対応するように北も豊かになるからさ」  亞莎の地図をなぞる。しかし、上の方は黄河の河口あたりで途切れていて、俺の示したい場所が載っていない。 「この地図には載ってないけど、さらに北に行くと渤海があるよね?」 「ああ、あるわね。半島との間ね」 「いま、伯珪さんと麗羽たちが遼東から高句麗にかけて勢力を持っている公孫氏を鎮撫に行っているけど、平和裡に済むか、征服することになるかはわからないけど、いずれ、その地域も魏の経済圏に入るだろう。そして、ゆくゆくは渤海湾は北の海運拠点、この上海のあたりは南の拠点になると、そう考えているのさ」  もちろん、そうなるのは数十年の単位の後だろうが。 「つまり、魏の沿岸交易の相手として、このあたりで海運が盛んになってほしい、というわけでしょうか」 「うん。有体に言えばね」 「しかし、それは呉のためにもなる、いえ、そもそもこの地が肥沃であることがわかれば、街は自然と発達する。それが、国を……」  顔をうつむかせた亞莎はぶつぶつと呟き続ける。いつまでもそれが続くので、少々心配になってくる。 「亞莎?」 「あ、いえ、その、け、検討させていただきます。か、一刀様ありがとうございました」  はっと顔を上げ、自分が思考の中に耽溺していたことに気づいた亞莎は真っ赤になりながら、ばたばたとそのまま出て行ってしまう。  その様子を見ていた詠が皮肉げに呟く。 「計画都市でも作らせるつもり?」 「さあね、そこまでは。でも、海運に力を入れてほしいと思っているのは嘘じゃないよ。発展は望むところさ」 「ふーん」  しばらくの沈黙。次いで、彼女は決心がついたとでも言うように決然と立ち上がった。 「話があるわ」 「ん?」  個人的な話、と前置きして、彼女はゆっくりと聞きとりやすい声で言った。 「ボクと別れて」  え?  いま、彼女はなんと言った?  脳が認識を拒否しているうちに、詠が話を続ける。 「もちろん、立場は変わらないままだけど、男女の関係はもう無し」 「え、詠?」 「なに?」  彼女の顔はいたってまじめだ。からかっているとか、ましてや俺を試しているなどというふしはまるでない。  夢ではないか、あるいは夢であってくれないか、そう願っても、現実は変わってくれない。 「考え……直せないか?」 「無理」  一言の下に切り捨てられる。 「普段はこれまで通り接してよね。変に勘繰られてもいやだし、そもそも別のことだし」  ぐらぐらと床が揺れる気がする。船がどこか水流の激しいところにはまったのだろうか? いや、違う。揺さぶられているのは、俺の心だ。 「わかった?」  そう訊ねる彼女の眼の端で、きらりとなにかが光った気がした。 「……詠?」 「わかったかって言ってるの!」  叫ぶ詠の目尻には、たしかに涙が盛り上がりつつある。肯んじようとしない俺に失望したのか、あるいは……いや、そんなことを考えている場合か。 「俺は……」 「ああ、もういい。ともかく、これからはボクのこと、自分の女だなんて思わないでね、じゃあね!」  言うが早いか、部屋を飛び出ていく詠を、俺は思わず追いかけた。しかし、閉じられた扉に手をかけたところで、刺さるような声が扉越しに走った。 「追ってくるな! 追ってきたら、あんたのとこも出てく!」  それでも、俺は把手に手をかけずにはいられなかった。おそらくは、詠が向こうからもたれかかっているのだろう。扉は普通に力を入れただけでは動こうともしない。 「ひとつ、だけ、言って、おく、わ」  しゃくりあげるようなくぐもった声が、扉の隙間からしみ入るように聞こえてくる。 「あんたに抱かれたことは後悔してない。それだけ」  彼女の気配が消え、それでもなお、俺は扉に手をかけたままの姿勢で、呆然と立ちすくむしかなかった。 詠は優しい。 だが、その優しさが、俺を苛む。  一歩先すら見えないほどの濃霧の中に、俺はいた。