いけいけぼくらの北郷帝 〜蜂蜜水と彼女の命〜 「蜂蜜水がほしいのじゃ、蜂蜜水が……」  ちらっ。 「美羽様、もう……ないんです。どこにも……ああ、この七乃が喉を突きますから、そこから血をすすってくだされば、すこしは渇きも癒えましょう」  ちらちらっ。 「嗚呼、この袁術ともあろうものがこのざまよ」  ちらっちらちらっ。  床につっぷした袁術と、それに覆い被さるようにした張勲。そして、それを見下ろしている俺。  なんだこの構図。  しかも、大仰なセリフを言う度に俺を盗み見てたのは、なんの真似なんだろう。  こっちの世界に帰還して二週間、みんなからもう消えてなくなったりはしないと思われたのか、ようやく与えられたはじめての仕事がこんなことになろうとは。 「いくらそんな演技しても、蜂蜜水は出てきませんよ」  部屋の隅においてある大瓶を覗きにいくと、飲料用の水はまだあるようだった。今朝、俺自身が井戸から汲んできたのだから、ないわけもないのだが、一応確認しておかないと。 「喉が渇いてるなら、お茶でも淹れる?」 「ちぇー、北郷さんってば、おバカさんだから騙されてくれると思ったのにー」 「なんでじゃ〜! 北郷は妾たちの世話係であろ。蜂蜜水くらいくすねてくるのじゃ!」  ばたばたと床の上であばれる袁術ちゃんと、それをなだめながら起こす張勲さん。この二人は自分たちが捕虜である自覚がないんだろうか。  ないんだろうなぁ……。この時代にお茶をのめるなんてすごいことなんだけど……いや、そのことは俺も一度帰ってから勉強して知ったんだけどね 「おやつは三日に一度、おやつを食べたら、二日は蜂蜜水はなしって、昨日約束したばっかりでしょ? 「約束ぅ? おぼえておるか? 七乃」 「えー、約束ですかあ? うーん、したようなしなかったような……」  この人たちにつきあうのは今日で三日目だが、これが演技でないことはわかる。本気で忘れてるのだ。手持ち無沙汰なところで気軽に引き受けたけど、なかなか厄介だぞ、これ。 「とにかく、妾は蜂蜜水が飲みたいのじゃ!」 「虜になってもわがまま三昧、さすがですぅ、お嬢様!」 「うむ、もっと褒めてたも」  あれって褒めてたのか……。 「いや、わがままってわかってて言われても……。おやつもなんとか譲歩してもらったんだけどなあ。ねえ、袁術ちゃん、張勲さん、自分たちの立場わかってる? 野盗をやっってて捕まっちゃったんだから、この待遇でもかなりいいほうだと思うんだけど」 「そこは、ほれ、三公を輩出した名家の力じゃな」 「根拠のない無駄な自信、すばらしいですぅ。お嬢さま」 「そうじゃろ? そうじゃろ?」 「いやー、違うと思うけどなあ……」  実際は、まだ捕まえきれていない盗賊団の残党を狩りだすために囮として置かれてるらしいんだけど……。知らないほうが幸いなのだろうか。  ちなみに、捕らえきれなかった面子の中には、反董卓連合戦のときに耳にした華雄将軍もいるらしい。将軍としては猪すぎるらしいけれど、武勇はそれなりにあるので、放っておくと厄介なんだそうだ。ほうぼうを荒らされて人々が土地を離れたりしたら、乱の原因にもなりかねないしな。  そんなわけで、華雄将軍のほうは、昔同僚だったこともある霞が中心になって追いかけまわしてるのだが、まだ捕まらない。とりあえず捕縛できるまでは袁術たちはここで捕虜暮らし。それはつまり華雄将軍のほうが解決したら、用済みということでもあるのだが……。 「むー、七乃、なんだか眠いのじゃ」 「はいはい、じゃあ、お昼寝しましょうねー」 「うむ、寢るぞ!」  本人たちはいたって呑気なものである。 「ああ、ゆっくりおやすみ。俺は、こっちで読み物してるから」  読むものはいくらでもある。俺がいなかった一年の間のことを記した報告書だけでも膨大な量があるのだ。なんでもいずれ魏の歴史書をつくるための資料らしいが、現在の事情に疎い俺にはもってこいだ。考えてみれば、メインの仕事はこれらを読んで現状を把握することで、袁術たちの監視はつけたしみたいなものなのかもしれない。 「うーん」  どれくらい経ったろう。三国の交易の変遷を記した文書を読み終えた俺は顔をあげてのびをした。  体が固まりそうなので、ゆっくりと部屋の中を歩く。袁術たちは寝ているはずだから、音をたてないようにそうーっと。  と、寝室のほうからぼそぼそと話し声が聞こえた。貴人用とはいえ捕虜のための部屋だから、衝立はあっても内側に戸はない。プライバシーはないに等しいのだ。いや、あったら監視できないのだけど。  たぶん、寝つけなくて、お話しをしてあげているんだろう。この間も張勲さんがそうやって寝かしつけているのを見たし。  まあ、袁術ちゃんもまだまだ子供だから、それも不思議じゃない。