〜いけいけぼくらの北郷帝〜 第六回 『天上天下』  夜、俺は庭を歩いていた。  道連れは、空にかかる望月一人。  春分をすぎた夜風はほんの少しだけ冷たい。  三国の会談も終わり半月が過ぎ、城内はようやくお祭り騒ぎの熱から醒めてきた。そして、俺にとってもこの世界での日常が始まったという実感がわいてきたところだ。やはり、帰ってきてからしばらくの騒ぎっぷりは非日常だったのだ。  吹きすぎる風の中に、楽の調べが混じっていることに気づく。か細いその音に引き寄せられるように俺は歩を進めた。  だんだんと聞き取れるようになってきた楽の音に、声が混じり始める。低く染み渡るような、それでいて天に昇っていきそうな澄んだ歌声。    呉戈を操り犀甲を被る    車の轂(こしき)は錯(まじ)れ短兵接す    旌(はた)は日を蔽し敵雲の若く    矢は交して墜ち士は先を爭う  黄河を模してつくられた人工の河のほとりに、その歌声の主はいた。  黒髪が闇に溶けるような。  そのかんばせの美しさに、月さえ恥じ入るような。    余が陣を凌ぎ余が行を踏む     左の驂(そえうま)は殪(たお)れ右は刃傷す    兩輪霾(ばい)し 四馬を繋ぐ    玉枹(ぎょくほう)を援りて鼓を撃ち鳴らす    天時は墜ちて威靈は怒り    嚴しく殺し盡くされ原野に棄てらるる  美周郎とたたえられる智謀の士は、俺に気づいた印に一度目線を伏せた。俺も静かに一礼する。  彼女の指が動き、弦をはじく。そのほんの少しの動きにも、流麗な美が宿る。    出でて入らず往きて反らず    平原は忽にして路は超遠なり    長劍帶びて秦弓挾み    首が身を離るとも心は懲りず  俺は、彼女と河を隔てて向かい合ったまま、その勇壮で哀しい詩を聞いていた。  一瞬だけ、干戈交わる戦場の風が吹き渡った気がした。それは、熱く餓(かつえ)えていた。    誠既に勇のみならず又以って武なり    終に剛強にして凌ぐべからず    身は既に死して神となり以って靈(くし)ぶ    魂魄は毅く鬼雄と爲りぬ  びいん、と周公瑾の抱く楽器がひときわ長く鳴いた。  静かな夜が戻ってくると、そこにあるのは、ぼうと心が抜けてしまったかのように突っ立つ俺と、月光に照らされ半神のごとく輝く冥琳の姿だけ。  ふ、とその腕が掌を開いて俺に向かって差し出された。  これは……俺にも歌えと言っているのだろう。しかし、俺に詩才などなく、詩経をそらんじることができるわけもない。  しかたなく、俺は唯一憶えている詩を口にのぼらせる。    君に勧む金屈巵(きんくつし)    コノサカヅキヲ受ケテクレ    満酌辞するを須(もち)いず     ドウゾナミナミツガシテオクレ    花発(ひら)けば風雨多し      ハナニアラシノタトヘモアルゾ    人生別離足る            「サヨナラ」ダケガ人生ダ  音程や発音など冥琳のそれと比ぶるべくもないが、とにかく吟じ終え、再び一礼した。  深い礼が返ってくる。 「聞いたことのない詩でしたが、一刀殿のつくられたものかな?」 「いや、これから数百年あとの人がつくった詩だよ」  その言葉にぎょっとした顔になる冥琳。まあ、普通に聞けば狂人の戯言だ。しかし、彼女はふっと小さく笑みを浮かべた。 「天……か」  その言葉にどんな思いが込められているのか、俺にはわからない。果たして、この世界の人達は、俺という人間を、どんな存在だと捉えているのか、まじめに考えたことはなかったし、これからもないだろう。俺にとってはただ大事な人達で、彼女たちにとってもそうであってほしい、そうありたいと願うだけだ。 「詩とは逆ですが、馳走いたしましょう」  冥琳の言葉に顔がほころぶ。俺は勇んで足を踏み出そうとした。 「ただし」  彼女の手が俺を押しとどめるようにまっすぐ中空に突き出される。 「その河よりこちらは我が領土と心得られよ」  どういう意味だ? 俺は固まりながら、考える。  河を越えるなということか? これは河のミニチュアだから、上流に行って回り込むのは簡単だ。いや、そんな単純な謎かけなのか?  そもそも彼女は我が領土とは言ったが、入るなと言っているわけではない。しかし、領土となれば、侵入する者の意図は明らかだ。それを奪い取り、征服すること……。  そこまで考えたところで、俺は、足を踏み出した。ばしゃばしゃと水音を立てて、彼女に近づいていく。  その音を聞いている冥琳は心なしか、震えているように見えた。それを生み出すのが喜悦なのか、恐れなのか、それとも怒りなのか、俺にはどうにも判別がつかなかった。  彼女にもう触れられそうなほど近づいたところで、ようやく冥琳は顔をあげた。  その完璧なまでに均整のとれたおとがいに手を添える。 「たしかに馳走いたしましょうぞ……」  かすれた声がもれる唇に、俺は自分のそれを重ねていった。  黒髪が寝台の上で、生き物のようにうねる。  冥琳はさすがに少々緊張しているようで、表情が硬い。拒絶されているのではない証拠にその顔が真っ赤に染まり、もじもじと落ち着きがない。 「色仕掛けだとは思われませぬか」  その緊張につられたのか、俺自身も緊張してしまい、咄嗟に口から出たのはまったき本心だった。 「俺は、大事な人たちを裏切れない」  その瞬間に浮かんだ冥琳の表情を見て、心の奥底が鈍く痛む。 「だから、冥琳も裏切れない」  はっ、と眼が見開かれる。言葉の意味をしっかり吟味するように、怜悧な光が眼鏡の向こうで輝く。その眼鏡に指をあて、目線で外していいか尋ねる。こくり、と小さく頷くのを見て、眼鏡を取り、寝台の横の卓に避難させる。 「俺たちは、誰も裏切る必要なんかない、そうじゃないか?」 「……はい」  返事の前の沈黙は、躊躇いではなく、覚悟のためのもの。そう感じた。  寝台の上で抱き合っているだけでもお互いの肉の熱さが伝わってくる。冥琳の手が、俺の背をなで、俺の手が、強く冥琳の体をかき抱く。それだけでも幸せが体の中から溢れ出てくるようだ。  磁石のようにどちらからともなくひきつけられ、口づけをかわす。一瞬たりとも離れたくない。息をすることすらもどかしく、俺たちは一つになりたがっている。そのために邪魔になる衣服を、俺たちは競うように脱ぎあい、脱がしあった。  黒曜石のように輝く肌を俺はなでる。そのなめらかさ、その温かさ。 「綺麗だ」  思わず漏れた声は、本人に聞かせようと意識すらしていなかったものだ。冥琳は花のような笑みを浮かべ、俺の熱くたぎったものを握ってきた。 「つっ」  触れてくれたのは嬉しかったが、力加減が強すぎて苦鳴をあげてしまう。 「あっ、すまない!」  あわててぱっと離される。離れれば離れたで寂しくなるものだ。 「いや、大丈夫。もう少しやわらかく触ってくれれば」 「わかった。うん、だ、大丈夫だ、ほ、本で読んだから」  え? 疑問に思う間もなく、今度はしっとりと指が絡んでくる。 「あつい……人の体がこのように熱くなるのか……」  ぶつぶつと小さく呟く冥琳の顔にキスの雨をふらせ、どうにか緊張をほぐそうとする。嬉しそうに身をよじるが、俺のものを握った手は動こうとしない。力を入れないようにと気づかいすぎて、逆に肘のあたりがぷるぷる震えている。 「こ、これを口でしたりするのだろう?」  知ってるんだぞ、と胸をはるのがなんともいじらしく可愛らしい。いや、冥琳の胸は張らなくても充分以上にたわわですが。 「ねえ、冥琳」 「なんだ?」 「今日は俺に任せてくれないかな?」 「しかし、私だって一刀殿に気持ちよくなってもらいたくて……んっ」  肩口に強くキスすると、わずかにキスマークが残る。 「だめ?」 「わかっ……くうぅ」  たっぷりとした乳房に羽のように軽く触れるだけで、嬌声が漏れる。 「わかりましたっ、でも、次はっ」  言ってから、自分の言葉に驚いたように口をつぐむ冥琳。 「ああ、次は、冥琳に任せるよ」  次があるということを、素直に嬉しく思いながら、俺は彼女の体にむしゃぶりつく。 「正使は、本来っ、孫権殿であったはずなのですよ。それを私が無理を言って変わってもらって……んっ」  いま、冥琳は呉の全権大使として洛陽に駐留している。俺が華琳に話して聞かせた大使館制度のテストとして、呉からは正使に周瑜、副使に周泰が、蜀からは正使公孫賛、副使厳顔、それに南蛮からは孟獲とその部下が派遣されているのだ。南蛮は少々おまけの感が漂うが……。多少遅れるものの、魏からは、半年後に稟が呉へ、秋蘭が蜀へ赴く予定だ。  それにしても唐突な話題転換は、照れ隠しのためだったろうか。 「俺のため?」 「そうだ、と言ったら、喜ばれるかな?」  普段の余裕ある冥琳の顔にふと戻り、からかうように問いかけるのを、まっすぐ見据える。 「ああ、本当に嬉しい」  ぷい、と横を向いた顔は、真っ赤に染まっている。うなじに舌を這わせると、体が小さく震える。 「もちろんっ、それだけでは、ありませ……んが……」 「でも、そう思ってくれる部分もあったってことだろ?」  耳元でささやく。手をどこに置こうか戸惑うように、俺の背で彼女の指がゆれ惑う。 「……はい」  ほんの少し悔しそうに、彼女は首肯してくれた。  彼女の中は、火傷しそうに熱く、強烈な締めつけと、どこまでも吸い込まれそうなやわらかさを兼ね備えていた。 「ふくっ……」  思わずうめくと、彼女の中で俺のものが跳ね、少し辛そうに眉根を寄せる。男のものを受け入れるのがはじめての彼女は、それでも俺のものが入ってから、ずっととろけそうな顔をしてくれている。 「一刀……殿が、私と……私と……」 「ああ、いっしょだよ……。冥琳と一つだよ」  ふんわりと笑む顔は、普段は決して見られないような柔らかなものだった。もしかしたら、冥琳の本質というのはここにあるのかもしれない。美しく、頭も冴え、まさに天より二物どころか数限りないものを与えられた女性は、しかし、俺の腕の中で、少女のようにあどけなく微笑んでいた。  彼女の中の感触を味わいながら、ゆっくりと腰を動かす。 「はっ、あっ」  痛みはあるのだろうが、それと同時に俺と一体だという感覚が勝るのか、冥琳の顔はもはやしかめられることもなく、俺の動きにともなって様々な喜悦の表情を浮かべる。 「いっしょ……ずっと……いっしょ……んぅっ」  しとどに濡れた秘所がさらに潤みを増す。締めつけは変化して、信じられぬほど複雑な動きを俺に伝える。まるでそこが独立した生き物であるかのように蠢く冥琳の内奥。 