恋姫†春秋 前段「呉越興亡史」 〜〜〜  春秋時代の最後を彩るのは、中華の南東、呉と越の興亡である。両国とも中原に覇をとなえるほどに繁栄しながら、戦国七雄には名も残らなかった。これから物語を進めるにあたり、この部分を概説しておかねばならない。  呉の始祖は周王家の大伯という人物で、この地を勾呉(くご)と称したというが、このあたりの血縁についてはどうやら後世の創作らしい。春秋時代は多くの氏族が周の血縁を自称したので、呉もその威光にあやかったのであろう。古代の越は百越と呼ばれる蛮族であり、やはり文字を持たなかった。呉に一世代ほど遅れて、越に中華の文明が伝わる。両国は兄弟のようにして発展していくことになる。越王の血筋は古代の夏王朝の末裔とされ、三皇のひとり禹を祀っていたが、これも呉と同じく創作であろう。  群雄が興亡する戦乱の歴史は、譲れぬ信念に己を縛った復讐者の歴史でもある。呉越が興隆し、滅んでいった歴史にも数多くの復讐者が登場する。ここでは三人の復讐者に寄せて、両国の興亡を語ってみたい。  中華では黄河文明が発展し、文字や青銅器を普及させていき、周王朝が立てられて中原と呼ばれる地域を支配した。一方、南方では長江文明と呼ばれる独自の文明が発展していた。春秋時代初期には両文明は既に出会っていたとされる。春秋後期、世界人口は1億人に届かない頃、中華世界の人口は1000万人程度で、前漢後期に一度目の人口崩壊を迎えるまで徐々に増加しているところであった。  紀元前600年頃、長江文明で最も先進的であった楚に、名君が登場する。荘王である。黄河流域の秦、晋、斉などは、どんなに強勢でも周王家をはばかって「王」ではなく「公」を称することにしていたが、楚は中原と不仲になった折、公然と王を称することにした。この荘王は、即位直後に親戚に誘拐されて閉じ込められ、救出されるという経験をしている。若き荘王が即位したのは、そんな骨肉の争いが常態化していた中であった。  この荘王は大胆な人物で、何を思ったか即位直後のゴタゴタを終えて王城へ戻るや、国務を放り出して酒色に耽り、「諫言する者は死罪」なる触れを出すのである。こんな王に周囲は呆れ、怒らせて死罪になるのも馬鹿馬鹿しいと誰も諫言しなかったのだが、遊興三昧を続けること三年後、伍挙という人物が「鳴かず飛ばず」の喩えを使って巧みに荘王の真意を尋ね、この堕落は演技であることを察する。さらに蘇従が正面から諫言したのを受けて、荘王はついに仮面を脱いで伍挙と蘇従を用い、悪臣数百人を誅罰し賢臣数百人を抜擢して国政を一新し、ここに楚の黄金時代が始まる。  このとき荘王を諌めた伍挙が、伍子胥の祖父(曽祖父?)とされる人物であり、災難を逃れて鄭などの他国に長期滞在することもあったものの、楚の名臣として知られている。荘王は豪放な人物で、歴史の古い中原の国に赴いても下手に出ることはなかった。酒色に溺れていたのは演技だったものの、荘王は面白いものが大好きで、一芸に秀でた名人を好み、美女や名馬も愛していたらしい。 〜〜〜  さて、ここで最初の復讐者が登場する。春秋時代屈指の大政治家のひとり、屈巫こと申公巫臣である。巫臣は荘王の後半生に登場し、荘王に仕えてその賢臣ぶりを発揮している。そのままいけば荘王の治世を支える堅実な臣下として、歴史にわずかに名を残して一生を終えていたであろう巫臣であったが、ひとりの美女の出現によって数奇な運命をたどることになる。  