〜いけいけぼくらの北郷帝〜 第四回 『扉の開く時』  気づくと俺は冥琳を後ろから抱きしめていた。 「一刀殿!?」  冥琳の驚愕の声に我に帰る。 「あっ、ごめん、ついっ」 「つい、ですと?」  怒りでも嫌悪でもなくただ不思議そうに尋ねる声に、俺は思わず心の中を素直に現してしまう。 「あの、なんていうか、小さな子が泣いてるように思えて、つい……その」 「ぷっ」  言った途端、腕の中で冥琳の体が震えて吹き出した。くつくつと声を漏らして笑うその体が緊張を解いて俺にもたれかかってくる。たっぷりの黒髪が肩から胸にかかり、やわらかくゆらぐ。 「無防備に後ろを取られ、腕にからめ捕られるなど一生の不覚ですな。たしかに私はおかしかったようだ」  半ば振り返った横顔にどきりとする。切れ長の瞳がからかうように揺れる様は、とても綺麗だった。腕の中の体は、予想以上に細くて折れそうな気さえする。 「えっと、少しは落ち着いた?」 「このように抱きしめられて、私が落ち着いた方がよいのですかな? 殿方というのは女子をときめかせるほうがお好きと思いましたが?」 「やだな……冥琳くらい魅力的な女性ならそういうことも思っちゃうけど、今は違うよ」  言った途端、彼女の顔がかっと赤くなった。 「……あなたという人は……」  それ以上なにも言わずに、俺たちはしばらくの間そのままでいた。二人の体温が交じり合い、呼吸も同じ調子に整っていく。  物音は一切せず、この世界に俺たち以外は誰一人いない気さえしてくる。 「一刀殿」 「ん」 「……ありがとう」  そう言うと、冥琳は俺の腕の中で体に力を入れてしっかりと立つように重心を動かした。俺もそれに答えて腕を離す。  離れてみると……少々名残惜しい。こんな美人を抱き留めることなんてそうそうないことだ。 「ふふ……」  軽く笑った冥琳が、その時なにを思っていたのかはわからない。でも、もしかしたら彼女も同じように名残を惜しんでくれていたのなら、うれしいと思った。 「このこと、しばしの間は秘密にしておいてほしい」  冥琳は態度を公の場でのものにあらためてそう言った。 「というと?」 「孫策はじめ私以外の呉の将へも黄蓋殿の無事を伝えるのはやめてほしいのだ。少なくとも、三国の会談が全て終了するまで。蜀はもちろん魏の内部でもできる限り伏せてほしいが……まあ、魏の重臣に関しては孟徳殿のご判断に任せるしかあるまい」  正直、魏のメンバーは、宴席の準備でそれどころじゃないと思うけど、そんなことを明かすわけにもいかない。 「理由は、聞かせてもらえる?」 「いいだろう。我が軍の将は祭殿……黄蓋殿に対してはなみなみならぬ恩義を受けている。はっきり言えば、彼女は我々の師であった人なのだ。孫堅様──雪蓮の母の世代から仕えている宿将だからな。そんな彼女が生きていたことは当然喜ばしいが、あのような状態となればどうにかしてやりたいとも思うだろう」 「それはそうだろうね」  俺だって霞や春蘭が記憶喪失なんてことになったら、なんとしてでも解決しようとするだろう。たとえなにもできなくたって、気もそぞろになるに違いない。 「そして、三国会談はいかに友好を深めるためのものとは言え重要案件も話し合われる大事な場だ。雪蓮や穏に、祭殿にかまけてばかりいてもらっては困るのだ」 「ん……でも、それって、余計に冥琳が」 「北郷殿」 「……ごめん。要望は華琳に伝えておく。俺が預かってるから安心して」  そう請け負うと、美周郎の顔が少し曇った。 「……そこも少々問題なのだが」  小さなつぶやきが胸に突き刺さる。 「……やっぱり俺のこと信用できないかな」 「い、いやいやいやいや、違うんだ。一刀殿が信用できないなどということはない。本当だ。誓ってもいい! ただ、その雪蓮が……な」  冥琳のあまりのあわてぶりにこちらのほうが驚く。 「孫策さんが?」  うーん。孫策さん、そんなに俺のこと嫌っているのだろうか。確かに美羽との仲を無理矢理のように仲裁したという印象をもたれてもしかたないとはいえ……。 「一刀殿本人が問題、というわけでもないのだ。あなたの、その……『天の御遣い』というのが、孫家としては、難しい部分があるのだよ」  そう言われてもピンと来ない。まあ、そもそも天の国だとか天界だとか言われがちだけど、俺の理解からするとパラレルワールドだからなあ。あの時手伝ってくれた人──人か、本当に?──は『外史』とか言っていたけど。 「孫家は、孫堅様以来、武だけで国を拓いてきた。だから、実際は袁家の後押しあってこその孫家だなどと言われもするのだが……。孫呉が誇りとするのは、その地に生きる人々を護るべく備えた武だ。それ以外にはなにもなかった。だが、その武は曹魏の武によって覆された。──そのこと自体はいまはもはやしょうがないことと納得している。  しかし、武で曹魏に負けたのみならず、天の後押しまであるのかと、天命を象徴する男まで曹操の下にいるのか、そう思う、思ってしまうのは、ある種しかたないところであろうよ」  冥琳はそこまで言うと、やれやれ、という風に頭をふった。 