〜いけいけぼくらの北郷帝 第三回〜 カレー・コロッケ・ハンバーグ 「糧食が足りない?」  玉座の間に集められた俺たちの前で深刻そうに発表した華琳の言葉に驚いて声をあげた途端、桂花の冷たい視線が飛んでくる。 「あんたどこまで間抜けなの。食べるものくらいあるわよ。ただ、三国会談の宴席に出せるものが足りていないの。そんじょそこらの食材じゃ、華琳様のお顔に泥をぬることになるでしょ」  ああ、そういうことか。あれ、でも三国の会談は何カ月も前に日時を設定されていて、各国の幹部の集まり具合もそれにあわせて調整されているはずだ。なぜ、それを十日前という今頃になって……。実際に、もう孫策たちはついてしまっていて、あとは蜀の一行を待つだけだというのに。 「……なんで?」 「あんたのせいよっ」  ええっ、俺のせいですか。いくら桂花が俺を敵視してても、それはさすがに……。 「いいえ、お兄さんの責任ですよー」 「ええ、一刀殿の引き起こしたことです」  えええっ、三軍師そろって責められるの?  さすがに意味がわからなくておろおろしていると、霞と秋蘭が口を開く。 「一刀が帰ってきてからこっち、宴会続きやったからなあ……」 「うむ。北郷の帰還を祝うのに、惜しみなく使いすぎたな」  ああ、そういうことですか。  それなら、まあ、俺のせいと言われても納得する。 「すいません、兄様が帰って来たとなったら、やっぱりいいものを食べてほしくって……」 「制限なく使えと命じたのは私よ。流琉のせいではないわ」  縮こまる流琉と、それを慰める華琳。とはいえ、華琳も今日は少々困惑気味のようだった。おそらく山海の珍味を取り揃えていたのだろう。正直、帰って来られた喜びのほうが大きくって、喰ったものがそんな大層なものだったなんて思いも寄らなかったのだが。 「しかし、酒のほうはどうなのだ?」  春蘭が流琉に尋ねる。宴席関連の責任者は流琉なんだろうな、やっぱり。いや、春蘭は酒飲むのはちょっとまずいんじゃ……。 「お酒は、ほとんど予定通りです。今回はみなさま秘蔵のお酒を持ち寄られたようで、その、酒蔵からはあまり……」 「あー、まあ、酒飲みってのはそんなもんかもなあ。うちもとっとき中のとっとき出した口や」  ああ、霞がもってきたあれはうまかったなあ。そこまで強くはなく、なんだか幸せになってくるようなまろやかさの……。俺はその味を思い出して、つい生唾を飲む。 「まあ、それは裏返せば、最高の酒は国の酒蔵にも入らないということなのだけれどね」 「あとは、菓子等、日持ちがしないものも搬入がこれからですから大丈夫です」 「ということは、酒飲みと甘党は大丈夫ってことですねー」 「しかし、華琳様のような食い道楽の方々相手なら、流琉の料理の腕で充分な気もしますが」 「そうは言っても、礼儀というものがあるでしょう」  そんな風に話は続いていく。要は、酒や菓子、普通の料理以外の最高級食材をどう手に入れるかという話にいきつくわけだ。 「そんなわけで、どうしたらいいか意見があるものはいる?」  まずは、稟が眼鏡をあげるいつもの仕種で少し前に進み出る。 「洛陽にない素材ても、長安や許昌をあたってみるのはどうでしょうか」 「十日間で間に合うか? わたしでもきびしいぞ」  こう言ったのは春蘭。彼女がそう言うんなら、よほどのものでなければ無理だろう。 「長安に関しては、神速の張遼将軍の出番でしょう。許昌・陳留に関しては旧領ということもあり、道もよく整備されておりますし、華琳様及び両夏侯の将軍の伝を使っていただければなんとかなるでしょう。他の大都市はとても間に合いません」 「そうね、この際多少無駄になるのは覚悟でやる価値はあるかもね」 「長安まで往復するんはええけど、うち、食材の見分けなんか自信ないで。そんなええもん、喰べたこともそうそうあらへんし……」  霞はちょっともじもじしつつ声をあげる。 「そうねぇ……目利き……流琉は、こちらにいてもらわないといけないし……。私は許昌のほうがある。ああ、そうだ、一刀」  不意に声をかけられて、びっくりする。俺も目利きはできないぞ? 「心配しないでもあなたに行けとは言わないわよ。袁術を借りたいの」 「美羽を? あー、あいついいもの喰ってるからなあ」  美羽は城で出る料理ですらたまに文句を言うくらいの美食家だ。多少お子さま味覚っぽいところも……。それは蜂蜜水を呑ませておけば機嫌がなおるという便利さも内包しているわけで。 「そうよ、あれは腐って名家の出。珍しいものも見知ってるし、あの軽さなら、前に乗せても走れるでしょう」 「んー、暴れられたらきついで……うち、まだ怪我しとるしなあ」  まだ包帯のとれない腕をかばうようにして言う。 「張遼隊を同時に出すから、帰りは袁術はそちらに預けて、霞は揃えられたものだけ持って帰って来てもらえばいいわ」 「まあ、単騎駈けなら間に合うやろな」  霞と華琳の視線が俺の方に向かう。これは、袁術を説得しろ、ってことだな。かなりの強行軍をさせるのはかわいそうだが、これも仕事だと思ってもらおう。 「ん、わかった、美羽と七乃さんを説得するのはまかせて」 「それと」俺の言葉を聞いて、華琳は霞に向き直る。「霞には絶影を与えるわ。今回の任務だけではなく、あなたのものにしていいから」 「ほ、ほんまか? よっしゃー、絶影で単騎駈けなら間違いないわ」  絶影といえば、俺でも知ってる曹操の名馬だ。なんでも、走れば影を落とさないほどはやいことから名付けられたとか。それほどの馬を与えられた霞はほんとうれしそうだ。うん、これは、なんとしてでも美羽にきちんと言いつけないとな。 「さて、他の都市をあたるのはいいとして、これでも確実じゃないわ。なにか、他に案はない?」  そうは言われても、なかなか名案などすぐに思いつくものでもない。軍事や政治に関してはそれこそ大陸にならぶもののない面々なのだが、ことは料理なのだ。