朝の、まだ日が指さぬこの時間、川面から沸き上がる水気のせいか、このあたりは霧の中に沈む。隣にたたずむ華雄の顔すらぼんやりとけぶるようだ。 「いやな霧だな」 「そう? 考え事にはいいけどね。ああ、でも服が濡れるか」 「敵に襲われたらなんとする?」 さすがは華雄。俺とは眼のつけどころが違うな。 「華雄に護ってもらう」  ふん、と一つ鼻を鳴らして応えられる。しかし、きっとそんな事態になれば、彼女はなんとしてでも俺を護ってくれるだろうことはわかりすぎるくらいわかっていた。 「どうした?」 「え?」 「やけに疲れてるようじゃないか」  やはり見抜かれていたか。海が近づくに連れ、暗いうちから起き出して甲板の上をあてどなくさまよっているのを繰り返していたら、気づかれないはずもないけれど。 「海が近い」 「海?」  東の方を指さす。もうしばらくすれば、曙光が差し、太陽がその顔を現すだろう。そうしたら、この霧もいなくなる。 「この海の先に、ずっと昔、俺が住んでいた土地があるんだよ。土地だけ、だけどね」  彼女の表情は伺えない。そして、俺の表情も見えていないはずだ。この霧に感謝するのはこんな時だ。 「俺が、一年消えていたって話、聞いているかな?」 「ああ、なんだか、成都を攻略し終えた後に姿を消した、と……」  急な話題の転換に、華雄は何事もなかったかのように応じる。 「この世界から消えていたのさ」 「天とやらか」 「俺にとっては元の世界。でもな……俺は……こっちのことすら忘れさせられていたんだよ。思い出すまでに一年以上かかった。それからこっちに帰ることだけを望んであわせて五年……」  長い、長い時間。一八〇〇日、四三〇〇〇時間以上を、俺は待ち続けた。 夢だったのだと、幻だったのだと言われながら。  気狂いと罵られ、ベッドに縛りつけられ、鎮静剤を打たれたことさえある。隠すことを覚え、ひたすらに雌伏した。眠れぬ夜を幾夜も越え、軽侮と白眼視の中で、ただ、力を、知恵を、意志を蓄えることに専念した。 「五年? 一年ではなかったのか?」 「あっちとこっちじゃ時間の流れが違うんだ。仕組みは聞くなよ。俺にだってよくわかっていないから」 「ふぅむ。五年は……長いな」  華雄の声は変わることがない。そのことが俺をなによりも慰めてくれた。 「また……また、洛陽に帰れないんじゃないか、って不安に思っちゃうんだよ」 「安心しろ。私が首根っこを引きずってでも連れ帰るからな。天でも、地の底でも、どこまでも追いかけてやる」  ぐいと体をひかれる。彼女の抱きしめてくれる体のぬくもりが心地よくて、もたれかかりずるずると体を落とす。ついには跪くようになった俺を、やさしく包み込んでくれる華雄。 「そうせねば祭や霞どころか、魏の全軍あげて血祭りにあげられかねん」 「はは……」  そう言ってくれる頼もしさに、思わず笑みをもらす。 「だが、お前を独占──でもないが、それに近く──できるのはいいものだぞ」  ゆっくりと頭をなでられる。 「どうせ、すぐにこの状態もなくなろうがな」  初めて剣呑な響きが言葉に宿り、思わず緊張する。 「えっと、どういう意味?」 「そのままさ。呉の重臣どもに恋、詠、月さま。いくらもいよう」  すでに一人、手を出して、さらに見事に振られていることには触れないでおこう。 「それにしても」  華雄は呟くように言う。周りに誰もいるはずもないが、それでも聞こえないように気をつかってくれているのがわかる。 「……てっきり、故郷がなつかしくて泣いているのかと思ったぞ」 「故郷は、ここさ」  そうして、俺は、彼女の腹の上で、ひとしきり泣いた。 「さて、海まで来たけど、どうだ、真桜」 「はー、これが、たいちょの昔の土地につながる海っちゅうやつかー」  いま、俺たちは申という土地にいる。以前、亞莎に上海の話をしたが、この時代、そのあたりは申という名前で通っているのだという。