俺の知ってる歴史じゃ、皇帝を名乗ってえらいことになってたけど。あれ、こっちでも盗賊集めて仲を名乗ってたんだっけ? 「なぁ、七乃。あやつは曹操の情夫であろ? 人質にして逃げるのはどうじゃ?」 「んー、人質にするのは簡単そうですけど、逃げきれますかねえ」 「大丈夫じゃ、あやつは孟徳以外にも、盲夏侯やら惡来やらにも手を出してるらしいのじゃ。いくらなんでも愛人をくびり殺すといわれたら道をあけずにはおられんじゃろ」 「うわー、お嬢様、きったなーい。さいこーですぅ」  うん、ごめん、嘗めてた。子供のする会話じゃありませんでした。  でもなあ、季衣や流琉はともかく、春蘭や秋蘭が人質に頓着するかなあ……。『北郷。お前ごと斬る』とか言われないかなあ。いや、『動くな北郷。動くと刺さるぞ』って矢を射かけられる可能性の方が高いか。  いずれにしろ、二人の逃亡プランは無理がある。二人には、俺を人質に捕らえること自体不可能なのだ。なにしろ……。  考え事に夢中になっていたからか、寝室に影を落とす位置に移動してしまっていたらしい。  光の具合に目を細めた袁術ががばりと飛び起きる。 「むっ、こやつ、妾たちの謀を聞いておった。七乃。これは一大事じゃ!」 「そうですねー、しかたないから、ここは口封じに……」  いや、だから、そういうことはやめておいたほうが……。  その忠告を口にする前に、扉のかんぬきが抜かれ、部屋に入ってくる人影がひとつ。大鎌を構えた小柄なその影は、猫のように音もたてず、素早く俺を護る位置に移動していた。 「あら、口封じになにをするつもりかしら?」 「そ、曹操!」  寝台から飛び下りて俺ににじりよろうとしていた二人は、華琳の声を聞くと、飛び上がって、抱き合って、そのままへたり込んだ。なんとまあ器用なひとたちだ。 「ああ、華琳」  そうか、今日は華琳の番だったのか。俺は、大鎌をバトンのようにゆらゆら揺らしている魏の……いや大陸の王者に声をかけた。よりによって運がないな、袁術たちも。 「あら、驚かないのね、一刀」 「まぁ……誰かついてるのは薄々」 「へぇ、あなたに気づかれるなんてね。こちらにいない間に少しは武も鍛えたのかしら? それとも、修行不足の誰かさんを罰するべきかしら」  実を言うと自分で気づいたのではなく、たまたま宮殿の廊下で転んだ時に、影で監視してるはずの凪がつい助けようと出てきてしまったのを問いただした結果なんだけど。凪によると、俺には四六時中監視件護衛がついているんだそうだ。  影の護衛だけで済ませられてるのはまだましなほうなんだろう。帰って来てからの数日は、そりゃあ、すさまじいものだったからなあ。  華琳にさんざっぱら怒鳴られたあとで二人きりの時にひとしきり泣かれるくらいは覚悟の上だったけど、春蘭に絞め殺されそうになったり、明らかにやばい状態の春蘭を止めようとしない秋蘭の背中に鬼の影を見たり、凪に抱きつかれて肋骨を折りそうになったり、無理矢理俺の口にごちそうを詰め込もうとする季衣に窒息させられそうになったり、俺がいない間に腕を磨いていたらしい桂花の罠に見事ひっかかって一晩中宙づりになったり──ちなみに桂花は禁止されていたはずの罠をつくったのでお仕置きされていた──、とてつもなく美味いけど死ぬほど辛い料理をにこにこ笑いながら出してくる流琉に平身低頭して謝ったり、無言でチョップを繰り出し続ける風とぶつぶつと恨み言をならべ続ける稟になんとか許してもらったり、北方鎮守の任から飛ぶように帰って来た霞の、息も絶え絶えな愛馬にはね飛ばされてみたり……。  穏便に済んだのは服を買ってやると約束した──穏便?──沙和と、元いた世界の機械の構造を教えることになった真桜くらいのものだ。  そんな狂乱の日々が終わった後も、華琳や風──おまけにたまに春蘭まで──が代わる代わる俺の腕やら服の裾やらを握って離さない状態が続いて、さすがにこれは政務が滞ると、城内からは絶対に出ないと約束して袁術たちの監視任務をもらったわけだが……。  やっぱり、みんな心配してくれてるんだろうな。24時間絶え間ない護衛とは、本当にありがたいことだけど、ちょっとくすぐったい気もする。 「で、こいつら、どうしてくれようかしら?」  いつのまにか寝室の隅に縮こまっている袁術たちに刃をむけて、華琳がにっこりと微笑む。その笑みは、彼女たちにとっては悪魔の笑みに見えていることだろう。 「実際なにかされたわけじゃないし、許してやりなよ。……利用価値もあるんだろう?」  後ろの方は囁くように問う。がたがたと震えてる二人に聞こえても認識されるかどうかはわからないけど。 「あー、それな、ついさっき解消したんよ」  陽気な声。  