いけいけぼくらの北郷帝  第二部『望郷』編 第二回 「起きろ、客人だぞ」  強い声が、頭を揺さぶる。 「んー、華雄はんかー」  部屋の主がまず答える。俺はどうにも意識が浮上しない。なんだか枕の感触がとても心地よくあったかくて、いつまでも埋まっていたくなる。 「入るぞ、真桜」 「あいよ。寝室やで」  声が近づいてくる。聞き覚えのある声に安心感を覚え、そのまま眠りの園へ引き返そうとする。 「やはりここだったか。ほら、起きろ、主殿」 「さすがやな、華雄はん。たいちょのことお見通しか」  二つの柔らかな声が会話するのをふわふわした気分で聞く。体が揺さぶられているような気がするが、意識がはっきりしない。 「ふん。いやでも馴れるさ。しかし、昨日はよほどがんばったのか? まるでしゃっきりしないな」 「まー、だいぶ呑んでたしなー」 「ほら、幸せそうな顔をしているところ悪いが、いい加減起きろ」  肩口に灼熱の痛みが走った。 「いだだだだだ!!」  身動きも取れず叫ぶしかない。ようやく眼を開けると、俺はなんだか肌色のものに埋まっているのだった。 「起きたか。客人だ。副使殿」  わざわざ仰々しい職名で呼び、肩を指だけでひっぱる華雄の声に、さっと正気に戻る。 「ああ、起きる。いま起きる」 「たいちょが起きてくれへんとうちも動かれへんからなー」  顔をあげてみると、俺は真桜の胸に顔を埋めていたようだった。慌てて彼女の体の上から退く。 「うちのおっぱい枕、寝心地よかった?」  にやにやと訊ねられても……困る。なにしろ華雄が寝台の横に立ち、憤然と睨み付けている状況だからな。いや、とても、気持ちよかったですけど。 はい、脳内の麗羽はわたくしのほうが気持ちいいに決まってますわ、とか対抗しないの。 「朝の睦み合いを邪魔するつもりはなかったが、甘寧がこの朝っぱらから訪ねてきてな。二人に起きてもらわねば困る。真桜。恋が湯を持ってくるので、体を清めたらまた呼んでくれ」 「了解や」 「ほら、副使殿。お前の部屋にも湯が用意してある。湯浴みしてしゃっきりしてくれ」  そう言って寝台からひっぱりだされる。腕を抱えられるようにして引きずられながら、二人に向けて頭を下げた。 「えと、二人ともすまん」  彼女たちはその言葉に顔を見合わせると、揃ってぷっと吹き出したのだった。  とにかく自分と恋で甘寧の相手をしておくから、と言われて、俺は自室で湯浴みをしていた。 昨日の謁見の間でのことがあるから、甘寧が訪れてくるのはわからないでもないが、この時間に、というのはちょっと厳しい。侍女たちが朝餉の支度をはじめるくらいの時間だから非常識に早いというほどでもないが、酒宴──とその後がんばった──翌日ということを考えれば……。いや、あるいはそういう判断能力が落ちた時間を狙ってきたのかもしれない。  そんなことを考えていたせいか、近づく人の気配をまるで感じとれなかった。 「入るわよー。一応、正装を……きゃっ」  声に驚いて顔をあげてみれば、包みを持って部屋に入ってきた詠が慌てて眼を覆っていた。 「あ、すまん」  とにもかくにも股間を隠す。詠は何も言わずにぱたぱたと次の間に走って行ってしまった。 「あー」  しかたなく体を拭いていると、ぼすんと包みが投げ込まれる。 「服が入ってるから、着てからこっち来なさいよ!」 「了解」  待たせるのは悪いので、手早く体から水気を取り、服を着込んでいく。いい加減学生服を着るのは勘弁してほしいところだが、『天の御遣いの光り輝くぽりえすてる』といえばこれがお決まりとなっているのでしかたない。普段はズボンはともかく、上着はこちらであつらえたものを着ていたりするのだが、正装となるとこれになってしまう。これだって、こちらで仕立てたもので、ポリエステルじゃなくて、絹を加工したものになるのだけど。 「悪いな。まだ寝ぼけてるのかな」  詠にそう声をかけるが、部屋に入ってきた俺にも気づかず、顔をうつむかせているので、心配になって近づいてしまう。 「……あれが、男性器……あんな大きな……いえ、ありえないわ……あいつだけよ、きっと……でも、そうなると……そんな、でも……あれが、はいるの……?」  なんだかぶつぶつ呟いていて、考え事に夢中のように見える。 「おーい、詠?」 「はっ」  耳に口を近づけて呼びかけると、ようやくのように顔をあげる。 「な、なによ。終わったんなら言いなさいよ。びっくりするでしょ!」  いや、言ったのだけど……。ただ、ここで反論すると水掛け論になってしまいそうなので口に出すのはやめておく。詠とじゃれるのは愉しいが、時と場合というものがあるからな。 「え、ええと、着替えは終わったのね。ああ、もう髪がぐちゃぐちゃじゃない。ほら、ちょっとかがんで!」  言われる通りかがみこむと、濡れた布と櫛を使って髪の毛を整えてくれる。櫛といっしょに詠の指が髪の間をかすめるのが、なんだかくすぐったくも心地いい。 「はい、これでよし、と」  だから、そう言って詠の指が離れて行くのは少し寂しかった。その寂しさが顔に出ていたのだろうか、じっと顔を見つめられる。 「あんた、なにかあった?」 「ん?」  物欲しげだとからかわれるのかと思ったら、あまりにまじめな声で訊ねられて驚いてしまう。 「死んだ後、安らかでいられなくてもいいって覚悟をしている人間の顔だわ」  手を腰にあて、俺に正対してそう断言される。 「あの時の月そっくり。いったいなにを企んでるの?」 「何も企んではいないよ。ただ、背負っているものの価値を思い出しただけさ」  そう、真桜に思い出させてもらった。この世界への絆とは、ただ、愛しい人達がいることだけではないのだ。自分がなすべきことをしっかりとなし遂げられる男に、俺はならねばならない。 「ただ、そうだね。地獄に堕ちることは覚悟しているよ」  そうだ、きっと俺はたくさんの罪を背負っている。しかし、それを認めてでも、人は進まなければならない。わからぬままにも戦乱を過ごし、戦乱を終わらせた者たちのそれが宿業というものだろう。華琳といっしょに地獄の大王たちを平らげていくのも愉しみだしな。 「地獄?」  不思議そうな顔で問いただされる。そういえば、地獄って概念自体が仏教由来なんだっけ? 少なくとも六道とかはそうだよな。 「えっと、仏教はまだ伝来していないんだっけ?」 「仏とやらの教えはそれなりに届いてるわよ。ボクは興味ないけど」 「そうか。まあ、でも、色々と覚悟することは必要なんだと思うよ」  今度そのあたりも色々聞いておこう。地方によってかなりの文化や経済の格差があることを、洛陽にいる間はつい忘れがちなんだよな。あそこはなんでも集まってくる場所だからな。  そんなことを考えていると、ふーんと何事か頷きながら俺の顔を覗き込んでいた詠が不意に言った。 「ああ、そうそう。あんたのその顔ね、許子将あたりならこう言うでしょうね。……王の顔をしてるってね」  詠に過大とも言える評価をされて妙な気持ちになりつつも、甘寧の待つ部屋へと向かう。 メイド姿の詠に導かれるままに俺がその部屋に近づいて行くと、向こうから月を連れた真桜がやってくるのが見えた。  扉の前で合流し、月と詠は一仕事終えたという風に立ち去ろうとする。 「あ、待った」 「はい?」 「え、ボクたちも同席させる気?」 「いや、そうじゃなくて……真桜。ここ控えの間あったよな」  言いながら、ひらひらと指で曖昧な方向を指す。真桜はちらとそちらを見て思案げに唸った。 「ああ、せやな。どうせ後で聞いてもらうことになるやろし、同席はせんでもそっちにいてもらおか」 「んー、わかった」 「はい。では……」  二人は壁に近づくと、ぽんと叩く。すると、壁の一部がひっこみ、ぽっかりと口をあける。甘寧が通された部屋に付属した隠し部屋だ。普通の邸なら護衛の兵が詰めていたりする場所だが、大使館にそんなことは想定されていないので使うこともないと思っていたのだが、話を聞いてもらうにはちょうどいい。二人を表舞台に出すのはまだ早いが、事情には通じておいて欲しいからな。 「じゃ、行くか」  二人が壁の中に消えたのを見届けて、声をかける。 「あいよ〜」  真桜はいたって気楽そうだ。彼女が深刻になったら、それはそれでかなり不安ではあるが。と言っても特に何か構えることがあるとは思っていない。甘寧の意図が何にしろ、謁見の間での行為に比べたらインパクトは格段に落ちるからな。  部屋の中に入ると、そこは重い沈黙に満ちていた。……歓待しているんじゃなかったのか、華雄。恋と華雄、それに甘寧が加わった三人で話に花が咲いているとは思わなかったけれども。  俺たちの姿を認め、椅子から立ち上がる三人。その中で、華雄と恋は後ろに下がり、俺と真桜が彼女たちの座っていた椅子の前に立つ。 「どうぞ、お座りを」  甘寧に声をかけ、自分たちも腰を下ろす。すっとしなやかな動作で甘寧が椅子に座ると、華雄と恋、それぞれが得物を携え、俺たち二人の後ろに立つのがわかる。殺気や闘気はまるで発していないが、この二人がいるというだけで、普通の人間にとっては尋常ではないプレッシャーだろう。さすがに甘寧はそれを気にしている様子はなかったが……。 「おはようございます、思春はん。今日はなんの御用ですやろか?」 「孫権様から伝言を預かって来た」  ずばり、と本題に入る。甘寧はそもそも武断の人と聞いていたから、言葉を弄することはないだろうと思っていたが、まるでそのままだった。 「孫権様は昨晩から閉門が申し渡されている。おそらく私にも今日、その命が下されるだろう。そこで、早い時間に来させてもらった」  早朝の訪問の理由を延べないといけないと思ったのだろう、思い出したように言う彼女に先を促すように手を振る。 「北郷一刀を罵倒したことに関しては謝罪する、とのことだ」 「ふむ……?」  こうもあっさりと謝罪するか。