「一刀殿、誤解しないでほしいのだが、雪蓮は孟徳殿に嫉妬しているわけではない。ましてや、あなたを嫌っているわけではないのだ。ただ、納得できないのだよ。あなたという存在を」 「つまり、問題は、個人としての俺ではなく、天の御遣いと呼ばれる事実、ってわけかな」  こくり、と頷く冥琳。 「うーん、そういわれても……」  俺が好きでそれをやってるわけでもないし、いまは華琳だってそんな噂を流してはいないはずだ。もはや曹孟徳という人物はそんな箔づけを必要としていない。 「だから、一刀殿。できれば、この三国会談の間に、雪蓮とできる限り触れ合ってほしい。『天の御遣い』ではなく、北郷一刀という人を知れば、雪蓮も感じるところがあるはずだからな」 「まあ、仲良くなるのは大歓迎だし、話してみたいとも思ってるから、それはいいよ」 「そうか、よかった」  ほっとしたように笑顔を浮かべる冥琳を見て、俺は、やっぱりこの人早死にしないように気をつけて上げないといけないんじゃないだろうか、と思うのだった。  その後、冥琳は数日のうちに何度も俺たち──つまりは黄蓋さんの下に忍んできた。その度に彼女にとっては珍妙な食事をしている──仕事なのだからしかたないのだが──のを多少不審がっていたようだが、それよりも黄蓋さんと話す方が彼女にとっては重要事項だったようだ。  最初のころの身構えた固さもだんだんととれ、歓談している黄蓋さんたちの光景は微笑ましいものであるはずなのに、なぜかどこか気にかかって、俺にはしっくりこないでいた。  もちろん、冥琳とて昔と今の黄蓋さんの間のギャップで苦しんでいたろうし、黄蓋さんのほうは自分の知らない過去を知ることで大変だろうとは思うのだが、それだけではないなにかがあるようで気になる。 「おい、どうした」  不意にかけられた声に、ここが華雄将軍の監房だったことに気づく。椅子に座れるようになった華雄は、俺の正面で卓についている。もってきた夕食はすでに摂り終えたようだ。  それにしても、この間までは歩き回るのも大変だったのに、すごい回復力だ。 「ああ、ごめん。ちょっと考え事をね」 「ふん、気楽なやつだ。囚人の前だろうが」 「華雄は、俺みたいに弱いやつは力付くで相手にしたりはしないだろ」  ふんっ、と大きく鼻を鳴らして返事が返って来た。 「確かにな、多少は武術もやってるようだが、私が相手をすれば一捻りだろうな」 「ああ、もちろん」  自分が弱いことはよくわかっている。それでも一般の兵卒相手ならなんとか身を守ることはできるが……。華雄はなかばあきれたように尋ねてくる。 「そんなので、よく曹魏の武将をやっていられるな」 「俺も本当にそう思うよ。みんなが支えてくれるからだろうな」 「よほど用兵がうまいのか?」 「いや、そういうのは、桂花──荀ケ達がいるし、張遼将軍もいるし、夏侯淵将軍だってうまい」 「ふむ、だが、必要とされている……か」  華雄は顎に手を当て、じっと俺の顔を見つめてくる。なんだかくすぐったいが俺はその視線を真っ向から受け止めることにした。  華雄の目の力はだんだんと強くなり、ついにじりじりと焼けつくようなプレッシャーを感じるまでになる。武人の目というのは、これほどに力を持つものだろうか。なにもかも見透かされているようにも思えてしまう。 「なにか、あるのだろうな。私にはわからないが」  しばらく考えたあと、己の中で結論づけたのか華雄は独りごちた。そのあっけなさに俺は少々拍子抜けする。 「そ、それでいいの」 「あたりまえだ。私は頭の才で生きているのではないからな。ただ、お前には文遠達が信ずるに足るなにかがあるのだろう。そのことがわかれば充分だ」 「信じる、か」 「そうだ。道は違えたものの、文遠は信じるに足る将だ。その張文遠がお前を信じているのならば、私もお前の才を信じる。だが、それがなにであるかはわからぬ。そういうことだ」  俺が黙っていると、華雄は愉快そうに唇の端をもちあげると言葉を続けた。 「理を弄ぶものは、つい色々考えすぎるのだ。信ずるに理由はない。己が信じられると思えばそれは正しい答えなのだ。もし間違っていたならば、己が砕けるまでよ」  からからと大笑する華雄の声はとても痛快で透き通っていた。 「腕がなまるから、鍛練用の道具をくれ、ねえ」  華雄にそう言われて風にも相談してみたのだが、いまの時点で武器を持つことを許すのはあまりに危険だという結論に至り、俺はどうしようかと悩みつつ部屋への道をたどっていた。確かに、刃のついていない棒一本でも華雄レベルの武将に渡したらえらいことになる。  まだ脚の方は完治していないようだが、俺が見る限り、上半身は普通に動くようだし、鍛えておきたいという彼女の気持ちは理解できる。ダンベルみたいな器具があればいいんだけどなあ……。  あたりはそろそろ宵闇が濃くなりつつある。