〜いけいけぼくらの北郷帝〜 第九回 『乱』  その日はぽかぽかしていて、庭に椅子を出して仕事をしていた俺はとても上機嫌だった。たとえ資料づくりに難航していても、やはり柔らかい日差しとちょうどいい具合の風を感じているのは気持ちいい。  まだ肋がくっついてないので、こうして太陽を浴びるように推奨されているから、おおっぴらに庭で仕事ができるのもありがたい。  鼻唄でも出てきそうな気分の時に、その声はかかった。 「そこの万年発情男、あんた、囲碁はできる?」 「ルール……じゃない、やり方も知らない」 「ちっ、使えない」  反射的に答えると、忌ま忌ましげに舌打ちされた。こんなことをするのは一人しかいない。魏の頭脳の一人、荀文若こと桂花だ。 「じゃあ、ああ、これは無理ね。孫子は読み終えたみたいだけど、一字一句憶えてるなんてことはないでしょうし……もういつも迷惑ばっかりかけて、だから男ってのは……」  ぶつぶつと呟きつつ、手元の紙に何事か記していく猫耳軍師。ぴょこぴょこその頭巾が揺れるのは愛らしいんだけどなあ。  しかし、なんだろうこの不機嫌さは。いつものだいたい五割増だ。まあ、中途半端に機嫌がいい時のほうが妙に厭味ったらしくなるんでそれはそれで面倒なのだが。 「なに怒ってるんだよ」 「あんたが勝手に厳顔との勝負なんて受けたからでしょうが!」 「あー」  真っ赤になって俺を怒鳴りつける桂花に、さすがに俺もまともに考えることにする。桂花はたまに無茶なことを言うが、魏──というよりは華琳──に関することではちゃんと話を聞いた方がいい場合が多い。たまに華琳への崇敬が暴走しすぎることもあるけどな。 「もしかして、勝負の方法考えてくれてるのか?」 「そうよっ。いくら全身精液の種馬でも、負ければ華琳様の面目が傷つくのよ!」  それもそうだな。あの場では受ける方が妥当だったし、華琳もそれは認めたが、負けていいなんてことはけして言わないだろう。 「しかも、怪我のせいで日程がのびたし! おかげで変に簡単なのじゃなめられるじゃない。もう、どうせなら呂布に真っ二つにされてくればよかったのに!」  そうなのだ。この間長安で呂布の方天画戟を受けて──思い出したくもない──肋が折れているせいで、厳顔との勝負は日延べしたのだ。厳顔としても怪我人に勝っても自慢にもならないというところだろう。  しかし、真っ二つは勘弁してほしい。呂布なら簡単に……いや、よく考えたら、周りの人間で俺を真っ二つにできない人間のほうが少ないんだよな。 「あんた、得意なことってなによ。言っておくけど、女とか言ったら殺すわよ」  いや、さすがにそれは言いません。  うーん、でも、なんだろうか。未来の技術とかは多少知っているが、しかし、それで勝負と言うのはありえないし。動物からは好かれやすいけど、それが役立つのは明命、呂布、風あたりを相手に遊ぶ時くらいのものだし……。  延々と悩んでいると、なんだか哀れみの目で見られ始めた。 「……もしかして、ないの?」 「け、桂花は俺の得意なことって、な、なんだと思う?」  桂花に同情されるという信じられない出来事に遭遇して心臓がばくばく言っている。桂花はじっと俺を見ている。い、いや、まさか俺に取り柄がないなんて……え、ないの? 「女」  心底厭そうに言われた。自分で言うなって言ったくせに! 「……まじめな話、人たらしはそれなりでしょ。黄蓋は華琳様だって欲しがっていたくらいなんだから。でも、そんなのいまは役立たないのよ!」 「そ、そうだよな」  はぁ、と大きく溜息をつかれる。 「弓で勝負できればいいけど……あんた、弓はひけるの」 「ああ、秋蘭に習ってる。祭も教えてくれてるしな。でも、さすがに厳顔相手には……」  あ、そうだ、不意に思い出したことがある。俺は資料の竹簡の中に埋もれたそれを掘り出しはじめる。 「厳顔の弓……弩なのかな? あれって豪天砲っていうんだよな?」 「あんたにしてはよく知ってたわね。で?」 「豪天砲の設計図らしいんだよ、これ」  美羽から預かったものをようやく取り出す。 「はぁ?」 「あとで真桜に見てもらおうと思ってたんだけど……。これで弱点とかわかるものかな」  桂花は俺が差し出した何枚かの紙が折り畳まれたそれを受け取ろうとしない。何かいかがわしいものでも見るかのような視線が向けられている。 「……そもそも、それが本物かどうかが問題よ」  それもそうだ。だが、美羽から入手経路を聞いている俺としては本物だと信じるしかない。 「これ、美羽経由だけど、元は冥琳から渡されたらしいよ」 「周瑜!?」  俺の言葉に反応する桂花。ようやく設計図を手に取ってくれた。開かずに、ためつすがめつしている。 「そう、周瑜が……そう……」  きっと、いま、彼女の頭の中では色々な計算が渦巻いているのだろう。  たとえば冥琳が美羽をはめようとしてわざと贋物をつかませる陰謀がありえるのかだとか、最初から冥琳が贋物をつかまされた可能性だとか。  俺にはそれくらいしか思いつけないが、きっと、それに十倍するくらいのさまざまな可能性や意図が入り乱れているに違いない。 「……真桜と一緒に検証してみるわ。計算も必要だし」  結局彼女はその紙を開くこともなく、そのまま懐にしまいこんだ。 「いい。わかってるとは思うけど、他言無用よ。これが使えるかどうかもまだわからないし。とにかく、あんたには勝ってもらうからね。せいぜい養生してはやく怪我をなおしておきなさい。女に手を出して悪化なんかさせたらコロス」  それだけまくしたてると、俺の返答を待つこともなく、桂花は踵を返す。その背に、俺ははいはい、と少々いい加減な返事をする。 「はいは一回!」  猛烈な勢いで怒られた。  うん、桂花だ。  魏において全ての決定者は曹操である。  瑣末事に関しては委任者が代行するが、しかし、その大元の権限も責任も頂点に立つ少女一人にある。  故に、彼女の目の前で行われる討議は全て御前会議であり、いかなる形式であるかを問われない。たとえば荀ケとの睦み合いの間ですら、時に国家の大事を決定するやりとりが行われかねないのだ。  そういうわけなので、あまり形式張った会議の場というのがない。謁見の間や評議の間はあるが、華琳は道端だとか通路でも会議をはじめてしまうので、それほどの重要性を持っていない。どちらかというと、評議の間をはじめとした広間は側近たちが顔をあわせるためのものという性格のほうが強い。  だから、俺は、この秘密の会談のためだけにつくられた庵の存在を知らなかった。ひっそりと城の隅にある庵の周囲には水が流され、内部での物音や会話を漏らさないようになっていた。 「目くらましにはこういうのも有効なのよ」  庵の唯一の備品であるらしい円卓について悠然と構える華琳にそんな理由を聞いて、俺は感心したものだ。 「基本目くらましだけど、たまにこういう場所を重要な案件のために扱うと、間諜たちをさらに混乱させられるってわけ。雪蓮も桃香もその手の策謀を好む性質じゃないし、最近はやっていなかったんだけどね。なにやら相手が相手らしいし」  円卓にある席は八つ。それ以上の人数はとても入れないような狭い庵の中は、いま、稟、風、桂花という軍師勢に俺と華琳、そして、わたわたと資料をひっくり返してはまた整理しなおしたりしている美羽しかいなかった。 「美羽、いい加減落ち着けよ」 「む、無理なのじゃ。七乃はどこかや!」  いや、七乃さんはいないから。一人でやるって大見得切ったのは美羽じゃないか。 「袁術、落ち着きなさい。大筋は承知しているし、それほど緊張する必要はないわ」  華琳が珍しく優しく声をかける。美羽の策がお気に召したのか、今日は機嫌がいい。 「し、しかしじゃの。妾はこのようなことは……」 「まあ、彼女の立場では、献策を受けることはあっても、提案を吟味されるということはなかったでしょうからね、しかたないのかもしれません」  稟が、くい、と眼鏡をあげながら評する。ああ、もうそういうことすると、眼鏡の奥が見えなくて、余計怖いのに……。 「そうですねー。経験の問題もありますしねー」 「おうおう、嬢ちゃん、ここが踏ん張りどころだぜ」  風が呟き、宝ャがハッパをかける。なんか、宝ャは久しぶりだな。その宝ャが美羽に飴玉を差し出している。 「頭がまわらない時は甘いものですよー」 「う、うむ、ありがたいのじゃ」  おっかなびっくり受け取り、口に放り込む美羽。ころころと飴を口の中で転がしているうちに落ち着いてきたのか、嬉しそうな顔になってきた。 「さ、はじめましょ。一刀、ちゃんと補佐してあげなさいよ」  そう華琳が宣言すると、部屋の空気が明らかに変わる。きっとそれに呑まれそうになったのだろう、顔を青ざめさせた美羽が、なにかを決意したかのような顔つきになった。口の中で噛み砕いたのか、ごりっ、と飴の割れる音がする。 「よ、よし、皆のもの、この袁公路のありがたい策を聞くがよいぞ」 「……元気になりすぎ」  桂花がぼそりと呟く声も、おそらくは美羽の耳には入らないよう配慮してくれたのだろう。俺には聞こえるように言うあたりが、こう、桂花らしいわけだが。 「む、むぅ。まず、国家の基(もとい)はなにか、それは、食じゃ! そして、衣服じゃ。飢えず凍えずがあれば、人も国も生きてゆけるのじゃ。なれど、今はそれがままならぬ。それを補おうというのが今回の策じゃの。衣服については、まずは食い物があれば、布を織る者も出てくるじゃろうということで、今回は食の生産についての話じゃ! む、むむう……」 「大丈夫、美羽。続けて」  ちらちらと俺に視線を送ってくる美羽を励ましてやる。今のところまったく問題はない。華琳も機嫌損ねていないしな。 「いま、この国は兵を減らしておる。戦乱がなくなったのじゃから、たしかにそれも一つの策じゃが、妾はこの方針の変更を提案するのじゃ。よほど軍をやめたいという兵はともかく、それ以外の兵は軍に止め、屯田を拡大させるべきなのじゃ。  実際、軍を離れた兵が農地へ帰っている例は思ったより少ないようでの。街へ住み着く者のほうが……あれ、どこじゃったかな」 「あなたが言いたいのは農地への定着率と街への残留率の比較でしょう。確かに、袁術の言う通り、故郷の農地へ帰った者は三割程度です」  資料を手渡そうとした俺を横目で見ながら、稟がフォローしてくれる。 「他は街へ残ってるわけね」 「いえ、街で定職についている者は同じく三割ほどです。残りの四割あまりは、傭兵になっているか犯罪集団に入っているか、そんなところだと思われます」  華琳が渋面をつくる。犯罪者に堕ちたようなのは論外にしろ、傭兵も治安の面では歓迎できるものではない。確かに自警のために街や隊商がそれらの傭兵を雇ったりすることはあるが、本来それは国が保証すべきことなのだから。 「傭兵をつくるくらいなら、軍に雇ったまま、街やら街道やらへ警備部隊を配置したほうがよいのじゃ。そこで屯田させれば食もまかなえよう?」 「一理あるわね」 「ただ、やはり軍を保ったまま屯田だけ拡大してもしようがないと思うのじゃ。戦闘部隊と生産が主な部隊が混在しては指揮もままならぬのではないかという懸念もあっての。そこで、そうじゃ、これは一刀が命名したのじゃが『郷士軍』をつくればよいのではないかの」 「『郷士軍』?」  華琳の視線が俺に向く。ここは俺が説明すべきだろう。 「うん。警備隊と、削減する予定だった数の兵をあわせて、半農半武……いや、より農業のほうが比率の高い兵をまとめて郷士軍として独立させるんだ。一線級の兵を現在の軍と警備隊から切り離して常備軍にする、と言うほうが正しいかもしれないね」 「軍に残った兵は、戦闘を知り尽くす巧者として鍛え上げるのじゃ」  現実問題、戦闘だけに特化した常備軍をつくる余裕は、この時代にはまだない。北方や西方の辺境警護の軍でさえ、平時には畑を耕して自分の食い扶持を収穫しないと生きていけないのだ。軍に戦闘任務だけを任せていられるようにするには、生産以上に流通網を発達させなければならない。 「それと、郷士軍は基本、一地方から動かないようにするのがいいと思う。そうすることで故郷を離れたくない者たちも吸収できる。一方で常備軍はどこに配属されても文句は言わないような兵を集めるわけだな」 「聞く限りは悪くない案だけど、軍制をそれだけ変更するとなると混乱も大きいし、実際に得られる利益と勘案しなければならないわね」 「うむ。一刀たちに手伝うてもろうて、いくつか計算してみたのじゃ。これを見りゃれ」  資料を手近な稟に渡す美羽。軍師たちは競うようにしてその紙束を覗き込む。 「……ただ、難しくなってしまうので、今後の政情変化やらは取り入れられなかったのじゃー」  残念そうに美羽が呟く。あんまり手伝いすぎると美羽の案ではなくなってしまうし、俺自身も手が回らなかったのだが、ちょっとかわいそうになる。 「ざっと見ましたが、郷士軍と軍の割合等、少々夢想的な部分がありますね。計算はやりなおすべきでしょう。しかし、大筋としては悪くないと私は判断します」 「いずれにせよ軍部との折衝が必要ですねー。