孫権という人は、腹芸がうまい人なのだろうか。そうは見えなかったのだけど。 「その上で、あの時の行いは、孫仲謀の意が六分であると心得られよ、と」  一拍おいて、甘寧は言葉を続ける。 「私ごときに孫権様のお心が断じられるものではないが、あれは、自分の意志だけではなく、政治的行為でもあったということだろう」 「……つまりは、呉の中には、大使が体の良い人質だと考えとるやつらが相当数おるっちゅうわけかいな」 「呉だけではなく、蜀も、な」  彼女の言葉に顔を見合わせる俺たち。珍しく真桜が苦笑いを浮かべる。 「こりゃ、誤解を解くんは大変そうやで」  たしかに大使館制度はいまだ魏と各国の間でしか行われていない。蜀と呉の間では施行されていないのだ。この状況だけを見れば、宗主国が人質を要求していると解釈する者が出てくるのは避けられないところだろう。  考え込む俺たちを、甘寧はじっと見ていたが、ふるふると頭を振ると、体を俺の方へと向けた。 「一つ、言っておく」  明らかに俺向けの言葉に顔をあげると、仏頂面の中に、とてつもない意志の強さを持った瞳とぶつかる。 「此度のこと、貴殿が憎いわけではない。ただ、義を通したまで」  真っ直ぐにそう言うのが、なんとも彼女に似合っている気がした。 「ただし……再び蓮華様が命を下せば、私は刀をぬくだろう」  がちゃり、と背後で金属の音が鳴る。体中の毛がそれだけで逆立つ気がした。 「我等を前にその言葉、覚悟の上か?」 「華雄、恋」  鋭い闘気を上げている二人に釘を刺す。俺のことを護ろうと動いてくれるのはありがたいが、天下無双の二人だけに、威嚇の言葉だけで殴られているような衝撃を味わうことになる。 「俺が……いや、俺たちがそうさせなければいいってことだよな」 「恨みは、ない。無闇に狙われるなどということはないと思ってもらおう」 「いまんとこはそのあたりが落としどころやろな」  ある意味、この言葉は安全の保証でもある。闇討ちにあうようなことはないと側近である甘寧が言葉にした以上、孫権は反対派をまとめきって、暴走させたりはしないという宣言となるのだから。 「では、たしかに伝えた。これにて」  そう言って立ち上がる甘寧にあわせて、俺と真桜も立ち上がる。そこへ、後ろから声がかかる。 「どうだ、甘寧。一つ試合ってみぬか?」  華雄の声に慌てて振り返るが、思いなおして口をつぐむ。昨日も中途半端に終わったことだし、不完全燃焼を解消したいというなら、一度やらせてみるのも手ではある。もちろん、怪我をさせるようなことは……。 「命をとるどころか、治らぬ怪我もさせんぞ。この主殿が許してはくれぬからな」  っと、華雄に先回りされた。 「昨日味わえなかったものを味わっておくのも一興だろう」  もちろん、一対一でな、と付け加える華雄。恋も興味はあるのか、甘寧の方を見ている。見つめられている甘寧は少し考えていたようだが、ついに首を横に振った。 「いや、止めておこう。我が刃はあくまで呉と蓮華様のもの」 「ふむ。引き止めて悪かったな」  そうして、甘寧の言に、華雄はあっさりと引き下がってくれたのだった。  正使である真桜が甘寧を送り出し、俺たちは彼女が戻ってくるまで部屋で待っていた。詠と月も控室から出てきてもらっている。この後は皆で朝食を摂ることになっていた。 「恋、残念だったな」  華雄がぽん、と恋の肩を叩いて、慰めの言葉をかける。 「恋さんが、甘寧さんと戦いたかったのですか?」 「……最近、鍛練でも、華雄ばかり」  月の言葉に、少ししょんぼりと恋が応える。お腹もすいてそうだ。しかし、実際のところ、いかに鍛練であろうと、恋につきあえるのは広い天下のうちでも華雄くらいだろう。逆に華雄につきあえるのも恋だけだろうけど。俺や真桜では鍛練してもらうのはこちらってことになってしまう。それはそれでやってもらっているのだけどな。 「……んー、でも、華雄ってばとんでもなく強くなってるんでしょ。切磋琢磨するにはいいんじゃないの? ボクには武人の高みはよくわからないけど」 「……ん……」  詠の言葉に少し困ったような顔になった恋が華雄のほうを見る。華雄はしかたないな、という風に肩をすくめる。 「こやつと私では、強さにたどり着くやり方が異なるのだ」  眉根をしかめて、懸命に言葉を選ぶ華雄。 「そうだな……。私は理想形とでも言うべきものがある。腕の動き、脚の踏み込み、間合い、拍子、打ち込みの角度、そういうもの全てに究めるべきものがある。そこを目指して、体や動きを近づけていくのが私の鍛練だ。だから、一人でやろうと相手が誰であろうと大した違いはない。  一方、恋は本能やひらめき、経験を糧にして、それを体にしみこませていく。誰かの戦いを見るだけでも、こやつはそれを呑み込むだろう。私ももちろん鍛練の折りには変化はつけるが、しかしな……」  ほう、と感嘆の溜息が三つ重なる。どうやら月と詠、それに俺が揃って華雄の言葉に息をついたらしい。一つのものを究めるということは、人の心を動かさずにいられないものだ。 「……どうしても、じゃない」 「そうだな。おや、真桜が帰って来るな。飯を喰いに行くか」  そう言った時、真桜の姿はどこにも見えなかったが、すぐに彼女が扉を開いた。それを見て、俺たち三人は再び息をつくしかないのだった。  恋たちとたっぷりの朝食を摂った後、真桜と共に俺は自分の部屋へと戻ってきていた。恋の食べっぷりがかわいらしくて、ついついいっしょにたくさん食べてしまうのが困りものだ。以前、洛陽で恋、季衣、猪々子というメンバーで食べた時の財布の軽くなりようもすさまじいものだったけれど。  ふと、同行した彼女が一言もしゃべらないことに気づいた。あの真桜が何も話さず、己の中に沈んでいるようだった。 「どうした、真桜?」 「……」 「真桜?」 「え、あ、ごめん。たいちょ、ちょっと考え事してた」  反応の無さに心配になりかけたところで、ようやく応えてくれる。 「どうした?」 「あ……うん。ゆうべ、たいちょに言われたことと、さっきの思春はんのこと考えとったんよ。うちにできること、ってなにかなって」  真摯な声で話し始める真桜に、うん、と相槌を打つ。 「大使館制度っちゅうんは、うちらで言うたら呉と魏の連絡を円滑にして、呉におるうちとこの商人や旅人たちを保護するのが目的やんな? そのためにいろんな権限も与えられとる」 「そうだな。魏、蜀、呉と国があるが、どうしても距離がある。だから、何事か起きて国家の間で調整をしないといけないとなってもすぐ対応ができない。それを緩和するために、俺たちにはある程度のことまでは本国の華琳に計らずとも物事を決定する権限が与えられている。それこそ現地で困った魏の民がいれば助けられるし、呉で大変なことがあれば、手助けをすることもできる。あるいは、呉の申し出を仮受け入れすることもできる。もちろん、大きなことは後々華琳の認可が必要になるけどな」 「うん、そやんね……んー。こう、もうすこしでまとまりそうなんやけどなー」  そう言いながら、うーんうーんうなりだす真桜。俺はその間に手帳を取り出して、工学知識を書きためた頁を外す。書簡を綴る紐でリフィルの穴を閉じ振り返ると、いまだに真桜はうなり続けていたが、その一方でこちらを気にしてもいるようだった。 「はい。約束したもの」 「あ、うん」  受け取ろうと手を伸ばし、けれど受け取らずに俺を見上げる真桜。 「ほんとに……ええの?」 「ああ」  はっきりと言い切る。 「ただ、実際できるかどうかは俺にもわからないぞ。たしかに俺の世界じゃ実用化されていたけど、実験する上で危険なこともあるだろうし、効果に対して費用がかかりすぎて現実的じゃないものもあるだろう。だが、この世界でこれを託せるのはお前だけだ、真桜」  実を言えば、蒸気機関の他にも、自動車なんかも簡単な構造は書いてあるのだが、こちらでそれが再現されるのはなかなか難しいだろうな。機構的には真桜なら理解しそうだけれど。 「……ん、わかった」  神妙な顔で俺の手から、その一綴りを受け取る真桜。だが、彼女はそれを受け取った途端、にへっと笑って見せた。 「いやー、愉しみやわー。どんな絡操がつまっとるんか、想像もつかん」  言いながら、ぎゅっと抱きしめるようにする真桜。何かから護るように、その中にあるものを畏れるように。 「たいちょ……ありがとな」 「うん」  真桜は中身を見ることもさることながら、少し考えをまとめたい、とそそくさと部屋を出て行った。  だから、俺は彼女が部屋の扉を出る瞬間に呟いた言葉に何か返答を返すことはできなかった。 「ありがと、うちを……信じてくれて」  ただ、彼女がいなくなったその場所を見つめて、微笑むこと以外には。 「今度は雪蓮と陸遜さんか」 「そうらしいわ」  俺と真桜の二人は執務室から呼び出されて、再び応接間へ向かっていた。孫権さんのことについては誰かが話に来るだろうとは予測していたが、女王と現任の筆頭軍師とは。 「いまは、朝と同じく華雄はんが相手してるわ。あん人も、たいそな官を持ってるだけに色々と苦労をおしつけてもうて……」  すまなそうに言う真桜に少しひっかかるものを感じて、俺は足を止める。数歩行き過ぎて、真桜は不思議そうにこちらを振り返った。 「真桜。一ついいかな」 「ん?」  とてとてと戻ってくる真桜。いつも通り彼女の腰に下がっている袋に入った道具たちがかちゃかちゃと音を立てる。 「華雄も祭も……あとは、いまは恋も、俺の部下だ。心情的に、お前が俺の部下でいてくれるというなら、彼女たちにも遠慮しないで同輩として接してほしい。いまの立場も加えて考えればもっと気安くていいはずだしな」  あー、と妙な声を発する真桜。 「そかあ、たしかに……同輩、かあ」  真桜にとってみれば、同輩、というのは元から仲の良い凪、沙和しか想定していなかったろう。