〜いけいけぼくらの北郷帝〜 第五回 『救い』 「よし、みな揃ったな。まずは張遼将軍とはぐれた場所まで向かう。そこにはもういないだろうが、痕跡をたどって将軍と賊を探す。探索はさきほど指示した通り、一五〇名の本隊と二五名ずつの探索隊四つだ。自分が所属する部署はわかってる? ……うん、よし。いいかい、くれぐれも今回の目的は張遼将軍救出にある。無駄な戦いは避けてくれ」  ずらりと揃った二五〇名あまりの張遼隊に指示を下す。俺の右には愛用の武器、金剛爆斧を携えた華雄、左には盾を持つ祭の姿がある。いずれもすでに馬上にあり、準備は万端整っている。 「じゃあ、いってくる。先駆けは任せた、華雄」 「おうっ」  十文字の旗をはためかせた華雄が馬主を巡らせ走り出すと、それに続いて張遼隊の兵士たちが矢のように駆け出す。俺は、少し離れたところで俺たちを見ている季衣に手をふると、自分もその濁流のような兵士の群れの中に身を躍らせた。  ともかく、時間が勝負だ。  霞、待っていろよ。助けてやるから。  心の中で、はやく、ただ、ひたすらにはやく駆けることだけを思う。張遼隊は、魏軍五〇万の中でも最速を誇る神速の部隊だ。臨時の将となった俺が足をひっぱったらたまったものじゃない。  俺たちは街道をひた走る。普段行き交う旅人や隊商は、先触れの兵士によって道の脇に固まっていた。俺たちを恐ろしそうに見送る人もいれば、たのしそうに手を振ってる子供もいたりする。 「北郷様、あれを!」  兵の指さす先には華雄と先駆けの一団が固まっていた。その足元にはなにかがある。だんだんとはっきり見えてくるそれは、いくつもの人馬の死体。無惨に切り殺され、あるいは骨を折られて変な形で大地にのびている死骸の山だ。 「くっ」  冷静に考えれば、あの死体の中に霞や美羽がいるとは思えない。逆に霞にやられた賊の群れだろう。だが、それでも、体がかっと熱くなり、脳天には棒を差し込まれたかのように思考が鈍るのがわかる。  違う、あれは霞でも美羽でもない。野盗たちの物言わぬ骸にすぎないのだ。  自分に無理矢理のように言い聞かせても、馬を急かす行動を止められない。 「霞たちはっ」  馬を降りて死体を検分していたらしい華雄に大声で怒鳴る。彼女は少し眉をあげて俺を見る。その小さな動作が暗に落ち着けと語りかけているようで、俺は少し恥ずかしくなった。 「ここにはもういないな。血の渇き具合からして、しばらくはこのあたりで防いでいたのだろう。蹄で荒らされた跡からすると、集団は北へ向かっている。文遠も北へ逃げたと見るべきだろうな」  北か……南の山中に入られるよりは、ましと言えるだろうか。山の中は賊のテリトリーってこともありえるし、広々とした北に向かったのか、それとも賊をいなすのでしかたなく、か……。考えても分かりはしないことなのだが、つい考えてしまう。  馬上に戻った華雄は俺と共に遥か北方を見やる。そのどこかに霞の姿が見えるかのように。 「旦那様、では手筈通りに?」 「……うん、そうだね、探索しよう。本隊はこのまま北上する。この場には……一〇人を残せばいいかな。そのうち二人は洛陽に走ってくれ。残りは適宜連絡役に」  俺の指示にしたがって探索の手が走る。残ったのは一五〇人あまり。これでも元々の報告通り野盗たちが三〇〇程度なら蹴散らせるはずだ。ましてや華雄の武勇も加われば。  俺たちを含めた本隊は、これまでよりは慎重な速度で馬を走らせはじめた。それでも、普通の行軍速度よりはかなりはやい。馬を疲れさせないように意識しないとな……。 「襲ってきた賊は、本当に美羽や華雄のところの残党かな」 「わからん……が、洛陽近辺でまとまった数をつのれる賊はもうほとんどいないだろう」 「治安もかなりよいですしな。しかし、一度波ができますと、どこからか沸いて出るのが賊というもので……。儂も道中難儀いたしました」 「それよりも、だ」  と、華雄は。声を低めつつも強い口調で言う。 「見つけたあとどうする? 張遼がうまいこと賊から離れているなら、賊を蹂躙してからやつを探せばよいが、張遼と袁術が賊の中で戦っていたりしたら、この隊の兵士は目色を変えるぞ」 「整然とした行動は無理じゃ、と?」  祭の疑問に顎をぐっとひくことで応える華雄。 「張遼がいるならともかく、救う相手はその張本人だからな」  俺はそれを聞いて少し考える。 「……じゃあ、その場合は一度賊の群れを突破して霞のいる位置を確認したあとは、反転せずその場で下馬。そこから霞たちのいる場所に防衛線をひく形でどうだろう?」 「ふむ……では、鋒矢の陣で突撃し、後背のものたちが張遼の居場所を確認するということでいいか」 「うん、いいと思う」  わかった、と頷いて華雄は兵士の中に混じっていく。俺よりも、こういうのに馴れている人間に細かい指示をまかせられるのはありがたい。いくら勉強したとは言っても、実戦経験はそこまで多くないからなあ……。  ふと祭をみると、目隠しの向こうの彼女はなんだか妙な顔をしていた。 「ん、どうしたの?」 「いえ……疑問も持たず馬を走らせてきましたが、儂はどうやって馬を駆る術を憶えたのじゃろうと」  確かに祭の馬にのる姿は様になっている。もちろん、彼女は俺なんかと比べ物にならないくらいの経験を持つ武将、黄蓋なのだからそれは当然なのだが、いま俺の横にいる祭にとって、それは別人が経験した出来事なのだ。 「まあ、乗れるものはありがたく乗っておくのがよいのでしょうな」  俺がなにごとか言う前に、祭はそう言って笑みを見せた。真剣に悩んでいたというよりは、違和感をどうやって納得するかという感じだったのだろう。 「俺は、こっちに来たとき、馬に乗れなくてさ……」  昔の出来事をひとくさり話し終えるまで、祭は淡く笑みを浮かべながら聞いてくれていた。  そうこうしている内に、すっと華雄の馬が俺の横に並ぶ。 「先発隊から伝言で、砂ぼこりが見られ、多くの声といななきが聞こえるそうだ。人馬の群れが争っているな。あの丘の向こうだ」  華雄が指さす先にはこんもりとした丘がある。見れば、丘のてっぺんあたりに魏の鎧をつけた兵士が一人、地に伏せて丘の向こうを見張っている。先発隊の一人が残って様子をみているのだろう。ということは、あの丘を越えればすぐに敵が見えるということだ。  そして、丘までは、もう数分もかかるまい。 「……うちが最初に見つけちゃったか」  探索隊が見つけたならもちろん本隊に伝えるのが第一で、その後部隊を集結させることになる。ただ、本隊が見つけるとなると判断が難しい。このまま戦闘に入るか、適当なところで部隊を集めるか……。 「どうする? 探索の連中を呼び戻すか」  俺は、空を見上げた。まだ夕暮れの朱はさしていないが、日は落ちかけている。 「いや……霞の無事を確保するのが先だ。最悪逃げるだけならなんとでもなるだろう」 「では、突撃だな?」  華雄の問いに、迷いを振り切るように力強く言う。 「ああ、速度をあげよう」  佩剣をぎゅっと握る。すうと大きく息を吸う。傍らの祭と華雄に目をやり、軽く頷きを交わした。 「みんな、聞いてくれ!」  精一杯の声で叫ぶと、兵士たちが耳をそばだてるのがわかる。 「この先で戦闘が行われているらしい。おそらく、霞たちだろう」  わあっ、と沸く兵士たちが収まるのを一拍待つ。 「大事なのは、張遼将軍と袁術を救い出すことだ。賊の群れなんて、あとからいくらでも踏みつぶせる。隊長を襲いやがって、と憤る気持ちはわかる。だけど、いまはそれを抑えてほしい。  いいか、繰り返すよ、大事なのは張遼、それと同乗している袁術だ。賊を斬るよりも、彼女たちの居場所を探すんだ。  さあ、みんなで彼女たちを迎えに行こう。全隊、駈歩(かけあし)!」  俺の声を聞いた途端、周囲の馬群は大幅にスピードを上げ、それに連れて、鋒矢の陣、つまり矢印型に整列していく。俺と祭は矢印の軸の部分に同調し、華雄は矢の先頭へと移動していく。  俺たちはそのまま丘を登り切り、視界が開けた時、そこに見えたのは予想以上の数の争う人の群れだった。三〇〇と聞いていたはずだが、見る限りは八〇〇以上いる。しかも……。 「仲間割れか?」  まちまちの格好で賊丸出しの連中が、それぞれに争っている。予想だと霞にむけて包囲を行ってるものだとばかり……。  その時、群れの中で、なにかが中空へ跳ね上がるのが見えた。それは、紛れもなく人の体躯だった。斬撃か打突の勢いで吹き飛んだものらしい。そんなことができるのは……。  よし、と肚を決める。  人数は予想外だが、張遼隊の鋒矢だ。突破できないわけがない。  馬の足並みが下りにかかるのを感じながら叫ぶ。 「華雄、突撃だっ」  華雄はこちらを振り返り、横顔だけで、にやり、と笑いかけてきた。 「ゆくぞ、突撃ぃいいいいいい!」  華雄が十文字の旗を振り立てて、突撃を開始する。遅れじと続くきらめく槍をならべた兵士たち。その様は、まさに銀のうろこをきらめかせる竜のようにも見えたに違いない。  俺自身も佩いていた剣を抜く。横で祭が大盾を担ぐように構えなおすのが見える。 「祭、約束、憶えてるね」 「はい。旦那様もお気をつけを」 「ああ、俺も死にたくないからね、さ、行こう」  俺たちはそれ以上言葉を交わすことなく、ひたすらに駆けに駆けた。  正直、戦闘中のことは毎回あまり憶えていられない。興奮と、幾重もの思考と、感情の渦の中で、現実と思考が渾然一体となって記憶を上書きしてしまっている。  だが、その中でもはっきりしているものもある。 「一刀っ」  あの声が。いつも飄々としたその声が、喜色を込めて、俺の名を呼ぶ。 