〜いけいけぼくらの北郷帝〜 第七回 『約束』 「一刀、あなたに長安に行ってほしいのだけど」  俺の膝の上にのって──勘弁してほしいのだが、もちろん断れない──仕事ぶりを眺めていた華琳がふと思いついたように言った。俺の肩のあたりに頭のくるくるをこすりつけてくる仕種がとても可愛らしくて、なにかおねだりされているような気分になる。 「長安? 西のほうか……ちょっとかかるな」  ちょっと、といってもこの大陸の中で考えたらの話で、馬にゆられていってもそれなりにかかる距離だ。とはいえ、冥琳たちの呉だとか、劉備たちの蜀にいくよりはよほど近い。 「いいけど、なにをしに行くんだ? 買い物か?」 「ばかね。そんなこと言いつけるわけないでしょう」  いや、結構色々言いつけられているような……というのは口に出さないでおく。俺だって少しは学習するのだ。 「長安には呂布たちがいるのよ」  それで説明はおしまい、という風に華琳は言葉を切った。とはいえ、それだけじゃあ、さすがに俺もわからない。 「あれ、呂布って、劉備たちのところにいたんじゃなかったっけ」  とはいえ、俺の知識はあまりに古い。この世界では一年半ちかく前に戦乱の時代は終わっているのだ。そして、戦後の一年間、俺はここにいなかった。 「成都での決戦の折りに、孫呉軍以外の客将は城を離れたのよ。その後、戻ることもなく長安に落ち着いているってわけ」 「じゃあ、その呂布を連れてくればいいのか?」 「いっしょにいる面々もね。ただ連れてくるだけじゃなくて、こっちに落ち着かせるよう説得して」  つまり、今いる長安から洛陽へ引っ越して来いということか。 「要は、スカウトにいけってことだな。うん、わかった」  俺の知っている歴史の曹操も人材マニアだったけれど、華琳も、使える人材を放っておけないタイプだ。今回もそういうことだろう。 「すかうと?」  不審気に言う声に視線を下にむけると、不思議そうに見上げる顔とばっちり目があう。ああ、もうこういう時だけ女の子の顔なんだから……。 「ああ、ごめん。引き抜きというか、人材登用だな」  鼓動をはやめる心臓を無理矢理押さえつけて、平静を装って応えると、華琳のくるくるがゆっくりと揺れた。 「いいえ。そうは言ってないわ。ただ、こっちに居てほしいのよ」  その応えは予想外だったので、驚きが顔に出たのだろう、魏の覇王の顔が、俺を試す時のそれになる。さっきまでの胸の高鳴りは、別の意味に変わっていく。 「なんでだと思う?」 「そうだな……。長安は魏の勢力圏だろ。そこに有名な武将が主も持たず滞在しているのは、少々まずい状況だよな。特に人中に呂布ありと言われるくらいの武力の持ち主だし、本人に野心がなくても、誰かがその状況を利用するかもしれない。部下にできればいいけど、そうでなければ、監視が効くところに置いておくのが平和のため、というところかな」 「ふぅん。あなたはそういう風に考えるわけね」  冷や汗が流れる。殺気を放つようなことはないから、完全に間違えたというわけではないようだけれど……。 「……とりあえず正解にしておいてあげるわ」  ふぅ、と安堵の息をつく。おそらく、俺が言った以外に、隠された意図もあるのだろうが、それを推察するのは難しい。政治や軍事に関しては、華琳の先読みの手を読み切るなんてことは俺にはいつまでたってもできないだろう。 「ま、そんなわけで行ってきて。呂布と顔見知りの霞をつけるわ。他に連れて行きたいものがあったら、連れて行きなさい」  そう言うと膝の上で姿勢を変え、背中ではなく横向きにもたれかかる。猫のように丸まる華琳の髪を梳いてやると、くすぐったげに身をよじった。  でも、と彼女はつぶやく。消え入りそうに。 「……帰ってこなきゃ、だめよ」  俺は小さく頷くとぎゅっと華琳の体を抱きしめた。  誰を連れて行ってもいいとは言われたが、まさか魏の重臣をぞろぞろ連れて行くわけにはいかない。一晩考えて──いや、まあ、華琳が考える暇をあまりくれなかったけど──華雄は呂布と知り合いのはずだからもちろんとしても、祭、美羽、七乃さんあたりかな、とあたりをつけて、まずは美羽たちの執務室に向かった。  扉は開いていたが、中からうーんうーん唸る声が聞こえてきたので、そっと覗いてみると、案の定美羽がたくさんの書類を前に頭を抱えていた。 「むー、ここがこうなって、あーもー、妾が帝ならのぅ。むーむー」  最近の美羽のがんばりは微笑ましい。あがってくる献策の中には見当外れのものもあって、桂花に酷評されたりもするが、それなりに効果のあがりそうなものもある。問題は、美羽の場合、経済観念が大雑把すぎて、効果を出すまでに想定される費用が大きすぎることだ。ただ、その中でも今後実施の方向に動いているものもわずかだが存在する。  あ、ちなみに実際に桂花にこきおろされるのは美羽じゃなくて、俺。もうほんとあの毒舌が冴えるんだ。 「いまは、邪魔しないほうがよさそうだな」  がんばれよ、美羽、と小さく呟いて戻ろうとしたところで、竹簡を抱えた七乃さんと出会う。 「あ、一刀さん、お嬢様に御用ですか?」 「ああ、いや、忙しそうだから、後でいいかな、と」 「んー? かずとー?」  七乃さんと俺の会話に顔をあげる美羽。気づかれず帰ろうと思ったが、見つかってしまったならしかたない。 「やぁ、忙しそうだね」 「むーん、考えても考えてもわからんのじゃ。七乃ぉ、息抜きになにか飲みたいのじゃ」 「はい、じゃあ、蜂蜜水をつくりましょうね。一刀さんはお茶でよろしいですか?」 「ああ、お願いするよ」  竹簡をどさりと置いて、お湯と蜂蜜をとりに行く七乃さん。よくみると、竹簡はかなりの数があって、美羽と七乃さんが色々な資料にあたっているのがわかる。  美羽は、はふー、と息をついてぐでーと椅子の背にもたれかかる。 「かずとー、妾の背もたれになるのじゃ」  はいはい、と頷くと彼女の座っているところまで回り込み、軽い体をひょいと抱き上げる。丸まる体を抱いたまま、美羽の座っていた椅子に座る。美羽は俺の膝の上でちょうどいい場所を探そうと、んしょんしょと声を出してもぞもぞする。 「大変そうだなあ。これじゃ長安には行ってられないかな?」 「長安にまた用があるのかや? 早駆けはもう勘弁なのじゃ」 「ああ、いや、そういうのじゃないんだけどね。確かに霞もいっしょに行くけど」  長安行きの目的を説明する。美羽は俺の膝の上でふんふんと大人しく聞いていた。 「呂布かー。妾も二、三度は会うたがのう。武辺の者とかいう以前にようわからんやつじゃった」  そういや、この間の三国会談でも見かけたけど、猫と遊んでいて明命にきゃーきゃー言われているところしか見なかったな。 「うーん、一刀たちと旅するのも悪うはないが、ちょっと済ませておきたいことがあるのじゃー」 「美羽が行く気がなければいいよ」 「それでな、お願いがあるのじゃが、長安から帰って来たら、妾の献策をいっしょに見てほしいのじゃ。おそらくは、一刀が帰ってくる頃には案ができておる……はずなのじゃ」  少々自信なさげにこちらを見上げてくる美羽。 「ああ、もちろんいいよ」  そうこうしているうちに、七乃さんが蜂蜜水を持って戻ってきた。 「おー、蜂蜜水じゃー」  俺の膝の上ではしゃぐ美羽。いくら美羽の体が軽いとはいえ、さすがにぴょんぴょん跳ねられると、ちょっと痛い。 「お湯がまだ沸いてないんです。お茶はもう少し待ってくださいねー」 「いや、俺はなんだったら……」 「いえー、わたしも飲みたいですしー」  そう言って七乃さんが出て行くと、美羽はなにか謀でもしているかのように、きょろきょろと辺りを見回し、そっと俺に耳打ちした。 「一刀、長安に赴く折りは、できたら、麗羽を連れていってほしいのじゃ」 「袁紹を?」 「うむ、妾が面倒をみる約束じゃが、いかに妾のほうが血筋がよいといっても、あやつのほうが年も上じゃし、やはり抑えがなかなかの。この上一刀までいなくなるとなにをしでかすかわからん。ここは一つ連れて行ってくれんかの」  美羽の心配もわからないではない。華琳は袁紹の昔なじみで、その行動に馴れているせいか、もはや諦めの目で見ていて止めようとすらしない。幸い、俺の言には一応従う──というよりは煙たがっている?──ようなので、美羽の手に負えないような時は俺が出るようにしているのだが、それがなくなるとなれば心細いのは当然だろう。  さらに美羽は声をひそめ、耳元でささやく。 「これから話すことを、妾が一刀に語ったことは、七乃にも内緒じゃぞ」  真剣な表情に、俺も言葉を呑み、こくりと頷きを返す。 「実はの、麗羽は妾の腹違いの姉じゃ」 「従姉妹じゃなかったんだ」  そういえば、俺の世界の歴史でも、異母兄弟だとか従兄弟だとか錯綜していた気がした。当時は広い意味で親戚をまとめて兄弟として扱っていた部分もあったらしいが……。 