「こ……れは……」  言いようのない感触に腰の動きが早まる。思わず漏れる声をごまかすように、彼女の唇をむさぼる。 「はっ、ふううっ」  くちゅり、ぴちゃり。俺と彼女の唾液が交じり合い、閉じきれない口の端から、流れ出ていく。だらだらと首筋まで垂れていくのを、指で塗り広げる。ぬちゃりと音をたてて、俺と彼女の唾が冥琳の肩を覆っていく。  彼女の中の心地よさにつられて、俺の腰の動きは止まることはない。  彼女を気持ちよくさせてやりたい。自分が気持ちよくなりたい。  二つの欲求が俺の中でせめぎあい、二つ共に爆発するように俺の脳天を貫いた。もはやテクニックなど忘れ、本能の赴くままに、彼女を抱きしめ、はげしく突き、同時に口中を舌で蹂躙する。 「んーーーーっ、はっ、くふうっ」  彼女の内側の壁をこすりあげると、耐えかねたように背が反り返る。 「ふわっ、知らないっ、これっ、知らないっ」  とぎれとぎれに叫ぶ声に、隠しきれない喜びが潜んでいる。体が少し離れたのをいいことに結合部分に手をやり、肉芽を探り当てる。包皮の上からゆっくりと愛撫すると、反り返った背が軽く痙攣した。それが、彼女を通じて俺のものに響いてくる。 「一刀殿、こわい、これ、一刀殿が、ああっ」  冥琳が頭を抱えるようにして声をあげる。凄絶と言うにふさわしい表情は、恐怖と愉悦と快楽の狭間でくるくると変わっていた。もはや目の焦点は外れ、口の端からは涎が垂れおちる。  彼女の耳元に口を近づけ、冥琳、と何度も優しく名を呼ぶ。 「いや、こわい、こんなの、いやっ、わからっ、なっ!」 「いいんだよ、そのまま流れに任せて、ほらっ、もっと感じて」  クリトリスの包皮をむき、ゆっくりと彼女の蜜液に塗れた指で転がすと、二度、三度と痙攣する褐色の体。 「ああっ、一刀殿、一刀殿の、ああっ、わからないわからないわからない、ふわっ、ああ、一刀殿、離さないで、こわいっ、こわいっ」  びくびくと震えながら、俺の体にしがみつく冥琳を優しく抱き留め、俺はラストスパートに入る。快楽で頭が焼きつきそうになりながら、彼女の中をかき混ぜる。 「──────っ」  音にならないほどの叫びが彼女の喉から放たれ、ぎゅっと強く肉の壁が俺を締めつける。その途端、俺は彼女の中に精を放っていた。 「ふふ、祭さまにしかられるな」  荒い息も収まったあと、冥琳が俺の腕の中でぽつりとつぶやいた。 「他国に仕える者に、心を許すなど、と」  それくらい、祭なら笑い飛ばしそうだけどな。大事なのはそんなことじゃない、と。 「俺たちは本当に別の国に仕えているんだろうか」  絹のようになめらかな髪を指に絡ませながら、俺は前々から疑問に思っていたことを言ってみる。 「この大陸に住む人々のために働いているんじゃないかな」  魏、呉、蜀、それぞれに理想があり、それぞれにやり方がある。けれど、少なくともいまの三国のトップに、私欲だけで動いている人間などいはしない。各自がなすべきことを通じて、俺たちは民のために働いているんじゃないだろうか。きれいごとだとは思うが、それをないがしろにしたら、俺たちはやっていけない。 「……祭さまが大立ち回りをしたというのは聞いたかな?」  しばしの沈黙のあと、冥琳は不意に言葉を放った。彼女の細い指が、ゆっくりと俺の頬をなでるのが心地良い。 「ああ」  もちろん知っている。ぼろぼろになって戻ってきた祭と、昼日中から酒を酌み交わすはめになったのだから。あの日、珍しく泥酔した祭が浮かべた涙を冥琳に話すわけにもいかないけれど。 「ふふ……あの方はお強い。雪蓮はじめ呉の重鎮全てをなぎ払って、あなたの下に帰って行かれたわ」  うらやましいひと、と軽くつねられる。妙に少女っぽい仕種をする冥琳は可愛くてしかたないが、翌々日の公式行事に顔を腫らした孫権が出てきたときは、俺はもうどうしていいかわからなかったものだ。 「しかし、なにより強いのは、心だ。我等全てを打ち倒せるほどの心……我等にはそれがなかった」  俺の腕の中で、もぞもぞと動き、ちょうどいいポイントを探す冥琳。ちょこん、と俺の腕にあごをのせて、こっちの顔をじっと見つめる。 「魏の飼い犬に成り下がっておきながら、孫呉の王でございと胸をはるとは情けない、と雪蓮が罵られても、それを跳ね返すだけの心の強さが、我等にはなかった」  いやはや、祭もすごいこと言うな。彼女のことだから考えがあってのことだろうが……。なんだかんだ言っても、呉のことを思わずにはいられないだろうから。 「ふふ、そう罵られて、一番に動くべき私や雪蓮が動けなくなったのだよ。その言葉を取り消せとうちかかっていかれたのは孫権様だった」  愉しいのか、それとも自嘲なのか、冥琳の顔には笑みが浮かんでいる。 「どだい、勝てるわけがないのだ。我等に武芸を仕込んだのは祭さまだぞ。孫権様がはね飛ばされ、それに激昂した思春……甘寧はよくやったが。動揺した心でなにほどのことができよう。それは、祭さまにとってはひよっこどもの駄々にすぎなかったろうよ」 「雪蓮や冥琳はすさまじく強そうだけどね」 「おや、真名を許されたか、それは重畳」  孫策と仲よくなっておいてくれ、と冥琳に頼まれたんだったな、と俺は思い出す。けれど、雪蓮に真名を許されたのは、ほとんどが祭のおかげだろう。実際、真名を呼べと言われたのも、祭に別れの酒をもってきた時のことだったし。 「たしかに雪蓮は強い。だが、それは背負っているからだ。同じだけのものを背負った祭さまに勝てはしないさ」  なんとなく、冥琳の言うことがわかるような気がした。俺は、武で言えば、祭はもとより凪たちにも敵わないが、凪の拳と華琳の鎌の一撃の重さが違うのはよくわかる。それは、純粋な打撃力よりも質の違いだ。 「あの方は言っておられたよ。私はすっかり暗唱できるほどだ。『呉の民のためじゃと? 父祖の地のためじゃと? 小さい小さい。大陸の民のためを思え。己が切り拓いた大地のためを思え。己がなすべきことを承知しておるならば、儂に向かって呉を裏切るか、などと吐けぬはずじゃ』」  冥琳は目を伏せた。その言葉に恥じ入るように。 「そして、こう言ったのだ。『儂は天に仕える。おさらば』と」  人生足別離、俺が謡った唐の詩人の詩の一節を、冥琳の美しい声が繰り返した。友の門出を祝う、切なくも希望をこめたつぶやき。 「私はやはり雪蓮のために働こうと思う。祭さまの叱咤に応えるためにも、な」  でも……、と彼女は俺に体重を預けながら呟く。 「情と実は分けられるつもり。あなたも……そうだろう?」  その声はかすかに震えていて、まるで拒絶されるのを恐れるかのようで。一瞬、彼女の姿が、歳経てない少女のように見えた。 「いまは、ただの男と女だろ」  微笑みの形が刻まれた唇が再び俺のそれにあわさった。 「それでは、よろしくお願いしますっ」  俺の目の前で、元気よく頭を下げるのは、呉の副使周泰こと明命。大使を務める上で魏のことをよく知っておきたいというので、冥琳から頼まれて俺がしばらく世話をすることになったのだ。どこかに案内するというのではなく、俺についてまわって色々自然に学びとろう、という意向らしい。 「うん。よろしくね。ええと、一応言っておくけど、内密の会談とかもないではないし、書類もみられるとまずいのもあるから……」 「はいっ、機密情報には触れないようにします!」  少女はこくこくと大げさに頷いて見せる。いや、いつもこんなテンションなんだろうな。以前街で出会ったときもこんなんだったし。  冥琳の長い黒髪も美しいけれど、この娘の黒髪も輝くようだ。冥琳より背が低いせいもあって、腰より長い黒髪が本当によく目立つ。そして、背に負う長大な刀も。あれ、自分の背丈くらいあるんじゃないのか? 「ねえ、ところで」 「はい」  くりんとした瞳でまっすぐに見つめられる。なんだか可愛いな、この娘。いや、元から顔だちが可愛いのは知っているのだけど。 「その刀見せてもらえない?」 「これですか?」  よいしょ、と背負っていた刀を下ろす。やっぱり日本刀に似ているなあ……。 「他国の城内ということで、封印してしまっているので……」  明命と冥琳は全権大使ということで城内でも剣を佩くことを許されている──さすがに謁見の間などはだめだ──が、冥琳ははなから武裝していないし、明命の方は刀の鞘と鍔を紙のこよりで結びつけてしまっていた。いざとなれば断ち切れるだろうが、軽々に剣を抜くことはないという姿勢を示せる。 「外しましょうか?」 「俺の国の刀に似ているんだよ。だから見せてもらおうと思ったんだけど、手間なら……」 「いえ、手間というほどではないです。あとでなにか書き損じでもいただければ」  そう言うと、明命は小さな刀──というより、あれはクナイかな?──を取り出し、こよりを断ち切っていく。 「一刀様が抜かれますか?」 「いや、他人の愛用の武器を手にするつもりはないよ。みせてくれればいい」  呉の大使に様づけで呼ばれるのもまずい気もしないでもないのだが、明命いわく、『祭さまがお仕えするほどの人なのですから、そう呼ばせてください!』とのことなのでしかたあるまい。  すらり、と長刀が抜かれる。執務室の温度が一瞬にして何度か下がった気がした。 「魂切といいます」  俺の目の前にまっすぐ横たえてみせてくれる明命。俺はそれをじっくりと眺めると、ほう、と息を吐いた。 「綺麗だ。……でも、やっぱり俺の知っている刀とは違うな。ありがとう。しまってくれ」 「はい。天の国のお刀は、なにか違う鋼でできているのですか?」 「いや、そうじゃないんだ。反り方の違いだね。たぶん、製法の違いからくるんだろうけれど」  明命の魂切は直刀だ。日本刀も古代では直刀だったと聞くが、一般に知られる打刀の反りを、明命の刀は有していない。 刀がおさめられると、だいぶ落ち着いた。やはりいくら馴れたとはいえ、むき身の武器を目の前にすると汗をかくな。 「ありがとな。さて、じゃあ……今日は書類仕事もほとんど終わっているから……んー」  そうして俺は今日の予定を確認しなおすのだった。 「まずは街をまわろうか。明命は洛陽の街には馴れた?」 「はい、以前から何度かうかがっていますから。でも、やはり来るたびに人が増えています」  俺たちは連れ立って町の大通りを歩いていた。たしかに人通りは多く、俺のいなかった間にもその数は増えているようだ。  警備隊長ではなくなって以来、警邏の数は減っているので、その変化の度合いに驚く。警邏が頻繁な時は、細かい差異が積み重なっていく感じで、なかなか明確に意識には入ってこないのだ。