「霞っ」  襲いくる槍の穂先を剣で弾き飛ばしながら応えれば、その声の先では飛竜偃月刀が幾号もふられ、その度に血が飛び、肉がつぶれていた。こちらに合流しようとしているものの、絶影の馬首には美羽がへばりついており、なかなかたどり着けないでいるようだ。 「一刀ぉ」 「美羽も、もう大丈夫だっ」  意識を彼女たちに集中しすぎたのがいけなかったのだろう。 「旦那様!」  側頭部に衝撃を感じた途端、俺の意識は闇に落ちた。  俺は気を失ってしまったから、ここから先は、祭や華雄にあとから聞いた話になる。  祭の眼には、一刀へと向かう一本の矢が、まるで我が身を切り裂く刃のように見えていた。一刀を失うわけにはいかない。そんな、思考にするまでもない思念に体が応え、盾を構える。  狙い違わず、矢は彼女の掲げた大盾に激突した。しかし、その途端に折れた矢が向きを変えて、すべるように一刀の頭部に吸い込まれて行く。 「旦那様!」  一刀の眼がどろん、と濁り、瞼が落ちて体中の力がぬける。剣がその手から抜け落ち、体全体が馬上で崩れ落ちていく。 「旦那様ぁっ」  必死でその体を抑える祭。横並びで走りつつ、抱きかかえるようにしようとするが、馬が嫌がってあまり近づけず、腕で支えるのが精一杯だった。 「くっ」  そんな状況は戦場でも目立たざるを得ない。これは好都合とみた賊達は、よってたかって槍を突き出し、弓を射た。祭は盾ではじき、あるいは馬を斜行させて避け、ひたすらに走ることだけを選択した。  止まれば、それは死を意味する。 「一刀ぉおおおお」  悲痛な叫びが爆発し、偃月刀がうなりをあげる。  馬上の一刀がぐったりと力を失い、落ちそうになるのを脇にいた女が支えているのが見える。そして、わっとそれに群がる賊の数々が。 「おまえらああああ」  怪我の痛みも、長時間規則的に刀を振るい続けてきた疲れも全てが吹き飛んだ。歯ごたえはないが数だけいる敵から戦闘能力を奪うにとどめていた飛竜偃月刀は、いまや死を賜る颶風と化した。  一振りごとに、首が飛び、腕がちぎれ、真っ二つにされた体が大地へ落ちた。 「うわっ、霞、ちょっ、ひええええ」  馬首にしがみついている美羽が悲鳴を上げる。これまで張遼がいかに自分に気をつかって戦っていたのか、彼女はいままさに痛感していた。偃月刀の刃が頭のすぐそばを通り、髪の毛を数本道連れにしていく。 「美羽っ、頭上げんなや! 上げたら死ぬ思え!」 「ううう、わかったのじゃああ」  ぴったりと絶影にしがみつく。長時間の戦闘を経た絶影の熱くたぎった肌からは、湯気が立ち上りそうだ。霞がはさみつける腿の力の加減と膝で示される意図に寸分の狂いも無く従う絶影の筋肉が、己の体の下でうねるのがわかる。 「がんばるのじゃぞ」  美羽は、空気を切り裂く裂帛の気合と共に繰り出され続ける死の斬撃を背に感じつつ、そっと絶影の首をなでてやった。  華雄は先頭にいたために、異変に気づくのが遅れた。だが、兵が動揺しているのは、肌でわかった。金剛爆斧を振り抜きざま見やると、一刀が黄蓋に支えられているのがわかる。なにか負傷したのであろう。 「ええい、こんな時に」  だが、いま止まるわけにはいかない。予想よりも賊の数が多かっただけに、突破は軽々とはいかない。確実に突破し、そこで踏ん張るしかあるまい。 「我が名は華雄。武名をあげたくば、挑んでくるがいいっ」  喧騒を貫く声で名乗りをあげる。十文字旗を持ち、部隊の先頭を疾駆する華雄はそれまでも賊達の注目を集めていたが、この名乗りに腕に覚えがあるものが集まり始める。彼らは、競って華雄に斬りかかってきた。 「ふん、莫迦どもが……しかし、見知った顔がないな。どこの賊だ?」  相手が突き出す槍の穂先を斧の一振りで切り払いつつ、彼女は考える。たしかに美羽たちと集めた野盗の一団もいるにはいるようだが、その連中はさすがに華雄の前に立つような無謀なことはしない。実際、いま斬りかかってきているのも見知らぬ男たちだ。 「内輪で争っているというよりは、いくつかの賊の集団か?」  そんなことを考えつつ、金剛爆斧をふるうと相手の腕を斬るというよりも潰してしまう。代わりにまた別の男が戦列に加わった。 「ええい、鬱陶しいな」  実際はこの程度の相手なら五人や十人まとめてかかってきても簡単になぎ払えるのだが、いまは多少苦労してるくらいに見せかけないといけない。相手をひきつける囮になるためには本気を出すわけにもいかないのだ。 「文遠も荒れているようだし、困ったものだ」  私はなにも考えず暴れる方が好きなのだがな、と華雄はらしくないことを独りごちた。 「我が名は華雄。武名をあげたくば、挑んでくるがいいっ」  前方で華雄将軍が名乗りを上げる。そのおかげか、祭と一刀にかかる圧力が一瞬緩んだ。その間に祭は、一刀の体に手を回し、ぐんにゃりとした体を力任せにひっぱりよせ、己の鞍の前にまたがらせることに成功した。  近づいてみて彼が息をしていることにほっと一安心する。 「旦那様……」  さすがに力業で息が切れる。祭は呼吸を整えつつ、一刀の体を固定しようとした。  だが、そんなことをしていれば隙が生じる。  彼女たちをめがけて一斉に突き出される数本の槍。その全てを盾で防いだ、と思ったその瞬間、盾を引き寄せる腕が護るべき一刀の体にひっかかった。 「しまっ」  軽く浮いた盾に、賊の刀がふり下ろされる。反動ではねあがった盾の縁が、祭の額に強く打ちつけられた。  ばちんと火花が飛び、視界が暗くなる。  呼吸が乱れる。意識が濁る。  まず……これは、いつもの……。  とぎれとぎれの思考の中で、祭は己の体が、自分の支配から脱しようとするのを予感する。  だめだ、だめだ、だめだ。  いま、自分が倒れれば、この手の中にいる大事なお人も死んでしまう。そうじゃ、二度と、儂は二度とあのような──。  明滅する意識をなんとかとらえようとするも、連続的にばちんばちんと火花が飛ぶ。  視界が真っ赤に燃えあがる。  ──燃える、燃える、江が燃える。  燃え盛る船の上で、彼女は叫ぶ。 『この老躯、孫呉の礎となろう! 我が人生に、なんの後悔があろうか!』  そうじゃ、儂はあの時……。  ──広がるは夕暮れの戦場。真っ赤に燃え上がる空の下。  矢に射たれ、死にゆく女性を彼女と二人の少女たちが見送っている。 『呉の民を、娘たちを……』 『堅どの、孫堅どのおおおお』  あの時、あの時掴み損ねた腕を、儂は……。  ──浮かぶのは愛しい人達の。  冥琳──いつまでも泣き虫は変わらぬの。涙を見せぬのは褒めてやる。  雪蓮さま──華琳殿の膝下に下り、いかに過ごしておられましょうや。孫呉の命脈は保たれておるや否や。  堅どの──あの頃に戻れたならば、また再びあなたと戦場を駆けましょう。この武の全てを捧げて。  なれど……。  一人の男の顔が脳裏に浮かぶ。  否、それは、その時たしかに目にしている顔であった。  視界が一刀の気を失った顔を中心に晴れ渡る。彼女はいま、愛しい人をその手に抱いて、疾駆している最中であったことをようやくのように思い出す。 「ははっ」  大笑する黄蓋の顔は晴れやかだった。襲いくる矢を、槍を、剣を、事も無げにはじきとばす。 「堅殿、策殿、年甲斐もなく恋に生きる老骨をお笑い下され」  撃ちかかってきたのを盾でひょいとはね上げると、面白いように武器が折れるか飛ぶかする。その中の一つが落ちてくるところを彼女はつかみ取った。  それは、鉄鞭とよばれる武具だった。棒状にした鉄の塊のところどころにより鍛えた鋼の環をはめて打撃力を強めた武器だ。 「じゃが、儂は死んだのです。赤壁で江東の武者黄蓋は死に申した」  盾で一刀を守りつつ、鉄鞭をふるう。撃ち当たった者の頬の肉をはじき飛ばし、あるいは肩の骨を打ち砕き、粗末な鎧を陥没させながら、彼女は馬を走らせる。 「旦那様に生まれ変わらせていただいたこの身は、もはや呉の体にあらず。一身これ五臓六腑に至るまで全て旦那様がもの!」  目の前に立ちふさがる賊どもを散々に打ち据えつつ、いまや再び目覚めた武将は馬を駆る速度を上げた。張遼隊の兵士たちを追い越しつつ、先頭へと急ぐ。  そこでは華雄が賊を相手に道を切り拓いていた。その横に並び、賊共を軽々となぎ倒していく彼女を見て、華雄が目を丸くする。 「華雄、旦那様は生きておられる。気を失のうておられるだけじゃ。突破して、その場で方円陣を敷くぞ」 「お、おい?」  唖然とする華雄に、困ったようにうなる。 「ええい、説明はあとじゃ、あと」  華雄が憮然としながらも頷き、金剛爆斧をふるう。本気のその一撃は、さきほどまで手こずっているように見えていた賊を四人ほどまとめて吹き飛ばした。 「うーむ、お主、話しにきくよりよほど強いの」  こちらも幾人かの武器を砕きつつ、感嘆の言葉を漏らすと、華雄は顔をしかめた。 「どうせ水関で関羽に負けたとかいうやつだろう。私も飽きるほど聞いたぞ」 「まあ、敗軍の将はしかたなかろ……。儂とて、黄蓋は赤壁で負けたおり助けられたが、兵が厠に放置して死んだなどと言われておったわい。じゃが、噂に腐らず己の武を磨くとは、感心なことじゃ」  背後で鬼神と化している張遼を見やる。その勢いはまるで減じず、人無き野を行くがごとく、賊の群れを斬り飛ばしながら彼女たちに近づいてくる。 「張遼とは手合わせしたこともあるが、明らかに強うなっておる。戦がなくなった上でこれほど強くなるとは、若さか……いや、懸けるもの、か」  ふと、腕の中の一刀を見る。彼女は、笑みを浮かべながら、その人をより強くかき抱いた。  目の前にきた賊徒を吹き飛ばすと、それにまきこまれた賊達がドミノのように倒れていき、ちょうど手勢の薄い部分が開けた。そこをすぎれば、もうほとんど人はいない。 