「元々麗羽は下女の母から生まれてな。正妻である母上に妾が宿ったことで、子のない伯父上の家督を継ぐという形で養子に出されたのじゃ」  膝の上の小さな体が身じろぎする。沈黙の中で、美羽は俺の胸にもたれかかったままうつむいていた。俺に顔を見せまいとするかのように。 「秘密……にしておるわけでもないが、あまり外聞のよい話でもないから、妾たちは触れないようにしておる。麗羽も気にしておるやもしれんしの……」  そう言ってくりくりと髪の先をいじる。 「ま、いまさら気にしても詮ないことじゃがな」  そう言う美羽が気にしていないはずもない。彼女は本質的には優しい娘だ。甘やかされすぎてわがままな面が目立ちがちだが、それはいわば袁術という存在を覆う防護膜にすぎない。その奥に踏み込めば、人一倍けなげで傷つきやすい少女がいる。 「妾は孫策に、麗羽は曹操に敗れ、そして、いま、なんの因果かここにおる。これもまた天命というやつじゃろ。もはや袁家がどうのと言うてもしかたない。じゃからの、その、……麗羽姉さまを頼むぞ、一刀」  ねえさま、という言葉をそっと押し出すように言う美羽に、返事がわりにわしゃわしゃと頭をなでてやる。そして、髪がくずれるのじゃー、と暴れる彼女の顔に、ようやく笑みが戻ってきたのだった。  七乃さんに淹れてもらったお茶を呑んで一息ついていたら、意外に時間が経ってしまった。ここは、何はともあれ呂布の知り合いである華雄と霞を探そうと、俺は庭に出ていた。 「この時間なら、霞は街かな。華雄は鍛練か兵の調練だと思うんだけど……」  ぽかぽかといい陽気の庭の中を探していると、芝生の上に寝ころがる霞と、その傍らに座す華雄の姿を見つけた。華雄の腕には三羽の小鳥がとまっている。鳥と会話するように見つめ合う姿は、不思議でもあり、綺麗でもあった。 「おーい」  声をかけると、華雄が振り向くが、指を立てて口にあてる仕種をする。どうやら霞の方は本当に寝てしまっているらしい。その間も、鳥たちは何度か羽を開いたりするものの、華雄の手から飛び立とうとはしない。 「よくなれているね」  近づいてみると、本当に霞は寝息を立てている。暖かい日差しに芝生のやわらかさも相まって、幸せそうな寝顔だ。それを護るようにしている華雄の横に座り込む。 「ん? ああ、鳥か? これは私が逃さないようにしているのだ」  言った途端、鳥たちがそろってばさばさと飛んで行った。まるで怖いものでも見たかのように慌てた感じに全速力で遠ざかって行く。確かにそれは、華雄を慕っているものの挙措ではなかった。 「……もしかして、鳥が飛ぶ瞬間をそらしていたの」 「ああ、触れている相手の動きだから、予測するのは簡単だぞ。一番難しいのは止まらせることだな」  事も無げに言う。体重の軽い小鳥のわずかな動きをそらして飛べなくさせる芸当が、簡単なわけもない。しかも、彼女は三羽もその体に止めていたのだ。一体どうすればそんなことができるのか。やはり、氣とかそういう類のことなのだろうか。 「充分難しいことだと思うよ。すごいな」  感嘆の声をあげて俺は言う。それ以上どう言えばいいかわからなかったのだ。 「修行のうちだからな。たやすくできてしまっては意味があるまい。で、なにか用があったのではないか?」  少しだけ嬉しそうにこちらを見る。俺は手早く長安に行く話をする。 「華雄は呂布と知り合いだろ?」 「なつかしい名だな。董卓様の下に共にいたからな。そうか、呂布か……」  彼女は遠い目をする。昔を懐かしむような、憎むような、いとおしむような。 「あの頃は、あやつの強さの限界が見えなかったが、今ならわかるな。あれは、野の獣のごとく恐ろしいやつだ。とはいえ、今はさらに強くなっておるかもしれん」 「この間の三国会談の時は話さなかったの?」 「私はああいう場はあまり好きではない」  簡潔に言う。まあ、そうだろうとは思った。華雄が政治力学を操るのは似合わない。その役目を担うのは俺だろう。彼女の戦場を用意してやるのは。もちろん、戦場といっても本当の戦争ばかりではないが。 「そう。じゃあ、久しぶりに会うんだね」 「ああ、そうだな。出立はいつ頃に?」 「それなんだけど、霞も行くから、彼女次第かな」  他の連れて行こうと思っているメンバーはそれほど忙しくないだろうが、霞はいまや曹魏の重鎮。それなりに準備にも時間がかかるはずだ。 「んー、せやなー、あと三日はいるなー」  目をつぶったままの霞が、急に声をあげたので、俺は驚いてしまう。 「おや、聞いていたのか」 「半分夢の中でなー。うち、長安に鎮西府を開きに行くねん。せやから、調整とか大変でなー。孟ちゃんはだいたい準備できたん見計らって一刀に恋のこと言うたんやろ」  まだぼんやりとした声で、霞はそう説明する。ようやく目を開いたが、まだ半分閉じたような感じだ。 「え、じゃあ、長安に住むの?」 「いや、長安に常駐するんは蜀からくる蒲公英……馬岱や。いま、長安と洛陽の中間に新しく城砦を築いてんねんけど、うちはそこに半月、洛陽に半月、次は長安に半月ちゅう感じになる思うわ。なんか起きひん限りは、やけどな」  それにしても、長いこと洛陽に霞がいないとなると寂しいなあ。ずっと行ってしまうよりはましにしても。  霞は俺のそんな複雑な心境を見透かしたのか、にやりと笑って俺に手を伸ばしてきた。 「なー、かずとぉ、起きれへんから起こしてーな」 「はいはい」  甘い声でごろごろ鳴く猫みたいな女性を抱き留めて、ゆっくり起こしてやる。んー、と声をあげて胸に埋もれてくる霞。 「全く、お前はところかまわずいちゃつくのか?」 「なんや、華雄は二人っきりのほうがええんか?」  ようやく離れた霞が、それでも俺にもたれかかりつつ、華雄ににやにや話しかけた。 「それはそうだな」 「うわ、堂々と応えよった。なんや、やっぱいちゃいちゃしとるんやん。で、実際、どうなん、一刀とは。ほら、教えぇや、華雄」  昼日中から酔っぱらいの会話かね、これは。 「ん? そうだな、私の場合、あまり甘えたりなんだりというのは少ないかな、会話するでもなく二人でいるのが心地よいからな」 「うっわー、華雄ったら大人の女って感じやん。意外やわー」 「そうか? 私は他に経験も知識もないからな、比較のしようがない。この間も唐突に脱げと命ぜられ、一糸まとわぬ姿になった上にこれでもかと羞恥心をあおる姿勢をとらされた私を肴に、ずいぶん長い間お酒を召していたが、それもまた……」 「わーわーわーーー」  さすがに照れくさくて黙っていたが、あまりの衝撃発言に、大きな声を出す。 「うっわー……」 「む、誤解するなよ? 私も楽しんでいるのだぞ?」  心外だ、という風に訂正する華雄。いや、そういうことじゃないと思うんだ、俺。 「い、いや、そういうことちゃうんよ、華雄」 「では、どういうことだ? 霞とて愛を交わしているだろう?」  こうもストレートに言われると、さすがの霞もたじたじだ。さっきの話しも相まって、顔が赤くなっている。 「あ、霞の真名呼ぶようになったんだね」  な、なんとか方向を修正せねば。半ばは知っていた話題を確認する。 「ああ、うちも華雄の真名もろたで。な」 「うむ。ただ、人前で呼ばれるのは……」  申し訳なさそうにうつむくのを、ええんやええんやとぱたぱたと霞が手を振る。 「そこらへんは人それぞれや。うちは華雄の意志を尊重すんで」 「ありがたい、ところで、話の続きだが……」 「あ、そやそや、長安な、長安」 「あ、うむ……」  なんだか納得いかないような顔で頷く華雄。 「なんにせよ、長安行きはうちらだけの予定と違うて、開府の予定ともからむからな、いつでも動けるようにはしといてくれんか。三日から五日のうちには出立予定や」 「滞在がどれくらいかかるかわからないんだよな。華琳からは呂布を説得するまでは帰って来るなって言われていて」 「恋といっしょにいる面子もやろ?」  そうそう、と頷くと、華雄が顎に手をあてて考え込む。 「呂布は聞き分けはよいが、これと決めたらてこでも動かん。覚悟して行くことだ」  そして、私も念のため金剛爆斧をよく磨いておこう、と彼女は少々物騒なことを言うのだった。  夕暮れの迫る城内を、祭を探して歩き回る。華雄と霞と別れたあとで探してみたが空振りだったので、一つ二つ用事を済ませてからまた探しに出たのだ。  廊下が入り組むあたりで、肩をがっくり落として歩く人影を見かける。  あれは……公孫賛?  あの特徴的なポニーテールの赤髪からして間違いないだろう。 「おーい、伯珪さーん」  俺の声に気づいて、気だるげに顔をあげる公孫賛。 「あー、北郷殿」  声にも張りがない。一体どうしたんだろうか。俺が声をかけたあとはぼーっと突っ立っているようなのでこっちから近づいていく。 