そのかわり、誰が増えたか、というのはわかるのだけど。  そんなことを考えていたら、無意識に警備隊の詰め所近くに出てしまったようだ。ちょうど詰め所から凪と沙和が出てくるところに行き当たる。 「あー、隊長なのー」 「隊長、なにか御用ですか」  嬉しそうにぶんぶん手を振る沙和と、いつも通り落ち着いた様子で応答する凪。  だから、隊長じゃないんだって、もう……。隊長はお前じゃないか、凪。何度訂正してもなおらないので、あきらめかけている。 「おや、明命どのも」 「え? あ、明命ちゃん、いたんだ」 「こんにちはです。……やはり、凪さんがいるとうまくいきません……」  後半の呟くような言葉が気にかかるが、あとで聞いておくか。 「明命が大使として赴任してきているのは二人とも知ってるよね。冥琳から、彼女が魏に馴れることができるよう、色々してやってくれと頼まれてるんだ。もちろん、華琳たちから許されてる範囲だけどね」  俺たちは凪と沙和の警邏につきあう形でゆっくりと歩く。凪は警邏ということもあって、こちらを見ずに周囲を警戒しているが、沙和は俺と腕を組んでいる。いいのかね、これで。 「最近、街はどう?」 「んー、基本的には落ち着いてるの。ただ、人が増えて、蓄えもできてくるとそれを狙うやつらも出てくるの」  困ったように言う沙和。人口の流入はたしかに統制の難しさを招く。職にあぶれるものも出てくるしな……。しかし、胸があたっているんだけどな、沙和。 「盗みとか、掏摸とかでしょうか」 「掏摸くらいはどうとでもなるのですが、いま問題となっているのは高利貸しですね」 「高利貸し?」 「はい、悪銭禁止令が出たのはご存じかと思いますが」 「ああ」  華琳が大陸を統一するまでの戦乱の時代、そしてそれ以前から王朝の政治自体がうまくいってなかったこともあり、貨幣経済はなかなかうまくいっていなかった。例外的に華琳がいた地方や、孫堅統治下などでは銅銭が鋳造され、きちんと流通していたのだが、それも黄巾の乱でおじゃんとなった。  漢朝は銅銭を鋳造する力すらなくなり、これまで鋳造されていたものが使い回され続けている状態だった。  悪銭、というのはそれらの古くなった貨幣を半分に割ったりして、嵩を増やした銭だ。たとえば、十銭の中央部分を打ち抜き、中央を八銭、周辺を六銭として闇で流通させるわけだ。実際にはレートも日替わりして、悪銭を使う場合の方が損をすることも多い。  レートを決めているのも、悪銭をつくっているのも闇社会に生きるやくざ者たちなのだから、庶人は最終的に損をするようにできているのだ。とはいえ、銅銭自体が数を不足させてしまっている状況では、それらが流通するのを止めるのは難しかった。  ちなみにこれらは洛陽をはじめとする都会での話であり、田舎にいくとそもそも貨幣経済が浸透していない。主に布を交換対価とした物々交換システムとなるのだが、それはまた別の話。 「俺が帰って来たころかな、完全に悪銭製作者はもちろん、使用者も罰せられるようになったんだよな」 「はい、その前に悪銭と新造銭を交換する期間がありましたから、現在でも使っているのは犯罪者、というわけです」  華琳がぼやいていたな。これでだいぶ蜀から銅を購入しなければならなかったとか。とはいえ、国家の根幹にかかわることなので、しかたのないことだろう。それで蜀に交易品が届き経済が活性化すれば、魏との交易も増える。循環がうまくいっている限りは皆が喜ぶわけだ。 「さすがに使う人もいなくなったのー。でも、悪銭で儲けていたやつらはそれじゃ面白くないから、新しい儲けを考えたらしいのー」 「それで、高利貸し、ですか。借りる人はいるのでしょうか。身ぐるみはがれるのはわかりきっていると思うのですが」 「つながっている賭場やいかがわしい店でさんざん金を吐き出させてから貸し付けるらしい」 「借りざるを得ないということですか。悪質ですね!」  凪たちの会話を聞きながら、俺は考える。高利貸しが横行している事実も問題だが、それだけではないはずだ。悪銭はかなり浸透していたのだから。 「暴利をむさぼることで、新造銭自体の価値を危うくして、また悪銭横行に戻すという狙いもあるかもしれない。流通自体を阻害することもできる」 「それは……我々では判断しかねます」  凪が困ったように言う。それもそうだろう。凪や沙和は経済に詳しくはないだろうし。いや、沙和は流行に敏感なところがあるから、案外流れを理解していてもおかしくはない気もするが。 「そうだな、桂花に相談してみる。他に困ったことはない?」  そう言うと、沙和がぐっと俺の腕を引っ張りながら言った。 「あ、そうなの、隊長、人和ちゃん達に袁紹たちをどうにかしてって言っておいてほしいの」 「袁紹?」  あれ、あのひとたち、まだ洛陽にいるのか? 「袁紹、文醜、顔良の三人とむねむね団とやらですね。暴走しているというほどではないのですが、ちょっと……」  ……彼女たちの場合、普通にしているつもりでも、まわりに迷惑をかけられるというすばらしい才能を備えているようだからなあ……。 「大食い記録で店を梯子したりしてるのー。大食いはいいけど、食いつくすまでやっちゃうのは……」 「あとは、賭場で暴れるくらいですか。イカサマをやっているところだったので、自業自得ではありますが。むねむね団は、特になにをしているわけではないのですが、袁紹を輿にのせて練り歩いているのが不気味だと住人が」  あの集団か……。俺は櫓をひいてつっこんでくる筋肉達磨の集団を思い出して、ちょっと気持ち悪くなる。あれを見ていると、どうしてもある人物を思い出してしまうんだよなあ。 「わかった、それも相談しておく」  しかし、袁紹は華琳でさえあまり手を出したくない相手なのだ。そういうのが押しつけられるのは……俺、だよなあ。ふう、と俺は一つため息をつく。 「ああ、そうそう、真桜が隊長からの依頼がどうとか言っていました。急いではいないと思いますが、工房に顔を出してやってください」  ん、そうか、あれができたのか。 「わかった。ありがとう。じゃあ、俺たちは、城に戻るから、警邏がんばってな」  沙和が俺の腕をひっぱる。振り払うのは俺だって厭だが、いっしょにいると沙和がいつまでも警邏に集中しそうにないし、しかたない。 「えー、隊長おごってくれないのー」 「こら、沙和。では、失礼します、隊長」 「今度おごってなのー」  はいはい、と笑顔を返しながら、俺と明命は沙和と凪の二人と別れた。  明命を連れて、真桜の工房やらなにやらを巡ったあとで、美羽と七乃さんにあてがわれた執務室に寄った。彼女たち二人は俺と同じようにフリーの問題処理係になっている。俺もそうだけど、武官としても文官としても飛び抜けているわけでないのが困りどころだよな。 「うう……」  部屋に入ると、美羽が机に突っ伏して青い顔をしてうなっていた。 「どうしたの、あれ」 「ああ、お嬢様ですか? 命じられた貧民街と民屯の視察でかなり衝撃を受けられたようで……実を言うと、私もなんですけどね」  こちらもかすかに青ざめている七乃さん。  そっか……。そういう意図だったから成功かな。ちょっと強烈だったかもしれないけど、意識を変えてもらわないとね。なにしろ、もう袁家の名前での後押しは期待できない。蜂蜜を確保するにも仕事をしてもらわないと。  彼女たちには、これからも色々見てもらう予定だ。いかに戦乱は終わったとはいえ、ひどい状況はまだまだあるのだ。その中から、なにか問題を見つけ出してくれれば、と期待している。彼女たちなりの見方、というのがどこかにあるはずだから。俺だと時代が違いすぎて、見方が突拍子なさすぎるので、その緩衝材になってくれるのが理想的なのだが……。 「そうそう、園丁の親方が探していたよ。花が入ったとかなんとか?」 「あ、ほんとですか。お嬢様、お花がきたそうですよ」  七乃さんの顔がほころぶ。一方の美羽は声をかけられてもぐでーとのびたままだ。 「はーなー?」 「ほら、蜂さんのための」 「おお! そうじゃった」  がば、と起き上がる美羽。まさに今泣いた烏がもう笑ったという感じだ。 「おいしい蜂蜜のために、花を植えるのじゃー」  腕を振りつつ宣言し、ふと首をかしげる。 「ところで、蜂というのはどれくらいの距離まで蜜を探しにいくのじゃ?」 「さあ? どうなんですか、一刀さん」  二人とも見事に無責任な笑顔だな、おい。  養蜂してみたら、と提案したのは俺だからしかたないけど。 「たしか……二、三qだったかなあ」 「きろ?」 「ああ、ええと、四から六里四方くらいかな」 「んー。じゃったら、城の中ならたいがいはどこに植えても問題ないの……じゃろか、七乃」  思案げな美羽の額にしわがよる。美羽はこの頃、こうしてまじめに物事を考えようとするようになったが、あの眉間にしわをつくるくせはやめるようにしたほうがいいなあ。かわいいからなかなか言えないけど、今度七乃さんにこっそり注意しておこう。 「そうですねー」 「城の中に蜂の巣箱を設置するのか?」 「そうじゃ、妾たちが世話するにはそれしかなかろ」 「昔なら、部下にいえばよかったんですけどねー」  また、華琳に言って場所譲ってもらわないとなあ。本当は美羽たちにも部下をつけてあげられればいいのだろうが、平時になって軍部でさえ異民族対策の部隊以外は数を減らされている状況ではなかなかそうもいかない。  二人はそんな思惑はよそに、愉しそうに土いじりの準備をしている。最終的には二人とも飽きてしまって園丁の人達がやることになるのは目に見えているのだが……。 「あ、そうだ、祭を知らない?」 「華雄といっしょにどこぞに行ったような……?」  華雄といっしょか。じゃあ、鍛練かな? 「ありがとう、じゃあ、また様子見に来るよ。花の手入れがんばってね」 「はーい、一刀さん、またですー」 「またなのじゃ。七乃、いくぞー、蜂蜜のため進軍じゃー」 「おー」  にぎやかな声を背に廊下に出る。明命が音も立てずそれに続いた。 「……明命、見事に無視されてたね」  まさか、まだ以前の遺恨を引きずっているのだろうか? 「はい、お邪魔にならぬよう気配を消していましたから」 「あ、あぁ、そう……」  そういう……もんなのか? そういえば、さっき、『凪がいるとうまくいかない』って言っていたような……。あれは、氣を操る凪相手だと気配を消しきれないということなのか……。  なんだか、彼女に一度命を狙われたらどうやっても助からないような気がするんだが、これは考えすぎだろうか? 