「さあ、道が開けたぞ、それ、行けっ」  兵士たちに一声かけて、華雄と共に飛び出す黄蓋。一気呵成に駆け抜けると、華雄はすべるように馬から降り、十文字旗を高々と掲げた。 「北郷一刀ここにあり、文遠、ここまで来ませい!」  その声に張遼の顔が振り向き、瞳が光る。了承の証に、彼女は二度三度と偃月刀をふるって馬を進めた。 「総員、下馬戦闘に備えよ! 張遼どのを迎え入れるように方陣を組むんじゃ。馬は中央に集めておけ!」  黄蓋のほうは兵に指示を与えながら馬から降り、盾を大地に突きたてると、そこに隠れるように一刀の体を座らせる。 「旦那様、しばしお待ちくだされ」  兵の一人に一刀を見ているように命じ、近づいてこようとする絶影を眺める。その馬首にゆれる軽くカールした金の絹糸のような髪を見て、彼女は苦々しげに笑う。 「呉の将であった儂が、魏の兵を率い、あの袁術めを助けようとしておるとはの」  自嘲気味に呟いた言葉は、戦場の喧騒に消えた。 「じゃが、いまやこの身は呉の将にあらず。旦那様が手足。旦那様が矛」  ぐっと鉄鞭を握り、方円を組む兵の間をぬって華雄の横に並んだ。 「きけええい、賊どもよ」  黄蓋の大音声は天も割れよとばかりに響きわたった。それは、その戦場にいるものたちが一瞬とはいえ動きを止めるほどであった。 「我は黄蓋、字は公覆。北郷軍一の矛! ほれ、華雄、お前もあらためて名乗りをあげい」 「ええい、調子が狂う。出陣前のしおらしさはどこへいった。 きけい、我が名は華雄。北郷軍一の太刀。命が惜しくなくばかかってくるがいい!」  二人の名乗りを聞いた途端、霞は驚愕の声をあげずにはいられなかった。 「華雄はともかく、黄蓋やて? 一体どういうこっちゃ」 「ひえええ、成仏してたも!」  美羽に至っては顔を絶影のたてがみに埋めたまま、ぶるぶる震える始末だ。 「せやけど……」  黄蓋と華雄の苛烈な攻撃の数々に気圧されつつある賊の群れをなぎ払い、切り捨て、馬蹄で踏みつぶしながら、霞は十文字の旗に近づいてゆく。 「味方にもわからんほどの混乱は、好都合やなっ」  見慣れた部下たちの姿に安堵する一方で一刀の無事を祈りながら。 「ん……うぅ」  意識が覚醒すると同時に、こめかみの痛みに顔をしかめた。ずきずきとうずくような痛みが、思考が正しく進むのを邪魔する。  なにかが口元に突き出されるのを感じる。唇をわずかに開くと、水が口の中へ注ぎ込まれた。それはぬるく、革袋特有の臭みもあったが、清冽な息吹を俺に与えてくれた。はっきりとしてきた意識をより強固につなぎとめようと、ごくごくと飲み干す。 「んー……」  目を見開くと、水袋を差し出している霞と、心配そうに覗き込む美羽の顔が見えた。 「霞! 美羽!」  がばりと跳ね起きようとして、俺の頭をかかえるようにしていた霞にやんわりと抑えられる。彼女の手でゆっくりと起き上がらせてくれた。 「急に動いたらあかんて」 「あ、ああ……。俺は……」  あたりをみまわすと、いまだ戦闘は続いているようだ。みたところ、俺たちは兵士と馬で二重につくられた環の中心にいる。 「矢があたって気を失っておったのじゃ」  そうか、それでこんなに頭が痛いんだな。そっと痛みの中心に手を触れてみたが、血は多少出たようだがすでにとまっているみたいだ。 「ごめんな、霞たちを助けに来たのに……世話をかけて」 「なに言うてんねん。一刀が兵を連れてきてくれんかったら、うちら大変やったで。まあ、世話いうんやったら、華雄と黄蓋に礼言うんやな」  そう言うと、霞は指を差した。その指の先では、悲鳴と怒号の中で軽々と金剛爆斧をふりまわす華雄と、鉄の棒のようなもので賊どもを吹き飛ばしている祭の姿があった。 「華雄と黄蓋が兵をまとめてくれたからな。うちらも合流できたっちゅうわけや。それにしても黄蓋が生きとったとはな」 「妾はてっきり鬼になって帰って来たのかと思ったのじゃー」 「あはは……美羽たちが出発してから、見つかったんだよ。ただ、祭は昔のこと憶えていないんだけどね」  いまだくらくらする頭をかかえながら言った言葉に、美羽と霞は二人して顔を見あわせた。 「そうなん? さっき、昔より強うなったって言われたで?」 「妾も、生きて再び会うことがあろうとは、と大笑いしながら言われたぞ?」 「え?」  まさか……。俺は祭のほうを見やった。武器を振るい、賊をはね飛ばす祭の姿は、まるで自然の獣が暴れているようで、凶暴さの中になんだか清らかな感じが流れていた。その戦いぶりからだけでは、霞たちの言っていることがどうなのか俺にはわからない。 「まあ、いま考えてもしかたないか……。それにしても、本当に数が多いな。報告だと三〇〇程度ということだったんだけど」 「あー、それなんやけどー……」  霞が両の人指し指をあわせてもじもじとくねる。 「襲ってきたやつら、一人じゃさばききれんなー思て、戦いながらこのあたりの河賊の縄張りにおびきよせたんよ。ほしたら、予想以上に河賊が釣れてな」 「それで、これ、か」  華雄や祭、それに張遼隊の兵士たちがなぎ払ってもなぎ払っても、まだ、賊達は数を減らさない。下手をしたら一〇〇〇人程度いるのかもしれない。  河賊は黄河に巣くう賊で、平和になり河を利用した交易が増えるにしたがって、より活発に動き出したやつらだ。根拠地はあるにはあるが、河という移動手段があるため常にいくつかの根城を渡り歩いていてその動向が掴みにくい。今回はたまたまこの近くの根城に多数の賊が集まっていて、霞と一緒に移動してきた野盗を、討伐の一行かなにかと誤解したのだろう。 「まあ、しょうがないよな」  霞の判断を責めることはできない。実際に乱戦に持ち込めたからこそ、霞と美羽は無事だったのだろうから。そんなことを考えていると、座った俺の膝によじよじと美羽がのぼってきた。そのまま俺の胸に頭を凭れかけてくる。見ると綺麗な金髪の一部が泥でよごれていたので、指で梳いて落としてやる。 「しかし、厄介だな、いくら華雄、祭、霞といるにしても……」 「せやな。負けることはあらへんけど、どうしても時間がかかる。だから、うちはいま休んどるんや……って、そこっ、こんな賊相手に逸るなや! 三人がかりで一人ずつ片つけていけばいいんや」  霞は急に立ち上がると、右手の兵を叱責する。突出しようとしていた兵の一部が彼女の声に応じて隊列に戻っていく。たしかに、休憩をとりつつ、こうして全体を指揮できる人間をおいておくのは効果的だろう。本当は、そこは俺がやらなきゃいけないんだけど。 「ったく……。こんな戦いで怪我するのあほらしいっちゅうねん。基本を素直にやっとけば、勝てる相手なんやから」  霞は座りなおし、無意識にか、怪我をしている腕を逆の手でもむようにしている。 「ついこないだまで、北方の烏丸相手やったから、どうしても殺れる時に殺ってしまわな、というのが染みついてもうてるんやろな。烏丸は、ほんましぶといからなー」 「烏丸っていうと、北の異民族だっけ」 「せや。北っちゅうか、北東? まー、これが馬の扱いはうまいわ、弓はうまいわで大変なんよ。でも、ま、戦い甲斐はある相手やな」  霞は疲れを振り払うように笑みを浮かべた。その笑顔のさわやかさが、嬉しくもあり、痛くもある。 「でもなー、うち、一刀が帰って来たなら、一刀のそばにいたいなー、なんて思ったりなんかして……」  照れくさそうにそう言う霞はとてもかわいくて、ついここが戦場だなどということを忘れそうに……。 「ええい、戦場でいちゃつくな」  そんな俺の浮ついた気分を、華雄の声が現実に引き戻してくれた。 「交代だ、張遼」 「霞でええって、昔からなんで真名呼ばへんの?」 「馴れ合うのは武人として……いや、まあ、考えておこう」  途中でなにか俺をちらっと見て、華雄は言葉を濁した。霞ははいはい、と応えて飛竜偃月刀を手に戦闘の最中につっこんでいく。俺はその背を見送りつつ、無事を祈らずにはいられなかった。  一方、俺のそばに金剛爆斧を抱くようにしてどっかりと座り込んだ華雄は俺の膝の上でごろごろしている美羽を非難がましく見つめると、ふんと鼻を鳴らした。 「全く、大将が緒戦から気を失ってしまうとは、情けない」 「いや、もう面目無い」 「黄蓋に礼を言うとよろしかろう。あいつがいなければ、落馬して死んでいたところだ」 「うん、ちゃんと言っておくよ。それより、華雄こそありがとう。指揮をちゃんとしてくれて」 「それが将の勤めだからな……まあ、いい、私は寝る」  ぶっきらぼうにそう言うと、華雄は座ったまま目をつぶった。あっけにとられている俺の耳に、すぐに寝息が聞こえてくる。 「うわ、本当に寝てる」 「武人は、どこでも寝られる、と言っておったのじゃ。妾も……眠いのじゃ、一刀」  美羽が俺の膝の上でごしごしと目をこすっている。彼女は、ずっと霞と一緒に絶影に乗っていたのだし、疲れるのも当然だろう。 「ああ、寝ておきな。いざとなったら抱えていってやるから」 「たのんだ、の、じゃー……」  そのまま猫のように丸まって眠りにつく美羽。俺はそれをあやすようにしながら、戦況の変化を見守っていた。  賊達は着実に減っているが、こちらも多少は怪我人が出ている。いずれにせよ敵側に勝ち目などないのだが、このままでは消耗戦になる。いい加減あきらめて敵がひいてくれればいいのだが、いまは色々な賊が混じり合っているから、敵側としても引きたくても引けまい。  問題は、こちらが圧倒的少数なことだ。それでも練度、個人の武共に遥かに上回っているから、負ける心配はないにしても、犠牲は避けたいところだ。  俺は空を見上げた。  すでに夕暮れの朱は広がりつつあり、紺色の闇がだんだんと広がってこようとしている。 