「どうしたの?」 「んー、なんと言うか……なあ」  口ごもりつつ、あらぬほうを向くが、その動作にも疲れがにじみ出ている。 「体調が悪いなら、医者を呼ぼうか。ちょうどいま、祭を診てもらうために華侘を城下に呼んであるし……」 「あー、いやいや、そういうんじゃないんだ」  ぱたぱたと手を振る彼女。となると政治絡みの話だろうか。蜀の正使である以上、色々と軋轢もあるだろう。 「もし困っているなら、誰か紹介する? 私的に相談するなら、公の話にせずに済むと思うけど……」 「お気遣いは非常にありがたいんだけど、そういうんじゃないんだ。なんていうか……私、なにしてるんだろう、というか」  いまいち何を言っているのかよくわからないが、悩んでいることは確かなようだ。俺で力になれればいいのだが。 「世の乱れを糺そうと、私なりに考えて色々やっていたのが、袁紹に敗れて桃香のところに身を寄せて……いつのまにか蜀の大使として魏に駐留して……でも、魏の言うことも、桃香たち──実際は朱里と雛里か──がよこしてくる要求も、どっちも正しく思えて、私はどうしたらいいのか……」  ははぁ。本国からの要求と華琳たちから求められるものの板挟みってところか。華琳は呉にも蜀にも大部分の部分では不干渉を貫いているが、異民族対策と貿易についてはかなり目を光らせている。 「しかも、桔梗は呑んだくれてるし……。そりゃ、仕事は終わらせてるんだけど……」  あ、と口をふさぐ公孫賛。慌てて俺の肩をつかむ。 「い、いまのは聞かなかったことにしておいてくれ」 「なんのこと?」  表情を崩さずすっとぼけてみる。ほっと息をつく公孫賛の警戒心のない表情が可愛らしい。 「お前、いいやつだな」 「はは。そんなに簡単に信用しちゃっていいの?」 「む、ばかにするなよ。私にだって、人を見る目はあるんだ。そうだ、星だって桃香だって、もともとは私のところで……」  そういえば、公孫賛は劉備と学友だという話もあったな。反董卓連合の時も公孫賛の下できていたし。三國志の物語を知ってしまっている俺からみると、あの頃は劉備たちの方に注目してしまっていたけれど……。 「あ、そうだ。伯珪殿。袁紹とはうまくやってる……かな?」 「ん? ああ、まあ、恨みとかはもうないよ。なんでこんなのに負けたのか、と思うことはあるけどな……」 「あはは……」  俺の知っている歴史だと袁紹に攻められて自害するはずの武将と同じ名を持つ少女は自嘲気味に笑っている。その笑みの陰にあるものは、なんだろうか。 「俺にできることだったら、なんでも相談にのるから、いつでも言ってよ」 「うん、そうだな……。迷惑じゃなければ、また今度な……」  そう言ってもなんとなく晴れない顔をしながら、彼女は去って行ったのだった。  祭は、公孫賛と別れたあとですぐ見つかった。彼女がやってきた方向に向かったら、祭と蜀の副使厳顔が、庭につくりつけられた一対の長椅子に座って酒を酌み交わしているのに行きあたったのだ。 「おや、旦那様」 「やあ、祭。それに厳顔さん」  サングラスの祭が、杯を顔の高さにまであげて挨拶してくれる。厳顔のほうは、おもしろそうに俺の顔を見ている。 「ご一緒しませんかな」  長安へ行く用事を話しただけで内容も聞かず快諾した祭がそう誘ってくれるが、厳顔はなにも言わない。特に反対というわけでもなさそうなので、祭の隣に座らせてもらおう。厳顔は俺たちに正対する形だ。 「何度かお会いしていますが、きちんとお話しするのはこれがはじめてですかな、北郷殿」 「ああ、そうかもしれないですね」  祭が懐から杯をだし、それに厳顔が酒を注いでくれる。俺はそれをゆっくりと乾す。なかなかきつい酒だ。 「とはいえ、わしのほうは、祭殿から存分にのろけを聞かせていただいておるわけですが」  祭が笑い声をあげる。俺はどういう顔をしていいかわからずに微笑んでいた。今度は祭が酒を注いでくれる。 「しかし、祭殿のお話を聞いておると、とてつもなく佳い男に思えるが、実物はそうでもありませぬな」  冷たい口調で俺をねめつけるようにする厳顔。ぐい、と杯を傾けると、その髪に刺さる簪が軽く揺れる。  なにか気分を害する事でもしたろうか、と一瞬思ったが、これは違う。あの眼の光は、俺を算段しようとしているそれだ。  危ない危ない。一挙手一投足を値踏みされていると思わないと。 「おや、桔梗よ。そう判断するにはちと早計ではないか」 「ふん、祭殿ともあろうお人が……。男の善し悪しなど、酒の呑みよう一つでわかるではありませんか」 「ほほう、桔梗は、旦那様の酒の呑み方をだめじゃと?」  おやおや、俺は酒を一杯呑んだだけで、ダメ男と認定されてしまったらしい。これはますますもってあやしいな。厳顔は一体なにを意図しているのだろう? 俺は祭と言い合っている厳顔をじっと観察する。 「だめとは言いません。ただ、祭殿に伺うていたほどではなかった、と」  祭が俺に横目で問いかけてくる。俺は否定の印に軽く首を振った。 「儂も旦那様にはじめてお会いした折……赤壁の前には不遜にも大したことのない男じゃと思っておったわ。それがあの態(ざま)よ。桔梗よ。儂と同じ間違いを犯すつもりか?」 「今が間違いかもしれませぬぞ、祭殿」  厳顔は老獪な将だと聞く。それがなぜ、このような安い挑発を繰り返すのか。祭は感情に任せて爆発するようなことはないだろうし、計算して反発するのもさっき抑えたから安心だ。しばらくはのらりくらりと言い抜けて彼女を観察させてもらうことにしよう。 「ほれ、今もなにも言おうとしませんな。配下のおなごに舌戦を任せへらへら笑うておる男のどこに惹かれておるのやら」 「おやおや、これは舌戦じゃったか」  一瞬、しまった、というように視線が揺れる厳顔。顔色に出さないのはさすがだが、やっぱりな、これで確信がもてた。 「武将たるもの、常在戦場の心構えでありましょう?」  動揺からか、少々早口になっている。厳顔。俺は相変わらず黙ったまま、彼女の言葉を聞いていた。 「……おっと、北郷殿は前線に出ることなどないのでしたな。失敬失敬。北郷殿の戦場は夜の寝台の上、といったところでしょうか」  俺への挑発としてはありふれていて、怒りもあまり沸いてこない。祭は呆れたのか、杯をあおるばかり。 「よほど枕事がお上手いのでしょうな。わしもお相手してもらいたいほどじゃ」  たっぷりとした乳を両手で持ち上げて見せる厳顔。確かに魅力的なボリュームだが、肉体的魅力だけで相手をしているわけでもないしな。実際、祭や冥琳のほうが胸は……なんですか、脳内の風さん、俺に殺気を向けるのはやめてください。 「魏のみなさまも骨抜きだと言いますからな。せっかく大陸の覇者となっても、男に惑わされるとは愚かの極み」  まあ、このあたりかな。 「訂正してくれるかな」 「はい?」 「俺のことをなんと言おうとかまわないけれど、俺の大事な人達のことを莫迦にするようなことは許されないんだ。訂正してください」  厳顔はじっと俺を見据える。祭はにやにや笑う口元を隠すように杯を傾けている。 「断る」  厳顔はぱしり、と持っていた杯を割って、地に投げ捨てた。 「わしは思ったままを言ったまで。訂正させたいと言うならば、北郷殿がわしにそれを納得させてみせるが先でしょうぞ」  そう言う厳顔から吹きつけてくる迫力は、殺気とは言い難い。確かに彼女の力強さを感じさせるのだが、いま一つぬるいのはやはりこれが茶番だからか。 「納得……ね」 「そうですな、一つ勝負といきましょうぞ。見事わしに勝ってみせればよろしい」  こういうことになるだろうな、と薄々承知していただけにショックは少ない。が、こうなってしまったか、という気持ちもないではない。 「いいだろう。受けるよ。俺が勝てばさっき言ったことを撤回してもらう」 「よかろう、では、負けたなら、わしの言うことを一つきいてもらおうか」 「ああ」 「男に二言はなかろうな、では、勝負をもちかけたのはわしじゃ。方法と期日はそちらに任せよう」  長安に出向く用事もあるし、勝負は一月後、内容はあとで書簡で届けるよ、と約束すると、厳顔は思ったより酔いのまわった足どりで立ち去って行ったのだった。 「まったく、桔梗のやつ、下手くそにすぎる」  彼女の姿が見えなくなった途端もうこらえきれないというように祭が吹き出す。 「俺がなにも言わなかったから、焦れたんじゃない」 「それにしても……。ところで、旦那様、なぜ、と訊いてもよろしいかな」  今度は祭と差し向かいで酒を酌み交わしつつ、俺は自分の思考を整理して話し出す。 「蜀ってのはさ、三国の中で一番つらい立場なんだよ。なにしろ国土は狭い、兵は少ない──たしか、成都陥落後に涼州兵も離脱したはず──、最後まで戦があったから民も疲弊している。その上、いまは配下にとりこんだはずの南蛮を魏が一国と認めて大使を呼んでいる状況だ。  