「で、でも、いろんな人に紹介もしたいから、あんまり気配を消してばっかりもね」 「わかりました! 適度に消します!」 「う、うん、そうだね……」  俺は、彼女のあまりにまっすぐな瞳にそれ以上なにも言えなかった。  案の定、祭は鍛練する華雄を眺めながら側の四阿で酒杯を傾けていた。ここは渡り廊下で囲まれた比較的小さな空間だが、将が暇なときに鍛練していることも多い。  武将には兵に見せねばならない顔もあれば、あえて兵からは隠さねばならない部分もあるということらしい。 「おや、旦那様に明命。これはまた珍しい取り合わせじゃ」  目隠しの向こうで、祭の眼が笑った気がした。 「はい、一刀様に案内していただいています!」 「冥琳に頼まれてね」  言葉を切り、金剛爆斧をふるう華雄を眺める。大ぶりな戦斧が空気を切り裂く音は鈍いものとなるはずなのに、華雄がふるうと、びしっ、と空間が割れたような音しかしない。 「旦那様、なにか華雄に御用ですかな?」 「いや、祭に用事があったんだ」  俺が言うと、祭は酒杯を置いて、俺のほうへ体を向ける。 「真桜の工房にきてくれないかな」 「わかり申した」  即答だ。祭の俺への信頼は本当にありがたいものだ。  ちら、とこちらを見る気配があったので、華雄に向けて手を振ってから、俺たちは連れ立って真桜の工房を目指すこととなった。  その道中、不意に祭が思い出したように言った。 「ところで、旦那様、華雄を抱きましたな?」 「ぶはっ」 「はぅうっ」  吹き出す俺の横で明命が真っ赤になって棒立ちになるのが見える。 「まあ、その、否定はしないけど」  また、はうっ、と息をのむ声が聞こえる。うう、なんだかとても恥ずかしいぞ。 「そのあたりは、女子というものは、わかるものでしてな。いいや、責めておるのではありませぬぞ。男ならばそれくらいの甲斐性はほしいもの。あっはっは」  なんでわかったのだろう、という俺の疑問に応えるように、祭は愉しげに言う。だが、その笑みが引っ込み、真剣な表情がその顔に宿る。 「じゃが、それだけでもないのじゃ。あやつ、恐ろしく強くなっておるわい」 「強く?」 「はい、聞くところによると、華雄は霞殿に負けて捕らえられたとか。いまの霞殿もすさまじく強い。それに負けたことが糧となったか、旦那様に抱かれたことで何事かふっきれたのか……。あれは短い間に、無双というにふさわしい強さを手に入れておりますの」  そうか、と俺は素直に嬉しく思う。華雄ほどまっすぐ自分の武にひたはしる人が、その努力に応じて強くなれるのは喜ばしいことだ。  顎に手をやり、感慨深げに祭はうなった。 「いま、戦わば、おそらく儂でも勝てるかどうか」 「それほどなんだ」 「とはいえ、儂には年の功というものがありますから、捌くことに徹して手の内を暴けばなんとかなるやもしれませぬ……いやはや、このようにまじめに考えねばならぬとは」  やれやれ、と首を振る祭。その様を赤くなった顔をようやくおさめた明命がじっと見つめている。 「なんじゃ、明命、やつとやりたいか」 「いえ……他国のわたしにその力を見せては下さらないでしょうから」 「ふん、華雄がそんなことを気にするタマか。興味があるなら、どうじゃ。まるで違う方向性のお主となら、あやつのためにもなろう」  二対の視線が俺に向かう。許可を得るようなその視線に少々戸惑いを感じながら、俺は 「華雄が受けるなら、俺は止めないよ」  と応えていた。ただ、怪我するようなのはいけない、とつけたすのを忘れない。 「不具にならぬ程度ならよろしかろう」  そういうことになった。  工房では真桜が一心不乱になにかの金属板を叩いていた。 「あー、たいちょ、ちょっと待っとってなー」  真桜もまた、俺のことを隊長と呼び続けている。もうずっとなおらないのではなかろうか。慕ってくれるのは素直に嬉しいけれど。 「んー、こんなもんか」  彼女は、赤くたぎっている板を、目を細めて見ていたが、がつんと槌をふりおとすと肩をすくめた。 「あかん、失敗やな」  分厚い耐火用の手袋を脱ぎ捨てつつ、こちらに近づいてくる。 「やー、あいかわらず奇麗どころ連れて、さすがたいちょ」  からかうように言って汗をぬぐう真桜。全く変わらないなあ。 「で、頼まれてた祭はんのための工夫、まずはこれやけど、どやろ?」  真桜がごそごそと作業着の中から袋を取り出す。それを受け取って中身を出すと、俺が注文していたサングラスが出てくる。既存の丸眼鏡に遮光レンズをとりつけただけだが、よくできている。俺はそれを光にかざしてみる。うん、充分遮光されるようだ。 「どうかな、祭」  祭に手渡すと、少々戸惑っていたようだが、目隠しを外し、それをかけてくれた。何度か顔を動かして、フィットを調節するのがなんだかおかしい。冥琳たちと違って眼鏡自体かけ馴れてないだろうからな。 「ほう……」 「わあ、祭様似合ってます」 「うん、女ボスって感じだ」  つい口を滑らせた俺に、不思議そうな視線が突き刺さる。 「ぼす?」 「ああ、いや……」 「旦那様の天の国のお言葉はようわからぬな。じゃが、たしかにこれは楽じゃ」 「光を遮る具合はどれくらいがええんかわからなかったから、こっちで勝手に決めてもうたけど、しばらく使ってみて、調節するのがええやろ」 「なんともはや……感謝いたしまずぞ、旦那様、真桜殿」  礼をする祭に、真桜はにやにやとするばかりだ。 「いやいや、それくらいでそんな感謝したらあかんで。真打ちはこれからやからなー」  がたごとと布のかかった台を皆の前に移動させる真桜。ふっふっふー、と愉しそうな含み笑いを漏らすのに、俄然期待感が高まる。 「じゃじゃーん、遮光調節機能つき鬼兜"きめんくん"やー」  ぱっとかぶせてあった布をとりのぞくと、そこには朱塗りの鬼面があった。頭頂部から鼻の部分までを覆うであろう面は怒れる鬼の半顔を写し取って見るものに畏怖を抱かせるほどだ。大きく切り開かれた瞳は暗く沈み、額から生える二本の角は鈍く光る鋼でできているのだろう、鋭く尖っていて武器として使えそうなくらいだ。 「おおー」  明命の口から感嘆の声が漏れる。 「この目の部分になー、偏光板がはいっとって、組み合わせで遮光具合を調節できんねん。どやろか、結構自信作なんやけど」 「すごいじゃないか、予想以上だな」  たしかに戦闘で使うこともあるだろうと、壊れにくいものもつくっておいてほしいと頼んでおいたが、こんなものをつくっているとは。そういや、祭の頭のサイズを聞かれたんだったな。  どうだい、祭、と尋ねようとして振り向くと、祭の顔がこわいくらいになっていた。じっと鋭く鬼面を観察している。 「これは……」  呟いて、兜に触れてみる。指が表面を走り、念入りに額と角を調べているようだった。 「かぶってみてもよろしいかな、真桜殿」 「もっちろんやで。ほら、この後ろの紐で固定できんねん。そいで。偏光板はこのつまみをまわすと……な、具合が変わるやろ」  真桜は祭が装着するのを手伝いながら、機能を説明する。その間も祭は真剣な顔で彼女の説明に聞き入っている。  鬼面を装着した祭は、顔の下半分が出ているとはいえ表情が読めなくなって迫力がいや増していた。 「少々外に出てもよろしいか?」 「ああ、もちろんや。武具は使ってみんとな」  俺たちはぞろぞろと真桜の工房を出る。陽光の下で見る鬼の面はまた違う力強さがある。祭は偏光板の調節をして、その場で振り返ったり、体を大きく動かしたりしてから、うん、と一つ大きく頷いた。 「すばらしい!」  祭の一声に、ほっと息をはく。真桜も同じ気持ちだったのか、 「よかったわー。ほっとしたわ」  と笑みをもらした。 「もちろん、視界が制限される部分はありますが、これはすばらしい。戦で眼鏡ではずれ落ちることを心配してしまいますが、これならば、なんの心配もいりませぬからな。押し出しも強うなりますし、よいものをつくっていただいたものじゃ」  そう言うと、彼女は俺たちに向かって深々と頭を下げた。 「旦那様、真桜殿、篤く御礼申し上げる」 「気に入ってくれてなによりだよ」 「せやせや。使ってくれるのがなによりや」 「祭さま、かっこいいです!」  明命の言葉に、そうじゃろうそうじゃろうと呵々大笑する祭につられて、俺たちはみんなで大いに笑っていた。 「ん? 仕合うと? うん、やろう」  鬼の面を気に入ったのかつけたままの祭たちと共に元の場所に戻り、華雄に提案すると、あっさりとのってきた。さすがにあっさりしすぎている気もするが、性分だろうからしょうがない。あとは、怪我しないでいてくれるといいな。 「場所はここでいいのか?」 「はい」  手甲、足甲と額宛をつけながら、明命が言葉短かに応える。 「見物は四阿からは出るなよ。怪我をさせたくはないからな」 「了解」  俺と祭が四阿に入ると、二人は相対した。  金剛爆斧をふりあげた華雄に対して、明命は柄に手をやった状態で、とんとん、と軽く左右に跳ねはじめた。 「あれ?」 「どうなされましたかな」  祭が俺に尋ねる間にも、明命の動きは大きくなり、ついに華雄の周囲をぽーんぽーんと跳ねながらまわりはじめる。 「いや、明命ってアサシンタイプだとばかり思っていたから……」 「あさしんたいぷ?」 「あ、ごめん。ええと、一撃必殺を旨とするような戦い方をすると思っていたから、ああして動き始めたのが意外だったんだ。もっと、機をうかがうっていえばいいのかな」  華雄は動かない。明命の動きを目で追うでもなく、泰然と金剛爆斧を構えるのみだ。一方で、明命が華雄の周囲を巡る動きはどんどんはやくなっていく。 「ほう、さすがですな。たしかに、明命は姿を晒すことなく相手を倒すことに長けておる。しかし、ここは開けておりますし、動かずに倒せるほどたやすい相手ではないと見たのでしょう。隙がなければつくらねばなりませぬ。ほら、旦那様、しっかり見ておきなされ」  言われて明命の動きに集中する。しかし、彼女の動きを追っているはずなのに、時折明命の姿を見失う。たしかに華雄の周囲をめぐっているはずの少女がどこにいるかわからなくなるのだ。戸惑いながら見つけると、ちゃんと華雄のまわりにいるというのに……。 「人は、常に予測をいたします。目の動き、なにかをする時の予備動作、筋肉の蠢き、それまでの移動速度、そして、儂らなら、氣の動き。それらを元に無意識ながら相手の次の動きを予測し、それにどうしてもひっぱられてしまうのじゃ」  明命はそれを巧妙に外すことができるということだろうか。俺は思い立って、彼女の脚の動きだけに集中することにした。