〜いけいけぼくらの北郷帝〜 第八回 『有為転変』 「董卓様っ」  硬直して棒立ちとなった少女の前に、華雄が走り寄りがばりと平伏する。 「董卓様、華雄でございます。生きておいでとは、この華雄、華雄めは……」  後ろの方は嗚咽に紛れて聞き取れない。少女は道に平伏する華雄に手をさしのべ、優しくその肩をなでる。 「華雄……やはり生きていらしたのですね。あなたの消息だけはつかむことができず、長い間苦労をかけてしまったようですね」 「いえ、わたくしのほうこそ、至らぬばかりに……董卓様に、ご不自由を……」 「華雄……」  董白……いや、董卓の目尻にも涙がにじんでいる。反董卓連合の戦いの中で死んだと思われていた同士の再会だ。胸中に飛来する思いも様々にあることだろう。俺もつられて涙ぐみそうだ。 「わふっ」  ……そういう空気をまるで感じてないのもいるが。 「セキト……?」  鳴き声につられて董卓が顔をあげる。犬を抱えている俺の姿を認め、不思議そうに首をかしげた。 「北郷さん……?」  この場ではお邪魔虫だとは思うがしかたない。近づいていくと、腕の中の犬は俺の手をするりと抜け出し、董卓の胸めがけてジャンプする。 「わっ……」  なんとか受け止める董卓。セキトと呼ばれる犬は嬉しそうに鼻面を董卓の肩にこすりつけている。 「どうも、会談以来だね。君が董卓だと知っていれば、もっと早く華雄に引き合わせていたのに」 「なに、あの会談にいたのですか。これは一生の不覚……っ」  だん、と土を殴る華雄。本当に悔しそうだ。主と仰ぐ人間がすぐ側にいたというのに見逃していたというのでは確かに忸怩たる思いを抱くだろう。 「董卓の名は隠しておりましたから……」  もう意味がありませんね、と少女は儚く笑う。董卓、という名前からは想像もできないような笑み。この世界に来て色々馴れたと思っていたが、まだまだ奥は深い。  しかし、この娘が董卓だとすると、あの眼鏡の娘は賈駆、あるいは陳宮か? いや、陳宮は呂布と一緒にちんまいのを紹介された覚えがあるから、やはり賈駆か。  華雄が、ざっと俺と董卓に体を向け、姿勢を正して、拳で大地を抑えるようにして礼を示す。 「董卓様! 北郷様!  この華雄、董卓様が処刑されたという虚報に惑わされ、流浪の身と成り果て、遂に賊に身を堕とすまでになっておりました。そこを北郷様に助けて頂き、様々に受けた恩徳、いまだ返すにふさわしい働きはできておりませぬ。なれど、董卓様が生きておられるというのにこれに尽くさぬは臣下として不義でありましょう。北郷様を捨て董卓様に仕えるも不忠、董卓様を肯んぜず北郷様に仕えるも不忠。  ここはひとつ、お二人にこの素っ首をさしあげることでお許しいただきたい! 御免っ」 「華雄! 止めよ!」  どこに隠してあったのか、短剣を首筋に当てる華雄の行動を遮ったのは董卓の鋭い叫びだった。喉まで出かかっていた叱責を押し込めて、俺は彼女の行動を見守ることとする。 「し、しかし」 「愚か者が! 死を安易に選び取ることこそ不忠となぜ気づかぬかっ!」  小さな体から裂帛の気合が飛び出し、びりびりと空気が震える。抱えられているセキトはといえば耳をぺったり伏せて震えている始末。その声に、さすがの華雄も剣を収めずにはいられなかったようだ。 「もうし、もうしわけも……」  再び平伏し、嗚咽を繰り返す華雄の体を起こし、その涙でべちょべちょの顔を拭ってやる。 「落ち着いて、華雄。色々とごちゃごちゃになっているだろうけど、俺も董卓さんも、逃げたりしないんだから、ね」 「う、あ……」 「華雄」  董卓さんが膝をつき、華雄の視線の高さに自分のそれをあわせる。 「洛陽陥落以後、長い間、本当に苦労をかけてしまいました。私には、いまのあなたの行動だけで充分です。存分にあなたの忠節を頂きました。なにより、いまの私にはあなたにふさわしい働き場所を用意してあげることができません。ですから、どうか北郷さんの下で、この国のため、いえ、この地に生きる民草のため、存分にあなたの力を振るってください。お願いです」  セキトを抱えてないほうの手で、ゆっくりと華雄の頭をなでる董卓。感極まったように大声をあげて泣く華雄を、俺たちは二人で抱きしめてやるのだった。  邸に寄っていけばいいのに、と誘う董卓さんの誘いを、正式な使者を立てているし、すぐにまた訪ねさせてもらうからと断り、俺たちは二人共に早足で鎮西府に戻っていた。 「華雄は行ってきてよかったんだよ」 「いや……。無理だ、落ち着かん」  表情をころころと変えて、華雄が言う。あれだけのことをしでかしてしまったので、妙に気恥ずかしいのかもしれない。 「それに、護衛の任もある」 「それはありがたいけどね」  鎮西府につくと、俺と華雄は広間に入った。なにか事があれば作戦司令部となるのだろうが、現状では将クラスの人間のための歓談スペースでしかない。  まだ馬岱が着任していないため、いまは霞の部下と俺が連れてきた祭や袁紹たちしかいない。袁紹は俺が広間に入ってからそわそわしているようだが、さすがに逃げていきはしないようだ。  霞が俺と華雄の顔つきを見て、部下に下がるよう指示する。彼らが広間の扉を閉めるのを待って、俺は口を開いた。 「董卓に会ってきたよ」  袁紹や祭たちの怪訝そうな顔の中、霞だけが、予想していたように頷く。その彼女の下へ、華雄はつかつかと近づいていく。 「霞、なぜ言わなかった」  武裝していないが、闘気だけは膨れ上がる。一方の霞もその反応にかちんと来たのか、腕を組んで待ち構えている。 「ちょぅ待ちぃや。三国会談の時も、大事な人紹介する言うて連れてことしたのに逃げ回っとったのはあんたのほうやろ。だいたい、なんで恋たちといっしょに桃香のとこ行かんねん。そしたら、月っちにも合流できとったんやで」 「それは、その……道に迷って、だな。し、しかし、董卓様が生きておられることを話すことはできたろう」  出鼻をくじかれた華雄がいつものように顎に手を当てて反論する。 「そうはいかんやろ。そりゃ、知っとる連中も多いけど、それにしたって暗黙の了解ちゅうやつで黙ってることになっとるんや。うちかて話したくないわけあるか。しかも、せっかく会わせよ思てるのに逃げられ続きやったらやな」 「そ、それはすまぬが、だが、だな」  俺は二人の間に入って、ぱん、と一つ手を打った。 「二人とも、そこまで」 「一刀」 「しかしだな……」 「そこまで、だよ。二人とも、元董卓軍の同僚として、色々言いたいことはわかる。わかるけど、ここはひとまず置いておこう」  ね、と二人に笑みを向けると、渋々、といった様子で二人とも頷いてくれる。 「袁紹や祭にはさっぱりわからないことだし、ちゃんと最初から話を進めよう。袁紹、斗詩、猪々子、祭、ちょっとこっちに来て」  そう言うと、俺は卓の一つに近づく。皆はそろってその卓につきはじめる。 「袁紹は反董卓連合の盟主だったけれど、董卓の顔は知っていた?」 「……顔……いえ、知りませんわ。たしか……涼州のあたりの出とか?」  眉間に皺を寄せて考え込む袁紹。このあたり、仕種が美羽にそっくりだ。血のつながりとはこういうものなのだろうか。しかし、眉間に皺を寄せる癖は美羽も袁紹もなおすべきだろう。せっかくの美人が台無しになるのは惜しい。 「袁紹が知らないくらいだから、俺たちは当然知らない。洛陽に攻め入った時、俺の隊は二人の少女を保護したんだ。董卓の顔を知らない俺たちは、その二人が董卓に攫われたかなにかした娘さんだろうと思った。暴政の噂があったからね」 「董卓様は暴政など!」  華雄が憤懣やる方ないという感じで袁紹をにらみつける。しかたないところだろう。彼女とて、色々わかっているはずなのだが、やはり董卓に会って興奮が醒めやらないのだろうな。 「うん、わかってる。あれは、やっぱり、袁紹たちが仕組んだのかな?」  そのことを責めるつもりはない。あの当時の情勢を考えれば、都に入った者は誰でも攻め寄せられる可能性があったのだ。袁紹が盟主だっただけ、配下の群雄達が事態をコントロールできてまだましだったとも言える。 「ええと、たぶん、田豊さん、いえ、許攸さんがそういうお話を持ってきたんでしたっけ? 斗詩さん」 「さあー……すいません。あの頃、私たち軍事行動以外はあまり関われませんでしたから……」 「あたいたち、姫と本格的に親しく出来たのって、流浪し始めてからじゃないですかー」  記憶が曖昧らしい袁紹は、二人を頼ろうとするが、配下の二人も知らないらしい。そうか、反董卓連合で実際に動きが出てからだったから顔文の二枚看板が目立っただけで、裏で推し進めたのは他の側近なんだろうな。 「も、申し訳ございません、我が君、わたくし、よく憶えておりません……」  なんと俺は縮こまる袁紹という世にも珍しいものを見ることが出来た! この人も反省とかするんだな……。これまでの認識を少々申し訳なく思う。 「袁紹の野望と周囲の謀臣の思惑が一致して、そのような噂が流れるに至ったというところでしょうな。君は臣の責任を負うが、だからといってその全てを制御できるわけでもない。華雄も霞殿も様々思いはあろうが、ここは飲み込んでおくことじゃ」 「まあ、うちはしゃあない思てるよ。十常侍のクズどもを早う始末できひんかったんはうちらの責任もあるし」 「うむぅ……」  三者三様の祭、霞、華雄はひとまず置いておいて、話を続ける。 