あるとき、陳の霊公が夏徴舒に暗殺されるという事件が起き、荘王は陳へ侵攻して夏徴舒を誅殺し、陳を一時併合(直後に復興)する。夏徴舒の母の夏姫は既に未亡人になっていたが、この夏姫という女性が、生涯に四度も若返ったとまで言われる大変な美女であった。夏姫の兄達は殺し合って死に、陳の王や大夫も夏姫の虜となって破滅するなど、夏姫と通じた男は身を滅ぼすと噂されていたが、荘王はこの美女を欲しがった。しかし巫臣は、「夏姫をわがものとすれば、荘王は美女を奪うために陳を攻めたと言われる。傾国の凶女に楚を滅ぼさせたもうな」と諌めたので断念した。その後も巫臣は職務に精励しながら、夏姫が王族や重臣を惑わすことが無いように警戒していたようである。  ところが、警戒していた巫臣もついに夏姫の魅力の虜になってしまう。荘王が死んだ後、子反という重臣が夏姫に近寄るのを遠ざけ、ついに巫臣は「女ひとりを救えずして、国を救えるか!」と決意する。この悲劇の美女を貰い受けることにして、楚では夏姫を幸せにはできないと判断し、駆け落ち同然に国を飛び出し、夏姫の故郷の鄭を経由して晋へ亡命するのである。巫臣ほどの大物が放っておかれるはずもなく、晋で大夫として迎えられるが、夏姫を狙っていた子反や楚の共王はこれに激怒、巫臣の一族を皆殺しにしてしまう。  親兄弟をすべて殺されたと聞いた巫臣は慟哭し怒り狂い、子反に対し「貴様は邪心をもって仕え、多くの無実の人を殺した。私はこれから貴様を戦いに奔走させて死なせてやる」と復讐を宣言すると、晋公に願って旅に出て、新興国の呉へ向かい、呉王壽夢に仕えた。そこで巫臣は文字を持たなかった呉へ漢字を伝え、水軍しか無かった呉に戦車を用いた陸戦を教え、さらに息子の屈狐庸を壽夢の臣下として残して晋へ帰国した。屈狐庸は巫臣の伝えたものを呉に定着させるとともに、自身も外交官として辣腕を振るう。巫臣が呉へもたらした文明開化は凄まじく、大発展を遂げた呉は長江の覇権をかけて楚と戦い、子反は七度も戦争に赴いた後、敗戦を責められて自害する。  その後も、中原を争って晋と楚が戦うと呉が楚の背後をおびやかしたので、楚は呉の南方の百越を支援して呉の背後をおびやかそうとした。これにより、部族に分かれていた百越は次第にまとまっていき、呉に少し遅れて文明も流入して発展が始まった。中原が停戦している時期も晋楚の代理戦争のように呉越の抗争は続き、「呉越同舟」の故事に見られるほどに仲の悪い関係になったのである。  夏姫は数々の男を誑かして破滅させた悪女とも、群がる男達に翻弄された悲劇の美女とも言われるが、最後は英傑巫臣の妻となって晋に安住し、一女をもうけたという。巫臣は最愛の妻を得たが一族皆殺しの不幸に遭い、残る半生を復讐に捧げている。そして巫臣は、名君荘王の賢臣から変転し大国楚を苦しめた波乱の生涯によって後世に知られることになる。  ところで、巫臣と駆け落ちしたとき夏姫は50歳を超えていたはずであるが、そこから移住して娘を生むなど、医学の発達した現代の女性でも難しく、まさか仙女でもあるまいし、当時ではまず不可能ではなかろうか。夏姫が伝説上の人物でないとすれば、前半生と後半生は別の女性だったと考えられる。想像するしかないが、実際には夏氏の母娘か何かだったのだろうか。 〜〜〜  巫臣の亡命から67年後、第二の復讐者が登場する。伍挙の子孫、伍員、字は胥である。人は敬意を表して伍子胥と呼ぶ。荘王や壽夢の孫の代になっていた。  