それでも何度か見失うが、無理矢理広い視野を保ってみてみるとようやくわかった。  明命はリズムよく大地を蹴っているように見えるが、微妙にリズムがずれているのだ。降り立つのが早くなり、遅くなり、反転する。そこに規則性はない。だが、規則性があるように誤解するよう、誘導している。どうやってそんなことをしているかはわからないけれど、そう感じる。  これに上半身の動きや、視線の動きなどをあわせれば、そこにいるはずなのにいないと認識させることも可能なのかもしれない。見ている方は、自分が予測している位置にいると思って見てしまうので、明命自身の存在は精神的な死角に入ってしまうのだろう。 「ふむ、華雄もよく防いでおる」  え? と顔をあげてみると、華雄の構えが変わっていた。攻撃があったのだろうか。俺には風きる音すら聞こえなかったが……。  もはや、こうして二人を見ていようとすると、明命の姿はぶれて焦点が定まらない。いったいどんな動きをしているのか、そこに確かにいるはずなのに、残像のようにしか思えない。 「くっ」  無駄だと知っていながら、目をこする。 「旦那様も、意識してはおらぬが氣を感じてしまっておるようですな。無理に見ようとなさるな」  少々硬い声で祭が注意してくれる。彼女の言う通り、目で追うのはあきらめた方がよさそうだ。そのかわり、俺は華雄の動きに意識を移す。  華雄は始まって以来、まだ一歩も動いていない。ただ、構えが時折変わっており、明命が攻撃を繰り出したのをはじいているのだろうとだけ想像できるだけだ。 いや、いま、一瞬なにか影のようなものが走った。あれは、魂切の斬撃なのか? 「華雄め、攻撃される機を狙っておるわけではなかろうな」 「それじゃ、だめなの?」  あの明命を捕まえるタイミングはそれくらいしかないようにも思うが……。もちろん、かなり危険だろうけど。といって、闇雲にふるったって当たるわけもなく、向かっていけば、明命の心理誘導にひっかかりかねない。 「華雄は動、明命は静。それぞれの資質というものがありまする。たとえ、いま明命が動き回っていようと、あやつはその動きの中に忍び入りまする。華雄が己の資質を殺して同じ静にまわるなら、負けまするな」  祭の言うことが全部わかったわけではないが、華雄にとって望ましい展開にならないことはわかる。  だが、俺たちの心配をよそに、華雄は晴れ晴れとした顔で声をあげた。 「ははっ、おもしろい、おもしろいな」  本当に愉しそうに、華雄は笑みを浮かべている。獰猛なその笑みを見て、おれはなんとなく安心する。もし負けようがどうしようが、今の華雄は折れない、そう思える笑顔だった。  腰を落とし、ぎりぎりと絞り上げるように体をねじりあげ、金剛爆斧を高く掲げる。 「世には強い相手がいくらでもいるものだ。だが。私の方が強い」 「では、証明して見てください」  その声は、どこから聞こえてくるか判然としなかった。明命が発しているのは間違いないのに、遥か遠くから響いていくるかのような。 「挑発にのるとは、やはりまだ若い」  祭が、苦々しげに呟く。  その瞬間、華雄の体がばねのようにはじけ、空間に螺旋が描かれた。そのまま巨大な戦斧が大地を薙ぐ。大きく砂と土埃が舞い上がり、華雄の姿を隠した。 「愚かです」  明命のその宣告は、舞い上がった砂塵によって自らの居所を探ろうとした華雄の行動を役に立たないことだと決めつけていた。彼女がそう言う以上、それは事実なのだろう。 おそらく、俺には見えない華雄の体は腕が伸びきり、ともすればすっぽ抜けかねないほどの斧の勢いを殺すので精一杯のはずだ。明命が、その無防備となった華雄を見逃すはずもない。 「お前がな」  その声は、誰もが予想だにしないところ──頭上から聞こえた。 「あの……態勢で……」  必殺の勢いで刀を突き出していた明命の顔が呆然と上を向き、次いで苦痛に歪みきった。  その肩には金剛爆斧が打ち込まれている。さすがに斧の刃をあててはいないが、斧の重さと華雄の力、それに落下の勢いが加わった一撃は明命の小さな体を大地に叩きつけるに充分だった。 「ぐはっ」  刀をとりおとし、地面に転がる明命。痛みのためか、肩を抑えてごろごろと転げ回る。 「勝負あったな」  駆けつける祭の声を聞いてようやく戦闘の興奮から醒めたのか、なおも金剛爆斧を明命に向けていた華雄は荒い息をつきながらその武器を収める。 「大事ないか」  金剛爆斧を地面に突き刺し、明命に近づいていいものか思案するように顎に手をあてる華雄。明命の方は祭が抱き上げているが、小さく苦鳴を漏らしている。骨が折れていたりしないといいけど……。 「脱臼しておるな。明命、少し我慢せいよ」  言うと、祭は明命の肩に手をやり、ぐっ、と突き入れるようにした。 「……っ」  懸命に押し殺した悲鳴が彼女の口から漏れ出た時、その足音は聞こえてきた。 「なにをしているのだ!」  取り乱すというほどでもないが、それでも大きな足音を立てて近づいてきたのは、呉の正使、周瑜その人であった。 「公瑾様、これは……」 「私と仕合って肩が外れただけだ、心配するな」  華雄の言を聞き、冥琳の眉がぐっと上がる。 「だけ? だけとはなんだ」 「ちょ、ちょっと冥琳。怪我をさせたのは謝るから」  つかつかと華雄に近づいていく冥琳の前に俺は割って入った。 「北郷殿! 周泰は呉の副使。それをこのような……。正式に抗議させていただきます」 「公瑾様、この試合はわたしが……」 「周泰、話はよい。来い」  明命が口をはさもうとするのを許さず、彼女は祭の手から明命を抱き取ると、そのまま彼女と魂切を抱えて踵を返す。俺たちがなにか言う前に、その背は廊下の角をまがって消えて行った。 「ぷっ、くくっ」  呆然としている俺たちの横で、祭が唐突に吹き出した。仮面で顔が隠れているせいで、唐突さがより際立っている。……それにしても、冥琳はこの仮面に一切触れてなかったけど、そんな余裕もないほど怒っていたのだろうか。 「冥琳め、気張りすぎじゃ。公私を区別しようと意識しすぎて、頭が固うなっておるわ。普段のあやつなら、この程度のことで騒ぎはしないものを。騒いだとて、損より得のほうが少ないですからの」  言いながら、祭は俺の背中をばんばんと叩いた。息が押し出されて苦しい。 「いやあ、旦那様も手がお早いですなぁ。冥琳までとは!」 「な、なんで、そんな」  華雄の件といい、祭の洞察は鋭すぎる。怖くなってしまうくらいだ。 「ふむ。いったい何人いるのやら」  いや、華雄もまじめくさって考え込まなくていいから!  そりゃ、確かにそうなんだけど……。やっぱり立場があるといろいろと難しいのだろうか。ことの是非はともかく、明命の見舞いにはいかないとな。  結局、冥琳から正式な抗議はなかった。 「うーん、七乃、ここはどうなっておるのじゃ?」 「あ、それなら、えーっと、このあたりにあったと思ったんですけどぉ」  美羽と七乃さんの声が、大量の竹簡の向こうから聞こえた。  ここは、城中の庭の一つ。  今日は天気がよいので、みんなで大きな机を庭に持ち出して、それぞれに仕事をしているのだ。俺はいつもの書類仕事、華雄は調練の手伝いに行っていて、美羽と七乃さんは、民屯や生産関係の仕事を祭に監督されつつやっている。  祭はうまそうに酒をあおりつつ、なにか大事なことがあると方向修正してやる、といった具合なのだが。  そんなところに、城の衛士の一人が駆けつけてきた。部屋にいなかったので探し回ったのか息が切れている。 「北郷様、北郷様を訪ねて来られた方々が」 「ん、誰だろ」 「証文がどうとか言っていましたが、どうしましょう」  証文……請求書か。祭や美羽たちが──自分たちの名前では受けてくれないので──俺の名前でツケることがあるのだが、それかもしれない。この間も追加の花々が納品されてたしな。 「俺が応対するよ。じゃあ、行ってくる」  探すのに夢中になって竹簡の山を崩して大変なことになっている美羽と七乃さん、それをおかしそうに笑っている祭にそう言って、俺は兵士のあとをついて行った。  それにしても、こちらに帰って来てすぐはずっと誰かがついていたけど、最近は祭か華雄が俺の側にいるので、華琳たちも安心してくれているようだ。城内でなにかあるわけもないんだけどな。  ふと視界の端で長い黒髪がちらと見えた。確認することはできなかったが、明命か冥琳、それとも春蘭あたりだろうか。  誰だったのだろうなあ、などと考えていると、門についた。城門の横の通用門の外に、少々柄の悪そうな四人組が待っていた。大男三人に、優男がひとり。 「北郷一刀は俺だけど、どこの店の人かな」 「あなたが北郷一刀さまですか。私どもは、何大人のつかいのものでして」  ……? 優男が言ったのは聞いたことのない名だ。どこの花屋だろう。 「はあ、いったい、どこの……」 「ともあれ、これを」  渡されたのは兵も言っていた証文だ。俺の名前と、袁家の印影がある。そこに記された金額は……ええと、一、十、百……。 「は? 百万銭?」 「はい、その通りで」 「いやいや、さすがにこれは……」  苦笑いを浮かべて否定する。なにかの間違いだろう。いくら美羽だって、こんなとんでもないことをしでかすわけがない。もちろん、軍事行動などではこの程度の金はすぐ動くし、数字では見知っているが、個人で百万銭を消費するのはなかなかに難しい。 「もちろん、それは写しですが、こちらには本証文もあります。北郷様がお支払いいただけないというのなら、こちらのお城の主様に訴え出るだけでして」 「いや、しかし……」  華琳に訴えられるのも勘弁してほしいが、百万などという金を俺が持っているはずもない。そもそも、これだけのものを美羽たちが借りたか買ったかするというのが信じられない。蜂蜜を三十年分買えるぞ。  いや、美羽ならその場にあれば買いかねないか。市場に存在しないだろうけど。 「うだうだ言ってんじゃねえよ!」  口を濁していると、優男の右にいた大男が吼えた。普段、武将たちの本気を経験している俺にとっては気の抜けた怒号にしか聞こえないが、城門の衛士たち三人には緊張が走る。 「払うのか、払わねえのか、はっきり……ぎゃっ」  ぼぐん、と大男の頭を殴ったのは、優男。暗器を握っていたのか、倒れた大男の額からは派手に血が流れ、ぎゃーぎゃーとわめいている。血糊かもしれないけどな。 「黙らないか、この莫迦……申し訳ございません。部下が粗相を」  叱りつけたあとで、柔らかな声で俺に謝罪する。うーん、これはまるきりやくざの手法だなあ。  