ただ、兵を減らさず、屯田を増やす方針には賛成ですかね。初期に費用はかかりますが、戦乱が終わった今やらないと、もう好機はないかとー」 「警備と屯田を兼ねさせるのは、評価してもいいでしょうか。他は少々……確かに利はありますが、これほど大規模になると、慎重に検討しませんと」  三人の軍師がそれぞれに意見を出す。中でも桂花が検討すると言っているのは驚きだ。彼女が考慮に値する案だというのは、よほどのことなのだから。 「ふむ……」  資料を渡された華琳が記された数字を追う。ひとしきり眺めたあとで彼女はそれを卓の上に置いた。その表情はまるで変わらず、気に入ったのかどうかもよくわからない。 「この件は後ほど判断するとして、もう一つあるわよね」 「そうなのじゃ! こちらのほうが本題なのじゃ!」  腕を振り上げ、愉しそうに宣言する美羽。だいぶ調子が出てきたようだな。 「妾は常々、宦官というものは害悪じゃと考えておった。言うておくが、そなたの祖父御を侮辱しておるわけではないので、お、怒る必要はないであろ」 「わかっているわ。私もあんなもの害悪だと思ってるし、祖父に聞いたって同じことを言うでしょうよ」  宦官を祖父に持つ華琳が吐き捨てるように言う。俺の知っている歴史だと、曹操は宦官自体は惡ではないにしろその運用に気をつけねばならない、としている。しかし、華琳の性格からすれば、もっと強烈なことを考えていたとしてもおかしくない。 「何進大将軍が謀殺された後、妾と麗羽とでずいぶん誅戮したのじゃが、再び増えて万を数えると聞いた。漢朝に実態がなくなったとはいえ、魏からの庇護により給金だけはもらえると思うて、隠れ家から出てきおったのじゃろか。しかし、穀潰しを抱える余裕なぞないはず。そこで、妾は、宦官を政から全て追放し、黄河の治水に投入することを提案するのじゃ」 「治水?」  華琳が怪訝な顔をする。先に提出した試案では宦官も同じく屯田開発につぎこむということになっていたからな。 「聖王禹の故事にならうまでもなく、黄河の治水とそれにともなう水の配分、田畑の整備こそが古来よりの王朝の礎である……というのは一刀の言。妾もその通りじゃと思う。屯田を増やすためにも治水は不可欠じゃろう。じゃからして、宦官による治水集団をつくり、既存の水路の管理、改修にあてさせるのじゃ。もちろん、宦官なんぞあてにはならんから、監督官も必要じゃが……そんなもの、宮廷であやつらを飼っておくよりはずいぶんましであろ」  美羽のやつ、だんだん元気になってきたのはいいが、説明を重ねるうちに少々感情的になっているな。そう思った俺は、立ち上がり発言する。 「少し補足させてほしい。俺が別の世界──天でもなんでもいいけど、そういう場所──にいたことは知っていると思う。そこはこの世界とよく似た場所で、よく似た感じに歴史が動いていた。でも、だいぶ歴史が進んでたわけだけど、そのおかげで、この時代やそれ以前のことがよく研究もされていたんだ。  さっき美羽が言った、治水とその配分で国の基礎が築かれたというのも歴史研究の世界ではよく言われてることだ。禹王は実際には水神の擬人化だと言われていたけどね。  また、それらの研究によると、なぜ戦乱の時代には涼州が注目されるのか、という点をこう説明している。涼州は異民族の侵攻を受けやすい辺境の地で、そもそも治水整備、田畑の開墾がなおざりにされている。しかし、戦乱の時期には中央の治水の整備状況が悪くなり、かつ農村から人が辺境へと逃げる。このために涼州のような辺境の地位が相対的にあがるんだ、とね。  他にも要因があるけど、水路や堤防をはじめとする生産に関わるさまざまな施設や建造物がしっかり管理されなくなる、というのは国力低下の最大の原因だ。もちろん、そのために作物の出来が悪くなれば人々は飢え、さらに整備は後回しにされて悪循環となるわけだ。  美羽の案はそれを防ぐために一定の集団を常に国内の整備に投入するということでもある。宦官を、というのは手近でかつ政治に関わる余計な要因を排除できるという多重の効果を見込んでのことになるな」  現代世界に帰ってから中国の歴史について勉強したことをなんとか思い出して説明をしていく。細かいところはともかく、大枠としては間違った論ではないはずだ。  ああ、また風がこっくりこっくりしてる。あれでも聞いてるからいいか。  頬杖をつき、何事か探るように美羽を見つめる華琳。さすがに眼力にあてられたか、美羽はびくびくしている。 「宦官の実数は? 桂花」 「先月の数ですと、九八〇二人。万はいっておりませんが、そのあたりですね。袁紹、袁術が暴れ回った折りに殺されたと思われていた者が、地方に隠れて戦後帰還した例もあります。しぶといものです」 「案自体についてはどう思う?」 「よろしいのではないですか。内宮の宦官どもなんて辟易の種ですし」  これまた感情的な論を展開する桂花。彼女にとってみれば、華琳に心の底から服従しない漢朝の宦官は敵に等しい。 「稟」 「天子がしっかりしていれば災害は起きない、などという馬鹿馬鹿しい説を儒者が唱えたせいで、地方においては洪水をはじめ様々な天災に対する備えが疎かになっています。宦官を投入するかどうかは別として、治水・土木整備事業を行う役職の創設は望ましいことかと」 「風」 「稟ちゃんの意見におおむね賛成ですが、人手をどうするか、という問題はありますね。宦官については排除するのには賛成ですが、そこまで一気に放逐できるかどうかは怪しいところかとー」  やっぱりつっこみ待ちだったか……。華琳に声をかけられたら、ぱちりと目を開ける風。頼むから俺に恨みがましい目を向けるのはやめてくれ。そこまでつっこみ入れにいけないってば。  沈思黙考に入る華琳。右手がかすかに動いているのは、頭の中で何事か書いているのか計算しているのか。  その様子を俺たちは静かに眺めていたが、おずおずと美羽が切り出した。 「官位をやったらどうであろ?」 「官位?」 「漢の官位なんぞもはや役にはたたんじゃろが、宦官どもはそうは思わんじゃろ。確か、いまは漢の官自体大幅にあいておると聞くぞ」  その言葉に桂花が答える。 「確かに……我等が掌握後、全ての官位は大幅に引き締めましたからね。十常侍も中常侍を下ろしましたし」 「売官がひどかったですしねー」  官位を売ることで国家予算を補てんする時代があったのだそうだ。色々な側面があり、一概に悪いことだとは言い切れない部分──新規の人材確保など──もあるが、それもいきすぎると弊害しか生まない。 「そういえば、麗羽が行方不明だからって、大将軍のままおいてあったわね」 「そうですね、人和ちゃんたちから聞いて行方はわかってましたけど、面倒でしたのでー。変えます?」 「いいんじゃない、麗羽も別になにも言ってこないし」  面倒程度で放置か大将軍。それにしても、麗羽って大将軍なのか……。そういえば、美羽が建てた国では、七乃さんが大将軍だったそうだ。半年も保たなかったらしいけど。 「宦官のやつらはいまだに漢の官位で祿をもらってるし、官位が上がれば金が増えるとしか思わないでしょうね」 「それらの官が、土木工事をやるということに法を変えておけばいいわけだな」  おお、さすがじゃな、一刀、と美羽が腕を突き上げて喜ぶ。なんだ、そこまでは考えてなかったのか。 「おそらく一番の難物であろう十常侍どもには、中常侍を再びやると言うてやればよい。なんじゃったら、大長秋でもくれてやればよかろ」  さすがに華琳がこの言葉に驚きを隠さない。大長秋は宦官の最高位。帝の側近中の側近……だったと思う。反董卓連合の時に聞いた覚えがある。 「大長秋に土嚢を積ませろというの?」 「そうじゃ、おもしろいであろ?」  くふふ、と美羽が意地悪そうな笑みを漏らす。さすがに呆れたのか、華琳が口をあけた。かと思うと、その端が持ち上がり凄絶な笑みを形作る。 「袁術、真名を許す。以後は華琳と呼ぶがいいわ」 「うむ、では、妾のことも美羽と呼ぶがよいぞ」  あの曹孟徳が袁公路を認めるという信じられない場面なのに、なんでこんなにもぴりぴりと張りつめた空気をしているんだろうね、まったく。とはいえ、二人ともお互いに対する悪意があるというわけではないんだよな。  華琳が頬杖をつくのをやめる。 「稟、あなたは軍制改革の案について再検討。実際に行うと仮定して、計算もやりなおしなさい」 「承知いたしました」 「風、あなたは宦官と治水事業の件を。あなたなら大丈夫でしょうけれど、秘密保持にはくれぐれも気をつけて」 「わかりましたー」 「桂花、二つの案件を監督なさい。そうね、七割は実行する心づもりで動かすこと。それでも不可能と考えるなら報告を」 「はっ」 「美羽。あなたのところの張勲もだけど、忙しくなるわよ」  にやりと笑みを向ける華琳。もう本当にこき使うと決めたぞ、こりゃ。 「わかったのじゃ!」  話の急な展開に少々呆然としていた美羽が嬉しそうに破顔する。今度は邪気のない笑みに、俺もつられて微笑んでしまう。 「一刀」 「ん」 「祭を貸してもらえる? あの老獪さが必要よ」  真摯な問いかけに、息をのむ。祭の力が必要というのはわからないでもない。政軍あわせて裏も表も知り尽くす彼女に匹敵する人材というと魏では秋蘭しかいないが、三軍師を動かす以上、逆に夏侯の看板は動かせない。少なくとも表向きは。 「あー、うん、祭がいいならね」 「説得なさい」  有無を言わせぬ言葉に、了解、と答える。本気で祭が嫌がるならば無理強いすることはできないが、いまや美羽とも仲は悪くないし、特に問題はないだろう。 「よし、ここにある資料は全て焼きなさい。灰は外の水に流し、誰にも知られぬようにせよ!」  曹孟徳の命がかかり、まさにそのようになった。 「ああっ、中で、もっと大きくなって……んうっ」  俺の上で、汗をはじけさせ女の体が跳ねる。 「くしっ、ざしにされてるみたいですぅっ」  彼女の腰の動きにあわせ、こちらも突き上げる。俺の体に接合部をこすりつけるように腰をうねらせる彼女の中はとても熱く、動くたびにまるで違う刺激を与えてくる。 「くっ」  しっとりと掌に吸いつく彼女の肌をまさぐる手を腰にやり、がっちりと掴む。 「ふぇっ?」  驚きに見開いたくりくりの目で見下ろしてくる彼女に微笑みかけ、強く己のものを押し込んでいく。 「ふわあああああっ」  嬌声をあげ、襲い来る快感から逃げ出そうとするように腰をひねるのを抑えつけ、何度も何度も腰を打ちつける。 「ひぅっ、熱いです、ああ、一刀さん、あつい、あつっ、くふううう」  びくりと大きく跳ね上がった体をさらに腕で拘束し、腰全体を押しつけるようにして、彼女の胎内をえぐる。 「ひぃっ」  甲高い声をあげ、途端に力を失おうとする体の中に精を放つ。俺に向けて崩れ落ちようとしていた体が、二度三度とのけぞって揺れる。 「……あぅ……なか……で、びゅくびゅくって……」  ふわり、と半ば意識を失ったような陶然とした笑みを浮かべて、彼女は俺に覆い被さってくる。どこかにぶつけないように片手で頭を支え、俺の肩口に導いてやる。体が傾いたせいで、まだ硬度を保っている上に、ことの後で敏感な俺のものが悲鳴をあげているが、ここは我慢のしどころだ。 「はふ……」  さすがに本格的に俺の胸の上に倒れられると限界で、彼女の中から俺のものが抜けてしまう。先程までの熱を感じなくなるのは少々寂しいが、こうして体にかかる重みを感じるのもいいものだ。  はぁあああ、と大きな息を彼女はつく。 「気持ち、よかったぁ……」  その声の調子に少し笑ってしまう。ゆっくりと頭をなでながら、俺は彼女をもう少し楽な風に抱きしめる。 「なんだか風呂にでも入ったみたいだな」 「あれ、一刀さんは気持ちよくありませんでした?」  不思議そうに大きな目を見開き訊ねてくるのがとてもかわいらしい。 「そりゃあ、気持ちよかったよ。七乃さんの中、とてもあったかくて」  そう、いま俺に抱きついているのは張勲こと七乃さん。美羽の守役で、俺の管理下にあることになっているが、なにしろ自由な性質なのでそんな枠にははまってくれない。 「ふふ、じゃあ、いいじゃありませんか」  微笑みながらじっと見つめていると、もうっ、と拗ねたように呟き、俺の首筋に唇をあててくる。強く首を吸われながら、俺は答える。 「それもそうだね」 「変な一刀さん」  ふふふ、とお互いに笑いあう。彼女とは、こんな風に穏やかに体を重ねることが多い。最初は美羽と自分の身分を護るために体を差し出す、などと言ってきた──明らかに風か誰かに吹き込まれた──彼女だったが、さすがにそれは丁重にお断りした。しかし、一緒に仕事をすることが多くなったこともあって、いつの間にか自然とお互いにこういう関係を愉しむようになっていたのだった。  最初は俺の方が権力を笠に着て彼女を良いようにしているのではないかと悩んだりもしたのだが、さすがに何度も閨を共にすれば、彼女がいやいややっているのではなく純粋に愉しんでくれているのはわかる。 「七乃さん」 「はぁい?」  ふわふわとどこか漂ってるような七乃さんに声をかける。 「按摩してあげようか?」 