完全に闇に落ちきるまでに部屋に戻ってしまわないとな。 「ただいまー」  部屋に入ると、灯が一つもついていなかった。闇夜も見通せる季衣と眼が暗がりのほうが楽な黄蓋さんしかいないはずだからしかたないところだ。しかし、返事がないのはおかしい。 「あれー? 季衣ー?」 「旦那様、どうかおしずかに」  ひそめた声が、寝室から聞こえる。その声にしたがって抜き足差し足寝室に向かうと、案の定俺の寝台で眠りこける季衣と、その頭をいとおしそうになでる黄蓋さんの姿があった。 「寝ちゃったのか」  ささやき声で尋ねると、黄蓋さんは軽くうなずき、季衣が寒くならないように寝具を調節して、本人はゆっくりと寝室から部屋に出てきた。 「お帰りなさいませ」  寝室への扉を後ろ手に閉めて、黄蓋さんは深々と礼をする。そんなかしこまる必要はないと言っているのだが、こればかりはしかたないのだろう。 「うん、ただいま。季衣の面倒みてもらうことになっちゃったね」  本当は季衣と俺が黄蓋さんの面倒をみてあげる立場なんだけどな。 「はい、あの娘はほんにいい娘御ですな。儂が落ち込んでいると察してか、元気いっぱい遊んでくだすった。寝顔もほんに可愛らしい。ああいう若者こそまさに国の宝じゃ」 「うん、そうだね。季衣はほんとうにいい娘だよ」  元気いっぱい遊んだのはいつものことだろうけど。いや、案外気が利くところもあるから黄蓋さんの言う通りなのかもしれない。流琉といっしょにいるからなかなかそういう部分は目立たないけど。流琉は流琉でちょっと気をつかいすぎるところもあって心配。 「おお、すみませぬ。灯を用意しておりませなんだ」 「いや、黄蓋さん、大丈夫だよ」  俺の制止を自分の目に気をつかってのことだろうと思ったのだろう、微笑みながら、 「お気遣いありがたくおもいますが、儂にはこれがあります故」  と差し出した黄蓋さんの手にはリボンのようなものがにぎられている。昼の光が辛いと聞いた冥琳が差し入れてくれた、薄布の目隠しだ。白糸で綺麗な刺繍がほどこされた美しい品だが、あまりに高価そうでもある。 「いや、今夜は月が綺麗だ。月明かりを楽しもうよ」  実際に窓からは月の光が入ってきている。現代世界にいたころには信じられなかったほど、月や星の光というのは明るい。もちろん、それでも本を読んだりできるほどではないのだけど。 「旦那様がそうおっしゃるなら」  目隠しを丁寧におりたたみ、木の小箱にわざわざ入れる様を見ると、黄蓋さんも少々もてあましぎみなのかもしれない。 「さあ、座ってよ」  言いながら、俺は隠してあった酒の瓶を取り出す。普段呑むのはともかく、とっておきの酒は隠しておくものだ、と霞に教えてもらったのだ。勝手に呑まれるのを警戒するのはもちろん、雰囲気が出るというのだ。まあ、酒飲みの言うことなので半分くらいに聞いておくべきなのかもしれないが。 「さ、どうぞ」  杯を用意し、二人分をそそごうとすると、黄蓋さんが瓶を横から奪った。 「旦那様、儂がそそぎましょう」 「そう?」  逆らわずに注いでもらうことにする。月明かりの下、影絵のような人影だけがそこで動いている。なんだか幻想的な光景に、俺は心をとらわれていた。 「ありがとう」  そう言って杯をほす。同じように杯を傾けていた黄蓋さんが、呆然としたような顔つきをするのがわかる。 「これは……うまいですな」 「うん。おいしい」  俺の時代の酒に比べると、こちらの酒の醸造や蒸留の仕方は発達しておらず、当然アルコール度数は低い。しかし、それがなんなのだろう。うまいものはうまい、それは間違いないのだ。  まして、酌み交わす相手がいるならば。  俺たちは、しばし無言で酒を注いでは呑み、呑んでは注ぎあった。 「旦那様」 「うん」 「儂は、自分が何者か知りたいと思うておりました」 「うん」 「周瑜殿は、儂を呉の宿将じゃとおっしゃります。なれど、そのようなことがありえましょうや。儂は孫子なぞ一つも知りませぬ。字を読めるのは幸いですが、それ以外に育ちを示すものなぞありません」 「……」 「こんなことを言うておかしいと思われるやもしれませぬが、心が震えぬのです。儂の武勇伝とやらを聞いても、呉の食い物や地勢を聞いても」  ほう、と息を吐き、覚悟をするように、ぐいと大きく杯を傾ける彼女の姿を、俺は一つも逃さぬよう見つめていた。 「ご厄介になり、飯までたっぷり喰わせてもろうておる身でなにをと思われるでしょうが、しかし、儂は儂は……」  つまる言葉を喉に通すように、酒を呑む。俺は、黙って彼女の杯に酒を注ぐ。 「儂はなにを信じればよいのでしょう」  ようやくはきだした言葉に、俺はこう応えるしかなかった。 「俺を、信じるのじゃ、だめかな」  そのあとに続いた沈黙は、否定を意味しているようには思えなかった。杯をおいた彼女の手が膝の上で揃えられ、俺に談判するかのように正対する。 「儂は……」  銀髪が月の澄んだ光にきらきらと輝く。