彼女たちより後から華琳の下へ馳せ参じた将は幾人かいるが、いずれもその時点である程度の力量が認められていた人物で、真桜たちのように華琳の下に来てから将として育てられたという立場ではない。だから、彼女たちにとってほぼ同格の仲間というのが考えにくくてもしかたない。 「もちろん、すぐにとは言わないけどな。あんまり遠慮しないでくれ、と言いたいだけさ。真桜のほうが先輩風吹かせたっていいくらいなんだからな?」  下手な冗談に、にやりと笑って、真桜は頷いた。 「わかったわ。今度みんなと話してみるわ」 「ん、よろしくな。ごめん。急ごうか」 「止めたり急かしたり、たいちょはせわしないなー」  そんなことを言い合いながら、俺たちは小走りに廊下を急ぐのだった。 「蓮華さまの件ですが〜、あの場は酔っていたということにしてくれないでしょうかぁ」  疲れ切った表情の──また雪蓮に絡まれていたらしい──華雄を帰した後、歓談の最中に、陸遜さんがそう言い出す。そういや、俺の世界でも孫権と言えば酒癖が悪いので有名だったが……。 「乱心にしても多少理由がないと、格好がつかないのよね」 「もちろん、ご本人と思春ちゃんには、しばらく蟄居していただくことになりますぅ……」  つまり時系列を少しいじって酒宴の最中に俺と真桜を侮辱して出て行った、ということにでもするということだろう。孫権をとことん追い詰めようと思わない限り、そのあたりが穏便に落ち着くところだろう。  しかし、真桜は難しい顔をしている。 「んー……」 「だ、だめですかぁ?」 「いんや、そのあたりはどうしてくれてもええねんけどな。蟄居って処分がな」  真桜は何事か考えているようで、眉根が寄っている。俺は何かフォローをしようとして、しかし、彼女の真剣に考えこむ表情に口出しすることを控える。 「甘いかしら? もし危険を感じているなら、今後思春には殿中での帯剣を許可しないことに……」 「あー、ちゃうねんちゃうねん」  譲歩をひねり出す雪蓮に対して、ぱたぱたと手を振る真桜。 「あん二人に蟄居されてもうちらにとってはなんの益もあらへん。呉にとっても損失のはずや。せやから……そう、どちらも得になるようにしておきたいんや」 「ふぅん?」 「うん、せやな。まずは甘寧はんを貸してほしい」  考えがまとまったのか、晴れ晴れとした顔で提案する真桜。 「思春ちゃんをですかー?」 「せや。これから、その説明するわ。でも、うち、口が上手いほうやないし、わからへんところあったら言うてほしい。ええやろか?」  こくり、と頷く陸遜さん。雪蓮はおもしろそうに真桜を眺めている。 「うちらは呉のことを知らん。いや、そりゃ頭では知っとるけどな。実地では知らん。たぶん、雪蓮はんらが洛陽を知らんよりひどいやろ。長江も、軍事的な距離としてしか認識してへん。これじゃ、大使でございとふんぞりかえってもいい仕事はできひんやろ。ただいるだけやったら、蓮華はんが言うとった通り人質と変わらん」  喉が渇いたのか、茶を一気飮みする真桜。馴れない内は、交渉ごとで延々としゃべっていると、緊張もあいまって喉が渇くよな。 「せやから、うちは呉を知りたい。呉の土地を、民を、道を、田畑を、江を知りたい思うんや」  そうか、と思った。  これが、真桜の出した答えなのだ。俺が昨晩託したこと、そして、大使という仕事への。 「まずはこの国を支えとる江水をよう知りたい。せやから、うちは江をめぐって、海を見て、この呉という土地を水の上から見よう思とる。その案内役に思春はんが欲しいんや」 「たしかに……江水を一番よく知っているのは思春だし、水の民の内情を見せられるのもあの娘でしょうね」 「もちろん、陸上でもほうぼう見ておきたいことはあるからな。そん時は、蓮華はんを案内に立ててほしい」  そこまで言って、真桜はいつも通りのあの笑みを浮かべた。ちら、と俺のほうを向く瞳に、元気づけるように頷いてやる。 「どやろ。うちらにとっても孫呉にとっても損にはならへんやろ?」  雪蓮と陸遜さんは顔を見合せ、何事か通じ合ったのか、陸遜さんのほうがこくりと頷いた。 「そうね……。それは、真桜だけで行くつもりかしら? 護衛の兵がいるなら出すわよ」 「うちとたいちょ、それにたいちょのおつきを連れてくつもりやから、問題ないやろ。華雄と呂布の二人がいたら、どんな護衛より頼もしわな。事務官は置いとくつもりやし、連絡は絶やさんようにするから、業務は滞らんと思うで。まあ、この館の整理やらあるし、出かけるんはもう少し先やろけど……あー、美以たちも誘えたらええけど、まだ着いてへんしな」  南蛮王にして、大使として活躍──活躍?──している美以は、一度本国に戻ってから呉に着任予定だ。以前受けた報告ではすでに本国から出立準備中だとなっていたが、南回りで建業まで来るのもなかなかかかるものだ。  真桜の言葉を聞いて雪蓮は少し考えていたようだが、ぽんと手を打った。 「わかったわ。蟄居の代わりに、水の上では思春、陸では蓮華。それにどちらにも亞莎をつけるわ」 「亞莎はん?」  亞莎というと呂蒙さんかな? 男子三日会わざれば刮目して見よ、って慣用句の元になった人だっけ。こっちでは女の子だけど。 「うん。いい経験になるかな、と思うのよね。穏や冥琳についてばっかりじゃね。あれはあなたたちに悪い感情もないし、どうかしら」 「そうですね〜、ついでに戸数調査や、地勢の調査も亞莎ちゃんにしてもらうと助かりますぅ」 「ええよ。せやったら、詳しいことは亞莎はんと詰めるってことでええかな?」 「はい〜。城に帰ったら早速亞莎ちゃんに言っておきますねぇ」 「よし、これで蓮華の件は……っと、面罵された副使殿はこれでいいのかしら? 一刀」  唐突にふられる。三対の視線が俺に急に集まった。 「ん? ああ、もちろん。俺も呉は見てみたいしな。だいたい、孫権さんも雪蓮も間違っているよ。曹操の愛人ってのは罵倒じゃない。事実を言われて怒ってもしかたないだろう」  別に華琳との関係を吹聴してまわるつもりはないが、隠すつもりもない。華琳を愛していること、あの意地っ張りの小さな女の子に愛されていることはいっそ誇るべきことだろう。あ、いや、小さいというのは背や胸のことではないぞ、華琳。 「一刀」  いやに鋭い声。すっと立ち上がった雪蓮が俺に向けてぴしりと姿勢をただす。 「ん?」 「私の方こそ、あなたを侮っていたと謝るべきだったわ、ごめんなさい」  その言葉と共に、孫呉の女王が、俺に向けて頭を下げていた。 「え、なんで……え?」  混乱する。たしかに、孫権さんは──その実罵倒になっていなかったとしても──俺を罵倒する意図があったろうし、それを謝られるのはわかるが、雪蓮自身のことで謝るとはどういうことだろう。 「雪蓮はん、あかんて、たいちょはほんとそこらへんわかっとらんお人やから」 「そうなの?」  頭を下げた格好のまま、片目だけあけて真桜のほうを伺う雪蓮。 「名を売ることなんかまるで考えてへん。そもそも自分の名ぁにどれだけの価値があるかすらわかっとらんのや」 「はー、天のお人というのはそういうものなのですかぁ」 「どやろ。たいちょの地ちゃうかなあ」  なんだかよくわからない批評をされているが、そこはかとなくけなされているような気がするのは、あくまで気のせいだよな、うん。 「ふーん、でも、おもしろいわね。一刀って」  ようやく頭を上げて、雪蓮がウインク一つ。予期しないことばかりが起きて、どぎまぎしてしまう。 「ともかく、蓮華と思春のことは手配しておくわ。あとは、船とか」  せっかくのことだし、みんな、仲良くなれるといいわよね、と実に愉しそうに言って、雪蓮と陸遜さんは出て行った。あの様子だと、俺たちの視察旅行についてきかねないので、注意しておかないとな。 「あー」  ぐでーと椅子にもたれかかるようにしている真桜の横に立つ。 「疲れたかい?」 「せやなあ、国の頭と渡り合うんは、やっぱ疲れるわ」 「でも、立派だったよ」  本当に立派だった。昨晩、俺は少し重責を乗せすぎたのではないかと心配していたのだ。いくら、部下として扱えといったって、この世界そのものをいっしょに背負うように言うのは少々やりすぎではなかったか、そう思っていたのだ。  しかし、彼女はそれをやり遂げてくれた。自分の中で消化し、一晩で一つの指針を立ててくれたのだ。呉の政を知り、呉の民を知り、呉の土地を知る。それは、きっと、彼女にも俺にも、そして同行する華雄や詠たちにも大きな糧となることだろう。 「よくやった、真桜」  ぽんぽん、と頭をなでる。 「へへー」  どや、えらいやろ、とでも言いそうな自慢げな笑みが、とてもいとおしい。つい、彼女の体に覆い被さるようにして抱きしめてしまう。 「ん……」  あちらからも手が伸び、背中にまわる。ぎゅっと二人の距離が縮まる。  どんっ。 「ん、なんの音だ?」  離れることはせず、顔だけをあげて周囲を見回すも、音の響いてきた場所はよくわからない。誰かが廊下で重いものを落としたか転んだかしたのかな? 「大丈夫やろ」  そう言って、俺の体を引き寄せる真桜。彼女のたわわな胸に抱き留められ、弾力のある肉の合間に顔がはさまれるような格好になってしまった。だから、俺は彼女が何事か呟いているのはわかったが、その言葉を判別することができなかった。 「控えの部屋に詠たちがおるんやった……ま、いまは許してもらお」  どん、どんっ。  さっきと同じ音が、二、三度鳴ったような気がしたが、ひたすらに真桜を誇らしく思ういまの俺にはどうでもいいことだった。  大使館の片づけも終わり、通常業務がはじめられそうになった時には、着任から二週間ほどが経過していた。その間、視察旅行の行程を呂蒙さんと相談したり、魏からきている商人たちの元締めと会ったり、あるいは現地の商人の中で洛陽で商売をしたいという人達と会見したりと、なかなかに忙しかったせいで、街をぶらつくのはこれがほとんどはじめてのことだった。 