春申君という人物が領地としたため、その名があるらしい。同じ名前の街も海岸近くにあり、船を降りてそこに滞在している。亞莎が本格的に地勢調査に乗り出したためもある。 「それにしてもひろいなー」  人の手の入っていない海岸のため、岩がごろごろしていて、水のそばまでは寄れないが、丘のようになったところから眺めるだけで、海の雄大さは感じられる。遥か彼方の水平線まで続く波という光景は、いくら長江が大きくても、また趣の違うものだ。 「そりゃあ、この大陸よりも大きいからね。まあ、その間なにもないわけじゃないけど」  日本列島までだって、実際に行こうと思えば遠いし、おそらくは現状の航海技術ではたどり着けないほどなのだが、それでもなお太平洋の広さに比べれば近場としか言い様がないほどなのだ。 「ふーん、でも、もったいないなあ。たいちょの土地やったらとりかえさんと」 真桜は何か勘違いしているな。別に俺が支配していたわけじゃないぞ? 「よっしゃ、うちがこの海に漕ぎだせるほどの船を作ったるわ」  くるっと振り向いて、悪戯っ子のような笑顔を向けてくる真桜。 「たいちょ、そんで、着いたら案内してな?」  当たり前のように言われる。彼女の中では、日本にたどり着くことはもはや規定の話であるらしい。 「ああ、そうだな。約束だ」 「うん、約束や」  二人言い合って破顔する。そうしてしばらく海を眺めていた俺たちは連れ立って申の街への道を戻り始めた。 「一応、江を下って、海からも呉を見るっちゅう当初の役割は果たしたわけやけど」 「うん」 「亞莎はんが、測量まではじめてしもてるし、どないしよなあ」  予定では、ここまで来たら、陸路にしろ水路にしろ、一度建業に戻ることになっていた。ただ、亞莎に俺がこのあたりは有望だと話して聞かせたせいか、地勢調査がはじまってしまい、しばらくは動けそうにない。 「最悪、亞莎たちは置いて、甘寧と帰るって手もあるけどな」 「んー、まあ、最後はそれやな」 「あるいは、南まで見て回るか? それくらいしたら、亞莎の調査も終わりそうだけど」 「うーん、それもなあ。会稽郡は見て回りたいんやけど、やっぱり沿岸はそこまで発達してへんのやね」  真桜の感想も間違っているようには思えない。沿岸部分にも街は散在しているが、漁師街をいくつも視察してもしかたないのも事実だ。 「まあ、これからだろうな。それこそ、真桜の船に期待だぞ?」 「あは。たしかになー」  腕にぶらさがるようにして組み付かれる。真桜の豊かな胸が見事にあたってくるが、何も言わずその感触と体温を楽しんで、歩き続ける。 「とりあえずもうしばらくはここでゆっくり考えたらどうだ?」 「せやな、まずは馴れない船旅の疲れを……あれ?」  怪訝そうな声を出す真桜の視線を追う。すると、そこに見えるのは、道の真ん中でなぜか睨み合うように対峙する見慣れたメイド服姿の二人と、その間に挟まれておろおろしている風情の恋だ。 「あれ、月と詠やんな?」 「そうだな、なにか言い争いしている?」  あの二人が喧嘩するなんて珍しいこともあるものだ。しかも、ここから見る限りは、月が押されているという感じでもない。しかし、町外れとはいえ往来で言い合うというのは感心しない。 「ちょっと、まずいかな」 「うん、いこ」  腕を組んでいたのを離し──そのやわらかさがなくなるのは正直ちょっともったいなかった──二人で小走りに急ぐ。近寄ってくる俺たちの姿を認めて、恋はあからさまにほっとした顔を、詠は困ったように頭を抱え、月は憤然と俺を睨み付けてきた。 なんだ? なにがあった? 「月―、詠―、なにしているんだー?」  なるべく刺激しないよう静かに声をかけてみる。 「また、まずいときに……」 「ご主人様、お話があります!」  詠が何事か言い終える前に、鋭い声で月が切り込んでくる。こんな活動的な月ははじめてだ。