艶のあふれる体が、俺のほうへとゆったりとたおれようとしていた。 「旦那様に拾われた、一人の女であってもいいのではないかと、そう思うておるのです」  俺は、その熱く火照った体を、自ら抱き留めていた。  黄蓋さんの──いや、彼女の肌はいつまでもなでていたくなるようなしっとりとして柔らかな手応えを伝えてきた。  ゆっくりと彼女を抱きかかえ、卓の上に寝かせながら、その衣服を一枚一枚はいでいく。月明かりの下に、薄い褐色の肌が徐々に現れ出でる。 「儂のような老躯では、ご迷惑でありましょうけれど……」 「莫迦なこと言わないで」  首筋に口づけながら囁くと、くすぐったげに身をよじる。その仕種が可愛らしくて、俺はつい何度も繰り返してしまう。 「旦那様……」  細められた目が、濡れたように光る。もっと間近で見たくて、俺は口づけを顔の側へと移動させていく。はあふと息をもらす唇の中で、赤い舌がちろちろと誘うように蠢く。  唇を重ねると、静かに眼が閉じられる。脇腹をなでていた手を止めて、俺は彼女との口づけに集中する。ぷりぷりとした唇が押し返す感触が心地よい。  舌先で唇をつんつんとつつく。ゆっくりと開いた唇の合間に舌を差し入れて、彼女の中に侵入する。 「んぅ……」  歯の裏側をこすりあげると、逃げるように身をよじるのをぎゅっと抱きしめてやる。探るように俺の舌にあててくる彼女の舌が焼けるように熱い。俺はその動きにあわせて舌をからませ、お互いの唾液をお互いにぬりつける。 「ふぅ……ぁ……」  かすかな声がもれるほかは、二人の息の音だけが、部屋の中を支配している。いいや、それだけではない。このどくどくとうるさいのは俺の心臓の音。いや、彼女のそれか? 二人の体はぴったりとくっつきあい、体温が交換されて、もう二度と離れられないように混じり合っているような気さえする。  口の中にわざと泡立てた唾液を流し込むと、彼女は躊躇いもせずに嚥下する。それどころか、もっとくれとねだるように舌を差し入れてくる。  俺は一度唇を放す。少し心配げに、そして寂しげに見つめてくる顔に笑いかけて、横にある酒瓶を傾ける。抱き留めるようにのびてくる腕に絡みつかれながら、再び口づけると、口に含んだ酒を彼女の口腔へと注ぎ込んだ。  驚いたように目を見開いたが、意図を察したのか、彼女はほんの少しだけ苦しそうにしながら口移しの酒を飲み干していく。そのままの勢いで、酒にまみれた舌がねっとりと絡まり、つっつき、ひっぱりあう。歯列の裏をこすり、舌の裏側を舐めあげ、歯茎をいらう様に舌がうごめく。 「はぅう……」  陶酔したような声に体を起こすと、彼女はとろけそうな顔でゆったりと微笑み、こう言ってくれた。 「このような口づけ、想像したこともありませなんだ」  と。  指と舌、唇とこすりつける顎先、手の甲、爪の先まで全てを使って、俺は彼女の肌を味わった。たわわな胸から、たっぷりとした尻から、なめらかな脇腹から、すらりとのびた脚から、一つ一つ感覚を掘り起こしていく。  足と手で尻たぶを割開き、敏感な部分を外気にさらす。 「だん、な、さま……」  けれど、肝心の部分にはけしてふれない。たっぷりと揺れる両の胸の上でぴんととがった鴇色の突起にも、すでにあふれだしそうに蜜が溜まっているのがわかる秘所にも。 「だんな、さま……」  泣きそうな声をあげるほどに追い詰めていく。  くちゅり……ちゅぷ……ぬぷくっ……。  尻を揉むたびにもれる小さな音。耳に残るそのいやらしい音を、俺は楽しんでいる。 「旦那様は意地っ、悪です、な……」 「うん、だって、可愛らしいから」  肩口をほおばる。肌に軽く歯をたてると、体が二度三度と震える。 「この老骨めに、そのようっ、なっ」 「ふふ、おいしいよ」 「旦那様に、くわっ、くうっ、喰われてしまいそうですな」  右の乳房を口全体でくわえこむ。それでも全く足りないほどのボリュームだ。大きくあけた口が埋まっていくようだ。  やわらかく歯を乳首の根元にあて、かるくぶつかるくらいの感じで動かす。そのあとで、槍の穂先のように尖らせた舌先で、乳首全体をつつく。 「んうっ」  びくりと跳ね上がる体を押さえつけ、乳首と乳房をリズミカルに舌と唇で刺激する。蠢きはじめた彼女の腰を、無理矢理のように押さえつける。 「くふっ、くうう。本当に、お食べにっ、なる、おつもりですなっ」 「だって、この体は俺のものだろう?」  言った途端、彼女の体が硬直した。  やばい、調子に乗りすぎた。  俺の頭の中がさっと醒める。だが、それは拒絶ではなく……。 「もう一度、もう一度言うてくだされ!」  肩をつかまれて、がくがくとゆさぶられる。その必死な呼びかけに、俺は、素直に応えるしかなかった。 「お前は俺のものだ」 「あああ……」  彼女の体が揺れ、口からは意味のない声がもれる。  自分が何者か。それがわかるものはほとんどいないだろう。けれど、人はそれを追い求める。