まあ、これも外交の一部だから、政治ではあるんだけれど……。  そんな沈黙が続く中で、季衣が元気よく手をあげた。 「はい、華琳様。珍しいものっていうのなら、兄ちゃんの出番じゃないかなー?」 「一刀の?」 「うん、兄ちゃんの知ってる天の国の料理なら、呉や蜀の人は誰も知らないでしょ? だから、いまある食材でつくれる兄ちゃんの国の料理を流琉につくってもらえばいいんじゃないかな」 「どう? いける? 一刀」 「十……いや、五種類くらいなら……なんとかなる、かな」  帰ってから、俺は、現代のことをかなり勉強しなおした。普段側にあったり、食べたり飲んだりしてるものがどうやってできあがっているのか、どうやってつくるのか、説明できる程度には。霞のために、酒の作り方も勉強したしな。 「わかったわ、十品。それでいいわ」  なんか、大きなほうの数字に訂正されてるんですけど……まあ、しょうがないか。それだけ期待されてると思おう。 「よく思いついたわね、季衣」 「ありがとうございます」  おほめの言葉をもらってうれしそうな季衣。春蘭がさらにその季衣の頭をなでてやる。 「えらいぞ、季衣」 「へへー」 「他にはない? ……そう。じゃあ、とにかくこれでいきましょう。なにか思いついたものは、すぐに流琉か私に言うこと。それじゃ、秋蘭と秋蘭は私といっしょに旧領に手をつける。桂花、その間のことはあなたにまかせるわ。適当に分担して」 「わかりました、華琳様」 「流琉は手に入れたいものを書き出して、その後は一刀から天の料理の話を聞いて。霞は隊の用意。流琉から書付をもらって、長安に向かいなさい。一刀は袁術を説得して、霞の下へやりなさい。いいわね」 「おう」 「了解や」 「御意」  各員に指示を下す華琳。それぞれに答えた俺たちは、なすべきことをなそうと散り始めた。  内容が料理の食材探しじゃ、ちょっと緊張感に欠ける気もするけどな……。  意外なことに手こずったのは、美羽よりも七乃さんのほうだった。 「お嬢さまと離れるなんていやですぅ〜」  ぷりぷりと怒って首をふる七乃さん。まあ、可愛らしいというかなんというか。これでも一応は名のしれた将軍なんだよなあ。 「離れるったって、すぐおいかけるんだから……。霞が引き離すだろうけど、さほど時間差はできないって」 「張遼将軍に追いつけるわけないじゃないですかー」  いや、だから、長安で追いつけるんだけど。 「しかたなかろ、七乃。一刀がこんなに頼んでおるのじゃし、長安に久しぶりに行ってみるのも悪ぅなかろー。そうじゃ、一刀、もちろん、帰って来たら蜂蜜水をたんまりくれるのじゃろな?」 「うん、それくらいはね」 「でも、お嬢様、張遼将軍ですよ。こわーいんですよ」  その脅し文句に美羽は少し考えるようにうなってから、つっかえつっかえ言葉を紡ぎ出した。 「実を言うとの、七乃。この間、七乃が切りかかられてより、妾は孫策も怖うのうなったのじゃ」  意外な言葉に、七乃さんも俺も黙ってしまう。 「恐ろしいのは……七乃がいなくなることじゃ」  ほんにあの時は、七乃が切られてしまったと恐ろしかったのじゃ、と呟く美羽に、七乃さんは感動しているのか、わなわなと震えている。なんだかじんと心にくる。 「もちろん、孫策は恐ろしい。魏の城内というに剣を抜くなど猛獣のごとき所業。じゃが、獣は避ければよいのじゃー。そうじゃの、七乃といっしょに逃げた山中の蜂のようなもの。巣に近づかねば寄っても来るまい。  翻って、曹操や張遼は内の獣を飼い馴らしておる。あやつらはよほどのことがなければ、余人を害するようなことはせん」  美羽は、そう言って、七乃に抱きつく。七乃さんはとてもうれしそうに、けれど、どこか複雑な顔でそれを抱きしめ返していた。 「じゃからの、七乃、安心せい」  その言葉に、俺もすっかり安心していた。 「兄様、さっきの『ころっけ』とかいうお料理ですけど……」 「ああ、それなんだけど、よく考えると、じゃがいもがないんだよな」 「いも、ですか? 芋ならありますよ?」 「いや、それがちょっと違うんだよなあ。味はともかく、同じ食感が出せるかどうかが……」  そんなわけで美羽を乗せた霞と、それを追って出発した七乃を見送った後、俺と流琉は二人で馬をならべて日が暮れかけた郊外の道を帰っていた。さすがに実際に絶影にのせられると勝手が違ってか、美羽はほんの少々ぐずっていたが……。霞も面倒見悪い方でもないし心配はしていない。  道のまわりは屯田の畑が広がっているが、もうこの時間に畑に影はない。地平線まで茫々と続く風景を見渡していると、たしかに俺は帰って来たのだと感じる。元の世界ではありえない広さだ。 「ん?」 「兄様?」  畑の一つに、影があった。案山子などではない、動いている人影だ。 「いや、あそこに人が……監督官とかでもなさそうな……」 「なんだか耕してるようですね。でも、もう暗くなるのにおかしいですね」  泥棒というわけでもなかろう。いまは収穫の時期ではないし……と悩みつつ、俺たちは畦道に馬を乗り入れ、その影に近づいていった。リズムよく振り上げられ、降ろされる鍬を見ると畑を耕してるようにしか見えないが、この時間にそれをする理由がわからない。  シルエットからすると、どうやら女性のようで、その手に握る鍬は力強く土を掘り起こしている。 「おーい、そこの人ー」  声をかけると、はっと顔をあげるものの影になって顔はわからない。彼女は、俺たちを認めると鍬を投げ捨て、がばと畑に平伏した。 「ああ、いやいや、そんなかしこまらなくて……」  あわてて馬を降りようとすると、流琉が小さく、けれど鋭い声で俺を制した。 「兄様。だめです」 「え、でも……」 「兄様がおっしゃりたいことはわかります。でも、兄様もわたしも将なんです。そういった振る舞いはかえってあの人を戸惑わせたり怖がらせたりすることになります」  だから、落ち着いてください、と流琉は俺の離した手綱を取りながら言った。