いや、華雄を怒鳴りつけたのを見て以来かもしれない。 「あ、うん?」 「ゆ、月」  必死な形相で月に取りすがる詠。それを見て考えを変えたのか、月は小さく息をついた。 「あの、今晩、お部屋にお邪魔してもよろしいですか?」 「えっと、いいけど、何、かな?」 「あとでお話します」  まるでにべもない。俺はそんな月の態度に、何も言えないでいた。 「詠ちゃん、恋さん、行きましょう」  もはやこちらを見ることなく、さっさと向きを変え、歩きだしてしまう月。 「あ、うん……ご主人様たち、また……」 「あ、あとでね、待って、月!」  立ち去る月を追って、恋と詠がぱたぱたと走っていく。俺はその三人の背中を呆然と眺めるしかなかった。 「ありゃー」  同じように驚いて棒立ちになった真桜の声だけが、空しく響いていた。  宿屋の部屋の中、落ち着かず、ぐるぐると歩き回る。  今夜、月が話をしにくると言っていたが、一体なんの話をするつもりだろう。昼間の剣幕だと、よほどのことだ。そもそも、月があんなに怒っているところは見たことがない。  そう、彼女はたしかに怒っていた。いつもおっとりと優しげにしている彼女があんな態度を取るのは、よほど腹に据えかねることがあったに違いない。 「しかし、まるで心当たりがないぞ?」  月本人に関わることもなければ、周りの人間に関わることも、特に思い当たらない。最近は呉の案件ばかりで、なにか強引に押し通した出来事もないし……。  そもそも月のような人は、一体どういうことで怒るだろう? 自分のことで怒るのはあまりなさそうだ。もちろん、怒ることはあるだろうが、より強烈なのは周囲のことだろう。たとえば、詠が不当に扱われたとか。  うん、このあたりはありそうだ。しかし、俺はそんなことをしていない。そりゃあ、メイドとして俺の部屋を掃除してもらったり、お茶を淹れてもらったりはしているが、少なくとも呉にいる間はその迷彩を続けるという約束だし、その程度のことでいまになって怒る理由がわからない。  鬱々と考え込んでみてもわからず、とにかく月を待とう、と仕事に手を着けてみるが、まるではかどらない。  そうこうしている間に、いつか来るであろうノックの音を待ちわびるほどになってしまった。人間、追い詰められると、悪いことであっても、とにかく結果を求めてしまうものだ。  だから、ノックが聞こえた時には、待ってましたとばかりに扉を開けてしまったのだ。 「お邪魔します」  待ち構えていた俺にびっくりしたのか、いつも通りの風情で入ってくる月。あれ、詠はいないのか。 「あ、ええと、お茶呑むかな?」  俺と対面する位置の椅子に座る月に、そう訊ねる。普段は淹れてもらうほうだが、たまには……。 「いえ、まずお話を」  静かな声だが、はっきりと言われる。昼間とは違う、静かではあるがそれだけになにか抑えたものが伺える彼女の態度にはっきりと恐怖を感じる。 「あ、はい」 「ご主人様」  しっかりと、あの大きな目で見つめられる。 「うん」 「詠ちゃんを捨てたってどういうことですか?」 「……は?」  月の言葉の意味がわからない。詠が捨てられる? 誰に? 「もちろん、ご主人様にたくさんのすばらしい恋人さんたちがいらっしゃるのは知っています。けれど、それは詠ちゃんを捨てる理由にならないはずですよね……? まさか、飽きたとか……」 「ちょ、ちょっと待って、ストップ!」  いま、ついストップって言っちゃったぞ。意味がわからないのだろう、いぶかしげな目で月が見つめてくる。 「俺が詠を? 捨てたって?」 「……そんな……とぼけるのはずるいです……」  ショックを受けたように大きく眼を見開き、うるうると涙目になる月。なんだか俺が苛めてるみたいだぞ。一体これはどういうことだ?  その時、すごい勢いで扉が開いて、転げるように入ってくる人影が一つ。 「ちょ、ちょっと待ったあああっ」 「詠ちゃん!?」 