「そんなわけで、董卓自身を知らずに保護した俺たちは、彼女たちを劉備さんたちに預けることになった。その頃は華琳のところも余裕があったわけじゃないからね。その後は……霞がわかるのかな?」 「あー、ええと、うちも詳しゅうはわからんけど、月たちは名と身分を隠して、侍女をやっとったらしいわ。その後に呂布っちとねね──陳宮が劉備んとこに合流して、そん時に華雄もてっきり思てたんやけど、違たわけやな。ほんで、成都がうちらに陥落させられる直前に董卓、賈駆、呂布、陳宮の四人は成都を出され、長安に落ち着いたっちゅうわけや」 「ううむ、董卓様たちがそのような苦労をなされていたとは……」  華雄は一転、ずーんと落ち込んでいる。確かに主が生きていることを知らず長い間別に行動していたと知れば、へこんでしまうのもわからないではない。 「それにしても董卓たちが生きておったとは、驚きですな」  祭が生きているってこともかなりの驚愕の事実なんだけどな。なにしろ、俺たちは祭があの赤壁で炎に巻かれている姿を……あ、思い出したら気持ち悪くなってしまった。 「そうは言っても、黄巾党の張角、張宝、張梁ですら生きているくらいだからね……」 「は?」 「あら、祭はん知らなかったん? 天和、地和、人和がその張三姉妹やで」  あっけに取られる祭に説明する霞。だが、その言葉を聞いて、さらに驚愕の声を上げる人達がいた。 「ええええぇぇ!!」  斗詩と猪々子が仲良く声を揃えて驚く。猪々子なんてびっくりしすぎてのけぞっているくらいだ。その中で袁紹一人驚いていないのは、気づいていたのか気にもならないのか。うん、大物なのは大物なんだよな。 「斗詩たちも知らなかったの!? あんな近くにいたのに?」 「そ、そりゃあ、わかりませんよ。えー、地和ちゃんたちが黄巾の乱の首謀者なんですかー?」  混乱する斗詩たちに、簡単に事情を話して聞かせる。それを聞いた彼女たちは色々あるんですねえ、と感慨に耽っているようだった。 「ともあれ、今回の旦那様に与えられた任は董卓、賈駆、陳宮、呂布を洛陽に連れて行くこと、となりますかな。この面々だと意思決定は賈駆か董卓でありましょう。呂布を説得しようという目論見は外れましたな」 「しかし、董卓様は呂布よりは話が通じやすいと思うぞ」 「確かに月は聞く耳もたんちゅうことはないやろけど、問題は賈駆っちやなー。詠は依怙地なとこあるさかい」  謀士賈駆、か。俺の知ってる歴史と同じほどの人物なら、その頭脳の冴えは恐ろしいものだと言うことになる。俺は、あの時の眼鏡をかけた娘のことを思い出してみる。確かに、意志の強さを感じさせる子だったな。 「なんにしてもまずは顔合わせだよ。今回の遭遇は突発的だったしね」 「せやな。まあ、ゆっくり説得したらええよ。うちも協力するしな」 「うむ、私も出来るだけのことをしよう」  今後のことを少し打ち合わせ、今日はそれで解散となった。その打ち合わせの間、袁紹が普段の笑みをひっこめて何事か考えているのが俺は少々気になっていた。  董卓たちの邸は、この間の遭遇場所にほど近い、静かな屋敷町の突き当たりにあった。元々屋敷町は、町の大城壁を背にする形で長々と続いていたようなのだが、董卓邸はその端、角地にあたる。 「ずいぶん……物々しいですな」  鬼の面をつけた祭──たぶん、これが正装のつもりなんだろう──が、小さく耳打ちしてくる。 「え?」  ご覧なされ、とうながされ、彼女の指の先を追うと威圧的な門がある。確かに歩いてきた時もこの町並みの中ではかなり大きな門だと思ったが、近づいてみるとなお大きい。いや、大きいというよりは重厚感があると言ったほうがいいだろう。まるで、洛陽の城の門を見るようだ。 「分厚い門の上に、門樓には狭間が切ってあるのが見えましょう。いまは人はおりませんが、いつでも矢を射かけられる配置ですな。周囲の町屋敷とはものが違う」 「角地なのも、攻められる方向を少なくするためか……。さすが賈駆、というべきかな」 「それだけで済めばよろしいが……」  すでに連絡してあったため、門の横の通用門が少し開かれ、その向こうに、見覚えのあるちびっこの姿があった。淡い髪に大きな瞳の少女は黒と白が基調の服に身を包み、不機嫌そうに俺たちがやってくるのを見ている。陳宮、字はたしか公台。三國志の物語を知っている者にとっては、当初曹操に仕え、後に呂布を引き入れた人物ということになるが、この世界では当初から呂布の下にいるらしい。そもそも年齢的に、華琳の下に来ている暇がないだろう。 「おー、ねね、久しぶりー」 「張遼どの、お久しぶりなのです。本日のお客人は、張遼どの、華雄どの、袁紹どの、文醜どの、顔良どの、黄権どの、北郷一刀どのの七人で間違いありませんですね?」 「お、おう」  親しげに話しかける霞に、硬い調子で返す陳宮。その様子に少々驚いたのか、霞は珍しくどもって応える。  これは、少々厄介だな。華雄に霞と顔なじみもいるとはいえ最初から歓迎されるとは思っていなかったが、ここまで心を許していないとは。 「兵士等はいないようですね。結構です。ついてくるがいいです」  俺たちを招き入れ、通用門をしっかり閉めると、陳宮はそう言って歩きだした。俺たちは声もなくそれにしたがって歩く。皆、言いたいことはあるだろうが、袁紹でさえ黙っている状況──非常にありがたい──なので、なにも言いだす者はいない。  屋敷の中は緑がいっぱいだった。まるで林の中にいるかのようにみっしりと木々や竹が植えられて、その中に小道のようなものがしつらえられている感じだ。 「すごい庭だね」  話しかけてみても、陳宮から返事はない。 「ちょっと、ちびっこ! わ、我が君が話しかけて……むぐぐぐ」  袁紹があまりの反応の悪さに痺れを切らしたのか声をあげるが、斗詩と猪々子に止められていた。ちびっこと呼ばれた途端、陳宮の肩がびくんと跳ねたが……そこに触れたらだめなんだろうな。  そんな風に少々ぎこちない空気の中、俺たちは邸内に通された。すでに董卓、賈駆、呂布の三人は円卓について俺たちを待っていた。卓の上には豪華な料理と茶がすでに用意されており、一転歓迎ムードだ。少々戸惑いつつ、うながされて席につく。  軽く自己紹介を済ませたあとで、霞の鎮西将軍就任を祝い、華雄の無事を祝い、董卓たちの無事を祝って、和気あいあいと会談は進む。  しかし、肝心の用事を切り出そうとすると、たいていが賈駆によってするりとうまくかわされ、話題をそらされる。呂布が無口でほとんど喋らず料理を食べており、董卓があまり表に出るタイプではないので、俺たちが相手をするのはほとんどが賈駆と陳宮という軍師組で、余計にうまく誘導されている感がある。  途中、この間の犬がわふわふ言いながら乱入してくるに至って、俺は確信した。彼女たちは俺に話をさせない気だ。  なぜか俺の膝の上に陣取ったセキト──もしかして、この世界の赤兎馬なのか、これ──に犬に害にならなさそうなものを卓からとってやりながら、俺はどう切り出すか悩んでいた。どう話を持っていっても、彼女たちはすり抜けてしまうだろう。多少礼儀に外れるが、直接切り込むしかあるまい。 「ええと、董卓さん、賈駆さん、呂布さんに陳宮さん。聞いてほしいことがある」 「ん? 今日は挨拶と聞いてたけど、なにかボクたちに話があるの? そんなの聞いてないわよ、霞」 「とにかく聞いてくれ。実は君たちに洛陽に来てほしいんだ」 「洛陽なら、この間の三国会談で行ったばかりです」 「まあ、また訪ねるわよ」  またはぐらかそうとする二人の軍師少女の言葉にかぶせるように無理矢理発言する。 「そういうことじゃない、洛陽に定住してほしいんだ」  俺がようやくそれを言うと、間髪入れずに、眼鏡の少女はまっすぐと俺を見て、言った。 「いや」  と。 「華琳の部下になれという話じゃなくて、ただ洛陽に……」 「すでに否定しましたぞ」  言い募ろうとする俺を遮り、さらにそれに董卓が続く。 「皆さんとお会いするのは愉しいですが、私たちはここでひっそりと暮らしていきたいのです」 「しかし、董卓様……」  思わずと言った様子で華雄が口を挟む。彼女にしてみれば、董卓たちが洛陽に来てくれれば俺に仕えるのと並行して色々と世話ができると考えているのだろう。  その様を見て、はあ、と賈駆が大きく溜息をつく。 「まったく……」  呆れたように言いながら、華雄のまっすぐさには不快を感じる様子もなく、代わりに俺をにらみつける。 「あんた達も魏の中枢近くにいるんだったら、涼州兵が蜀から離れて帰還したのを知ってるでしょ? あれは月が蜀を離れたからよ。月が生きていることが公にならなくても、それだけの精兵が集まる。たとえボクたちが華琳に仕えるわけじゃなくても、洛陽に居を移せば、そういう動きが起きかねないの。恋だってそう。動けばそれだけの反響がある。ボクたちはね、そういうのとは無縁でいたいの」  その懸念はわかる。というよりも、俺はその点こそが彼女たちを洛陽に招く意味だと思っていたからだ。 「影響があるのはわかる。でも、それはそこまで大きな影響にはならないんじゃないか。洛陽に移るだけならば」 「どういうことよ」 「確かに、君たちがいま蜀に戻れば、三国は緊張を強めるだろう。それは、三国のパワーバラ……いや、勢力の均衡を崩せるのは、君たちが蜀についた場合だけだからだ」  多少は興味を惹けたのか、相変わらずおいしそうに料理をたいらげている呂布を除く三人が俺を伺うように見つめてくる。 