男たちはこの茶番で恐怖を刻みつけ、交渉で有利に立ったつもりかもしれないが、あいにくとこういう手合いには馴れている。 「ええと、まずはこの金がどういう経緯でそちらから俺に請求されることになったのか、色々調べさせてもらってから返答しますので……」 「あ?」  大男の残り二人がすごんでくる。衛士たちは俺からなにも命じられず、また俺が手をだされてない以上動くわけにもいかないので、少々落ち着かない様子だ。  兵士たちに命じてこいつらを捕縛するのは簡単だが、この証文が厄介だ。力で握りつぶしたと言われるのも癪だしな。さて、どうするか……。 「北郷さん、私も子供の使いではありませんので、なんらかのお返事はいただかねばならないのですよ。本日お返しいただけないのでしたら、それなりの返済日をおっしゃっていただかないと」 「いや、だから、そもそも俺が支払うべきなのか、という問題でさ」 「ほう、天の御使いさまは、金の取り立てをしらばっくれると」 「そういうことじゃあなくて……」  こういう手合いには、何を言っても通用しないんだろうけど。 「北郷さん、いいですか、返す日が遅れればそれだけ利息がかさみますよ。いまでさえ、刻々と積もっている利息をとりあえず無視して、百万でよいと言っているというのに」  ああ、そうか、こいつら、噂の高利貸しか。ようやく気づいた。その事にふむふむ、と納得していると、その様子を俺が諦めたと認めたのか、畳みかけるように話しかけてくる。 「分割払いももちろん応じますよ。その間の利息も勉強させていただきましょう。私どもとしましても、天の御使いさまとはご懇意にさせていただきたいものでして……」  べらべらと喋っているが、その殆どを俺は聞いていない。  衛士は三人、俺を入れて四人。相手も四人。騒ぎが大きくなれば他の兵も集まってくるだろう。  ここは一つ、やるしかないか。 「うん、わかった。払う義理はない」 「は?」 「だから、あんたらに払う金はないって」  言った途端、殴りかかられた。さすがに予想していたので、大男二人の拳は避けられたが、優男の一撃は避けきれなかった。顎に衝撃が走り、意識が一瞬飛びかける。  なんとかたてなおし、たたらを踏んで首をふると、兵士のうち二人までが、さっきまで倒れてぎゃーぎゃーわめいていた男になにかの粉──目つぶしだろう──を吹きかけられて苦しんでいるのがわかった。もうひとりは、その大男と格闘中だ。 「てめえのスカスカのカニみえてなのに詰まってる脳味噌の中身はクソか? あ? それとも何だ。昨日あたりにぶちこまれた精液溜まりか?」  優男がすっかり口調を変えて吐き捨てている。本人はそれ以上かかってこないところをみると、逃げる算段をしてるのかな? 他の兵士は間に合わないかもしれない。俺は大男の大振りの拳を避けつつ、そいつの動向を観察する。 「仮にも一国の武将に対してその侮辱、覚悟はできているのだろうな」  その聞き覚えのある声は、俺の後ろから聞こえてきた。 「冥琳!?」 「おやおや、お嬢さんが出てきたか。天の御遣いさまは、困ると女に頼らないとならないお子ちゃまなんですなー」  うん、間違ってはいない。俺のまわりの女性陣は男女の別をはるかに超えて、天下に名高い達人ばっかりだからな。だが、その言葉を聞いて、激昂したのは俺ではなく冥琳のほうだった。 「貴様っ」  今にも武器を抜きそうに腰に手をやり、城内で武裝していないということを思い出したのか、つかつかと男たちのほうへと歩み寄り始める。 「ま、待ってくれ、冥琳。呉の武将が魏の民に手を出せば、問題が……」  慌てて冥琳にかけよる。それ以前に、いまの冥琳が突っ込めば、この男どもなどすぐに死んでしまう。それでは困るのだ、この証文のことも……。 「そうだな、我等なら問題ないがな」 「北郷、なますにするか、それとも、真っ二つかな?」 「兄ちゃん、こいつ、絞めていいの?」 「兄様、潰していいですか」  そういえば、大男の攻撃が追いかけてこないと思ったのだ。振り返ると、優男は秋蘭に首をつかまれ、三人は春蘭、季衣、流琉にそれぞれ掴み上げられている。四人とも真っ青な顔をして、悲鳴すら漏らせないのは、完全に体をとられて身動きがとれないからだろう。 「いや、話を聞かないといけないから、牢に放り込んでおいてよ」 「こいつもか?」  秋蘭がぎりぎりと優男の首を絞めると、男の顔が赤から青に変わり、ついに白くなっていく。 「たぶん、そいつが一番よく知っているんだよ」 「しかたないな」  力をゆるめたのか、ぱくぱくと陸に打ち上げられた魚のように口を動かして呼吸する男を見ると、本当にかわいそうになってくる。ただ、このあとはきっと素直になってくれるはずだ。 「ありがとうな、みんな」 「北郷はもとより、お前たちも鍛え方が足りん!」  兵士を怒鳴りつける春蘭。目つぶしでやられていた衛士たちは、顔中を涙でぐしょぐしょにしているが、それが目つぶしのためなのか、春蘭が恐ろしいのか、判別がつかない。 「姉者、それくらいにしておけ、こいつらを牢に連れて行くぞ。一刀が調書をとるか?」 「いや、桂花に話を通してくれないか。そいつら、例の高利貸しの一員なんだ」 「うむ、わかった」  ずるずると男たちを引きずっていく四人は容赦がなかった。関節をとられているのか、動くことのできない男たちは土の上でごんごんと各所をぶつけるたび、悲鳴をあげていた。  みんな、俺が不甲斐ないのを怒っているんだろうなあ。 「冥琳もありがとう」  ひとり残った冥琳に礼を言うと、恥ずかしそうに顔を伏せられた。 「すまん、いらぬことをしたな」 「そんな、嬉しかったよ」 「しかし……」  なお言い募ろうとする冥琳の手をとる。 「本当に嬉しかったんだ。実際手こずっていたからね。ありがとう」 「う、うむ」  ぎゅっと握ると、彼女の暖かな体温が伝わってくる。 「この間のこと、謝ろうと思っていたんだ。明命は、もう大丈夫かな」 「あ、ああ、あれは……うん、大丈夫だ。私も言いすぎたと思っている。許してもらえるかな」 「ああ、もちろん」  俺が応えると、ようやく冥琳の顔がほころぶ。その顔が、少々赤くなっているのは、喜びのせいだと思いたい。  しばらくして、おずおずと彼女は切り出した。 「それで、その……手……」 「あ、ごめん!」  俺たちは二人とも真っ赤になりながら、慌てて手を離すのだった。 「はあ? 私たちがそんなことすると思っているんですか!?」 「いや、違うって、でも、袁家の印影がさ……」  俺が城門であったことを話した途端、七乃さんが食ってかかってきた。いくらいまは俺の預かりとはいえ、多額の借金を人に押しつけた、なんてことになったらただでさえ危うい名家の名声も地に墜ちる。七乃さんとしても必死だろうことはよくわかっていた。 「いくらお嬢様でも百万銭なんて……ええと、お嬢様、していませんよね」 「なんじゃ、その自信なさげな問いかけは」  思わず茶々を入れる祭。当人の美羽はしげしげと証文を眺めている。 「まず美羽たちじゃないのはわかっているよ、でも、どうやって印影が流出したのかを……」 「そんなの、私たちがわかるわけないじゃないですか。美羽様だって肌身離さず持っているはずですが、城内に内通者がいれば……」 「うん、それも考えたんだけど」  俺たちが言い合っていると、美羽が大きく溜息をついた。まるで、莫迦な大人にあきれ果てた子供の姿だ。 「ええい、七乃も一刀も言い合っておらんで、この証文をよくみなおさんか!」 「ん?」  美羽が指す先を見る。そこにあるのは袁家の印影だ。七乃さんも頭の上にクエスチョンマークを浮かべている。 「よく見るのじゃ、この印を」 「袁家の印だろ?」 「ちっがーーう!! たしかに袁家は袁家じゃが、これは、麗羽の印じゃ!」  ばたばたと暴れるせいで、証文が見にくいが、確かにそう言われてみれば、微妙に違いがあるようにも思える。 「……しかし、袁紹だと?」 「うむ、なぜ、麗羽めが一刀に……?」  俺たちはますますよくわからない顔でお互いの顔を見合わせた。 「城に押しかけてくる高利貸しに、麗羽の印影、ね」  魏の覇王は証文の写しから目をあげて居並ぶ重臣たちをねめつけた。びりびりと緊張感が募る。 「問題ね、これは」 「はい、北郷と楽進らからの報告を総合して吟味し、その後追跡調査を行わせておりましたが、この高利貸しは、かなり組織的に行われている模様です。仕掛けに必要以上の費用をほどこしている節もあり、一時の得よりも、金、特に新造銭を使うのはばからしいことだ、と思わせるほうに動いているように思えます。この点は、この男の直感もそれなりに使えるというところでしょうか。今回の城門での狼藉も、一種の示威行動でしょうね」  桂花が流れるように説明する。俺への罵倒が普段より少ないのは、それだけ余裕がないということだ。  戦争よりもなによりも、こういう腐敗を防ぐのが、難しいと知っているからだろう。 「麗羽はどう関わってくるのかしら」 「申し訳ありませんが、情報不足です。ただ、賭場で暴れていたという報告がありますので、取り込まれたか、抑えられたか。いずれにせよ、あの莫迦が主な行動に関わっているとは思えません」 「難しいわね」  広間におちた沈黙を破ったのは夏侯惇だった。 「そうかな」  ぽつりと呟いた声を聞き逃す者はここにはいない。 「春蘭、なにかあるの?」 「はい。そんなに悩むことでしょうか。全て潰してしまえばよいかと」  春蘭らしい意見に場が和もうとした時、秋蘭が口を挟んだ。 「姉者の言は一理あると思います。犯罪組織などとご大層にふんぞりかえっておりますが、要はチンピラです。戦にも出られぬ腰抜けどもが信じるのは利のみ。ならば、これは利がないと思わせるのが得策かと。問答無用で叩き潰してしまえば、いかにやつらとて我等と事を構えることの意味を知るはず」  秋蘭の意見について、稟がいつものように眼鏡をくいとあげつつ言葉をつむぐ。 「もし、善良な金貸し──そんなものが存在し得るのかどうか、私はどうにも確信できませんが──それらがいたとしても、まとめて潰してしまうのがいいでしょう。必要とあれば、いずれ再び芽を出しますし、どうしても金に困る者には街ぐるみで支援をできる体制をつくるほうがよろしい」 「そうですねー。やるならば一気にやってしまうのがいいと思います。罪人は消えないものですが、今回のはやりすぎです。軍を動かしちゃいましょう」  今度は風だ。なんだ、みんなやる気があるな。このところ派手な動きがなかったからかな。 