「え?」 「いや、なんだか疲れてるようだからさ」 「あー」  へへ、と舌を出して笑う。 「やっぱりわかっちゃいますかー。お願いできますぅ?」  いそいそと俺の上から下り、寝台にうつぶせになる七乃さん。つるんとしたおしりまでつながる綺麗な背中のラインを指でなぞってやると、ひゃっ、とかわいい声が飛び出した。 「一刀さんに抱かれるのって、それ自体もいいですけど、その後にこうしてもらえるのがさいっこうなんですよねー」 「それは嬉しいね」  彼女の腿にまたがるような格好になりながら、肩からもみほぐしはじめる。だいぶこってるな、こりゃ。  肩はがちがちすぎるので、まずはその周辺、腕と背中をほぐしていくことにする。七乃さんは気持ちよさげに小さくうーうー唸っている。まるで上機嫌な猫が喉を鳴らしているみたいだ。  これらの按摩は、祭の目と額の瑕を診てもらった機会に華侘から習ったものだ。彼女の状態自体は経過を見るしかないとのことだったが、光に過敏になった目を酷使するようなことになると肩も凝るし、それにともなって体の線が歪むことがあるということで、俺が按摩術を習うことになったのだ。一緒に冥琳や明命も習っていたけど。  華琳も強烈な頭痛もちで、それ自体は華侘が取り除いたのだが、日々の激務にともなうこりやストレスからくる頭痛は止めようがないので、これも俺が揉みほぐす役を負っている。  実際のところ、肩こりもちは多いのでかなり重宝している。桂花ですら揉まれている間は大人しくしてるくらいだ。  とはいえ、いかに華侘直伝とはいえ俺はその手の才能があるわけじゃない。変に応用して下手を打ってはいけないと、教えてもらった基本を忠実に守っているだけだけど。冥琳などはさすがで、その後の勉強で傷病からの復帰に役立つような揉み方等も体得しつつあるようだ。たまに俺も揉んでもらうが、気持ちよすぎて寝てしまうくらいで、やってもらっている冥琳に申し訳ない。 「お嬢さまが……ん、そこ、気持ちいいですぅ。美羽様が忙しくなって、私も、やっぱり……」 「まあなあ」  美羽の献策は、いま徐々に形になろうとしている。特に軍制改革についてはすでに軍部のほうでも実際に動いていて、ほとんどの将はそれに忙殺されている。いま、城にいる面々でその忙しさから外れていられるのは麗羽たちくらいのものだ。祭なんか、さぼり酒が呑めないとぼやいては俺の秘蔵の酒を呑んでいく。呑む暇ないんじゃなかったの? 「ほんとは、んっ、めんどくさいこと嫌いなんですけどねー。ふぅ……でも、美羽さまはっ、はりきっちゃってるしー」  確かに美羽は意欲満々だ。自分の策が国家の体制そのものを変化させていくのだから、面白くてたまらないところだろう。もちろん、色々と問題はあって、苦労してはいるのだが……。 「今回のことでは、美羽さまの意地悪なとこ出てて面白いんですけどー」  ちょっと口をとがらせて、七乃さんが愚痴る。ようやく背中の張りが取れてきたので、肩から首筋を揉み上げていく。 「美羽、頑張ってるし……正直、成長していると思う」 「そりゃあ、お嬢様ですものー。ひゃっ」  結構重労働なので、どうしても汗をかく。その前も存分に動いていたわけだから、仕方のないことだが、その汗が七乃さんのぷるんぷるんした肌に落ちるのは申し訳ない。 「ごめん、ごめん」  布でぬぐおうとすると、背中にまわされた腕が、俺の手をとった。 「ん?」 「そこが、本当は、ちょっと寂しいんですよねー」  七乃さんは顔をあげずに呟くように言う。無理な姿勢で俺の手に触れる指が、惑うように揺れる。 「お嬢様、遠くにいっちゃう気がして」  ぱたり、と戻った指を追うように、腕の先端から揉んでいくことにする。しばらくは、たまに漏らされる気持ちよさげな声だけが、部屋の中を支配する。 「知ってます? 私、一刀さんのこと殺しちゃおっかなー、って思ってたことあるんですよ。あ、一刀さんに庇護された時の話じゃないですよ」  日頃、様々なプレッシャーに耐えているおかげか、それとももう体が手順を覚え込んでいるおかげか、唐突にそう言われても、俺は特に指の動きを乱すことなく、肩をほぐしにかかれた。 「おどろかないんですねぇ」 「そんな事言うってことは、もうそういうつもりはないんだろ?」 「そうですねぇ。元々目的じゃなくて、手段でしたから。お嬢様と一緒に魏を飛び出すには、混乱を引き起こさないといけないですけど、その時一番脆いと思えたのが一刀さんだっただけで。ただ、お嬢様を『悪い方向』へ進ませてるのは一刀さんだ、って思ってた時期もありますけどねー」 「七乃さ……」 「言わないで!」  さすがにその言葉には腕が止まる。さっきまでゆるゆるに弛緩していた筋肉がきゅっと俺の腕の下で緊張しているのがよくわかる。 「私だってわかってますよぅ。だから、言わないでくださいよぉ」  微かに震えた声が、如実に彼女の心情を物語る。 「うん」  収縮した筋に逆らわず、ゆっくりと揉んでいく。はふぅ、と満足げな溜息をつくまで、じっくりと七乃さんの体をゆるめていく。  これでいいかな、と思えたところで、声をかける。 「美羽にとっての一番は、ずっと七乃さんだよ、きっと」 「あたりまえですぅ。私だって、一番大事なのはお嬢様以外ありえませんよー」  声の調子が戻ってるな。よかった。 「俺は、何番目くらい?」 「三番目、ですかねー」 「へぇ」  素直に驚く。好意をもってくれているのはわかっていたが、まさかそんなに上位に食い込んでいるものだとは。 「一番は美羽様、二番目は自分、三番目は一刀さん」  ぐい、と体を落とし、彼女の背中に迫る。もちろん、体重はかけないようにしている。鼻を襟足に突っ込んでこすりあげると、くすぐったそうに身をよじる。甘い、七乃さんの香りがした。 「嬉しいな」 「ええ、光栄に思ってくださいねー」  腕が俺の首にまわり、ぐい、と頭を前にひっぱられる。その力に身を任せて彼女の顔の横に俺のそれを移動させると、途端に舌がのびてきた。こちらも口を開き、ちろちろとお互いに舌の先端を舐めあわせる。つかめそうでつかみきれないぬめった感覚が脳にまで響くようだ。 「硬いの、お尻にあたってますよぉ?」 「七乃さんの中に入りたがってるんだ」  お互いに興奮を内に秘めたかすれた声でささやきあう。 「いいですよ……」  彼女の足が広げられ、お尻が誘うように持ち上げられるのを、体にあたる感覚で知る。 「すぐ、入ってきちゃっていいですよ……」  お互いに唇を、舌をついばみあいながらの睦言は、熱い吐息のよう。 「ん……」  自分のものを手で支えて、彼女の入り口を探ると、触ってもいないのにとろとろの状態を維持していた。按摩の快楽と愛撫は違うはずだが、同じように感じ取ることも可能だということだろうか。肌に触れている間、俺だって興奮していたのは否定できないしな。 「ふぅうううううっ」  ゆっくり、ゆっくりと彼女のその場所を割り開いていく。俺のものに絡みつき、熱と弾力を伝えてくる彼女の内壁と襞。俺のものを誘い込むような蠕動すら感じる。  あまりの快感に耐えきれなくなり、一気に進入する。 「あっ、奥まできたぁあ……」  そのまま高く突き上げた尻をつぶすかのように何度も出し入れする。奥まで突き入れたあとで、浅いところをこすりあげ……。  そんなことをしている時、扉が大きな音をたてた。  どんどんと叩かれる音に二人で振り向き、さっと体を離す。 「旦那様! 夜分失礼いたします。華琳殿が評議の間へお呼びじゃ! お起きくだされ!」  祭の声だ。華琳が俺を? すでに脱ぎ捨てた服を集めはじめている七乃さんと目線で会話を交わしたあと、大声で返す。 「わかった! 執務室にまわる。そちらにいてくれ!」 「わかりもうした!」  ばたばたと祭がそちらへ移動していく音を聞く。ありゃ、わざとやってるな。 「じゃあ、七乃さんは、美羽のところへ」 「はぁい」 「なにが起きたかはわからないけど、気をつけて」  すでに服を身につけた七乃さんは剣を佩いてこくりと頷く。俺も慌ててズボンをはき、上着をひっかけて、執務室につながるドアへ向かう。 「一刀さん」  背後からかかる声に振り返る。 「続き、たのしみにしてますからねぇ」  七乃さんはそう言ってちょっと意地悪そうに笑った。こりゃ、あとで埋め合わせが大変だ……。  二つの扉でしきられて小部屋となっている通路を通り抜け、執務室に入ると、むわっと暖かな空気が押し寄せてきた。見れば、祭がたらいに湯を張ったところに香油を入れている。柑橘系の香りが部屋中に広がっていた。 「さ、これで体を拭きなされ」  湯をしぼった布を渡される。 「臭うかな?」  素直に受け取り、下着姿になって体を拭いていく。 「華琳殿や秋蘭殿のように承知しておる者も多いでしょうが、それとてわざわざ他の女子の残り香を振りまいて機嫌を悪くさせることもありますまい」 「……悪いな、祭」  布を返し、次に渡された香油を首筋と胸元に塗り込んでいく。すーすーして気持ちがいい。とろけるようになっていた頭にも芯が通っていくようだ。 「なんのなんの。儂ならば誰が居ようと気にしませぬでな。それをあてこんで儂を通されているような気がしてなりませんがの」 「はは、それだけ信頼されてるってことさ」  衣服を整え、一度大きく頭を振る。 「よし、行こうか。なにか聞いてる?」 「いえ、一切。呼ばれたのも、旦那様はじめ側近のみのようで」  早足で歩きながら、状況報告を聞く。空はまだ曙光を見せようともしない時間だ。もう少し遅ければ無理矢理でも朝だと思えるのだが、また中途半端な時間に……。よほどのことだろうか。 「そう……。じゃあ、他国でなにか起きたとかではなさそうだね」 「しかし、何事にしても、この時機を狙われると少々……」  祭が懸念しているのは、美羽の案から出た一連の改革の足かせとなるかどうかということだろう。実際、いまのタイミングで軍を大々的に動かすわけにはいかない。 「ん……。ありがとう、祭」  評議の間の扉の前には春蘭が立っていた。俺を見て目で扉の中を指し、己はそのまま中に入っていく。 「御武運を」  その声を背に、俺は評議の間に足を踏み入れた。 「一刀で最後ね」  俺が駆け込むと同時に春蘭と秋蘭によって扉が閉め切られる。評議の間を見渡すと、いるのは華琳に三軍師、春蘭、秋蘭、それに季衣と流琉だけだ。 「凪たちは?」 「あれらはどうせいまは動けん」  秋蘭が俺の横を通り、普段の場所に行きがてら、そう疑問に答えていく。確かに軍制改革の柱の一つは警備隊だから、それに携わる凪、沙和、真桜は動けないのも道理だ。 「はじめるわね。桂花」 「はい。報告によりますと、内烏桓が背いたそうです」 「烏桓? 北方ですっけ?」 「いえ、それは本家のほうですね。内烏桓は、何代も前に服属して漢の領内に移された部族の裔です」  流琉の疑問を受けて、稟が進み出る。異民族対策は主に稟が担当しているためだろう。 「河北にだいたい五つの部族が散在しています。ほぼ現地に同化しているものもありますが、いまだに部族の結束が強いところもあります。今回はそのような部族の一つ、約八千が冀州で背いたとのこと。八千というのは、部族全員の数なので、兵数になおすと四、五千というところでしょう」 「五千とみても、こちらも八千は出さねばなるまい。痛いな」 「八千どころか、千も出せませんねー。いま、まともに動ける兵がいるわけないことはわかってるはずですよー」  春蘭のもっともな反応に、風が指摘をする。彼女の言う通り、現状、軍は動きにくい。軍制改革にともない、ほとんど全ての部隊が編制を組み替え中なのだ。まるで動けないというわけではないが、下手に動かせば、連携のまるでとれない数だけ揃えた兵士の群れとなることは請け合いだ。 「親衛隊を出しますかー?」  季衣が眠そうな声で聞いてくる。親衛隊はその性質上今回の改革とは無縁で通常の編制を保っているから、効果的なことは間違いない。 「たかだか地方の小規模叛乱に親衛隊を出すのはまずいわ」 「しかし、この際面子に拘ってもしかたあるまい」  桂花の言葉に反発する秋蘭。それに対して桂花はむっとした顔を見せたが、ここで苛ついても益はないと思ったのか頭をふって表情を切り換える。おやおや、なんてこった、あの猫耳軍師殿がかみついてこないなんて、だいぶまずい状況じゃないか。 「いえ、面子の問題じゃないの。いま、うちの軍が編制を大幅に変えようとしているのは、蜀、呉なら当然掴んでるわ。でも、実際のところは読めてないはず。また、気の利いた賊や野心を持ったどこぞの太守も情勢を伺っているけど、内実までは掴めていない。ここで、親衛隊を出さざるを得ないほどの状況だと知れれば、それらが蠢きださないとも限らない。華琳様、私は親衛隊を出すのは反対いたします」 「とはいえ、いままともに編制を保っているのは、霞さんのところの鎮西府と親衛隊、それに工兵隊ぐらいなのは事実なのですよねー」 「鎮西府を動かせば、西への備えが手薄になっちゃうんじゃないですか?」 「工兵隊は、小規模すぎるね」 「確かにそうだが、いまは……」  喧々諤々議論は続く。