そんな中で大国である魏とやりあわなきゃいけないってのは大変なことで、できれば一発がつんとかましておきたいんだよ。そのちょうどいい相手が華琳の……その、男でもある俺なわけだ。  その上で、のったわけは……そうだな、ここで断って違うやり方をされるとなると伏竜鳳雛の策が出かねない、と思ったのが一つ。あとは、公孫賛が困るだろうと思ったのさ」  さきほど見かけた公孫賛の、疲れ切った姿を思い出す。 「伯珪殿が?」 「蜀は公孫賛が正使だろ? でも、あの人はことを荒立てようとする人じゃない。華琳に対して唯々諾々と従うわけじゃないけど、やっぱり腰が定まってないところがある。違う?」 「そうじゃなあ、桔梗もそのあたりは苦々しく……ああ、そういうことじゃったか」  合点がいった、という感じで笑みを大きくする祭。 「多少は捌け口もなくちゃね」  実際、俺の代わりに伯珪さんが突き上げられても困る。少なくともしばらくはこれで厳顔の行動を縛ることもできる。  それに、勝つにしろ負けるにしろ、一度勝負という形に出れば、それだけで納得する者たちも多いはずなのだ。これは、厳顔本人にかぎらず、蜀の兵士や民衆まで含めた話だ。 「しかし、伯珪殿にそれほどの義理もありますまいに」 「んー。いくらそこまで親しくないとはいえ、見知った人が困るのは、厭なんだよ、俺」  そう言うと、祭は一瞬びっくりしたような顔をしたあとで、本当に愉しそうに微笑んだ。 「桔梗は幸せものじゃのう」 「え?」 「なにしろ、こんないい男をまだ知らぬのじゃ。これより旦那様を知れるとなれば……それはほんに幸せなことじゃ」 「俺、そんな節操無しにみえるかなあ……」  俺のちょっと情けないつぶやきは、けれど、祭の幸せでたまらなさそうな笑顔を見ているうちどうでもよくなってしまった。 「さて、あとは、なにか用意するものはないかなー」 「恋ちゃんは肉まんが好きみたいだったよー」 「そうかー。でも、生ものは厳しいな。どうするかな……流琉、作り方とか教えてくれる?」 「はい、わかりました。祭さんもお料理うまいですし、すぐ憶えられるとおもいます」  数日の余裕が与えられたものだから、ここは呂布たちに一つ手土産でも用意しようと流琉と季衣の二人といっしょに街の店をめぐっていた俺の耳に、通りの向こうから澄んだ高笑いが聞こえてきた。 「おーっほっほっほ」 「ああ……」  まあ、予想通り、膨大な量の金髪が揺れている。華琳のドリルや美羽のくるくる程度ならともかく、あの量のカールした金髪はもう弩級の迫力と言っていい。それに見合ってゴージャスな体型しているけどな、あの人は。  い、いや、胸の大きさと髪の毛の量に相関関係なんてあるわけないですよ、俺の脳内の華琳さん。だから存在してないのに本体と同じ殺気を向けてくるのは勘弁してください。  ともあれ気を取り直して声のする方を眺めてみると、相変わらず高笑いを続ける袁紹と、その後ろに控える文醜、顔良両人と、その三人に対して笑みを浮かべつつ頭を下げている老齢の男性がいた。そのぺこぺことした様はへりくだってはいるが、無理矢理やらされているという感はない。  迷惑をかけているというわけでもなさそうだと、ほっと一安心。二人をうながし、歩をそちらに向ける。長安に連れて行く話をしないといけないからな。 「おーい、袁紹ー」 「やー、いっちー」  俺と季衣が声をかけると、袁紹の高笑いが瞬時に止み、ぎぎぎときしむ音が聞こえるような妙に硬い動作で、彼女はこちらを向く。高笑いを終えたまま固まった表情が、俺の姿を認めて驚愕に変わる。 「わ、わ、わ、わ、わがき、きき、きみっ」  彼女はさっと振り向くと、さっきまで話していた老人に早口で何事かまくしたて、そのまま脱兎のごとく駆けだした。 「え?」  困ったような顔で二人の部下が眺める中、大量の金髪をふりたてた美女は人込みを器用にぬって走り去ってしまった。一方のおじいさんもぺこぺこ頭を下げつつ、雑踏に消えていく。 「えーっと」  呆然とする俺と季衣、流琉。 「アニキ、きょっちー、流琉、こんちゃ」 「こんにちはー」  にこやかに挨拶してくれるのは嬉しいが……。 「なんだったんですか、あれ」 「ああ、麗羽様? アニキの顔みてびっくりしちゃったんだろ」 「ふーん、あのおじいさんは?」 「昔、袁家に仕えていた人。麗羽様の無事を知って喜んで話しかけてくれたらしいの」 「へー。確かに、消息知れてないだろうしねー」  斗詩と猪々子──彼女たちは真名を許してくれていた──流琉と季衣の四人は会話を続けているが、俺は未だに呆然としたままだ。俺、そんな嫌がられるようなことしたかなあ。  いや、したか。満座の中でお尻叩いたりしたら、そりゃトラウマだよな。  ふう、気持ちを切り換えよう。あのおじいさんにも悪いことをしていたってわけでもないようだし。 「北郷さんたちはなにしてらしたんですか? お買い物ですか?」 「ああ、ちょっと土産をね」  猪々子がアニキと呼んでくるのは仲がいい季衣が兄ちゃんと呼んでいるからだろうが、斗詩の北郷さんというのは、やはり多少距離を置かれている気がしてしまう。真名を許してくれたくらいだから、嫌われてるというのはないと思うのだが。  ちなみに、彼女たちの主君であり、さきほど逃げた袁紹は俺のことを『我が君』と呼ぶ。ただし。まだまともに呼ばれたことはないが。  毎回言いたくなさそうに口ごもったりどもったりするくらいなら、そんな呼び方しなくていいのに……と思ってしまうのだが、そのあたりのプライドのあり方とかも、彼女たちに聞いておきたいところだ。  今日は、ちょうどいい機会だ。聞いてしまおうか。 「ねぇ、斗詩は俺のこと苦手かな?」  皆で店をぶらつくこととし、他の三人がきゃーきゃー言いながら雑貨を見ている合間に、俺は斗詩に尋ねてみた。長安行きは二人にすでに話しており、二人から袁紹に伝えると約束をもらっているので、あとは気楽なものだ。 「え、なんでですか? そんなことありませんけど」  本当に予想外、という感じで返って来る応え。あれ、そうでもないのかな。 「いや、絶対名前で呼んでくれないだろ。それでなんかあるのかな、と思って」 「あー、えーと……ですねえ」  困ったようにうつむく。俺が厭だとかそういう雰囲気ではないが、一体何が……、と思っていると、話を聞いていたらしい猪々子が、なにかよくわからない雑貨をいじくりながら口をはさんできた。 「斗詩が悪いんじゃなくて、姫から止められてるんだよ」 「袁紹が?」 「アニキとかはいいんだけど、アニキの名前で呼ぶと、麗羽様、すんごい怒るんだよ」  あれ、これどうやって開くんだろ、と組み木細工をいじりながら言う猪々子。 「そうなんです。こないだ、うっかり一刀さんって言ったら、もう烈火のごとく怒られて」 「あの方の名前を軽々しく呼ぶなんて、顔良さん、あなた、どういうおつもりかしらっ」  猪々子の物真似は妙にうまい。 「そうそう、もうすごかったよねえ」  そうか、そういうことだったのか……正直、かなりショックだ。 「うーん……俺、そんなに嫌われてるのか……」 「……え?」 「何言ってんの、アニキ」  ぽかーんと口をあけて俺を見つめる顔二つ。なんだ? 俺、なにか変なこと言ったろうか。 「いや、だって、俺の名前は聞きたくもないってことだろ?」  俺の推測を話すと、ますます哀れむような視線で見られる俺。あれ、見当違い? 「兄様、さすがにそれは……」 「兄ちゃんってたまにとてつもなく鈍いよね」  好きな雑貨を選んできたらしい流琉と季衣が近寄ってきて、追い打ちをかける。うう、なんだっていうんだ。とりあえず、彼女たちに雑貨を会計してもらってくるようお小遣いを渡す。 「あ、あのさ、アニキ、こないだ、麗羽様が部屋に料理を差し入れしにいったと思うけど」 「料理? いや、記憶にないけど……」  取りなすように猪々子が話題を変える。しかし、料理ねえ。袁紹は料理できるのかな。 「ほら、先週、夜遅くまで仕事してたじゃないですか。そこに麗羽様が持って行って……」 「え……? あ、あれって料理だったの?」  思い当たるものが一つだけある。しかし、あれは料理ではないだろうと思うのだが……。 「へ?」 「な、なんだと思ってらしたんですか?」 「いや、前衛的な彫像かな、と思って、綺麗だったからいまも飾ってあるけど……料理っていうけど、腐ったりとかしてないよ? あれ」 「あ……はは」  七色に輝くあの物体が食物だったとは……。かぐわしい香りもしていたが、あれはどうやって出しているのだろう。そもそも袁紹自身、再現できるのか? 「それはすごいですね。保存食になりますかね」 「流琉もちょっとずれてる気がするなー」  よくわからない感心の仕方をする流琉と、それに突っ込む季衣。