逃避行を困難にしているのは楚王の差し向けた追っ手を避けねばならないことである。  3人とも、楚の手の者には細心の注意を払っていたが、わずか3人では見張りを交替しながらでは体力の限界が来る。そもそも3人のうちひとりは幼児であり、見張りを一任できない。また、山河の実りを探し、雑草をかじるばかりではとても足りないので、時折人里に近づかねば食糧の絶対量が不足して歩けなくなる。  一見、流民にしか見えない粗末な格好をしていたが、容貌は食い詰めた人間のそれではない。彼らに相応しい衣服は畳まれて嚢に詰められている。いずれ路銀が尽きたらこの服を売ることになるだろう。  一行の内訳は、ひとりは赤毛に長身の絶世の美女、ひとりはかろうじて女の子とわかる年齢の幼児、もうひとりは当時としてはかなりの長身の若い男だった。幼児は名を勝(しょう)という、楚の王族である。男は北郷一刀という、異世界からの来訪者である。最後のひとり、鮮やかな赤毛の美貌の女性が伍員、字を胥といって、この地に大乱を引き起こす人物である。  一刀は、疲労からくる足の痛みに意識を支配されそうになりながら、周囲を警戒するのに必死だった。この地獄のような逃避行が始まってから1ヶ月近く経っていた。 「勝さま、足が痛くはありませんか?」 「平気じゃ」 屋敷を出た頃は痛い痛いと泣き言を続けていた子供が、無駄を悟ったのだろう、不平を言わなくなった。 〜〜〜  ばったり、という感じで楚の追っ手に出くわしたのは、黄河の支流のひとつに沿って歩いてしばらく経った頃だった。川沿いに歩いているのは人目に付きやすいので、水を汲む時だけ川に近づき、平時は川から離れて歩いていた。ところが、やや深い薮を抜けたとき、川のすぐ近くに出てしまい、そこで発見されたのである。出くわした追っ手はもともと国境付近の哨戒部隊だったようである。 「おお!見つけたぞ!」 「手配書のとおりだ!遠目に見ても凄い美人だな!」 「気をつけろ、弓の名手で相当強いというからな」 「しまった!」 なんという不覚か。疲労していたとはいえ、追っ手の接近に気付かなかったなんて! 「多いな。一刀!おまえは勝さまを抱えて川下に行け!」 敵の数はざっと見て30人ほど。 「子胥は!」 「私は川上へ向かって戦いながら逃げ、奴らを撒いたら下って追いかける!さすがにこの数全員を相手にはできぬ!」 「わかった!無事で!」  こういうとき大事なのは冷静な分析や深い洞察ではなく、咄嗟の判断である。その点で最も長けている伍子胥の判断に従って、一刀は勝の小さな体を抱き上げ、伍子胥と分かれて走り出したが、ものの20秒としないうちに後悔した。5人ほどしか一刀を追って来ないのである。 「ちくしょう!奴ら・・・!!!」 理由は単純明快、伍子胥が美人だからである。追っ手はほとんどが―この時は全員が―男だったので、同じ追うならば幼児を連れた少年よりも美女を追いたがる者が多かったのだ。 「一刀!胥の言ったとおりにせよ!」 「御意!」  勝の言うとおり、今から反転するわけにもいかない。実戦経験など無い上に、一刀は旅装である。武装した5人の追っ手を相手に勝を守りつつ戦って撃退できるわけがない。こうなっては、伍子胥のためにも、いま最善の選択は逃げることなのだ。 「勝さま!俺は全力で走りますから、川をよく見て、舟があったら教えてください」 「うむ、まかせよ!」  楚人は総じて身長が低いし、紀元前の栄養状態なので、現代人の一刀よりも体格がふたまわりほど小さい。歩幅が違うので、特別に健脚ではない一刀でも、勝を抱えてなんとか差を詰められない程度の走りはできた。背負った方が少し速く走れたかもしれないが、そうすると後ろから勝の背に矢を射掛けられる危険があった。 「ん!あったぞ!」 「どこですか!」 「あれに!」 一刀が2里ほど走った頃、勝が舟を見つけた。2艘あったので片方はひっくり返して岩にぶつけて艪を壊し、もう片方に乗って対岸に渡って身を隠した。 〜〜〜 伍子胥は逃げながら戦い、弓で7〜8人を殺したところで矢が尽きた。空の弓で脅していたが、気付かれると追いすがってくる敵を斬り払いつつ逃げた。 「ばかもの!生かして捕まえようなどと思うな!仕留めろ!」 「わかっております!でも奴は強すぎて!」 「それでも、もう疲れ切ってフラフラだ!ひるむと逃げられるぞ!たたみかけろ!」 「ちっ、劣情に狂った俗な下種めが!