「え、詠?」  思わず身構えて月をかばおうと踏み出したところで、走り込んできた人物の正体に気づく。 「ど、どうしたんだ、詠」 「ゆ、月、誤解だってばぁ……」 「え? え?」  泣きそうな顔で月に抱きつく詠。抱きつかれているほうの月は何が起きたかわからないようで、目を白黒させている。 「ええと、とにかく落ち着こうか」  さっぱりわけのわからない俺はそう言うしかないのだった。  改めて三人で卓を囲んで座りなおし、月が淹れてくれたお茶を呑みつつ、話を再開する。 「あの……ご主人様が、詠ちゃんを捨てたんじゃ……ないんですか?」 「……捨てられたのは、どっちかというと俺の方なんだけど……」 「え?」  驚き顔の月、ばつの悪そうな詠。 「詠ちゃん、なんで?」 「だからぁ……」  もじもじとなにかを言おうとして、俺と月の顔をかわりばんこに見ては顔を赤らめる詠。 「えーっと、詠に月。話を整理しよう。まず、月は俺が詠を捨てたと思って抗議しに来た。そういうことでいいのかな?」 「はい……でも、違ったのですね……」 「で、詠はそれが誤解だと知らせに来た、と」  こくん、と頷く詠。今日の詠はことさらに寡黙だ。月の勢いが激しかったせいもあるのだろうか? 「月はなんでそんなことを思ったのか、最初から説明してくれる?」 「そ、そんなのもういいでしょ。誤解は解けたんだし」 「詠ちゃん……」  詠は一刻も早くここから出て行きたいという感じだ。たしかに気まずい話題ではあるだろうが、しかし、往来で喧嘩をしてしまうような誤解は早めに解いておいてほしい。特に強い絆で結ばれているはずのこの二人が諍いを起こしているのなんて見たくないからな。 「しっかり話しておいたほうがよくないか? 別に憎しみあって別れたとかじゃないのだから、ちゃんと月にもわかってもらったほうがいいだろうし」 「いや、だって……」 「はい、話します」 「ゆ、月ぇ……」  煮え切らない態度の詠に対して、月ははっきりしている。普段とは逆の二人がなんとなくおもしろい。 「建業を発つ少し前からでしょうか、詠ちゃんがとてもご機嫌だったんです」 「ははぁ」  おそらく、俺と結ばれた時期だろうか。俺からみると、そこまでうきうきしているようには思えなかったが、やはり月には違いが見えるのだろう。 「ええい、変な想像するな!」  卓の下で足を蹴られる。痛いな、もう。 「でも……私が倒れた頃か、そのあとか、そのあたり、私もよくわからないのですけれど、急に暗くなって」  あの悩んでいるように見えた時期だな。いまから考えると、俺と別れることを悩んでいたか、話を切り出す時期をはかっていたのだろうと思う。 「その頃、私が熱を出したこともあって、いろんなことを話したんです。昔のこと、ご主人様に助けられて桃香さんたちのところへ行ったこと、長安にいた頃のこと、それに、いまご主人様の下で呉に来てること、いろんなことを」  愉しそうに月が言うのを、うらやましく思う。人生の長い時間を共に過ごしてきた相手との会話というのはことさらすばらしいものだろう。幼なじみのようなものがいない俺にはうらやましい限りだ。 「詠ちゃんがご主人様を好きなことはずっと前から気づいていました。たぶん、建業に着く前から。ううん、詠ちゃんとご主人様がいっしょに戦に行った頃から」 「ああもう……」  詠は観念したのか、真っ赤になって頭を抱えてしまう。 「へぇ……」 いっしょの戦というと、内烏桓討伐か。あの頃から詠が好きでいてくれたことが素直に嬉しい。現状を考えると少し寂しいのだけれど。 「だから、暗くなったのは、たぶんご主人様とうまくいってないんじゃないかな、と思って、詠ちゃんに話してくれるよう頼んだんです」  ちら、と頭を抱えた詠のほうを月が見る。その眼は心配そうに揺れていた。 「でも、なかなか話してくれなくて、詠ちゃん、もっともっと暗くなってしまって……。