この二人はいつも平和でいいなあ。つい、二人の頭をなでてしまう。くすぐったげに身をすくめるが、避けようとはしない二人。 「かわいそうな麗羽様……」 「でも、麗羽様もしょうがない……」  ぼそぼそと小さな声で話し合っている斗詩と猪々子。内容はあまり聞こえないが、俺の袁紹への態度を問題にしているようだ。袁紹が俺のことを嫌っているというのも俺の勘違いだったようだし、お互い行き違いがあったのかな。 「うーん、一度袁紹とゆっくり話してみようか」  ぼそりと呟いたのを、斗詩が聞きつけてさっと顔をあげる。 「ぜひそうしてあげてください。それと、麗羽様が我が君なんて呼ぶのは北郷さんだけです! それだけは忘れないであげてくださいね」  勢い込んで俺の手を握ってくる斗詩に、俺はたじたじになってしまうのだった。  深更──評議の間。  こんな時間、こんなところに誰もいるはずがない。  だが、俺は知っている。寝つけぬ夜に、華琳がこの場所でひとり何事か考え込んでいることがあるのを。  覇王たる者が真夜中に何を悩むことがあるのか、凡夫にすぎない俺にはわからない。けれど、そういう時の華琳をみると、つい抱きしめてしまいそうになる。だが、もちろんそれをすることが許されるはずもなく、必死で我慢することになるのだ。実は、そうしたくてたまらず、けれど控えている者が他にもいたりすることがあるのは、お互いに見て見ぬふりだ。  だが、今日は華琳に個人的な用があって探しているので、もしそういう場に行き当たっても声をかけざるをえない。華琳は明日からしばらく視察に出るはずで、朝出かける前に話すよりは、いま話しておきたい。 「華琳、いるー?」  暗闇の中に呼びかける。何カ所かに灯火はあるのだが、倒れて燃えたりしないように覆い付きのものなので、俺にはとても見通せない。  私室にも執務室にもいなかったから、ここにいなければ、秋蘭か春蘭、あるいは桂花の部屋だろう。さすがに睦み合いの最中に入り込むほどではないから、諦めるしかない。 「いるわよ」 「ひっ」  階(きざはし)の先にしつらえられた、たったひとりのための座所から、二つの声が聞こえた。一つは華琳、一つは……これは……。 「あー、お愉しみだったか。ごめん、明日にする」  きびすを返そうとすると、華琳の声が呼び止めた。 「あら。いいわよ、ねえ、桂花」 「い、いやですっ」  やっぱり桂花だったか。目を凝らすと、華琳の足元に座り込む桂花らしき姿が見える。おそらく二人ともあられもない姿だろう。 「あら、そうなの? 一刀が帰って来てからは二人きりで過ごすことも増えたから、てっきり桂花も馴れたと思っていたのだけど?」 「ち、ちがいます、あれはあの全身精液男が無理矢理……」 「あらあら、一刀のせいにするの? あれが無理矢理襲うほど女に困ることなんてないと思うけど。ねえ、一刀、私でも、秋蘭でも霞でも誰のところに忍んでいってもいいんですものね」 「そ、それは……」  ふふ、と小さく笑う華琳。その指がどこぞで蠢いたのか、桂花の喉から艶かしい鳴き声が漏れてくる。 「あらあら、一刀に見られて……かしら?」 「ち、ちがいます、華琳様が、はふっ、触ってくださるからっ」  暗闇でもわかるように、華琳が顎をひいてみせる。近づいてこいということだろう。断れるはずもなく、ゆっくりと俺は彼女たちのいるところへ近づいていく。 「く、くるな、このばかっ」  さすがに近づいたのと闇に眼が馴れてきたのが相まって、彼女たちの裸身が白く輝くように見えてくる。華琳は肩から薄絹一枚まとっただけ、桂花はその足元で一糸まとわぬ姿で犬のように跪いている。以前のように足でも舐めさせているかと思ったのだが、そういうわけでもなく、華琳は脚に絡みつく桂花の体のやわらかさを楽しんでいるようだ。はげしさよりは、静かさの中の愛撫といったところか。 「それで、なんの話かしら」  さすがに目を惹きつけられている俺に、華琳が話をうながす。猫をあやすように、桂花の喉をなでる華琳の指に視線が揺れる。 「ああ、長安に行くのに華雄と祭、袁紹一行を連れて行こうと思うんだけど……」 「麗羽を? 物好きねえ……」  普段のからかうような口調ではなく、少々困ったような顔になっている。 「華琳様、長安には……」 「わかってるわ。……理由を」  ん? なにか桂花が口を挟むほどのことだろうか。彼女の言葉はくぐもっていてよく聞こえなかったが……。 「呂布たちをはめた張本人だから……かな」 「へぇ」  珍しく感嘆の声を上げる華琳。仕種で先をうながされる。 「元々同僚の華雄、それと敵対していたはずの袁紹、この二人が共にいることを示して、こちらに来るのはそう悪いことじゃないと思わせられればな、って」 「桂花」 「悪くはありません……しかし、もちろん逆効果かもしれません」 「そうね、私も同意見。わざわざ危難を増やしているかもしれないわよ」  華琳の言うこともわかる。リスクに見合ったリターンがあるかというと、俺にも判断がつかないというのが本音だ。 「ただなあ、美羽からも頼まれてるんだよ。それに、俺も袁紹と知り合っておきたい。今後はうちにいるんだろ?」 「あら、今度は麗羽?」 「これだから、男って……」 「な、何言ってるんだよ、そういうことじゃなくてだな……」  華琳のおもしろがっている声に、慌てて反応したのはまずかったろうか。もっと余裕をもって対応しないと逆にからかわれ続けそうな……。だが、華琳は笑みをひっこめて遠くを見やるような顔になった。 「やめろとは言わないけど……麗羽ねえ……」 「華琳とは昔なじみだったんだよね?」  俺の世界の歴史だと、曹操は実際には袁紹の配下に近い存在だった時期があってもおかしくない。悪童仲間ということになっているが、家の力関係からしても、曹操の地盤確保の時期からしても、反董卓連合時代までは、曹操は袁紹に抱えられていたと見るほうが妥当なのだそうだ。実際にはこちらの歴史では、反董卓連合時では華琳は自分の地盤を着々と築いていたわけだから、そこまでのつながりがあるとも限らないのだが。 「ええ、同じ門下で学んだ仲よ。まあ、あれがどれほど学べたかどうかは知らないけど、袁家の名前を求めて集まってくる人間たちから人脈形成はできたでしょうね」 「最初から仲が悪かったの?」  袁紹と華琳は、外的要因だけをみると、よく似ている。金髪で──ついでにくるくるで──とびきりの美少女で、かわいい女の子が大好きな上に傲岸不遜。もちろん中身はまるきり違うが、同族嫌悪で嫌いあうこともあるかもしれない。 「いいえ。まあ、顔はそこそこだけど、それ以外は特に興味がなかったしね。それに、今はともかく、当時の袁家の威勢ときたら、それはもう凄いものだったのよ。敵にまわす必要もないでしょう」 「それもそうだな……じゃあ、なにかきっかけが?」 「私のほうはあまり興味がなかったのだけれど、あちらが執拗に誘ってきてね。しかたないから、麗羽の主催する茶会とかに出るようになったあたりまでは普通だったわね。彼女や取り巻きは色々言ってきたけど、礼儀以上のことは対応しないで我慢したわ。あの頃は、いずれ宮中に入って、ああいうつまらないおしゃべりにつきあう必要があるだろうなんて思っていたもので、いい訓練だと思ったの。今考えると馬鹿馬鹿しい限りだけど」  ああ、自慢話とかてんこもりだったんだろうなあ、よく耐えたな、華琳。そこで、彼女は少々話しにくそうに口ごもったが、溜息を一つついて続きを話しはじめる。 「関係が悪化したのはね、麗羽から私が恋文をもらったことよ」 「袁紹から!?」 「ええ」  はあ、そんなことが……。女性同士の関係というのは難しいのだな。華琳は俺の驚いた顔を見て、深い深い溜息をまた一つついた。 「本気の恋文なら、私だってそこまで嫌がらないわよ。丁重にお断りするだろうけど、それだけのこと。問題は、それがなんとも稚拙な企みだったことよ」  ああ、いやだいやだ、と華琳は手を振る。その手にじゃれつくようにする桂花が可愛らしい。こいつも、華琳相手だと本当にしおらしいからなあ……。 「私を呼び出す場所が、あからさまにあやしいところでね。結局私は行きもしなかった。それ以来、見事に麗羽の態度が悪化して、私は一切あいつの催しには呼ばれなくなったわ。それについては正直ありがたかったけど」  そうか、そんなことが……。学生時代の友は一生の友だというが、学生時代の敵は一生の敵になるんだろうか?  そんなことを俺が考えていると、桂花が不意に考え深げな声をあげた。 「そのお話、以前も聞いたのですが……少々気になるんです」 「なに?」 「その当時でも、権謀術数を袁紹は方々にしかけています。そして、それらは取り巻きにいた田豊、沮授あたりがやっていたはず」  桂花の指摘で、華琳は視線を斜め上に向けた。なにかを思い出そうとしているかのようだ。 