「詠、そういえば、月は来なくてよかったの?」 「まだ馴れてない街だからね、ボクが危ないところと大丈夫なところを確認してからじゃないと」 「しかし、とうた……いや、月さまが出歩くとなれば私だけではなく、恋もつくだろう。そこまで気にしなくていいのではないか?」  同行しているのは詠と華雄。真桜は仕事で忙しく、恋は月について館にいる。お土産になにか買っていってやる約束だ。肉まんとごま団子でいいかな? 「危ないってのはそういう意味じゃないわよ。貧民街とか、あんまり見せたくないでしょ」 「ふむ……たしかに」  皆で話をしながら、ゆっくりと街をまわる。地図を見て頭の中に構造は入れてきたが、知らない街だけに、どこに歩いても新しいものを見ることになって、驚き、かつ愉しい。 「魏の領内ならね、貧民街にしろ、犯罪にしろ、こいつの力で支援や撲滅に動けるけどさ。なにしろ呉だし。手出しもできないのにひどい現実を見せてもかわいそうでしょ。あの娘、感じやすいから」 「為政者としては、色々感じ取れる方がいいのはたしかなんだけど。いまは月にはメイドしてもらっているしな……。美羽や七乃さんには貧民街の視察とかよくさせていたけどね」 「ふーん。袁術にねえ……。お嬢様育ちには辛いんじゃないの?」  きょろきょろとあたりを見回しながら歩く詠、本当に月に見せて大丈夫な場所かどうかをチェックしているらしい。少々過保護な気もしないでもないが……。 「くっ、くっくっ」 「どした?」  抑えるように低く笑う華雄にこちらもひそめた声で訊く。 「いや……詠もずいぶんとお嬢様のはずだが、と思ってな」  ……そりゃあ、男性器を知らないくらい箱入りだものな。少し前を歩く詠を、改めて観察する。  ひらひらの服が恥ずかしいと本人は言っているが、短いスカートのかわいらしいメイド服がよく似合っている。服があんまりにもかわいらしいとたいていは服に着られている印象になりがちだが、詠はそういう部分がまるでなく、颯爽と着こなせているのがさすがという感じだ。隣にお姫様然とした月がいるから気づきにくいが、この娘も充分にお姫様なのだ。 「それに月さまはあれで色々と庶民の生活にも通じておられる。案外、感じやすいというのはあやつ自身のことなのではないか?」  それはたしかにあると思う。頭がまわるせいだろう、彼女は俺たちなんかよりよほど多くのことを感じ取って、一つのことから様々なことを想起する癖があるように思う。あるいは、詠に限らず軍師勢に共通の特徴かもしれない。 「ちょっとー、はやく来なさいよー」  周囲を見回しながら先に行ってしまった詠に、小走りに追いつく。 「すまんすまん。そうだ。だいぶ見てきたけど、ここの街並みはどうかな? 二人とも呉に比べたら北や西の出だから、印象が違うと思うけど」  実際、洛陽と比べると、建業の街並みは比較的開放的と言える。長安や洛陽は歴史が古く、かつ戦禍に何度もあっていることもあって、どこの通りも防衛を兼ねた白塗りの分厚い土塀が続く光景が多かったが、本来あれは、宮城の建築なのだと思う。建業は宮城に近い文武の大官の館の群れはともかく、商業地区や町民たちの住まう部分はそれほど壁が続く印象はない。もちろん、町全体はいくつかの区域にわかれて、ぐるりと巡る壁に護られているのだが。 「そうだな、風を取り入れやすくしているのは特徴だろうな。北ではもう少し密閉性が高いだろう」 「それと、雪のことをまるで考えていない構造よね。涼州じゃありえないわ」  さすがに目のつけどころがそれぞれに違うな。実際、建業で雪の被害が出るというのはなかなかないことだろうし。 「これは街並みじゃないけど、市に海産物がならんでるのはさすが海に近いところよね。こんなにたくさん生の魚なんて見たのはじめてよ」 「たいてい塩漬けか乾物だしな。……こっちなら寿司ができるかなあ」 「なによ、それ。あ、こないだ月があんたにもらったとかいうやつ?」  おや、三国会談の時のことか。よく覚えているものだな。気に入ってもらえたのかな。 「あれは巻き鮨だけどな。にぎり寿司は生の魚の切り身と、酢飯を握るんだ」  そういえば、わさびはあるのかな……。からしはあるけど、わさびって日本食以外ではあまり見ないしな。 「生のままか? 危なくはないか?」 「うーん。たしかに火を通す方が安全なんだけど……」 「料理法は秘伝って場合も多いものね。なにか工夫があるかもしれないわよ。こっちの人間に聞いてみたら?」  三人でそんなことを話しながら、なおも街を歩く。このあたりは商業地区で、いろんな店がならんでいる。たしか東側にも同じような商業地区があったから、こちらは西の市といったところかな。見ていると、洛陽でも見るような文物がならんでいたりもするが、やはり地域の差なのか、値段のつけ方が結構違う。 「色々あるなー。だいぶ見て回ったし、そろそろ買い物もし始めるか……あれ、陸遜さんたちかな?」 「あ、ほんと、穏と亞莎ね」  人波の向こうに、あのぽわわんとした軍師の姿を見つける。その隣に控えるようにしている呂蒙さんは、最近打ち合わせで大使館によく来るのでようやく顔なじみになった感がある。  こちらの視線に気づいたのか、陸遜さんがおーい、と手を振ってくる。ほんわかした笑顔で手を振られるとうれしくなるね。  こちらも当然振り返す。すると、隣にいた呂蒙さんも気づいたようだが、すごい勢いで睨み付けられた。その鋭い凝視に少々進む足が遅くなる。 「ああ、あんた」  俺の様子に気づいたのか、詠が含み笑いで話しかけてくる。 「んん?」 「亞莎に睨まれてると思ったら間違いだからね。あの娘、無茶苦茶眼が悪いから、無理矢理見ようとしてるのよ、あれ」 「そうなのか……眼鏡換えた方がいいんじゃないか?」  ふう、よかった。密かに息をつく。呂蒙さんまで大使排斥派に入ったかと思って不安になっていたところだ。軍師という立場の人間に敵に回られると、後々残る禍根を含めて、非常に厄介な事になる。 「近くは見えるから大丈夫なんだって。ま、ボクなら違う眼鏡にするけど」 「呂蒙はいまでこそ軍師におさまっているが、元は勇猛で鳴らした武人。気配を探るので充分なのかもしれんな」  いずれにせよ、人には人のやり方がある。彼女から敵視されていないことをまずは喜ぶとしよう。そんなことを思っていると、二人との距離はかなり縮まっていた。呂蒙さんも俺たちが見える距離になったのか、睨むような目つきをやめて、微笑んでくれている。 「こんにちはぁ。今日は視察ですかあ?」 「こんにちは。視察、というほどのものではないですけどね。街をぐるっと回ってみようと思って。だいたい終わりましたけど」  見るべきところはだいたい見たと思う。残るは実際に店に入ったりして、街の雰囲気を味わってみなければなるまい。 「あとは荷物になるといけないと思ってしてなかった買い物よね」  ごそごそとメイド服のポケットから書付を取り出す詠。どうやら、色々と頼まれ物があるらしい。メイドの仕事はそこまでやりこまなくていいと言っているのだが、中途半端は嫌いな性分なのだろう。 「それならぁ、穏たちがお店を案内します。その後お食事をいかがですぅ?」  陸遜さんがにこにこと笑顔で提案してくる。地元の人間に案内してもらえるのはありがたいが、彼女たちにも用事があるだろう。 「でも、そんなの悪いですよ」 「もちろん食事のお代はこちらが持ちますよぉ?」 「いや、もっと申し訳ない」  慌てて首をふると、陸遜さんはなぜだか知らないが、泣きそうな顔になってしまう。 「でもでも、孟徳新書のお礼をしないと!」 「この間、美味しいお酒をいただきましたよ?」 「たしかに受け取ったわね」  なあ、と詠に同意を求めると、詠も証言してくれる。 「あ、あの程度では、あのご本の万分の一の価値もありません! ぜひ! ぜひご馳走させてください!」  なんだかむやみやたらと興奮している陸遜さん。市を歩いている人達もざわざわと注目しはじめてきたようなので、これはまずいかな……。 「あのご本は、曹操さんの叡智と孫子の心血が融合した、も、もう、それはそれはすばらしいものでぇ……」 「あ、あの、穏さま、こんなところで……」  熱弁をふるい、体をもじもじと揺らす陸遜さんの袖を恥ずかしそうにひっぱる呂蒙さん。 「呂蒙さんはいいんですか?」 「は、はひっ?」  聞いた途端、袖で顔を隠される。恥ずかしがり屋の人なのだろうか? 「いや、呂蒙さんは大丈夫なのかなー、と……」 「だ、大丈夫でふっ」  噛んだ。いま、噛んだよな? 「ど、どうする? 俺は構わないと思うけど……」 「どうせ食事はして行くつもりだったし、好意に甘えてもいいんじゃない?」 「行くなら行くでさっさと決断すべきだな」  華雄の言う通り、注目はさらにひどくなっている。案内してもらうことに同意して、俺たちは、体──の特に一部──をぶるんぶるん震わせる陸遜さんをひっぱるようにしてその場を離れるのだった。 「では〜、どのあたりに案内いたしましょうかぁ」  とにもかくにもと飛び込んだ屋台でひとしきり茶を呑むことでなんとか落ち着いたらしい陸遜さんが、そう切り出してくる。 「ボクは日用品がほとんどね。あとは、お茶」 「俺は香料を扱っているところと、お菓子の売ってるところかな。華雄はなにかある?」 「うむ……。特にはないな。つきあって回っているうちにほしいものも出るかもしれん」  華雄はあんまりものに執着するとかないものな。俺もあんまりないけど、すぐに部屋が狭くなるのはなんでだろう。 「そうですかぁ。では、そうですねぇ。詠さん、日用品の書付は、見せてもらってもいいですかぁ?」  詠が書付を渡し、軍師二人で話をはじめる。俺は、その間に、あからさまにほっとした顔をしていた呂蒙さんに、こっそり話しかけてみる。 「どうしたの?」 