いずれにせよ、叛乱は早期に鎮圧しなければならない。長引けば他の賊徒の策動を招きかねないし、他国の介入にもつながる。しかし、そこに対峙できる部隊がないのが問題なわけで……。  そこまで考えて、なにか思いついたような気がしたが、その閃きは、掴みとる前にどこかへ行ってしまう。 「一刀、なにか?」 「んー、なんか頭の隅にひっかかってるんだよな」  目ざとく見つけた華琳にちょっと待ってくれ、と言って、さらに己の思考と記憶を探る。  なんだ、なにが気にかかるのだ?  その時、不意にかっちりとどこかでピースがはまったように、記憶が意識の表層へ浮き上がってきた。 「あ、そうだ。もう一つあるじゃないか」  俺の発言に全員の視線が集まる。 「そんなものがどこにあるっていうのよ。ついに頭に精液がまわったの、この孕ませ無責任男」 「いやいや、それがあるんだよ、桂花。水軍さ」  ああ、という感嘆とも驚きとも取れない声が、評議の間に響く。  魏水軍は発足二年にも満たない小組織だ。赤壁の戦い以後、戦訓を取り入れてつくられ、現在は河賊の取り締まりと貿易船の護衛が主な任務だ。水上戦に造詣が深い冥琳と明命が大使として赴任してきた後、彼女たちの協力を仰いで、より強力な軍に生まれ変わりつつあると聞く。小組織とは言ったものの、それは軍という単位で見たらそう見えるだけで、数万程度の人員はいる。戦闘員はたしか、一万二千というところだったはずだ。 「そういえばあったわね。陸上のことは畑違いと考えに入れていなかったけど、実際のところ、どう、秋蘭?」 「そうですね……。水軍とはいえ、元は軍の中で船酔いをしない者を集めただけで、実態は他と変わりません。たしか、陸上での訓練も多いはずです。ただ、大規模集団戦闘には馴れておりません。これについては今回は烏桓相手ですし、それほどの問題とはならないとも思いますが」  頬杖をついて座っていた華琳が足を組み換え、諸将を睥睨する。あの様子だと水軍の出動に関してはほぼ決めている感じだろう。 「意見は?」 「船の扱いに熟練した兵に関しては出兵から除くべきかとー。もったいないですし、出撃の間船を見るものがなくなるのも困っちゃいますからー」 「できれば、周泰にも参陣を要請したいところです。呉の将ですが、いまの水軍をよく知る人物です」  風と桂花が意見具申をしている間、稟は何事か考えている様子だった。 「稟?」 「……あ、いえ、水軍に関しては問題ないと思われます。ただ、他国の将といえば、と思い出したことがありまして」  彼女の言葉は、そこで途切れた。評議の間の扉がものすごい勢いで叩かれ、ぐわんぐわんとものすごい音を立てる。春蘭が何者だ、と怒り狂って扉をあける。 「ああ、もう来てしまったようですね」  怒髪天をつかんばかりの春蘭の制止をものともせず、彼女を上回る憤怒の表情で評議の間に走り込んできたのは、蜀の正使、公孫賛伯珪その人だった。 「冀州烏桓が背いたそうだな!」  鬼気せまる表情で詰め寄る公孫賛。普段の大人しやかな挙措は一切なく、戦時にも見せなかったような感情むき出しの態度は、不自然ささえ感じさせる。 「耳が早いのね。しかし、これは魏の国内のこと。蜀には関係がないんじゃないかしら?」 「いや、異民族に対しては三国が協調してこれにあたる、と取り決められているはず。私は蜀の正使として、鎮圧に協力を申し入れる」  あまりの剣幕に不思議そうな顔をした華琳のやんわりとした拒絶にも整然と反論してみる伯珪さん。しかたなく、桂花がそれに答える。 「……たしかにその取り決めはあるけれど、あれは、国外からの侵入に対して想定されているもので……」 「異民族は異民族。烏桓は烏桓だろう。違うか?」  間違ってはいないから始末に困る。しかし、伯珪さんはこんな人だったか? 一体なにに彼女は憤激しているのだ。 「伯珪殿、なにをそのように猛っておられるのです?」  唇にわずかに笑みをのせた稟が嘲るように訊ねる。 「まさか、家族の仇が烏桓だから、烏桓と名のつくものは叩き潰さずにはいられないとでも? まさかまさか、蜀の大使どのがそのような私怨で動きますまいな」 「ぐっ」  嘲弄のような言葉は、釘を刺すためのものだろうか。たしかにその言葉を聞いた途端、伯珪さんも息をのんで黙り込んだ。家族の仇、か……。それなら、彼女の普段とは違う言動も理解できる。  しかし、反応を見るにしても、稟の言葉がきつすぎる気がするけど……。  うつむいてわなわなと震える伯珪さんをじっと見つめる俺たち。華琳はその様子を興味深そうに眺めている。 「……とはいえ、蜀が鎮圧に協力してくれるというならば、それはそれで受けておくが上策かと、ましてや、名にしおう白馬義従ですから。公孫賛殿、御身は何名ほどの兵を出していただける予定でしょうかな?」 「に、二百だ。いま洛陽にいる私の部下全員を投入できる」  伯珪さんの白馬長史という異名は三国でも知れ渡るほどのものだ。白馬義従と呼ばれるその部下達は精強な騎馬部隊で、たとえ二百といえども、軽々とその数倍の敵を屠ることだろう。 「どうでしょう、華琳様。ここは公孫賛殿にご助力いただいては」  一転優しげな声で華琳に受け入れをすすめる稟。なるほどな、伯珪さんをからめとるつもりか。頭を冷やさせようというのもあるんだろうけど。 「その話、わしも一口のらせてもらおうか」  伯珪さんが走り込んできたせいで開いていた扉の隙間から、するりと入り込んできた人影がよく通る声で発言する。たわわな胸に、腰から下げた酒瓶が目を引く。 「厳顔? いつの間に」 「いまですな。白蓮殿がどこぞに消えてしまったと聞きましてな。急いで来た次第。まさかこのような愉しげなことをやっておろうとは。わしの弓隊二百も喧嘩の数に入れていただきたい」  厳顔の本当に面白げな顔を見て、華琳ははぁ、一つ息をつく。 「まったく……」  魏の主はぐるりと側近の顔を見渡す。反駁の声を出したい者はいるだろうが、いまの視線でどれもが黙ってしまう。白馬長史と弓将厳顔の手並みを拝見してみようというのもあるのだろう。蜀との決戦は実際のところ、俺たちが侵攻をはじめた時点で勝っていたようなものだしな。 「いいわ、白蓮、蜀からの協力を受けましょう。ただし、我が方から出す総大将の命にはきちんと従ってもらうわよ。桔梗もいいわね」 「も、もちろんだとも」 「承知。して、総大将殿はどなたかな?」  誰もが動かなかった。臆しているのではない。蜀の二人がいるだけに、我先にというわけにもいかないのだ。まして、いま高級幹部が動けない本当の内情を知らせるわけにもいくまい。  現実的には誰を出すにしてもいま進めている作業は遅れざるをえないわけだが……。 「北郷一刀よ」  事務仕事の効率を考えると、春蘭かな。とにかく早めに討伐を終えてもらって……って。  え? 華琳さん? 「一刀、あなたに兵一万、公孫賛隊と厳顔隊の指揮を任せるわ。いいわね?」  にっこりと、一点の曇りもない笑顔で宣言する華琳。もちろん、それに否やを唱えることは許されていないのだった。 「一刀、一度だけ断る機会をあげる。どうしても厭なら、いま言って」  各々仮眠をとるように言われて解散した後、まんじりともできずに華琳に呼び出されるはめになった。だが、改めて空高く昇りつつある太陽の光の下でそう言われた時、俺の心は決まっていた。 「いや、受けるよ。……ありがとな、華琳」  本来は将に向けられるべきではない気遣いに感謝をすると、一瞬だけ微笑みが浮かび、優しげな女の子の顔が覗いたが、すぐに魏の覇王の顔へと変わる。 「そ」  短く言って庭を歩き出す彼女の後を追いかける。周囲を見渡すようにしながら彼女は歩く。何かを警戒しているという感じでもないのだが、何を探しているのだろう。 「今後覆すことは許されないわよ。いい? 一度受けた以上、今回の討伐の責任と権限は全て一刀、あなたのものよ。一万の兵の命を背負う重み、存分に味わいなさい。ああ、それと、白蓮と桔梗はそれほど気にしてはだめよ」  俺もこれまで従軍したことはあるが、それはたいていが華琳の直近で、沙和たちを率いるにしても大軍の中で一翼を担うというのがせいぜいだった。万の規模で独立して動くのは今回が初めてだ。 「とはいえ、今は急ぐから、具体的な用意に関しては、あなたに任せるわけにはいかない。納得できる?」 「ああ、輜重隊の用意からなにから全部やっていたら間に合わないものな」 「そのあたりはすでに手配中よ。あとで報告がくるから、礼を言っておきなさい」 「了解。それで、ここにいるのは、なんでだ?」  相変わらず華琳はきょろきょろとあたりを伺っている。庭園に日が強く照りはじめ、そこらでひっくり返ったら気持ちよさそうだが、そんなことは許されまい。 「麗羽たちを探してるのよ」 「麗羽?」 「叛乱の舞台は冀州っていうのは聞いたでしょ。元々、あそこは麗羽の根拠地。麗羽はともかく、顔良あたりは地形からなにから把握しているはずよ。どうせ、あれらは暇をしてるのだから、連れて行きなさい」  思わず足を止める。そこまで気を回してくれているとは。一人で重責に押しつぶされそうになっていたのが莫迦みたいだ。  庭にいないってことは、工房あたりかしらね……。と方向転換する華琳を慌てて追いかける。 「悪い。なにからなにまで」 「……無理なことをさせるつもりはないわ」  ぶっきらぼうに言う華琳の首筋が淡く朱に染まっているのを、俺は指摘したりはしなかった。 「長引けば、民のためにもならない。本当は、華雄や祭をつけられればいいんでしょうけど」  祭は美羽の計画推進の根幹要員となっているし、華雄は董卓たちを洛陽に迎えるために、改めて長安に向かっている。董卓たち四人だけなら移り住むのにそれほど手間はかからないのだが、なにしろ呂布が連れている『家族』は説き伏せて聞いてくれるわけでもない。受け入れる側の邸でも、去る方でも色々準備が必要になるのだ。  そんなわけで、いまのところ洛陽には、賈駆と陳宮の軍師組が先行し、華雄は長安での後始末を担当しているわけだ。 「しかたないな。みな忙しいからなあ」  よくよく考えてみれば、気軽に動けるのは、俺くらいしかいないのだ。季衣か流琉なら動けなくはないが、あんな状態の伯珪さんを預けられるわけもない。 「厭な時に動いてくれたものよ。果たして、こちらの動きまで読んでのことなのかはいまはわからないけど、調べてみるつもりよ」  後ろに誰もいないといいんだけどな。蜀、呉に限らず、国外の烏桓や匈奴をはじめとする異民族の力は脅威だ。そして、魏、呉、蜀三国の運営が上手くいけばいくほど、その冨と繁栄を狙おうとする者達は増えるのだ。 「さて、ここにいるといいんだけど」  真桜の大型兵器用工房に着くと、華琳はそう一人ごちた。工房は増築に次ぐ増築を経て、かなりの巨大建造物となっている。見上げると首が痛くなるくらいで、俺がいた時代の飛行機格納庫を思わせる。  新型櫓の実験機とかをここでつくるのだからしょうがないのだが……。ちなみに相変わらずつきまとった門から出られないという問題は、宮城の壁を崩し新しい専用門をつくることで解決した。この工房自体が門にぴったりくっつく形で大幅に建て増しされた経緯がある。 「こんなところにいるのかね。工房なら、あっちのほうが……」  俺は、普段真桜がいるはずの工房の方を指さす。こちらは──強度を別にすると──普通の建物で、武器の研ぎ出しやからくりの開発に使われる。 「麗羽はとにかく大きなものが好きだから、よく入り浸ってるらしいのよ」  ああ……わかる気がする。実際、可動櫓とか運用してたものな。真桜の投石機にしてやられたけど、それなりの用意をしていない相手には有効な代物だったはず。  中に入ってみれば、なにやら櫓のようなものの前で麗羽達と真桜が話し込んでいた。 「操作は……」 「あの腕木がな……」  見ると、櫓の上の大きな装置のあたりには斗詩がいて色々眺めているようだ。猪々子は麗羽の横でなんか暇そうにしてるけど。彼女の場合、接近戦のほうが好みだろうしな。 「おーい、麗羽ー、真桜ー」 「我が君!」 「あら、華琳様にたいちょ、どうしたん?」  声をかけつつ近づいていくと、斗詩も気づいたようで、櫓の上から手を振っている。 「麗羽たちに話があるんだけど、顔良も下ろしてもらえる?」 「わたくしたちに? まあ、いいですわ、猪々子さん?」 「ういー。斗ぉ詩ぃ〜。下りてこーい」  はーい、と元気よく答えが返って、斗詩の姿は櫓の中に消えた。内部に梯子か階段があるんだろう。 「あ、せやったら斗詩はんが下りてくる前に、たいちょにあれ渡しとこ」 「ん?」  ごそごそと作業服の中を探る真桜。元々細かい釘やら工具やらを入れておくためにポケットがたくさんついているせいか、真桜の作業服はなんでも出てきそうなイメージがある。 「ほら、これや」  瑕がつかないようにか、丁寧に小袋に入れられたそれを俺ではなく、麗羽に渡す。 「ほれ、麗羽はん、たいちょにつけてもらいーな」 「気恥ずかしいですけど、華琳さんもいますし、ちょうどいいかもしれませんわね」  言いながら、小袋から麗羽が取り出したのは黒い首輪だった。  