今日、もう我慢できずに聞いたんです。そうしたら……すでにご主人様と別れたんだって言われて……その、喧嘩みたいになって……」  昼間の諍いは、俺と別れたという話を詠が強い口調で言って、月がそれでいいのかと問いただしていた、というあたりだったのかもしれない。 「それで、俺に捨てられたと誤解した、と」 「はい……だって、詠ちゃん、ご主人様のこと大好きですから、消去法でご主人様の方が……」 「ちょっと、違うって。もうこいつのことなんかなんとも思ってないわよ。だから別れ……」  わたわたと腕を振って強弁する詠。そんなふうに言われると、かなりショックではある。 「嘘」  うわ、ばっさり。月って、詠に関してはかなり遠慮がないんだな。 「私がわからないと思ってるの、詠ちゃん」 「う……」 「それに、詠ちゃん、本当に興味なくなったら、そんな態度とらないもの」  顔中真っ赤なままの詠は、悔しげに俺のことを睨み付ける。 「あー、もう。そうよ。ボクはこいつのことが好き! でもね、別れたの。終わったの!」  息が止まるかと思った。 詠が俺をまだ好きでいてくれる。その事実が俺の中の歓喜を爆発させる。しかし、ここで小躍りするわけにもいかない。詠には詠の考えがあり、別れを告げたのだから。もちろん、俺はいまでも彼女のことが好きだし、出来ることならこれからも彼女と共に過ごして行きたいと思ってはいるが……。 「……なんで?」  小首をかしげて訊く月はあまりにもかわいらしい。その無心な瞳に、詠も耐えられなかったようで目を逸らす。それにしても、なにか秘密にしておくことでもあるのだろうか? 「……詠ちゃん、もしかして、私がご主人様好きって言ったから?」  え?  あまりに予想外の言葉に硬直する。いま、月も俺のことを好きだと言ったような……。 「月?」 「はい」 「俺のこと……その、好きなの?」 「はい、大好きです」  華のような笑顔。にこにこと笑っている顔はいつも見ているが、これほどまでに顔中を彩る笑顔を向けてくれたことがあるだろうか。俺はその笑顔に心臓を貫かれたような気さえした。 「あんた、月の気持ち聞いた以上は、ちゃんと応えなさいよね。わかってる?」  詠が怒ったように言う。その一方でようやく安心した、といったような気の抜けた顔をしているのは、きっと、彼女も月の気持ちを応援してきたからだろう。 「うん、もちろん。月が俺のことを好きでいてくれるなんて思いもしなかったけど、本当に嬉しいよ。俺でよかったら……ずっと側にいてくれ」 「はい、もちろんです」  俺の手をとって頷く月。その小さな指先から感じるぬくもりが、とてもいとおしい。  彼女は俺と手をつないだまま、詠の方を向く。その横顔が、重く張りつめる。 「詠ちゃん、やっぱり……そうなんだね」  詠は顔をうつむかせ、ぼそぼそと彼女には似合わない小声で呟く。 「だって……月に幸せになってほしいし……」 「詠ちゃん間違ってるよ。私は詠ちゃんといっしょにご主人様に愛してほしいもの。そうじゃなきゃ、幸せになんかなれないよ」  それまでの真剣な表情を消して、ふっ、と月は柔らかな笑みを浮かべる。 「それに、詠ちゃんが身を引いても、ご主人様にはたくさん女の人がいるんだよ」 「そ、それはそうだけど……」 「いまさら、一人や二人減っても変わらないと思うの」 「う……そう言われると……でも、なんか腹たってくるわね」  だからって見えないところで蹴るのはやめてくれ、詠。 「しかたないよぉ。えらい人にお妾さんがたくさんいるのは当たり前だし……」 「そりゃ、家を残すためにはしょうがないわよ? でも、こいつは多すぎない?」  何も申し上げられません。俺はただ、二人の会話を聞くばかりだ。 「でも、ご主人様の家を継ぐ子供を産む人達じゃないよね。華琳さんとか……」 「そりゃあね。華琳たち魏の将軍はそれぞれの家を残さないといけないしね。