「蜀に涼州兵及び涼州に影響力を持つ董卓さんがつく意味ってのは、こうだと思う。蜀の生命線は、南方と西方だ。南方は南蛮、西方は涼州。この際南方はおいておいて、西方に限ると、シルクロード……ってのは後世の呼び方なんだっけ……ええと、とにかく西方の遥か彼方からの文物が流入する道を抑えられるってのは大きい。  しかし、現状、涼州は魏ががっちり抑えている。そこにせめて貿易面で食い込むには董卓さんの影響力は非常に魅力的だ。魏にしても、精鋭の兵と董卓さんの影響力を行使されるのは警戒せざるをえない。  しかし、呉についた場合や魏についた場合は、それほどの影響力を持たない。さっきも言った通り魏はすでに涼州を支配しているし、呉はあまりに離れているからね」  ようやく皆が聞いてくれる状況で、俺はなんとか話を進めていく。 「現状、君たちは長安にいる。三国からすれば、どこにつかないにしても魏の保護下にいるとみなされるだろう。でも、それは不安定だ。董卓さんや賈駆さんは生きてないことになってるけど、どこからか聞きつけて担ぎだそうとする人もいるかもしれない。呂布さんたちも同様だよね。華琳だって不安定要素を取り除きたいのは間違いないと思うんだ。だから、どうだろう……?」 「こちらの意向は無視ってわけですか。毎度のやり方です」  陳宮がぷーとむくれて俺に攻撃的な言葉を吐く。確かにそう言われれば反論はできないのだ。華琳にしてみれば、大陸の安寧を考えてのことだろうが、彼女たちにしてみれば、俺こそが安寧を亂す闖入者に他ならない。 「ま、そういう世の中なのはよく分かってるわ。でもね、窮鼠猫を噛むとも言うわよ?」  がたん、と音を立てて、賈駆は席を立つ。腰に手を当て、俺を睥睨して彼女は宣言した。 「ボクたちは、独立不羈を誓ったの。ボクたちはここから出るつもりはないし、なんの野心もない。ただ、放っておいてくれればいい。帰って華琳にそう伝えるといいわ」  賈駆の宣言は、けして独りよがりなものというわけでもないらしい。董卓も陳宮も同意するように頷いている。一人呂布だけが我関せずとばかりに料理をぱくついている。なんか、季衣を思い出すなぁ。 「独立、か……。ならば、この館が攻め落とされたならば、なんとする?」  俺が言葉を脳内で選ぼうとしていると、祭が切り込むように言った。彼女は今日は酒を飲むこともなく、これまで大人しくしていたのだが……。 「あんた、黄権って言ったっけ。聞かない名前だけど、呂布相手にことを構えるつもり?」  黙々と料理を頬張っていた赤毛の少女が、自分の名前を聞いて顔をあげる。 「そのようなことするまでもない。長安の商家にふれを出すまでじゃ。この邸に関わるものと商いをすることまかりならん、と」  賈駆の顔が歪み、軽蔑するように祭をにらみつける。 「お、おい、祭」  制しようとする俺に、目線で合図を送ってくる祭。俺はそれで彼女に任せることにした。華雄と霞が口をはさみたそうにしていたが、それも抑えることにする。しかし、袁紹たちは今日は静かだな。猪々子は食べてばっかりだが。 「兵糧攻めとは卑怯なのですよー!」 「……ごはん……」  陳宮の発言は図らずも彼女たちの弱点を露呈していた。確かに呂布という武や董卓の持つ影響力は脅威だが、それ以外はただの四人の少女たちにすぎないのだ。しかし、呂布の哀しそうな顔は見ているだけで辛い。 「先に旦那様も言っておった通り、曹魏に仕えよとは言わん。ただ、洛陽に来てもらえればよいのじゃ。不羈というなら、洛陽の城下でもよかろう。どこにおっても誇りを保てばよいのじゃ」  その言葉は彼女の生涯を知っている俺たちにしてみれば、とても重いものだ。江東の虎の片腕として暴れ回った女傑が、美羽の下で過ごした雌伏の時のなんと長かったことか。 「それは……」  痛いところを突かれたのか、思わずといった風に董卓が声を漏らす。それを慌てて賈駆が止めようとするところなど、動揺が明らかだ。 「長安でないといかん理由などないじゃろ。故地でもなし、縁者がおるとも聞かん。ただ、洛陽にいないのは、曹魏の秩序にまきこまれるのを避けた結果と見たが、どうじゃ?」  じっと祭の鬼面をにらみつけていた賈駆が、ついに諦めたようにがっくりと肩を落とした。 「ええ、そうね。洛陽で悪い理由はない。でも、ボクたちの意志を無視して無理矢理移住させられるなんて業腹だわ」  そこまで言うと、彼女はにやり、と悪戯っ子が新しい悪戯を思いついた時のような悪い笑顔を浮かべた。 「そうね。移住してもいいわよ」 「詠ちゃん!?」 「賈駆どの!?」 「落ち着きなさいよ、月もねねも。ただし、条件をつけさせてもらうわ」  にらみつける対象を祭から俺に移して、彼女は言う。 「それくらい、いいわよね?」 「えっと、それは条件次第だけど……」 「寛大な条件よ? そこの袁紹と部下のあわせて三馬鹿を洛陽での邸に、下女として派遣してくれればいいだけ」  突然指名された猪々子がぶっ、とくわえていたものを吐き出す。斗詩はぽかーんとして動きを止めている。あまりのことに思考停止しているらしい。 「どう? 受けられないんだったら……」  受けられるはずがない、と踏んでいるのだろう。賈駆の顔は得意満面だった。普通に考えればそれは正しい。あの袁紹が、下女の仕事などにつくわけがない。いかなる理由にせよそんなことをすれば、袁家全体の権威は地に堕ちる。  だが、彼女の言葉を遮る声が一つ。 「よろしいですわ」  全員──いや、呂布以外──の眼が、その声の主に集まった。いつも通りの笑顔を浮かべたまま、金髪をふりたてて彼女は言う。 「下働き、お受けしましょう。ああ、でも、わたくし一人で充分ですわ。三人分働いて見せますわ」  それは、袁本初の平静とまったく変わらぬ声であった。 「麗羽様、また莫迦なこと……」 「姫、わかってるんですか、下女って言ったらなんでも……」 「お黙りなさい!」  斗詩と猪々子がいつものように慌てて止めに入るのを、一喝して黙らせる袁紹。 「この袁本初の言をなんと心得るか! ……これは、わたくしの決めたこと」  きっぱりと言い切る袁紹に、普段と違う気迫を感じているのか、猪々子は口をぱくぱく動かすばかりでなにも言うことができていない。斗詩が、なぜか俺の方をじっと見つめて、頭をぺこぺこ下げているのはどうにかしてくれ、ということだろうな。 「そんな、莫迦な……」  一方、賈駆のほうは、愕然とした表情で、よろよろと後退っていた。無理難題をつきつけてみたらあっさりと承諾されたのでは、謀を巡らす暇もないだろう。 「董卓さん?」 「え、は、はい」  俺は董卓に話しかける。彼女も呆然としていたが、反応はしてくれた。 「今日はここまでとしませんか。もちろん、先程の交換条件もなしで」  我が君!? とすっとんきょうな声が聞こえてくるが、無視しておく。なんだか暴れ出して猪々子に止められてる金髪の女性のことはこの際、鬼となって無視しなければならないのだ。 「ええ……それがいいと思います。ね、詠ちゃん」 「……あとで文を届けるわ」  むっつりと何事か考えている様子で、賈駆は俺をねめつけるようにしながらそう言った。  夜、俺は賈駆とやりとりした何通かの書簡を読み返していた。あの後、お互いに納得しがたいから、なにか勝負をして決着をつけようという同意に至っていたが、なにをして決めるかという段になって途端に話が進まなくなっていた。  なにしろあちらにしてみれば祭が言っていたような兵糧攻めにされるのは御免被りたいところだろう。といって、呂布と武を競うなどというのはこちらに不利だ。今の華雄ならあるいは拮抗するかもしれないが、元董卓軍同士で決着をつけろと命ずるのは心情的に厳しい。  あちらとしても、呂布の武という有利を手放すことはないだろうが、それにしても、ある程度はこちらも挑みやすいものにしておきたいところだ。 「とはいえ、やっぱり、呂布がなあ……」  俺はふう、と息をついて書簡から目を離し、部屋の外に広がる庭に目を向けた。ここは霞か馬岱が住まうはずの部屋で、それなりに広い上に他の部分とは大きく庭でしきられている。鎮西府の主の無聊を慰めるために色々と工夫されているのだ。元来、鎮守府は中央から離れた辺境に配せられるものなので、こういう配慮がなされているのだろう。長安は開けているのでそこまですることもないのだが、モデルケースということなのかもしれない。  本来は霞がここにいるべきなのだろうが、俺の部屋はその……夜にも度々人が訪れることがあるので、こういうことになっている。  庭にはかすかに月の光が落ち、青い闇が漂っている。日本庭園ならもう少し開けた配置をするのだろうななどと思うが、この庭は自然の一部を切り取ったかのような風情になっている。その中で一つ目をひくのは岩をいくつか組みあわせた小山のようなものだ。おそらく泰山か何処かの聖山を現しているのだろう。  導かれるように、障子をくぐり抜け、濡れ縁に座り込む。 「静かだな……」  虫が鳴くには季節が早い。遠くから山鳥の声がかすかに聞こえるような気がする。酒の一つも持ってきておけばよかったか、と後悔するが、動く気にもなれず、俺は夜の風を感じていた。 「……きみ? 我が君?」  体を揺さぶられる感覚に、目を開く。あれ、俺はどうして目を閉じていたのだろう? 「んぅ?」  鼻にかかるような声も自分が発したとは思えない。どうやらいつのまにかうたた寝していたらしい。 