あれ、この声は……と振り向いてみると、予想通りの勝気な美女の姿。ただ、いつもと違うのは左腕を包帯で包み、三角巾でつり下げていることだ。 「霞、怪我っ?」 「ん? ああ、これか。せやから、さっき華雄を捕まえたときにちょっとな。まあ、こっちの腕一本の代わりにあっちの肋ももろたし、捕まえたんやからうちの勝ちやな。心配せんでもええで、この調子やと一月もすれば動くようになるし」 「そっか……おつかれさま」  武の世界は俺が口出しできないことも多いし、どこか怪我をしてしまうのはしかたないことなんだろう。世が乱れていた時期にくらべれば、戦争で死んでく人だって減っているはずだ。でも、やっぱり女の子が傷つくのを見るのはつらい。  まあ、華雄将軍が捕縛されたなら、野盗問題は解決ってことだな。あれ、ってことは……。 「聞いた通りよ、一刀。華雄をおびき寄せる餌の役目はもう終わり。だから、もう袁術たちに用はないの」 「よ、よ、用はないとはどういうことじゃ? ま、まさか、妾たちを殺すとは言わんじゃろ? そ、孫策の恩知らずのごとき小器ではあるまいし、曹孟徳ともあろう者が、この袁術を利用もせず殺すなどせんじゃろ? そうじゃろ?」 「そ、そうですよぅ。袁家の名声を利用すれば、まだまだ色々できることはありますよぅ」  なんとか笑顔をつくりながら、震える声で問いかける主従。 「具体的には?」 「へ? そ、それは、曹操さんがですねえ……」 「……具体的には?」  ああ、まずいなあ。ここで気の利いたことを言えれば、多少は能力があるとみて、華琳も部下に加える可能性もあったのに、張勲さん口ごもっちゃってるよ。袁術ちゃんはこれまでの経緯を考えると、華琳が求めるほどの才を現時点でもってるようには思えないし……。下手なことを言ったら余計怒らせるのは確実だけど、黙ってしまうのはもっと悪い。 「霞。法に照らして、こいつらに下す罰は?」  しばらく待ったあと、小さく溜息をついて、華琳は霞に問いかける。 「あー、まあ、かわいそやけど、斬首かなあ」 「ひぅっ」 「お、お嬢さまぁ」 「百歩譲って両の手首斬るってのもあるやろけど、こんなお貴族様やったら結局死んでまうやろし、飢えて苦しむよりは、いっそすっぱりいったほうが優しさちゅうもんやろ」 「そうねえ……」  俺はなにも口を出せずにいた。法に則れば、二人が死罪に相当するのは明らかだからだ。袁術たちの野盗団による人的被害はあまり聞いていないが、ある時期には『税』と称して食糧や物資を脅し取っていたというから、擁護のしようがない。盗賊の罪だけではなく、国家の基礎を揺るがす罪だ。  ん? あれ、華琳、いま俺のほうを見た? 「ゆ、ゆ、ゆ、許してたも。な、曹操。反董卓連合を組めたのも、妾たちの尽力じゃぞ。あれがあったからこそ、勇名も馳せたというものじゃし、す、すこ、少しは手加減というものを……」 「そ、そうですよぅ。わたしたちが宦官を綺麗にして、十常侍のみなさんをあおったおかげで、董卓さんが洛陽にこられたわけですしぃ」 「あー、そやなあ。こいつらと袁紹の馬鹿一族がうちらを陥れたんやったなあ。まあ、いまさら言おうとも思わんかったけど、自分から言い出すくらいやったら……な」霞が、自由なほうの利き腕だけで器用に飛龍偃月刀を構える。その体から、殺気がじわりとにじむような気がした。「孟ちゃん、せっかくやしうちがやったるわ」  偃月刀の切っ先がまっすぐに自分の顔を向くのをみて、袁術ちゃんの体がびくり、と大きく震えた。 「う、ひ、ひうぅうう」 「お嬢さまぁ」  袁術ちゃんの着物の端の色が変わり、それが、床に、じわりじわりと広がっていく。  ありゃ……漏らしちゃったのか。 「なあ、華琳、どうにかならないのか」 「どうにか? 助けるのは簡単よ。特赦でもなんでもすればいいんですもの。でも、それでどうするの? 生かしたとしても、こいつらが私の覇業によって治まった、乱れなくていい世を乱した罪は消えるわけじゃない。それを償えるだけの才覚があればよし……でも、一刀も見たでしょう? 命乞いするだけに飽き足らず、自ら墓穴を掘るような人材を、曹孟徳は必要としない」  冷然とした顔で言い放つ華琳。でも、ちがう。それだけじゃない。俺にはわかる。この顔は、試している顔だ。  誰を? 袁術? 張勲? 霞?  否、試されてるのは俺だ。  考えろ、考えろ、考えろ。 「霞、結局野盗の群れってどれくらいの数だったんだ?」 「ん? あぁ、袁術たちを捕まえたときに蹴散らしたのが一六〇〇から七〇〇、今回華雄のとこに残っとったのは四〇〇程度やったから、逃げたのもあわせて、一八〇〇程度ちゃうか。二千はいってないと思う」 「いくら盗賊とはいえ、三国が治まって、しかも魏の領内、二千近く集めるのはたいへんなことだよね?」 