楚の重臣の家系であった伍子胥の父伍奢は、転々とした伍挙と違って楚ひと筋に仕えて若い頃から賢臣ぶりを発揮し、暴君平王の時代には太子建の大傅となっていた。あるとき、太子建は秦の公女を妻に迎えることになったが、この公女が美女であると知った費無忌なる佞臣が平王に差し出してしまった。建は別の夫人をあてがわれ、幸いというか太子夫婦の仲は良くすぐに一子をもうけるほどであったのだが、費無忌は太子建の恨みを警戒して平王に讒言を繰り返して謀反の罪を着せる。教育不行き届きということで、建の大傅の伍奢が楚の王都郢へ呼び出され、死罪と決まる。費無忌は賢いと評判の伍奢の二人の子供たちも殺すべきであると言ったので、平王は二人に対し、父が死罪になりそうであるから申し開きをせよと出頭を命じた。また、太子建も殺すように命じたが、命令を伝えられた奮揚という忠臣の機転で建は宋へ逃亡する。  伍子胥と伍尚の兄弟は出頭命令が罠であることを察したが、伍尚は二人そろって父を見捨てるのは不孝であると言って伍子胥に雪辱を託して出頭した。伍子胥は逃亡し、伍奢と伍尚は郢で刑死する。死ぬ間際に伍奢は「胥はかならずおまえたちの無道を罰しに来るぞ。胥が生きている限り、おまえたちは不安で夜も寝られぬことになるだろう!」と言って王と佞臣の愚行を嘲笑したという。一時期は建と行動をともにした伍子胥だが、建が鄭で失敗して殺されると建の子の勝を守って呉へ落ち延びる。  筆舌尽くしがたい苦難の果てに、乞食同然で呉へ着き、呉の公子のひとり光が覇気にあふれた明主であると見た伍子胥は、光に仕えながら楚王へ復讐する機会を待つ。しかし王位の巡り合わせが悪く、光の従弟の僚が王位についていた。伍子胥は楚への出兵を再三提案するが、光は先に王位奪取を狙っていたので却下した。伍子胥は王位奪取のために専諸を推薦し、自身は野を耕して時節を待った。ところが、なんと楚の平王は伍子胥の復讐を待たずして郢で平穏に病没してしまうのである。これに狂死せんばかりに打ちのめされた伍子胥だが、復讐の対象を平王から楚国とすることでなんとか立ち直り、翌年王位を奪取した公子光(闔閭)のもと、呉の強化に乗り出す。  呉へは強国策のために賢人が招かれ、中でも斉の田氏の傍流であった孫武は有名である。また数年後、楚から伍子胥のように亡命してきた者がいる。その名を伯否という。伯否の父親は以前、楚の王位継承の紛争に巻き込まれて落命していて、育ての親は祖父の伯州犂であった。この伯州犂と、やはり親戚で郤宛(子悪)という温厚な人物が、費無忌の奸計に掛かって殺されてしまったのである。実際に郤宛を自殺させたのは嚢瓦(子常)という強欲な将軍であったが、郤宛は人望があったために非難が集まり、嚢瓦が最初にそそのかした費無忌に責任を負わせて処刑すると、楚の民は歓喜したという。こうして、仇の平王と費無忌の双方を討つことができなくなった伍子胥だが、楚打倒の激情は衰えることなく燃え上がっていくのだった。  当初、楚の国力は呉の数倍あったと言われているが、孫武、伍子胥、伯否らの活躍で急速に強化された呉に対し、楚は計略に翻弄されて疲れ、対外的にも孤立させられていた。満を持して侵攻した呉軍を楚軍は迎撃したが、柏挙では3万の呉軍に20万の楚軍が破られるというありさまであった。このとき、闔閭の弟の夫概は抜け駆けして勇戦し、戦功を称えられている。楚に残った名将沈尹戌の抵抗を排除して、ついに呉軍と伍子胥は楚の都、郢に入城する。