「袁紹?」  見上げれば、美しい金髪の女性が俺に向かってかがみ込んでいる。俺が顔をあげたことで、彼女はぱっと大げさな身振りで飛びすさった。 「こ、こんなところで寝てますと、か、風邪を召しますわよ」 「ああ……そうだな、ありがとう」  まだぼんやりとした頭で礼を言う。にへらと変な笑みを向けてしまったからだろうか、袁紹の顔が真っ赤になるのが見えた。  頭がまわってくると、だんだんと袁紹の姿も認識できるようになってくる。  たっぷりとした髪の金は、美羽のとろけるような色あいと比べると少々硬質だ。美羽を蜂蜜色とすれば、袁紹のそれはまさに金属の黄金の輝きだろう。その髪が、月の淡い光に照らされて輝いている。  じっと見つめている俺を少々不思議そうに眺めている顔は非常に整っていて美しい。そのくせやわらかさを失わず冷たくならないのは、いつも浮かべている笑顔のせいなのか、黒目がちな大きな眼のせいなのか、俺にはよくわからない。  俺は、ただその時、月明かりに照らされて闇の中に立つ彼女を綺麗だな、と思った。 「綺麗だ」  あ、口に出てた。まだ寝ぼけてるな、こりゃ。 「なっ」  さらに赤くなり、大げさな身振りでそっくり返る袁紹。 「わ、わたくしが麗しいのは天地開闢以来不変の理(ことわり)ですわ。けれど、わ、我が君にそう言われると悪い気はしませんわねっ」  天地開闢以来とはこれまたすごいが、確かに彼女は綺麗だし、それを告げて喜ばれればそれはそれで嬉しい。  不意に吹いた風にぶるっと体が震える。もうすでに夏の気配は近づきつつあるとはいえ、夜半はやはり冷える。特に俺は温度調節が行き届いた現代暮らしが長かったからな……。 「少し冷えるな……、袁紹、部屋に入らないか?」 「よ、よろしいんですの?」  ちょいちょい、と手で招いて、先に部屋の中に戻る。火桶の炭を起こして、暖をとれるようにする。袁紹は少し躊躇いながらも、俺に続いて部屋に入ってきた。彼女のために、二つばかり灯を増やす。 「そういえば、袁紹はなんで俺のこと我が君なんて呼ぶんだ?」  ごそごそとなにか呑むもの──酒を用意しながら、訊ねてみると、彼女は少しびっくりしたように眼を見開き、その後、ふっと微笑みを浮かべた。  その時の少し寂しげで、それでいてなにかを引き当てたかのような表情を、俺は二度と忘れないだろう。つい取り落としそうになった酒瓶を、ぎゅっと強く握る。  それほどの衝撃を受けたのは、きっと俺がこの女性を見くびっていたからだ。彼女がそんな複雑な表情を浮かべるはずはないと心のどこかで思い込んでいたのだ。彼女を軽んじていた自分の愚かさに、俺は愕然となる。 「その前に一つよろしいかしら?」 「あ、ああ」  愚かで醜い自分自身に思わずも対峙して心揺れつつ、俺は答える。なんと言うことだ。自分が見たもの、自分が感じたものを素直に受け止めることも忘れて、ただ、相手を莫迦にしていたなんて。  彼女はそんな俺の内心の動揺に気づいた風もなく、寂しげな色を強めて訊く。 「なぜ、麗羽と呼んで下さらないのでしょう?」 「え?」  俺のきょとんとした顔に、ショックを受けたように眉を寄せる袁紹。 「真名で呼んでほしいと、わたくし、言っておりませんでした?」  こくこくと頷く。猪々子と斗詩には真名を許してもらったが、袁紹とはそういう記憶はない。そもそも俺が寄るだけで逃げ出すことが多かったわけで……。 「わたくし、お莫迦だから、忘れてしまっていたようですわね」  呟くように言うと、居住まいを正し、まっすぐ俺の正面に座りなおす。 「どうか……我が君。どうか、麗羽と……」  真名を許されているのはこちらだというのに、まるで悲痛な訴えのように聞こえるそれ。あらためて、俺はこの世界における真名の重大さを思い知った。真名を許されることの信頼と責務は、表面的なその行為の簡単さに比べて遥かに大きい。 「ん、わかった。これからは真名を呼ばせてもらうよ、麗羽」  酒をようやく用意し終え、二つの酒杯に静かに注ぐ。それを麗羽に渡すと、彼女は杯を捧げ持ったまま、こちらが口をつけようとするまでじっと動かずにいた。俺が杯を傾けると同時に、麗羽の両手が優雅に傾き、杯を乾す。  まるで固めの盃だな、と俺は一人赤面する。 「わ、わたくしが我が君とお呼びする理由、でしたわね」  もう酒がまわったのかなんなのか、ほんのりと桜色に染まった顔で麗羽が言う。その様がなんだか色っぽく、俺はついついもっと酒を呑ませたくなって、杯に注いでしまう。 「うん」 「わたくし、人生で挫折と言えるものは、二度しかありませんの」  突然に、彼女はそう宣言した。自信に満ちたその表情は、けして一朝一夕に出来上がったものではない。袁家という脈々と流れる名族の血がそこにあるのだと、いまならわかる。裏付けがあろうとなかろうと、彼女は生まれた時からその自信を身につけてきたのだ。  桂花あたりに言わせれば意味のない空手形のようなものと酷評するだろうが、俺にはなんだかそれが好もしくも思えたのだった。 「一度は官渡の戦いかな?」 「あんなもの大したことはありませんわ」  ほら、この自信。あの世紀の大決戦、実のところは赤壁よりも重大な歴史の分かれ目だった戦いを大したことがないと言い放てるのは、その資格を持つのは、この世で二人しかいない。華琳と、眼の間にいる麗羽だ。 「戦に勝ち負けはつきものでしょ。負けても愉しくやっていられますもの」  そう言い切れる人間がどれほどいるだろう。美羽にしろ麗羽にしろ、わがまま放題で我慢強くもないくせに、どこかでからっとしている。それを忘れっぽいだとか気まぐれだとか言うのは簡単だ。だが、それだけで済ませていいものだろうか? 「そうですわね、戦いはともかく、華琳さんは関係していますわね。わたくし、華琳さんに恋文を出したことがありますの」  麗羽の視線が俺を通り越し、遥か届かぬ場所へ向いている。彼女は遠い昔を見ている。俺はそれを邪魔しないように、酒をあおる。 「本当に欲しいものが手に入らなかったのは、あれが最初で最後でしたわ。いま思えば……」  麗羽の言葉は最後まで続かない。ただ、時折思い出すように笑みがこぼれる。幸せそうな、けれど辛くて堪らないだろうと思える笑みが。  俺は真実を告げようかどうしようか迷い、結局口を開かなかった。彼女の恋文が意味を間違えて伝わっていたと告げるのは俺であってはいけないだろう。  麗羽は思い出すようにしながら、なめるように少しずつ酒を呑み、ついに、杯を置いた。 「もう一つは親に捨てられたことですわ」  一瞬だけ彼女の顔が伏せられ、早口で告げる。その後、上がった顔はいつも通りの笑みを浮かべていた。俺にはその笑みに翳があるかなどわかりはしない。探るつもりもない。 「美羽がね。言っていたよ。姉様をよろしく、と」  言うべきだったのかどうかわからない。ただ、美羽が邪な気持ちを持って言ったのではないことくらいは伝わるだろう。そう思った。  彼女は少し困ったように微笑んだ。憎悪でもなく、歓喜でもなく、ただ、ちょっと困ったように。 「別に誰も恨んではいませんのよ。そんなつまらないことしませんわ。ただ、そのおかげで、わたくし、一度もわがままを咎められたことがないんですの」  酒を注いでやると、ぱかぱかとあけていく麗羽。顔色がまるで変わらないが、どれくらい強いのだろう? 「いくらわたくしでも、通用することと度をこした驕慢の区別くらいつきますわ。けれど、自分でわかるわがままを言っても、咎められることはありませんでしたわ。おかしいでしょう?」  おーっほっほっほ、となんだか久しぶりの高笑いを聞く。しかし、それはそのことを誇るものではなく……俺には、彼女が泣いているように見えた。  考えてみれば、麗羽を諫める人間というのを見たことがない。華琳をはじめ昔から彼女を知っている人間は、麗羽だから、と諦めて、いや、諦めているという言い訳で我関せずを決め込んでいる。斗詩と猪々子がなんとか抑えつけているところは見るが、それとて麗羽が悪いと諭すことなどなく、部下として主をフォローする行為でしかない。彼女たちの立場から考えればそれが限界ではあるのだけれど。  もちろん、麗羽は華琳や桂花、稟たちのような頭脳の持ち主ではない。だから、本当にわかっていない時もあるだろう。あるいはすでに彼女自身、諦めている部分もあるのかもしれない。けれど、幼い頃の彼女が、その限界を試そうと手探りする時の手応えのなさを考えると……その空しさ、そのつらさは富貴が故の独特のものと言えるのだろうか。 「この間、わたくしが華琳さんに罰を申しつけられた時、我が君は最もふさわしい罰を選ばれましたわ」  眼をあわせてそんなことを言われるとどう反応していいのかわからない。大きな瞳に、俺が映り込んでいるのがわかる。 「まあ、わたくしのむねむね団を解散させたのはいま一つ納得できませんけど……」  ごにょごにょと呟いたあと、気を取り直したように続ける。 「下賤な獄吏に責められたとて、わたくしはなんとも思いはしなかったでしょう。けれど、あの場で、華琳さんたちの見ている前であのようになされて……」  麗羽が赤くなる。顔どころか、首筋までほんのりと朱に染まっていた。 「わたくしは思ったんですの。ああ、この人は、わたくしを叱ってくれるんだ、って」  ぱぁ、と笑みが広がる。本当に愉しそうで嬉しそうなその笑みに、俺は圧倒されてしまう。鞭打たれるよりは、と思ってしたことが、まさか彼女にとってより重要な出来事だったとは。 