「華雄?」  声をかけ、肩を搖すって起こそうと手を伸ばすと、触れる前に、はっと体を起こした。 「なんだ?」  問いかける声にも寝ぼけの色は見えない。しゃっきりとした顔で当然のように問いかけられると、さすがに感心してしまう。 「す、すごいな。……あ、いや、違う。兵士たちも交替制にしたらどうかな。これだけ消耗戦になると精神的な負担がきびしいから、できる限り休ませたい」 「ふむ……しかし、人数が少ないからなかなか難しいかもしれん。それに、日が暮れれば、賊はひきあげる可能性もある。……まあ、張遼と相談してくるか。そろそろ黄蓋を休ませてやる頃合いだ」  そう言うと、よっと声をかけて、華雄は武器を担いで悠々と戦闘の中に向かった。雄叫びを上げ、賊共をばったばったとなぎ倒し始める。  それと交代に祭が近づいてくる。体中を返り血や泥で汚しながら、祭は俺を認めると麗らかな笑みを浮かべた。つかつかと近寄ってきて、ざっと音をたてて膝をき、俺に礼をとった。 「ご無事なようでなにより」 「うん、ありがとう。祭のおかげだよ」 「いえ、旦那様を護ると誓うたのですから当然じゃ。それよりも、旦那様、儂は全てを思い出しましたぞ」  その晴れ晴れとした顔を見て、俺は胸に突き刺さるような痛みを感じた。全てを思い出したということは、すなわち祭が黄蓋としての記憶を取り戻したということだ。それは、つまり、黄蓋がいるべき場所に帰るということでもある。 「そう……じゃあ、呉に帰るんだね」  俺の言葉に、祭はしかめ面をしてみせた。 「何をおっしゃいます。儂は旦那様のものじゃ。まさか、いまさら違うとおっしゃるおつもりか?」 「いや、それは、そうだけど……」 「旦那様も、赤壁におられましたじゃろ。儂はあの時、文台様の建てた呉と共に死に申した。いまここにあるは、北郷一刀様に拾われたひとりの女子じゃ……あ、いや、女子と申すには少々歳をくろうておりますか」  あっはっは、と祭は声に出して笑った。俺もそれにつられて笑みをこぼす。 「武将としての前世も思い出しましたでな、それなりにお役に立てると思いますぞ?」  にやりと笑って自分を売り込むような口上を述べる祭は、ふと顔をひきしめると、眠っている袁術をちらりと見やり、声をひそめた。 「一つお聞きしたい、赤壁で我等を打ち破ったのは、華琳殿にあらず、旦那様のお力ではありませなんだか」 「それ、冥琳にも訊かれたよ」  俺は苦笑気味に返すと、少し考えてから言葉を発した。 「そうだね、俺は祭の偽降も連環の計も知っていた。でも……打ち破ったのは、俺たちみんなの力だよ」  実際、いくらわかっていたって、真桜の技術力、桂花たちの手回し、凪たちの洞察力、皆の経験、そして、その全てを統べる華琳がいなければあの戦いを勝つことはできなかったろう。呉の武威、蜀の智略は、いま対している賊共とは根本からして異なるレベルのものなのだから。  言葉を噛みしめるように、祭は頭を垂れる。 「正直、あの折りは、華琳殿の稚児じゃろうと侮っておりました。平にご容赦を」  そのまま、祭はずい、と身を乗り出してきた。ぐ、と手が組まれ、俺に差し出される。 「あらためて臣従の礼を……」 「いや、祭」  俺は差し出された手を両の掌で優しく包み込んだ。 「祭はそんなことしなくても、俺の仲間で、大事な人だ。俺の、祭だ。それじゃ、だめかな?」 「……わかりもうした。儂は、いつまでも旦那様の祭でおりましょう」  掌の中で、組まれていた祭の手がほどかれ、俺の手を握り返してくる。その熱が心地よい。俺たちは手を握ったまま、視線をあわせ、いくつもの思いを交わしあった。そうして、俺たちはお互いに離れるタイミングを失っていた。  だが、祭はついに名残惜しげながらも俺の手から抜け出し、武器を手にとる。 「さて、では、もう一踏ん張りしてきますかな。袁術のようにたぬき寝入りしておるわけにもいきませぬからの」 「え?」  祭の言葉に美羽を見下ろすと、ばつの悪そうな顔で、うー、と唸り声をあげていた。 「なにやらこっ恥ずかしいことをしとるから、起きたと言えなかったのじゃ!」  顔を赤くしながら、ぱっと俺の膝から降りる。俺は立ち上がると、むーむー変な鳴き声をあげている美羽の手を引いて彼女も立ち上がらせた。  そろそろ本当に夕闇が迫っている。闇が落ちても攻勢が途切れなければ、色々決断の時がくるだろう。その時のための力はこれまでの休息で得た。次は俺も踏ん張らねばなるまい。  そんなことを思っていると、祭がばっ、とその顔にしていた目隠しをむしりとった。その見つめる先は、遥か彼方。 「旦那様! 東の方をご覧あれっ。あれは、お味方ぞ!」  兵達にもその声が聞こえたのだろう。わっと歓声があがり、士気が目に見えてあがる。 「旗は、楽、于、李の三つじゃな」  懸命に背伸びした美羽が祭の見つめている方を認めて補足する。俺にもようやく、その方向に土煙が見えた。 「凪たちだっ」  俺の声に、霞が反応した。攻撃の手を休め、大声で怒鳴りながら、兵達の間をまわり始める。 「よっしゃー! お前ら、叫べ、叫べ! 于禁が来んで! ほら、お前、楽進にそのへっぴり腰見られたら、ぶん殴られるだけじゃすまへんぞ! なんやその土盛り、それで馬隠しとるつもりか、李典に笑われんはうちやぞ!」 「お味方だ、お味方だ!」 「于禁将軍ご入来!」 「楽進将軍ご参戦!」 「李典将軍ご到来!」  口々に兵達が叫ぶ。それと共に士気があがり、疲れが吹き飛んだように、兵達の動きのきれがよくなっていく。逆に腰が引けたのは賊達だ。目の前の兵士たちと、彼方から近づきつつある土煙を見比べて、明らかに動揺している。中には武器を投げ捨て逃亡にかかる賊も出てきた。 「深追いはせんでええで! せやけど、歯向かうんやったら容赦はいらん。味方がつっこんで来る前に切り倒したれ!」  霞の檄に、兵士たちはそれまで押さえ込んでいた鬱憤を晴らすように暴れ始めた。軍規的にはよくないが、味方が合流するまではしゃぐぐらいは目をつぶるしかない。祭がやれやれ、といった様子でその兵の間に歩を進める。祭なら兵が調子に乗って暴走する前に止めてくれるだろう。 「んー」  あいかわらず背伸びして美羽がどこかあらぬ方を見ていた。真桜たちが来てるのは東なのに。 「どうした?」 「南方に土煙! 旗が見えん!」  すでに賊の圧力は無いに等しいのか、報告がてら華雄がかけつけてくる。 「あー、なんか不吉なもんがみえるなー」 「うー、あの金髪くるくるは……」  霞と美羽がそろって苦り切った声を出した。金髪のくるくる? 彼女たちほど目のよくない俺には、まだ彼女たちの言うそれは認められない。ただ、土煙の中に、大きな建築物が見えた。 「あれ、櫓?」 「そういや、投石機でぎったんぎったんにした時も似たようなものつくってたような」  その言葉で昔のことを思い出す。そういや、無駄に凝った可動式のものを揃えてたやつがいたなあ。 「……袁紹か?」 「麗羽じゃのう」  親族の美羽が言うのなら間違いないだろう。俺にもようやく櫓の上に立つ姿が見えてきた。あの趣味の悪いきんきらきんの鎧は袁紹以外ないだろうなあ。 「そういえば、あのくるくるは歳をとると増えるのか?」  華雄がまじめくさった顔で訊いた。いや、案外彼女のことだから、本気なのかもしれない。 「そんなわけあるわけがないじゃろ!」 「なんだ、増えないのか」 「ない、と思うぞ。うん、た、たぶん」  まあ、実際は美羽のは七乃さんが巻いているわけで、増えたりはしないんだけどね……たぶん。 「むーねむねむねむーねむね!」  櫓が近づくに連れて、なんだかそんな声が聞こえてくる。見れば、何百人もの屈強な男たちが、上半身裸で櫓を引いている。その筋肉の群れはたしかに迫力で、気づいた賊も怯え始めているようだが、あれに近づくのはちょっと遠慮願いたい。 「おーっほっほっほ! おーっほっほっほ!」  こちらは、袁紹の高笑い。まあ、放っておこう。 「あれ、つっこんでくるかな?」 「せやな。わっかがついとる分、沙和たちよりはようついてまうな。兵をまとめてくるわ」  そう言うと、霞と華雄は兵の指揮に戻っていく。二人の怒号にさらに祭の号令が混じり、兵達が崩れかけ円陣をより緊密に形作っていく。もはや、賊の相手もあちらから仕掛けてきた時だけ。手仕舞の準備だ。 「それにしても、なんだろうな、あれ」 「むーねむねむねむーねむね!」 「おーっほっほっほ! おーっほっほっほ!」  むさい、というとひどい言いようだがそうとしか言えない筋肉集団に、実用性は皆無だろう鎧で着飾った袁紹。高笑いと掛け声のようなものの二重奏で、戦場の空気が変わろうとしていた。 「なんだか、怖いのじゃ」  怯えた美羽が俺の腰にひしとしがみついてくる。そりゃあ、そうだよなあ。戦場の兵士なら馴れているだろうが、ああいうわけのわからないのは俺だって不気味で怖い。 「むーねむねむねむーねむね!」 「おーっほっほっほ! やーっておしまーい!」 「あらほらさっさー、いっくぞー、おっらああああ」 「文ちゃん、気合いれすぎだよー」  ああ、文醜将軍に顔良将軍か。相も変わらずご苦労なことだ。しかし、黄蓋に華雄に張遼、袁紹、袁術、顔良に文醜、さらには楽進、李典、于禁か。兵は少ない──武裝してない筋肉集団はいるが──とはいえこれだけの将に囲まれたら、賊のほうが哀れだよな。  などと感慨にふけられるほど、もはや戦場は混乱の渦の中。俺たち張遼隊と、むねむね騒いでる連中だけが秩序を保っていられる状態だ。あの筋肉集団の秩序がなにかは考えたくないが。 「しっかし、なんだろ、あのむねむねいうのは……」 「あれは、むねむね団。