そう、どこかに立脚点を求めずにはいられないのだ。彼女の場合は、それが極端に曖昧になって、どうしようもなくなっていて、俺という存在しか頼るものがないのだろう。  だから、こんな睦言であっても、俺のものだと言われることで、自分自身を確認できるのだと、そう思う。  でも、そんな風に冷静に考えたのはあとのこと。  その時の俺は、自分のものだと宣言した女の体を貪ることに夢中だった。 「はあっ、くうう……」  俺が触れるだけで声が漏れる。これまで以上に敏感になった体躯に、俺は猛然と指を襲わせた。興奮が頂点に達したのか、彼女の腕が動き、自らの秘所にかかろうとするのをがっちりと押さえつける。 「だん、な、さま……」 「一刀、って呼んで。俺の国には真名の風習がないから、それが俺のただ一つの名前だから」  言うと同時に、それまで触っていなかった秘所に指を突き入れる。ぷっくりとしたクリトリスに、めくれあがった陰唇に、そしてたっぷりと蜜をたたえた柔らかな肉の隧道に指を踊らせる。 「うふぅううああああああ」 「一刀」  悲鳴のような声をあげる彼女の耳元で執拗に囁く。耳に舌を差し込むと、がくがくと頭が揺れ、銀の光をたたえた長い髪が大きく広がる。 「一刀さまっ、かじゅ、かっ、かずとさまああああ」 「ありがとう」  彼女は強く俺にすがりつくようになり、口からは俺の名を呼ぶ声が途切れることなく続く。空いた手で髪の毛をなでながら、俺はなおもはげしく彼女を攻めた。  溢れ出てくる愛液を陰唇になすりつける小指と人指し指。包皮をむき、露わになったクリトリスをやさしくこすりあげる親指。中指と薬指は熱泥のようにうねくる肉壁に埋め込まれ、こすり、かきまぜ、つつき、熱い蜜をかきだし続けた。  びちゅっ、じゅぶり、ぬぷくっ。  連続した水音を、わざと響かせる。彼女の耳に聞こえるように。俺自身の興奮をたかめるように。  俺自身はもう張りつめて痛いくらいだ。彼女をかきまぜたまま、態勢を変え指を抜く。 「いやぁ……」  小さく吐息のような悲しみの声。だが、それも俺のものを押しつけると甘いうめきに変わる。触れた箇所が熱い。なにもせずとも飲み込まれていきそうだ。 「いくよ」  声が聞こえていたのかどうかはわからない。ただ、俺が入っていくと、彼女は喜悦の声を漏らしながら、中をうごめかせて抱き留めてくれたのだった。  一度彼女の中で精を放ったあとも俺たちはつながっていた。  俺のものはいまでも彼女の中でそこそこ大きいままだが、動かす気にはなれず、彼女の熱を楽しんでいる。彼女も似たようなもので、うっとりとした顔で俺に抱きついたまま、それ以上のことを促そうとはしない。 「一刀様に……」 「ん?」 「一刀様にお渡しする真名がなければいけないのじゃが……」  眉根を寄せて、彼女は困ったように俺の顔を見る。確か、冥琳が彼女の真名を教えていたはずだけれど……。  俺と同じことを考えたのか、彼女は先を続ける。 「周瑜殿は、儂の真名は祭だと教えてくださりました。けれど……一刀様、それは知ったのみです。どうか、旦那様の声で、唇で、儂に再びその名を名付けてくださりませ」  抱きしめる腕に力が込められる。  そんな大事なことを俺にゆだねていいのだろうか、という逡巡が俺を襲う。いや……違う。大事な人を支えることになんの躊躇いがあろうか。記憶を失った彼女にとって、これはきっと生まれ変わりの儀式なのだ。 「君の名は、祭だ」  耳元で囁く。  祭の体がかっと熱くなり、俺とつながった部分の潤いが急に増して、思わず小さくうめき声をあげる。おさまりかけていたものに芯が通っていく。 「祭」  腰を軽く動かして、中をこすりあげると、彼女も反応してくれる。からみついてくる肉の感触がたまらない。 「うう、あああ、一刀様……」 「祭」  何度も何度も名前を呼ぶ。  中を突くごとに、  髪をなでるごとに、  口づけをする度に。 「俺の、祭」  抱き寄せてはげしく突くと、感極まったように声をあげる祭がいとおしい。 「ああっ、一刀様、旦那様」  目の端に涙をためて、彼女は叫ぶ。 「突き殺してくださいませ。一刀様。これまでの儂をこわしてくださりませ」  俺は、その声に応えて、祭の体にむしゃぶりついていった。  差し込む朝の光に目を覚ますと、俺と祭は二人で床に倒れ込むようにして眠っていた。  部屋にはまだ濃密な男女の営みの香りが残っている。寝室で眠っている季衣が起きてきたらなにがあったかすぐに察するだろう。  ……まあ、しかたないよな。季衣だって経験していることなわけだし。とはいさ、さすがに裸ではばつが悪いので服を整える。  しかし、祭の服は俺が着せてもいいものだろうか?  悩んでいると、目を覚ました祭とばっちり目が合う。こういう時、たいていは男の方が照れてしまうものだ。なぜか、女の子たちは照れずに笑顔で応えてくれる。たまに殴ったり蹴ったりするやつもいるけど。  祭はゆったりとした笑みを浮かべてくれた。 