馬を止め、二人で畦に立つ。平伏しつつも目でこちらを追っている雰囲気の女性を刺激しないようゆっくりと。 「ん……ありがとな、流琉」  礼を言うと、照れてるのか空の向こうの夕焼けと同じくらい真っ赤になる流琉。今日はわたしの護衛の番だし……とかごにょごにょ言ったあとに、顔をひきしめて畑で平伏し続ける女性に声をかけた。 「そこのお人、わたしたちは夕暮れも深いというに畑に人があったので近づいただけ、そのように警戒めさるな」 「はっ。申し訳ござりませぬ」  なかなか張りのある声が帰ってくる。礼を示してはいても萎縮しているわけではなさそうだ。それにしても、この声はどこかで聞いたようなそうでないような……。 「ええと、なんで、こんな時間に畑を耕してたのかな」 「はっ。このわたくし、以前怪我をいたしまして、昼の光がまぶしうてなりませぬ。その反動か夜目は効きます故、このような時間に仕事をさせていただいておるのです」 「そうなんだ、悪いことしたな」  そこで言葉を切り、俺は流琉にむけて小声で話す。 「でも、女性が一人というのは治安の面でもちょとまずいよな。流琉、どうにかできないかな」 「そうですね、ここの監督官に話して、洛陽の中での仕事に割り振ってもらうのもいいかもしれません。夜番もありますし」 「うん、そうだね、ああ、そこの人、もう顔をあげてくれないかな。事情はわかったからさ」  そう言っても、なかなか顔をあげず、ようやくおずおずとあげた顔に、安心させるために笑顔をむけようとして……俺は、いや、俺たちは固まらずにいられなかった。  夕闇で見えにくくとも、額に大きく疵痕があっても、その顔は紛れもなく……。 「こ……黄蓋?」  俺と流琉の声が期せずして唱和した。 「旦那様がたは、儂の事をご存じかっ?」 「なにをするつもりかっ」  鬼気せまる表情でにじりよってくる黄蓋に、流琉が俺を護るように立ちふさがる。 「教えて下され、昔の儂は一体いかなる人間じゃったかを!」  ばっと跳ね上がるようにして起き上がり、流琉の肩に両手をかけようとしたところで、逆に腕を捕まれ力任せに土の上につぶされる黄蓋。 「教えてくだされ、教えてくだされ!」  涙を流さんばかりに懇願の声をもらす黄蓋の姿は、呉の歴戦の将とはとても思えないものだった。しかし、あれは、間違いなく黄蓋だ。あの時、そう、赤壁で秋蘭に討たれたはずの……。 「流琉、やめるんだ!」 「でも、兄様」  それでも流琉は少し力を弱めてくれたのか、土の上でぐちゃぐちゃになった女性は抵抗して暴れるのをやめ、ただ流琉にすがりつくような姿勢になった。 「あなたも落ち着いて。話をしたいならいくらでもするから、まずは暴れないと約束してくれないかな」 「はい、旦那様。もう暴れませぬ。ですから、どうか儂の事を教えて下され。どうか、どうか……」  その後、騒ぎをききつけたのかあらわれた監督官から黄蓋──らしき女性の身柄を引き受け、洛陽へ先に遣いをやってもらったりしてから、俺たちは、再び都城への帰途についたのだった。 「あの黄蓋が生きていたですって?」  華琳の執務室には、俺と華琳、それに風と稟の四人だけがいた。桂花は忙しくしているらしい。まあ、華琳が食材調達に注力している分しょうがないのだろうな。 「少なくとも俺と流琉は黄蓋だと見たよ」 「というと、確証はないのですか? 他人の空似ということもありえると?」  稟はそう言っていながら自分でもあまりその可能性はないと思っているらしく、あくまで念のためという雰囲気で訊いてきた。  おそらく、彼女たちの頭脳の中では、俺が見つけてきた女性が黄蓋ではないという可能性よりも、死んだはずの黄蓋であるとしたら、いま洛陽にあらわれるのはなにが目的なのか、ということに意識が移ってるのだろう。 「ああ、これもおそらくだけど、彼女、記憶を無くしてる。額にも疵があったし」  俺は、自分の頭のあたりを指さして疵の大きさを説明する。 「記憶をなくしていたとしたら、戦後、呉に戻らなかった理由はつきますねー。とはいえ、いきなり見つかるというのも……」  そこまで言って、風はなにか気づいたかのように俺の顔をじっと見た。え、なに? 「くー」  って寢るのかよっ。 「……おぉっ」  思わずつっこみを入れると、いつもの通り目を覚ます。なんだかこれも帰って来たという気にさせる一つだなあ。 「いやあ、風は見つけたのがお兄さんというのはわからなくもないなあと思いましてね」 「そうね、一刀だものね」 「一刀殿ですからね」  うんうん、と頷く一同。いや、俺のせいなの? 「それはともかく、呉がしかけた策謀という線はありませんか」 「どうですかねー。もちろん、色々やりようはありますが、苦肉の策で魏に疑降させた黄蓋さんをもう一度策につかうというのは、ちょっとー」 「しかし、だからこそ効果があると考えたかもしれません。取引材料にはなりえます」 「いえいえー、稟ちゃん、心情的な問題ですよー。孫呉のみなさんはあれで情に篤すぎるところがありますから。周瑜さんや陸遜さんが苦渋の決断を下しても、それを他のひとたちが支持してくれないと大変ですー」 「それはわかります……諸葛亮の手というのは?」 「記憶を無くしてるという前提でですが、朱里ちゃんなら外交関係をこじれさせるのに魏に放り込むくらいはやりかねませんねー。ただ、そうなるとどこで黄蓋さんを見つけたのか、という疑問がやはり生じますねー」 「それに、そもそも確実性が薄い……か。他に生かしようがあるものをわざわざ使うまでもないですからね」  軍師の二人の議論は続く。とても口がはさめない俺は会話を聞いているしかない。この二人の会話は、テンポがよくて聞いていて気持ちいいのだが、たいていの場合内容が物騒なのが難点だろう。 「いずれにせよ、本人の話を聞いてみないといけないわね。一刀、彼女はいまどうしてるの?」 