大きさだけ見れば成犬用にも見えるが、ぬめるように輝く磨き上げられた黒革といい、縁取りに使われた見事な銀糸といい、裏打ちされた柔らかそうな布の質感といい、ただのペット用の首輪には見えない。ましてや、接合部分は三重になった黄金の鎖が垂れているのだから。たぶん、あれ、本物の金だぞ。  麗羽はそれを恭しく掲げると、俺に差し出してきた。 「えと……」 「わたくしの首輪ですわ、我が君」  満面の笑顔と共に宣言する麗羽。  あれ、なに言ってるの? 「れい、は、の……?」 「……一刀?」  ああ、華琳の表情がとてつもなくにこやかなのに、まとう雰囲気が吹雪のごとく凍てついていますよ。そして、猪々子と真桜のニヤニヤ笑いがひどいです。 「あら、我が君、忘れてしまわれましたの?」  いけませんわ、とちょっと拗ねた顔で注意される。この表情が出るとなにも言えなくなっちゃうんだよなあ。 「以前、妙才さんの猫に首輪をなさっていた時に、約束したじゃありませんか」  約束?  いくら麗羽がたまに素っ頓狂なことを言い出すからといって、明らかな嘘をついたりはしない。誤解と思い込みと行き違いでとんでもないことになっていることはあっても、約束を騙るようなことはありえない。  とすると、俺が忘れているのだ。  俺は平静な顔を保ったまま、なんとか思い出そうともがく。勘違いなら、訂正して……。 「あ!」  記憶の底に埋もれていた風景が、不意に蘇り、俺は大声で叫んでいた。  そう、あれは、秋蘭の猫──たしか、名前は聖通だったか──に試作品の首輪をつけてやってる時、たまたま麗羽が通りがかって……。 「それをつけると、所有されている、という証に?」 「うん。呂布は布をまきつけているけど、それだけじゃ外れちゃうかもしれないし、ひっかかると危ないこともあるからね。ほら、この城にはこいつみたいに秋蘭の猫もいるし、ちゃんと区別つくようにと思ってさ。真桜にそれぞれつくってもらう予定なんだ」  こちらにも首輪はあるが、罪人がつけるようなもので、ペット用というのはないから概念を説明するのに苦労したが、一度飲み込めば真桜のことだ。首を傷つけたりしないようなのを作り上げてくれた。  呂布の家族たちの首輪は赤、秋蘭の猫たちのは青。これなら見分けがつかないなんてこともないだろう。  よし、つけられた。はじめてつけるものなのでちょっと邪魔そうにしているが、きついってわけでもなさそうだし、いずれ馴れるだろう。ごめんな、と聖通の背をなでてやる。お前の旦那さんは文叔さんですか? 「妙才さんが青、呂布さんが赤でしたら、我が君は何色に?」 「ん?」  意味がわからずに聖通の喉をくすぐりながら麗羽の顔を見上げると、彼女は婉然と微笑んでいた。 「わたくし、我が君のものでしょう?」  ああ、艶めかした冗談を言ってるのか。さすが、風雅なお姫様は違うな。 「そうだな、俺は黒だろうな。麗羽なら、黒に銀の縁取りで金の鎖を垂らしたら似合うんじゃないかな」 「あら、それは素敵ですわ。真桜さんに言いつけておきましょう」 「ははは、そうだね。それがいいよ」 「あー、うん、した。約束した」  たしかに、言った通りの出来だ。俺が言ったイメージだけで、よくこんなにまとまったデザインをつくりあげるな。すごいな、麗羽と真桜。 「……か、ず、と?」  いや、華琳さん、痛いです。なにもされてないのに、なんだかすごい体中がちくちくします。そして、下りてきた斗詩やさっきまで笑っていた猪々子達まで完全に固まっています。 「華琳さん、さっきからうるさいですわよ。我が君につけていただいたらいくらでもお話は聞いてさしあげますから、少しだまっていてくださる?」 「なっ」  麗羽の面罵に固まる華琳。なんだかんだ言っても、麗羽は変わらないなあ。華琳の気迫なんて感じてもいないからな。  ともあれ、これは俺の勘違いから発したことだが、はっきりと約束している以上、ここで何か言い訳をしようものなら、事態は悪化の一途をたどるに決まっている。それに、彼女がこれで満足してくれるなら……。  そう決心した俺は、麗羽の捧げ持つ首輪をさっと取ると、喜色満面上体を伏せて差し出してくる彼女の首にそれをはめる。麗羽の体が戻ると、顎を傾け喉をさらけ出すようにさせて、接合部の金鎖を一つずつもう片方の金具にはめこんでやる。  麗羽の白い肌に、その黒革と金の鎖でつくられた拘束具は、ひどく映えた。 「あ、たいちょ、言い忘れとったけど、それ一回はめたらとれへんからな。太い鎖やないし、どうしてもっていうんやったら切れるけど」 「……真桜、そういうことは……」 「よろしいのですわ。取る必要もありませんし」  もう呆れたのかむっつりと黙り込んだ華琳に対して、こちらは本当に嬉しそうだ。おさまりも気にならないのか、うっとりとした顔で、首にはまったそれを確かめるように指でなでている。 「さて、華琳さん、お話でしたわね。お約束通り、お聞きしますわよ?」 「……あなたって、ほんと、私の神経逆撫でするの得意よね」  ひくひくと顔を引きつらせていた華琳は、しかし、あまりにうきうきとした麗羽の態度を見て毒気を抜かれたのか、大きく深呼吸して態度を改めた。 「手短に言うわね。冀州で叛乱が起きた。今回の討伐軍大将はこの一刀。冀州はあなた達がよく知っている場所だから手助けを頼みたいのだけど」 「いいですわよ。おーっほっほっほ」  あっさりと承諾する麗羽。おまけに久しぶりに高笑いを一つ。 「どこの下郎の軍か知りませんけれど、このわたくしたちが我が君につけば、恐れるものなどありませんわ。ねえ、斗詩さん、猪々子さん」  さすがに歴戦の将は話が早い。細かいことを言わずとも、ちゃんと物事が伝わっているようだ。……いや、麗羽たちのことだから、後で何度か念押ししてやる必要はあるだろうが……。 「久しぶりの実戦だなあ、斗詩」 「そうだね、文ちゃん。一刀さん、よろしくお願いします」  戦えることに喜びを見いだしている猪々子と、ぺこりとお辞儀をしてくる斗詩。  そういえば、斗詩はようやく俺のことを名前で呼んでくれるようになった。どうやら、麗羽と俺がそういう関係になった後は、もう名前で呼ぶことを許していたようだ。よくわからない基準だが、まあ、各々の主従のことには口を出すべきじゃないだろうしな。 「じゃあ、詳しくは後で知らせるわ。出立の準備だけしてちょうだい。いくわよ、一刀」 「おう」  真桜となにやら打ち合わせをはじめた斗詩と、そわそわと落ち着かない猪々子、それに愉快そうに高笑いを続ける麗羽をおいて、俺たちは工房を出る。  出る間に一度だけ振り向いて、俺は、麗羽を見つめた。そもそもそれを意図してデザインしたのだろう。黒の首輪は確かに彼女に似合っていた。  こうして、麗羽は首輪をつけて生活することになったわけだが……いいのかね、これで。  工房を出たところで、腕をつかまれ、ずんずんと早足で歩く華琳に引きずられるようにして歩く。 「お、おい、華琳」  庭の木陰に引きずり込まれ、何をされるのかと身構えたところに、彼女の体が近づいて、唇に熱い感触が触れた。 「かり……」  口を開くと、舌が入り込んでくる。見れば懸命に爪先立ちをして、目を閉じ俺の唇をむさぼることに集中する女の子が、そこにいた。  がむしゃらな舌に応えて、中腰になり彼女の小さい体を抱きしめながら、熱い熱い吐息を二人で交換する。舌が絡み合い、唾液が交じり合い、二人のリズムが一致し始めたところで、華琳が体をひいた。  物足りないと思っているのは俺だけではないらしく、華琳も何度か俺の唇の近くについばむようなキスをふらせるが、ついにそれをやめて息を整える。 「続きは帰って来てから、ね」  無理矢理のように強い口調で言う。おそらく、もう時間がなくて出立を見送ることはできないだろうから、と矢継ぎ早に進軍の指示や兵糧についての準備の話などをした後で、華琳は真っ赤な顔をして俺に寄り添った。 「無事に帰って来ないと、承知しないわよ」  そう言った時の華琳は紛れもなく、魏の覇王ではなく一人の少女に他ならなかった。 「あれ?」  後は荷物を馬に積み込むだけ、というくらいに俺自身の用意を終え、華琳に指定された場所──厩舎近くの練兵場──に赴くと、冥琳と明命が待っていた。平服の冥琳はともかく、籠手や脚甲をつけた明命の足元には俺と同じような荷物が積まれている。 「これが輜重に関する資料と部隊編成です、一刀殿」  冥琳がそう言って渡してきた竹簡にはびっしりと細かい報告が、しかし、わかりやすく整理されて書きつらねられていた。 「え?」 「私が処理したのですよ。華琳殿に頼まれてね」 「そ、そうなの? てっきり俺は魏の三軍師の誰かがやっているものだと……」 「華琳殿は、この討伐行を、三国力をあわせたものにしてしまいたいようですな。公孫賛殿が暴走してしまっては、それもいたしかたないでしょう」  苦笑を浮かべて冥琳が言う。さすがにあたりをはばかって声をひそめてはいるが、その口調に潜む非難は隠しきれない。評議の間での出来事はすでに知れてしまっているらしい。さすがは美周郎。 「そっか。いずれにせよ、ありがとう。本当は俺がやるべきことなのに」  深々と頭を下げると、慌てたように咳払いが聞こえた。 「わ、我が呉からは魏水軍をよく知る明命が参陣します。私も行きたいところですが、さすがに大事になりすぎるでしょう」 「よろしくお願いします!」 「いやいや、こちらこそよろしくだよ。将としては、明命のほうが遥かに上なんだし」  そりゃあさすがに三国合同とはいえ、冥琳をひっぱりだせば総大将は冥琳に与えるのが筋だ。そうなると魏の討伐軍とは言い難くなり、また問題が発生してしまう。  明命にしても戦歴や諸々の能力を考えると俺よりは上なのだが、それでもなんとか格好はつく。それにしても明命が参戦してくれるのは本当に心強い。 「そ、そんなこと……一刀様のほうが魏軍で御活躍を!」 「いやいや、それは華琳の側にいたからでさ、俺自身は……」 「はいはい、褒めあうのはそれくらいに。ほら、もう一人が来ますぞ」  しょうがないな、という風に笑う冥琳が指さす先に、一人の兵士を連れてこちらに駆け寄ってくる気の強そうな眼鏡の女の子の姿があった。暗い紺のスカートに白い上着、胸元で揺れる長いリボン。そして、なによりもその目に宿る意志の強さ。 「賈駆?」  彼女は俺たちの側にくると、冥琳に向けて声を発した。 「糧食の準備は終わった?」 「ああ、一刀殿に報告を上げたところだ」  二人の視線が俺の持っている竹簡に集まる。それを賈駆に渡すと、彼女は端から目を通し始めた。逆に俺には別の紙束を渡される。 「周公瑾の手際を疑うわけじゃないけど、一応見させてもらうわね」 「ああ、当然だ。気にするな」 「それと、それ、あんたの印がいるんだけど」  押しつけられた命令書は、水軍の主力が黄河の北岸で俺たちと合流し討伐に赴くべし、というものだった。すでに華琳の印は押されているので、あとは今回の責任者の俺の印が必要というところだろう。 「ん、わかった」  首から下げている印章をごそごそと取り出し印影をつけて、読み終えたらしい賈駆に返す。 「さすが周瑜ね。文句のつけどころがないわ。あ、これ、よろしくね」  俺が印を押した命令書を受け取った兵士はかしこまってそそくさと走り去った。俺自身は武将に囲まれて馴れすぎているけど、普通の兵は周瑜なんて伝説の中の存在と言っていいくらい雲の上の人なんだよな。 「北郷一刀」 「はい」  腰に手を当てて俺を観察するようにしている賈駆に不意に名を呼ばれて、なんとなく緊張して答える。 「北が姓で、郷が名、字が一刀?」 「いや、北郷が姓で、一刀が名だよ。ちなみに真名と字はない」 「ふーん、二字姓は珍しいわね。天ではふつう? ボクのことは知ってると思うけど、姓名は賈駆、字は文和。賈駆でも文和でも好きなように呼ぶといいわ。今回だけの雇われ軍師よ」 「雇われ?」 「そう。華琳が暇なら久々に軍師の仕事でもしてみないかって打診してきてね。魏軍に仕えろとかそういうわけでもないって言うから、了承したのよ。長安から引っ越して物入りだしね」 「あれ、洛陽へ移る費用は出してるはずだけど……」 「そりゃあ、もらったけどね。でも、女四人だけで暮らすのはそれなりに大変でしょ。今後のことも考えたらまとまったお金には手を着けないでおきたいのよ」  そういえば長安ではどうやって暮らしていたのか聞いたことがあったが、それなりに財はあるはずなのに、陳宮、董卓、賈駆の三人は写本や手紙の清書、呂布は用心棒で暮らしていたらしい。邸を買った以外には大きな買い物もせず、慎ましやかなものだったとか。  色々と遍歴を経ていると、用心深くならざるをえないのかもしれない。 「ま、そういうわけで、この討伐の間はあんたに従うわ。従う以上は、裏切ったりはしないけど、臣下の礼をとるわけではないのだから、そのあたりはちゃんとわきまえておいてよね」 「ああ、わかった。ありがとう」  笑顔で礼を言うと、ちょっと意表をつかれたような顔になる賈駆。