「思い返してみると、わたくしに怒りを向けてこられた方というのはこれまでもいたような気がしますわ。けれど、我が君。叱ってくださったのは、あなたがはじめて。だから、あなたは、わたくしの……君なのです」  じり、と麗羽が膝を立ててにじりよる。  君、という言葉にはいくつか意味があったな、なんてことを、不意に俺は思い浮かべる。 「光栄だな。麗羽にそう言われると」  酔いなのか、それとも別のなにかなのか。桜色の肌をした麗羽が、俺の目の前に陣取る。 近づきすぎて、俺の肌にかかる吐息がくすぐったい。 「あの場ではしたなくも気を失って、わたくし夢をみたんですの。とても不思議な夢を。いつか、その夢を、我が君にも話してさしあげますわ」 「ああ、聞きたいな」  お互いに囁くような声になっている。あまりにも近すぎて、喋るたびに息がお互いの肌にかかる。すでにほとんど俺の胸にもたれかかるような形の麗羽の体の存在感が、体の奥底を熱く刺激する。 「いまは……だめですわ」 「どうして?」 「いまは、我が君に……」  息が荒くなっているのがわかる。熱い熱い吐息がこれまた燃えるように熱い肌に触れる。あるいは、それは麗羽の息だったかもしれない。 「俺に?」 「……わが、きみに……」  言いよどみ、動揺する麗羽。きょろきょろと眼が泳いでいるのが可愛らしい。抱きしめたくなるのをぐっと我慢して、彼女をうながす。 「わ、我が君に、わたくしを捧げさせていただかないといけないんですの!」  それを聞いた途端、俺は我慢ならずに彼女の体をかき抱いていた。 「わ、我が君……」  何事か言おうとする唇を自身のそれでふさぐ。優しくゆっくりと、ただ重ねるだけのキスも驚天動地の出来事なのか、眼を見開き硬直している。嫌がっているというわけではないだろうが、経験は少ないのだろう。女性相手には多いのかな?  じっと抱きしめ、何度かキスを繰り返しながら、ようやく硬直するのはやめて、俺のキスを待ち構えてくれるようになった頃に、抱きしめる手をゆっくりと動かし始める。 「わが……きみ……」 「ん? 怖い?」 「いえ……お聞きしたい……んぅっ、そのようなところっ」  俺の指が服の上から胸に少しかすっただけでびくんと体が震える。恐怖とか緊張ではなく、いまのは……。もしかして、麗羽ってものすごく感じやすいんじゃないだろうか。 「なあに?」 「董卓さんたちに……はぁふ……わたくしをもう一度差し出せば……」  キスの合間に、俺にそんなことを言う麗羽。まだ愛撫もそれほどしていないのに、とろんと眼がとろけかけている。キスだって、唇をなめる程度しかしていないっていうのに……。 「だめ」  間髪入れず答える。 「なぜですの……ふわっ」 「麗羽はもう俺のだから」 「う、あ……うぅ……」  変なところから声が出ている感じだ。その隙に、と服の間に手を差し入れてみると、途端に体が跳ね上がった。お腹を触っただけでこの反応とは……。少々驚きつつ、太股をなであげてみると、彼女の下着に包まれた股間が熱を持っているだけではなく、むんと蒸れあがっているのがわかった。 「それにね、そういう解決法じゃだめなんだよ。そうだね、彼女たち相手には、勝っても負けてもいけないってことかな」 「よく、わかりませんけれど……我が君がその、そうおっしゃるなら……」  自分で脱ぎたいような仕種をしはじめたので、少し体を離して任せてやる。その間も顔にキスをふらせておく。じっと見ていると全然動かなさそうだしな。本当は、綺麗な肌を眺めていたいところなのだけれど。  特に脱ぐのに抵抗があったわけではないようで、さっさと下着姿になる麗羽。そう言えば高貴な生まれだから、着替えも多人数に見られているような状況で過ごしてきていて、そういう部分での羞恥はないのかもしれない。なにより、彼女は己の体に自信を持っているに違いない。  ただ、俺が注目しているとわかると、途端に動きが止まる。下着も下ろそうとしていたのをじっと見てやると、躊躇うように指がさまよう。  彼女の身につけているものはどれもそうだが、下着も見るからに手がかかっている代物だった。手で編まれたのだろう細かいレースが各所にあしらわれた真っ赤な下着は、彼女の白い肌をことさらに美しく見せる。 「綺麗だよ、麗羽」 「はい」  嬉しそうに微笑む麗羽は、俺の言葉にうながされるように一気に下着をはぎとってみせた。ぷるん、と大きな胸がはじけ、あの時俺の手で真っ赤になった尻までのラインがあらわになる。 「痛かった?」  ゆっくりとお尻をなでてやると、それだけで彼女の体がびくびくと震える。秘所に溜まった蜜がこぼれて、お尻の方に垂れてきていた。 「うれしかったですわ」  とろけるような笑み。やわらかく開いた唇に己のそれを重ね、舌でさらに割り開く。おどおどとふるえるような舌を捕まえ、下品な水音をたてて二つの舌をこすりあわせる。 「ふぅ……っは……」  目を丸くする麗羽がおかしくて、少し意地悪な気持ちになる。唾液を注ぎ込みながら、お尻をぎゅっと強く握ってやった。 「ふわっ」  刺激が強すぎたのか、背が反り返り、唇が離れる。その端から、俺のものか、彼女のものか、きっとその二つが混じり合った唾液が糸になって垂れる。 「麗羽は反応がいいね」 「わ、わかりませっ……ん」  まだろくに触れていないというのに……。これで秘所に触ったらどうなってしまうのだろうか。その誘惑に耐えきれず、俺は、彼女の茂みをかき分け、その部分に指を走らせる。  すでに太股に垂れていた愛液をたっぷりとまぶした指で包皮をめくりあげ、彼女の肉芽に触れようとした時だった。 「わ、わがきみっ」  一声強く鳴くと、びくんっ、と痙攣した体から力が抜けた。ぐったりとした体が床にのびる。 「……え?」  顔を近づけてみると、まだ荒いが規則正しい息をしている。完全に意識を失っているな、こりゃ。  ええと……。  失神した彼女を見下ろしながら苦悩する。  俺のこの熱く滾っているものはどうしたらいいというのだ。  だが、そんな懊悩も、くーくーとまるで幼子のように眠る麗羽の寝顔を見ていると、莫迦らしくなってくる。  彼女の体を拭ってやり、夜具を持ち出して、俺は彼女を抱きしめる。そうして、二人で夜具にくるまるようにして目を閉じた。  ただ、やはり俺自身が眠りにつくまでは、かなりかかったことだけは事実である。  結局、董卓たちとの勝負は、三度一騎討ちをして、その勝敗で決する取り決めとなった。三回の戦いとはいえ一人が何度出てもいいことになっており、間違いなくあちらは呂布が出ずっぱりだろう。  しかも、あちらは賈駆、こちらは霞を審判として出すことを要求されている。確かにどちらからも信頼できる人間を出すというのは必要なのだが、霞を審判として取られるのは、かなり行動に制限がかけられる。かといって反対しても華雄を出せと言われるのがオチだ。まさか袁紹一行に審判をさせるわけがないしな。  そこで、俺は俺なりに考えた作戦を皆に話すことにした。 「反対ですわ!」 「それは……少々……」 「私が二度出ればよかろうに」  三者三様の反対の声が返ってくる。発言はしてないものの、霞も斗詩も猪々子も苦い顔をしているのは変わりない。 「うん、わかるけどね。でも、もう少し聞いてくれるかな。麗羽はもちろん、斗詩も猪々子もさすがに一対一じゃ、呂布には敵わないよね?」  しかめ面になる猪々子。彼女たちの武を侮るわけではないが、やはり呂布という存在は絶対的だ。 「そりゃー……まあ斗詩といっしょならまだしもなー」 「文ちゃんの言う通りですね、私たち一人一人じゃ無理です」  うんうん、と頷く。 「でもさ、二人とも強いよね。呂布をやる気にさせちゃうくらい」 「……手加減して戦える相手じゃないですし……」  もじもじと答える斗詩。きっと、麗羽からの刺すような視線に耐えかねてのことだろう。 「この中じゃ、自分の強さを隠せるのは、祭だけだ。違うかな」 「それは……そうじゃろう。年の功というものがありますしな」  祭は苦々しげな表情で言う。俺の意見を尊重はしたいものの、やはり気にかかるという様子だ。 「この間、黄蓋の名前を出さなかったこともあって、賈駆はじめ彼女たちは祭の正体に気づいていない。霞も話してないよね?」 「ちゃんと黄権やちゅうて紹介しとるしなあ、それ以上は……」 「あの折りは、あのように振る舞いましたから、小人と蔑んでいることは間違いないじゃろうがのう」 「そこが肝だよ。呂布を本気にさせずに、いなせるのは祭だけだ。そして、それができれば……華雄。勝てるね」  俺の言葉に、全員の視線が華雄に集まる。かつて共に戦った呂布の強さを身に沁みて知っているはずの将は、俺に向かってはっきりと言った。 「ああ、勝つ」 「よし、じゃあ、それで決まりだ。この戦いは勝っても負けてもいけない。どちらにせよしこりを残すからね。でも、華雄が呂布に勝てば、実質的には俺たちの勝ちだ。祭に負担をかけるようだけど……負けないこと、できるよね」 「ははっ、旦那様は無理難題と共に望外の信頼を下さるな。やってみせましょうぞ」  からからと笑う祭にもはや逡巡はない。まして、華雄には。  心配そうに俺を見ているのは、残りの面々だ。 「でもなあ、一刀」 「負ける役もいなきゃいけないんだよ、霞。しかも、拍子抜けするような相手がね」 「でしたら、わたくしが……」  はいっ、と腕を優雅にあげて、麗羽が進み出てくる。 