「まあ……一応華雄と袁術の名前もあったわけやし……」  殺気をそがれたか、偃月刀を床についてもたれかかるようになる霞。 「百人単位ならともかく、千人を越せば、まとめるにもそれなりの力量がいる。ただ分け前を配るだけじゃおさまらないはず。それに、霞が手こずるほどの華雄将軍を配下にしてる」 「だから? なにが言いたいの、一刀」  あいかわらず華琳の声は冷たい。けれど、あれは少しおもしろがってる風情だ。俺はなんだかその顔がなつかしくて思わず微笑んでしまう。 「俺は、それだけの人を集められたことをすごいと思う。もう黄巾の時代みたいに乱れてもいないのに、だよ。たしかにいまの華琳が必要とする人材ではないかもしれない。もう袁術の名前を使っても大勢に影響はないかもしれない。けど、袁術の名前、張勲の名前やつながりは、まだそれでも使えるものだと思う。 本人たちが華琳の目に敵わなくても、旧臣の中にはまだ見ぬ宝が埋まってるかもしれない。あるいはいまの三国の秩序からははみ出してしまうけど、すばらしい人材を見つける手だてになるかもしれない」  ところどころつかえつつも、なんとか言い切る。 「だから、飼っておけ、と?」 「華琳の部下にしろとは言わない。俺が面倒みる」 「一刀がぁ?」 「ほんま物好きやなあ」  なんだか、反応が捨て猫かなんかを拾ってきたときみたいだ。まあ、庇護を必要としているという意味では、似たようなものなのかもしれない。でも、しょうがない。言った以上は責任はとるつもりだ。 「全く……あなたはどう思う、霞」 「うちは武官やからなあ。そういう判断は風あたりにでも聞いてみんと……」 「呼びましたかー」  噂をすればなんとやら。ひょこっと宝ャをのせた頭が揺れ出てくる。ええと、いつからいたの、風。 「袁術さんがお漏らししたあたりからですねー」  また、勝手に人の心を……。 「うぅ、七乃ぉ」 「しっ、お嬢様、いまは黙ってましょ」  こそこそ話してる声は皆に聞こえてるが、ここは聞かなかったことにするほうがいいのだろう。 「それで? あなたはどう判断する?」 「途中からでしたので、詳しい話を聞かせてほしいのです」  霞と俺で華雄捕縛の件や経緯を話してる間に、華琳は鎌をふりつつ張勲たちに床の始末と着替えをさせる。途中で「どうなるかわからないけど、どうせなら綺麗な恰好で死にたいでしょ?」なんて脅すものだから、袁術ちゃんが固まっちゃってたけど、今度は漏らすものもなかったようだ。 「だいだい把握しましたー。でも、華雄将軍や、配下の人はどうするんです? 車裂きですか?」 「ああ、それやったらもう沙和のとこにたたき込んどいたわ。うちとこの隊にはいれるほど根性あるやつはおらんやろけど、北で屯田やらせて、華雄はその頭に据えるつもりや。あれも遣いどころさえわかっとれば使えるやつやからな」 「それでしたら、首謀者だけ重い罪というのも、残されたひとたちの士気を下げますし、お兄さんが肉奴隷をほしいというならそれでいいんじゃないですかー」 「ちょ、ちょっと」  なにを言いだすんだ、この軍師どのは。 「面倒みるってそういう意味かいな。せやったらしゃあないなあ」 「ふーん、一刀はこれだけ手を出しておいて、まだ物足りないわけ」 「霞も華琳も風の冗談にのらないの!」  冷たい視線が二対。本気じゃないだろうけど、居心地悪いことこの上ない。そんな、人の生き死にがかかった時に、不真面目なことなんか考えるわけないじゃないか。 「にくどれい、とはなんじゃ?」  着替え終わったのか、可愛らしく首をかしげる袁術ちゃん。未だに死の淵にいるんだけど、もう忘れたんだろうかね、この人は。 「肉奴隷というのは、お兄さんに全てを差し出すってこどですー。 このお兄さんはひどい人なのです。風の体を開発しておいて、姿をくらましたかと思ったら、また戻ってきて、再び性の快楽に堕ちていく恥辱と快楽を味あわせ、もう二度と離れられないように仕込もうとしているのです。風は一年も放置されて喜ぶ変態さんではないのですが、そうやって仕込まれるとどうしようもないのです。 袁術さんも張勲さんも、あきらめて、お兄さんに体を差し出すとよいですよ。命だけは助けてもらえますしー」  うう、どう反応すればいいのやら。もう、華琳たちの視線まで氷点下を突っ走ってますよ。こりゃ、消えちまった恨みはまだまだ根深いな。俺のせいばかりじゃないんだけどなあ。 「むぅ、一刀はそのようなおそろしいやつじゃったか……じゃが、死ぬのはやじゃ。どうしたらよいかのう、七乃」 「黙りなさい。あなたたちに選択権はないの」  張勲さんが袁術ちゃんの問いかけに答える前に、ぴしゃりと華琳が言った。あらためて構えた鎌の切っ先がぴしりと二人に正対している。