「流琉と季衣が、湯浴みさせてるはずだよ」  泥で衣服がひどいことになっていたのもあるが、武器をもっていないか等調べるのにちょうどいいのだそうな。もちろん、俺はその場にいられるはずもなくこうして報告にきてるわけだ。  しかし、湯浴みとなるとあの胸が出るのか。あの胸はすごいよな、呉のメンバーは大きい人が多いけどその中でもかなりなものだ。それに比べると魏は比較的……。 「一刀」  ぎゅん、と意識が収束する。首になにかがあたってる感触。か、華琳さん、なんだかこれ、冷たくて痛そうなんですけど……。 「いま、なにか失礼なこと考えなかったかしら」 「い、いやいや。なんのことかなー」 「桂花ちゃんがいなくてよかったですねえ、お兄さん」  言いつつも風の目が冷たい。いや、稟も含めてみなさんすごい目で睨んでいらっしゃいますね。 「ま、いいわ。一刀、黄蓋のことはしばしあなたに任せるわ。呉の人間に知らせるかどうかは、話を一通り聞いたあとで検討する事とする」 「ああ、わかった」 「ただし」  刃を下げて、華琳は強い瞳で俺を見つめた。 「黄蓋と会うときは、一対一は避ける事。また、黄蓋を部屋に下げる時も誰かを監視におくこと。そうね……、しばらくは私は手配なんかで外に出られないし、季衣を貸すからずっと側においておきなさい。どうせ流琉は料理のことであなたのところに入り浸りになるだろうし、ちょうどいいわ」 「念には念を入れておくべきですね」 「そこまで心配することはないと思うけど……まあ、話を聞いてみるよ」  二人の言を受けて、俺は首肯する。その後しばし雑談をしていると、扉の向こうから声が聞こえてきた。 「華琳様、流琉です。よろしいでしょうか」 「お入りなさい、流琉」  華琳の応えに応じて、流琉が入ってきた。黄蓋さんといっしょに湯をあびていたのか、湿った髪と赤くなった頬がかわいらしい。 「兄様からすでにお聞きと思いますが、黄蓋と思われる武将といっしょに湯に入ってきました。あれは……たしかに武将の体だと思います」 「そう。流琉がそう見るならほぼ確実ね」 「はい。それと、胸に大きな疵痕があります。おそらく秋蘭様の矢を受けた時のものじゃないでしょうか。他にもそれと同時期以降に負ったであろう疵痕や火傷痕がありましたから、たぶん、船が焼け落ちたおりに……」  流琉の報告を受けて、軍師たちは再び活発に議論を交わし始める。それを横目に聞きつつ、華琳は俺にむけて言う。 「一刀。黄蓋に対しては素直に応対しなさい。隠し事をしても誰にも益はないわ」 「ん? まあ、俺にはそれくらいしかできないからなあ」  その言葉に、華琳はふっと笑みを浮かべた。なんとも透明で複雑な笑みだった。こういう顔を浮かべるくせに、中身はとてもさびしがり屋で甘えん坊だったりするあたり、曹孟徳という人間は底が知れないものだと思う。 「そうね、それが一刀だものね」  そうして、俺たちはそれぞれの任務に戻っていくのだった。 「兄様、あとで試作品を持っていきますから、お部屋にいてくださいね」  そんな言葉を残して厨房に消えていった流琉の背中にエールを送ってから部屋に戻る。 「あ、兄ちゃん、お帰りー」 「こ、これは、お帰りなさいませ」  元気な声で出迎えてくれる季衣と、あわてて立ち上がり礼をしようとする黄蓋さん。俺は座ってください、という風に手を振って自分も卓についた。  うーん、やっぱりどこからみても黄蓋さんだよなあ。流れるような銀髪に、鍛え抜かれたのがよくわかる体躯。いまは女官の服を借りてるのかサイズがあってなくて、余計胸が強調されてる様がなんとも色っぽい。  ただ、赤壁の折りにはあった険のある表情はいまはない。気迫、というのだろうか、そういうものも感じられないのは、やはり記憶がないからだろうか。そのかわり、やわらかな顔つきが目立ってる気がする。 「兄ちゃん、ボク、お腹すいたよー。どっか食べに行くー?」 「いや、流琉があとで俺の教えた料理を持ってくるって言ってたから、みんなで食べような。たぶん、試行錯誤して量増えてるだろうし」  わーい、と諸手をあげて喜ぶ季衣とは対照的に黄蓋さんは少々戸惑い気味のようだった。なにか言いたそうにしているので顔を覗き込んでみると、おずおずと口を開く。 「皆、というのは儂も入っておるのじゃろうか、旦那様」 「そりゃ、もちろんだよ。お客さんだもの」 「し、しかし、このようなお城に招かれ、湯を使わせてもらったのみならず、飯まで馳走になるなど、儂はどうしてよいやら……」  いや、お客さんだし、そもそも黄蓋さんの身分は呉の武将なのだから、と言いかけて俺はちょっと躊躇う。いきなりそんなことを言って混乱させてしまうのは悪い気がした。 「しかたないよ、兄ちゃん。突然お城の生活に馴れろって言われても大変なんだよ」 「うーん、俺はこっちの生活というと、華琳の城中心だからなあ」 「そうだよねぇ。兄ちゃんはしかたないか。でも、屯田での生活からお城じゃあ、やっぱりびっくりするよー」  季衣は農村生活から華琳に拾われて城にあがったから、そのあたり親近感があるのかもしれない。 「そのあたりはおいおい馴れてもらうしかないだろうなあ。ところで、黄蓋さん」  声をかけても、黄蓋さんはきょろきょろと部屋の中をみまわすばかりだ。記憶をうしなっているのなら、たしかに珍しい光景なのだろう。 「黄蓋さん? 兄ちゃんが呼んでるよ」 「それは、わ、儂のことじゃろうか」  季衣が黄蓋さんの服の裾をひっぱって、ようやく反応する。そうか、名前もおぼえてないんだな。 「そうですよ、黄蓋さん。黄蓋、それがあなたの名前だよ。字はたしか公覆」 「こう、がい……こうふく……」  噛みしめるように呟く。しばらくの間、何度も繰り返す彼女をそっとしておいた。  自分が誰なのか知りたいと思う気持ちもあれば、それを恐ろしいと思う気持ちもあるはずだ。急がせる必要もない。 