以前も思ったけれど、軍師の割に表情豊かな子だなあ。 「あ、あんた、恋にやられた瑕は完治したの?」  指摘されると、ちょっと肋のあたりがかゆくなってきた。すでに意識しないと気づかないほどにはなっているが、急な動きとかでは痛くなる。 「日常生活には支障ないかな。個人戦闘は勘弁だ」 「まあ、あんたに個人の武は期待してないからいいわ。指揮はしてもらうわよ」  ふるふると手をふって見せる賈駆。こういうさばけて見えるところは、軍師らしいと言えるのかな。俺の知っている軍師は、揃いもそろって苛烈な決断も厭わない人物ばかりだが、その裏では人一倍繊細な情感を抱えて、悩みもなにもかも背負い込むような性質の人ばかりでもある。賈駆もそういったものを誰にも見せずに苦労しているのだろうか。 「しかし、無茶苦茶よね。総大将があんたなのはともかく、袁紹、顔良、文醜に周泰、公孫賛、厳顔ときてる。どういう人選よ」 「手綱をしめてもしまらぬような連中がいるのが難点だな」 「特に袁紹ね。文醜あたりはちゃんと指示さえ出せば問題ないでしょうけど……」 「あー、麗羽は俺がいれば大丈夫だと思うよ」  そう言った途端、軍師二人の眼が揃ったように細まった。特に冥琳の眼が怖い。 「さすが魏の種馬」「いやいや、もう三国一の種馬と言うべきでは」  軍師二人で聞こえるようにひそひそ話すのは勘弁してください。  そんな微妙な雰囲気を気にした風もなく、明命が可愛らしく小首をかしげて発言する。 「袁紹殿は、なんだか新兵器にのってらっしゃいますし、問題ないのでは」 「新兵器?」 「玄武くん三号、でしたか。自動投石櫓だそうです」  先程工房でみたのがそれだろうか? 移動投石機は便利だろうが、装填まで自動化するとは、やるな、真桜。 「ああそう。櫓でふんぞりかえってくれているなら、その方がありがたいわね。じゃあ、白蓮を抑えにして……」 「伯珪殿は今回はあてにしないほうがいいだろうな」 「え?」 「伯珪さん、烏桓が家族の仇だとかで、ちょっと頭に血が上ってるみたいでさ」  俺たちが説明すると、賈駆は渋面を浮かべた。腕を組み、人指し指をとんとんと自分の二の腕にあてている。 「まいったわね、普段なら一番抑えの効く白蓮がだめとなると……。桔梗はあんたと喧嘩しているんだったわよね」 「あー、確かにな。でも、さすがに戦の最中には言い出さないだろう」 「人間、そう簡単じゃないわ」  吐き捨てるように言う賈駆。人の闇い面を見ている経験では彼女の方が遥かに上だろうし、裏切りや謀略に通じているのも彼女だから、俺はなにも言わないでおいた。 「袁紹、文醜、顔良は確実にあんたの言うことを聞くのね?」 「ちゃんと言い聞かせればね」  しばし考え込んだ後で、俺に確かめる。麗羽は扱いにくい人間だとは思うが、そこまで危惧するほどじゃないと思うんだけどな。 「よし、わかったわ。周泰、あなたには遊軍を担当してもらう。先に発ってもらえる?」 「わかりました!」  彼女の頭の中で計画が組み上がったのか、急にきびきびと指示を下し始める賈駆。明命にひとしきり命令を伝えると、賈駆と明命がそろって俺を見上げてきた。 「えと、何?」 「一刀殿、あなたが総大将だ。いかに軍師が命を下そうと、あなたがそうしろと言うまでは明命とて動けまい。特に今回のような場合は」  見かねたのか、冥琳が耳打ちしてくれる。それを聞いて、俺は慌てて彼女たちに応える。 「あ、そうか。冥琳ありがとう。明命ごめんな。じゃあ、行ってくれるか?」 「はい! わかりました!」  いつも通り元気に返事をすると、荷物を掴みとり風のように走り去る明命。 「賈駆もごめん」 「今回のような急造の混成軍は、意思の疎通がなにより重要で、命令系統を守らせるのが最も難しいの。肝に銘じておくことね。総大将殿」  彼女は眼鏡の奥の眼を強くきらめかせながら、そう俺に忠告してくれた。  俺たちは、黄河の北岸で兵と合流し進軍を開始した。  内訳は八五〇〇の戦闘部隊と、一五〇〇の輜重隊、公孫賛、厳顔隊がそれぞれ二〇〇、麗羽ののる『玄武くん三号』に工兵およそ一〇〇がつき、総勢一万と五〇〇ほどの集団となっていた。  斗詩と猪々子を軍の中核とし、俺と賈駆、それに麗羽がそれをフォロー、明命は先行偵察やいざという時に戦局をひっかきまわす遊軍とする、というのが大まかに予定されている戦術だった。伯珪さんと厳顔の部隊は、最初から計算に入っておらず、逐次投入予定だ。 「正直、あの二人は死なないでいてくれたらいいと思うんだけど」  賈駆の言はひどいようだが一面の真実を突いてもいる。彼女たちの隊以外は将はともかく兵は魏の兵だから、将の意が部隊へ伝わればそれなりに連携がとれることは間違いないが、公孫賛の白馬義従と厳顔の弓兵隊とはそれが不可能なのだから。戦力として考えずにお客さん扱いするのも仕方のないところだ。 「ところで、叛乱の理由ってわかってるのかな?」  馬をならべて進む賈駆に訊ねる。 「大人(だいじん)の代替わりが原因らしいわね」 「大人?」 「親分、頭目、族長、なんでもいいけど、そんなものよ。烏桓の大人は世襲ではないけれど、特定の家系の者がつくことになっているらしいわね。求められる能力は、いかに部族を栄えさせるか、つまりは食糧と家畜をいかに手に入れるかに尽きるんだって」  稟からの報告なのか、自前の情報網なのか、賈駆は俺に丁寧に説明してくれる。 「ボクは西の出だから、北東の烏桓はよくわからないけど、西の羌なんかも似たようなものよ。彼らは元々は遊牧民だから、いかに冨を手に入れてそれを分配するかを重要視する。ま、塞内だって実際はそうだけど、もっと直接的、って言えばわかる? そういう感じね」 「直接的というと、結果を出さない者はだめ。つまり、無能は即座に排除されかねないわけか」 「そ。だから地位についたらついたで必死なわけ」  それで結果を求められて、こうして暴発するってのは、その慣習の悪いところかもね、と賈駆は遥か北、叛乱を起こした烏桓の故郷たる方角を見やる。 「しかし、叛乱とはずいぶん分の悪い賭じゃないか?」 「そうでもないわよ。さっきも言った羌の話だけど、彼らは何度も叛乱を繰り返してるわよ。待遇に不満があれば起ってそれを示す。秩序から外された者にはそれしかやりようがないのよ」  視線を前から外さず、彼女は言う。その横顔の真剣さに俺は胸をつかれる。 「秩序から外された者を、秩序の中から手助けするにはどうしたらいいんだ?」  しばらく無言で二人馬を進め、ようやくのように俺は訊ね返した。 「故郷にはもう帰れない。秩序の中では様々に制約を受ける。結局は、場当たり的に慰めの涙金でも与えられて終わりよ。そうしてまた不満が溜まるまで、じっとしているしかない」 「どうにか……できないのかな」  どうにか、どうにかできないものか。秩序から外された、と思い込んでいる人を救うことは……。  賈駆の顔がさっと怒りの色に染まる。しかし、それは見間違いかと思うような短さで、俺の方に向き直った時には、その激情は瞳の中で冷たい光を燃やしているばかりだった。 「それを、ボクに訊く?」  まっすぐに俺の眼を見据えて、俺の内側まで覗き込むような冥い視線が突き通る。 「それを考えるのは、あんたたち為政者の仕事じゃないの? ただ、生半可な覚悟じゃだめってことだけは忠告しておいてあげる。一生を捧げるほどの覚悟なら、できないことはないかもしれない」  それほどの覚悟があるのかとつきつけてくる重み。それは、彼女自身が……。 「どんな覚悟が華琳やあんた達にあるのか、それを見せるのは……しっかり乱を鎮圧してからね。一度起きた乱は叩き潰してみせなければ、相手は聞く耳持たないわ」 「そう……だな」  彼女の言葉を噛みしめながら、ぐっと前に向き直る。その様子を伺う気配があるが、今はただ前を向こう、そう思った。 「偵察隊の報告によると、賊軍は業(※ギョウ)を目指しているようね。まあ、あたりまえといえばあたりまえだけど、一番の果実をもぎ取りたいってわけ。幸い、街にとりつかれる前にこちらの軍が間に合う予定よ」  軍師としての賈駆の実力は申し分ない。少々イレギュラーに弱いところはあるようだけど、今回のような戦いでそれが出てくることはないだろう。 「決戦は、業の西か……そのあたりは何かあるのか?」 「さらに西にいけば黄河の水に行き当たるくらいね。あんたがなるべく土地の者に被害を出さないような地形、という注文をつけるからこうしたんだけど」  街や街道に近いところで戦をすればそれだけで治安が悪化する。まして田畑が集中している地域でやれば、せっかく戻ってきた農民たちが離散してしまいかねない。彼女には無理な注文をつけたが、きちんとそれをこなしてくれた様子だ。 「政治的に言えば、ここで叩きのめすのは効果的だけど、難しいのも事実ね。なにしろ烏桓お得意の騎馬突撃を防ぐ手がないわ」 「こっちには騎兵いないしな」  兵の主体は水軍。騎兵は極端に少ない。伝令を除くと、公孫賛の白馬義従以外はまともに騎兵としては期待できないだろう。 「あの櫓が多少役に立つといいんだけどね」  後方についてくる櫓をちらと見上げて、賈駆が疑わしげに呟く。真桜の新兵器は三発の連続発射を可能にした投石櫓だ。発射中に次の三発を装填装置にセットすれば、自動で次に撃ってくれるので、九発までは連続発射が可能だという。石以外にも礫や煙幕弾も積まれていて、なかなか頼もしい。  ちなみに、機械の駆動には竹でつくったバネを利用しているらしい。九発が限度なのは、そのバネを巻き戻さなければいけないからだ。 「真桜が言っていた性能通りなら、それなりに役立つだろうさ。ただ、撃ち時が大事かな……?」 「そうね、烏桓の意表をつければ……何!?」  賈駆の言葉が途切れたのは、伝令の馬が前方から走り寄ってくるのを見たためだ。息せき切って駆け寄ってくるのは、明命のところの偵察部隊の一人に違いない。 「伝令、伝令であります!」 「これを呑んで、しっかり話しなさい」  賈駆が伝令に水の入った革袋を投げ渡す。わたわたと取り落としそうになりながらもなんとか受け取って、ごくごくと飲み干し、満足そうな顔でぐいと口を拭う伝令。 「ありがとうございます。では……」  伝令は周泰からの報告を伝えていた。すなわち、烏桓は侵攻速度をあげたらしい。明命によるとそれは明日の雨を予期したからで、夜には業につき夜襲をかける算段だという。 「雨……?」  雲一つない青空を見上げて、疑問に思う。 「周泰がそう言ってるなら、きっと明日は降るんじゃない。烏桓も遊牧民、水の臭いには敏感よ」 「そうか、じゃあ……今日の午後には会敵できるかな?」  俺の提案にこくり、と頷く賈駆。胸をそらすと、周囲の警備と伝令を兼ねた騎兵たちに声を張り上げる。 「全部隊に進軍速度をあげるよう伝えて! ほら、ぐずぐずしない!」  軍師の鋭い声が走り、全軍の緊張が高まるのがわかった。 「さあ、戦よ。覚悟はいい?」 「ああ」  覚悟はある。ずっと、ずっと前から。けれど、それでも体に走る震えを無理矢理のように抑えつけて、賈駆へそう答えるのが精一杯だった。 「まださすがに見えないか」 「さっきの報告じゃ、二〇里先ってことだから、いくらだだっ広いこんなところでも無理ね。あんたが恋なみの眼をしてればわからないけど」 「呂布は規格外すぎるだろ……陣形はどう?」  大きく広がった陣を見張るかす。右翼には猪々子と厳顔、左翼には斗詩と伯珪さん、そして中央に俺たちと麗羽の『玄武くん三号』。 「大丈夫に決まってるでしょ。単純な鶴翼なんて」 「基本が大事、だろ」 「ボクはもっと緊密に連携がとれる陣形が好きなんだけど。兵の練度を考えればこんなところね」  お互いに不要とわかっている軽口を叩きつつ、俺たちは軍を進める。 「水軍が呉のやり方を真似て火矢の訓練を主にしてるってのはありがたい要素ね。こちらに届かぬ内に打撃を与えておきたいところだけど」 「馬を怯えさせれば儲けものだしな……あの砂ぼこりは、烏桓のかな?」 「……そうね、全軍停止! 全軍停止せよ!」  賈駆の声を受けて、俺たちの周囲で旗が翻る。停止せよ、という合図を送って一度止まるが、向こうで了解の合図がふられるのに応えて、こちらも了解の合図を送る。こうした旗での伝達方法は便利だが、それも乱戦に入るまでの話だ。乱戦になってしまえば、確実に命令を伝達するには声を届かせるか、伝令を走らせるしかなくなってしまう。 「……左翼、止まりません!」 「あんの、莫迦!!」  見れば、突出しているのは、騎馬の部隊。土を蹴立てて疾駆する騎馬の群れ。  伯珪さん、我慢できなかったか。 「顔良将軍に信号を送れ! 絶対に動かすな!」  俺が旗もちに怒鳴ると同時に、賈駆は賈駆で伝令に怒声をとばす。 「伝令!! 顔良隊に迎って。公孫賛隊の突出に釣られないでと伝えるのよ!」  騎馬隊はこちらの動揺などものともせず進む。同様に烏桓と思われる砂ぼこりは確実にこちらに近づいていた。 「賈駆。指揮を頼む。すぐ戻る」 「え、何言ってるのよ」 「麗羽のところに行ってくる」  それだけ言うと馬首を巡らす。