貴様らごときに、この伍員の首が取れると思うな!」 一喝の気合は衰えなかったが、さすがに疲労してきた頃、伍子胥は川に所在無さそうに流されている無人の小舟を見つけた。追っ手が10人ほどに減ったところで、川へ向かって駆け出し、そのまま飛び込んだ。数人が追って飛び込み、残りは岸から石などを投げてきたが、なんとか川に浮かんでいた小舟に泳ぎ着き、転がり込んだ。 「ぐう!痛え!見つかったか!」 「な!」 無人と思われた舟には先客がいた。男がひとり伏せていたのである。 「渡し守か」 「へえ、本業は漁師ですが、渡しもやっとります。陸がなにやら騒がしく、危険に思ったので、こうして隠れていたのです」 「そうか。ではあの賊から逃げて対岸に行ってもらいたい」 「お客さんだったか。そういうことならわかりやした」 追っ手は、しばらく何か叫んでおり、なおも泳いで追いすがろうとする者もいたが、水上で舟より速く泳げるはずも無く、伍子胥が舟に置かれていた銛を投げる構えを見せたら退散した。川では泳いで舟に追いつけるわけもない。川岸を走り回って、橋か舟を探すのであろう。 「船頭どの、助かったぞ。対岸についたら、この剣を差し上げよう。これには百金の値打ちがある」 「いらねえよ」 まさか断られるとは思っておらず虚を突かれた伍子胥に、男は続けた。 「娘さん。娘さん追っかけていたありゃあ、賊なんかじゃねえな。ほれ、今もひとりがこの舟を見張って立ってやがる。俺はしがない渡し守だが、役人にこんなことを聞かされた。伍員という赤毛に長身の美女が逃げ出そうとしているから、捕らえた者には粟五万石を与えた上に爵執珪とかいう偉そうな役目にしてくれるとか。伍員ってのはたいへんな大物なんでしょうなあ」 「・・・・・・」 しかし、男は伍子胥を縛ろうとも追っ手に売ろうともしない。淡々と舟を漕いでいる。 「百金どころじゃねえってことです」 「船頭殿、真の勇気を持ったあなたが此処にいてくれたことに感謝する」 伍子胥が渡そうとした宝剣は、北斗七星の形に宝石があしらってあった。後世、曹操が董卓暗殺に使おうとしたという伝説がある七星刀と、装飾の系統が似ている。 川を半分ほど渡ったところで、渡し守は対岸の茂みに視線だけを向けた。 「あの薮を見てくだされ。あの中に、俺が昔使っていたボロ舟がある。もう使わねえからあんたに差し上げよう。ところどころ壊れてるが、とりあえず浮いて下流に流されるぐらいはできるだろう」 「ありがとう」 「対岸に着いたら、俺は娘さんに渡し賃をせびるふりをする。だから娘さんは対岸の見張りによく見えるように、俺を蹴倒すふりをしてくれ。俺はそのまま気絶したふりをする。そのうち役人がやって来て聞かれるだろうから、俺は娘さんに脅されて舟を漕がされたと言い訳ができるようにするのさ」 「わかった。この恩は海より深い。いまは落ち延びるが、私はこの楚の地へ戻ってくる。黄河の流れが絶えぬ限り、必ずあなたに報いよう」 「ははっ、無理しなさんな。そんなに綺麗な顔をした娘さんが、屋敷にも住まないで逃げるってのはよっぽどだ。そう簡単に礼をくれるような余裕ができるとは思えねえや」 漁師の軽口を聞きながら、伍子胥は川下に目を凝らした。一刀たちの姿は見えない。遠くまで下ったか、どこかに隠れているのか・・・。 ***** 対岸で、男は打ち合わせどおりに、蹴倒されたふりをした。伍子胥は背を向けたまま、倒れた船頭と話した。 「私はこれから南へ、揚子江をたどって呉へ向かう」 「そうか。黄河の本流は人目につきやすい。この流れが合流する前に途中で降りて歩くこった。じゃあな、美人の娘さん」 「あなたはきっと黄河の神の化身だな。また会えるのを願っている。さらばだ!」 ***** 伍子胥が薮の中から舟を引きずり出して、密かに下流へ向かってから半刻後、楚の追っ手が川上から走ってきた。 「おい、そこに倒れた渡し守は生きているのか?」 「いま確認します」 「・・・」 「生きております!」 「よし、すぐに水をぶっかけて起こせ!」 〜〜〜 「あの女はどこへ逃げた?」 「へえ、なにぶん、こうやって船の中で剣を突きつけられていたのでロクに話せやしなかったんですが・・・」 「どこへ逃げたと聞いている!」 「へえ、どことも言っとりませんでしたが・・・そういえば、黄河を下って斉へ行けないかと聞いてきやした」 「それで?」 