「だめじゃ……思い出せん」  苦しそうに吐き捨てる。そこに拭いきれない悲嘆があった。 「俺たちが知っている限りは話すから、ゆっくり思い出せばいいよ」 「しかし……」  その時、俺は黄蓋さんが目を細めているのに気がついた。 「黄蓋さん、もしかしてまぶしい?」  額の怪我は記憶だけじゃなく目もおかしくしてしまってるようだから、この程度の灯でもまぶしく感じてしまうのかもしれない。 「その、少々……」 「そうだよー、兄ちゃんの部屋はいつも明るすぎるよー」 「そうはいっても、本を読む必要もあるからなあ」  正直、日本でのスイッチを押せば煌々と光がきらめく生活になれた身からすると、これでもまだ暗く感じる。それはしかたないところなのだが、こちらで生まれ育ち、さらに勇名を馳せた武将たち──俺からすれば超人の域だ──には、これでも明るすぎるくらいなのだという。 「じゃあ、季衣、そっちの灯を絞ってくれるか、俺は入り口のほうを少し落としてみるから。黄蓋さん、ちょうどいいくらいになったら言ってね」 「はい、すみませぬ」  おれたちは手分けして、灯を絞っていく。そもそも、これだけの灯を用意してもらえてるだけでもかなりの破格の待遇なんだよな。季衣たちの部屋は携帯用の灯火しかないらしいし。そんなことを考えていると、視界の隅が急に明るくなった。 「うわっ」  季衣の手元から、ボッという音と共に高く火が燃え上がる。 「季衣!?」 「ごめん、兄ちゃん!」 「怪我はっ?」 「大丈夫、すぐ消すから!」  慌ててがちゃがちゃと手元を操作する季衣。俺も駆け寄ろうとして──。 「ヒッ」  息を飲む音が、やけに大きく部屋に響く。 「黄蓋さん?」 「ひゅっ、ふぅっ」  苦しげに息を吸う音が続く。吐く音はなく、黄蓋さんの顔が見る間に青ざめ、白くなっていく。誰かに急にひっぱられたかのように体がぐらぐらとゆれ、椅子から転げ落ちそうになる。 「黄蓋さんっ」  なんとか彼女を抱き留めるものの、震えは止まらず、まともに息もできていない。 「ひ、ひゅっ、かっ、くっ、ひゅああああああああああああああ」  俺の腕の中で、豊満な体が暴れまくる。女性特有のやわらかさより、ぐんにゃりとした肉の重みが恐怖を抱かせる。 「兄ちゃん!」  火の勢いは多少衰えたものの、まだ季衣の持つ灯火は燃え上がっている。それを放り投げんばかりにして俺の下へ来ようとしている季衣をなんとか押しとどめる。 「季衣、くるなっ。それより、はやく火を!」 「わかった!」  さらに操作する季衣。空気か油の供給がなくなったのだろう。季衣の手元で火は急速に勢いを減らし、消えていった。 「あああああああああああああああ」  前後にがくんがくんと揺れる頭が目茶苦茶にぶつかってくる。だが、痛みを感じている余裕なんてない。俺は、力の限り彼女の体をかき抱いた。 「大丈夫、もう火は消えたよ。黄蓋さん、大丈夫、大丈夫」 「くはぁあああ」  黄蓋さんの腕が、俺にしがみつき、ぎゅうぎゅと絞る。なにかにすがっていないとつらいのだろう、俺はそれをなんとか受け止めるが、さすがに少々手に負えなくて、どすんと床にしりもちをつく。  そのはずみでか、しがみついていた腕が離れ、赤ん坊のように縮まって体全体で丸まるようになる。ちょうど、俺の胸と膝の上にのっかってる形だ。さきほどまでの悲鳴とは違う嗚咽が、彼女の喉からもれ続ける。 「季衣、は、怪我は……ない?」  少し息をきらせて訊く。季衣はぺたんと俺の横に座り込み、心配そうに見上げてきた。 「うん、ボクは大丈夫。でも……」 「黄蓋さんも俺も大丈夫だよ。落ち着くまで待ってあげないとね」  俺はゆっくりと、震える黄蓋さんの背中をなでてやる。もう一方の手を季衣のほうにのばすと、怒られると思ったのか、びくっ、と震えた。その頭を驚かさないように静かになでてやる。 「気をつけないとだめだぞ」 「ごめんね」 「ん」  結局、黄蓋さんは悲鳴と物音に衛兵たちが押っ取り刀で乗り込んできても、泣きじゃくり、嗚咽を漏らし続けていた。 「それで、昨晩は黄蓋を寝かしつけてたってわけ」  流琉の試作品のコロッケ──俺からみてもなかなかうまくできていて、じゃがいもの代用になにかの根菜をつかっているらしい再現度よりもおいしさの方に驚いた──をつまみつつ、華琳が問いかけてくる。なんだか睨まれてるような気がするんだが、気のせいだろうか。 「俺から離れなかったからなあ」 、あの状態で一人にすることはとても考えられない。もちろん、華琳の言いつけ通り季衣達も同じ部屋にいて、代わる代わる一晩中様子をみていたのだけれど。  おかげで朝食を摂り損ねたが、華琳にできあがった料理を披露する場に居合わせられたおかげで昼食ももういらなさそうだ。まあ、この厨房にいたらいつでもつまみ食いできるといえばできるんだけど。 「ふぅーん。あら、これ美味しい」 「なんで怒ってるんだ、華琳。ほら、これも食べてみてよ」  いくつか具材を選んで手巻き寿司をつくって置いてやる。具材が煮染めた魚や玉子焼きなどの熱の通ったものしかないのが寿司に馴れた人間としては物足りないところだが、生の食材はだしにくいとなるとしかたない。  それに狭い卓とはいえ、具材の皿だけでかなりを占めてるくらいで、華やかさも充分だろう。酢飯もかなりよく再現されてるし、美味しいのは間違いない。  華琳は俺がつくった手巻き寿司を珍しげに掴んでほむほむと頬張る。 「べっつにー。流琉、この衣はどれくらいの間パリッとしてるかしら。宴の間にへたってしまうと厄介ね。こちらの『てまきずし』のほうは、誰かつくるのを実演する人間を置いておくべきかもしれないわ」 「揚げ物は、直前に揚げるしかないかと……余ることはあまりないと思いますので、『てまきずし』のほうは、やっぱり兄様が実際やってみてくれると助かるんですけど……」 「ああ、いいよ」  宴席では特に役目を言いつけられていないので、それくらいはできるはずだ。 