わたしたちの親衛隊……だったもの」 「人和!」  驚いて振り向いた俺に、はにかんだ笑みを返す人和。 「……一刀さん」  だが、俺はその次の瞬間猛然とつっこんでくる柔らかな体に押し倒されていた。 「一刀ぉおおおお」 「かーずと」 「むぎゅう」 「地和! 天和! いったい、どこから!?」 「えー? 兵の人達が入れてくれたよー?」 「いや、そうじゃなくて!」 「それより妾の上からどきゃれ!」  そりゃあ、天和たちは顔も知れてるし、危険もないと判断するだろうから、囲みの中に入れるのはおかしくない。問題は、いったいなんだってこんなところにいるか、だ。ああ、美羽が天和の胸にのっかられてつぶれてる。 「一刀を助けにきてあげたんじゃん、あの櫓だってちーたちのだよ」 「一刀ぉ、一刀、一刀ぉ」 「どーくーのーじゃー」  天和は泣きながら笑っている。地和もぷりぷり怒りつつ、俺に抱きついて離そうとしない。俺だって離したくない。彼女たち、俺にとってかけがえのない歌姫たちに、どれほど逢いたかったろう。  俺たちの下でむぐむぐ言って暴れる美羽も相まって、俺たちはどたんばたんと暴れるようにしながら、笑いあい、抱きしめあい、泣きあった。 「ちなみに、あの可動櫓は、攻城櫓ではなく、わたしたちの可動舞台。大陸中どこでも、大人数を収容可能」  こうして、あそこが開いて、ここが広がって、と身振り手振りで説明する人和。 「おーっほっほっほ!」 「一刀ぉ」 「ちーも抱きなさい、ほら!」 「どくー、みゅぎゅう」 「……誰も聞いていない」  いや、俺は聞いてる。聞いてるぞ! 人和。  しかし、揉みくちゃにされる俺の言葉は、人和には届かなかった。  ちょうどその頃、凪たちの援軍が到着し、戦闘に終止符が打たれたのだった。  皆と共に帰還し、軽く文官に今回の流れを口述した俺が戦の汚れを落とし服を変えていると、謁見の間に呼び出された。  すでにその場には霞、美羽、祭、華雄がそろっている。上座に座るのは当然華琳、その横には秋蘭が控えている。他の面子はそれぞれ忙しいのだろうか。俺は、美羽と華雄にはさまれるような場所に立った。 「揃ったわね。皆、ご苦労だったわね」  ねぎらいの言葉に首肯する面々。桂花あたりなら、この言葉だけで小躍りして喜びそうだが……考えてみると、華琳盲信、という面子ではないな。 「霞、袁術、あなたたちには褒美を送るわ。なにがいいかしら?」 「んー、うちは絶影もらえるんやろ? それで充分やわ。なにせ、積んできた荷物も完全には持って帰れへんかったし」  絶影に積んだ珍味の数々は、一部は賊に切り払われたりして失ってしまったらしい。それでも乾物などは手に入ったのだが。 「いいえ、絶影は長安からの往復への褒美。今回は無駄足でもしかたないと思っていたのを少しでも届けてくれたのはありがたい限りよ。賊を切り抜けたことへの褒美は……そうね、では、霞には酒を送るわ、それでいい?」 「ああ、それはええな! 今度、華琳様がつくってるっちゅう酒も味見させてもらいたいもんやわ」  華琳は酒づくりも研究しているらしく、噂は俺にも届いていた。たしかに華琳のつくる酒なら呑んでみたいよな。 「いずれ、完成したら、ね」 「約束やで!」  ぱっと明るくなる霞の顔。しかし、その顔にはやはり疲れがにじみ出ている。帰り道あの霞が馬の上でこっくこっくりしていたくらいだからな。 「袁術はどうしようかしら? 蜂蜜?」 「んー」  美羽の方はもう限界のようで眼がしぱしぱしている。 「それより、七乃たちのほうが心配なのじゃ、できたら、七乃たちを迎える兵を出してほしいのじゃ」 「安心して、張勲たちには呂布が同行しているはずだし、賊の残りを狩って、長安と洛陽の間を鎮めてくるよう春蘭と季衣を派遣したから」 「呂布に夏侯惇か、それなら安心じゃ」  そう言った途端、美羽の体が傾いて、俺にもたれかかってきた。 「むむ……」  まだ意識はあるようだが、もうだいぶ眠りかけだ。それを見た華琳はしょうがない、という風に笑みを浮かべた。 「霞、袁術を寝かして来てもらえる? あなたもそのまま休んでいいわ」 「あいよー。ほら、美羽、いくで」 「んー」  ひょいっと美羽の小さな体を抱えあげ、霞は謁見の間から立ち去っていく。その姿を微笑んだまま見ていた華琳は、なにか思いついたように頷いた。 「袁術には、今度蜂蜜入りのお菓子でも焼いてあげましょう」 「華琳殿手ずから?」  驚いたのか、祭が声をあげる。 「ええ、料理の腕はそれなりにあるのよ?」  たぶん、驚いているのはその部分ではないのだろうけど。華琳もわかって言ってるのだからたちが悪い。 「一刀たちの番ね」  華雄、祭、俺の三人に向けて、声をかける華琳に俺たちはそろって姿勢をただす。 「まず、一刀。霞を救いに出た行動は評価するわ。でも、内容がまずいわ。秋蘭」 「はっ」  秋蘭は進み出ると、いくつかの文書を手に話しをはじめる。 「北郷の用兵の拙さについては私が指摘させてもらう。これは、霞たちからの報告もあわせて総合的に判断した結果だが、間違っている部分があれば訂正してくれ。 第一点。華雄と黄蓋を連れて出撃したこと。緊急時だったことを考えればいたしかたない。が、洛陽に稟と風、流琉が残っていたことを考慮に入れなければならない。  彼女たち三人を警備兵かなにかを出して探索することをしなかったのはなぜか。間に合わないと判断したにしても後々、兵を連れての合流を依頼すべきだった。これについては季衣も問題だな。 第二点。突入判断がまずい。  張遼隊の突破力に期待するのはいいが、己で鍛えた部隊でもないのに力を過信しすぎている。  さらに自分の居場所も悪い。  突破を期待するなら、鋒矢の先頭から少し後ろ、華雄のいたという場所の後ろに控えているべきだ。後ろに陣取りすぎて、逆に危険を増大している。 第三点、これが最も拙い。  大将が戦闘中に気を失うとは何事か! それによって兵の損耗も変わるのだ。  ……流れ矢は避け得るものではない。だが、第二点で指摘したように、もう少し危険の少ない場所取りというものができたはずだ。自ら混戦の中に入っていけるほど、北郷の武は頼りにできん。自覚しろ」 「言葉もない」  秋蘭が指摘した点はたしかに全て俺のミスだ。特に稟たちを探すよう季衣に頼んでおかなかったのはいくら焦っていたからといって手落ちが過ぎる。 「だが、実質一五〇という少数で一〇〇〇あまりの敵に粘ったのは、評価してやろう。  それからな……北郷、戦果報告は一〇倍にして提出するのが慣例だ。百という小勢ではあるまい。こういう場合一万と言っておくのだ」  実を言うと、その慣例は知っていた。だが、俺はそれに従うのを良しとするには抵抗があったのだ。 「いや、それじゃ、その後の判断とかしにくくない?」 「しかし、慣例で皆がそうしている以上比較が……」  言い募ろうとした秋蘭に、華琳が口を挟んだ。 「いえ、それについては私も苦々しく思っていたの。この際、やめてしまわない? 秋蘭」 「うむぅ……たしかに、このような悪弊、私とて好いているわけではありません。この機に実数を報告するよう改めましょう」  何事か書きつける秋蘭。秋蘭のことだ、まかせておけば、今後は実数での報告が徹底されるだろう。 「さて、秋蘭が指摘した通り、一刀にはまずい点が多々あったけど、これについては今後改善してくれると信じているわ。そんなわけで、霞たちを救った功績と秋蘭のお叱りで帳消し。いいわね?」 「ああ、ありがとう」  きちんと悪いところを指摘してもらえた上におとがめなしなんて本当に感謝するしかない。俺はあらためて秋蘭に頭を下げた。秋蘭が無表情に見えながら、長いつきあいの者にだけはわかる照れくさそうな顔で小さく見えないように手を振る。 「さて、華雄、あなたには張遼と共に私の下で働いてもらおうと思っていたのだけど。曹魏ではなく、一刀に降るのでよいの?」 「張遼と轡をならべるのは望むところではありますが、急なことだったとはいえ、私は選択を間違えたとは思っておりませぬ」  華雄は華琳を真っ向から見据えてそう言った。なんだか俺は胸が熱くなる。でも、実際には俺にしてからが華琳から仕事をもらうのだから、直に仕えた方がいいと思うんだけどな。  華琳は華雄の答えを面白そうに聞いていたが、一つ頷いて見せた。 「そうか。ならば、黄蓋」  華琳と秋蘭は複雑そうに黄蓋を見る。特に弓で射た秋蘭は色々思うところがあるだろう。 「記憶が戻ったそうね?」 「はっ。あの折りの約束通り、華琳殿とお呼びさせていただいております。どうか儂の預けた真名を今こそ」 「よく生き残ったわね、祭」 「あの手応えで生きているとは思わなかったぞ」 「ははっ、夏侯淵殿の矢は見事に肉を突き通し刺さっておったわ。たしかに約束果たしてもろうた。じゃが……猫は九つの命を持つといいますが、儂は二つもっておったようですな。一つ目は文台様の御許にまいりました。二つ目は、旦那様に捧げさせていただきたく」  はあ、と華琳があきらめたようなため息をつく。 「あなたも一刀に仕えるというのね?」 「旦那様に仕えることは、華琳殿の力にもなり、ひいては、この国、さらには呉の民の力となると信じておりまする」  祭と華琳の視線が絡み合い、何事かを交わしあっているような気がした。 「よいでしょう、でも一刀を客将としている身として、一つだけ条件を出させてもらうわ。名前を変えなさい」 「名を?」  意外そうに聞き返す祭。改名か……。風も改名したっていうし、それにどれほどの意味があるのか俺にはいまいちわからないので、口ははさまないでおく。真名を変えろなんてこと言われたら、さすがに祭も嫌がるだろうけど……。 