「そりゃあ、このまま川を下ればいつか斉のどこかに着く・・・と答えましたがのお」 「そうか、奴の行き先は斉のようだな!急ぐぞ!」 「気をつけて行きなされよ!あの娘の剣は恐ろしくよく斬れそうだったでの」 「うむ。命が助かっただけでも、きさまは幸運だったな」 〜〜〜 「ふう、さてさて・・・『また会えるのを願っている』、か・・・あんな美人と再会の約束とは、俺は確かに幸運なのかもしれんな」 「逃げ切りなされよ、娘さん」 ***** 「一刀、落ち着く」 「うん、わかってはいるんだけど・・・」 どうやら追っ手は撒いたようだし、日が暮れたからそうは動けないのだが、伍子胥が合流しない。落ち着いていられないのが人の性というものである。一刀はこの夜ほとんど寝付けなかったので、勝の護衛の宿直だと思って開き直って起きていた。 翌日、一刀と勝は下流へ向かって歩いていった。伍子胥がいるとすれば自分達より上流だとは思うが、川下で再会すると言い残して分かれたのだから、下流に向かうべきだろう。一刀が倒れても、勝だけでも呉まで送り届ければ、後から伍子胥が別に辿り着けば良い。川上に迎えに行って、伍子胥とすれ違って、一刀と勝だけで追っ手と鉢合わせたら目も当てられない。  一刀と勝は、一日中歩き続けた。周囲に気を配りながら、なおかつ目立たないように歩いた。民家を訪ね、「世界に二つと無い超精巧な銅細工だ!」と宣伝して、10円玉と引き換えに食糧と靴の替えを貰った他は、人との接触を極力避けた。慎重さが奏功したのか、楚王の手の者には遭わなかったが、伍子胥もまた見つからなかった。ちなみに、アルミニウムのほうが稀少だと考えて1円玉は取っておいてある。  我慢強く歩いてきた勝も、伍子胥のいない心細さに口数が減った。それでも弱音を漏らさないのが、この時代の人の強いところだと思う。色々な面で未来の人間は進んでいるが、こと忍耐力という点では退化する一方なのかも、と一刀は思った。 〜〜〜 「ん・・・?ここは、どこだ・・・?明るい・・・」 夢の中だろう。風景が白い。淡白色の世界に、誰か、一刀の知らない少女がいた。 「・・・」 「君は、だれ?いや、だれでもいい。子胥たちふたりを助けてくれ!」 少女は振り向きもせずに佇んでいたが、つと立ち上がり、遠くを見すえた。 「・・・」 一刀が気付くと、そこは何やら川か湖のほとりのようだった。少女は両手で水をすくい、手を握るようにしてこぼした。 「無形」 少女は透明な声で、そうつぶやくと、そのまま風景に溶けて消えてしまった。  目を覚ますと、一刀が寝付いた時と同じように、隣に勝が眠っていた。川から少し離れた場所である。 「水には形は無い・・・か」 一刀でも知っている。「兵は水に象る」と教え、水に喩えるのを好んだ人物。あれはたぶん・・・ 「孫武」 〜〜〜  次の日、一刀は一計を案じた。一刻ほど歩くたびに、小石を拾ってきて地面に並べるのである。北郷の「北」という文字である。「伍」だとあからさま過ぎるし、「胥」「勝」「郷」「員」は複雑すぎ、「一」「刀」では逆に単純すぎて文字だと気付かないかもしれない。伍子胥が追いかけてくれば、そこを通ったのだとわかるだろう。北郷一刀の名前など知らない楚の追っ手には何の意味かわからず、方角の北を示すと、伍子胥の亡命と結びつけて考えることすらしないかもしれない。  小石作戦の成果が現れないまま、次の日も伍子胥は見つからなかった。このまま合流できないとまずい。彼女を案じて、勝と一刀の心が折れそうだ。ここは、対岸に行ってみるべきだろうか・・・いや、伍子胥なら、やはり川を利してこちら側へ逃げている気がする。そう都合よく何度も舟を拾えるわけもないし、人に渡してもらうのは危険が高い。橋のような絶好の監視スポットは避けて歩いているから、対岸に行くのもなかなか難しい。  不安に包まれたまま、一刀と勝は二人になって3日目を終えた。 伍子胥と分かれて4日後、歩き始めて1時間ほどして、勝が足を止めた。 「ん・・・」 「おや、疲れましたか?」 「一刀、あそこ・・・」 「え?」 「なにか変。誰かいる気がする」  そして、薮の中に隠れた舟から、眠る伍子胥を見つけたのである。  二人がかりで抱きつく一刀と勝に目を覚ました伍子胥は、渡し守とのやり取りを話し、今後しばらくは夜のうちに川を舟で下り、昼に休むという方針を話した。