「それで、結局、黄蓋とはろくに話はできなかったのね。ん、香辛料の香りね」  鍋をかき混ぜると、カレーのあの香りが漂ってくる。俺にとってはなつかしいくらいだが、やはり、こちらの人に取っては珍しいのだろう。あの華琳がひくひくと可愛らしい鼻をうごめかせてるくらいだ。 「いや、そうでもないよ。起きてから色々話を聞いたから」 「だいぶ恐縮されてましたね。兄様、『かれぇ』というのは、こういう感じでいいんでしょうか」  今回は量はつくってないのだろう、小皿にカレーを取り分けてくれる流琉。少々赤味が強い色あいは、俺の知ってるカレーよりは辛そうだが、まあ、カレー粉ではなく香辛料からつくっていくとこうなってしまうのはしかたないところだろう。一口口に含むと、思った通り少々辛いが、俺のよく知るカレーの味だ。 「うん、これはほんとよく再現してるよ。あとは、ご飯にこれをかけると最高なんだけど……。黄蓋さんはこれまでも、やっぱり大きな火を見るとああなったことがあるらしい。追い払われたりして大変だったみたいだ」 「ふぅーん、まあ、狂人だと思われることも……ちょっとからいわね、これ」 「はい、兄様のおっしゃってた香辛料を組みあわせるとどうしてもこれくらいの刺激は」 「ん、まあ、美味しいからいいのだけど……一刀のいう通り、単体よりなにかにつけるほうがいいかもね。それで? 黄蓋はあの赤壁以来どうしてきたのかしら?」  俺は黄蓋さんがぽつりぽつりと話したことをまとめて話しはじめた。  黄蓋さんは、どうやら赤壁以後半年くらいは生死の境をさまよっていたようだ。気づくと襄陽の街の五斗米道の義舎で看病されていたらしい。  体が動かせるようになってしばらくは義舎で同じような傷病人の手当などをして己の正体を知る人を探していたらしいが、記憶がないことがどうしても気にかかりそこを出たのだという。  その後は、過去の自分の手がかりを求めて街から街をたどって、ようやく洛陽近くまできたところで路銀が尽き果て、屯田に転がり込んだということだった。 「そこを俺たちがみつけたわけだ。うん、流琉、これうまいよ」 「そうね、充分おいしいわ」 「ありがとうございます!」  俺たちの賛辞に花のような笑顔を浮かべる流琉。ああ、努力が報われるっていいよなあ。俺もアイデアをだした甲斐があるってものだ。まあ、昔食べてきたものを伝えてるだけで、再現してる流琉がすごいんだけど。 「これで、以前につくった『はんばぁぐ』とあわせて四品ね。十品といったけど、十品ちょうどじゃなくてもいいから、よろしくね。それで、黄蓋には彼女自身のことを説明したの?」 「一応、呉の将だったということを話したけど、信じられないでいるみたいだ。実感がないだろうからね」  俺も経験があるからわかるよ、とは言わなかった。現代世界に戻った後、短い間とはいえ。この世界のことを、華琳のことを、大切なみんなのことを忘れて──忘れさせられていたなんて伝えるのはあまりに辛すぎる。俺自身思い出したくもない。  華琳は少し考えると、 「記憶は戻るのかしらね?」  と自問するように口にだした。 「わからないけど、まずは医者にみてもらうことだろうな。目のこともあるし。あとは、よく知ってるひとたちと触れ合わせるとか」  しばし沈黙が落ちる。こういう時の華琳の思考にはとても追いつけない。俺ができるのは目の前のことを精一杯やることくらいだ。 「医者は、華侘を頼るのが妥当ね。それに、やっぱり、呉に知らせるしかないでしょうね」  卓の上をとんとんと指で叩き、考えをまとめるように彼女は言った。 「本来は雪蓮に伝えるのが筋なんでしょうけど……まずは冥琳に伝えて反応をみた方がいいかもしれないわね」 「わかった。俺から伝えようか?」  正直、孫策さんのことを俺はよくわからない。この間、美羽のことを話しにいったときも、結局ほとんど話らしい話はできなかったわけだし。その点冥琳は真名も許してもらえたし、多少は話をするのに気負いが無くて済む。とはいえ、三国の中でも傑出した頭脳の持ち主を侮るつもりはないけれど。 「いえ、微妙な話だし、呼び出しは私が正式にする。一度私が話して、細かい話を一刀から聞いてもらうということにしようと思うのだけど、いいかしら?」 「ああ、わかった。その辺は任せるよ」 「そう。じゃあ、季衣や流琉といっしょに黄蓋をみてなさい。呼び出すか、周瑜をそちらにやるわ。流琉、料理おいしかったわ。また次を期待しているわね」 「はい!」  そんなこんなで試食会は終わったのだった。  部屋に戻ると黄蓋さんは季衣と遊んでいたので、しばらく他のことをすることにした。俺だって一応色々と仕事はあるのだ。以前のように警備隊長という肩書がない分、余計に管理に困る仕事がまわされているような気もしないでもないが……。  食事の盆と水をいれた瓶を持って、城内の監房に歩いていく。監房とはいっても城内に止められるのはある程度以上の地位の人質やらなにやらなので、ものものしい雰囲気は無い。ただ、他の部屋と違って扉が頑丈になっていたり、閂や錠の作りが違うくらいだ。  その監房群も戦時とは違いほとんどが空いている状態だ。 「入るよー」  衛兵に閂を抜いてもらい、声をかける。以前は衛兵をつけて入室していたのだが、最近はもうそこまで警戒しなくてもいいだろうと判断している。 「食事をもってきたよ、華雄」 「ふん」  寝台にねそべっていた彼女はこちらをちら、と見て鼻を鳴らした。霞に肋を折られ、他にも怪我をしているせいで部屋の中を歩くのも大変な華雄将軍は、未だに俺に対して警戒心を解いてくれない。 「ここに置くね」  寝台脇の卓に食事と水を置き、卓の下から椅子を引き出して、寝台に対するように座る。 「どう? 調子は」 「お前をくびり殺せるくらいには回復している」  こういう憎まれ口はいつものことなので、もう気にならない。