「あ、えぅっ、いえ、し、書を所望されなくてよかったな、とその……」  相変わらず袖で顔を隠してうつむく呂蒙さん。顔が赤くなってるところを見ると、やっぱり恥ずかしがり屋なんだろう。書については、軍師勢ぞろいだし、一度行くと他の店に梯子したりして長くなりそうだ。俺自身も呉で流通している書物は見てみたいところだが、それは後にしておかないと、仕事の書類ばかり溜まってしまう。 「それではぁ、北郷さんの香料の店にまず行って、そこから戻って順に日用品を……」 「あー、陸遜さん」 「はいぃ?」 「一刀でいいよ。あ、呂蒙さんもね」  公的な場ならともかく、いつまでも堅苦しく呼ばれても距離が縮まらないと思い、口を挟む。 「そうですかぁ? じゃあ、穏のことは、穏って呼んでくださいね。華雄さんもぜひ〜」 「あ、あの、私は亞莎で、ですっ」  その答えに驚愕する。それは、二つとも……。 「え、でもそれって二人の真名だよね? いいの? 俺には真名ないんだけど……」 「もちろんです〜。祭さまは当然としましてもぉ、雪蓮様も冥琳様も一刀さん──って呼んでいいんですよね?──一刀さんに真名を許してますし、明命ちゃんも真名を許してるって話……だよね、亞莎ちゃん?」 「はい。明命からの手紙に一刀様のことは、それは、もう色々と……その……」  穏の問いかけに、茹で蛸のように真っ赤になった顔を袖をあげて隠す亞莎。ああ、これは、明命からどこまで聞いているのやら……。呆れたような顔の詠の視線がとても痛いです、はい。 「私は、うむ、真名で呼ぶのはいいが……」  二人の勢いに押され気味の俺に対して、少々戸惑い気味の華雄。彼女は真名を呼ぶのは吹っ切れているが、真名を呼ばれることにはどうしようもない忌避感があるから、ことは厄介だ。 「はい〜。華雄さんのことは、祭さまからお手紙をいただいています〜。穏たちは姓名で呼ばせてもらうので、ぜひ真名を呼んでください〜」 「はい。私もどうか」  おやおや、手回しのいいこと。側にいないというのに助けてくれるとは、本当に感謝してもしきれない。華雄は二人の言葉にそっと頷く。 「さて、親交も深まったことだし、そろそろ移動しましょ」  一人、すでに──俺を除く──他の全員と真名を許し合っている詠が、まとめるようにそう言って、俺たちは買い物へと動き出した。 「ところで、香料ってなにを買うの?」  市のいくつかの店を通りすぎつつ、詠は帰り道に買っていくものを物色している。穏の計画だと、日用品は詠にこうしてチェックしてもらって、帰り道で一気に買ってしまう予定らしい。 「ああ、金木犀の香油が足りなくなってね」  他にもいくつかほしいものはあるが、まずは金木犀だ。洛陽から持ってきたのが、もう無くなってしまった。 「金木犀って男の人が使うには、甘すぎませんか〜」 「ああ、いや、これは、桂花への手紙への香りづけだから。あいつの名前にちなんでのことだけど」  正確には、金木犀を含んだ木犀の類は全部桂花らしいのだけど。一般的に多いのは金木犀と銀木犀だろうか。ただ、紙が手に入った時ならいいのだが、竹簡の場合、香りづけするには、多少強い香りじゃないと困る。 「……あんた、もしかして、みんなにそれをやってるわけ?」  なぜかぴたりと足を止めた全員の視線が俺に集まっている。 「ああ。桂花や春蘭たちみたいにそのままちなめる人は簡単だけどな。あとは、その人から想起する香りの香木とかを焚いて……」  香木は狭いところで焚かないとなかなか染みついてくれないのが困りどころだが、あえかな香りを出すにはむいている。地和たちみたいに遠くにいる娘たちに出した手紙はいつ届くかわからないので、着いた頃には香りが飛んでいる可能性もあるが……。この点、正直、自己満足もある。 「さすが女たらし……」 「三国の種馬……」 「でも、きちんと面倒を見るって意味では……」  なんだか女性陣が道の端に固まってひそひそと話しているのだが、一体どうしたと言うのだ。たまにちらちらとこちらを見てくる視線がむずがゆい。そして、華雄だけは口を開かず、にやにや見つめてくるのが余計に何とも言えない気分にさせてくれる。 「ええと、みなさん、行きますよ?」  しぶしぶといった感じで円陣を崩し、歩きだす一行。すすっ、と俺の横に亞莎が寄ってきて、相変わらず顔を隠して話しかけてくる。 「手紙と言いますと、その、一刀様の提案で、郵便官制度というのをはじめられたとか……?」 「ああ。郵便武官ね。俺の提案自体よりは、すでにあった駅伝制を復活、整備させたというのが重要なんだとは思うんだけどね」  駅伝制というのは、替馬と食事を用意した駅と、馬車の用意された伝を街道沿いに設置し、公文書を迅速にやりとりする制度だ。この駅伝制は、ずいぶん昔から存在していたらしい。いまや伝説になりつつある周王朝の頃からあったという話もあるくらいだ。問題は、その維持と整備をどれだけするかということだ。主要な街とその間に置くのは当然として、全土に普及させるとなるとなかなかに費用がかかる。 「俺が提案したのは、公的な軍事上、政治上の伝令だけじゃなくて、民間の手紙や小包も扱うようにしようって部分だね」  そこから得られる収入で、より整備を楽にするのが狙いだが、実はそれだけではない。通信を楽にすることにより、識字率を上げることも目標として掲げられている。 「しかし、それだけの需要があるでしょうか? 庶人には、手紙にそれほどの金銭負担は難しいでしょうし……」  亞莎の疑問はもっともだ。俺も上申した時に、その点を華琳から指摘されたからな。 「ああ、それは、配達の種類をわけたんだ。高いのは主に商人の取引に使われていて、これらが他の等級の料金の不足を補っている感じかな」 「四等から特等までだっけ? 四等級が駅伝のある街まで、三等級がその周囲の邑まで、二等級は指定された場所まで……って聞いたけど。一等が商取引が主なんだっけ」  詠が視線はそこらの店先に固定したまま、会話に参戦してくる。詠も故郷が魏の支配下にあるから、郵便制度を利用したか、しようとしたことがあるのだろう。 「うん、一等は相手の印をもらってきて、送り主までその証拠を届けるんだ。証拠能力があるから、商人同士でやりとりするのに使われてる。特等は、これは一等の内容に加えて、手紙や小包の中身を保証する。破損したり、中の書類や金が足りない、となったら、賠償金が出る。偽証したら死罪だから、詐欺はまだないけどね」  駅伝自体の数も段々と増えている。今後は駅伝の運営を民間に委託したり、配達に関わる武官が資金を出しあって運営するという形に移行できるか等の試行が予定されている。 「理想は、全土を一月以内で結ぶことかな」 「そ、そのようなことができるものでしょうか?」 「うーん、馬を乗り潰しちゃったり、採算を考えなければ、いまでもできるはずだよ。ただ、騎兵や伝令の練度をあげる意味でも、速度の向上は考えていきたいね」  呉だと、水上交通が使えるから、案外とはやくできそうな気もする。魏の場合は、領内の開発が進んでいて、道がしっかりしていることが大きいわけだけれど。 「課題は領外とのやりとりだね。俺たちへの手紙も襄陽で止まって、あとはまとまって建業まで来ているくらいだしな」  俺や真桜宛の書簡の場合、国家と国家の通信として特別に早く来る場合もあるが、そんなのはよほどの事態で、稀なことだ。実際はある程度まとめて送られるのでどうしてもタイムラグが出てきてしまう。ま、そういうずれを補正するために、俺や真桜がここにいるのだ。 「でもぉ、軍事行動として行われてることを各国で共通化するのは難しそうですよねぇ」 「そうね。とはいえ、魏で成功して、それが一つの形としてできあがってしまえば、普及させるのは難しくないかもよ?」 「独自に作り上げて共通化するよりは楽そうですが……。ただ、呉でもそのまま使えるかどうかは……」  いつの間にか──一人はメイド姿とはいえ──軍師三人の議論がはじまってしまう。足を止めることもせずに、ああでもないこうでもないと話しているのを見ると、どこの国でもこういう図は変わらないのだな、と思ってしまう。魏の三軍師は稟と桂花が激しく議論しているのを、風がおもしろそうに眺めている図というのが多かったけど。 「しかし、器用なものだな」  それまで通り店を覗き込みつつも話を続ける三人を見て、華雄が感心したように言う。 「彼女たちにとっては、あの程度、肩慣らしだろうからね」 「ふうむ」  そんなこんなで俺の要望通り、香料の店につき、お目当ての金木犀に加えていくつかの香油や香木を買い込む。それらを抱えて店を出ると、その様子をじっと見ていたらしい詠がぽつりと呟く。 「もしボクに手紙を出すようなことがあったら、なんの香りをつける?」 「白檀かな」  少し考えて口にする。へぇ、と穏が声を上げた。 「詠さんはもっと活発な香りを想像してましたぁ」 「んー、でも、詠の強さの本質は優しさだと思うけどな」  きっと彼女は月を支えるために、ずっと努力し続けていたのだと思う。月という少女を守り、導くことを心に誓って。それらの根っこにある優しさこそ、彼女の本質だと俺は思う。それを現すには、白檀の豊かで甘い香りこそが似合う。 「な、なに言ってるのよ、この莫迦。キザ男!」  ぼんっ、と音でも立てそうな勢いで真っ赤になる詠。その足が俺の足をげしげしと蹴ってくる。うわ、痛いって。荷物を抱えているせいで、上手く避けることができない。  くっ、こういう時は護ってくれないんだな、華雄。 「と、ともかく、まだまだ買い物があるの。あんた、ちゃんと荷物持ちなさいよね!」  ひとしきり蹴って満足したのか、そう言ってまだ赤い顔を隠すように小走りに駆けていく詠。こっそりと笑いを漏らす三人を引き連れて、俺は彼女の後を追うしかないのだった。 「邪魔するわよ」  かかった声に、書類から顔をあげる。