「だめ」 「……はい」  一言で退散した袁本初の姿を、周囲の人間は驚きの目で見ている。その中で、祭と霞のにやにや笑いだけがとてもむず痒い。  こうして、三番勝負の先鋒として、この俺があの呂布の前に立つこととなった。  正直、あまりの不似合いさに、自棄っぱちな笑いが込み上げてくるくらいだった。 「……あんたでほんとにいいわけ?」  董卓の邸の一角、この間俺たちが入ったのとは別の庭の開けた場所で対峙する俺と呂布。  賈駆はもう一度確かめるように、俺に訊ねた。 「ああ、いい」 「……あんたが怪我したら、華琳が怒り狂って攻めてくるとかないでしょうね」 「あの覇王が私情で動く? よしてくれよ」  あちらは予想通り、呂布を三度出すと宣言してきた。それに対して俺、祭、華雄という順での対戦を申し出ると、董卓はじめ四人は全員が驚き呆れたようだった。当然の反応だ。  特に祭の正体や、これまで華雄が重ねてきた武を知らない彼女たちには衝撃であったに違いない。 「ほんとーーーーっに、いいのね?」  くどいほどに訊いてくるのは、呂布という武将を真に知っているからだろう。負けることなどはなから考えてもいない。ただ、純粋に俺のことを心配してくれているのだ。  甘いとも思うが、こういうところ好もしいな、この軍師さんは。 「ああ、はじめよう」  正直、早くはじめてくれないと、逃げ出してしまいそうだ。賈駆は一つ溜息をつくと、霞が立っている場所まで下がっていく。華雄と祭もそこにいるが、麗羽たちはさらに向こう、邪魔にならない場所に董卓たちと一緒にいた。  霞は口を真一文字に結んで俺のことを見つめている。言いたいことはわかっているが、今は聞くわけにいかない。 「……お前、弱い」  ぼそり、と呂布が呟く。殺気など微塵もないのに、存在感だけで圧倒されるのはどうしたことだろうか。長大な戟をかつぐようにしている赤髪の少女から、触れられるのではないかと思えるほどの重圧感が襲ってくる。 「ああ、だけど、任務なんでね」 「……そう」  戟の石突きに、なにかが揺れているのに俺は気づく。恐ろしい武器には不釣り合いなものがぶらさがっているような……。あれは、犬のミニチュアか? 「かまえっ」  賈駆の声がかかる。俺たちは、お互いにさらに何歩か後ろに下がり、それぞれの武器を構える。呂布の武器は肩に担いだ、世にも名高い方天画戟。一方の俺は、頑丈さだけが売りの直刀を青眼に。これでも、普段振るっている木刀に近いものをなんとか探し出したのだ。 「はじめっ」  霞の声と共に、衝撃が襲った。十歩ほどの距離を一瞬で詰めたというのか、間近に踏み込んだ呂布の一振りが通りすぎる。  そう、通りすぎただけだ。  彼女の武器は俺の持つ刀に触れてさえいない。その振り抜いた刃にまきこまれた空気が衝撃波として俺を叩いただけだ。 「くっ」  それでも刀を取り落としそうになる。ぐっと持ち直したところに、返す刀で再びの斬撃。当たる、と本能的に感じ、こちらから刀を前に出す。  がぢぃん。  厭な音をたてて刃同士があたり、腕の芯まで痺れるような衝撃が走る。なんとか弾いた方天画戟は、しかし、再び勢いを得て上から襲ってくる。  刀をあげようにも、先程の痺れがまだ取れない。咄嗟に俺は体ごと後ろに飛びすさった。先程まで俺の体があったはずの空間を、びしり、と空気を鳴らしながら刃が断ち切る。  三合をなんとか逃げ延びた俺は、もう汗びっしょりだ。そして、腕の痺れはまだ取れない。いや、それどころか、先程の衝撃は脚にも伝わっていたらしく、着地した瞬間に足がもつれた。 「……やっぱり、弱い」  追撃をかけるでもなく、呂布が呟く。余裕の態度を悔しく思うなどという贅沢は俺には許されていない。ただ、次の、そして、その次の攻撃をいかにさばくかを……。 「……終わり」  考える暇も与えてもらえなかった。  刀を下げ、右前に出せたのは、だから、きっと、これまで華琳や春蘭、祭に華雄、それに凪たちにしっかり鍛えてもらえていたおかげだろう。  右脇腹にわけのわからない感触が走る。痛みでも、熱でも、苦しみでもないそれは、電撃のように俺の体を駆け抜ける。  叫びをあげることは許されなかった。  気づけばふわり、と飛んだ体は、地面の上にあり、声もなくのけぞっていた。  痙攣と硬直がとけた途端、痛みが爆ぜる。 「ぐっ、があっ」  眼の裏で光がちかちかと瞬く。そして……。  だが、幸い俺はそれ以上知覚することはなかった。誰かの腕が俺の体を持ち上げ、綺麗に意識を断ち切ってくれた。 「……さま。だんな、さま」  意識が浮上する。途端、半身が痛みを訴えた。思わず体をねじろうとするのを、いくつもの優しい腕に阻まれる。 「くっ」 「肋が折れております。動きめさるな」  かがみ込んでいた祭が立ち上がる。上半身を脱がされ、腹の部分をびっしりと布で固められているのは、おそらく彼女がほどこしてくれたものだろう。痛みに暴れるのを避けるために意識を失わせてくれたのも彼女だったかもしれない。いや、霞かもしれないな。  一方、俺は背中に不思議にやわらかい感触を感じていた。鼻にもかぐわしい香りが漂ってくる。 「ん……」  見ると俺の体は麗羽と斗詩、それに猪々子の上にいるようだった。 「わっ」  慌ててどこうとすると、腕がよってたかって俺を捕まえる。 「れ、麗羽、なにしてるんだ。俺の下敷きじゃないか」 「我が君、どうかお静かに」 「アニキー、動かないで座っておきなよー」 「北郷さん、私と文ちゃんと麗羽さまにもたれかかると楽ですよ」  俺は、麗羽、斗詩、猪々子という三人でつくられた円陣になかば無理矢理寝そべる形にされる。確かに痛みを忘れるくらい暖かい上にやわらかくて気持ちいいが……。 「ええなあ、やーらかそーやー」 「ばっかじゃないの」  霞と賈駆の二人はそれぞれの感想を持ったようだが、どちらかといえば、賈駆さんの感想のほうが正しい反応だと思います。はい。でも、彼女の冷たい眼はとても痛い。 「内臓は傷ついておられないようじゃな」  俺の顔色を観察していたのか、祭がほっと安心の息をつく。その言葉を聞いて、周囲の緊張がとける。その中で唯一じっと態度を変えないのは、ぼーっと立っている呂布を睨み続けている華雄だ。  その華雄の様をちらと見て、祭は腰の武器を手にとった。 「次は儂が仇をとってきますぞ」  軽い調子で祭が言う。こんな実感のこもっていない軽口を叩く祭ははじめてで違和感がひどい。けれど、こんなことができるのも彼女ならではだ。赤壁であれだけの大芝居を打ている祭に、いまさらこの程度のこと造作もないだろう。 「ささぁ、世に飛将軍と謡われる呂布どの。我と腕を競いましょうぞ」  華琳から下賜された覇竜鞭を持ち、いろんな構え方をして見せる祭。あんな構え、実際にはしないくせになあ……。  ん……頭なでられてるな。誰の手かもよくわからないが、気持ちいいからいいか。 「あんたたち、わざと負けに来てるんじゃないでしょうね」 「まあまあ、詠。……恋、ええか、祭はんもええわな」  霞の声に呂布が祭に向き直る。俺の方をちらりと見て、なんだか疲れたように祭に視線をやる。これは……いけるかな? 「よし、構えて!……はじめっ」  今度は賈駆の号令で、試合が始まる。おそらくは俺の時と同じように、一蹴りで距離を縮め、方天画戟をふるう呂布。離れているのに空気を切り裂く音が耳に痛いほど。 「ひゃあっ」  大げさな声をあげて、祭がのけぞって一撃を避ける。闇雲に覇竜鞭を振るが、方天画戟そのものにも、もちろん呂布の体にも届きはしない。 「……お前も、弱い」  呂布の雰囲気が変わるのがわかる。一撃で腕を計ったのか、緊張感が格段に下がっている。しかし、それでも離れたこの場所でも闘気の圧力を感じるくらいだ。  ずきり、と腹が痛んだ。 「さてさて、これは困りました……なっ」  相変わらず軽口を叩く祭。彼女は基本、鉄鞭を下段に構え、脚と上体の移動を組みあわせて呂布の攻撃をしのいでいる。  戟の月刃が横から上から、下から迫りくるのを交わし、その合間に鉄鞭を突き出すが、呂布に弾かれ、その衝撃でたたらを踏む。 「強いなあ、むずむずするなあ」  頭の後ろから声がする。振り向くことはできないから、祭の戦いを見つめたまま答える。 「なんだ、猪々子、やっぱりやりたいものか?」 「そりゃあ、ねえ。でも、難しいだろーなー。アニキ、よく打ち合えたな」 「正直二度とごめんだ」  本当にもう勘弁してほしい。俺は武で勝負する人間じゃないんだし。いや、だからといってなにがあるわけじゃないけど……。女たらしで勝負してるくせに、とか言うな、脳内猫耳頭巾め。 「押されっぱなしね」  打ち合いが十合を超えたあたりで、賈駆がつまらなさそうに呟く。 「せやなあ」  霞の平静な返答になにかを感じたのか、賈駆は腕を組み直し、戦いを観察しはじめた。 「……なに、一撃も受けてない?」  彼女の言う通りだった。祭は、これまで呂布の攻撃を一切受けていない。体どころか、鉄鞭で受けることさえしてないのだ。 「おかしいわ、そんなに早くもないのに……」  もちろん、祭の攻撃も一切当たっていない。必死で大ぶりに振るった隙をつかれ、戟の穂先が祭の肩先をかすめた。 「さすがは呂奉先!」  息を荒らげつつ声をあげる祭。呂布はいらだたしげに戟を手元に戻す。あの上がってる息は演技か? それとも……。 