恐怖が再び浸透してきたか、棒立ちになって抱き合う二人。 「一刀が面倒を見るというならそれでもいいけど、無条件、というわけにはいかないわよね、風」 「そうですねー。ひとつだけ条件がありますねー」 「な、なんでも飲みます。もし、この七乃の命でお嬢様が助かるなら……」 「七乃が死んだら生きていけないのじゃ……七乃ぉ」 「袁術さんたちへの条件じゃないです。もう袁術さんたちはお兄さん次第なのです」  そう言うと、風は俺のほうを横目でみやって、にやりと笑った。 「お兄さん、孫策さんと直談判する勇気あります?」 「元々風がここにやってきたのはですね、孫策さんがいらっしゃったことを華琳さまにお知らせるするためだったのですー」  孫策の名前を聞いた途端、がくがくぶるぶると震えだした袁術ちゃんとそれを介抱してる張勲さんはこの際おいといて、風の話をきく。俺次第と言われては、俺ががんばるしかないじゃないか。  それにしても、孫策がこの城に来てるって? たしか、各国の重鎮が三国会談のために訪れるのは、はやくても明日か明後日だったと思ってたけど……。 「なんや、ずいぶんはやいやん」 「行軍に飽きた孫策さんが先に馬を駆ってきたみたいですね。だから、いま城についてるのは、孫策さんと周瑜さんのお二人だけですね」 「まあ、らしいといえばらしいけど、それで、談判というのは?」 「孫策さんは、袁術さんを下し、追放して呉を建国しました。ですから、お兄さんの庇護下とはいえ、再び表舞台に袁術さんが出るとなれば色々確執を引き起こす可能性がありますー。魏と呉の対立を呼ばないためにも、お互いにこれまでの遺恨は一切水に流し、以降、無用な手出しはしない、という確約が必要だと思うんですー」 「その手打ちを一刀にさせろ、ということね」 「はいですー」  ふふん、とひとつ笑って、華琳は鎌を袁術たちからそらした。それを見て、霞も偃月刀を握る手の力を抜く。途端にどっと汗が吹き出した。どうやら、張りつめた空気に結構やられてたらしい。 「そうね、それでいいんじゃない。できるわよね、一刀。できなければ……」 「わかってる」  ひとつ頷いて、俺は袁術ちゃんたちを見つめた。震え続ける袁術ちゃんと、心細そうに俺を見る張勲さんの視線を受けて、俺は、覚悟を新たにするのだった。 「わ、妾はいやじゃ、ソンサクコワイソンサクコワイ」  なんかカタコトになってる袁術ちゃんをなんとか張勲さんとなだめすかし、二人で抱えるようにして、ようやく孫策さんたちの逗留してる部屋の前についた。さすがに観念したのか、張勲さんに抱きかかええられた袁術ちゃんはもう騒ぐこともない。護衛の兵士を脇にやって、俺は二人に話しかける。 「張勲さんたちは廊下で待っていてくれればいいから。話がまとまったら呼ぶんで、最後だけ顔出す感じで」 「はい、わかりました。ほら、お嬢様、孫策さんとほとんど会わなくていいみたいですよー」  そう言われた袁術ちゃんは、張勲さんの腕の合間から、半分顔を隠しつつこちらを伺っていた。 「一刀」 「ん、なに?」 「れ、礼を言っておく。なんだかやりとりはようわからんかったが、妾たちの命を救ってくれたのは主じゃろ。名にしおう、え、袁術の礼じゃ、ありがたがれ!」 「はいはい。ありがとな」  ぽんぽんと頭をなでて、応える。きっと、これは彼女なりに俺を励ましてくれてるってことだろう。女の子が震えながらも励ましてくれたというのに頑張れなければ男がすたるってものだ。 「むぅ、一刀は緊張感が足りないのじゃ。孫策は恐ろしいやつじゃというに……」 「ん、まあ、行ってくるよ。約束もらってくるから待っててな」  そう言って俺は孫策の部屋に訪問の旨を呼びかけるのだった。  応対に出た女官に孫策と周瑜に会いたい旨を伝えると、一度奥にひっこんだあとで、中へどうぞと招かれた。女官は気を利かせてくれたのか、俺と入れ代わりに出て行く。  よし、とひとつ気合を入れて中に足を踏み入れる。孫策は顔を見たことはあるものの、ほとんど話をしたこともない。だが、本気の華琳の前に立つ時と同じと思っておけば、なんとかなるに違いない。なにせ、あいつが怒った時はそりゃあ、怖いもんだし……。 「お邪魔します。北郷一刀です」 「いらっしゃい。天の御遣い殿」  柔らかな声。予想していたのとは違うそれに、俺はちょっと拍子抜けしてしまった。 「ええと、周公瑾さん、ですよね」 「ああ、呉の周瑜だ。孫策と会見がしたいと? 曹操殿のご内意かな?」  身振りで、そこに座れ、と示されて、周瑜さんと同じ卓につく。誰かくるのがわかってたのだろうか? 用意されていた茶の杯から、心地いい香りが漂ってくる。 