振り返ってみれば、戸口に立つ人影が一つ。 「ん、ああ、詠か」  彼女を招くために立ち上がる。机についている間にすっかり暗くなってしまっていたので、壁にかかった灯火に順に火を入れていく。 「山越のこと、少しわかったから、まとめてきたわ」  手振りで示した卓に竹簡をどさりと置く詠。山越のことを調べるように、というのは稟からの命でもある。元々大使に選定されていた彼女は、呉に派遣されたら、異民族である山越の調査を行うことになっていた。俺たちがそれを引き継ぐことになったのだが、メイドの傍ら、詠の最初の仕事として行ってもらっていたのだ。  こんなに早く片づくとは予想外だったが、甘寧たちとの視察旅行まで一週間ほどしかないこの時点で第一報がまとめられるのはありがたい。最初の報自体は稟は知っている事も多いと思うが、俺たちがしっかりと把握するためにはしかたない。 「報告書は後で読むけど、詠の口からも聞きたいな。お茶でも淹れるよ。あ、でも、お酒がいいかい?」 「……穏からもらったの、まだある?」 「ああ、あるよ。あれ美味しいからな」  実は、また詠といっしょに呑めるのではないか、となんとなく験担ぎでしまってあった、などと言ったら笑われるだろうか。 「じゃあ、それで」  瓶を取り出し、つまみを用意する。この間干し棗が気に入っていたようだから、今日もたっぷり入れておこう。他にもいくつか用意して、卓に置く。 「まず、山越に関しては異民族として捉えるのはやめたほうがいいわね」  俺が注いだ杯をお互いに一度干してから、話をはじめる。 「異民族じゃないの?」 「異民族ではあるけど……他の異民族のように同じ文化や習俗を持っているとは思わない方がいいわ。そうなれば、当然考え方が違って、対処が変わるでしょ」 「はあ……ばらばらなんだ?」  質問を繰り返すのに少し苛ついたのか、詠の眉根がぎゅっと寄る。 「ああ、もう。ちょっと待ってよ。順に説明するから」  ごめん、と軽く頭を下げる。たしかに話の腰をおられるのはいやなものだよな。しばらくは黙っていることにしよう。 「まずね、越というのは、北方における五胡みたいに南方の異民族の総称で、元々は百越って呼ばれていたのよ。もちろん、百ってのは多い、いろんなって意味よ」  つまり、いろんな部族、民族の集団なんだな。となると、鮮卑や烏桓、羌と言った民族集団といっしょくたにしてはいけないってわけだ。 「一時期は越って国もつくっていたくらいだけど……いずれにせよ文化基盤が共通化してるというのは望むべくもないわ。部族ごと、へたしたら、村落ごとに異文化でしょうね」  それは厄介だな。つながっているなら頭を抑えれば済むが、一つ一つつぶしていくしかないとなると懐柔にしろ高圧的に出るにしろ、攻略はかなりの手数がかかることになる。 「しかも、現状の山越は、中央で権力闘争に破れたのやら、ただの山賊やら、戦禍から逃げてきた農民やらといった漢人が相当数入り込んでいるわ。たいていは漢人のほうが武器やら戦の駆け引きに優れているから、支配者的立場に立ってる。そうね、漢人に率いられた越、混血の集団、漢人の賊。これら三種の混在が主な現状と言えるんじゃないかしら」  詠の説明を呑み込もうとじっくり考える。山越というのはたくさんの集団で、一個のものじゃない、しかも、その構成すらばらばらで、おそらくは衣服や装備のレベルで食い違っているに違いない。 「山越って名前の通り、ほとんどは山間部に住んでいるわ。平野部に進出していたのは、すでに孫呉が吸収するか討つかしているというべきかしらね。場所によっては、たまに平野に出てきて街の民と取引することもあるようね。そうでない場合は略奪や、自分たちでものをまかなっている。ざっと説明するとこんなものね。質問は?」  そこまで言って、彼女は酒で口を湿らせている。詠が触れなかった部分について質問を浴びせてみる。 「人数についてはわかる?」 「全体の数に関しては無理。呉の官ですら把握してないわ。そうね、一集団はだいたい五百から五千ってところらしいわ」  十倍の差か。これまた規模すら揺れがあるな。腕を組んで一つ唸る。 「じゃあ、連携についてはどう?」 「攻めたてれば、やはり近くの集団が助力にくるみたいね。山間部を使っての情報伝達は思ったよりも早いわ。さすがは山の民というところ。それでも、十万なんて数にはなりえないわ」  数だけで言ったら、呉は充分な兵士を揃えて対抗することはできるだろう。しかし、平原でぶつかりあうわけではない。見通しの悪い山間部で、地の利も無く戦えば、十倍の数を揃えても苦戦を強いられるに違いない。 「うーん。具体的に、呉と山越との利害が対立する要因ってなんなんだ?」 「あら、目のつけどころがいいわね」  棗をかじっていた詠が、にやりと笑う。 「だいたい、呉の連中は山越そのものを敵視していて、その点を忘れてるのよね。まず、さっきも言った通り、賊そのものの連中もいるの。こいつらは、隊商に略奪をしかけたりするわけだから、当然討つべきね。次に、普通に山で暮らしているだけの越に関しては、漢人の進出そのものを脅威に思っているふしがあるわ。こういうのとはきちんと協定を結ぶべきでしょうね。税収が得られれば最善だけど、そこまでいかなくても交易を促進することで益にはなるわ。あとは、やむにやまれない時だけ略奪に走るような、どっちつかずの連中もいるから、硬軟取り混ぜて対処するのが正解よね。ただ、やっぱり時間がかかるわね」  さすがは軍師。問題点だけではなく、その解決の方針まで提示してくれるとは。素直に彼女の能力に感心し、ほう、と感嘆の息をつく。 「でも……呉の山越討伐は、人狩りという要素も大きいのよ」 「人狩り?」 「そ、労働力確保。どこの勢力でもやってることだけど、呉の場合は顕著ね。いえ、南蛮をまるごと抱えた蜀のほうがひどいかしら」  異民族を討伐し、無理矢理移住させるなんてことは、この時代の労働力確保の手段としてはオーソドックスで非常にお手軽なものだったらしい。以前討伐して、兵として取り込んだ内烏桓などその代表的なものだ。下手をすると、占領地域の漢人も人狩りの対象になる。  しかし、この手法は問題が多い。元来異なる風土に住む人々をそのまま連れてきても充分な生産力は期待できない。そのために重税をかけ、それが反発を呼ぶ。また、異なるものは周囲との衝突を招く。住み着いていた土着勢力と移住民が軋轢を生じるのも当然と言えるだろう。  しかし、それらの不利益を考慮してもなお、戦乱をはじめとした様々な要因で目減りした労働力を確保する必要があったのだ。 「働き手を得るためや自衛のために山越を討伐し、それに反発した他の山越が蜂起……あとは憎しみが憎しみを呼ぶ、か」  酒杯を揺らしつつ、苦々しく思う。 「最近は呉も落ち着いて、人狩りをするなんて必要がなくなったから、だいぶましみたいだけどね。とはいえ、長年絡み合ったものを解きほぐすのはなかなかに大変そうよ」 「直に関わるわけにはいかないけど、問題は根深そうだな。ありがとう、詠。とても参考になった」  礼を言うと、少し詠の顔が赤らんだ気がした。あるいは、それは酔いのせいだったのかもしれない。 「ま、詳しいことは報告書を見て。……で、これ、踏み込むの?」  あまり詳しいことを突き詰めようと思えば、呉の国内問題に首を突っ込むことになる。興味本位で探れば、雪蓮とていい顔はしないだろう。 「できれば。ただ、詠が危ういと思ったら……」 「それくらいはわかってるわよ」  ぱたぱたと手を振る詠。そして、じっと睨み付けるようにこちらを見上げてくる。 「わかったわ。探れるだけは探ってみる。ただ、こそこそするつもりはないわよ」 「ああ。詠の思うようにやってくれ」 「ふん、ずいぶん信頼してくれちゃって」  忌ま忌ましげに鼻を鳴らしても、その言葉の調子で、照れているだけだというのがなんとなくだがわかる。彼女はそれを隠すようにぐいと酒杯を干した。 「もちろん、信頼してるさ。俺を頼ってくれたんだ。それくらい当然だろ」  その言葉を聞いて、詠はじっと何事か考えるように空になった酒杯を見つめていた。そこにゆっくりと瓶から注ぐと、すっと酒を喉に落とす詠。再び注いだ一杯をも飲み干した後で、彼女は俺の眼をまっすぐ見つめて、囁くように言った。 「ボク、あんたのこと嫌いだったのよ」  後ろから思い切り殴られたようなショックを感じる。ぐわんぐわんと頭が揺り動かされるような衝撃。目の前が暗くなり、視野が急激に狭まる。見えるのは、詠の真剣な顔だけ。  その時、俺は重大な事に気づいた。  ああ、俺はこの気の強い、けれど、本当はとても優しい女の子が大好きだったのだ、と。  かたかたと酒杯を揺らしながら、なんとか気持ちを落ち着けようとする。喉からしぼり出した声は、わすかに掠れていた。 「そ、そうか。これからは……気をつける。気安く呼んだりとかしないように……、その……」  俺の様子を見て、ぷっと吹き出す詠。あれ、からかわれてた? 「莫ぁ迦、ちゃんと聞きなさいよ。嫌いだった、って言ってるの。いまも嫌ってるとは言ってないわ。それに、嫌っていたのはあんたに会う前からよ」 「会う前?」  彼女の言葉にほっとする。でも、嫌われてたのは変わらないのだな。 「ああ、会う前ってのはおかしいか。長安に住み着いた頃からよ」  というと、ちょうど俺がこちらにいない頃のことだ。それこそ、深くも関わっていないし、いったいどういうわけで……。 「嫌悪……いえ、憎んでいたのね」  ぐっ、と杯を握る彼女の手に力が入るのが見える。彼女の言葉通り、俺は憎悪の対象となっていたらしい。敵視されたり、忌避されたりというのは経験があるが、これほど強い憎悪の炎を向けられたことはない。思わず体が緊張するのがわかった。 「あ、ごめん。さっきも言った通り、いまは違うわよ。