楚の昭王は先に平王が太子建から奪った秦の公女の産んだ子であったが、妹とともに郢を脱して逃亡した。時に紀元前506年。伍子胥の亡命から16年後のことであった。  郢を陥とした呉軍であったが、長江から遠い楚の北部の守備兵たちが呉に抵抗しており、占領政策はなかなかうまくいかなかった。伍子胥は楚を完全に滅亡させるべく必死に昭王を探させたが、昭王は楚を慕う者達の手で匿われ、逃がされた。伍子胥は平王の墓を暴き、棺を開いて屍に300回鞭打った。これを聞いて、申包胥という楚にいたころの親友が手紙で伍子胥を諌めたが、伍子胥は「日暮れて途遠し。ゆえに倒行して逆施するのみ」と答え、楚を滅ぼす決意の固いことを伝えた。  申包胥は秦に赴き、昭王との血縁の情をうったえて必死に哀願し、ついに秦から援軍を出させることに成功する。さらに、郢攻略で自信をつけすぎた夫概は勝手に帰国して呉王を自称してしまう。さらに南から越王允常が呉へ侵攻したので、闔閭は楚を放棄して帰国し、夫概を追放して呉を奪還する。  伍子胥は復讐すべき仇、平王と費無忌を自らの手で倒すことはできず、故郷の楚に怒りを向けるしかなかった。だが、郢から撤退した後の伍子胥を見ると、自分が復讐の道具として強化した呉そのものに強い愛情を注ぐようになっていることがわかる。ひとりの哀しき復讐者が16年の歳月をかけて大陸随一の大国を壊滅に追い込み、いつしか一国の柱石に成長していた。 〜〜〜  呉が楚から撤退して10年後、第三の復讐者が世に現れる。越王勾践である。闔閭は楚から撤退をさせられた無念を晴らすべく、越王允常が没して勾践が継承した隙を突いて越に侵攻する。楚への復讐は不完全であったが、伍子胥はもはや呉のために戦うことに決めていたようである。ところが、苦戦する越軍が范蠡の奇策によって反撃し、闔閭は負傷してそれがもとで落命する。夫差が後継となり、勾践への復仇を誓って即位する。いわゆる「臥薪嘗胆」の始まりである。  夫差はなかなかの名君であったとされており、伍子胥もこれをよく補佐して国を強化し、越への復讐戦を挑んだ。ここで范蠡は戦いを避けるべきと諌めたのだが、勾践は応戦し、会稽にて惨敗して追い込まれる。これで呉は積年の悩みの種であった越を滅ぼし、江東江南を制するかと思われた。ところが、范蠡は伯否を買収して勾践の助命を嘆願させ、勾践も平伏して服属を誓い、これを夫差は許してしまう。どういう経緯か、ともに楚に復讐する同志であった伍子胥と伯否の仲がこの時期には完全に崩壊しており、勾践は野心を持っているから助命してはならぬと伍子胥が必死に告げたのだが、夫差は容れなかった。  勾践は2年間にわたって夫差に奴隷として仕え、ぼろを着て牛馬の世話に走るなどして働き、その後范蠡と交替して帰国した。この屈辱を「会稽の恥」といい、勾践はこれを深く恨んで復讐に燃える。勾践は質素に暮らしつつ政治は文種を、軍事は范蠡を師として越の強化に励み、一方で夫差は卑屈に仕えていた勾践の態度に野心は無いと判断し、意識を北方へ向ける。傾国の美女西施が夫差を篭絡したと言われるのはこの時期である。伍子胥は相変わらず越を討つように勧めていたが、夫差は中原に出るために斉を攻めた。夫差が凱旋しても伍子胥は喜ばなかった。あべこべに伍子胥は外交で斉に遣わされると、呉の命運に絶望して子供を斉へ預けて帰国した。それまでたびたび伍子胥と反発していた夫差はこれに怒り、伍子胥に剣を渡して自害を命ずる。伍子胥は忠言を聞かずに讒言を容れた夫差に怒り呆れ、自決して果てた。