「そのお話で、華琳様が秋蘭たちに調査を命じたというような話も聞いたことがありません。と、すると、文を見ただけでわかるような策だったということでしょう。さすがに、そのような愚かなことを、袁紹本人はともかく、周りが許すでしょうか」 「でもさ、袁紹ってかなり愚か……と言える策をしかけてなかったか? 官渡の前でも……」 「莫迦ね、それは、袁紹の支配力が袁家の中で確立してからの話でしょ。いくら名家の跡取りといえども、いえ、複雑に因習の鎖で縛られる名家ならばこそ、手習いに出されるような時期は一人で全てを掌握することは不可能。華琳様のようなすばらしい才能でもなければね」  それに、と桂花は続ける。 「実際、官渡の時期だって、あれが部下の進言をきちんと容れていたら、わたしたちの勝利は遠ざかっていたわね。たとえすばらしいものを持っていても、それを使いこなせないからこその愚かさ。まさに天命から外れた外道ね」  ふふん、と笑って見せる桂花。そういえば、こいつも袁紹を見限って華琳の下に走った口だっけ。それにしても、言っていることは冷静で分析的なのはわかるのだが、素っ裸でそれを言うとなあ……。 「確かに……あれは麗羽の手だった」  ぽつり、と華琳が呟く。古い記憶を呼び起こすように、静かな声。 「思い出したわ、あいつが書いた呼び出し場所と似た音の、けれど、まるで字の違う高級料亭があったわ。密会に使われる類の、ね」  積年の疑問が解決したかのような晴れ晴れとした笑顔で彼女は言う。 「あらあら、ことによると、麗羽は本気だったのかもしれないわ」 「あくまで推論ですね」 「ええ、過ぎたことだし、これ以上ほじくり返すつもりはないわ。でも、そうね、一刀」  魏の覇王の顔に戻った華琳がじっと俺を見つめる。見透かすように、楽しむように。 「憶えておきなさい。あれは、一番大事なところでとちる娘よ。それをわかった上で連れて行くというなら、ええ、使ってみなさい。あれを使いこなす術を見せてくれること、期待しているわ」  覇王の裁定は下った。俺は、その後、厳顔についての話をひとくさりしたあと、華琳のおもちゃになって桂花をなぶり、桂花が気絶した横で華琳自身をなぶり、朝までたっぷり搾り取られることになるのだが、それはまた別の話だ。  長安行きの旅は大人数でのものだった。  鎮西府を開府するためという理由もあって、霞とその配下の張遼隊が全員、それに一部の文官──大多数は黄河経由ですでに移動中なのだそうだ──、途中、建設中の城砦に補充される人足、等々あわせて二千を超える人の群れとなってしまった。  曹魏の迅速な進軍速度に馴れていた俺は、文官を含めた足どりの遅さにいらつくよりも驚いてしまったが、幸い、城砦に立ち寄った後は人足や文官の大半を残してこられたこともあり、普通の進軍速度に近づいていた。俺以外にも兵たちが不満に思っていたらしく、ようやくほっとした空気が流れている。神速でうたわれる張遼隊にしてみれば、文官たちのペースは地を這うようなものだったろうからな。つきあわされる残りの文官達が少々かわいそうではあるが……。  支給された天幕で地図を広げ、明日はどのあたりまでいけるだろう、と考えていた俺は、目の隅で揺れる火に、ふと顔をあげた。見ると、獣脂に浸った灯心はもう燃え尽きそうだ。 「そろそろ寝るか……」  火の始末をし、暗闇の中で夜具を着込む。着込む、というのは、ゆるいかいまきのようなもので、かぶって寝るという形ではないためだ。危急のときには動きやすくて野営にはいい。元々は遊牧民たちのものだというが、張遼隊のような部隊ではそういうものを取り入れるのに忌避感がそれほどない。やはり、実際に異民族達の脅威と向き合っている彼らには、異民族達が選び取るものの利便性を実感できるのだろう。  そんなことを考察しているような、あるいは夢の中にいるような時、天幕の入り口が開かれる気配を感じた。途端に眼が冴える。体を動かさないように、指だけで傍らにあるはずの剣のありかを探ろうとする。 「うちや、一刀」 「ああ、霞か……驚かすなよ」  聞き慣れた声に、緊張感が溶けていく。音もなく、霞の体が俺の横、というよりは後ろに滑り込んできた。 「ふふ、一刀もよう気づくようになったやないか」 「あ……うん」  首筋に霞の息があたる。甘い香りが鼻をくすぐる。暗闇の中、小さな衣擦れやふと香ってくる霞の香りが、存在感をいやまして伝えてくる。 「うちもいれてぇな」  夜具の袖の片方から腕をぬき、霞にかけてやる。すると、霞はその袖に腕をいれたようで、ぴったりと俺の背中にくっついてくる。柔らかな感触が俺の脚にも背中にも首筋にも触れてくる。 「し、霞……あんまり……」 「せやかて、くっつかんと狭いし寒いやん」 「そりゃそうだけど……」  どうしてももぞもぞしてしまう。むくむくと起き上がる俺の分身に、たまたまなのか意図的なのか、霞の指がかする。 「や、元気やん」 「そりゃ、まあ、霞がくっついてたら……な」 「ごめんな。我慢してな、さすがに鎮西将軍のだらしない喘ぎを部下に聞かせるわけにいかんねん」  霞の声は本当に申し訳なさそうで、からかう気配はない。それよりも俺を気づかう気持ちが声にこもっている。 「ほんまは、うちかて我慢しとうないよ。ううん、我慢しきれんで、こうして忍んできてしもてん。ただな……うち、こうして触れ合ってるだけでも嬉しいんよ、一刀」 「そんなの、俺だっていっしょだよ。まあ、生理的反応はともかく、だ」  霞の手に、自分の手を重ね、指を絡ませる。偃月刀をふりまわすにはふさわしくないほど小さく、柔らかな手。その手を俺の心臓の上にもっていく。どきどきとうるさいほどの音をかなでるその鼓動は、霞に伝わっているだろうか。 「あったかいわあ……」  言いながら、霞は俺の肩と床の間に頭をねじこんでくる。霞の髪でこすりあげられるのがくすぐったいが、身をよじると彼女にぶつかりそうなので我慢する。  そのまま、しばらくの間、俺たちはなにを話すでもなく、お互いの体温と息づかいだけを感じていた。  それは、とても幸せな時間だった。 「なあ、一刀」  どれくらいの時がたったろう。夢とも現ともつかぬ暗闇の中で、静かな声が響く。 「あたしと羅馬にいくって約束……おぼえてる?」  その問いかけは、たどたどしく普段の彼女とはとてもかけ離れていて。 「ああ」  俺は、素直にそう応えるしかなかったのだ。 「ああ、いこう、あの彼方に……でも、ごめん。二人きりじゃ無理かもしれない」  ぎゅっと絡んだ指に力が込められる。伝わってくるのは、震え、だろうか。 「それに戦、終わらへんしなあ……三国平定しても、外にも内にも敵ばっかや」 「なんだよ、霞が終わらせてくれるんだろ?」 「ぷっ、なんや、うちまかせかい! しゃあないなあ。孟ちゃんも惇ちゃんもみーんな連れて、羅馬まで進撃したろやないか」  ぼんやりと、けれど、ほんの少し明るくなった声。だが、それはすがりつくような声に変わる。嗚咽に消えそうな、赤ん坊がぐずるような声に、俺は胸が締めつけられる。 「だから、な、だから、後生やから、もう消えたりせぇへんといて……」  体ごと俺にしがみついてくる霞。脚が、腕が、指が、全て俺を二度と離すまいと力強く引き寄せる。俺はそれに抗することなく、絡んでくる体を抱き返す。 「ああ。二度と……二度とあんなことはないよ」  言葉で言ったとて、安心などできはしないだろう。俺だって不安がないとは言えない。確かにこの世界に帰った時にもう二度と元の世界には帰ることはできないだろうと言われはしたけれど……。  だが、俺には言葉で約束することしかできない。真摯な約束で、この地につなぎとめる鎖を少しでも太くしようというように。 「霞、俺は……」  言葉を続けようとした時、急に絡みつく圧力がなくなった。俺を手放した霞の体は夜具からもすり抜けて飛び上がり、忍ばせていたらしい懐剣を出口のほうへ向けている。 「誰やっ」  見れば、天幕の布地の向こうに、ぼんやりとした灯が揺れている。 「あっ、わ、わっ」  殺気を向けられたのを感じたのか、小さいながらも悲鳴のようなものが漏れ聞こえてくる。 「わたくしは、声が聞こえましたもので、何事かとっ」  ああ、この声は袁紹だ。霞も気づいたのか、剣をしまい、出口の布をめくって確認する。 「あちゃー、袁紹か、さすがに間ぁ悪いわ」 「う、うるさいですわよ。張遼さん。だいたい、なんであなたがここにいるんですの!?」  俺も起き上がって霞の後ろから覗き込んでみると、袁紹が手元に持っている灯のおかげで、彼女の白い顔と、特徴的な金の髪が闇の中に浮かびあがるように見えていた。下から照らされているものだから、少々怖くなってしまっているのはご愛嬌だ。 