ううん、違うか……いえ、でも……少なくともこいつ個人には……」  なんだかうつむいて自分の感情と思考の渦の中に入り込んでしまった詠をしばらく置いておいて、俺も落ち着こうと松の実をぱくつき、酒を流し込む。 「でも……なんで?」 「ん、簡単よ。あんたがいまのこの大陸の秩序をつくったから」 「は?」  顔をあげ、事も無げに答える詠に、あっけにとられる。 「あんたは自分で思っている以上に華琳に愛されてるのよ。あんたを手放さないために、この大陸の覇権を諦めるくらいに。ううん、あんただって、本当は気づいてたんじゃないの。いまのこの三国体制をつくったのが、あんたがこの世界から消えないための、覇王の最大限の譲歩だったって」  三国の歴史の流れ、定軍山での秋蘭救援、赤壁の勝利。薄々、自分が世界から排斥されかけていることに気づいていた。それでも、やはり華琳たちに勝ってほしかった。  しかし、華琳のほうは、どう思っていたのか。あの意地っ張りで泣き虫な女の子は、俺と世界を……。  そんな事が頭の中を駆けめぐり、だから、答えるのが一拍遅れた。 「そんな……ことは……」  沈黙。  わかっているはずのことを、どちらもあえて口にしない。こちらの顔色を見たのか、詠の瞳に気づかわしげな色が流れる。 「逆恨みみたいなものよ。秩序の中からはじきだされた者の、ね」  皮肉な笑みが、彼女の顔を彩る。いや、あれは自嘲なのだろうか。 「要は、あんたはボクにとって、乱世の理不尽さの象徴になっていたのね。なぜ、ボクたちは勝てなかったのか。なぜ、あんたは現れ、消えなければならなかったのか。なぜ、華琳の下だったのか、なぜ、この大陸を制するのは月じゃなかったのか。なぜ、なぜ、なぜ……。問うてもしかたない答えを求め続けて、ボクは憎しみに堕ちるしかなかった」  闇い、闇い瞳を彼女は惑うように動かす。それは、どこを見ているのか。いや、いつ、を。 「ま、実物を見てみたら、ぜーんぶすっとんじゃったけど」  不意にそれまでとはまるで違う、意地悪そうな笑みを浮かべて、彼女は言う。棗を美味しそうに平らげて、酒を流し込むのではなく、しっかりと味わうように呑み始める。 「一番辛かったのはあんたと華琳だったでしょうにね」 「詠……」  卓の上に落ちた棗の小片をころころと転がしつつ言う詠は、さっきまでと違い、俺と目線をあわせようとしない。 「あー、酔ってるわね。こんなこと言うつもりじゃなかったんだけど」  酔っている、というのも嘘ではないだろう。この間は二、三杯でやめていた詠が、覚悟を決めるためか、口を回らせるためか、ぱかぱかと杯をあけていたのだから。 「あんたが悪いのよ。簡単に信頼してるなんて言うから」  ぶー、と口をとがらせて言うのがかわいらしい。しかし、ふざけた雰囲気に流しているが、それで喜んでくれているなら、俺としてもうれしい限りだ。 「簡単、ではないよ。でも、俺は詠のような頭脳も、真桜のような天才的なひらめきも、華雄のような強さもないからね。周りのすごい人達に助けてもらうしかないんだ。その人たちに返せるものがあれば、俺はできる限りのことをしたい。その中でも、信じることは難しいけれど大事なことだと思うんだ。うん、そう、俺は詠を信頼しているよ」  しっかりと言い切る。彼女の顔が見る間に朱に染まり、そっぽを向く。 「まあ……悪い気はしないわね」  その後に続いた呟きは、小さいけれど、けして聞き逃すことはできなかった。 「ボク、あんたのこと好きみたいだし」  けく、と変な音が喉の奥から飛び出る。赤いのから一転、真っ青になった顔がすごい勢いでこちらを向く。 「あ、違う。いまのなし、なし!」  がたんと立ち上がり、ぶんぶんと手を振る詠の勢いに、少し哀しくなる。 「……なしなの?」 「いや、そりゃ、嫌いではなくなったわけだけど、それがすなわち好きという愛情に変化するかというと、そのあたりは……」 「俺は好きだけど」  猛烈な勢いで言い訳らしき言葉を連ねていた詠が、唐突に止まる。 「はぁ?」  何か信じられないものを見たかのような表情で俺を覗き込む詠。 「俺は詠のこと好きだよ」  明確に意識したのはついさっきだが、気づかせてくれたのは他ならぬ彼女自身だしな。 「ど、どうせ、ほ、他の女にも同じこと言ってるんでしょ」 「そりゃあ、好きな相手にはね。でも、同じじゃないよ。詠を好きって気持ちはただ一つのものだろ」 「す、すきすき連呼しないでよ」  青かった顔に朱が戻る。立ち上がると、一瞬びくりと肩が震えたが、それ以上動くことなく、近づいていく俺をじっと見つめている。 「だって、好きだからな」 「でも、あんたには、華琳がいて、真桜がいて、霞がいて……」  俺の大事な人達の名前を言い募る彼女の顔はなんだか混乱しているようで、軍師然とした怜悧さはどこへやら、眼が泳いで言葉といっしょに動いている手の勢いもいつもより大人しい。 「うん。そして、詠がいる」 「うわ、悪びれもしない」  片手で彼女の肩に触れると、反射的に身構えるのがわかったが、段々とその緊張が取れていく。 「だって、みんな好きだからな」  ぐっと引き寄せると、抵抗することなく、俺の胸の中に倒れ込む小さな体。 「……あんたって、ほんと狡い男」  首筋まで真っ赤に染めた詠が、腕の中で、そう呟いた。  ひょいと抱えあげるとひとしきり暴れたが、俺の腕から落ちるような事はなく、寝室まで連れて行くと、大人しくなった。  寝台の前で、顔を近づける。本当にこの子は可愛いな。きつい雰囲気がある上に眼鏡をかけているから隔意を感じる人もいそうだが、ぎゅっと寄せてる眉根を和らげて笑みを見せたら、これほどの美少女はそうそういない。  すっと彼女の瞳が閉じる。導かれるように柔らかな唇に己のそれを重ねる。俺の胸につかまっていた彼女の両手が持ち上がり、首の後ろで閉じあわさる。  触れるだけの口づけでも、触れ合うところから感じる熱を幸せに感じる。  そっと唇を離し、寝台に横たわらせる。 「それで、好きってのはほんと?」  角度によっては碧に光るやわらかい髪をなでながら、耳元で囁く。 「……狡い上に意地悪ね」 「うん」  詠は俺の体にすがりつくようにしながら、きょろきょろと眼を泳がせていたが、観念したように言葉を吐き出す。 「好きでもない男にこんなこと許すくらいなら、舌を噛み切ってるわよ」 「いまはそれで我慢しておくか。いつか、正面から言ってもらおう」 「ぜぇーったい、言ってやんない」  噛みつくように言う詠をくすくす笑いながら抱きしめる。そのまま後ろにまわした手で帯を解いていく。 「うー、手慣れてる……」  言われる通り、多少は経験があるわけだが、しかし、それはこの際置いといてほしいものだ。答えずに、顔中にキスの雨を降らせる。詠は嫌がるでもなく、頬を赤く染めてこちらの動きにあわせてくる。 「これから、色んなところに触ったりするけど、怖がらないでな?」 「すこ、すこしは勉強してきたわよっ」 「そっか」  にっこりと笑って見せるが、実はかなり不安だ。勉強したというのが余計に。  メイド服をはぎとり、俺も服を脱いでいく。下穿き一枚になると、同じく下着姿になって、恥ずかしげに体を縮こませている詠がじっとこちらを見上げているのがわかった。 「ん? どした」 「な、な、なんでもないわよ!……ただ、その、それなりに筋肉ついてるのね」 「そうか? まだまだだけどね」  自分の体を見下ろしても、まだまだ贅肉が多すぎるように思う。これでもだいぶ鍛えられて絞られたのだが……自分の身を守るにもまだまだこれでは足りないだろう。ましてや、いま、こうして俺に身をゆだねてくれる彼女を守るには。  寝台に腰かけ、左の手で彼女の手を握る。少しびっくりした眼を向けてきたが、きゅっと握るとたしかな力で握り返してくれる。 「詠、うれしいよ」 「え、な、なによ、いきなり」 「こういう風になれて、うれしいんだ」  いっしょに横になり、彼女の肌の上をなでる。肌に触れられるのは馴れてきたらしく、腕や肩口をなでてやると気持ちよさそうに喉が鳴る。 「あ、う、うん、それはその、ボク……も……ひゃっ」  腕が胸に近づくと、体が震える。さすがにまだまだ下着で隠しているような場所に触れられるのは抵抗があるらしい。指の方向をそらし、首筋を顎に向けてなであげる。くすぐったげに身を震わせ、機嫌のいい猫のように眼を細める詠の姿を見て、俺は長期戦を覚悟するのだった 「ふっ……ふう……こんなのって……変、よ、ね」  汗と唾液に塗れて、二人の肌がこすれるのが心地いい。どうやら彼女も同じように感じてくれているらしいと思えるようになるまで、どれくらいかかったろう。口づけを交わしながら、詠の体をなでさすり、緊張が取れたところで、舌を肌に這わせ、再び緊張してきた彼女の口に舌を割り入れる。そんなことを繰り返しているうちに、ようやくのように上の下着を外して、かわいらしい鴇色の突起を拝めたくらいだ。まだまだ先は長い。 「変?」 「男女のっ、こういう……ことっ」  胸元に顔を埋める俺の頭を抑えるようにして、彼女は言う。膨らみに舌をのばしつつ、俺は答える。 「まあ、そりゃあ、何も知らなかった詠にとってみたら、変なことに思うかもしれないけど……」 「莫迦。もうそんなっ、ふぅっ、こと言ってないわよ」  ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき乱される。ふと、俺はいつだったか、髪を梳いてもらったことを思い出す。 「あのね。こういうっ、ことを、あっ、そんな……艶本でも見たけど……くふぅうう……あんたのことを思ったら、体がいまされてるぅうう、み、みたいに、熱くっ」  あむ、と乳房を口の中に入れる。どうやら、思っていた以上に体と心がほぐれてきているらしい。行為に酔っていなければ、こんなことを詠が口走るはずがない。 