「ああ、いや、そうじゃなくて、いまは、俺個人のことで……」 「そうか、だが、雪蓮のやつ、ちょっと出ていてな」  少し困ったように眉根を寄せる顔にどきりとする。周瑜さんって、美人だなあ……って、こんな時になに考えてるんだ。 「用事かなにか? だったら出直してくるけど」  内心の動揺を押し隠すために早口になってる。落ち着け、俺。 「うーん、その……な、『探検だ』とか言って出ていったんだが、どうせ城の大部分には入れないだろうし、すぐ戻ってくると思うんだが……」 「探検……ですか」 「……うむ」  沈黙。  まあ、どこの王様も一筋縄じゃいかないもんなんだろうな。  俺の世界の周瑜は早世しちゃったけど、この世界は大丈夫なんだろうか。気苦労、多そうだけど……。 「そ、そうだ。天の御遣い殿に会ったら聞いてみたいことがあってな」 「俺に?」 「そうだ。赤壁の戦いの折り……私と黄蓋殿の策を見破ったのは、あなただと曹操殿からうかがった。一体どのようにしてあれを読み取ったのか、教えていただきたい」  すっと部屋の温度が下がった気がした。まるで触れれば空気が肌を引き裂くかのようだ。周瑜さんの眼力はすごい。細大漏らさず全て受け取ろうとするかのように、俺を見ている。  黄蓋さんの死に様を思い出し、その光景が俺の愛する誰かのものだったらと想像して、突き刺さる視線に宿る怒りや恨みの成分の少なさに驚き、かつ尊敬を感じた。  だから、俺は、頭に浮かんだいくつものいい訳やごまかしを全て破棄するしかなかった。 「知っていたからだよ」 「……知っていた? ありえない。あれは、わたしも黄蓋殿も、携わった諸葛亮・鳳統とて知り得ぬ策。それを知っていたと……」 「そう、知っていた」  ぎり、と奥歯をかみしめる音が聞こえてくるようだった。殺気とは言えない、けれど、なにか煮えたぎるものが滲みでてくるのを感じる。嘲弄したと思われたろうか。でも俺には、正直になるしかないんだ。 「天の国ってみんなが言う世界は、この世界とよく似た世界で──」  突然なにを? と驚いたような顔をそのままに俺は言葉を続ける。 「でも、少しだけ時間の感覚がずれてるんだ。その世界での歴史では一八〇〇年前、曹操は赤壁で孫権・劉備の連合軍に大敗を喫した。そこで使われたのが黄蓋の疑降──苦肉の策と連環の計。俺はそれを知っていて、華琳に進言した。華琳に負けてほしくなかったから」  どれだけ伝わるかはわからない、でも、俺は俺自身で理解してる限りのことをちゃんと説明しなきゃいけないと、そう思った。 「おかげで、この世界から消されちゃって、戻ってくるのにえらいかかったんだけどさ」  長い──本当に長い沈黙。  それを破った周瑜さんの声は、疲れ切ったように掠れていた。 「鬼謀でも、神算でもなく、ただ、知っていた、か……くっ……」  うつむく顔、震える肩。だが、俺にはどうしようもない。切れるように鋭かった空気が、今度は肩にのしかかってきそうなくらい、重く、固い。  だが、それは、周瑜さんの続く声によって断ち切られた。 「あーはっはっはっは」 「へ?」 「いやあ、すまんすまん。うん、納得した。ふっきれた。そうか、知っていたか。それは仕方ない」  突然笑いだした周瑜さんにぽかんと口をあけて、間抜け面をしてしまう。笑いが治まらないのか、ぷっと吹き出してはクスクス笑い、目尻にたまった涙を拭っている周瑜さんは、まだちょっと無理をしているような気がしたけれど、それでもさっきのような鋭さは和らいで、いい笑顔をしているように思えた。 「軍師として、一年も悩み抜いた結果が、知られていたから、とは。驚きだわ……でも」  と一度言葉を切り、周瑜さんは再び鋭い気迫をまとって俺に向かいなおした。 「もうひとつだけうかがってもいいかな」 「俺にわかることなら答えるよ」 「では、聞くが、何故、素直に知っていたなどと答えたのだ? 信じられない──いや、現にいまでもよくわからないでいるが──莫迦にしてるのかと激昂する可能性だってある。それに、貴殿の知謀に見せることもできたはず」 「周瑜さんが、ただ、純粋に訊いてると思ったから、かな。俺が恨まれたらそれでいい、ってわけでもなさそうだったし……それに、そんな器用じゃないしね」  俺の答えをきいて、周瑜さんは、ぎゅっと眉根を寄せ、そして、また朗らかに笑った。さっきの爆発的な笑いとは違う、親しみが籠もった笑み。なんだかうれしくて、俺も笑みを返す。 「貴殿には驚かされてばかりだな。天の御遣い殿」 「一応、名前があるから、そっちを呼んでくれるとうれしいな」 「そうか、では、私のことは、冥琳と呼んでもらおうか」 「いいの? それって周瑜さんの真名だろ?」  ふふん、と含み笑いをひとつ。 「聞き返すのは、野暮というものではないか、北郷殿」 「そっか、ごめん。