俺──ひいては捕まえた曹操軍に敵愾心を持ち続けられるのは問題だが、心身の回復を考えるとこういうのも必要だろう。 「そっか。部屋の中を何周かできるようになった?」 「うるさい」  それきり口をきかずに、華雄は食事の盆を引き寄せると猛烈な勢いで食べだした。最初は食事にも手をつけてくれなかったのだが、体を回復させるためには食べることが必要だと説いたら食べることは食べるようになってくれた。  ただし、いつもかっこむように食べる。もう少し落ち着いて食べればいいのに、とは思うのだが、霞に言わせるともともとがそういう性格だし、彼女にとってはいまも戦場にいるのと同じことだからそんな風なのだろうということだった。  たしかに、華雄にとってこの場所は敵地なのかもしれないが……少々淋しくも思う。 「なあ、そろそろ俺たちに降ることにしてくれないか? そうすれば捕虜扱いせずにすむし、なにより美羽……袁術たちは俺のもとにいるんだし」  その誘いの言葉に、大きく黒目がちな目をしばたいた華雄は本当に不思議そうに俺の顔を見た。間近に迫られると、びっくりするくらい美人なんだよなあ。 「袁術が私になんの関係があるんだ?」 「だって、美羽たちを取り戻すために城を襲ったりしたんだろ」 「そうだ。だが、それはやつらに一宿一飯の恩義があったからにすぎん。私はやつらに仕えてるわけではないからな」 「え、そうなの?」 「あたりまえだ。野盗など再起のための資金稼ぎに過ぎん。……まあ、道に迷ってしまった私を助けてくれたのだ。多少はつきあってやるのが世の道理というものだろうしな」  ……迷って美羽たちに合流したのか。この人、話に聞くよりひどい猪なんじゃないのか。 「じゃあ、誰が華雄の主なの?」 「董卓様だ。きまっているだろう」  きっぱりと言い切る華雄に対して俺はなんとなく口ごもってしまう。まさか、董卓が死んだ──劉備軍に始末されたと聞く──というのを知らないというわけじゃあ……。 「……董卓は死んだろう?」 「だからどうした。主が死ねばその志を継ぐのが臣の務めだ」  恐る恐る切り出した言葉に、間髪いれず返ってくる答え。その答えに俺は胸をつかれる。  ああ、この人は、とてもまっすぐな人なのだ。  華雄が猪武者だなんだと言われつつも部下を統率できていた理由がなんとなくわかった気がした。 「私には文和や公台のような頭もなければ、文遠のごとき用兵の妙もない。だから、己の武で董卓様を守らなければならなかった。だが、それはかなわなかった」  ぐっ、と拳を握りしめる。もう一方の手で支えている盆がみしり、と軋んだ。 「再びそのようなことがないように、私は武を究めるしかないと思った。だが……また……しかも、文遠に……」  めきめきと音を立てる盆。ああ、もうあれ、使えないな……。 「霞を責めないでくれよ。あいつだって、別に……」 「あたりまえだ。武人をなんだと思っている。やつはやつのなすべきことをしたまでだ」  そう言うと、ぐっと顔を上げ、宣言するように言葉を放つ華雄。 「私は負けた、それは認めよう。だが、折れぬ」  その言葉はとても強く、しかも芯が通っているように思えた。胸を張ってそう言う彼女を見た途端、俺は自分でも気づいていない内に彼女を猪武者と侮っていた部分があったことに気づいた。恥ずかしさから顔が赤くなってくる。 「わかった。無理には勧めない」  赤くなった顔を見せないよううつむいて、食事を終えた彼女から盆を受け取る。また、食事を持ってくるよ、と言って帰ろうとする俺の背中に不意に声がかかる。 「二周だ」 「え?」 「二周はできるようになった、と言ってるんだ」  さきほどの問いに答えてなかったのを気にしていたのかもしれない。華雄はぶっきらぼうにそう言い捨てた。 「そっか、ありがとう」  思わず礼を言う俺に、華雄は顔をしかめて。 「変なやつ」  と言ったのだった。 「武人、か……」  華雄の言葉を──その重みを──考えながら自分の部屋に戻ろうとしていると、角を曲がったあたりで走る人影をみつけた。よほどの重大事でもない限り、城内で走り回る人間は滅多にいない。……せいぜい春蘭か季衣、それに沙和くらいだ。 「ん? あれって……」  しかし、その背中は予想とは違っていた。 「冥琳?」  俺の声が聞こえたのか、ばたばたと走る冥琳──かなり想像の外にあるが、実際に存在してるのだからしかたない──はばっと振り向くと、恐ろしい形相でこちらに駆け寄ってきた。 「わ、な、なに?」 「こ、公覆殿、黄蓋殿を!」  焦っているのか言葉がうまく出ないらしく、何度も唾を飲み込む冥琳。こんな周瑜の姿がみられるとは思ってもみなかった。あげくの果てに肩を強く掴まれて、体ごとふりまわされる。 「お、おちついて。冥琳。黄蓋さんなら俺の部屋にいるから。ね、ほら、深呼吸。すーはー」  がくがくと揺さぶられつつ、なんとか声をかける。あまりの剣幕に近くにいた衛兵が寄ってきたくらいだ。それを認めて、ようやく手を離してくれる冥琳。すーはー、と大きく深呼吸する俺にあわせて、冥琳も深呼吸。ようやく落ち着いたのか、 「う……う、うむ。すまん。少々興奮してしまった」  と頭を下げてきた。 「いや、いいよ。興奮するのもわかるから」 「そ、そうか」  でも、これをいきなり黄蓋さんに会わせるのはまずいかもしれない、とも思う。普段の冷静な軍師ぶりがまるでない冥琳を、いまの黄蓋さんに会わせるのは危ないのではないか。 「ともかく、黄蓋さんは俺の部屋にいるから。そうだな。まずは執務室で話をしないか、冥琳」 「しかし、祭殿……黄蓋殿が見つかったとなれば、一刻も早く無事を確認せねば」 「大丈夫。執務室は俺の部屋の隣だし、すぐ会えるようにするから」 「そうか。……うむ、すまないな、一刀殿」  素直に頭を下げる冥琳を見て、俺は胸が痛くなった。俺の大事な人が黄蓋さんの立場だったなら、俺は冥琳以上に取り乱していたろう。  