「黄蓋という名は呉の武将として通りすぎているわ。生まれ変わったというならば、新たな名を用いるのが筋でしょう? 別に正体を隠せとは言わない。ただのけじめよ」 「ふむ、ごもっとも。それでは、以後、黄権と名乗りましょう」  あれ、いま、なんかさらっとすごい名前言わなかったか、祭。いや、そりゃたしかに黄権も最終的に魏に仕えてはいるけどさ……。たぶん、祭のことだから、孫権からとっているんだろうけどなあ。策はさすがに使うのに躊躇いがあるだろうし。 「華雄と祭には、一刀を救ってくれた褒美を出すわ」  俺の煩悶なぞかまうことなく、華琳は続ける。 「ありがたいお言葉じゃが、旦那様にお仕えするのが我が務めならば、そのようなものは必要ありません」 「私も北郷様の配下に降りましたれば」  魏の王者はその言葉に優しい笑みを浮かべた。 「では、言い換えるわ。個人的な礼をあげたいの。もらってくれるかしら?」 「それならば……」 「私も押して断るほどではありませんな」  二人は頷いて見せる。 「祭は、赤壁で愛用の武器も焼け落ちたでしょう。弓でよければ……」 「いえ、華琳殿。生まれ変わりましたからには、武具も変えようと思いますのじゃ。鉄鞭なぞ所望できれば」  一瞬だけ、たしかに秋蘭の顔が痛ましげに歪んだのを俺は見逃さなかった。やはり、眼か。間合いの短い武器に変えることの意味を、彼女はなによりも痛感しているはずだ。 「そう、たしか、武具庫に、覇竜鞭とかいうのがあったはず。あとで用意しておくわ。それから、華雄には七星刀を」 「おい、それって……」 「董卓が残していったみたい。この間見つけたのよ」  まあ、もともとは華琳のもの……なのか? この世界では、どうなのだろう。よくわからないけど、董卓の遺臣の華雄が持つのなら、意味もあるだろう。俺は目線で問いかけてくる二人に対して軽く頷いて見せた。 「では、ありがたく」 「ちょうだいいたしましょう」 「では、三人とも、ゆっくり休みなさい。下がっていいわ」  その言葉を合図に、解散となった。  謁見の間を出て、しばらく行くと、視線の先に、黒い髪が揺れていた。 「冥琳」  その名を呟いたのは、俺だったか、それとも祭だったか。 「旦那様、今日はこれにて失礼させていただくことになりますな」 「ああ、ゆっくりしておいで」  祭は俺の言葉を背に、冥琳の立つ場所へと進んで行く。彼女も冥琳も、俺たちがいることなど忘れたかのように一度も振り返ることなく、通路の向こうへ消えて行った。 「さて、疲れたな」 「おい、私はまた監房に戻るのか?」 「あ、しまった」  華雄の問いに、俺は、彼女に部屋をあてがってもらうのを忘れていたのを思い出した。いずれは洛陽の街に邸でももらわねばならないが、将として扱われるのだから、城内に部屋の一つももらってやらないといけなかったのに。 「……しょうがない。俺は執務室で寝るから、今晩だけ俺の部屋で我慢してもらえないかな」 「ん、まあ、いいか……話もある」 「話?」  華雄は俺の問いに重々しく頷いただけで、俺の部屋につくまで、それ以上何ひとつ言葉を吐かなかった。 「酒、呑むか?」 「いや……ああ、いや、すまん、もらおう」  なんだか今日の華雄は珍しく歯切れが悪いな。そう思いながらも、用意してあった二つの杯をならべる。客用の杯も買いたさないといけないなー。 「話って?」 「ん……」  華雄は言葉を探しているようで、口を開きかけては閉じるというのを何度も繰り返していた。俺は、その間に、二杯、三杯と酒をあけてしまう。疲れていると、どうしても進むな。 「俺に仕えるとかそういう関連の話?」 「いや、それはもう終わったろう」 「そっか」  一安心する。俸祿のこととか、頭の痛い部分もあるのだけど……。  俺たちは、しばらく差し向かいで呑み続けていた。酒で口がまわるようになるかはわからないが、ここまできたら一晩つきあったっていい。 「真名とはなんだろうな」  不意に、華雄が呟いた。 「本当の名を呼ばせぬことで、名の持つ力を使われぬようにするという、言い伝えとしての意味はわかる。しかし、それならば字があるではないか。真名をわざわざつくる必要がどこにある? ただの習慣か? しかし……」  そこまで一気に言って、華雄ははっとなにかに気づいたように目を見開き、がくんと顔を傾けた。 「すまん、話をそらしているな。私は」  そらす、といっても本筋がどこにあるか、俺にはよくわからないのだが……。 「俺の世界にはない風習だからな、真名って」 「天とやらか。だが、ここでは、重要な風習だ」  華雄はやけのように酒をあおった。興奮のためなのか、持つ杯が少し震えている。それでも俺はそこに酒を注いだ。 「知ってのとおり、私は張遼の真名を呼ばない。霞という名は許してもらっているにもかかわらず、だ」  ああ、そういえば、今日、戦場でそんな話を聞いたな。 「なぜだい?」 「武人に馴れ合いなど必要ない、そう言っていた。そして、自分でもそう信じていた」  どん、と机を叩く。杯をもった手でそれをやったせいで、酒が思い切りこぼれた。 「だが、違うんだ、私は自分を騙していた」  黙って彼女の言うことを聞く。これは最後まで喋らせてしまった方がいい、とどこかから俺のまだ酒に浸っていない理性が忠告してきた。 「私は、真名を呼ぶのが、怖い」  華雄は顔をあげた。その顔がまるで泣きそうにも見える。 「そして、真名を預けるのが、怖い」  もはや彼女の持つ杯は見るからに震えている。酒の表面がぴちゃりぴちゃりと揺れている。 「裏切られるのが……怖い」  ついにぱりん、と酒杯が割れる。酒と器のかけらが、華雄の手に流れ落ちていく。 「おい、怪我、大丈夫か?」 「私の手は、血塗られている」  涙を流して、酒に濡れた手を見つめる人に、それは、酒だよ、などと言えるわけがあろうか。 「はじめて、真名を預けた人を、私は殺した」  もはやとめどなく流れる涙を隠すこともなく、華雄は独白を続ける。わなわなと震える手を、もう一方の手で無理矢理押さえつけ、それでも震えるのが悔しいのか、彼女はおいおいと声をあげて泣く。 「私は、私は、卑怯者だ!」 「違う」  俺は思わず言っていた。口をはさまずにいようと思ったのにこのざまだ。しかたない、こうなったら突き進むしかない。 「卑怯ってのは、信じるのをあきらめたやつのことだ。華雄は違う。信じようとして、もがいてるじゃないか。そういう人は、臆病かもしれないけど、卑怯じゃあない」 「はは……は……」  彼女の喉から漏れる嗚咽が、笑いに変わる。血を吐くような笑いは、空気を切り裂いて俺に突き刺さるかのように思えた。 「この華雄を! この私を臆病というかっ」 「ああ。臆病だな。結構なことじゃないか。怖さを忘れて強くなれるか? 違うだろ? 大事なのは、怖くても進むことだろ。いや、そこで逃げたっていい。逃走もまた闘争なんだ。卑怯なのは、そこに怖いものなんかなかったと自分を騙し、忘れちまうことだ」  いま正に俺はとてつもなく恐怖していた。武人に向けて、臆病者だなどと言ってのけたのだ。しかも、華雄は間違いなく強い。あの霞と同等なのだ。つまり、俺の首をひねることなど造作もない  だが、同時に華雄はとてつもなく弱い。儚く消え入りそうな女の子なのだ。  だから、俺は怖くても、この場から動いてはいけない。  がたん、と音がした。  華雄が席を立ち、椅子が床に転がった音だ。  滂沱の涙を流しながら俺に近づいてくる華雄。彼女と俺の距離はたったの三歩ほどしかない。  二歩。  一歩。  華雄の力強い腕が俺の腕を掴んだ。 「お願いだ……私を、私を罰してくれ……」  俺にとりすがり、床にくずおれた華雄は小さな声でそう哀願したのだった。  俺には無理だ、そう言おうとした。  しかし、できるだろうか。すがりつき、助けてくれと泣く娘に、俺は神様じゃないんだから罰することなんかできない、と突きつけることが。  だから、俺は彼女の髪を掴むと、そのまま寝室まで引きずった。華雄は半ば放心状態なのか、呻き一つあげるでもなく、なすがままにされている。  その体を寝台に放り投げる。 「脱げ」  一声命じると、のろのろと指が動き、ほとんどつけてないような装備を外していく。さすがに上下の下着だけになると羞恥心が出てきたのか、鈍い動きが、本当にとまっているような速度になる。  俺はなにも言わない。じっと彼女を見つめているだけだ。  どれほどの時が経ったのか、目尻に涙を浮かべつつ、俺の顔を見上げる華雄は、じりじりと自らの下着に手をかけ──一気にはぎ取った。  その顔に朱を刺すのは、羞恥か興奮か、それとも怒り、哀しみか。  つんと尖った形のいい胸に手をのばす。なめらかな肌の感触。ぐっと指に力を入れると、押し返すほどの弾力。さらに力を込め、やわらかにつぶれていく感触を楽しむ。  一度だけ、彼女はいやいやと駄々っ子のような顔つきで首を横に振った。  それが、彼女が最初にして最後に示した唯一の否定の印だった。  だが、俺はそれを無視する。これは彼女の罪──俺がおそらくは一生知り得ないその罪の、罰なのだから。  彼女の釣鐘形の乳房を思う存分こねくりまわし、むしゃぶりつく。固く固く閉じこもった殻を開くように、その体をなで、さすり、もみしだく。 「ふ……くっ」  声が荒らげられれば、その度に指でつねり、爪を立てる。羽毛のように軽いタッチで快感を引き出したあとで、その場所に歯を立てる。 「あ……かっ」  俺は彼女に混沌を与え続ける。  すなわち──音をたてて平手打ちした尻を、ゆっくりと舐めてやる。赤く染まった尻に塗りこめられていく唾。  