さすがに俺の意図を悟ってくれたのか、それ以上は言わず、稀代の謀士は次々と命令を下し始めた。それを背に聞きつつ俺は兵の間を縫って、麗羽のいるはずの櫓へと馬を走らせる。 「袁紹将軍はっ!」  工兵隊の鎧をつけた兵士に鋭く訊ねると、作業を止め直立不動になった彼から、上であります、との答えが返ってくる。馬を預け、櫓の狭苦しい梯子を必死で登る。途中、何人か作業中の人間がいたが、俺の顔を認めた途端に道を譲ってくれた。 「麗羽!」  櫓の最上部にたどり着くと、退屈そうに爪をいじっている麗羽の姿があった。予定では投石機が動くのはまだ先だから、まるっきり油断していたのだろう。麗羽らしくて、こんな場面なのに笑みを浮かべずにはいられない。 「わ、我が君?」 「あれ、見えるか?」  麗羽の隣に移動し、眼下を失踪する公孫賛隊を指さす。 「ええ。どこの部隊ですの、あんな突出して。まったく野蛮ですわね」 「伯珪さんだ。あそこに煙幕弾、撃てるか?」 「ん……ちょっと距離が短すぎるような……」  眼をすがめて距離を計る麗羽。投石機は強力な兵器だが、距離の融通がきかないのが難点だ。遠くを撃つには最適なんだけどな。 「そうか。じゃあ、敵の鼻先には?」 「もう撃てますわよ。でも……この距離だとさすがに命中は期待できませんわ」 「いや、いいんだ。そうだな。公孫賛隊が撃てる距離になったら、公孫賛隊めがけて煙幕弾を一発、烏桓に煙幕弾二発、その後は煙幕と石礫二つを二度繰り返してくれ」  俺の指示を口の中でもごもごと復唱し、理解できたのか口を開く。 「煙幕弾三つに、煙幕、石礫二つ、煙幕、石礫二つ……でよろしいかしら?」  指折り数える麗羽。横では工兵の一人がささっと書付をつけている。 「うん、その後は打ち合わせ通り石礫で」 「わかりましたわ。この麗羽にどーんとおまかせくださいませ。おーっほっほっっほ」  任せた! と笑顔で言って、櫓を後にする。本陣に戻る途中で『玄武くん三号』が動き出し、巨大な煙幕弾を空中に放り投げるのが見えた。 「あれやらせたの、あんたね。無茶するわ」  本陣に戻ると開口一番呆れたような声で迎えられた。俺の指示通り、見事公孫賛隊は煙幕の中に紛れ混乱に陥ったようだ。一方で、烏桓の先陣も煙の中に包まれ、その足が止まっている  その煙の塊めがけ雨あられと石が降り、さらに混乱に拍車をかける。最後は何千もの火矢が飛び、まさに仕上げをほどこうとしていた。 「でも、うまくいったろ」 「まあ……ね。白蓮はさすがに頭が冷えたのか、横にそれようとしてるわ。烏桓はまだ進んできてるけど、良い的ね」 「いまは、だろ。間違いなく立て直すよ。ともかく、明命隊の背後からの攻撃が成功するまでは、俺たちは動かずに……って」  今度は右翼が動いていた。もちろん、猪々子の部隊ではない。いかに猪々子が突撃大好きでも、遠距離戦闘が続いている間に、足の遅い槍隊を突撃させはしないだろう。  いま動いているのは、弓矢の扱いに長け、その飛距離と威力を読みきれる部隊だ。すなわち、弓将厳顔配下の二〇〇名。 「……厳顔は見捨てましょう」  功に逸ったか、堪えることができなかったか。  それとも、俺を試すつもりか。  彼女の意図はどうでもいい。ただ、俺はその時、ふつふつと怒りが沸き上がるのを感じていた。指先が体温を失ったように冷たく感じられる。ぎゅう、と握りこんだ拳の中で、爪が肌に食い込んでいるはずなのに、まるで痛みを感じない。 「いや、そうはいかない」  俺の言葉を甘さの発露と感じたのか、賈駆が困ったように眉根を寄せる。 「いい、いま厳顔を救うために兵を動かせば……」 「わかってるよ、賈駆。兵は動かさない。厳顔隊には戦列に戻ってもらう」 「は?」  きょとん、とする賈駆。俺は以前秋蘭から贈られた弓を荷物の中から引き出す。 「ちょっと……あんた、どうするつもり!」  弓の弦を調節している俺に、賈駆が必死で怒鳴る。大丈夫、そんな声を出さなくても聞こえているから。 「すまん、賈駆。また指揮を頼む。……俺よりよほどわかってるよな?」  しっかりと彼女と眼をあわせながら頼むと、真っ赤に顔が紅潮する。おそらくは怒りであろうその感情に申し訳なさを感じながらも、俺の心はなぜかまるで平静なものだった。 「始末つけてくるよ」 「……いうこと……」 「ん?」  何事か呟かれたが、今度は聞こえない。 「あんた、ほんと莫迦ね。霞の言ってたのがよくわかったわ」  いっそ晴れ晴れとした顔で言われると何とも言えない。 「賈文和の指揮の冴え、その目で見届けるといいわ」  そう言って、彼女は口の端を持ち上げて、にやりと笑った。とても恐ろしく、そして、魅力的な笑みだった。  馬が地を蹴る。  周囲では、火矢が射られ、兵士が怒号を飛ばしている。  だが、俺にはそれが聞こえているのにまるで気にならない。わかるのは、ただ、俺の操る馬が大地を蹴って前へ前へと進んでいること。その先には移動を続ける厳顔隊があること、そのことだけだ。  空を切り裂いて、炎をまとわりつかせた矢が飛ぶ。びゅうびゅうと空気を裂く音が耳を震わせる。  厳顔隊は、移動しながら矢を撃ち続けている。こちらは火矢ではないが、さすがの技量といえよう。将軍厳顔はその戦闘で、豪天砲を振るう。  その姿が見えた途端、視界が急に狭まった。  見えるのは、厳顔のあでやかな姿。戦場だというのに目立つ大きな肩当てには酔の一文字が白く抜き取られ。淡い色の髪に揺れるのは美しい簪。豊かな胸を揺らし、厳顔は歩を進めている。  俺にはいま、その姿ともう一つのものしか見えない。  そのもう一つ──構えた鏃の先が、厳顔の姿と重なる。 「息を吸い、息を吐くように矢を放て」  秋蘭に言われた言葉が脳裏に響く。意味を感じ取る暇もなく、俺の腕は一瞬の間に三射を終えていた。 「厳顔!」  呆然とした顔をして、俺の方を見つめる厳顔の豪天砲が揺れた。その砲身に刺さった矢がふらふらと揺れ、一本がぽとり、と大地に落ちた。  再び矢をつがえ、俺は大音声で最後通牒を叩きつけた。 「一度だけ言う! 元の位置に戻れ!」  厳顔は、俺の言葉が耳に入らぬように、肩あてに刺さった矢を引き抜く。すでに大地に落ちた一本、手に持った一本、そして、豪天砲に刺さったままの一本を見比べ、彼女はまるで納得できないというように、俺が弓を構える姿に視線を向けた。  厳顔の部下たちが俺に気づき、ざっと体の向きを変えようとした時、彼女の口から大きな声が漏れた。  それは紛れもなき厳顔の呵々大笑。  戦は、俺たちの快勝に終わった。厳顔隊が配置に戻った後、明命率いる別動隊の後背からの襲撃が見事にはまり、挟撃によって敵軍のほぼ全軍を捕虜にすることができた。  後にわかった事だが、これほどの快勝には、最初の煙幕弾発射において烏桓の大人に煙幕弾のかけらが直撃し、馬上で昏倒していたことが大きかった。麗羽の幸運恐るべし。  戦の終わった本陣には、いま全武将が集まっていた。 「北郷、私は……」  申し訳なさそうに進み出てくる伯珪さん。すっかり頭が冷えたのか、もじもじとどう謝罪しようか悩んでいる様子だった。 「伯珪さん」 「あ、ああ」 「今回、捕虜にした烏桓だけど、部族丸ごと、俺の直属の部隊として雇いあげることにしたんだ」 「そ、そうなのか。しかし、烏桓は裏切りを……」  叱責を受けると思っていたのか、唐突な話題についていけていない様子の伯珪さんをまるで無視して俺は話を続ける。 「でも、俺は騎兵部隊の運用には馴れていない。そこで、烏桓部隊を伯珪さんに預けることにした」 「ちょ、ちょっと待て、私は蜀の将で」  何事か言っている伯珪さんを無視し続けて、じっと見つめる。 「……わかった。その話、受けるよ。……桃香にはそっちから話つけてくれよな」  しおしおとうなだれる伯珪さん。けして罰としてだけでこの人選をしたわけじゃないんだけどな。そのことをわかってくれというのは今は無理か。 「厳顔さん」  俺の声に応えて、厳顔が歩み出てくる。俺が何か言うより前にがばりと大地に平伏していた。 「重ね重ねのご無礼、失礼をいたしました!」 「ん?」 「祭殿の言葉、いまはっきり納得いたしました。この厳顔、北郷殿のことを見誤っておりました!」  おやおや。厳顔の言葉に苦笑いを浮かべてしまう。まさかここまで一気にいくとはね。 「えーと、じゃあ、勝負の件はなかったことにしていかな?」 「はっ。なれど、此度の軍令違反につきましては、どうぞご存分に処分をしてくださりませ」  彼女の言葉を受けて、俺は賈駆に向けて目で合図を送る。 「軍令違反なんてあったっけ、軍師殿?」 「なんだか、二部隊ほど一時的に突出してしまったことはあったけど、特別なことはなかったわね。戦場ではよくあることよ」 「だ、そうだ」  厳顔の顔があがる。その顔に悪巧みをする子供のような笑みが張りついていることに関しては、俺はなにも言わなかった。 「なんで、私だけ……そりゃ、私が悪いわけだけど。それにしても……」  そして、伯珪さんは相変わらず凹んでいた。  帰りの道程は遅々として進まなかった。なにしろ六〇〇〇人からの捕虜を連れているのだ。それを移動させるだけでも一苦労。馬は業に預けてきたし、食糧等の補給も受けることはできたのだが、それでもやはり進軍は早くなりようがなかった。  戦況報告もかねて白馬義従には洛陽に先行してもらうことにしていた。さすがに馬を操る公孫賛たちをこんなにも遅い進軍につきあわせるのはかわいそうだ。  麗羽たちも退屈そうだが……まあ、『玄武くん三号』で変な弾を撃ちだしては遊んでいるくらいだし、放っておこう。おそらくはいずれ信号として使うために真桜が開発していたと思われる色とりどりの発煙弾を片っ端から飛ばすものだから、俺たちの進軍は妙に派手なものとなっていた。  夜空に桃色の雲をつくりながら飛んで行く発煙弾を、大樹にもたれかかって見上げつつ、俺はぼんやりと疲れを感じていた。さすがに短く終わった乱とは言え、久しぶりの戦は堪える。  特に今回は予想だにしていなかったことばかり起きたからな。敵にしてやられるならともかく、味方の先走った行動で他の部隊が被害を受けるなんてのは御免被りたい。  あれも、もしかしたら蜀軍ならそれなりに有利に運べた行動なのかもしれない、とも思う。ただ、魏軍ではそういうスタンドプレーを喜ぶような文化はない。少数の兵に多くの有能な将を配置できる蜀と、多数の兵を計画的に連動させようとする魏の方針の違いもある。 「溜息をつくと、幸せが逃げると言いますな」 「できれば、つきたくないんだけど、色々考えることもあってさ」  不意にかかった声に一瞬背筋が凍りかけて、暖かな調子の声にほっと一息つく。後ろを見なくてもわかる。この声は厳顔──先頃真名を許してもらった桔梗のものだ。 「……此度のことは……」 「いや、そうじゃないんだ。それぞれの軍の特色や、長所をどうやったら取り入れたり、あるいはアレンジ……じゃなかった換骨奪胎して生かすことができるか。そういうことを考えてた」 「ほほう。それで、烏桓も雇ったわけですかな?」  桔梗が俺と同じように大樹の根元に座り込んだ気配がする。俺は相変わらず彼女の方を向くことなく、星のまたたく夜空を見上げていた。今朝方まで降っていた雨も今夜はない。 「ああ、近いかな。アグレッサー部隊を創ろうと思っていてね」 「あぐれさ?」 「こちらの言葉で説明するのが難しいんだけど、教導部隊の一種かな、敵の戦術や戦略を理解して、それを真似るんだ。模擬戦や講習で敵役をやることで、敵の戦闘に耐えられるような部隊を鍛え上げるわけ」 「ほほう」  興味をもったらしい桔梗の気配が少し近づく。彼女に現代世界の話をして、どれほどわかってくれるものだろう。おそらく、魏でさえまともに理解できているのは華琳くらいのものだというのに。 「もちろん、敵対するだけではなく、相手の文化や習俗を理解することで交易や親交に使うことも考えられるしね。伯珪さんにはどっちかというと後者を頼みたいんだけど、なかなかうまく話せないんだよ。……そんな簡単に感情が整理できるわけないよね」 「親族の仇というのは、なまなかなことでは晴れませんからな」  それだけ言って、厳顔は黙り込む。ととと、といい音が聞こえてくるのは、酒を注いでいるのだろう。 「……は……」 「ん?」 「お前様は不思議なお方だ」  ぼうっとしてしまって、少し聞き逃してしまった。夜半に吹く風が、とても心地よい。 「そうかな」 「あの時、殺す気で射かけましたな」  剣呑な空気が満ちる。答えを間違えれば切り捨てられる、そんな空気だ。桔梗はどうやらまだ俺を試したいらしい。 「殺すとか殺さないとか思ってもいないよ。ただ、激情に突き動かされて、桔梗さんを止めることだけ考えてた」  あの時は、おかしいくらいに怒りに支配されていたけれど、いまはそんなことはない。何に憤慨していたのか、それはわかるし後悔はないが、司令官としては下手くそなやり方だったな、と思う。 「わしに撃ち返す暇も与えず三度も射れた者は、これまで一人もおりませなんだ」 「先生がいいから」  秋蘭と祭に弓を教えてもらえる果報者は、この世にそうはいまい。