「熱く、なってっ、ああ、なにこれっ、いやっ、そこっ」  舌をとがらせて、乳首をいじり出すと、詠の声が一段と跳ねる。舌でつっつくタイミングにあわせ、もう一方の乳首も指でこすりあげる。 「んゃあっ、ふう、ああっ」  詠が嬌声をあげている。そのことだけで、俺にとっては幸福感を引き出すに充分だが、それ以上に刺激をきちんと受け取ってくれるということで安心していた。なにしろ男性器の存在──実状ではなく、存在、だ──すら知らなかった詠だから、くすぐったがったり、痛がったりと接触を変に受け取りかねないと思っていたのだが、そういうことはなく、緊張や不安で固くなっているのを除けば、かなり敏感なほうのようだ。 「俺も熱くなっているよ」 「でも……これぇ……で、いいの? なんかボクだけっ、されて、るぅ……」  乳房を愛撫しつつ、だんだんと指を下に走らせていく。脇腹や太股はすでに触れているが、肝心の部分には下着越しでもまだ触れていない。おへそで指を遊ばせたあと、ついに熱を発しているそこへと近づく。 「いいんだよ。女の子は受け入れる側だから、まずほぐさないといけないんだよ」 「な、なら、いいぃいいっ」  下着の上から軽く指で押すと、ぐじゅり、と音が鳴った。熱い。とても熱い。詠の体の奥から発するものが、指先を通して俺の体をさらに燃え立たせる。 「や、これ、なに? え、なに? なんかびりびりっ、ああっ、ふう……んっ」  秘唇の形をなぞるように、布ごしにこすりあげると、彼女が背をそらし、びくりと肌が震える。 「いや、なんか、え、わけっ、わかんない。なんか走るっ」  ぎゅう、と抱きしめられる。密着した詠の肌がこすれるたびに、彼女は鳴くような喘ぎを漏らす。 「ねえっ、これ、なんなの、ねえっ」  目尻に涙を浮かべ、救いを求めるような叫びに、思わず口づけをする。舌を差し込み、彼女の舌を誘うようにつつくと、ぎこちなく応えてくれるそれ。 「ふっ、はふう……は……」  口の中で泡立てた唾液を、必要以上に彼女の口に流し込む。飲み込みきれず、口の端から漏れ出るそれを、舌を使って彼女の首筋に塗り込める。 「俺を感じてくれてるってことだよ」  安心させるように囁く間も、愛撫するのをやめない。いまや唯一布に覆われた彼女の陰部は、俺の指の動きに応じて熱くとろけるような蜜を吐き出して下着を汚していた。 「で、でもっ、これ、ああ、ボクのからだと、あんたのからだが、溶けちゃうっ」 「大丈夫、その波に任せてしまって」  するり、と下着と肌の間に指を入り込ませ、肉の芽を探り当てる。 「だめ、とけちゃ、や、やああああああっ」  すがりつく詠の爪が、ぎゅっと俺の体に食い込んだ。 「じゃあ、下着下ろすよ?」 「ん……」  もうぐっしょりと濡れそぼった下着を下ろしていく。つつましやかな陰毛と、それに隠れてちらちらと見え隠れする赤い秘唇が現れ、ごくり、と喉が鳴る。 「あ、あんたも脱ぎなさいよね!」 「ああ」  下着を、脱いだ服を集めてあるところに置き、自分の下着を下ろす。すでに興奮した俺のものが、弾かれたようにまろびでる。 「きゃあっ」 「詠?」 「な、なによそれ!」  寝台から起き上がって、俺のことを指さされる。どうやら、彼女のあげた悲鳴の原因は、俺の猛り狂うものにあるらしい。 「なにって……」  ナニですよ、と言うしかない。そりゃあ、初めて見る代物だろうが、そこまで驚くほどのものだろうか。 「詠、大丈夫か?」  不意に近寄ってしまったのがいけなかったのだろう。 「ちょ、ちょっと、いやっ、ボク、そんなの知らない! こわっ、きゃあっ」  パニックに陥ったのかやたらめったらに腕を振る彼女をなんとかなだめようとした途端、下腹部を強烈な衝撃が襲った。 「うぐっ」  そのまま床に崩れ落ちる。 「ごめんっ、大丈夫!?」  寝台から身を乗り出してくる詠。だが、そんなものに構っている余裕など俺にはなかった。内臓をかき回されるような痛みと気持ち悪さ。間欠的に襲ってくるその二つに、体が悲鳴を上げる。だが、そのままそれを口にするわけにはいかない。ぎりぎりと奥歯を噛み締め、苦鳴を呑み込む。 「しば、しばらく話しかけないでくれ、頼む」  痛みのあまり怒鳴りつけてしまいそうなのを、なんとか抑えつける。それ以上の事はできるはずもなく、床の上でうずくまる。  しばらくすると、なんとか痛みと気持ち悪さは我慢できるレベルに落ち着いてくる。俺はとんとんと跳ねて痛みを逃そうとする。 「すまん、もう大丈夫だ」  寝台の上でおろおろとどうしていいかわからない風の詠に声をかける。 「あ、えっと、ほんと? ち、ちっさくなってるわよ? それでもでっかいけど……」  さすがに拳で打たれて、勃起を維持するのは難しい。いまは、感覚が変になっているが、縮こまっているほうだろう。 「ああ、興奮すると大きくなるもんなんだ。いまはびっくりして元に戻っちゃってるけどね」 「そ、そうなんだ……」  なんだかぶつぶつと、そんなの書いてなかった、とかなんとか言っている詠をこれ以上驚かせるのも悪い、と下着をつけなおす。とりあえず、男性のものが見えていなければ大丈夫だろう。 「ってことは、こないだの湯浴みの時は、普段の状態だった、ってわけ?」  寝台にへたりこむようにしている彼女の体を抱きしめる。あぐらをかいた上に、彼女を乗せている感じだ。パニックはすっかりおさまったらしく、彼女は大人しくそこにおさまっていた。いや、詠が大人しく俺に抱き留められているってのは充分混乱状態なのかもしれないけれど。 「ん? ああ、そうだね。でも、好きな女の人の裸を見たりとか、興奮すると血が集まって大きく固くなるんだ」 「へぇ……あんたの、大きすぎない?」 「いや、比べたことはないけど、そこまで大きいわけじゃあ……」  これまでは普通に使えてたわけでして、と言いたくなるがぐっとこらえる。 「今日は、これくらいにしておこうか? 段々馴らした方がいいだろ」  実際、こうして詠を抱きしめていられるだけでとても心地いい。彼女を気持ちよくすることはできたわけだし、今夜はこのまま抱きしめて眠ってしまってもいい。 「……なんか、あんたに悪いじゃない」  口をとがらせて抗議する詠。自分が悪いと思ってしまっているのだろう、余計に態度が硬い。別にそこまで気にしてはいないのだけどなあ。そりゃあ、一つになりたいとは思うけど。 「昔だったら、なんとかして一気にいっていたかもね」 「なによ……。いまは女もたくさんできて余裕ってわけ」  あらあら今度は拗ねちゃったぞ。詠ってば、普段から素直になれないところがあって可愛いと思っていたけど、この感情の起伏の激しさは、より一層その感情を揺り動かすな。駄々でもこねられたら、頭をなで始めてしまいそうな勢いだ。 「違うよ。戦だよ」 「……ごめん」  それ以上何も言わなくても通じてしまうのが、乱世に生きた同士というところだろうか。そのことを少し、悲しくも思う。 「でもね。いまこの時でも、人は離れ、別れ、死んでいくのよ」  うつむいた詠の顔は見えないが、その声に真剣味があふれているのはよくわかった。 「一期一会、か、たしかにね。でも、怖いのはしかたないよ。知識だって最近仕入れたものなわけだし、そうすぐに覚悟できるものでも……」 「その知識だけど」  そう言って顔をあげ、俺の方へ首をねじってくる詠はすっかり軍師の顔になっていた。 「ボク、艶本で見たのよ。女の人を縛ったりしてする方法もあるんでしょ」 「ああ、まあ、あるけど……」  どんな変態本を見てしまったのやら。頭がくらくらする。 「だから、ボクの腕を縛ってしまえばいいと思うの。暴れないように」  そう提案する詠の顔は至って真剣なものであった。                         (第二部第二回・終 第三回に続く) 北郷朝五十皇家列伝 ○周家の項抜粋 『周瑜に発する周家は、七選帝皇家の一つにして、長い間帝国本土の政治の監視の任を帯びていたが、費帝誅殺と、その後の義烈帝の即位、新帝擁立要求(詳しくは刀周家の項を参照のこと)に伴い、皇族会議において周家から第十五代皇帝(明帝)を出すことが決定され、これに伴い、選帝皇家の称号と権限を鳳家に譲ることとなった。  このような事態は太祖太帝の時代から続く伝統的機構を崩すこととなり、相応の反発が予想されたが、時代の変化に対応するこの措置によって、様々な機構の見直しと刷新が行われ、結果的に帝国の命脈をのばし、明帝は中興の祖と呼ばれることに……(略)……  この時期、費帝の横暴に対して、西方の張家と、東方八家の楽家が動こうとし、明帝の即位を受けて取りやめていたことが、当時の史料の発見により判明している。  いずれも各家の印章ではなく、普段はけして用いられることのない北郷の印章を用いた軍事行動であり、これをして、太祖太帝時代から中央腐敗に対する地方抑止の命が存在していた証とされる。  もし実際に、それらの命が各家に下されていたのだとすれば、それが濫用され、帝位簒奪が起きなかったことは奇跡的であるとも、太祖太帝とその配下たちの絶妙な選択眼であるとも……(略)……  さて、周家は祖となる周瑜にしてからが逸話をさしはさまぬ史書においてすら美人であることを記されるほどであり、代々眉目秀麗な者が多かったとされる。  その最高峰といえば、やはり周瑜の双子の娘たちであろう。長じて江東の二華と呼ばれ、大周、小周と称されたこの双子の美しさは、あの曹操をして、「世が世なら、この双子のために戦を起こしていたやもしれぬ」と言わせたほどである。  曹操の子であり、母と同じく時代を代表する詩人となり、後に詩聖と称された曹植の最高傑作『洛神賦』は、曹植自身にとっては腹違いの姉となるこの双子のどちらかに捧げられたのではないか、という説は世上、古くから言われているものであるが、今のところそれを学問的に証明することはできておらず……(後略)』