ともあれ、俺たちは場所を執務室に移した。 「それで、華琳からはどこまで聞いたのかな」  こぽこぽとお茶を淹れながら聞いてみる。冥琳はもう完全に落ち着いたのか、焦ってる風もなく、俺が茶を淹れる様子をじっと見ている。 「黄蓋殿と思われる女性を一刀殿が偶然見つけて保護したということ、赤壁の折りに負ったと思われる怪我の後遺症が残っているということくらいだ。詳しくは一刀殿から聞くことと言われたのでな」  なんだ、華琳のやつ、ほとんど丸投げしてきたのか。まあ、それでも段階を負うことでショックを減らすという効果はあるのだろうな。冥琳のあの様子を見ると、いきなり全部話したら刺激が強すぎる。 「そうか、じゃあ、これから大事なこというから、落ち着いて聞いてくれよ」  聞香杯から漂う香りを楽しんでいる冥琳に言う。平静を装ってるのか、本当に落ち着いているのか、いまは外見ではわからない。 「まず、怪我だけど、腕や足が動かない、というのはない。だけど、眼が見えにくくなってる」 「眼か……」  手足は無事だと聞いて、ほっとしたらしい冥琳も、眼が悪いという言葉に少々眉をひそめる。 「それから、これが一番大事なんだけど」  一拍置く。冥琳も居住まいをただして、俺を真っ正面から見つめてくる。 「いまの黄蓋さんには半年から前の記憶がない」  長い沈黙。  部屋の外で、鳥が鳴く。  ぴーい、ぴーい。あれは、鶉だろうか。 「そう……か」  顔を軽くうつむかせ、俺の手元を見ているようでまるで焦点のあってない瞳をした冥琳は独り言のように呟く。 「しかし、生きておられるなら……」  それから俺は、彼女に黄蓋さんから聞いたことをゆっくりと話して聞かせた。話し終えると、冥琳はふう、と一つ息をついて、ぐったりと椅子の背もたれに深くもたれかかった。 「お茶のおかわりいるかな?」  すでに乾された杯をぎゅっと握りしめている冥琳にそう尋ねる。 「ああ、すまない。いただこう」  また茶の用意をし、二人で味わう。その間も冥琳は何事か考えている様子だったが、時が経つに連れて疲れたような表情はなくなり、気迫がみなぎりはじめるのがわかった。 「一刀殿」 「なに?」 「黄蓋殿にお会いしてもよいかな」  こくりと頷く。無言で立ち上がると、彼女もそれについてきた。短い廊下とも言える小部屋を介して自室につながる扉をあけ、二人でそこを通過する。  部屋に入ると、たのしそうな季衣の声が聞こえてくる。あいかわらず黄蓋さんと遊んでいるようだ。いや、流琉の声も聞こえるからみなで食事を摂っていたのかもしれない。 「ただいま」 「あ、兄様」「兄ちゃんおかえりー」「お帰りなさいませ、旦那様」  姿を表すと、三者三様の言葉がかかる。思った通り三人はいっしょに食事をしていたようだ。  どうやら、また試作品をつくってきていたみたいだな。今日は天麩羅だったようだが、ほとんどは食べ尽くされている。うん、天麩羅は揚げたてが一番だしな。  黄蓋さんの姿を認めたのだろう、俺の背後で息を呑む気配がする。 「あれ、周瑜さんだ」 「おや、お客様ですか」  冥琳の足元で、ぎゅっ、と小さな音がなる。黄蓋さんの言葉に後じさろうとした自分の足を無理矢理止めた冥琳の靴がならす音。彼女の心境を思うと、胸が苦しい。 「こちらは、周公瑾さん。呉の重臣で、黄蓋さんの昔のことをよく知ってる方だよ」 「おお、これは失礼をした。儂の過去を知っておられるとは心強い。ぜひ教えてくだされ」  にこにこと笑顔を浮かべて礼をする黄蓋さん。それに対して冥琳がどんな顔をしたかはわからない。俺は振り向かずにいるのが精一杯だった。 「周瑜と申します。以前のあなたには大変お世話になったものですよ、黄蓋殿」  するりと優雅な仕種で前に出る冥琳。その笑顔の裏にどんな感情があり、どんな辛苦が隠れているのか、俺には想像もつかなかった。 「いやいや、儂のようなものが、あなた様のような立派な方をお世話するなどとても恐れ多いことで……」 「そんなことはありませんよ。公覆殿。それはともかく、お食事中だったようですな、どれ、私たちもご相伴してよろしいですかな……おっと、残りが少ないですな、遠慮しましょう」  流れるように言う冥琳になにか感じたのか、流琉が慌てて立ち上がる。 「あ、厨からもってきますね。兄様に試してもらうのに、追加で揚げたいですし」 「おお、それはご足労をかける。となれば、私もお手伝いしましょうかな。よろしいですかな、北郷殿」 「ああ、そうだな、俺も手伝うよ、流琉。季衣は黄蓋さんと留守番しててくれるか?」 「ふわーい」  残りの天麩羅を頬張っていた季衣が元気に返事をするのを見届けて、俺たちは連れ立って部屋を出る。少々不安そうな表情を浮かべる黄蓋さんに、冥琳は 「では、公覆殿、お話しは後ほどゆっくりと」  と声をかけたのだった。  部屋から出ると、流琉が耳打ちしてくる。 「兄様、食事はわたしが一人でもってきますから」 「ああ、俺たちは執務室にいるから、もってきたとき声かけてくれるかな」 「はい、わかってます」  色々と察してるのだろう流琉は、ぱたぱたと一人去っていく。  俺たち二人は無言で執務室に入った。  見張るように扉の前に立った俺の前で、冥琳は部屋の中をうろうろと落ち着きなく歩いている。その顔はなにかを懸命に考えているようにも、なにかを必死でこらえているようにも見えた。 「人の想像力というものは、限度があるものだな」  不意に呟く声に、答える術を俺は持たない。 「祭殿が生きているなどと想像もできなかった。ましてや、あのようになっておられるなどとは」  一言一言が毒のように鋭く紡ぎだされる。 「そして、私があんなに冷酷に受け答えができるとは」  誰か知っているなら教えてほしい。  涙を見せずに泣いている女(ひと)を俺はどうやって……。 いけいけぼくらの北郷帝第三回(終)