厳顔と黄忠に習う蜀の弓兵も強そうだけど。 「いや、そうではありますまい……いやいや、お前様がそう思っておられるなら、それはそれでよいのかもしれませんな」 「わっ」  力強い腕にぐい、とひきよせられる。豊かな胸に倒れ込み、俺を見下ろす桔梗の顔と正面から向き合う。彼女は、不思議に優しい顔で微笑んでいた。慈愛にあふれたその顔を、俺は美しい、と思った。 「ほんに、お前様は、おかしなお方」  桔梗の顔が俺の視界を埋めつくす。暖かな感覚が俺の唇を覆った。 「閨の中では負けませぬぞ?」  そんな軽口を叩いた通り、寝具の上の桔梗はすばらしいものだった。たわわな胸はもちろん、むっちりとゆたかな肉置きは成熟した大人の女の色香を漂わせる。その一方で、肌は水を弾くと確信させるほどにすべやかに張っており、這い回る指に心地よい弾力を返してくる。 「勝ち負けの問題ではないだろう?」 「いえいえ、殿方というものは、閨の中では必ず己を上に置きたがるものでしてな」  余裕綽々の態度で俺の愛撫を受ける桔梗。反応が悪いというのではなく、快楽は快楽として愉しんでいるが、俺との掛け合いもまた楽しみたいというところのようだ。その証拠に、会話の合間には嬌声と吐息が漏れている。 「この手つき、わしを絶頂に導こうとしておられましょう?」  胸をまさぐる俺の手に己のそれをのせ、さわさわと指の股をいらう。その微妙な接触がくすぐったいような、気持ちいいようなどちらともいえない感覚を伝えてくる。 「そりゃ、気持ちよくなってほしいもの」 「それが男の傲慢というもの」  さすがに、これはかちんときた。いや、そういう風に仕向けているのだろう。  いまの桔梗は俺に本当には心を許していない。最前、負けを認めたのも、そういう度量を示すことで、蜀の地位をひきあげんがためだ。なにしろ伯珪さんがあの態だから、蜀がさらに立場を失うことを避けようとしたのだろう。  桔梗という女性は豪胆で度量の広い武将なのは間違いないだろうが、その実態を計算で表現していくだけの繊細さも併せ持つ。肌をあわせるのまで計算尽くとは言わないが……。  乗せられるのも癪だが、ここは一つのってやろうじゃないか。 「おや、機嫌を損なわれましたかな」  愛撫の手が止まったのを俺が怒ったと判断したのだろう。さすがに気が咎めたような小声で俺を探るように流し目を送ってくる。 「いや、闘志をかきたてられてさ」 「ほほ、これは頼もし、いっ」 俺の急な手の動きにはじめて桔梗の会話が途切れた。意識的な話しかけの最中に快感の吐息をもらしてしまった桔梗はしまった、という顔をする。ほら、余裕のヴェールを一枚はいだぞ。 「はは、これは、手強いかもしれませぬ」  言いながら、すでに顔は泰然としたものに戻っている。俺に絡みつく腕と足を使ってあちらもねっとりと攻撃をしかけてきたようだ。それに抗うことなく、俺は本能に任せて指を、舌を、唇を彼女のなめらかな肌の上に走らせる。  執拗な愛撫を続けることで、ようやく桔梗の体は花開くようにほのかに朱色に染まってきた。すでにとろとろと濡れた秘所を含めて、体中がぬらぬらと濡れたように汗と唾液に塗れつつある。 「男、とっ、いうもの……はっ」  一度気をやった桔梗は、さらに責められても俺にやり返す気力は残っているようで、こちらが太股を舐めあげる間に、俺のものをぎゅっと握ったりくわえたりして愉悦を引き出してくれる。  彼女の口の中は、とてつもなく熱く、火傷するかと思うほどだ。しかし、いやな熱さではけしてない。胎内とは違う、能動的な動きが俺のものを包み込んで離さない。 「俺は、いくらでも気持ちよくしてもらってかまわないよ?」 「ふくっ、どこ、どこまでそれが持ちますか、なっ」  彼女の秘所に顔を埋める。舌をのばし陰唇を舐めこすっていく。ひくひくと反応して吹き出された蜜を、じゅるじゅるとはしたない音をたててすすり上げる。 「ふわあっ」  別に俺とて、彼女を責め苛みたいわけではない。  そうではなく、認め合いたいのだ。お互いに尊敬しあい、心を通わせたい。  これは、一つのきっかけだ。心を開くための、内側をさらけ出すための。 せっかく、肌までさらしてるのだ、心の内をさらけだして交わるほうが、愉しいに決まっている。  いや、それも言い訳かもしれないな。俺は、いま桔梗をむさぼることに夢中だ。桔梗の体から、心から、喜悦を引きずり出し、それをさらに叩きつけることが愉しくてたまらない。一種暴力的な陶酔だとは思うが、俺も一枚一枚と理性と保身の殻を暴かれている気がしてならない。  いま、ここにいるのは、二匹の牡と牝だ。 「ふううっ」 「何度めかな、イったの」  絶頂に達したはずの桔梗の中で、ゆっくりと自分のものをうごめかす。彼女の弱いポイントを圧迫するようにして、逸物の頭をこすりつける。 「ふぁっ、ひどい、ひどいですぞ」  焦点の外れかけた瞳が俺を探す。すでに俺に向かってくる攻撃はなく、ただ、すがりつくように、彼女の腕が、俺の肌を求める。 「俺は傲慢だからね」  彼女の吐いた言葉を繰り返す様に、ようやく俺に焦点のあった瞳が、絶望の色に染まった。  何度彼女を果てさせ、何度彼女の中に精を放っただろう。 「お許しくだされ、も、もう、いきたくなっ、ひぃっ、おゆる、お許しをっ」  俺の腕の中で、苦しそうなそれでいて恍惚の頂きにある声をあげ、昇り詰める桔梗。  もはや感覚が狂ってしまったのか、彼女の体のどこをいじくっても信じられないほどの反応が返って来る。絶頂に至るというよりは、絶頂の波が断続的にずっと襲い続けているといった感じなのだろう、俺が予期しないタイミングでも体が痙攣しはじめる。 「気が、気が狂うてしまいまする!」  涙を浮かべながら、がくがくと俺を揺さぶる彼女の耳元に口を近づけ、突き放すように言い放つ。 「狂えよ」 「ひぃいいいいうぅぅうううっ」  まさに狂ったように悲鳴をあげ、必死で抑えた頭を盛大に振り立てて、桔梗は何度目とも知れぬ絶頂の波にからめ捕られていった。 「お前様はひどいお人。鬼じゃな、鬼」  俺の精液と唾液と汗に体中をコーティングされたような桔梗は力なく呟く。 「一体、これまで幾人の女子を泣かせてきたのやら」 「泣かせては……いないと思うよ」 「では、鳴かせて、と言いなおしましょうかな?」  気だるげに、彼女は訂正した。胸の谷間に溜まった俺の精液を指ですくい取り、人指し指と親指の間に糸を引かせて遊んでいる。 「うっ。い、いま、恋人というか、情を交わしているのは二〇人くらいだと思うけど……」 「なに?」  へたりつくように床に身をゆだねていた桔梗が、音を立てて跳ね起きた。 「いま、この時に、ですか? 昔から数えてではなく?」 「うん。近くにいないからなかなか会えない娘もいるけど」 「あっは。これは、これは勝てぬ。いやはや、なんともはや」  ぽかんと口を開けた後で、唐突に吹き出す桔梗。なんだか、こう、褒められているのかもしれないが、なんともむず痒いな。 「今夜、一人増えた、と思っていいのかな?」  いや、もう朝か……。天幕の外はすっかり明るい。 「ここまで蕩けさせておいて、いまさら放り出しますまいな」  桔梗の熱い体が俺にもたれかかり、その大きな胸が俺にどっしりとのっかってくる。俺は言葉で応える代わりに、その薄桃色の唇に自分の唇を重ねた。 「なんだこりゃ?」  久しぶりに執務室に足を踏み入れた俺の第一声はそんな素っ頓狂なものだった。  部屋中に金銀財宝、布に宝石、珊瑚に宝剣とありとあらゆる宝物が山と積まれ、その全てがしっかり整理され、何事か書かれた紙が張り付けられている。 「んー、送り主と内容かな?」  見て回ると紙に書かれているのはそのものを示す名称と、人名がいくつかだった。これらは一体なんだろうなあ、と悩んでいると、これまた宝物を抱え持って七乃さんと美羽がよたよたとやってきた。美羽なんて、いっぱい持ちすぎてあれじゃあ、前が見えないだろう。 「あ、一刀さん、お帰りなさい」 「おお、一刀、すまんの。居らぬ間、華琳に言われて使わせてもろうておったのじゃ」  二人はあいている場所に宝物を置いて、名前の書かれた紙をこれにも張り付けていく。 「華琳が?」 「うむ、妾あての賂(まいない)の整理を一刀の執務室でしてもよいと言うてもろうての」 「賂、ってこれ、全部賄賂か?」 「そうなんですよー。まったく、みんなちょっと強いものにはすぐ尻尾ふるんですねー」  ぷりぷりと怒ったふりをしている七乃さん。こりゃ本当は怒ってるんじゃなくて、嘲ってる顔だな。 「ええと、どういうことだ?」 「うむ、一刀が烏桓討伐に行っておる間に、宦官どもを一掃したのは知っておるかや?」 「ああ、それは聞いた」  胸を張って自慢げに言う美羽が可愛らしいが、実に彼女はそれだけのことをなし遂げた。  俺が討伐行に出ている間に、一気呵成に親衛隊をはじめとする軍で内宮を囲み、宦官を全て宮廷から引きずり出し、黄河の工事現場に放り込むことに成功したのだという。  なんと三日でその全てをやり遂げたというのだからすさまじい。きっと、風が策を練りに練ったのだろう。 「それでな、その後に、突然、賂が届きだしたのじゃ」 「ああ……美羽が宦官追放の計画をたてたと知って、すり寄ってきたのか……」 「それで、お嬢様と相談したんですけどー、やっぱりこっそりもらっちゃったら一刀さんが怒る気がしてぇ」 「結局、華琳に相談したのじゃ」  七乃さんと美羽がちょっと後ろめたそうに言う。なんだか俺はそこで感動してしまった。この二人が目先の利益に惑わされないなんて。そもそも宝物に囲まれて育っていて、あまり金銭に価値を見出していない美羽はともかく、七乃さんまでがそのような考え方をもってくれたことは素直に嬉しく思う。ま、美羽が本当にほしがったら躊躇しないだろうけど。 「それはわかったけど、なんで、俺の部屋に?」 「華琳に言われての。誰が賂を寄越して来たかを記録することになったのじゃ。妾たちの部屋に置いておくと眼の毒じゃし、誰もいない一刀の部屋がよかろうと」 「ははあ」 「一刀さんのお部屋って、鍵とかしっかりしてますからねー」  確かに言われる通り、俺の部屋は戸締りをしっかりできるようになっている。なにしろ日によっては華琳をはじめ魏の重鎮が寝泊まりするのだ。下手に破られるようなものをつけるわけにはいかない。臨時の宝物庫として使われるのも不思議ではないのかな。普段は嫉妬に狂った桂花を締め出したりするものなんだけどな。 「しかし、賄賂の送り主を記録か……。賄賂を贈ったやつはこれから大変だな」 「もう大変なことになってるであろ」  言うと美羽が、体の各所をぱんぱんと叩き始める。 「うむ、あれ、ええと、あ、あったあった」  服の懐から、竹簡を取り出し、俺に差し出してくる美羽。それを受け取って開くと、いくつかの人名と罪状、刑罰が書き連ねられていた。 「それがすでに始末したと荀ケからもろうたものなのじゃ。妾はよう知らぬ名ばかりじゃった」  その名前の一つに眼が吸いつけられる。足の力が抜けて膝ががくがくと震えた。 「ん? どうしたのじゃ?」 「い、いや、なんでもないよ」  だが、俺は驚愕を隠せなかった。  そこに記された一つの名前と、彼──あるいは彼女──に執り行われた刑に。  いわく、斬首──司馬懿仲達。                         いけいけぼくらの北郷帝第九回(終) 『北郷朝五十皇家列伝』より南袁家の項抜粋 『南袁家集団は袁術を初代とする袁家(美袁家)と、張勲を祖とする張家を中心とする。この二家ははじまりの頃から密接な婚姻関係でお互いをつなぎとめており、当初から同一の皇家だったと考えるほうが自然だろう。  南袁家は皇家の中でも特殊な地位を占める。太祖太帝の時代より、南袁家の血統からは皇帝を出さないことが決められていた。これは、俗説では、袁術が北郷朝開闢以前に帝を僣称していたため、と言われるが、実際にはそうではない。  ……(略)……つまり、袁家がそれ以前は司隸と言われた地域周辺を仲国として領有すると定められていたからである。仲は長安、洛陽を共にその内に抱え、中原の最も生産性、商業流通性の高い地域であったため、この地域を領有する袁家に皇帝位を与えればあまりに強大な権力が集中しすぎるとの懸念からであった。  とはいえ、洛陽には最大の皇家たる曹家がその拠点を置き、長安にはそれに次ぐ董家、賈家が睨みを効かせている状況では、袁家としても強権は振るいづらかったことだろう。北郷朝ではこのような二重、三重の構造が随所に見られ、皇帝以外に特権を集中させないよう細心の注意がほどこされて……(略)……  このような立場から、袁家には揉め事の仲介役としての役割も与えられるようになった。和睦がなったときは当事者全員に仲印の蜂蜜を送るのが慣例であった。この習慣が西方に進出していた各皇家に伝わり、後に親密な関係──蜜月をハネムーンと称するようになったのは有名な雑学知識で(後略)』 ※ギョウは本来は業におおざと。本編では業にて代用しています。