「おはようございます」 「おはよう」  ふと気づいて、水瓶から水をくみ、布を濡らして彼女に渡す。祭はそれで手早く体を拭って服を着始めた。 「旦那様、儂に旦那様のお仕事を手伝わせてくださいませ」  着替えながらそう言われた。俺は水を呑んでいたところだったので、ぐいと口をぬぐって彼女に対する。 「んー、俺はかまわないけど、いいの?」 「はい、儂は旦那様のものじゃから」  朝の光の中でそういうことを真っ正面から言われると、余計に照れる。俺は真っ赤になったであろう顔を否が応にも意識せざるをえない。 「う、じゃあ、華琳と相談してみるよ」  それから、俺は思わず笑みを浮かべた。 「なんじゃ、儂の顔なんぞをみてにやにやとなさって」 「いや、さっぱりした顔してるな、と思って」 「はい。なにしろ、いま、この朝生まれ変わったのですからな」  祭はそう言うと、うれしそうに笑った。  華琳に相談してみると、稟のほうから、祭が俺の仕事を手伝うのは問題ない、ただし、二人きりになるのは依然避けるベきであるというお達しがあった。  多少制限は緩和されてこれまでのように季衣や流琉といった武将ではなく、普通の文官がいる場所での作業もよいことになりはしたのだが……冥琳から頼まれたことを考えると、あんまり連れ歩くわけにもいかない。  そんなわけで、今日は華雄の面倒を見るのにつきあってもらうことにした。やはり華雄も女性だし、女性にしか頼めないような身の回りのこともあるだろうからな。着るもののたぐいとか……。  俺たちが部屋に入ると、目の高さに足の裏が見えた。驚いてその先をたどってみると、体を丸めた華雄将軍が天井にへばりついていた。 「なに……やってるの?」 「んー? ああ、お前か。ちょっと待て」  丸まっていた体がじわじわと伸び、彼女の姿がようやく見えてくる。華雄将軍の腕は天井の梁にがっちりとつかまり、その上半身にむけて膝をつけるような形で彼女は体を中空に支えていたようだ。いまやその体は伸びきり、まっすぐにぶら下がる形になっている。 「はっ」  軽く声をかけて腕が離れ、華雄の体が落下する。すとんと垂直に落ちた体は揺れることもなくしっかりと床に立っている。 「はー、大したものですな」  微動だにしない着地姿勢に思わず声をあげる祭。華雄は祭をはじめて認めたのか、胡乱げに眺めている。ぱんぱんっ、と手をはたいて、彼女は寝台に腰掛ける。 「新しい女官か?」 「ああ、俺の仕事を手伝ってもらってるんだ」 「ふむ。しかし、そのような目隠しをしてよく見えるな」  日が高いために祭は冥琳からもらった目隠しをしている。それを見とがめたのか、華雄は顎に手をあてて、何事か考えるようにしている。 「はい。明るい方が見えぬのです」 「ふむ」 「ところで、なにをやってたんだ?」  疑問を口にすると、少々機嫌が悪くなったのか、ふんと鼻をならして 「鍛練だ」  と応えてきた。 「お前にいくら言っても鍛練の道具をくれぬからな。自分で工夫してみた」 「それで梁にぶらさがってたのか……」 「うむ、体をひきあげるのと縮めることで腹に込める力を鍛えようと思ってな。得物をふるうにも芯が通っておるほうがよいに決まっているからな」 「ああ、その話なんだけど、屋内の練兵場を借りられることになったよ。刃物はもたせられないけどね」  ぱあっと顔が明るくなる。本当にこの人はまっすぐでいい。 「おお、そうか。ありがたいな。棒をふるうだけでも充分だ」 「俺は相手にならないだろうし、一応監視しないといけないけど、一人稽古で大丈夫だろう?」 「ん? 相手はその女官でいいではないか」  祭が置いた昼食の盆を手元に寄せながら、華雄が言う。俺はそれにびっくりして面食らってしまう。 「え、それはだめだろう」 「その女、なにかやっているだろう? お前よりよほど強い」  いつも通りがつがつと食事を摂りつつ言う彼女に対して祭は黙ったままだ。 「どれほどの強さかは知らぬが……そも一目でわからぬというのが強い証拠だからな」  祭を見上げる華雄の眼が鈍く光る。俺はその体からにじみ出る気迫に圧倒される。この世界の一流の武人たちのまとう威圧感は、俺のような人間には絶えがたいほどのものだ。 「祭は……」  事情を説明しようとした俺の背を、そっと触る感触。 「やらせてくだされ、旦那様」 「いや、しかし……」 「儂はお役に立ちたいのです。旦那様がこの方のご面倒を見られるというなら、儂はそれをできる限りお手伝いするのが役目」  真剣な声音に、黙らされる。そこまで思い詰めることもないだろう、とは思うのだけれど、祭にとってはそれが自分で選び取ったことなのだろう。 「わかったよ。でも、華雄将軍は音に聞こえた武人だよ。くれぐれも気をつけて」 「私は捕虜だぞ。お前の大事な部下を傷つけるようなことはしないさ」  憮然とした表情の華雄。 「では、お相手つかまつろう、華雄殿。ただし、見ての通り、儂は眼を悪うしておる。