「えー、そりゃあ、うち、一刀の女やしー」 「な、な、な……」  霞に向けてわたわたと手を動かし、口をぱくぱくと動かすものの声が出ないらしく、袁紹は一度気を取り直そうというのか深呼吸してから、霞をあらためて指さした。 「は、破廉恥なっ」 「えー、破廉恥なことはしてへんよ、なあ?」 「あ、まあ、そうだな」  添い寝は破廉恥に入らない……よな? いや、どうなんだろうな。 「そもそも、袁紹のほうはなんでこんな夜更けに一刀のとこ来たん?」  にやにやと答えがわかっているかのような表情で問いかける霞。袁紹はその問いに見るからに顔を明らめた。 「わ、わたくしは、ですから、わ、我が君の天幕で声が聞こえるのを確認しようとっ」 「文醜も顔良も連れんでか? 荒事なんて向かんやろ、あんた」 「と、斗詩さんも猪々子さんも寝てらっしゃるから、わたくしが来たのですわ。それがいけませんのっ」  真っ赤な顔で抗弁する袁紹は必死だ。対する霞はにやついて意味ありげな笑みを浮かべるばかり。 「いやー、かまへんけどなー」  くくっ、と彼女は笑う。挑発するような笑いに、憤然と息をはく袁紹。霞は追い打ちのように言葉をつむぐ。 「せやったら、袁紹は離れた天幕に寝とっても、一刀の天幕の抑えた声が聞こえるんやなー、すごいわ、ほんま」 「そ、それは……」  じり、と袁紹の足がさがる。 「どうなん? 耳がそれだけええんやったら、隠密部隊にも入れると違うかなー」  唐突にあああああ、もうっ、と小さい声を連続であげると、袁紹は俺たちに顔を向けたまま、高速で後ずさりはじめた。 「と、ともかく、我が君の就寝を邪魔したりしないで、さっさと自分の天幕に戻りなさい。いいですわね、張遼さんっ」  奇妙な走法で走り去る袁紹はそれだけ言って闇に消えていく。おいてけぼりにされた俺としては呆然とするしかない。 「な、なんだったんだ、あれ」  思わず漏らした俺に、呆れた様子の霞はさらに驚愕の一言を告げるのだった。 「あー? 一刀、そりゃ、あかんわ。袁紹は、あんたに夜這いをかけにきたに決まっとるやん。うちと同じや」  あの袁紹が、俺に……?  長安についても、呂布にすぐに会いにいけるというわけでもない。もちろん、霞も華雄もいるし、訪ねていっても門前払いというほどでもないだろうが、やはり筋を通そうと思ったのだ。まずは霞のほうから使者を立ててもらい、会談の日取りを決めてもらう手筈になっていた。  だから、長安についたその日、時間のあいた俺は長安をぶらつくことにした。忙しそうな霞たちの邪魔をしたくなかったという理由もある。護衛には華雄についてもらい、特に目的もなく大都市を散策する。  袁紹たちも誘おうと思ったのだが、この間の夜以来、話しかけようとすると逃げ出すので話す機会がないのが困りものだ。 「やっぱり洛陽とは雰囲気が違うなあ」 「馴れの問題もあるだろうが、西方のものが流れてくるところだからな」  市場で買った梨を二人でかじりつつ、町外れを歩く。このあたりは屋敷町なのか、白塗りの壁がずっと続いている中に、ぽつんぽつんと門がある、という感じだ。各屋敷の切れ目がどこなのかいまいちわからないのは防犯上の問題か、あるいは壁の強度を高めるためかもしれない。 「静かな一角だな。もっと人のいるほうへ行こうか」  そう言って方向転換しようとしたところで、足元にどん、とぶつかってきたものがあった。 「んー?」  下を見ると、道路にこてんと転がってもがいているのは、一匹の犬だ。足が短めでなかなか起き上がれないらしい。 「おやおや、ごめんな」  抱き起こすと、抵抗することもなく抱き上げられる。しかも、わふわふっ、と鳴き声をあげて、俺の顔を舐めてくる始末だ。人懐っこい犬だな。いや、梨の果汁を舐めとっているのかもしれない。そうすると食い意地のはった犬ということになる。 「わはは、くすぐったい」  よく見れば犬は赤いスカーフのようなものをつけていた。俺の時代での首輪のようなものだろうか。だとすると飼い犬だろう。 「おや、この犬は……?」  華雄が犬を見て顎に手を当て考えはじめる。なにか見覚えがあるのだろうか。俺も見覚えがあるような気がしないでもないんだよな、こいつ。  首筋を指でかいてやると、気持ちよさそうにくぅーん、と声をあげる。 「セキトー、セキトー」  なにかを探しているような声が道の向こうから聞こえてきた。 「ん、おまえのご主人様かな?」 「セキト、どこいったのー?」  その声の方を向いた華雄が硬直し、異様な緊張感が募るのがわかる。あれ、一体何があったんだ? 「まさ……か……」  愕然とした呟きが彼女の口から漏れる。そう、まるで死者に出会ったとでもいうような。 「董卓さまっ」  喉も張り裂けんばかりに叫んだその声の先、大音声に硬直する一人の少女の姿があった。  以前、董白、と自己紹介されたあのお姫様がそこにいた。                         いけいけぼくらの北郷帝第七回(終)  おまけ  『覇王のつぶやき』  普段、群臣が国家の行く末について真剣に討議する評議の間は、この夜、濃密な男女の営みの香りと音に支配されていた。  灯は数少ない常夜灯のみ。深い闇の海の中に、ぽつん、ぽつんと灯火の島があるようなもの。  光とどかぬ海の底のような暗闇の中、男と女、それにもう一人の女の肉が絡み合う。 「お許しを、もう、お許しを……」  うなされるような声が、喉の奥から押し出されるように吐き出される。事実、その体はこじ開けられ、内側から男の太い肉棒で突き上げられている。  快楽なのか苦痛なのか、それとも苦痛がもたらす快楽なのか。嵐のように襲ってくる感覚の洪水に、女の脳はもはや考えることすら不可能となっている。 「お許し、をっ」 「あらあら、桂花ったら、一体、だ、れ、に、許しを乞うているのかしら」  女の華奢な体を這い回る指はあわせて二十本。唾液を塗りたくる熱い熱い舌は二つ。一つは愛しい愛しい主のそれ。一つは、憎たらしい男のそれ。だが、肌に与えられる快楽から、そのどちらかを判別する術を女はもはや持たない。貫かれた秘所から、間欠泉のようにあふれる暖かな感覚が脳天まで這い上がり、頭の少し先で爆発する。その経路を知っているかのように、的確に感覚の糸をつかまれ、揺さぶられる。  もはや自らの体の支配権すら失いかけた女は、すがりつくものがほしくて、手近なものにしがみつく。それは、彼女の処女を奪い取った男の……。 「ふぅっ……わっ」  深海に棲むという巨大な頭足類のように、真白い細いぬめった手足が男の体に絡みつく。唾棄と汗、それに涙で濡れた肌は、はりつくような、溶け合うような感触を男に与えて。 「くっ」 「ゆるしっ……ふうううううわあああぁぁぁぁぁあんんんん」  男が精を放つ。その全てを受け止めて、女は叫びを放つ。反り返り、ぴーんと張りつめたまま震えていた首が、不意にがくんと力を失う。 「うわ」  すでに半ば以上体を支えていた男が、力の抜けた体を抱き留める。急な動きで男のものが抜き取られた秘所から、白濁した液体があふれ、足を伝い始める。 「気を失ったわね」 「まいったな……ええと、この布の上でいいよな」  少し離れた場所、服が脱ぎ散らかされているあたりに置かれた幾枚かの布の上に女の体を優しく寝かせてやる男。寒くならないように、と服の中から自分の上着と思しきものを探し出し、かけてやる。もう一人の女は、にやにやとその様子を見ているばかり。 「あそこまで乱れるなんて久しぶりね」 「あんなに苛めるからだろう」 「あの子だって、それを望んでいる、違う?  そりゃそうだ、と男はしょうがないといった風に笑みを返す。 「あなただって楽しんでいたじゃない、一刀」 「華琳ほどじゃないよ」  男は北郷一刀、天の国より来たという『天の御遣い』。  女──少女は華琳こと曹孟徳。大陸の覇者にして、大国、魏を統べる者。  その二人が、お互いに一糸まとわぬ姿で、お互いの──そして、魏が誇る頭脳荀文若の様々な体液に塗れて向かい合う。一人は、その支配の象徴たる──見てくれはいいものの座り心地は悪そうな──台石に腰掛け、一人は意外にも引き締まった体を臆することもなくその前に晒して立っている。 「ねえ、一刀、あなたは、私がするように、誰かを苛めてみたいと、己の支配の下でいいように扱ってみたいと思ったことはない?」 「その二つは微妙に意味が異なると思うんだが」  男の反駁を、彼女はほとんど聞いていない。ちろり、と唇から覗く舌は、赤く赤く、闇に溶けるように紅い。ごくり、と男は喉を鳴らす。 「たとえば、この私なんかを」 「ば、莫迦言うなよ」 「嘘」  少女は笑みをその唇に刻み、細い指でつ、と男の下腹を指した。そこには隆々とそそり立つ肉の凶器があった。桂花の時より元気じゃない? と女は密かにほくそ笑む。 