……俺には、真名ってのがないから、一刀って読んでくれたらいいよ」 「ふむ……天の国には真名の風習がないのか」  少し驚いた顔をして、けれどもさすがに珍しい情報には食いついてくるしゅ……冥琳。こういうところは、どこの国にいっても軍師ってのは変わらないもんなんだな。まあ、魏の軍師は変わり者が多い……いや、変わり者ばっかりだけど。 「いずれ、天の国の事を詳しく教えてもらえるかな。一刀殿」 「いいよ、いつでも。そうそう、俺の世界では、冥琳のことは、眉目秀麗な英雄ってことで、美周郎って渾名で伝わってるんだよ」 「なっ」  一息ついたと飲もうとしていた茶杯を取り落としそうになり、あわてて、もう片方の手で受け止める冥琳。なんだか、顔まで赤くしている。そういえば、美周郎って男性への言い方だから、怒らせちゃっただろうか。 「天の国では……」  冥琳が気を取り直したのか言いかけた言葉は、つんざくような悲鳴によって途切れた。 「一刀ぉ〜。たすけてたもー!!」  ばたばたとかけこんでくる袁術ちゃんと張勲さん。その後ろからやってくるのは、抜き身の剣をひっさげた猛禽のような雰囲気を漂わす美女──孫伯符の姿。 「そ、孫策じゃ、孫策が妾たちを〜」  なにかわめきつつ、俺の膝にすがりつき、卓の下に隠れようとする袁術ちゃん。張勲さんは、そのさらに背中にひっついて、縮こまろうとしている。 「雪蓮、なにをしてるんだ、剣をひけ。魏の城内ぞ!」 「あら、冥琳。それにお客人もいるのね。すぐ終わるわ。そこの莫迦二人、始末をつけるまで待っててね」 「ちょ、ちょっと待ってくれ、一体なにがどうなって……」  みれば、張勲さんの服の背中が切れて、べろんと垂れ下がっている。幸い、血の赤は見えないから肌を切られずに避けられたようだが、切りかかられたのは確実だ。 「今回は、ほんとになにもしてませーん。ただ、話がどうなってるか心配で、この部屋を覗いてたら、孫策さんが後ろにあらわれて……」 「あーもう、うるさい。その莫迦面二度と見せるなって言ったでしょ。こんなところにいること自体、害悪よ。華琳の手を煩わせるまでもない、私がさっさと始末するから、さ、よこしなさい」 「莫迦はあなただ、雪蓮。まずは剣をおさめろ!」  駆け寄って、必死で止める冥琳。だが、孫策は全く治まりそうにない。冥琳に遠慮してか、剣を振る手は動いてないが、その体からあふれる気迫は、俺が何度か戦場で感じたものだ。殺気と言えるほど強い志向性をもたない、ただ、邪魔なものを排除する氣概に満ちたそれ。 「なによー。冥琳だって、袁術には何度も煮え湯を呑まされたでしょ。一度見逃したんだから、もう見逃す義理もないはずよ」 「だから、ここは魏の城内だって言ってるだろう、雪蓮。外交問題になるぞ」 「元々はうちの不始末でしょー? やり損ねてたのをやりなおしたって言えば、華琳も文句はないわよー」  冥琳と雪蓮の言い合いは止まりそうにない。これは、秋蘭あたりを呼んで……と一瞬考えたあとで、足にすがりつく二人の存在がそれを拒んだ。がたがたと歯の根もあわぬほど震えている袁術と張勲──この二人の面倒をみると言ったのは、誰だ?  すうと、ひとつ息を吸う。心を平らかに、胆に力をこめて。 「そうだ、あなたがたの不始末だ」 「んー?」 「袁術たちを生かして逃したのはあなたたち孫呉の不始末。それが、流れ流れて魏の領内で野盗を繰り返したのも、元をたどればあなたがたの不始末に遡れる、と思う」  睨むでもなく見つめてくる目を、踏ん張って見返す。そうしなければ、そらさずにはいられないほど力強い瞳を。 「だけど……だからこそ、勝手な真似は許されることじゃない。彼女たちは魏で捕らえられ、いまは俺に保護されている。もはや、あなたがたの管轄を外れたことに勝手に手を出されては困るんだ」  今度こそぎんとにらみつけられる両の瞳に内心でたじろぎながら、なんとか耐える。いつのまにか袁術ちゃんの震える手をぎゅっと握っていた。その小ささにあらためて驚きを感じる。 「あなた、誰よ」  いまさらのように言う孫策に、脇に控えた冥琳が「北郷殿だ、雪蓮」と囁く。 「んー? あぁ、天の御遣いとかいう? あれ、でも消えたんじゃなかった?」 「つい最近帰って来てね」 「なんでもいいけど、うちの不始末なら、うちが最後まで背負うのが筋じゃない? 魏で迷惑かけたなら、余計にね」  ぶらぶらと剣を揺らす孫策。少しは気勢を殺げたろうか? 普段使わない頭を使ってるせいか、視界が狭まって辛く感じる。 「背負えなくて放り出したものを、俺が拾った。だから、以後、一切の手出し不要」  言いたいことを詰め込んだせいか、変な口調だ。でも、いくらなんでも、これ以上はきつい。  