すなわち──手の甲でゆったりと背をなで、指を一本一本なめしゃぶりつつ、乳房をねじりあげる。  すなわち──腋を舐めあげつつ、首を絞める。絞めながらのキス。手をゆるめては息を吹き込んでやる。  痛みで麻痺しないように。  快楽で我を忘れないように。  それは俺にとっても苦行だった。  何時間、彼女の体をいじり倒したろう。深更にはじまったはずの睦み合い──せめぎ合いが、もはや、朝の光が差し込むほどの。  その間ずっと快感と苦痛を同時に与え続けられた華雄は、すっかり混乱して、まともに息もできていない。 「はひゅっ、かっ……」  それでもすっかり潤みきった彼女の秘所を指で割開くと、びくり、と一度だけ体を震わせたが、彼女はなにも言おうとしなかった。  彼女の中を削り抜くように侵入していくと、さすがにうめき声が漏れた。それとともに血がにじんでくるのがわかる。  やっぱり処女だったか……。少しだけの罪悪感と共に、俺は彼女の中を突く。まだびっちりと俺のものを締めつけて動きにくいことなど構いもせず、ひたすらに彼女の中をかき混ぜる。 「かっ、かずっ」 「華雄……」  俺の名を呼びたいのだろう、華雄をさらに突き上げ、がくがくと揺さぶる。涙を流しながら、彼女は大声をあげた。 「一刀、一刀、一刀ぉおおお」  俺は、彼女の頬をなであげ、軽くついばむようなキスをしながら、彼女の中に存分に精を放った。 「すまなかった」  俺の上に重なるようにしていた華雄の呼吸がようやく落ち着いたあと、彼女は開口一番そう言った。 「主にさせることではなかった」 「そう? 主従ってことじゃなく、俺は、華雄が俺の大事な女の子だと感じたからこそだったんだけど」  その言葉を聞いて、華雄はゆったりと俺の腿のあたりに足をからめてくる。 「ふふ……霞に聞いた通りだな」 「なんて?」 「いい男で悪い男だ、と」  褒められてるのか、けなされてるのかよくわからないな。 「それでは、最期まで責任をとってもらおうか」 「ああ、俺にできる限りは任せてよ」  そう請け合うと、俺の首に顎をのせ、しなやかな猫科の猛獣のように体を丸めた。 「私の真名は──だ」  耳元で囁く華雄の声を脳裏にしっかりと刻みながら、俺は、彼女と共に眠りに落ちた。  そんなこんなを経つつも予定通りに開かれた祝宴で、俺は流琉に頼まれた通り、手巻き寿司を握っていた。通りがかりに具材を指示してもらって巻いてやるのもあるが、いくつかまとめたら他の場所に配置することにもなっているので、巻き続けだ。 「へー、ああ、この形は手早く巻くためもあるのですね。天の国の料理というのは興味深いですね」  ベレー帽と魔女の帽子みたいなのをそれぞれ頭にのせたちびっこ二人が──片方はもう片方の背中に隠れるようにして──俺の手元をじーっと見ては色々と話している。これが伏竜鳳雛だというのだから……。  信じられるか? 開場まではエプロン姿で給仕していたんだ。あの諸葛亮と鳳統が! 「なにか握ろうか?」 「ああ、いえいえ!」  顔を赤くして、わたわたと手を振る孔明ちゃん。鳳統ちゃんはさらに小さくなって必死で孔明ちゃんの背中に隠れようとする。帽子の先があわてぶりを示すようにぴょこぴょこ動くのが可愛らしい。二人ともこの小さい体で大食漢ということもないだろうし、あまり勧めるのも悪いかな。 「じゃあ、俺が居たところの話でもしようか?」 「はわっ、よろしいのですかっ。ひ、雛里ちゃんどうしようっ」 「あうう、天の国のお話し、聞きたい……」 「そうだなー、まず、俺の世界はカラクリがすごく発展していて、たとえば、これそのものじゃないけど、これと似たような料理を、具材さえ用意しておけば自動でつくってくれたり……」  そんなことを話して、はわわっだのあわわっだのいう感嘆詞を引き出していると、聞き慣れた声が近づいてくるのに気づく。 「せやから、鎮西府に入るんはええけど、桃香の許可を得てくれへんとまずいって」 「だから、その許可をえるための元として任官があるほうがさー」 「まあ、西涼に関わりたいいうんはわかるけどなあ」 「やあ、霞、それに馬超将軍」  声をかけると、二つの顔がこちらを向く。霞の顔がぱっと笑みに彩られるのは見ていて本当にうれしいものだ。 「一刀ぉ。こんなとこにおったんかー。孟ちゃんとこにおらんからどうしたんかと思たわー」 「どう、霞。手巻き寿司」 「おー、一刀がつくってくれるんか。そりゃええわ。ほら、翠もどうや? うちは、このたまごとー……」  霞が指定する具材をひょいひょいとつまみながら、馬超将軍に目線で促すと、彼女は何にしていいのか戸惑っているようだったので、俺がチョイスしてつくってやる。 「はい、どうぞ」  俺から受取り、もぐもぐと食べる少女たち。馬超と張遼がならんで手巻き寿司喰ってるところなんて、想像もしてなかったが……。まあ、実際に目の間にいるのは、笑顔が可愛い霞と、ポニーテールを揺らす元気そうな女の子なわけだけど。 「なんのお話をしてらっしゃったんです?」  頬張るのも一段落したところで、孔明ちゃんが尋ねる。俺から見ていても実にタイミングうまいなー、と思うのはやはり孔明というところなんだろうか。 「うわ、朱里に雛里、いたのか」 「あう……」  こくこくと頷く鳳統ちゃん。頷くと帽子についたリボンがひらひら揺れる。 「いやな、うちが今度鎮西将軍になるんよ」  鎮西将軍というと……将軍位の中でもかなり高い位階のはずだ。 「はわわ、それはおめでとうございます。西羌対策ですか?」 「せやな。北方の烏丸相手にしとったけど、今度は羌にテイ(※)や」 「涼州で羌相手にするなら、やっぱりあたし、西涼の錦馬超だろ」  そう言って胸をはる馬超将軍。そういえば、華琳が攻め込むまでは、馬超将軍の母馬騰を中心に羌にあたっていたときいたことがある。 「だから、鎮西府に入れてくれって言ってるんだけどさー」  霞がだめだっていうんだ、と彼女はしょんぼりした口調で言った。 「せやから、だめとは言うてへんて。ただ、桃香の許可をやな」 「それは、まずいかもしれませんね」  それまで腕組みをして考え込んでいた孔明ちゃんが霞の言葉を遮るように呟いた。 「どういうこっちゃ?」 「……あ、すいません。ええとですね、翠さんが鎮西府に入るのは、少々問題があるんです。さきほどおっしゃっていたように、翠さんはじめ馬一族は西涼を根拠地としています。そういう意味では、鎮西府に入り、霞さんの下で西羌にあたるには非常に強い力となるでしょう。しかし、涼州という根拠地に馬一族の棟梁が入れば、それは、すなわち涼州の力を翠さんが糾合すると見られます。そして、翠さんは、現在では蜀の武将と認識されている、ここで懸念されるのは……」  ふと鳳統ちゃんが孔明ちゃんの袖をくいくい、とひいた。それまで立て板に水のごとく話し続けていた孔明ちゃんが言葉を濁す。きょろきょろとまわりをみまわし、喋りすぎた、という風に困った顔になる。 「巴蜀と涼州、二方面からの魏への侵攻」  俺が低い声でそう言うと、孔明ちゃんと鳳統ちゃんが固まり、馬超将軍と霞の顔には驚きの色が広がる。 「それが、赤壁後の蜀の大方針だった、違う?」  孔明の北伐の狙いは、それだった──少なくとも第一次は──というのを本で読んでいた俺にとっては確認でしかないのだが、孔明ちゃんと鳳統ちゃんにとっては驚天動地のことだったらしい。硬直したまま俺をじっと見つめるばかりだ。 「そういうわけだから、馬超さんが鎮西府に入ると、余計な緊張を生みかねないわけだよ」  探るような二対の視線を受け、俺は冷や汗をかきつつそう続ける。 「でもなあ、あたしとしてはやっぱり故郷の仕事をしたいわけで……」 「せやけど、そうなると翠自身の問題と違うて、他人の印象の問題やからなあ……」  馬超将軍がぼやく中、ぼそぼそと俺には聞き取れない声で鳳統ちゃんと孔明ちゃんが何事か話している。その間も視線は俺の一挙手一投足を追っている。こりゃまずいこと言っちゃったなあ。 「なあ、朱里に雛里、どうにかならないか?」 「は、はい?」 「あわわわ」  俺の言葉に気を取られていた二人は、馬超将軍の問いかけに反応できず、おろおろしてる。ここで俺がまたなにか言うと警戒心を強めるだけだな。寿司を巻いてることにしよう。 「だから、あたしが鎮西府で働くのはまずいってのはわかったけど、それって今後ずっとどうにもならないもんなのか?」 「いえ……張遼将軍の運営が続いて、地盤が固まれば問題はないと思います」 「涼州の安寧は魏、蜀共に経済的にも恩恵を受けますから、情勢が安定すれば蜀側から人を派遣しても不自然ではなくなります」 「でも、やっぱり一年か二年は待ってもらうことになると思います」  鳳統ちゃんと孔明ちゃんが順繰りに説明する。 「むー」  それでも馬超将軍は不満顔だ。まあ、しかたないところだろう。そこへ、鳳統ちゃんが孔明ちゃんに相談するように話しかける。 「蒲公英ちゃんに入ってもらって、連絡をとる形にすればいいんじゃないかな、朱里ちゃん」 「ああ、それはありかもね、雛里ちゃん」 「馬岱か? それならうちにとっても好都合やな。馬一族を取り込んだっちゅう形にみせられるやろ」 「蒲公英かー、まあ、しかたないかー」  がっくりと肩を落としつつ、それでもなんとか納得したような馬超は、あらためて俺がつくり置きしておいた寿司を手にとって食べ始めた。 「ふるさと、か」  彼女の話を聞いて、俺は、なんとなく感慨にふける。なんとなく、まだ孔明ちゃんたちの視線が痛いけど、気にしない。 「あー」  事情を知っている霞が、ちょっと気まずそうになんとも言えない声をあげた。 「ん? どうした?」 「いや、俺はもう故郷には帰れないからね。