「あなたたち、ちょっと感情的になっていない?」  珍しいな、華琳が押しとどめる役にまわるだなんて。 「城門にまでおしかけられて、黙っとる方が問題ちゃうかな?」 「……本当にそれだけかしら?」  ぐるりと見回す華琳。俺はもうなにも言うことができない。城門での失態は俺のせいだしな。 「さあなあ。でも、孟ちゃんかて、こけにされたと憤っているのは間違いないんちゃう?」  獰猛な笑みを見せる霞の顔をまじまじと見つめ、華琳は小さく溜息をつき、やれやれと肩をすくめてみせた。そのあとで、いつも通りの酷薄で、とびっきり魅力的な笑みを浮かべて見せる。 「わかったわ、一週間後、洛陽での貸金は禁止すると布告を出す。即日、全て叩き潰して見せなさい。警備隊はもちろん、各自の部隊の動員を許す」 「はっ」  将たちが唱和する。その中で、華琳は俺のことをまっすぐと見据えてきた。 「一刀、あなたは麗羽。どこにいるかわからないけど、探し出しなさい。あの莫迦を」  そう吐き捨てる華琳の言はとことん嫌気に満ちていた。 「文醜、顔良もここにいるんだな」  俺は脇の路地から向かいに立つぼろ家を見上げて、明命に確認した。 「はい」  明命はこの一週間俺たちに協力して袁紹たちを探し出してくれていた。本来は俺たちがやらねばならない仕事なのだが、冥琳からも協力を申し出てくれた以上、頼れるものには頼りたい。潜入や調査が専門の明命の能力はとても頼もしかった。  それでも、袁紹たちの足どりをたどるには一週間ぎりぎりまでかかってしまった。今日はもう町のあちこちで各部隊が暴れている頃だ。  華琳と桂花を除く曹魏の重鎮すべての武将と、その配下の精鋭達が投入されたのだ。銭を操るようなやつらが太刀打ちできるはずがない。おそらく、ほとんどの組織は抵抗することすらできず壊滅しているはずだ。  その中で、俺が連れてきているのは、兵についてはそろっているものの、将は華雄だけだ。祭や七乃さんは攻撃部隊による混乱収拾のため、警備隊とともに派遣せざるをえなかったのだ。 「手勢が……足りないか」 「そんなことはあるまい。私と周泰がいれば、いかに顔良、文醜でも抑えられよう。あとは兵で充分だ」 「いや、明命はまずいよ。呉の将なんだし」  明命と華雄は顔を見合わせる。幸い、明命たちに恨みは残らず、あの試合がきっかけで親交をもつようになったようだ。 「ばれなければ問題あるまい。なぁ」 「はい、証拠は残しません!」  二人して俺のことを見てそんなことを言う。仲よくなったのはいいが、始末におえなくなってしまいそうな……。 「しかたない。いいかい、袁紹たち以外は抵抗したら、容赦しなくていい。みんな、怪我しないように!」  兵達に言い聞かせ、華雄たちに目線で合図する。俺は振り上げた手を一気に振り下ろした。 「突撃!」  この日、検挙された高利貸し、悪徳商人は実に二百人を超えた。彼らの店や住居からは所持を禁止されている悪銭もたんまりと出てきて、罪を確定させていた。  その罪人どもの吟味と後処理は桂花や秋蘭たちに任せ、俺たちは捕らえてきた袁紹を囲んでいた。今回は関係者ということで、美羽や華雄、祭もいる。 「さて、麗羽」 「なんですの、華琳さん」  傲然と胸をはる袁紹。まあ、いつも通りといえばいつも通りだが、捕らえられた自覚があるのだろうか、この人は。……いや、美羽もこんなんだったな、そういえば。それほど名家の名声は力を持っていたということでもあるだろう。 「あなたたち、なんであんなところにいたのかしら」 「それは、その、お金がなくなってですね、大食いや腕相撲大会でしのいだり、賭けでお金つくったりしていたんですけど、どうしても足りなくなって、あそこで用心棒を……すいません、すいません」  顔良が申し訳なさそうに、ぺこぺこ謝る。 「あれ、でも、袁紹たちは天和たちのところで働いて給金をもらっていたんじゃなかったっけ」 「それだけじゃ、むねむね団を養えないんだよ」  俺の疑問に、文醜がしかたなさそうに応える。大食いや腕相撲は彼女の担当だろうな。 「むねむね団?」 「袁紹の私兵集団ですね。現状では特になにをしているわけではありませんが、これを組織していることも罪のひとつです」 「ああ、一刀が霞を助けに行った時の報告書にもあったわね。私の美意識にあわないので忘れてしまっていたわ」 「華琳さん。わたくしのむねむね団を莫迦にしないで下さる!?」 「それはともかく」  袁紹の抗議はまるきり無視だ。 「一刀に借金を押しつけたのは?」 「ああ、天の御遣いさんですわね。美羽さんもお世話になっているそうですし、ちょうどいいかな、と。お金ももらえましたし」  え、それだけ?  さすがに皆呆れているのか、誰も口を開かない。 「麗羽さま、そんなことしたんですか!?」 「あたいらはともかく、麗羽さま、この兄ちゃんと面識ありましたっけ……?」 「いえ?」  慌てる顔良と、疑問を口にする文醜に対し、泰然とした態度を崩さない袁紹。いや、もし面識あったって、借金を肩代わりする義理はないんだけどな。 「死罪にしていいかしら」  渋面をつくった華琳が、風と稟にはかる。 「いや、それは、どうか、どうか!」 「お願いです、あたいたち、仕事もらえたら働きますから!」  さすがにまずいと感じたのか、配下の両将軍はがばりと平伏して必死の嘆願を繰り返すが、当の袁紹はふふん、となにか得意顔だ。いや、お莫迦もここまでくるとあっぱれ。 「難しいでしょうねー。私兵募集はかなりの重罪に問えますが、さすがにいきなり死罪というのも。お兄さんへの脅迫行為を含めて悪徳商人たちに加担したとして、そですね、腕一本くらいですかねー」  風もなかなか物騒なことを言う。 「袁家の当主としてはどう思う? 袁術」 「あら、華琳さん、当主はわたく……むぐごが」  発言しようとしたのを顔良と文醜に二人がかりで口をふさがれる袁紹。苦労しているな、二人とも。 「うーん、不具になった麗羽というのも寝覚めが悪いのじゃ。というて死罪というのも……百叩きあたりにまからんかの」  百叩きか。こちらの世界でもその通りかどうかはわからないけれど、祭の苦肉の計では、当初百回だったのを明命たちがとりなして五十回に減らされたという話があったな。つまり、歴戦の武将ですら百回打たれるのは耐えきれぬと思えるような刑罰なわけだ。打ったほうの冥琳の心痛が忍ばれる。  なにしろ打つのは鞭か杖だ。鞭と言ってもしなやかなものではなく、いま祭が持っている武器の原形となった堅木の棒だ。そんなもので打たれれば、肉は裂け、血が吹き出し、中には打たれる途中でショック死してしまう例もあるとか。たいていは賄賂を事前に渡すことで、力の入れ具合を調節してもらえるらしいけれど。  死罪や腕を落とすのに比べたら、その程度はしかたないのだが、しかし……。 「ならば、今後は袁術が袁紹を監督することを条件に減刑するわ。百叩きと今後の謹慎。もちろん、む……なんとか団は解散。まあ、構成員については罪に問わなくていいわ」 「えー、妾が麗羽の監視かや……。しかたないのぅ」  さすがに華琳も袁紹を野放しにしておくことを危惧したのだろう。彼女たちは美羽に預けられることになってしまった。待てよ、そうなると、やっぱり俺が……? 「美羽さんの風下に立つ上に、百叩きですって、なんでわたくしがそんな……」 「莫迦言わないで、麗羽。いくら昔なじみとはいえ、見逃すにも限度があるのよ。あなたひとりが打たれることで部下の命が救われると思いなさい」 「ですが、華琳さん!」  抗議する袁紹を、仕方なさそうに見やり、華琳は霞たちに指示を下す。 「連れて行きなさい」  三人は剣呑な雰囲気を感じ取ったのか、肩を寄せ合って震え始めた。ようやくというかなんというか……、しかし、その光景を見て俺は決心した。 「待ってくれ、華琳」 「なに? さらに減刑しろなんて事は言わないでしょうね? これでも……」 「違う、刑の執行は俺に任せてくれないか」  つかつかと袁紹に歩み寄り、彼女の腕を捕らえる。武官ではない俺だからなんの警戒もされずにできたことだろう。文醜、顔良も不思議そうに俺を見るばかりだ。袁紹は案外抵抗もなく、俺がひっぱるに任せて広間の中央に出てきた。 「一刀殿が主な被害者ですから……しかし、あまり趣味がいいことでは……」  稟が心配げに俺の方を見ている。一方の風のほうはにやにやと笑う口元を手で隠している。お兄さんの酔狂がはじまりましたねー、という彼女の心の声が聞こえてくるようだ。 「……いいけれど、あれは、やるほうもかなりの体力を使うわよ」 「いいんだな? 俺が百叩きをやる、それでいいな?」  念を押すと、そんなにやりたいの? と目線で問われる。しかし、やらねばなるまい。 「まあ、いいわ」  その答えをきくと、俺はその場にどっかと座り込む。そのまま掴んでいた袁紹の手を引くと、バランスを崩された袁紹はあっけなく俺の膝の上にうつぶせで倒れ込んだ。彼女のスカートをめくりあげ、一気にその下着をはぐ。 「はっ?」  華琳と袁紹の間抜けな声が期せずして唱和し、広間に響いた。 「麗羽様っ」 「顔良将軍、お動きめさるな」 「文醜殿も」  視界の端で、華雄と祭が文醜、顔良両将軍の腕をとっているのが見えた。 「ちょ、ちょっと、待って、なにをするつもりなの」 「だから、百叩きだよ」  あっけにとられる華琳たちを尻目に、俺は、丸まるとした双丘に、一発平手打ちをかます。ぱあんつ、と小気味いい音が謁見の間に響きわたる。 「きゃあっ」  間髪入れず、彼女の綺麗でぷりぷりしたお尻に二発目をたたき込む。別の時に見ていたならば、劣情をもよおしてしまうだろうと確信するほど形のいい尻だ。 「なにをっ」三発。「する」四発。「んですのっ」五発。  抗議は聞かない。ここでこれが罰だと押し通さなければ、彼女は肉がはじけ血がにじむ刑罰に送られることになるのだから。  十発。みるみる尻が赤くなる。 「やめなさい、あなた、わたくしをなんと心得てっ、ひっ」  抱きしめるようにして、抵抗する体を抑えつける。やわらかい体に意識がいきそうになるが、気を奮い立たせて、平手打ちを続ける。  二十発。 「ねえ、どう思う?」 「んー、刑罰になっているような、なっていないようなですねー。まあ、お兄さんらしいですけど……ああ、稟ちゃん、とんとんー、とんとんー」 「衆人環視の中で……一刀殿に……はふっ」  三十発。  だんだんと抵抗がなくなってくる。諦めてくれたのだろうか。鞭打たれるより、絶対こっちのほうがましだと思うんだよな。  