真剣勝負は無理じゃぞ」 「ああ、鍛練だ。鍛練」  鍛練じゃなかったのかよ!  祭の目に考慮して窓を閉め切り薄暗くした練兵場で相対する二人の殺気に呑まれながら、俺は心の中で叫んでいた。  かたや白木の棒を構えた華雄。かたや両手に短い木刀のようなものを構える祭。  対してからこの方、動きがあったのは華雄の届かぬとわかっている大きな一振りと、それに微動だにしなかった祭の笑みだけ。  だが、俺は汗をだらだらと流していた。二人の間に渦巻くものにあてられているようで、さっきから体の震えが止まらない。 「お前、名は?」 「知らぬ。旦那様につけていただいた真名は、祭。なれど、昔は黄蓋と呼ばれておったとかいう話しじゃ」 「……ほぉう」  華雄の眼がすっと細まる。江東の虎、江東の小覇王に仕えた宿将黄蓋の名を知らぬわけがない。棒を握る手が力を込めるどころか逆にやんわりと自然体に戻った。 「はぁあああああ」  予備動作の見えない鋭い打ち込みを、祭が刀を交差させて受けとめる。 「はいっ、はいっ、はいいいいっ」  華雄は構わず棒をひき、何度も打ち込んでくる。左右上下、四方から襲ってくる打ち込みを、あるいは受け止め、あるいはいなす。一歩も動かぬ祭のまわりで、華雄は踊るように打ち込み続ける。  数えるのもばからしいくらいの打ち込みを行う華雄と、そのほとんどの衝撃を受け流している祭に感嘆を憶える。さすがに、いくつかは肌をかすったりしているようだけれど……俺には正直目で追うのも一苦労だ。  でも、なんだか……祭は戸惑っているようにも見える。 「お前、手を抜いてるのか?」  後ろに飛びすさり距離をとった華雄が、怒るでもない口調で不思議そうに尋ねる。俺が見て取った祭の戸惑いを彼女も感じ取っていたのだとしたら、なにかがあるのは間違いなかったようだ。 「いや、それが儂にもようわからんのじゃ。体が勝手に動いているようでもあり、そうでないようでもあり」 「なんだそれは」 「なんじゃろうのう。こうして打ち合うておると、なにかが肚のうちよりわき出てくるような心地がするが……」  嘆息する祭を、華雄はじっと見つめていたが、不意にこの場には似つかわしくない自然な微笑みを浮かべた。 「そうだな、言葉にできるものでもあるまいよ」  微笑みは大きくなり、獰猛な笑みがその顔に刻まれる。華雄は体をねじるようにして、棒を右下段に構える。 「本気で行くぞ」  祭は応えない。そのかわり、左手に握っていた木刀を投げ捨て、右手にあった木刀を両手で握りなおした。その切っ先は、まっすぐに華雄の顔にむけられている。  どちらが発したのか判然としない裂帛の気合が練兵場を震わせる。  打ち込みの瞬間は、俺には見て取れなかった。  ただ、屈んだ祭の頭の上を颶風が過ぎ去り、華雄の脇腹をなにかがかすめていったのだけが、わかった。  左に棒を振り上げた華雄と、腕を前に突き出しきった祭は、からみあうようにして動きを止めている。間合いはほぼないに等しい。いま、二人が得物をふり合えば、お互いを巻き添えにして大きな打撃を喰らうだろう。 「ふむ」 「ふん」  息をはく二人。そのまますたすたと別れ、華雄が俺の方をむいて何事か口を開こうとした時、季衣が練兵場へ走り込んできた。 「大変、大変だよ、兄ちゃん」  その後ろには兵士を一人連れている。土埃にあちこちのすれた服。典型的な戦汚れだ。その姿を認めた途端、練兵場の中の空気が変わる。 「どうしたんだ、季衣」 「霞ちゃんが襲われたんだよ。兄ちゃん」 「なんだってっ」  絶句する俺の後ろで、華雄が息を呑むのがわかった。 「詳しいことはこの人が。ほら、兄ちゃんにも話してあげて」  連れの兵に促す季衣。兵士は身をかがめて礼を取ると俺たちに話しはじめる。  彼の話をまとめるとこうだ。  長安での用事が予想よりはやく終わった霞は、合流した部下の中から足のはやい五騎を連れて帰途についた。本隊は今回の会合に参加するために長安にきている武将たちと共に出立予定になっていたらしい。  その帰途、洛陽まであとすこしというあたりで、野盗と見られる三〇〇ほどの手勢に襲われたのだという。さすがに多勢に無勢、しかも霞は腕を怪我していることもあって、連れの五騎を逃がすことしかできなかったようだ。彼はその五人──内二人は道中脱落したらしい。城についたのは三人にすぎない──のうちの一人で、急を知らせるために洛陽に急いだようだ。 「本隊に合流できれば、三〇〇程度……」  悔しげにいう彼を見ながら、俺の頭の中は霞のことでいっぱいだ。どうする。いま出られる部隊は……。 「それと、袁術殿が絶影を気に入られた様子で、帰りも御一緒に……」 「なっ、いまも二人乗りなのか?」 「はい……」  それは、まずい。非常にまずい。霞一人ならば、あの馬の腕と機転で賊ごときは振り切ってどこかに身を隠すこともできる──万全の体調なら一人残らずなぎ倒せる──かもしれないが、美羽を連れているとなるとそれは難しくなる。  