「あんな安い挑発……どうしてそんな余裕があるの?」  賈駆の眼鏡の奥の瞳が細まった気がした。すぅと大きく息を吸うのを見て、俺は思わず声をかける。 「賈駆さん」 「……なによ」 「審判が助言をするのは、なんというか狡くない?」  確かに少し離れた場所にいる董卓や陳宮からは恋どのー、とかがんばってくださいー、とかわんわんっ、とか応援の声がかかっているが、それと審判が直に声をかけるのでは意味合いが違うだろう。 「せやな、審判っちゅう立場を護るべきやろ。審判の立場なかったら、うちかて一刀膝にのせたいしー」 「わかったわよ」 「言うとくけど、ねねに言わせるのもなしやで。ねねが自分で気づいたならそれでええけどな」 「わかったってばっ……やっぱり、仕掛けてるんだ」  霞の念押しにいらついたように答える賈駆は、悔しそうに唇を噛む。 「どやろな?」  そんな会話をよそに戦いは続いている。  二十合、三十合。  祭はすごいな、とあらためて思う。武器を打たれるだけでも、とんでもない衝撃が響いてくるというのに、それらをいなした上に、派手にふっとばされているかように振る舞っている。実際には、その勢いを利用して、巧みに次の場所をとっているのだ。 「……お前、弱く、ない?」  戸惑うような声が呂布から漏れる。動揺しているのか、方天画戟の穂先が軽く揺れている。あの戟の重さはどれほどだろう。いかな呂布でもこれだけ振れば疲れの一つも出てこようと思うのだが……。 「おやおや、これは。聞きましたか、旦那様! 天下の飛将軍に認められましたぞ」  わざとらしくこちらに手を振って見せる祭。苦笑しながら返礼をするが、呂布はその隙を狙わず、しっかりと戟を構えなおした。 「……本気、出してみる」  闘気が膨れ上がり、さらにそこに殺気がのる。ぎりぎりと引き絞られた弩の前に体をさらしているかのような感覚。俺の体を受け止めている誰かの体が、びくり、と震えた。直にそれを向けられてない俺たちでさえ、これとは……。 「おや」  祭の笑みが深くなる。これまでのへらへらとした笑みではなく、普段の祭の笑みだ。はじめて、彼女が左足を軽く引いて、右肩を前に出すようにして、覇竜鞭を構えた。 「やっぱり……」  賈駆の呟きを聞いたかのように、呂布の一撃が走る。俺には、その動きは見えなかった、ただ、空気を斬る音と金属同士がぶつかる鈍い音が響いたことで、それと知れたまでだ。 「若いのう」  方天画戟の脇の刃──月牙と覇竜鞭ががっしりと絡み合い、みしりみしりといやな音が聞こえてくるようだ。 「……お前」  驚いた顔で、呂布が祭をにらみつける。燃えるような瞳を平然と受け止め、祭は鉄鞭を抑える腕をひねる。 「お主、強すぎるの。じゃが、それが故に、まるでなっとらん」  途端、方天画戟がひっぱられたかのように動き、呂布の足が乱れた。 「恋どのー!」  悲痛な叫びが陳宮の喉から漏れる。それに後押しされたかのように、ぐい、と呂布は体勢を立て直した。武器同士が離れ、呂布がつ、と警戒するように数歩離れる。 「あいつ……一体、何者なの!?」  だんだん、といらいらした様子で地を踏みしめる賈駆。ああ、この子うまくいかないと途端に弱くなる子なのかな? 「祭は俺の下に来る前は、江東の小覇王の下にいた。その前は……江東の虎の懐刀さ」 「黄……孫呉の宿将、黄蓋っ」  かすかに青ざめる賈駆の横顔を見上げて、俺は本当にすごい人間と一緒にいるのだと感慨深くなる。果たして、この大事な人達のためにどれだけのことができるのだろう。 「お、正解! でも、ちょっと遅いなー」 「ま、まさか。恋なら大丈夫よっ!」  猪々子の挟んだ声に、無理矢理のように答える賈駆。しかし、その視線の向こうで、呂布の打ち込みは、またも祭の鞭にいなされていた。 「悪し、じゃ」  打ち込みを引き戻せぬ内に、祭の鞭が呂布の太股に飛ぶ。それは、軽く浅いものだったが、確かに呂布を打ち据えていた。  そのままぐっと耐えて反転するように戟を大きく切り下ろす呂布。 「それも悪し、じゃな」  だが、それも祭の体移動でかわされる。斬撃の衝撃が空間を叩き、それに押し退けられた空気が地面の小石や砂を吹き飛ばす。 「策殿に教えておった頃を思い出すのう。あまりに天稟に恵まれた者は、野の獣のごとく強すぎて、儂のような者の手練他管を理解できん」  打ち込みの途中、くん、と手首の回転で鞭の軌道が変化する。それを追いきれず、無理な姿勢で受けた戟が、びいん、と音を鳴らして振動する。 「くっ」 「力は八分でよい。早さも七分でよい。大事なのは、間じゃ」  ひゅん、と鞭がしなったように見えた。もちろん、錯覚だ。祭の覇竜鞭は、特別硬い硬木と鋼鉄、それに粘りある金属で作り上げられている。けして曲がりはしないのだ。だが、その鞭はまるで革鞭のようにうねって呂布の腰を打った。  祭、下半身ばっかり狙ってるのは意味があるのかな。 「……嘘つき」 「おやおや?」 「……今の、いたかった」  猛然と突きが繰り出される。祭の実力を認めたのか、時間のかかる斬撃はなくなり、引き、突き出すという単純かつ素早くできる攻撃が、波のように祭を襲う。 「変化がない。悪し」  がつん、ぎん、と金属を金属が受け止める音が、連続で鳴る。祭の覇竜鞭は方天画戟の穂先を全て受け止め、火花を散らしていた。 「すごい……」  斗詩が感極まったかのように漏らす。俺には見えないような速度の攻防も、彼女達には見えているのだろう。  だが、祭の方も体さばきで避けきれなくなっているのも事実だ。  さらに十合、二十合、三十合……。  すでにどれほどの時が経ったのか。祭の息もあがり、肌に走ったいくつかの切り傷からは血が流れている。一方の呂布は目立つ外傷はないものの、動く時に左足をかばうようにするのが目立つ。 「呂布よ」  攻撃が一段落したところで、祭が不意に言った。鬼面の奥、彼女の顔が晴れやかな笑みに彩られていることを、俺は直感した。 「……なに」 「ここは引き分けとせんか」 「……勝てる、戦い」 「お主、腹が減ったじゃろ?」 「……」  ぐー。  ぶつかりあう音や風斬り音が消えた庭に、そんな音が確かに響いた。 「先程から撃ち合っておる間もお主の腹の音が聞こえて気になってしかたない。どうじゃ、審判どの」  祭がこちらを向いて言葉をかける。呂布もじーっと少し切なそうな顔で賈駆のことを見ていた。 「んー、どないする? 一刀」 「俺は賛成だよ」  元々、祭には負けないよう頼んでいた。このあたりが落としどころだろう。 「……恋、お腹すいたら力入らないわよね」  こくこく。可愛らしい仕種で赤毛の少女が頷く。その傍らに陳宮が駆け寄って、なぜか懐から肉まんを取り出して分け与えている。なんでそんなものしまってあるんだろう。 「しかたないわね。二人目は引き分け。食事の時間を入れましょ。そのあと、華雄と戦ってもらって……」  そこまで言ったところで、もぐもぐと肉まんを頬張る少女が珍しくためをつくらず発言した。 「無理」 「え?」 「……戦うのは、いい。本気、出せる」  少し嬉しそうに、彼女は言う。 「……でも、今の華雄、勝てない」  その視線の先の華雄がにやり、と口元をゆがめる。 「まあ、祭はんがほとんど手の内暴いてもうたからな。恋がまだ隠し弾持っとるちゅうことなら別やろけど、そういう性格ちゃうやろ」  霞が肩をすくめて解説して見せる。祭に負けないでくれと頼んだのは、これだ。大事なのは、華雄に呂布の底を見てもらうこと。そして、できる限り疲れさせることだ。 「私はやってもいいぞ? 呂布の言う通り、私が勝つがな」 「……勝てない、だけ。負ける、わけじゃない」 「そうですぞ、恋どのは無敵なのです!」  すでに肉まんを食べ終えた少女の瞳が鋭く光り、その傍らのちびっこが腕を大きく広げて吼える。まだ、ぐーぐー鳴るのがおさまっていないので、いまいち殺伐としない。 「いや、勝つな。人の主の骨を折っておいて、ただですむと思うなよ?」  こちらは、語気鋭い。金剛爆斧を手が白くなるほど握りしめていたのは、呂布と戦える喜びではなく、俺を傷つけられた怒りのなせる業だったらしい。 「でもっ」 「もう、いいでしょう、詠ちゃん」  いつのまにか俺たちの側に来ていたらしい、董卓が賈駆を止めた。 「北郷さんがわざと出てきたの、詠ちゃん、わかってたでしょ」 「そ、それは……」 「いや、三人だから俺が出たわけで……」  立ち上がろうとするのを、麗羽の腕が引き止めて、彼女の胸に逆戻りする。すばらしくやわらかく気持ちいいが、しまらないことこの上ない。 「いえ、引き分けになるよう、計算したのですよね、違いますか?」 「……まあね」  しかたなく答える。別にそれだけ、ってわけじゃあないんだけどな。 「北郷さん、私たちは、洛陽にまいります」 「でも月、華雄に負けたって引き分けだよ。負けたわけじゃないよ」 「……三日あれば、勝てる」 「そうです、月どの、諦めが早いのです!!」  董卓の宣言に、口々に抗議を重ねる面々。確かに呂布は数日あれば強くなってそうで怖い。 「いえ、負けです。わかってるはずよ、詠ちゃんも、恋さんも、ねねちゃんも」 「う……」 「恋さんが戦わなければならない、となった時点で負けなんです。本当は、北郷さんたちに構わず長安からも逃げてしまえばよかった。それをわかっていても、みんなしなかったのは……ね、わかるでしょう?」  口ごもる賈駆に、董卓はゆっくり噛んで含めるように言葉をつむぐ。