ってことは、こいつのあとを継ぐのは……」  詠がまじめに考え込む。感情と政治的な問題を切り離して考えられるのはすばらしいことだと思うが、いつもこの切り替わりように驚いてしまう。 「私ね、ちょうどいいんじゃないかな、って思うの」  月の言い出したことに首をひねる詠。 「なにが?」 「私たちって身を隠してる立場でしょ? ご主人様の名前を残すにはちょうどいいんじゃない?」 「あー、たしかに……って、そうじゃないわよ。そういうことじゃなくて、月はいいの? こんな……他の女も好きな男で」  じっと俺のほうを見つめられる。月のことを気づかう詠の視線はいたって鋭い。 「へぅ……でも……好きになっちゃったんだから……詠ちゃんだって、そうでしょ?」 「うー……」  再び、首筋まで真っ赤に染まる詠。月は居住まいをただすと、俺の顔を覗き込んでくる。 「ですから、ご主人様、どうか私たち二人とも愛してほしいんです。……だめでしょうか?」 「そりゃあ、願ってもないことだよ。詠にふられて、どうしたらいいかわかんなかったからな。まして、月もいっしょにいてくれるなら、これほど心強いことはないよ」 「なによ、情けない。莫迦じゃないの」 「詠ちゃん……」  頬をふくらませて憎まれ事を言う詠に、少し強めに名前を呼ぶ月。 「わ、わかったわよ。とにかく、これからは元通り、で……いい、わよ、ね?」  探るように訊ねてくる彼女に、しっかりと頷いてやる。 「元通りじゃないよ、私もいっしょ」 「あ、うん」  月が空いた方の手で、詠の手をとり、俺と重ねた自分の手の間に差し入れてくる。三つの掌が重なり、固く固く握りしめられる。 「もちろんだよ、詠、月」  もう二度とこのぬくもりを離しはしない。心の中でそう誓いながら、俺はその言葉を口にするのだった。                         (第二部第三回・終 第四回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○弓家の項抜粋 『張勲を祖とする張家は、西方張家がローマ皇帝位を継いだことにより、弓氏と改姓したため、初期から弓家と呼ぶのが一般的である。  弓家は南袁家集団を支える皇家として、早くから南袁家と一体化し、実質的な分家としての役割を果たしてきた。これはすでに太祖太帝の孫世代ではじまっており……(略)……  知っての通り、帝国本土に存在する王号は三つしかない。幽王、西涼王、仲王の、央三王である。(いわゆる三皇──魏王、呉王、蜀王は死後に追贈されるもので、生前在任中は公止まりであることに注意。なお、南蛮王を含めて四王と言う場合もある) その中でも、辺境との架け橋としての他の王国と違い、仲王国は帝国本土のまさに中央に存在し、その影響力は絶大で……(略)……  弓家はその仲王国で宰相位を得ていたが、この皇家の果たした役割として──南袁家の予備としてのそれを別とすれば──主に有名なのは、大規模な土木事業であろう。黄河と長江を結ぶ京杭大運河、旧洛陽郊外に建設された新都洛陽(一般的にはこれを洛陽と呼び、古くからの地区は旧都と呼ばれる)はその代表的なものである。  特に太祖太帝在位中に完成した計画都市洛陽は、帝国の都としての威風を備えた周礼式の都城として歴史に燦然と輝く業績と言えよう。普通、いかに計画都市であろうと妥協が重ねられるものであるが、この都市は帝国本土の経済力の大半を握る仲の威信をかけて作り上げられたもので、計画段階から二十年の長きにわたり……(略)…… また、黄河から水を引き、城郭都市内に港を備えるこの都市は、黄河により大陸中、そして、海へとつながっていた。これは、すなわち『世界』を見据えた都市であり、この都市とそれをとりまく副都五都の完成により、いわゆる首都圏回遊型政府の形態は円熟を究めることに……(後略)』