さすがに泣きだしたりしないのは、武将としての意地だろうか。よりどころがほしいのか、俺の足を掴む袁紹の指が食い込んで痛いほど。 「うう、袁家の恥さらしなのじゃ……」 「う、うるさいですわよ、美羽さん! ひゃあっ」  四十発。 「ねえ、流琉、袁紹さん、なんか真っ赤になってるよ。お尻も真っ赤だけど」 「き、季衣、見ちゃだめ」  五十発。  この頃になると、相変わらず声は抗議を続けているものの、抗う方が痛みは増すと気づいたのか、袁紹は俺が打ちやすいようにと姿勢を整えるようになった。ぐっと膝をつき、尻を掲げて打たれる痛みに備える様は一種煽情的に見えた。広間には俺以外に男はいないのを、まだましだと思ってくれるといいのだが。 「くっ、くっくっ」 「華雄、笑うてやるな」 「しかし、あれが董卓さまを罠にかけた袁紹と思うとな。恨みも消えてゆくわ」  六十発。 「しっかし、一刀もいい趣味しとんなあ」 「そうでしょうか、隊長は甘いと思います。借金を押しつけられてあの程度では……」 「凪ちゃんは、目の前で何が起こってるかわかってないのー」 「しゃあないやろ、凪やし。いやー、さすがに恥ずかしなってくるなー」  七十発。  なぜか、時折思い出したように暴れ出す袁紹。痛みから逃げようとしているというよりは、内からわき出るなにかに抗っているかのようだ。確かにこんな屈辱、名家のお嬢様にしてみれば耐えがたいものなのだろう。  しかし、声もなく暴れられると、こちらとしても対処に困る。しかたないからのばしてきた手をぎゅっと握ってやる。  八十発。 「なあ、斗詩、あれって麗羽様、うっと……」 「言わないであげて、文ちゃん」  九十発。  すでに、広間に聞こえるのは、俺が尻を打つ音と、袁紹の荒い息だけだ。 「はあっ、はあっ、はっ、はっ、はっ」  犬のように息を漏らす袁紹。俺たち二人に、広間中の視線が集っているのがわかる。 「見ては、見てはいけませんわ……こんなの、ありえ、わた、わたくしは……」  譫言のように繰り返す。すっかり大人しくなった彼女の手をなだめるようになでてやると、すがりつくように俺の手に指をからめてくる。 「わたくしは、袁家の、ふっ……くっ……」 「最後、いくぞ」  小さく囁くと、潤んだ目で見上げてくる。惚けたような顔に、ほっとしたのか、喜びの色がのっている。  ぱああんっ、ひときわ高い音を鳴らして、俺は百発目を終えた。 「ふわっ……」  押し出されるような吐息を漏らし、袁紹の体から力が抜ける。膝にかかる重みが急に増したように感じる。どうやら完全に意識を失っているらしい。  ぐったりとした袁紹を、なんだか赤い顔をしている文醜と顔良の二人に引き渡す。主を辱められて怒っているのだろう。頭を下げると、慌てたようにあちらもわたわたと頭を下げてくる。  それにしても、失神するほどのものだったかなあ、たしかに俺だって手がしびれて感覚がないけれど。  美羽を先頭として袁家一行が軟禁場所に案内され、華琳たちが憤然と出て行ったところで評議は終わりとなった。  そして、なぜかこの夜の華琳はいつにもまして不機嫌、かつ意地悪で、怒っているくせに俺にひっついて離れないという奇妙な行動をとった。  あれは一体なんだったのだろうと、後々まで俺を悩ませることになるのであった。                         いけいけぼくらの北郷帝第六回(終) おまけ  賈文和の王国建国日誌  今日、成都が陥落した。  もちろん、魏の曹操軍の手によってだ。  蜀・呉の知恵と力を結集しても、世の流れには逆らえないということだろうか。軍略をいかに練ろうと、奇策を仕掛けようと、数を揃えた正攻法には勝てないということでもある。  ボクたちは、陥落前に城を出された。月、ボク、ねね、恋の四人は蜀でも呉でもないから、というわけだ。しかし、恋の家族を連れ出すことはできなかった。一部の軽い犬猫と、馬についてこられるほどの大型犬、それに鳥以外は大半を野に放すしかなかった。  あのまま、城に残って、みんなで……いや、考えまい。ボクたちは、生きるのだ。  これから長い旅になる。月は大丈夫だろうか。      ────────  戦争は終わり、戦後は魏・呉・蜀の三国分立体制が確立されるという布告が、各地の名士の間にまわっているようだ。  どういうこと?  曹操の目的は、ただ征服することだったのだろうか?  もちろん、実質的には、呉も蜀も属国扱いであることに変わりはないだろうけれど……。呉に至っては征服後、すでに官吏を派遣していたというのに、この処置はなんなのだろうか。  ともあれ、ボクたちはボクたちの道を探すしかない。  涼州まではあと一月もあればつくだろう。  月は里帰りができるかもしれないと喜んでいる。  でも、親族に会うわけにもいかないし、どうしよう。      ────────  相談の結果、旧領に帰るのはやはり取りやめとした。  月に故郷を見せて上げたいのはやまやまだけれど、しばらくは様子を見るべきだ、とねねとも意見が一致した。  恋とねねはともかく、ボクと月は死んだことになっているしね。  しばらくは大きな都で人に紛れることにしよう。  曹操が許昌を経由して洛陽に戻っているようだ。洛陽は危ない、長安にしておくべきだろうか。追手がくるとも思えないが……。      ────────  なんとか長安に居を構える。  少なくなってしまったが、それでも恋の家族たちは遊び回る場所がないと弱ってしまうので、四人にしては少々広い邸だ。  下働きを雇うほどの余裕はないし人選にも困るので、自分たちだけでやっていくしかないが、月はお掃除したりするのはいやじゃないと言ってくれる。本当に感謝するしかない。  この子を天下人にできれば、大陸はもっとよくなったに違いない……。でも、もうそれも……。  それにしても、桃香たちからの連絡がない。  生きていることはそれとなく伝わるように仕向けたのだが、あちらから積極的に連絡をとる必要はないと判断されたのだろうか。  もう一度はっきり連絡をとってみよう。      ────────  蜀──朱里とは連絡がとれず。  あちらから接触を絶っている?  これだけ情報網から接触すべく働きかけているのに、一切の返事がないのはおかしい。  月は復興に忙しいのだろうと言っていて、確かにそれは間違いないだろうけど……。      ────────  今日、曹操から『平和式典』への招待状が届いた。ねねは曹操に居場所を知られたのですー、と慌てているが、そんなものは折り込み済みだ。これだけ経ってるのに曹操が呂布の動向を気にかけないわけがない。  さすがに月とボクの正体もわかってはいるようだが、ボクたちへの招待はいま名乗っている偽名『董白』と『賈胤』できていることからみて恋たちも含めて害される恐れはないだろう。大陸の覇者が殺す相手にわざわざ気をつかう必要はないからね。  ただ、一つ、はっきり確信したことがある。  蜀はボクたちを切った。  蜀がボクたちを受け入れる姿勢を示しているならば、偽名をわざわざ書いて送ってくるほど信義を通してくれている曹操が、桃香を通さないわけがない。  これはつまり、曹操に対して、ボクたちの処分をまかせたということの証左だ。      ────────  平和式典から帰還。  三国の首脳陣では平和はすでに確定のものらしい。  お気楽なものだ。  気を張っていたボクたちが莫迦みたいじゃないか。  でも、それもしかたない。ボクたちはその三国の秩序の中にはいないのだから。  それとなく曹操──真名を呼べといわれたので、以後華琳と書くことにする──から洛陽に来ないかと誘われた。恋たちも霞をはじめ幾人かから誘いを受けたようだ。  一方、桃香たちとはしゃべりはしたが……蜀にも遊びにきてね、とは。  いや、もうやめよう。  しょせんあそこは仮住まいの地だったのだから。      ────────  華琳の下へいくか、宮仕えには背を向けて長安で暮らしていくか、故郷へと帰るか。  ボクたちにある選択肢は三つだ。  月とボクは死んだことになってはいるけれど、いまの状況なら故郷に帰ってひっそり暮らすだけなら見とがめられずに済むだろう。華琳もそんなことを言っていたし。もちろん、その場合二度と中央には近づかないことは覚悟しなければならない。  華琳の下へいけばみんなの能力を生かして働くことはできる。これはこれで魅力的である。  思い切ってみんなで話し合ってみた。  恋は、家族たちを養えればどこでもいいという意見。  ねねは恋にはもう少し活躍してほしいが、恋が満足ならあえて反対するほどでもないとのこと。  問題は月だ。  月はボクが田舎に逼塞してしまうことを心配している。ボクの才能なんてどうでもいいことなのに。月のために生かせないなら、そんなもの意味はない。  月の優しいところは大好きだけど、ボクのことを気遣いすぎるのはやめたほうがいいと思う。うれしいんだけど……。      ────────  霞が挨拶にきた。なんでも志願して北方鎮守の任に当たるということで、中原からはしばらくの間離れるらしい。万里の長城近くで異民族と対する大変な任務だ。 「せやけど、それくらいせんと気が晴れんねん」  霞はなぜだか暗い顔でそう言っていた。彼女は、成都攻略戦で大事な人をうしなったとも聞く。  ボクたちには、一体何ができるんだろう。彼女の言葉を聞いて、ボクは……。  華琳の誘いを受ければ、三国が築きあげた秩序の中で役割を果たすことができるだろう。でも、それは、本当にボクがしたいことなんだろうか。      ────────  曹操が三国を分立させる体制をとることを決めたのは、一人の男のためだという話を霞からの文で知る。霞が北方行きを決めたのもその男がいなくなったせいなんだそうな。  聞きようによっては感動的なお話しだ。一人の男を手放さないために、大陸の行く末を決定するなんて  でも……なにそれ、何様だっていうの。  そんなわがままでボクたちはこれまでふりまわされてたっていうの?  ボクは、いいえ、ボクたちは決めた。  そんな気まぐれで押しつけられた秩序、ボクたちは真っ平御免だ。そして、秩序の中にいられないのならば、その秩序の外で監視する存在になればいい。誰にも冒せないくらい、強い意志をもって。  いまの三国をひっくりかえそうなんて思わない。ただ、ボクたちは、この邸から、それを監視し続ける役割を、自分たちに課す。  そうだ、ボクたちは、ボクたちだけの、四人と二十匹の王国を建国する。