勝の生育にはよろしくないが、少しの間だと思って我慢する。道筋も、もとの予定より早目に川を離れ、徒歩で南へ向かうように修正した。これまで1ヶ月近く歩き通しだった3人は、消耗しきった足を舟で数日間休めることができた。  腕の中で勝を寝かせながら、伍子胥は小石を並べた一刀の策を褒めていた。近くの村人が「何の予言だ?」と言い合っている場所が点々と見えたのだという。夜にそっと近づくと、月明かりに北の字が照らされていた。それで察した伍子胥は船で下り、小石が見つからなくなるまで進んだのが一日前の夜。そこで船を停め、夕方になったら二人を探しに行こうと体を休めていたところ、勝が見つけてくれたということである。 「それにしても危なかった。川がもっと狭かったら撒けなかったかも」  珍しく弱音らしきものを発した伍子胥は、最初から追っ手のほとんどを引き受けるつもりだったのだろう。 「もうあんな危ない真似はしないで・・・と言えるほど、俺が強ければなあ」 「それで十分」  短く答えた伍子胥だったが、実際に彼女は一刀に感謝していた。楚に対して個人的には特にしがらみが無い一刀は、勝を追っ手に売って自分は助かることもできる立場なのだが、まずそんな発想が無い。この無条件の味方がいてくれることは非常に助かる。いかに腕が立つ者でも、金銭で雇った護衛ではこうはいかない。  しかし、この伍子胥の謝意は十分には伝わらず、一刀は無力感を持ち続けることになる。伍尚らが捕らわれた今、この世界で自分という存在を理解してくれる人間は伍子胥しかいないと思っていたし、家族を奪われ亡命を強いられたうら若き乙女と幼児を見て強い義憤を感じていたので、一刀にとって自分と伍子胥たちは不可分、離れるなど考えもしなかった。  一刀の心を占めていたのはむしろ、深い後悔―伍子胥と家族に迫る危険を予期しながら、避ける手段を講じなかったことに対する―であったので、実に献身的に逃避行に協力しているのだが本人は気付いていなかった。 ***** 数日後、黄河の本流が遥か遠くに見えてきた頃、一行は船を降りて南へ向かった。 「勝さま、足が痛くはありませんか?」 「・・・・・・」 「勝さま?」 「ん、勝は大丈夫じゃ」 反応が遅い。これは危険信号である。 「一刀、荷物を。勝さま、おぶさってくださいませ」 休憩を取るという選択肢もあったが、月が細いので、明るいうちにできるだけ進んでおきたかった。陳、蔡といった国も可能な限り早く通り過ぎたい。蔡は勝の祖母の生国ではあるが、楚の属国同然であるから味方ばかりとは限らない。捕まって差し出されるかもしれない。 一行がとうとう揚子江を視界におさめる頃、節約してきた路銀も尽き、乞食をしながら歩かねばならなくなっていた。屈辱に耐えられるが同時に廉潔な気質の伍子胥だから、乞食をしても盗みは決してしなかった。  本来なら姑蘇に向かいながら頼れる名士を探し歩くところであるが、彼らには一刀がついているのだから迷いはない。目指すはただひとつ、呉の公子光、後の呉王闔閭の屋敷である。 〜〜〜〜〜 ***** 〜〜〜〜〜 <作者後記>  伍子胥の亡命行のルートがどうだったか、伍家の屋敷がどのあたりにあったか、もちろん歴史には残っていない。呉へ逃れるのは、伍奢・伍尚の処刑から2年後、太子建が再起に失敗して殺されてからなので、それまでは建に従って宋、鄭に滞在したはず。漢水を下る南回りのルートではないことがわかる。  史記列伝に残っている伝説では、長江の漁父が渡河を助け、礼品を謝絶したことになっている。  今作では伍子胥は郢の北から出発し、黄河の支流に沿うように国境づたいに東へ逃亡し、城父をかすめて川を下り、途中で南へ折れて揚子江へ出る時計回りのコースをとることにしました。恐らく史実に近いのではないかと思いますが、長江の楚勢力圏を渡るとどうしても遠回りになっておかしい。そう考え、漁父は長江ではなく黄河に登場してもらいました。  伍子胥の口調には非常に気を遣っています。かなり「男前」なキャラクターになるので、シリアスな場面では軽々に女性言葉を話せない。女性言葉を話させてみたら雪蓮の劣化版になってしまいそうになって却下。 雰囲気を軽くしてくれるキャラがいないので重いです。要離、専諸の刺客コンビ、欧冶子、干将、莫邪の刀鍛冶トリオ、夫概、終累、夫差、慶忌の王族カルテットが登場した後は、ずいぶん明るい場面も増えてきます。