「私が言った途端、元気になっているじゃない」 「そ、それは、華琳の姿を見てたら、どうしたって」  その声に気をよくしたのか、彼女はすらりと伸びた足をひらめかせ、彼にわざと見せつけるように組みかえた。唇をなめあげる舌と同じくらい赤い秘唇がほのかに見えた気がして、男の分身は鼓動に応じてびくびくと震える。 「ふふ……ありがと。でも、それだけじゃないはずよ。ねえ、本当に思わない? 私があなたにかしずくのよ。あなたの言うがままに振る舞い、あなたの思うように動く。……ね」  少女は静かに立ち上がる。美しい裸身が闇の中で輝くよう。瑞々しい肢体は、動きによって幼さと成熟のそれぞれの面をかいま見せる。つんと上を向いた形いい乳房をふりたてるようにして、少女は一歩を踏み出す。 「そんな……俺は、可愛い華琳そのままで……。それに、操り人形を抱きたいわけじゃあ……」 「あら、あなた、私が桂花を操り人形にしてると思っているの?」  にっ、と笑みがいやらしく広がる。なにかを企むかのような邪悪な笑み。だが、その笑みを、男は嫌いではなかった。 「いや、それは違うけど……」 「あなたも少しはわかっていると思うけれど、私は確かにあの娘を苛めてるけど、それは彼女の望むように、彼女の期待する一歩先、せいぜい二歩先を読んでのことよ。三歩先では桂花がついてこられないし、見当違いでは醒めてしまう。  確かに、桂花は私を信じ、私に跪いているけれど、その信頼の大元は、私が彼女の望むその一歩先を実現させられるから。だからこそ、彼女はどんな痛みも、どんな屈辱も、そう、あなたに犯されることさえ快楽にできる。──ま、これは、最近お仕置きどころかご褒美なわけだけど。  そういう意味では、私は桂花に操られている。操り人形の操り手は、けして自由ではいられない。なぜなら、操るための糸は人形にも操り手にもつながっているのだから。  私たちは環の中にいるの、従属者は支配者の一挙手一投足に翻弄され、支配者は従属者の夢に支配される」 「難しい……もんだな」  二歩。彼女は、舞姫のように美しい動作で、彼に近づいていく。彼女は片方の手で、男の顔をまっすぐに指さす。もう片方の手は自分の胸に。 「私とあなたにも、糸がつながっている」  男はごくり、と唾を呑む。確かに彼は操られていた。彼女の動作の一つ一つから、目を離すことができない。その完璧なまでに美しい体とその中で燃え盛る意志が、男の心を惹きつけてやまない。 「あなたにかけられた呪いという糸が」 「呪い!?」  彼をさしていた手が己の体に巻きつく。震える体を押さえつけるように。内から零れそうになるものを止めるように。彼女の顔から先程までの傲岸さは消え、そこにあるのは、少女らしい不安の表情。 「私、女の子なんでしょ? 覇王でもなんでもない、ただの、女の子。あなたの前でだけ」  それは、かつて彼が言った言葉。彼女の処女を散らしながら、放った呪(しゅ)。 「他の誰の前でもなく、あなたの前でだけ、私は年齢通りのただの女の子でいられる。そういう呪いをあなたはかけた」 「華琳、俺は……」 「誤解しないで、責めているわけじゃない。愉しんでいるの。あなたと私を繋ぐこの呪いを」  三歩。少女は不安と喜悦の入り交じった笑みを浮かべながら、足を進める。もう一歩進めば、彼の体に手が届く。お互いの放つ香りが鼻腔をくすぐる。 「いまは、だから、あなたの盟友でもなんでもない。ただの女の子。ねえ、その女の子を、支配してみたいと、思わない?」  少女の笑みは崩れない。だが、その笑みの向こう側からかちかちと歯がぶつかる音が聞こえないだろうか。歯の根が合わず、震えを押し込めているのが、果たして男には見えたろうか。 「支配したら……どうなるんだ」  男が一歩を踏み込む。少女は驚いたような顔をすると、ゆっくりと相手の首に手を回し、体を押しつけた。肌と肌が触れ合い、驚くほどの熱を伝えあう。 「私はあなたの奴隷になる。生死さえもその時はあなたのもの。全ての責任や重荷はあなたに預ける。その覚悟をしてくれれば、華琳という女の子は呪いに縛られた一刀の奴隷になる」  沈黙。  少女の顔色が真っ青に変わろうとした時、ぐ、とつかまれる腕。少女は一切の抵抗をしない。却ってそれをうながすように動く。跪かされ、その顔に男の肉の凶器をこすりつけられても。 「舐めろ」  ああっ……。  その声は歓喜の極のようにも、絶望の叫びのようにも、そして、そのどちらにも聞こえた。 「いひゃああ、感じ、感じゅしゅぎりゅ」  台石に押さえつけられるようにして、少女は犯されていた。この国の支配の象徴たるその場所で、全てをさらけ出し、幼子のように涙を流しながら、あらゆるものを統べるはずのその少女は犯されていた。  片足は男の手によって高く高く掲げられ、ぱっくりと割れた秘所には男のものがはげしく突き入れられている。肉棒が蠢く度に派手な音と共に、泡を立てて流れ落ちる愛液。 「かじゅ、かじゅとっ、ゆりゅひて、しょこ、しょこかんじしゅぎっ」  声は不明瞭にくぐもる。それは、彼女の可愛らしい舌が、男の親指と薬指とで引っ張り出すように掴まれているからだった。 「華琳は奴隷なんだろ? 気持ちよくさせてもらって、そんなこと言うの?」 「ごみぇ、ごみぇんにゃしゃい。で、でも、ふぅっ、うふぅああああああああ」  少女の腕は手鎖をかけられているかのように胸の前であわされている。しかし、そこに拘束のための道具は何も見えない。  縛っているのは、男の命令。  手を動かすな、と命じられた少女は、その言いつけを守って、一切の抵抗を封じる象徴のように、胸の前から頑として腕を動かそうとしない。男の動作に感じすぎて腕が自然と動く度、涙を流しながら謝罪の声を漏らす。男がなにを言おうとしなくても。 「うひゅううううう、ふっ、かじゅとぉお、かじゅとぉお」  声がはじける。頂が近いというように、小刻みに体が震え始める。  と、男はぴたりと動きを止め、握っていた女の足を離すとやさしく、いや、いっそうやうやしいほどに慎重に石の上に彼女の体を横たえた。 「いひゃっ、いひゃああああああああああ」  ばたんばたんと少女の体が暴れる。男はそれを抑えるでもなく、ただ、眺めている。舌だけは離さないのは、あるいは噛んでしまわないようにという配慮なのか。  よく見れば、彼女がこすりつけようとしてくる下腹部を巧妙に腰を引いて避けている男。 「どうしゅて、どうしゅて、いかしぇてくりぇないのぉおおお」  こうして、もう何度も彼女は絶頂に至る直前で興奮をおさめられているのだった。  怒りの声を吐き、なだめるように誘い、泣きながら懇願する彼女を冷然と見据えていた男は、ようやくのように醒め始めた彼女の肌をこすりあげ、腰を動かしはじめる。 「ひどっ、ひどいよぅうう」  だが、その非難は男の執拗な愛撫と、はげしい腰遣いに陥落していく。 「はひゅっ、いいっ、しゅごいのぉお」 「ほら、言うんだろ。俺を呼ぶんだろ」 「いかっ、いかしてくれりゅ? ゆ、ゆったりゃ、いかしぇててくれましゅかっ」  こくり、と頷くその動作を見て、ついに彼女は確信した。この男は、自分を本当にそこまで追い詰めるつもりなのだ、と。  そして、ゆっくりと舌から指が離れ。代わりに男の唇が彼女の顔に雨あられとキスを降らせ始める。  彼女の視線が揺れる。瞳孔が開かれ、焦点が外れる。  そして、彼がラストスパートに入った時、彼女はついに叫んだ。 「ごしゅ、ご主人さまああああああ」  男と女、二人が共に果てたのはその最中であった。  すっかり眠りこけた男を前に、女はその体にまたがるようにして彼の顔を見下ろしている。 「一刀、あなたがかけた呪いは私だけじゃない。一年の間、私たちは、あなたに、ずっと操られていた。あなたの不在に」  彼女は吐き捨てる。呪うように。祝福するように。 「でも、あなたは帰って来た」  眠ったままの男の上にしゃがみ込む華琳。 「だから、あなたには、呪いの責任を負ってもらう」  契約の印のように、彼女は彼の額に口づける。  そして、顔を上げた時、その顔は華琳にあらず、曹孟徳のそれであった。 「桂花、起きているのでしょう」 「気づいておられましたか」 「近しい者の呼吸さえわからないほど落ちぶれてはいないわ。邪魔をしないでいてくれたのは感謝するけどね」 「いくらこのお気楽孕ませ男相手でも、寝ている者にまで嫉妬はいたしません」  花のような笑みを、曹操は漏らした。桂花ですらあまり見たことのない、透明な笑みを。 「わかっているわね、桂花」 「……それが、華琳様のお考えならば、この荀文若、才の全てを費やしましょう」 「百年を考えるなら、この曹孟徳が帝位につくが最善。だが、千年を考えれば……」  少女の呟きを本当に聞くべき者は、なお夢の中にいた。                                       (了)