50〜60年の生涯であったと思われる。伍子胥の遺体は長江に捨てられたが、人々は伍子胥を慕って水神として祀ったり胥山という地名もできるなど、その激しい生き方は非常に愛情を注がれた。  西施の影響がどれほどあったのか定かではないが、夫差が中原で諸侯と会盟して覇者になろうとした隙に、力を蓄えた勾践が決起し、留守の王子を討って呉の都を破壊する。呉軍は連戦に疲弊し主力が残っておらず、夫差は反撃を諦めざるを得ず、屈辱的な条件で和議を結ぶ。間もなく、越は再び呉へ侵攻し、勾践は夫差を追い詰める。今度は勾践が夫差を辺境に封じて助命しようとしたが、夫差は拒絶して自害し、呉は滅亡した。  呉を滅ぼして復讐を果たした勾践は、猜疑心の深い性格が目を覚まし、功臣を誅殺しはじめる。范蠡はこれを察して越を去り、文種は自殺させられる。勾践は呉が滅んで6年後に死ぬが、越の衰退は始まっていた。だが、これをすぐに勾践の狭量と切り捨てるのは早計かもしれない。勾践は「呉を滅ぼした暁にはその領土の半分を与える」と范蠡に言っていたが、一説によると范蠡はこれを受け取って、そっくり楚へ献上してしまったというのである。「蠡」とは「離」の楚語であり、范蠡はもともと楚人と考えられる。つまり范蠡は、楚が復興するまでの間、呉を足止めするために遣わされた者とも考えられる。しかし、いくら約束で与えた土地とはいえ、必死に果たした復讐の成果を、苦難を共にした一番の功臣がこうもあっさりと他国に渡してしまったとなれば、誰でも多少ならず人間不信に陥るだろう。  范蠡は楚にも戻らず、斉へ逃れて商人として富を築いたという。范蠡は「民治では私は文種に及ばぬ」と言っていたが、越にいた頃から穀物の相場に敏感だったり経済感覚が優れていることを示している。この鮮やかな身の処し方は、後世の人々から憧れを集めた。  ところで、闔閭の死後、孫武は歴史から姿を消している。罪を得て処刑されたとも、小さな封地を貰ってそこへ隠棲したとも、斉へ帰ったとも、病に倒れたとも言われているが、不明である。もし隠棲したとすると、13編の兵法書は闔閭が登用する時に読まれたとあり既に完成していたとされるから、その後何か別のもの書いて暮らしたのだろうか?  百年後、孫ピンが斉で活躍することになるから、子孫は一族の故地である斉へ帰ったらしい。三国時代に呉を支配した孫家は孫武の末裔を自称するほどであるから、揚子江の民にとって孫武の名は、偉大な祖先の築いた黄金時代を想起させる魅力的なものだったのであろう。  勾践から6代後、越は楚に滅ぼされる。戦国七雄に呉越の名は無く、秦や漢も越は未開の難治の治であると無視してしまう。こうして、長江文明が黄河文明を支配する機会は永遠に失われたのである。長江の全流域を支配下におさめたかに見えた楚だったが、秦の侵攻で長江上流を奪われて、その後の秦の覇権を決定的にしてしまう。 〜〜〜  興亡の歴史は復讐者の歴史でもある。復讐の生む力は凄まじいものである。たった一人の復讐者が、数百万の民を抱える国を転覆させることがある。他者を益することは殆どないが、それが人の心をうつのは、復讐者を支える情愛の念が圧倒的に深いからであろうか。 〜〜〜  これから物語を始めるにあたり、同時代の長江流域の大きな歴史の流れを記した。  物語が始まるのは周の昭王19年冬の楚の郊外。孔子より10歳若い俊秀が伍家の次子として、まさに歴史に姿をあらわそうとしていた頃である。