孫策は俺と袁術たちをねめつけていたが、不意にあきれたかのようにふんと鼻をならし、剣をおさめた。 「ふーん、そゆこと」 「雪蓮」 「わーかったわよ。孫呉は今後一切、袁術には手を出さない。これでいい? もちろん、新たに仇なすようなことをしなければ、だけど」 「ああ、ありがとう」  ふう、と溜息をついて、椅子に深くもたれかかる。あいかわらず震えてる袁術ちゃんの頭をゆっくりとなでてやる。やわらかな髪は、盗賊暮らしがあわなかったのか、ちょっと痛んでいた。 「まったく……すまんな、一刀殿。曹操殿にも謝っておいてくれ」 「なによー。わたし、悪くないもん」 「まあ、いいよ、冥琳。今後は穏便にやってくれればさ。仲よくしろ、とまでは言わないけど」  ぷんすかと甘えるように怒りだした雪蓮と冥琳の仲の良さにほっとしつつ、それでも袁術ちゃんたちはここにいるのがつらいだろうと、二人を卓の下から引きずり出す。 「さ、帰るよ」 「うー、大丈夫なのかえ?」  袁術ちゃんたちは、孫策たちと一切視線をあわせることなく立ち上がり、あっと言う間に俺の背中に隠れた。孫策や冥琳もそれは見ないふりでいてくれるようだ。 「じゃあ、華琳のほうからはあらためて挨拶にくると思うから。宴席でまた」 「はいはーい。あ、宴にはあいつらもでるの? うちの連中に言い含めておいたほうがいい?」 「あー、それは華琳次第かなあ。でも、城内で会うかもしれないし、手出しするなってのは言っておいてほしいな」 「ああ、雪蓮じゃなくて、私からしっかり言っておくから大丈夫だ、一刀殿」 「頼んだよ、冥琳」  二人を背負ったまま後ろ向きに進むのはかなり面倒だったが、そんなこんなでなんとか部屋を出ることができた。出てきた扉の向こうから 「なにー、冥琳、いつのまにあいつと仲良くなったわけー」  という孫策の声がするのを聞きながら、俺たちは半分腰が抜けた張勲さんを支えながら部屋に戻ったのだった。 「一刀〜、遊ぶのじゃ〜」  扉を開く音といっしょに元気な声が執務室に飛び込んでくる。その声の主は、そのまま転がるように俺のほうに突進してくると、当然のように俺の膝の上に飛び乗った。なんで、こう膝にのりたがるやつが多いのかね、俺の膝ってそんなに座り心地いいか? 「あー、もう、俺は仕事があるんだって」 「うー、じゃあ、蜂蜜水は?」  大好きな蜂蜜と同じ色の髪の毛が、もそもそと俺の顎の下で動く。それがかわいらしくて、つい、俺はその髪の毛をいじってしまう。それをくすぐったがって、余計もぞもぞする彼女。 「これじゃ取りにもいけないだろ、美羽」 「七乃が、取ってきてくれるのじゃ、のぉ、七乃」  あとから入ってきた七乃さん──あの孫策の一件で俺の保護下に入ってからは、美羽も七乃さんも俺に真名を許してくれていた──が、はいはい、という感じでいそいそと蜂蜜をとりにいく。美羽の部屋に置いておくといくら七乃さんが止めてもすぐに舐めてしまうので、美羽用の蜂蜜は俺の部屋に置いてあるのだ。 「いつも通りの量だけですよ、七乃さん」 「はぁーい、わかってますよう」 「うー、一刀はしぶちんなのじゃ」  そんな恨み言を言われても、七乃さんが蜂蜜水を渡したら夢中で飲んでいるのだから、かわいいものだ。 「お嬢様、一刀さんにずいぶんなついちゃって。なんだか、淋しいですぅ」 「どうせ、俺を通して華琳を操って、影の支配者になるのじゃー、とか考えてるんじゃないのかね」  軽口を叩いてみれば、不意に美羽が蜂蜜水を呷る手が止まった。 「あ……」 「おいおい」 「ち、ちがうぞ、妾はそんなことは微塵も考えてないのじゃぞ。うん、一刀のところにくると蜂蜜水がのめるから来てやってるだけじゃ、そ、それだけじゃ」  なんだかなあ。それはそれで淋しいんだけど、まあ、いまの俺じゃそんなものかもね。華琳と孫策という大物二人を説得して美羽と七乃さんの二人を得たものの、活躍の場を与えられてるとはとても言えないし。 「あらー、お嬢様、ほんとにそんなこと考えてらっしゃったんですか。よっ、傾国の美女っ」 「ち、ちがうと言っておろ。こんな一刀なんぞに名家の血脈たる妾がそのような事を思うわけがなかろ。曹操ではあるまいしの」 「でもー、お嬢様、『妾のためにあの孫策と渡り合うなど、なかなか見どころがあるの』とかおっしゃってたくせにー」 「七乃ぉ!」 「あら、お嬢様、せっかくの蜂蜜水がこぼれちゃいますよ」 「う、うるさい、うるさいのじゃ、七乃が阿呆なことを言うからいけないのじゃ、妾はぁ」  わいわいと騒ぐ二人。俺はつい美羽の頭をなでてしまい、それに対してぎゃあぎゃあと騒ぎだすのを、またなだめる。  そんなこんなの騒ぎの中で、俺は、こんな日常が得られたのなら、それはそれでよかったのかな、と思ったりするのだった。