しばらく、賈駆は董卓、呂布、陳宮、そして俺たち全員に視線をさまよわせていたが、諦めたように顔を天に向けた。 「ああ、もう、わかったわよ!」 「……家族、住めるところ、必要」 「恋どのをないがしろにしたらこのちんきゅーが許さないのですよー!」 「これから、どうぞよろしくお願いいたします」  それぞれに要望や挨拶をしてくる四人に、俺はとびっきりの笑顔を向けた。 「ありがとう、みんな歓迎するよ」  こうして、洛陽の街は四人の新しい住人を迎えることになるのだった。  ……おっと、セキトたち二〇匹も、だな。 「一刀ー、この策を見るのじゃー」  洛陽に帰り着いて一段落した俺に、早速ぱたぱたと竹簡を持って走り寄ってくる美羽。走るたびにゆるやかにカールする金髪が揺れて、とても愛らしい。 「ん」  約束だからな、と彼女の差し出す竹簡を読み進めるごとに、さーっと血の気が引いていくのがわかった。 「宦官を全員、屯田に放り込むだって!?」 「そうじゃ!」  えっへん、と胸を張る美羽を見下ろしつつ、俺はまた大変なことに巻き込まれる予感に頭を抱えるのだった。                         いけいけぼくらの北郷帝第八回(終)  冥琳の御遣い調査日記2  呉の正使、冥琳のところには、周泰以下部下からの報告書、本国からの書簡がひきもきらず届けられる。常と変わらぬ光景だ。  だが、その日、明命が持ってきた報告書はいつにもまして分厚かった。 「なんだ? これは」 「はいっ、天の御遣い実態報告第二報です!」 「……なに?」  たしかに北郷一刀のことを探るように命じはした。だが、あれは会談が始まる前、彼女たちが大使として赴任するよりもさらに前のことだ。  ……しまった。期限を設けていなかったか……。  背を冷や汗が流れるのを感じる周公瑾。  ともあれ気を取り直して書類をめくる。情報は多くあったほうがいいのは確かだ。 「一刀殿についてまわったのもそのためか?」 「いえ! 人となりを知るためには有益でしたが、一刀様のまわりでは機密情報に触れぬようにしておりました。その後情報を集めたため報告が遅れました。申し訳ありません!」  それはありがたい。信頼を利用して秘密を暴くようなことをしたと思われては困る。政治的にはもちろん、個人的にも、だ。 「それで……なにかわかったか?」  事細かに行状の記された書類から顔をあげず訊ねる周瑜。  まったく、なんだ、この毎朝毎晩の女の名前は! 「はい、色々わかってきました」 「ほう」 「まず、一刀さ……北郷は現在無位無官です。漢どころか魏の官位も一切ありません」  ん、なんだ、この聞き慣れない名前は? まさかそこらの女官にも手を出しているのか……?  あ、なんだ、猫か。ええい、明命め。いくら好きだからといって猫の名前まで記録するな。紛らわしい。 「当然、給金等はありませんから、彼に給付される金銭は、全て曹家及び夏侯家の私費から出ています」 「曹操の私兵扱いか。となると、その下の祭さまもそうなるか、少々業腹なことだな」  詳細に記されすぎて、少々煩雑な書類を脇にやり、周泰の話に集中する。 「しかし、その決裁権は軍事においては夏侯惇に、政務においては荀ケに並びます」  周瑜の眉が跳ね上がる。 「……莫迦を言うな、明命」 「残念ながら」  表情を変えず答える周泰に、周瑜はいらついたように言葉をつむぐ。 「それでは、魏軍五〇万のうち、一〇万までを無許可で動かせる上、州牧を自分の判断ですげ替えることができることになるぞ」 「はい、その通りです」 「それでは、まるで丞相ではないか」  そのような大権、尋常ではない。通常は王が幼年で政務がとれない場合くらいにしか集中しえない権力だ。呉でいえば、周瑜自身と蓮華をあわせるくらいとなろうか。 「しかし、実際、瑣末事以外で北郷の印章が用いられた形跡がないのです。重要事項は常に重臣の印章と並列しています。実際には彼の印章よりも決裁権の低いもの達のそれと」 「なんだそれは」 「おそらく、北郷自身は己が曹操に次するほどの権力を与えられていることを知らないのです」  一瞬耳を疑う。まじめに見つめてくる周泰の視線をそらして、周瑜は考えを巡らせる。 「……曹操はなにをしたいのだ」  独り言のように呟く彼女を、周泰は邪魔をしないように控えている。とんとんと指で卓を叩く音だけが、部屋の中に響く。 「夫とするためか? いや、それならば官位を与え、功績をあげさせるほうがよかろう。そもそも重臣の間で北郷一刀の存在は認められている。いまさら婚姻に反対はなかろうし、曹家の存続のためにも支持されるはずだ。では、いったい……」  その後も続く呟きが一段落したところで、周泰が口を挟む。 「軍師筋を探れればよろしいのですが、さすがに荀ケ、程c、郭嘉ともに備えが万全で、手を出せば疑われかねません」 「いまは平時、無用な挑発となろう……。明命、個人的な感想としてどう思う」 「感想、ですか……。最初は、華琳殿が一刀様に媚びているのかとも思ったのですが、一刀様自身、権力を与えられて喜ぶような方ではありませんし、どうにもわかりません」 「まして、権力に溺れることもなし、か。さてさて……」  女色には溺れておられるようだがな、と冥琳は皮肉な笑みを漏らす。いや、違う、溺れているのはまわりの女であって、北郷という人間ではない。そこが、恐ろしい。自分とて、色仕掛け半分と己を騙していたではないか。  ふるふると頭をふって、思考を切り換える。 「曹操は不必要なことはすまい。ならば、それが必要となる時がくるかもしれぬということだ。誰かが王に匹敵する大権をふるわねばならぬ時が」  二人の顔が引き締まり、厳しくなる。そのような事態を二人共に想像したのだ。 「戦、ですか」 「わからぬ、だが、警戒せねばならん。周泰、これは秘中の秘だ。本国には私が伝える。お前は蜀にこのことを悟られぬよう努めよ」 「我等が知っていることを悟られず、蜀が知らねば知らぬままでいさせ、知っているのならば、それが重要事ではないと認識させればよいのですね」 「そうだ。魏の片棒をかつぐようで少々忌ま忌ましくもあるが、しかたあるまい。蓮華さまと思春から我等へと大使の任を変えたこと、存外に当たっていたのかもしれん。周泰、今後も頼むぞ」 「はっ」  ところで、と周泰は胸元から畳まれた紙束を取り出す。 「関連というわけでもないですが、豪天砲の設計図が届きました。いかがいたします。魏に流すのは難しくありませんが」 「いや……私が届けよう。個人的な贈り物としてな。言っておくが一刀殿にではないぞ」  それを聞いて周泰は持っていた紙束を周瑜の前に差し出す。彼女はそれを受け取ると、丁寧に布で包みだした。 「では、曹操にでしょうか」 「いやいや。袁術に。さ」 「袁術?」  さすがにしかめ面をする周泰。呉の国内には、未だに袁術へ複雑な感情を抱えている者が多い。 「そうだ、あれは、もはや甘やかされた子供ではないぞ。いや、まだまだその気はあるがな。なにせ、一刀殿に祭さまが間近にいるからな。ここらで一つ、きちんとよしみを通じておくのも悪くない」 「はあ……。実際に長く顔をあわせておられた冥琳様の言葉ならそれが正しいのでしょうが……我が呉が袁術に、とは……」 「もっとやわらかくなれ、明命。まっすぐなのはいい事だが、我等は蓮華様たちと違い、汚れ仕事もせねばならぬ立場。柔軟に、けれど己を保つべく努めよ」  冗談まじりの口調はしかし、真摯な内容を隠すためのものだと気づいた明命は、感じ入ったように、ただでさえまっすぐな姿勢をびしっとただした。 「ただ、これを渡したとして……はて、一刀殿は勝ってくれるだろうかな」 「一刀様は勝つと思います!」  きらきらと目を輝かせ、絶対の信頼を表情に浮かべる彼女に、そうだな、と答えて冥琳は笑みを見せた。それはとてもとても愉しそうな笑みだった。                                       (了) おまけのおまけ 『北郷朝五十皇家列伝』より北袁家の項抜粋 『北袁家、いわゆる麗袁家は袁紹本初に発する皇家である。よく、中央に残った南袁家(あるいは美袁家)と対になって語られるが、歴史の上での接点はせいぜい三代目までが主であり、その後は独自の発展を遂げる。  実際には麗袁家の北上は巷間思われるよりもずっと早い。国家を形成するにいたらなかったのは、土着の鮮卑、匈奴を取り込むために国家としての体裁をとらなかっただけであり、実際には初代袁紹の時代には、すでに北方に地盤を築いていたと見るのが正しい。これは……(略)……  北袁家集団の中で、最も早く王に封じられるのは、顔家であり、三年を経て文家が同様に王国を形成する。それら二つを盾と矛として、袁家はついに北方にその姿を表す。多くの皇家が立てた王国群の中でも飛び抜けて巨大な領地を持つ国家の誕生であった。  ただし、もちろん、いかに領土が広くても、その生産能力は中原に比ぶるべくもなく、そのために北袁家集団には常にさらなる拡大が求められ……(略)……  後に麗氏がルーシと変わり、さらにロシアと変わったのはご存じの通りである。そして、ロシアには石油をはじめとする埋没資源が多く埋もれていることは言うまでもない。  初代の袁紹の「旅の果てに宝を見つけよ」という遺言は、十数代を経て、キエフの地で実現を遂げた。これぞまさに歴史のいたずらというべきものであろう。(後略)』