それにしても、なぜこの危急の折りに季衣は俺のところにきたんだ? いくら華琳が忙しいからといって……。  背中を厭な汗が流れる。 「季衣、いま、華琳は不在なのか?」 「うん、華琳様と春蘭様、秋蘭様は許昌からの荷を受取に行ってて、桂花は華琳様の代理で支城の見聞に行ってるし、凪ちゃんたちは三人で蜀の人達を出迎えに行ってる。流琉と風ちゃん、稟ちゃんは洛陽にはいるはずなんだけど、街のどこにいるかはわからない」  季衣の言葉に、俺は驚くしかない。 「じゃあ……」 「うん、いま城にいるのはボクと兄ちゃんだけ」  なんてことだ。 「じゃあ、兵は?」 「いま、張遼隊の残りに用意させてる。二五〇人くらいかな」  兵が同意の印に頷く。彼は霞にも信用されている一人だろうから、部隊の情報は間違いないだろう。数は劣るものの正規軍と盗賊の群れでは勝負になるはずもない。あとは、将がしっかり率いればいい。 「ボクが出る?」  いや、それはまずい。華琳の命がない限り、親衛隊は季衣と流琉以外が指揮してはいけないことになっているはずだ。なにかあったとき季衣がいたほうが間違いがない。わざわざ確認を取るのは、季衣自身も出るべきではないとわかっているからだろう。 「俺が出るしかないだろうな」 「でも……」  不安がる季衣。それはそうだろう。俺だって華琳の下にいる重臣の中で一番与しやすい将が誰かと言われたら、俺自身を選ぶ。ましてやいまは俺の指揮下で馴れた連中もおらず、勝手の違う張遼隊を率いざるを得ないのだ。 「そんなに不安か?」 「……一年前の兄ちゃんなら、そんなことないってすぐ言えるんだけど、やっぱり、間が空いてるでしょ? 兄ちゃん自身の能力より、兵がどう思うかっていうのが……。張遼隊の古参は兄ちゃんが霞ちゃんの大事な人だって知ってるけど、この一年に入った人だっているし……」  季衣の言うことにも一理ある。中心にいる将を信じられるかどうかで兵の強さは段違いに変わる。将が平凡な能力でも、その命を忠実に果たす部下がいれば、その部隊は手強い。  逆にいかに名将でも命令に疑問を持つ兵を率いれば、どうしてもタイミングがずれたりして隙を生むものだ。  現状では張遼隊を使うしかなく、ある程度の齟齬は生じざるを得ない。それを埋めるには武名か圧倒的な実力が必要となる。  残念なことに俺にはそのどちらもないときてる。 「しかたない、この際、副将を呉の誰かに頼むか……」  いま、城には呉の名将が勢ぞろいしている。恥を承知で冥琳に頼み込んでみよう。周瑜の名なら納得しない者もいないだろう。 「私が出よう」  その声に俺はとっさに反応できなかった。恐る恐る振り返ってみると、華雄が正面からこちらを睨むようにして見ている。 「いかに危急の時とはいえ、呉の将に魏の兵を率いらせるだと? 馬鹿馬鹿しい。どこぞの軍が侵入したならともかく、賊ごときにそのようなことをすれば、侮られるだけではすまんぞ。私に任せれば問題あるまい」 「でも、華雄、捕虜を使う方が……」  俺の言葉を遮るように、華雄が手を振る。 「私は今をもって北郷一刀様に降る。これでよかろう。聞いたな、許緒よ。お前が証人だ」 「う、うん」 「……いいのか?」  俺は一息ついてからそう尋ねた。まさか華雄が降るとは。しかも、俺に? 「問答している暇なぞないだろう。私はいまや北郷様の将だ。なにを躊躇う?」  それに、と彼女は付け加えた。 「おそらく、張遼を襲っているのは、袁術たちが集めた賊の群れの生き残りだろう。元部下の阿呆どもの不始末はつけねばなるまい」  華雄と見つめ合う。短いつきあいだが、彼女が嘘をつくとは思えない。  以前、彼女の口から聞いた言葉が思い出される。 『己が信じられると思えばそれは正しい答えなのだ』  そうだ、俺は彼女を信じている。ならば、それが正しいに違いない。 「よし。わかった。華雄、兵の準備を頼む」 「応っ。許緒、厩に案内してくれ」 「兄ちゃん?」 「うん、季衣、頼む」  一応確認してくる季衣を安心させるように頷いてやる。二人は張遼隊の生き残りの兵士を連れて消えていった。さて、俺も準備をしなければ。 「旦那様」 「あ、祭。祭は留守を……」 「儂も、連れていってくだされ」  彼女の口から出た意外な言葉に、俺はぐうと変な声をあげてしまう。彼女の柔らかな手が俺の手をとり、優しく包み込むようにする。 「旦那様の盾となるくらいはこの老骨にもできましょう」 「……」  否定の言葉を出そうとして、けれど手から伝わる体温と──かすかに感じる小さな震えにどうしても反論できず、ぱあくぱくと陸に打ち上げられた魚のように何度も口を開いては閉じる。  ついに、俺はすべての言葉を飲み込んで、新たな言葉をつむいだ。 「わかった、でも、約束だ。死なないでくれ」 「はい。約束しましょう。旦那様のお許しなくば儂は死にませぬ」                         いけいけぼくらの北郷帝第四回(終)