帰るつもりもないけど」 「そうなのか?」  不思議そうな顔。西涼という土地に対して愛着と責任感たっぷりの馬超にはなかなか理解できないことなのだろう。 「うん、強いて言えば、霞や華琳、季衣や流琉、みんながいる場所が俺の故郷かな」 「かーっ、泣かせるこというなあ、一刀」 「お前、変わったやつだなあ」  感心したように言われても、ちょっと困る。 「わたしは、わからないでもないです……」  メイド服のようなひらひらした服を着た少女が横合いから話の環に入ってきた。優しくふわふわした髪の可愛らしい少女だ。印象もふわふわしている。しかし、着てるのは、メイド服そっくりに見えるんだけど、この時代にこんなのありえるのかな。エプロンはあるの確認したんだけど。  それにしても、この娘どこかで見覚えがあるような……。 「おー、月やん。いま、桃香んとこも出てるんやってなあ」 「霞さん、お元気でしたか。はい、いまは詠ちゃんたちといっしょに」  霞の知り合いか。霞……霞と知り合ったとき……。  俺の脳内で過去の記憶と目の前にいる娘の姿がつながる。 「そうだ、この城内で見たんだ。反董卓連合で攻め入った時に。なあ、あの時の娘だろ?」  びくっ、と全員の体が震えた気がした。なんだ、そんなに悪い思い出か? ああ、まあ、霞はその時董卓側だしな……。 「あの後劉備さんのところに行ったんだったよね。もう一人の眼鏡の娘は元気?」 「は、はい、その折りは……」  ぺこり、とお辞儀される。なぜか遠巻きに見守るような風情の他の連中の中で、彼女ははかない笑みを浮かべた。 「董白、と申します」 「これはどうも。俺は北郷一刀。あらためてよろしくね。どう? 手巻き寿司」  そう言って勧めてみると受け取りはしたが、なんだか戸惑っているようだった。ためつすがめつ観察しているようだ。 「これは、むいて食べるのですか?」 「いや、そのままかぶりつけばいいんだよ」 「はい……」  かぷり、と口をつけ、咀嚼する。上品な子だなあ。以前会った時、沙和がお姫様だと言っていたのがよくわかる気がした。姫という意味では、美羽やら色々まわりにいるのだが……。 「おいしい」  はにかむ笑顔も上品だ。こういう消え入りそうなお姫様というのは俺のまわりでは珍しいな。 「あ、そうだ、忘れていました。厨房で人手が足りないので、朱里ちゃんたちを呼んでくるよう言われていたんです」 「はわわ」「あわわ、大変です」 「じゃあ、行きましょう。北郷さん、おいしい食べ物ありがとうございました」  もう一度お辞儀をして、彼女は孔明ちゃんたちを連れて立ち去っていく。ちっちゃな頭が三つそろってぱたぱたと人の群れをぬって進んでいく。 「ええ娘やろ、月っち」 「そうだな」  いつの間にとってきたのか、酒杯を手に言う霞に応える。 「手ぇだしたらあかんで」 「あはは。なんだよ、そんな節操なしじゃないよ」 「どやろなー」  にまにまと笑う霞は本当に愉しそうだ。彼女は酒の瓶を掲げると 「さ、翠も一刀も呑もうや」  と俺たちに酒杯を押しつけてきたのだった。  宴もたけなわ、酒飲みはしっかりと酔い、酒の弱いものは酔い潰される頃合い。  俺は、一人、日の落ちた庭に出ていた。  庭園は位の低い武官文官に解放されて、同じように宴が開かれていたはずだが、重鎮たちの宴と違って常識的な時間に解散となったようだ。まあ、トップ連中は宴そのものが仕事だから明日多少寝坊しても許されるが、官達にはそれは通用しないからな。  残るのは多数の卓と、そのいくつかにぽつぽつと置かれた灯火だけ。  俺は、その合間を風を感じながらそぞろ歩く。 「おや、旦那様?」  どれくらいたったろう。自分でもおぼつかない体を妙に楽しみつつ進めている間に、ふと声がかかる。 「祭?」  目をこらすと、暗く落ちた卓に、祭たちが座っているのが見えた。近づいていくと、華雄に美羽、七乃さんとこのところ俺が預かることになった連中が勢ぞろいしている。 「みんな、なにやってるの?」  卓を見る限り、酒を楽しんでいたのはわかるが……。 「私はもともとああいう場は好きではないからな」 「儂は呉の連中とこの場で話し込むのはふわさしゅうないとおもいましての」 「妾は楽しんでおったのに、麗羽のやつめがうっとうしくての」 「ほんとは、からかう麗羽様からすたこらさっさと逃げてきたんですよー」 「うー、三十六計逃げるに如かずなのじゃ!」  それぞれに理由があって、宴を抜けてきたようだ。華雄はもしかしたら、最初からこちらの宴にいたのかもしれないな。 「旦那様はいかがなされたかな。恋の鞘当てに厭いたのですかな」 「あはは。いや、酔いをさまそうとね。外の空気を吸いにきたんだ」  そういうと、祭は困ったように微笑んだ。 「ふむ。旦那様。いかに祝宴とて、あのような場は魑魅魍魎はびこる政の場でもありますのじゃ。そのような場合に、酔いを見せるのは弱みを見せると同じこと。計算ずくならよろしいが、酔ってしまった、では修行が足りん」 「うん……わかる。……そうだな、今度祭に鍛えてもらおうか」 「儂に? まあ、酒を鍛えるのはよろしいが、儂はそのような飲み方をせんでよい立場じゃからのお。このなかで、旦那様と同じく気をつけねばならぬは袁術くらいのものじゃ」 「なんで妾だけなのじゃー?」  不思議そうに首を傾げる美羽。その前にあるその前の杯からは甘い臭いが漂ってくる。蜂蜜水か? もしかしたら、蜂蜜酒かもしれないな。 「他は武を頼みとするものたちだからだろう。それとも、お主、これより武を鍛えるか? お主の年ならなんとでもなろう。うん、私が鍛えてやってもよいぞ」 「い、いやじゃ。妾は痛いのはやーなのじゃ」 「では、なんとする? もはや名家がどうのと言える状態でもあるまい」 「お、お嬢様はですねー」  七乃さんが口をはさもうとするよりはやく、美羽が手を振り上げて、愉しそうに宣言した。 「妾は……よーほーかになるのじゃ」 「なんだそれは」 「一刀が言っていた職なのじゃ。蜂を育てて蜂蜜をとるのじゃ」 「ほほー。そのような術が天にはありますのか」 「まあ、巣箱設置して蜂に集めてもらうんだけどね」  俺のいた時代じゃ、ベランダでペット感覚で育てている人すらいるくらいだからなあ。この時代でも巣箱とかを工夫すればなんとかできるはずだ。大量生産は難しいけれど。  実際のところ、蜜蝋も含めて、蜂蜜関連はあって悪いものじゃない。 「しかし、袁術では、己で喰うてしまいそうですな」 「美羽様が一番に食べて、残りを売るんですよねー」 「そうじゃ! 袁家印の蜂蜜を売り出すのじゃ」  くりんくりんと頭をふって、どうじゃ! と胸をはる美羽。華雄と祭はそんな彼女を面白そうに眺めていた。 「仲良くやってくれてるみたいだね」 「ん? 儂と袁術たちのことですかの。儂は一度死に申したからの。昔の遺恨など憶えていてもしょうがありはせん。  それに、孫呉の連中が袁術を莫迦だの阿呆だの言うて目の敵にするのは本当にそう思うておるからではのうて、頭を押さえつけられておった鬱憤晴らしにすぎませんのじゃ。いまやそんなことは関係ないというに、一歩ひいて見られぬうちは気づけぬ。厄介なものじゃ」 「私も董卓様のことで袁術には遺恨があるのだが……。まあ、気にしてもしかたあるまい」 「なんで妾ばっかりなのじゃー」  ぶーぶーとぶーたれる美羽。 「そりゃあ、お嬢様が意地悪だからですよぅ?」 「むう、七乃はうるさいのじゃ。……そうじゃ、一刀」  ふと、美羽は自分に不利な話をそらすように俺に向き直った。 「一刀と同じ酔っぱらいじゃったら、そこにもおるぞ」  美羽が指さす先は、近くの草むらだ。昼間なら昼寝に最適な芝草の生え具合だが、いま、そこにいるのは猫の群れだけだ。ひーふーみー、二〇匹近いな。なんであんなに群れているんだろう。 「猫がか?」  まあ、マタタビで酔うってよく聞くけど。 「違うのじゃ! その下敷きになっておるのじゃ」  いらだたしげに髪を振る美羽。 「え?」  目をこらすと確かに誰かいる。  少女のすらりとした足が、猫の集団からかいま見える。 「なんだ、あれ」 「周泰だな」 「へ?」 「明命が猫好きだと聞いて、夏侯淵殿が邸から飼い猫を連れてきてくれたらしいのじゃが、そのころには明命はすっかり年上の諸将に酔い潰されておって、あそこで涼んでいる内に寝入ってしまったのですな。それで、夏侯淵殿が、明命の上に猫を積みはじめた次第」  想像するとなかなかシュールな光景だ。どうせ秋蘭もしこたま酔っていたに違いない。ひょいひょいと猫を積み上げていく秋蘭……かなりかわいい。  それにしても、明命のほうは大丈夫だろうか。この間たまたま街で出会って、風がよく構っている猫たちを紹介してやったら真名を教えてくれたきさくな少女は、猫に埋もれてうーうー小さくうめき声をあげている。いくら猫が大好きでも、これはなあ……。 「大丈夫かな?」 「息は聞こえておりますから大丈夫でしょう。夜風に熱を奪われずにちょうどよろしいかと」 「気をつけてやってくれよ」  猫で圧死、なんてことになったら大変だ。 「さて、じゃあ、俺は会場に戻るよ。酔っぱらい共に探しにこられても厄介だし」  まだ少しふらふらする体に、ふんと一息、一発気合を入れる。 「武運を祈っておこう」 「宴席もまた戦場と心得られよ」 「一刀さーん。料理をちょっともってきてほしいんですけどー」 「お菓子がほしいのじゃ!」  それぞれかかる声に苦笑ともつかない笑顔を見せつつ、俺は、あったかな気持ちで足どりが軽くなるのを感じていた。 (終) ※:テイは氏に下線。邸の左部分。コードの関係で出にくい漢字なのでカタカナとしました。